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ネタの書きこみ135

296ひゅうが:2020/07/05(日) 05:32:39 HOST:p277027-ipngn200204kouchi.kochi.ocn.ne.jp

   艦こ〇 神崎島ネタSS――「おれらの歌」



意外に思うかもしれないが、いわゆる日本歌謡というものの歴史は2世紀に満たない
西洋の音楽が入ってきたそのはじまりを織豊政権期に見るか、奈良時代に見るかに見解の相違はあれども、いわゆる西洋の音階が定着したのは明治維新以後のことであった
幕末明初に欧州へ渡った日本人たちは歌劇を鑑賞し「何を歌っているのかまるでわからないし節も奇妙だが音曲の巧みさには聞きほれた」と記しているし、イタリアから新市場開拓を目指して来日した劇団は悲劇を上演したにも関わらず日本人たち満場の笑いを買ったのだった
こうした状況を座視している明治新政府ではない。
彼らはここでも「教育と啓蒙」という手段をとった
21世紀に入っても初等学校の音楽の授業で歌い継がれたり国営放送で流れる「ふるさと」や「蛍の光」などの文部省唱歌はこののちに作曲されたものであった

歴史の授業で滝廉太郎がクローズアップされるのが20世紀に入ってからの活躍であることをみても、この時代の日本人の精神と西洋音楽との乖離がそう簡単に埋められるものではなかったことがわかるだろう
まだまだ徳川の世に生まれた人々にとって唄とは、もっぱらオッペケペー節などの風刺歌や伝統的な日本音楽であったからだ
そしてしばしばその風刺精神は国軍の士気を高めるために作られた軍歌の中にまであらわれた
哀愁を帯びた調子で戦場の辛さを歌い上げる「ここはお国を何百里」などまるで反戦歌である
あるいは政府の弱腰を批判する「アムール川の流血や」はこともあろうにとある学生寮の寮歌になった
上古の日本人が「国家が正式に編纂したはずの歌集に貧窮問答歌やら防人歌などの政府批判を取り込んだ」という実例から二条河原落書、さらには瓦版やはやし歌のおよそデマゴーグじみた内容を見る限りこうした「歌のもとの平等」は筋金入りであったといっていい

さて、20世紀が10年を過ぎて元号が大正に変わる頃には少しずつ事情も変わってくる
子供のうちから西洋音楽を教えられてきた、あるいは軍歌などでこれに親しんだ人間が多数派になりはじめたからである
安価なレコードの日本市場への投入や、アマチュアやプロ有志による西洋音楽普及への努力が実を結び始めた結果であるともいえよう
特に、第1次世界大戦とその後のシベリア出兵は決定的な影響を大衆文化に与えた
有名な徳島県の坂東捕虜収容所におけるベートーベンの第9の日本初演に象徴されるように、戦争とは大規模な文化の衝突と受容を生むからだ
あるいは、いわゆる中産階級が幕末の混乱と明治の国難からようやく立ち上がり音楽を楽しむ余裕を持ったからであるかもしれぬ
そして、シベリア出兵の結果日本に流れ込んだロシアと呼ばれたかつての列強の上流階級に位置していた人々の影響が直接及んだのがこの時代の大衆であることは特に記憶されるべきだろう
帝政ロシアが労働者の祖国となったことや日本の資本主義社会がその上下格差をあらわにした時代であることは決してそれと無縁ではない
だからこそ剣呑な治安警察法などが設けられ国定教科書制度が確立されるなどの言論と思想取り締まりが同時並行で進んでいったのだ
この時代、西洋風の歌を歌ってレコードを出す日本人歌手がようやく増え始める
そしてその歌調は、いわゆるドレミファの中でもファとシ(第4音と第7音)を抜いた5音階であらわされたものが多かった
日本歌謡の音律を平均律に置き換えたのだ
さらに日本人は短調の物悲しいメロディーがどういうわけか大好きであった
であるから、音階が同じく5音であるスコットランド民謡(蛍の光)とならんで短調がこれまた多いロシアの歌謡が受容される下地が整ったのである




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