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日本大陸を考察・ネタスレ その152

788ホワイトベアー:2019/07/25(木) 22:01:16 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
これを知ったドイツは即座に臨時政府を承認する。一方、連合国内ではこのロシア情勢にどう対応するべきかを協議するために日米英仏の四ヵ国首脳会議がロンドンにて開催された。もっとも、この会議ではロシアの欧州方面を広く支配し、(表面上は)強大な軍事力を有しており、戦争継続を表明している臨時政府を正当政府として認めて支援するべきと言うイギリスやフランスと、ニコライ二世率いる帝政政府こそ正当政府であって、いかなる理由があっても臨時政府を承認するべきではないと言う日本との間で意見が衝突、隔たりは埋められずに、結局臨時政府の承認はせず、その他の対応も取れなかった。

日和見を決め込んでいたロシア軍部上層部は国内の混乱を解決することも、連合国からの承認を受けることもできない臨時政府を見限り帝政政府につくことを決定。臨時政府を解体するべく6月8日よりクルイモフ将軍率いる軍をペテルブルグに向かわせ進軍させる。これに慌てた臨時政府はボルシェビキに武器供与と政治運動への不介入、トロツキーの評議会議長就任を対価として協力を扇ぐ。さらに臨時政府に従順な鉄道労働者組合に鉄道を停止させる用に命令。迎撃の準備を整える時間を稼ぐ事に成功していた。

この時間を活かしてボルシェビキは実質的な赤衛隊を編成して防備を固めるのと同時に、進軍してきている部隊への内部工作を開始。この工作は兵士たちの多くが反帝政派であったことから成功し、ペテルブルグに向かっていたロシア軍は内部崩壊、軍上層部はそのほとんど臨時政府捉えられるか殺されてしまう。

こうして6月危機を乗り越える事ができた臨時政府であったが、この事件をきっかけにボルシェビキは評議会や大衆からの支持が高まっていく事になり、これを受けたレーニンらボルシェビキは武装蜂起、暴力革命による政権奪取を決定、1917年7月23日に決起を実行、後に7月革命と呼ばれる事件がおきる。

翌日の24日までには決起したペテルブルグ全市を占領、評議会議長であったトロツキーは「国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と言う宣言を発表する。

そして、全政府機能を抑えたボルシェビキは7月26日に臨時政府に変わるロシア政府としてレーニンを首班とする臨時労農政府の樹立を宣言する。その後のボリシェヴィキ主導の権力奪取は、ロシア帝国の他の部分でも進んでいき、1917年までには極東ロシア(※1)を除く地域の各都市はソビエトの支配下に置かれてしまう。

政府首班の座についたレーニンはトロツキーを他国の外務大臣にあたる外交委員長に任命、全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した《平和に関する布告》を発表するのと同時にドイツとの間での単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した(※2)。

一方、ウクライナ方面は少し事情が異なり、ウクライナ中央ラーダが1917年10月11日に独立を宣言しウクライナ人民共和国の創立を宣言し、クリミア半島はいまだにロシア帝国領と複雑な状態であった。

これに対してペトログラードのボリシェヴィキ政府はウクライナの奪還と皇帝ニコライ二世の身柄確保の為に赤軍をウクライナに派遣、ウクライナ人民共和国軍と武力衝突が発生する。




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