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提督たちの憂鬱 支援SS その04
1
:
ルルブ
:2016/03/30(水) 01:19:10
このスレッドは、「提督たちの憂鬱」の支援SS(二次創作)を投稿する場所です。
SSに対する感想、議論を書く場合は、支援SS 感想掲示板に書き込んでください。
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また、よりネタ臭が強いものは「ネタの書き込み」スレッドへ、
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223
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:08:05
部品実装技術の開発であるが、英国のコンピュータの部品実装技術は真空管時代の延長戦上であり、部品をべ一クライト・ラグ板へ取り付け、配線は空中配線で済ませていた。しかし、1947年になると日本ではトラジスタを使用した製品が出回り始めたために、入手して分解したところ、プリント基板やソケットなどが大いに参考にされてリバースエンジニアリングされた。なお、肝心のトランジスタに関しては、英国が開発していた不安定な点接触型トランジスタではなく、安定的な接合型トランジスタであることが判明して研究をやり直すことになり、トランジスタの実用化はさらに遅れることになる。
パラメトロン素子自体は大量かつ緊密に実装する必要があるため、メインフレームとは別の場所で組み立てと調整が行えるようにユニット化されており、コンピュータ本体とはソケットもしくはコネクタで繋ぐ形式が主流となっていた。そのため、プリント基板とは相性が良く、専用規格のソケットでパラメトロンユニットを抜き差しして使用していた。
プリント基板の採用によって、英国コンピュータのメンテナンス性は格段にに向上した。その理由は当時の英国のコンピュータの中身を見れば一目瞭然である。細かいパラメトロン素子がびっしりと基板に実装され、その隙間を縫うように大量のコードがのたくっていたのである。いくらパラメトロン・コンピュータが故障しにくいとはいえ、さすがに量産性やメンテナンス性を考えると問題であった。
プリント基板の実用化によって、煩雑な配線からは開放されたのであるが、部品の実装そのものは未だに手作業で行われていた。磁気コアメモリと同じく、当初は人海戦術で対処していたのであるが、より細密な回路に部品実装となると手作業では限界があったので、部品実装の自動化が模索された。
最初に自動化されたのはハンダ付けであった。ハンダ槽に溶かしておいたハンダの表層にプリント基板の下面を浸すことによって、ハンダ付けを行う方式(史実のフロー方式)が実用化された。ちなみに日本では、1945年の時点でSMT(表面実装技術)が実用化に目途が付いており、後にそれを知った英国人技術者の頭を禿げ上がらせることになる。
224
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:09:08
ハンダ付けは自動化されたが、肝心の部品の実装は未だに手作業であった。当時の英国のコンピュータの構成部品は、リード部品がメインであったため、リード線のカット、折り曲げの自動化が必須だったのであるが、その技術開発が難航したのである。
日本からの技術情報(主に特許庁参りや神保町巡り)や、旧式化したために福建共和国へ移転されたプリント基板製造設備に工作員を紛れ込ませるなどの苦心の末に、1960年代にアキシャル部品自動実装機を国産化することに成功した。その後、ラジアル部品にも対応した完全自働実装機も開発された。
この技術を流用してパラメトロンユニットの製造装置も実用化された。この時期になると、手巻きが主流だったパラメトロン素子も生産が自動化されていた。パラメトロンは磁気コアメモリとは違い、大きさが小さすぎると作動に支障が出るために10mm程度(めがね型コアの場合)までが小型化の限界であったが、それでも人の手で多数実装するとなると困難であり、部品実装の自動化が切望されていたのである。
パラメトロン素子の実装が自動化されたことにより、より緊密なパラメトロンの実装が可能となった。パラメトロンユニットには、求められる性能に応じて数十個から、場合によっては100を超えるパラメトロンが実装され、それらは専用規格のソケットでコンピュータのメインフレームに接続されたのである。
なお、パラメトロンユニットの見た目であるが、後にパラメトロン・コンピュータを見た逆行者は『FCのスペランカーがたくさん挿さっていた』との感想を残している。パラメトロン・ユニットはプラスチック製のダストカバーで覆われており、通電時に赤色の発光ダイオードが光るようになっていたのであるが、見た目も大きさもまさに史実のアレだったわけである。
225
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:11:00
パラメトロン素子を使用した製品が英国で出回るようになったのは、日本でトランジスタ製品が市場に出回り始めたころとほぼ一致している。ブレッチリー・パークでは、暗号解読機としてパラメトロンは実用化されたのであるが、民間では様々な用途で使用されたのである。
パラメトロン・コンピュータは、最も初期に実用化されたパラメトロン素子を使用した製品であるが、主な目的は学術計算や事務処理目的であり、大学の研究室や大企業向けであった。パラメトロンや磁気コアメモリの大量生産によって低価格化が進み、やがて中小企業向けにも普及が進んでいったのであるが、一般的な物とは言い難かった。
パラメトロンがより身近な存在となったのは、1950年にベル・パンチ社からパラメトロン電卓(史実アレフゼロ101相当)が発売されてからのことである。史実のノートパソコンよりも二回りは大きいサイズと20kg近い重量であったが、機械式のような騒音が出ることなく、かつ計算速度が速いので当時としては画期的な計算機であった。
このパラメトロン電卓は、パラメトロンを1700個使用しており、加減算10桁、乗算20桁、除算10桁(剰余10桁)、開平9桁の計算が可能であった。また、テンキー操作が採用されており、四則演算、一定数乗除算、累積、自乗、開平、組合演算などが簡単な操作で行えるようになっていた。従来手間のかかった開平演算は、ワンタッチで計算可能であり、浮動小数点を採用しているので、小数点の位取りは自動的で行われた。
226
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:11:51
パラメトロン電卓は、値段と用途からは考えられないほど驚異的な売れ行きをみせた。車が1台買えるほどの値段であったが、逆言えば車1台買える程度の値段でしかなかったのである。設備投資と考えればその程度の値段などさしたるものでは無かったのである。
電卓の売れ行きに気を良くしたベル・パンチ社では、輸出することも考えたのであるが、ドイツを筆頭とする枢軸側の市場は閉鎖的であり、販売は不可能であった。残ったのは日本側陣営であったが、思わぬところから待ったがかけられた。
パラメトロン電卓の日本への輸出に反対したのは、駐日英国大使館であった。彼らは日本の実情を知悉しており、この程度の製品では太刀打ち出来ないことを確信していたのである。
このころの日本では、史実の電卓戦争よろしく猛烈な勢いで電卓の小型高性能化と低価格化が進んでいた。10年足らずで卓上サイズからカードサイズにまで小型化が進むのを見た英国人技術者の何人かはSAN値を削られて発狂したという。
日本の実情を大使館側から教えられたベル・パンチ社は、輸出を取りやめて英連邦の市場での販売に専念したために、パラメトロン電卓は英国本国と英連邦諸国でしか販売されなかった。それでも、十分過ぎるほど売れたのではあるが。
日本の電卓程では無かったが、パラメトロン電卓も年々小型化と低価格化が進んでいき、最終的には史実の大型電卓並みにまで小型化された。パラメトロン素子は物理的にタフであり、故障はまず考えられなかった。表示管が寿命になっても取り換えれば問題無く使用出来るために、20世紀末になっても現役で稼働しているのである。
227
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:15:25
パラメトロンは製造業でも大いに使用された。戦後の英国では慢性的な労働力不足に喘いでおり、生産現場の自動化が至上命題だったのであるが、その過程で取り入れられたのがNC制御(Numerical Control、数値制御)である。
NC制御は工作機械の自動化であり、手動輪やレバーを手動で制御したり、カムを使って機械的に自動化するのではなく、記憶媒体上で符号化されたコマンド群で抽象的にプログラムをすることで機械の自動制御を行うものである。官民合同で研究が行われた結果、1955年にNC制御フライス盤が開発された。穿孔紙テープから読み込まれたデータは、制御装置に送られてフライス盤を自動制御した。後に同様の制御システムでNC制御ジグ中ぐり盤も実用化された。
なお、日本は1945年の段階でNC工作機械の実用化に目途をつけており、それに比べると10年近く実用化が遅れているが、これは何もない手探りで開発したことを考えれば、むしろ驚異的といってよい速さである。伊達に世界で初めて産業革命を成し遂げた国家では無いのである。英国は先端技術でこそ日本に遅れをとってはいたが、産業革命以後の技術の蓄積は馬鹿には出来ないものがあったのである。
1960年になると、光電式テープリーダー、指令装置、コンソールの3つで構成される実用的なNC装置(史実MELDAS 3213相当)が完成した。これは既存の工作機械に取り付ければNC制御ができる制御装置であり、制御にはパラメトロン・コンピュータが使用されていた。パラメトロンNC装置は、安定した性能と低価格で普及が進み、製造現場におけるオートメーション化が進められていったのである。
ただ、英国にとって救いのないことに、日本では開発の初期段階からコンピュータによるNC制御(CNC制御)を目指しており、工作機械を制御するための言語(史実APT相当)や、CNC工作機械の開発が進められていた。ただし、これらには大量の情報処理が必要なためトランジスタコンピュータが必須であった。技術的には完成していたものの、トランジスタコンピュータ自体が機密指定されていたために、製品化されて大々的に売り出されるのは1950年代初頭になってからとなる。
ちなみに、ドイツを筆頭とする枢軸側であるが、NC工作機械の実用化は日本や英国に比べると大幅に遅れていた。これは技術不足というわけではなく、安価で使い潰しの利く労働力が確保出来たためである。NC工作機械の実用化を急がれたのには、労働力不足という共通の問題が日本と英国に存在していたからである。奴隷を酷使したほうがオートメーション化するよりも安くつくために、ドイツの製造現場のオートメーション化は英国よりもさらに遅れることになるのである。
228
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:16:24
軍用目的でもパラメトロンは使用されていた。しかし、パラメトロンはあくまでも演算素子であり、真空管のように電波を発振することは不可能であった。それ故に、電波発振を真空管で行い、制御部分をパラメトロンで行うというハイブリッド回路になるわけであるが、その分設計に手間がかかった。それでも玉切れ無しで安価に作れるので、大いに使用された。
軍用におけるパラメトロンの最初の活用は、レシプロエンジンのインジェクション制御であった。従来の機械式ガバナーだと調整が面倒だったのであるが、ROM(コアロープメモリ)に書き込むだけで事足りるのでメンテナンス性が向上したのである。後にインジェクションだけでなく、点火タイミングや空燃比をも制御することも可能となり、言わばパラメトロン版コマンドゲレートとでも言うべきものに進化している。機械式電子制御とでも言うべきこの技術は、航空機や戦車、艦船のエンジンにも採用され、民間でも自動車や鉄道用に広く採用されている。
パラメトロンは信管にも使用された。日米戦争時に日本軍が使用したVT信管の存在をつかんだ英国は、パラメトロンを使用することで安価に量産化を目論んだ。しかし、オリジナルが真空管のみで構成されているのに対して、パラメトロンによる演算部分と発振用の真空管を別々に積む必要があった。問題はそれだけにとどまらず、真空管とパラメトロンでは扱える信号レベルに大きな違いがあったために、それを変換する回路も搭載する必要が出てきてしまい、大口径砲の信管に採用されるにとどまった。もっとも、大型化してしまうことを逆手に取って大出力のVT信管を作ってしまったのは英国らしいと言うべきかもしれないが。
パラメトロンを使用したVT信管は、砲撃で地上戦力を叩くのに効果的なエアバースト射撃を行うために、陸軍の重砲や重巡以上の艦船に一定の割合で搭載された。海軍では対地攻撃だけでなく、航空機の編隊のど真ん中に撃ち込んでまとめて叩き落すことも想定しており、信管調停不要な史実の三式弾とでも言うべきものであった。海軍の戦艦派はこの信管に大いに期待しており、航空主兵に傾きつつある状況を挽回するべく暗躍することになる。
229
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:17:51
慣性航法装置にもパラメトロンが使用された。加速度計と機械式ジャイロから得られるデータをパラメトロンで作った演算部で計算して移動距離を算出する仕組みであった。主に航空機や潜水艦に搭載されたが、弾道ミサイルの誘導装置としても大量に生産された。
英国では対独戦争になった際には、高性能爆撃機で敵の防空網を突破し、敵空軍基地を叩くことで彼我の戦力差を縮める戦略が検討されていた。これが後に3Vボマーに発展していくのであるが、日本から情報を得て弾道ミサイルの研究も行われていた。戦力的に劣勢な英国にとって、迎撃されるリスク無しで一方的に攻撃出来る兵器の魅力には逆らい難いものがあったのである。
弾道ミサイルの開発は、海軍と陸軍で別々に行われていたのであるが、やがて共同開発となり最終的に戦力として整備が始まったのは1960年代になってからである。同時期に陸軍で開発された地対空ミサイルの拡大発展版であり、固体燃料ロケットで扱いやすかったのであるが、性能は低かった。それでも、ドーバーを超えてドイツを叩くのには十分な性能であり、かつ比較的安価だったのでそれなりの数が整備されることになる。煽りを食って3Vボマーの調達数が激減することになるのであるが、それはまた別の話である。
230
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:18:49
戦後の英国空軍では、バトル・オブ・ブリテンで破壊されたレーダーサイト群の復旧が急がれていたのであるが、従来のシステムでは能力不足として新たな対空監視システムが模索されていた。ドイツ軍のなりふり構わない飽和攻撃によって、オペレーターの処理能力を超えてしまい、対処仕切れなくなって力負けした苦い過去があったからである。この問題を解決するには自動化しか手段はなく、そのためにパラメトロン・コンピュータが使用されたのである。
空軍が整備した新型対空監視システムは、各レーダーサイトからの情報を統合して、パラメトロン・コンピュータで処理して適切な迎撃手段を指示するものであった。コンセプト的には史実のSAGEシステムに近いが、あれほど極端な自動化は推し進めてはおらず、人手に頼る部分の残されてはいたものの、その分低予算で整備が可能であった。
ここで問題になったのは、パラメトロン・コンピュータの処理能力である。真空管に比べて演算速度に劣るパラメトロンでは、計算が間に合わずに迎撃に失敗することが危惧された。この問題に対処するために、大々的に並列計算の手法が導入され、何とか実用レベルに達することが出来たのである。
英国版SAGEシステムは1951年に稼働したが、処理能力の問題は常に付きまとった。リアルタイム処理をするには、パラメトロン・コンピュータの演算速度では厳しいものがあったのである。この問題は、レーダーシステムのみならず、高速計算が必要な現場では既に顕在化していた。この問題を解決するための並列化計算なのであるが、史実のアムダールの法則の如く高速化には限界があったのである。
231
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:19:38
パラメトロンに止めを刺したのは、1950年に日本で発売された万能電算機(海外向け名称システム360)であった。とにもかくにも、革命的なコンピュータであり、『360ショック』としてトランジスタコンピュータが発表された以上の衝撃を世界中に与えたのである。この存在を知ってしまったコンピュータ技術者の中には、ロープ無しバンジーを敢行する者が多数いたという。
しかし、ただでは転ばず、転んでもただでは起きない不屈の英国紳士は、駐日英国大使館で購入したシステム360を徹底的に解析した。最大の関心は当然ながら中身であった。当時の日本では既に集積回路の信頼性や可用性に目途が付いていたのであるが、敢えて(日本にとっては)旧式なトランジスタを使用していた。これはオリジナルを再現するべく使用したわけではなく、市場に出すことによりパクられる被害を最小限にするためであった。
当時の英国では、実験室レベルで接合型トランジスタの製作に成功していたため、技術的には理解の範疇であった。しかし、量産段階で躓いていたためコピーは不可能と判断された。それでも基本構造は大いに参考にされて、後の英国製コンピュータに絶大な影響を与えたのである。
1952年には、英国版システム360とでも言うべき汎用コンピューターが発売された。パラメトロンを使用しているため、オリジナルに比べて低性能であったが、デザインはともかく、使い勝手に関しては完全にオリジナルに準じていた。敢えて(性能以外は)日本製と同一にしたのは、将来的に日本から技術導入をする際の技術的ハードルを下げておく狙いがあったと当時の関係者は後に述懐している。
232
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:20:22
パラメトロン・コンピュータは、戦後の英国のコンピュータ技術に重要な役割を果たした。しかし、1950年代になると既に限界も見え始めていた。処理速度の向上は、並列化とプログラミングの工夫ではどうにもならないところまで来ていたのである。学術や先端分野における研究現場では、より高速なコンピュータが求められていたが、未だ本命であるはずのトランジスタの実用化は成されておらず、1960年代の英国では、新たなる論理素子が模索された。そして、それは意外なところから手に入ることになるのである。
先端分野以外では、安価で信頼性の高いパラメトロン製品は使われ続けた。最たる例はパラメトロン電卓であるが、他にも家電の制御にも用いられた。英国において、さしたる性能を要求されない電子制御関連の分野はパラメトロンの独壇場であり、エンジン制御でも大いに活用された。現在でも英国の一部の自動車はパラメトロンで燃調を電子制御して走っている。
パラメトロンは放射線障害に極めて強いという特性があり、核戦争においては有利に働くとみられていた。そのため現在でも軍用としては現役である。後世の歴史書において、英国が核戦争を強く意識していたと記述されるのはここらへんが原因なのであるが、それはあくまでも結果論であり、本来はそこまで考慮はされていなかったのである。
233
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:23:01
あとがき
というわけで、改訂版です。
本編に合わせていろいろ弄繰り回したらほとんど別物になりました。
そもそも、オリジナルから何度も改訂してるんで、もう何が何やら分かりませんけどね(オイ
というわけで、用語解説です。
>コロッサスMk.4
暗号解読は速さが求められるわけで、敢えて遅い計算機を実用化する必要性は無いのですが、玉切れのリスクと並列化計算でカバー出来ると考えられたために開発が続行されたという設定です。
>旧アメリカ人技術者を中心とするチーム
きっと、ジョン・フォン・ノイマンや、ジョン・マッカーシーがいるに違いないです。
>英国コンピュータ協会
史実だと1957年に創設されますが、拙作ではトランジスタショックの直後に創設されているという設定です。
>初の商用パラメトロン・コンピュータ
性能的には史実のPC-1くらいです。
当時なら十分過ぎるほどの性能ですが、すぐに陳腐化します(泣
>励起周波数6Mhz(動作周波数60khz)
史実では、PC-1の強化版であるPC-2で達成された数値です。
当時の接合型トランジスタ機よりも高速でしたが、これが限界でした。
>ムーアの法則
おそらく、憂鬱世界でこの法則が成り立つのは磁気コアメモリだけかも。
憂鬱日本のコンピュータ技術は、法則というよりワープ進化ですし(;^ω^)
>マンチェスター
19世紀末は世界の工場として君臨。
憂鬱世界では史実以上の没落で存亡の危機に陥りましたが、コンピュータ開発の拠点として再度発展していく…というのは、拙作オリジナル設定ですので念のため。
>プラット&ブラザーズ社
マンチェスター最大の織機繊維メーカー。
史実でも豊田自動織機の性能にほれ込んで特許を買い取っていたりします。
>0.3mmのコアに髪の毛よりも細いワイヤーを通して編み込む
史実だと磁気コアメモリの生産自動化は成されなかったので、手作業でやっていることになります。
ちなみに画像はこちら↓
h ttp://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/premicro/coremem.html
なんかもう見ただけで発狂しそうです(ヽ'ω`)
>史実の256bitスタティックメモリや1kbitダイナミックメモリよりもコストと性能、信頼性で優位
これも史実準拠です。
磁気コアメモリでこれだけの性能出せるなら、大抵の電子制御は可能じゃないですかねぇ。
234
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:24:30
>リード部品
部品の端子にリードが付いていて、プリント基板に差し込んでハンダ付けするタイプの部品です。
後述のアキシャル部品もラジアル部品もリード部品に含まれます。
>アキシャル部品
主に円筒形の抵抗やダイオードなどで、機械実装の際に部品の両端をテープで留めた形で供給されるものがアキシャル部品です。
>ラジアル部品
トランジスタなど、機械実装の際に部品の片側だけをテープで留めた形で供給されるものがラジアル部品です。
>FCのスペランカー
別にスペランカーに限ったことじゃないですけど、発光ダイオード付きのファミコンソフトって初期に結構ありましたよね。
>ベル・パンチ社
史実だと世界最初の電子式卓上計算機を作ったメーカーです。
1980年代初頭に倒産しています。
>パラメトロン電卓
見た目も中身も史実で大井電気の製造したパラメトロン電卓アレフゼロ101です。
史実だと1963年8月に試作されています。最終的に1000台の製造と販売が行われていますが、大井電気本社に展示されている1台を除いて現存しているものはありません。
>史実の電卓戦争よろしく猛烈な勢いで電卓の小型高性能化と低価格化が進んでいた。
憂鬱日本だと電卓とその周辺技術が全て自前で賄えるので、史実以上の勢いでカード電卓化待ったなしでしょう。
そんなん見せつけられたら、発狂してもしょうがないですよね…。
>NC制御フライス盤
史実日本では、1950年代半ばに実用化されています。
>CNC制御
コンピュータで情報処理を行うNC制御のことです。
現在では、CNC制御はNC制御と同一扱いされているので紛らわしいのですが、憂鬱本編における日本のNC工作機械はCNC制御です。拙作のNC工作機械は単なるNC制御です。CNC制御では大量の情報処理が必要となるので、トランジスタコンピュータ(史実第2世代コンピュータ)が必須です。なので、仮に技術的に完成していたとしても、機密指定が解除される1945年7月までは公開は不可能です。
>MELDAS 3213
史実で三菱が製作したパラメロトンを使用したNC装置です。
既存の機械をNC制御するための装置であり、データの読み取りにはテープを使用しています。
>インジェクション制御
燃料制御のことです。
ガソリンをポンプで加圧してノズルから噴射します。
235
:
フォレストン
:2017/12/20(水) 21:26:23
>パラメトロン版コマンドゲレート
実質的に電子制御です。
これを用いれば、頭が痛くなるデルティックの点火タイミングの調整も簡単になるし、気性の荒い航空用ディーゼルのノーマッドも扱い易くなるはず。
>ハイブリッド回路
ここ悩んだのですけど、仮にパラメトロンが真空管の駆動電圧を流しても稼働するならば、普通に回路が組めるわけでVT信管も発振用の真空管のみで済みます。確実に小型化と低価格に加えて量産性も向上します。でも、あの小さいコアに200Vなんか流したら普通に焼き切れてしまいそうなので諦めました。効率低下を承知で高電圧に耐えれるフェライトコアを実用化出来ればあるいは…。
>信管調停不要な史実の三式弾
VT信管と三式弾は、一時期の火葬戦記の鉄板だったような気がしますw
>地対空ミサイルの拡大発展版
史実英国が1960年に配備したサンダーバード地対空ミサイルをスケールアップして、下段にブースターを付けたものです。
性能的には中距離弾道ミサイルの劣化版がせいぜいでしょうが、射程は短めでも十分に届くので実用的には問題ないはず。
>3Vボマー
憂鬱世界でも一応は生産されるはず。
でも対空ミサイルと弾道ミサイルが既に実用化されている憂鬱世界だと空中給油機とか、警戒管制機くらいしか使い道は無さそうなんですが…(白目
>史実のアムダールの法則
過去にも感想掲示板で話題になっていましたが、並列化による効率化には限界があります。分割出来る作業は並列化によって効率化出来ますが、分割できない作業はそれ以上効率化出来ません。結果、分割化した作業が終わっても分割できない作業が終わらない限りタスクは終了出来ないわけです。これを解決するには演算を高速化するしか無いのですが、そもそもパラメトロンはけた外れに速度が遅いわけで…_| ̄|○
>万能電算機(海外向け名称システム360)
国内向けは万能電算機で発売して、海外ではシステム360の名で売るということで。
>英国版システム360
システム360は接合型トランジスタをパッケージ化したハイブリット回路で構成されているので、憂鬱英国でも技術的には辛うじて理解の範疇に収まると思います。本文で描写しましたけど、トランジスタ量産で手こずっている英国では理解は出来ても同一のものを作るのは不可能です。ドイツはさらに論外です。
システム360をパラメトロンで置き換えたのが英国のシステム360もどきです。デザインを似せるようなことはしていませんが、オリジナルを弄繰り回した結果、使い勝手はオリジナルに迫っています。計算速度が爆遅ですけど(涙
236
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:53:04
憂鬱版T〇ky〇waker
提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱日本食糧事情-帝都編-
「このままじゃ経営が立ち行かん。こうなったら首を吊るしかない!」
「旦那ぁ。今日はもうこのへんで…」
「うるさいっ!おまえに俺の気持ちが分かるかっ!」
帝都のとある焼き鳥屋台で酒を飲む男が一人。既に相当な深酒をしており、いわゆる大トラ状態であったが、とりあえず店主は男を放っておくことにした。新たな客がやってきたからである。
「へい、らっしゃい!」
「やぁ。また食べに来たよ。ここのチキンは美味いからね」
「おや、フレミングの旦那じゃないですか。今日は何にしやす?」
新たな客は黒髪碧眼な外国人であった。
美形で女性にもてそうな顔立ちをしており、いわゆる愛嬌のあるハンサム顔というやつである。
男の名はイアン・フレミング(Ian Lancaster Fleming)といい、英国大使館で勤務する海軍軍人である。駐在海軍武官として日本に派遣されたフレミングは、超美食家を自称する非常にグルメな人間であり、暇を見つけては帝都内の美味しい店を食べ歩いていた。ここの焼き鳥屋台もフレミングのお気に入りの場所であり、度々来店していたのである。
「ツクネとネギマ、ナンコツをもらおうか。あとは…東京盛はあるかな?」
「あいよっ」
フレミングはコップで出された日本酒を一気にあおる。
特に高級とはいえない二級酒であったが、その分お値ごろで気軽に飲めるのが売りである。もっとも、日頃愛飲しているスコッチと違ってアルコールが抜けにくいので深酒は避けていたが。
ちなみに、この世界の日本では小規模な酒蔵が潰れずに現存しており、物流の発展に伴い帝都でも多種多様な地酒を楽しむことが出来た。これは当時の夢幻会の指導によって、史実の改正酒税法に準じた税法が明治時代に適用されており、史実のような苛烈な酒税取り立てが回避されたためであった。
娯楽の少ない当時の逆行者達にとって、酒は貴重なものであった。いくら富国強兵のためとはいえ史実のような酒税を適用して酒蔵を潰すなど論外だったのである。そのため、他の分野での歳入を強化して酒税の不足分をカバーするのと同時に、酒造業の近代化を推し進めた。これに加えて、戦前から進められた新潟の干拓と農業の機械化による効率化の推進により、日本酒の原料である米の大幅な増収を達成しており、史実のような闇酒や薄め酒が横行することは防がれたのである。
零細な酒蔵に対しては、史実の地ビールブームを参考にしてブランド志向を推し進めた。材料の吟味や長期間熟成など製法に工夫を凝らし、さらには容器や化粧箱も高級路線で大衆酒との差別化を図ったのである。当然ながら、お値段も相応のものとなったのであるが、顧客は上流階級や富裕層がほとんどなので、飛ぶように売れていったのである。
237
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:54:00
「ところで、そこで寝ているミスターはどうしたんだい?」
「あぁ、そこの旦那もうちの常連なんですがねぇ。念願の出版社を起ち上げたって大喜びしてたのに、今度は本が売れないって泣いてんでさぁ」
「ふーん、日本人も苦労しているんだなぁ…」
とか言いつつ、出されたつくね串にかぶりつくフレミング。その味に思わずDelicious!と呟いてしまうくらいの美味さである。ここの屋台だけが出している、猪肉のミンチをベースにした特性のつくねである。一般に猪肉は臭くて硬いイメージがあるのであるが、十分に下処理された猪肉は豚肉よりも濃厚である。これに生姜を加えることで完全に臭みを取り去っており、さらに細かく刻まれた軟骨の食感で楽しませてくれるのである。
「あぁ、美味い。これを食べるために生きてるようなものだなぁ…」
どっからどうみても、仕事に疲れた日本のサラリーマン染みた姿に、『あんた本当に英国人なのか?』と心の中で思わずにはいられない店主であった。
列強の中で一番マシな日本の食糧事情であるが、決して余裕があるわけでは無かった。
政府の適切な異常気象対策と支那大陸、豪州からの食糧輸入で飢えに苦しむことは無かったものの、巨大津波後の相次ぐ異常気象で戦前よりも食糧事情は悪化していた。
日本国内では、戦前から戦後に至るまで、食糧の配給制が実施されることこそ無かったものの、食糧は品薄気味で値上がり傾向が続いていた。そのようなわけで、客に美味しいものを少しでも安く食べてもらいたいと考えた店主は、猪をはじめとした畜肉を自ら狩猟で手に入れていた。帝都近郊には未だ自然も多く、腕さえ良ければ畜肉の確保は比較的容易だったのである。さすがに猟銃の所持には狩猟免許が必要であったが、史実ほど煩雑ではなく簡単に取得することが可能であった。
猟銃には軍から払い下げられた三十八式歩兵銃が主に用いられていた。使用する三八年式実包は尖頭銃弾であり貫通力が高い反面、ストッピングパワーに劣るために、猟銃として使用する場合は円頭銃弾である三十年式実包が好まれていた。
三十八式は小動物向け猟銃としては理想的な性能だったために、戦後になって北欧にも在庫が輸出されており、現在でもフィンランドのノルマ社で6.5mm×50弾が製造されている。
238
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:55:10
夢幻会は、戦前から養豚産業や養鶏産業へ梃入れして強力に近代化を推し進めていたのであるが、飼料の近代化も並行して行っていた。大量に飼育するには大量の飼料が必要となるためである。
飼料はトウモロコシ、麦類、ミレットなど穀物や、イネ科牧草、マメ科牧草などが原料である。史実同様に、穀物を栄養成分の中心とし、対象の動物によって適正な割合に配合した配合飼料を戦前に実用化していたのであるが、問題は原料の大半を輸入に頼っていたことである。
国内の養豚、養鶏施設がフル稼働出来れば、国内需要は満たせるだけの生産力は既に確保されていた。
しかし、巨大津波による被害と、その後の異常気象によって食糧生産が優先されたため、肝心の飼料の生産が滞ってしまったのである。そのため、畜産業者は施設の稼働率が低迷して赤字を出してしまい、損失を補填するために政府が補助金を出して対応していた。
なお、この事態を知ってか知らずか、ソ連より肉骨粉の輸出の打診があったために、一時期は真剣に輸入が検討されていた。しかし、英国からの情報提供を受けて最終的に白紙にされた。肉骨粉の原料に問題があったためである。
肉骨粉は、食肉を除いたあとの屑肉、脳、脊髄、骨、内臓、血液等を加熱処理の上、油脂を除いて乾燥、細かく砕いて粉末としたものである。安価で、蛋白質、カルシウム、リン酸質が豊富で高い栄養価を誇るため、史実では狂牛病問題が起きるまではよく使用されていた。
狂牛病の原因に関係すると考えられている異常プリオンは、肉骨粉の材料となる部位に多く含まれており、通常の加熱処理では不活化できない。そのため、肉骨粉を採取した動物が異常プリオンを保有している牛であった場合、その牛を加工して作られた肉骨粉にも異常プリオンが含まれている可能性があるのである。その場合、この肉骨粉を牛の飼料として与えると狂牛病の感染源となりえるのである。
夢幻会では、史実知識を知っていたからこそ肉骨粉の輸入を差し止めたわけであるが、問題の本質はそこではなかった。
英国からの情報では、ソ連が輸出する肉骨粉には、牛ではない別の何かが使用されていたのである。結局のところ、行き場を失った肉骨粉は、ソ連国内で飼育される食肉用トナカイに用いられているのであるが、その原料が何であるかは想像しないほうが幸せであろう。
239
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:56:23
「いや〜、食べた食べた。お勘定を」
「旦那ぁ。この人も連れ帰ってもらえませんか?」
「え?いや、しかしだな…」
「お願いしますよ旦那!今度サービスしますから」
「…しょうがないな。近くのポリスオフィスにでも放り込んでくるとしよう」
フレミングは男に肩を貸すと、そのまま最寄りの警察署まで歩き出す。
これが、フレミングと男のファーストコンタクトであった。
英国大使館のすぐ近くに所在している麹町警察署は、日本で最初に開設された警察署である。300名を超える署員を抱える大規模警察署であるが、さすがに深夜ともなると当直の署員だけで静かなものである。
治安が維持されている日本では、はっきり言って当直は暇であり、何もしなくても小腹がすくものである。時間的に頃合いと判断した署員は、いそいそと給湯室で薬缶に火をかけ、棚に手を伸ばす。
「…すまないが、この酔っ払いをあずかってもらえないかね?」
狙ったようなタイミングで現れたフレミングと酔っ払いのコンビに、思わずバツの悪そうな顔をする署員であった。
結局、酔っ払いの身元は確認出来ず、本人も泥酔していたために留置場に放り込まれた。フレミングは、書類に必要な事項を記入して署員に手渡す。そのまま大使館へ戻ろうとしたのだが、署員が呼び止めた。
「せっかくなので、食べていきませんか?」
「ふむ。酔い覚ましにラーメンは最適だな。せっかくなのでご相伴にあずかろうか」
英国大使館と麹町警察署は距離にして100メートル足らずな立地であり、震災などの非常時の対応についてしばしば交流がもたれていた。そのため、フレミングと署員は顔見知りだったのである。
「熱い!でも美味い!」
「夜に食べるカップラーメンは最高ですよね!」
なお、カップラーメンであるが、この世界では1927年に開発されていた。当時のカップラーメンは、コスト度外視な代物であり、軍向けに細々と作られていたのであるが、その後20年近く経ち、生産コストが下がったことから民間でも販売が始まっていた。チ〇ンラーメンを代表とする、いわゆる袋ラーメンはカップラーメンよりも早く販売が行われており、日米戦争時には非常食として各家庭に備蓄が奨励されていたのである。
240
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:57:41
「フレミング大佐。お会いしたいという日本人が来ています」
「今日は予定は特に無いはずだが、飛び入りかね?」
「先日の件でお礼を言いたいとのことでしたが…」
数日後、大使館で執務中のフレミングに面会者が訪れていた。
無下に断るわけにもいかず、応接室に通して面談することにしたのであるが…。
「このあいだは、誠に申し訳ありませんでした!」
応接室に入ったフレミングに対する第一声が謝罪であった。
土下座しかねない勢いに思わず引いてしまうフレミング。この時点でようやく、先日の酔っ払いであることを思い出していた。
「いや、礼なら屋台の店主に言ってくれ。彼の頼みだったことだし」
「そうなのですか…」
フレミングは日本人をそれとなく観察してみるが、どことなく悩みを抱えているように見えた。ロンドンでは屈指のプレイボーイだった彼は、女を落とすために日々観察力は鍛えているのである。もっとも、悩んでいるからといって、相談に乗る理由は存在しなかったのであるが。
「ふむ、何やら悩み事があるみたいだが、外で話さないか?ランチの時間でもあるし」
「え?いや、しかし…」
しかし、フレミングという男は好奇心が服を着て歩いているような男である。面白そうという理由だけで、日本人を外に連れ出して話を聞くことにしたのである。
フレミングが移動のために用意した車は、英国大使館が研究用に購入したトヨタAA型であった。通常、公用車としてはロールスロイスのファントム3を用いるのであるが、良くも悪くも目立ちすぎるために私的な目的では日本車を使用することも多かった。
ちなみに、憂鬱日本の自動車メーカーは、戦前は倉崎、三菱、豊田、日産の4社(BIG4)のみであったが、戦後に獲得した領土開発のために供給が追い着かなくなったため、需要に応えるために新興の自動車メーカーが誕生していた。夢幻会側としても、この傾向は歓迎するべき事態であり、独占禁止と競争原理の維持の名目で新興自動車メーカーへの技術的・財政的な支援を行っていた。
スバルやホンダといった新興自動車メーカーは、BIG4が鎬を削る国内市場ではなく、海外に活路を求めた。結果、50年代半ばからスバル360やN360といった小型車が東南アジアの自動車市場で猛威を振るうことになるのであるが、それはまた別の話である。
241
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:58:48
英国大使館から2km足らずの距離にある日比谷公園。
車だと10分足らずで到着出来る場所であるが、この公園の中で洋食レストランである日比谷松本楼が営業中であった。
「まずはランチを食べよう。話はそれからだ」
「はい…」
1階のガーデンテラスの席を取った二人にウェイトレスが水とメニュー表を持ってきた。
ちなみに、当時の日比谷松本楼のメニューは以下の通りである。
本日のランチ(11:00-15:00の平日限定)
ハイカラハヤシライス
豚のカツカレー
野菜カレー
オムレツライスハヤシソース
オムレツライス海老と帆立のトマトソース
松本楼の選べるビッグプレート
オムレツライス(ソース3種)と洋食3種(ハンバーグ・クリーミィカニコロッケ・海老フライ)から選択
ハンバーグステーキ 森のレストラン風
ビーフシチュー ブルゴーニュ風
ウィークエンドスペシャルメニュー(土日祝のみ)
おこさまプレート(オレンジジュース付,土日祝のみ)
他にもサイドメニューとしてデザートやソフトドリンクも用意されていた。
ほぼ、史実現在のメニューを再現しているのは、世界的に名高い料理人である北一輝が関わったからである。
初代社長である小坂梅吉は史実と同じく1936年に貴族院議員に当選しているが、与党の政策に理解を示しており、非政友会の長老でありながら近衛とも親交があった。彼自身は夢幻会に所属してはいなかったが、夢幻会関係者が時折会合を開くことがあったため、北一輝が厨房を借りて料理を振る舞うことがあった。その都度、行き掛けの駄賃とばかりに松本楼のコックに史実レシピを叩きこんでいったのである。
242
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 06:59:43
「では、私はカツカレーを」
「私はハイカラハヤシライスをお願いします」
フレミングは豚のカツカレーを、日本人はハイカラハヤシライスを注文する。
程なく料理がテーブルに運ばれてきた。
「うむ、デリシャス!」
芳醇なスパイスで構成されるカレールーと熱々ジューシーなトンカツ、これにライスが加わって食が進みまくりである。
カレーの発祥はインドであるが、英国を経由して日本で魔改造された料理である。英国人は、『これはカレーじゃない』と口をそろえるが、超美食家を自称するフレミングにはどうでも良いことであった。彼にしてみれば、美味いものが正義なのである。
「肉の旨味とたまねぎの甘さが身に沁みますねぇ」
ハヤシライスはカレーライスとは異なり刺激の強いスパイスは使用されず、牛肉の旨味とたまねぎの甘さが前面に出るため子供でも食べやすい料理であるが、胃に優しく滋養の強い入院食としての側面もあった。
ちなみに、この時期の日比谷松本楼では国産牛を材料にしており、店の宣伝材料にしていた。
国産牛は、史実よりも早い段階で高級ブランドを志向していたために、高品質化が進むと同時に価格が高騰していたのであるが、初代社長が夢幻会とコネを持っていたために、安価に国産牛を仕入れることが出来たのである。とはいえ、これは極まれなケースであり、庶民にとって牛肉は高嶺の花であった。そのため、日本人の食卓は鶏肉と豚肉がメインにならざるを得なかったのである。
史実の牛肉が恋しい逆行者達は歯噛みしたのであるが、米国が崩壊したためにアメリカンビーフの輸入は出来ず、この世界では吉〇家の味は再現不可能であった。吉〇家がダメなら、せめてす〇屋と〇屋を再現したいということで、オージービーフの輸入を目論んだのであるが、豪州も異常気象の影響で牛肉の生産は安定しておらず、緊急的な食料輸入は別としても、恒常的な輸入が実現する時期は未だ不透明であった。そのため、当時の日本人の丼ものといえば、親子丼かカツ丼が定番であった。牛丼好きな逆行者にとっては残酷な現実であった。
243
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:00:40
「あ、ウェイトレスさん、コーヒー二つね」
「コーヒー二つですね。かしこまりました」
食後にすかさずコーヒーを注文するフレミング。
英国人のくせに紅茶を頼まないあたりが、フレミングのフレミングたる所以である。単に日本の紅茶が舌に合わないのか、はたまた単に紅茶嫌いかは不明であるが。
史実の日本人はコーヒー大好き民族であり、この世界でもそれは変わりなかった。しかし、コーヒーのほぼ全てを輸入に頼らざる得ないために、戦時中の庶民のコーヒーは代用コーヒーであった。
代用コーヒーが登場したのは、日中戦争勃発とほぼ同時期であり、輸入量が減ったコーヒーを増量するために広まった。厳密には、コーヒーに増量するためにコーヒー以外の原料を追加したものが代用コーヒーであり、コーヒー以外の原料を主材料としてコーヒーに似せて作られたものはイミテーションコーヒーとして区別される。
代用コーヒーの原料としてはタンポポの根、ゴボウ、ジャガイモ、サツマイモ、百合根、サクラの根、カボチャの種、ブドウの種、ピーナッツ、大豆、ドングリ、アーモンド、オオムギ、トウモロコシ、チコリ、玄米、根セロリ、パンの耳、綿の種子、オクラの種子などがある。これらを煎ったものを粉末にし、お湯を注いで飲むのである。
代用コーヒーのほとんどはカフェインを含んでいないため、カフェインの摂取を避けている人向けの需要が存在していた。特に大豆コーヒーなどは、その栄養価の高さから健康食品として評価されていたのであるが、本物のコーヒーよりもかなり高額なために、市場ではイミテーションコーヒーよりも代用コーヒーが多く流通していたのである。
代用コーヒーが不味いわけではないのであるが、やはり本物のコーヒーが恋しくなるものである。当然ながら、戦後になると輸入の機運が高まった。しかし、現実は非情であった。戦後の憂鬱世界ではコーヒー栽培どころではなかったのである。
244
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:02:52
1942年に発生した巨大津波の被害は甚大なものであった。
巨大津波によって大西洋沿岸諸国は壊滅的な打撃を被り、巨大津波の直撃を受けた米国の被害は言うまでもなく、余波の津波が押し寄せた欧州諸国も多大な被害を受けていた。ポルトガルに至っては国家そのものが崩壊し、英国、旧フランス北部、スペインは沿岸部に小さくない被害を受けていたのである。
津波によってコーヒー栽培地の大半が海水に浸かってしまったために、当面のコーヒー栽培は不可能であった。そもそも、異常気象によってコーヒー栽培そのものが不可能に近く、さらには食糧増産が至上命題だったために、コーヒーを栽培可能な数少ない畑も他の作物を栽培するのに転用されたのである。
戦前からの有力なコーヒー輸出国だった国(ブラジルやベネズエラ、エチオピアなど)のほとんどは枢軸側陣営であり、コーヒー栽培は自国や宗主国の富裕層や上流階級向けに少量確保された以外は、軒並み小麦と牧畜に転換されてしまった。当然ながら日本へのコーヒー輸出は不可能であった。
コーヒー党にとってせめてもの救いは、ハワイでのコーヒー生産が復活したことであろう。
戦後の混乱が収束したハワイでは、コナコーヒーの輸出が再開されていたのである。とはいえ、未だ量は少なく値段も高嶺の花であった。史実同様に人件費の問題で、高価格なコナコーヒーであったが、逆にブランド志向を目指した結果、日本の勢力下で取れるほぼ唯一の高級コーヒーとして珍重されることになる。
英国では、駐日大使館を通じてコーヒーが日本に対して有力な輸出商品になることを掴んでおり、勢力下のイエメンやジャマイカでコーヒーの栽培を進めさせていた。華南連邦でもコーヒーの栽培が検討されたのであるが、食糧増産が優先されたために最終的に却下されている。実際、イエメンのモカコーヒーや、ジャマイカのブルーマウンテンは非常に高価で取引されたために、換金作物として奨励金を出してまで栽培された。食糧庫としての役割を期待されていた華南連邦とは違い、それ以外に外貨獲得手段が無かったというのが最大の理由である。
日本の勢力圏下でもコーヒー栽培が試みられていた。特にベトナムとインドネシアが有望視されており、戦後になってから爆発的な勢いで生産量が増加していくことになる。ただし、日本の勢力圏下で栽培されているコーヒーは主にロブスタ種であった。
ロブスタ種は、病虫害に強く、高温多湿の気候にも適応するうえ成長が速く高収量といったメリットが存在するのであるが、カフェインやクロロゲン酸類の含量が高く、焦げた麦のような香味で苦みと渋みが強く、酸味がないコーヒー豆である。主にフレンチロースト、イタリアンローストなど深煎りしてミルクと合わせて飲むのが一般的である。また、価格が安いためにインスタントコーヒー向けの豆でもある。
これに対して、英国の勢力圏下で栽培されているのは、アラビカ種とその派生品種であり、高品質で収量も比較的高いのであるが、高温多湿の環境には適応せず、霜害と乾燥に弱いという欠点があった。しかし、史実では繊細な味故に世界のコーヒー生産の主流となった豆である。
日本のロブスタ種と英国のアラビカ種は価格面でうまく棲み分けることが可能であった。前者はインスタントコーヒーやコーヒー飲料の原料として、後者は喫茶店向けやギフト商品としての人気が高かった。特にブルーマウンテンは、英国王室御用達のキャッチコピーで売り出したところ異常な高値で取引された。そのため偽商品も多数出回り、当局が取り締まりに乗り出す事態となるのである。
245
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:03:54
食後のコーヒーを存分に楽しんでから、ようやく二人は本題に入っていた。
「そういえば、ミスターの名を聞いてなかったな。名前は?」
「私の名は角川と申します」
男の名は角川源義。
国文学者であり、史実では角川書店の創設者として出版界に偉大な名を刻んだ男である。
「ほぅ、出版社の社長さんなのか」
「はい、実は…」
「実は?」
「実は本が売れなくて困っているのですっ!」
溜まったものを一気に吐き出す勢いでテーブル越しにフレミングに詰め寄る角川。
戦後に角川源義により設立された角川書店は、史実では文芸出版社の雄として飛躍するはずだったのであるが、この世界では違っていた。ことごとくヒットに恵まれずに赤字経営が続き、経営が危うくなっていたのである。
「ステイステイ。落ち着け」
「はぁはぁ…。す、すみません」
「ところで本が売れないということだが、どんな本を出版しているんだ?」
フレミングの質問に、よくぞ聞いてくれましたとばかりに胸を張る角川。
「うちで扱っているのは純文学ですね」
「…純文学かぁ。そりゃ時期が悪いな」
「…え?」
「時期が悪い。今のご時世じゃ純文学は厳しいって言ったんだよ」
「何故だぁぁぁぁぁ!?何故売れんと断言する!?さては貴様アカの回しモノかぁぁぁぁぁ!?」
「落ち着けって言ってんだろうが!?」
激昂して絞め殺さんばかりに掴みかかってくる角川をうっちゃるフレミング。
そろそろ周囲の目線が痛くなってきたところである。通報されないだけマシではあるが。
246
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:04:44
「はぁはぁ…。し、失礼しました」
「あんた、そのキレやすい性格直したほうがいいぞ…」
「でも、どうして純文学が売れないのですか?品質には自信を持っているのですが…」
「戦争が終わった。しかも未曽有の大勝利。大衆の目が純文学よりも軍人や兵器に向くからに決まっているだろう」
「そ、そんな…」
「書店を見てみろ。軍人の写真集やらインタビュー、精強無比な皇軍を紹介したミリタリー雑誌ばかりじゃないか」
この世界の角川書店が出だしから躓いた理由は、当時の社会が純文学を受け入れがたい状況であったことに尽きた。日米戦争で多大なストレスを受けていた国民が、戦勝を大いに喜んだことは言うまでもない。そして、勝利をもたらした皇軍に興味を持つのは当然のことであり、書籍の売れ筋は兵器解説や軍人へのインタビュー記事などに偏っていた。そんなところに純文学を持ち込んでも見向きもされるはずがなかったのである。
「そ、そんな…私はどうすれば…」
「いや、売れる本を出せばよいだろう。兵器図解とか軍人へのインタビューとか」
「私、そっち方面にはコネが無いんです。それにあまり興味も無いですし」
「…」
『じゃあ、この話は無かったことで』と口にしかけてフレミングは動きを止めた。
角川の目つきがヤバい。米神もひくひくしている。キレる前兆である。さすがに短時間に3度もキレられたら、今度こそ通報されかれない。
「分かった。分かったからとりあえず落ち着け」
フレミングには角川に協力するしか手段は残されていなかった。
(好奇心は猫を殺す(Curiosity killed the cat)、か…)
内心、関わってしまったことを大いに後悔しているフレミングであった。
247
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:05:47
後日、改めて打ち合わせることを約束して別れたフレミングの足取りは重かった。
どうしたものかと、上司であるサンソム卿とクレイギー卿に相談したところ、意外な答えがかえってきた。
「ははは、それは災難だったなフレミング君」
「笑いごとじゃありませんよ。サンソム卿…」
「すまんすまん。だが、そこまで重く考える必要な無いと思う。そうだろう、クレイギー卿?」
「出版社とコネを持てるのは悪くない。我らの活動も捗るだろう」
英国人ではなく駐日英国大使館だけが、日本人からの信頼を勝ち得たのは、地道かつ膨大な刊行物の発行で日本人の心をつかんだからである。当然のことであるが、その刊行物の中には同人誌も含まれる…というか、同人誌が大半なのであるが。
他の同人作家とは違い、年中何らかの書籍を発行しているので、イベント毎に違う出版社に依頼するのは手間であった。専属の出版社と長期契約を結ぶことが出来れば最終的なコストを圧縮することが可能になるわけで、これは英国大使館側からすれば悪い話では無かったのである。
「まぁ、事が失敗しても、うちが金を出して乗っ取るから気にする必要は無い」
さらっと黒いことを言う全権大使のクレイギー卿。さすが生粋の英国紳士である。
かくして、英国大使館の後押しを受けた角川書店再生計画がスタートしたのである。
248
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:07:06
「フレミングさん、こっちです!…って、何ですかその車は?」
「しょうがないだろう。この車しか残って無かったんだ」
数日後、フレミングと角川は東京駅で落ち合っていた。
迎えのために東京駅のロータリーに車で乗り付けたフレミングであるが、その車は少々場違いな車であった。
三菱・バンタム ジープ。
史実ではおそらく世界一の知名度を誇る四輪駆動車であるが、この世界では三菱グループの子会社である三菱・バンタム社が軍用と民間モデルを生産していた。トヨタAA型と同じく研究用として英国大使館が購入しており、今回はそれを使用していたのである。
1930年代の日本は、技術や生産施設を手に入れるべく欧米に積極的に進出し倒産寸前の会社を次々に買収していた。
特に米国とドイツ企業を狙って買収を実施したのであるが、ダミー企業や協力してくれる現地の企業などを通じて買収を仕掛けていた。人種差別上等なこの時代、露骨に日本企業が外国企業を買収すると色々と恨みを買いかねなかったのである。
アメリカン・バンタム社は、史実ではジープの開発元であり、その技術力は夢幻会関係者に高く評価されていた。
日本が買収話を持ち掛けたころは倒産寸前であり、アメリカン・バンタム社は日本からの買収話を快諾したのである。米国のビジネスの世界の冷酷さに嫌気がさしていた社員は、家族共々日本への移住を決意。日本で三菱との合弁企業である三菱/アメリカン・バンタム社を起ち上げた。
三菱/アメリカン・バンタム社に、陸軍は九五式小型乗用車(くろがね四起)の後継車両の開発を依頼した。期待に応えるべく文字通り不眠不休の突貫作業で、わずか49日間で完成した試作車は、史実同様どころかそれ以上に過酷なテストに耐え切った。その後、いくつかの小改良を加えられたうえで、1938年に九八式小型トラックとして制式採用されたのである。なお、この時点でジープの愛称が付けられたのであるが、もちろん逆行者達の仕業であった。
ちなみに、戦後の三菱/アメリカン・バンタム社であるが、戦前のアメリカの所業が明らかになった時点で社名からアメリカの名を捨てて三菱・バンタム社として完全子会社化されている。これは、旧アメリカン・バンタム関係者の強い意向であり、当時どれだけアメリカの名が忌み嫌われていたかよくわかる逸話である。
249
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:08:07
二人を乗せたジープは東京駅から、中央区を目指して疾走していた。
関東大震災後に大規模な再開発が行われた帝都は、広大な幹線道路が整備されており、目的地に到着するまでさしたる時間はかからなかった。
「さぁ、着いたぞ」
「あの、ここはいったい…?」
二人がやってきたのは、日本橋小舟町の清寿軒である。
1861年(文久元年)創業の老舗であり、史実では栗饅頭と大判どら焼きで有名な和菓子店である。
「大判どら焼き5個とお茶缶2つもらえるかな?」
「ありがとうございます」
「あぁ、それと取材も良いかな?うちは出版社なのだけど、今度本を出すつもりなんだ」
「うちを宣伝してくれるのですか!?そういうことなら喜んで!」
「え!?ちょっと何を勝手に…?!」
角川を無視して取材を敢行するフレミング。
ハンサムで愛嬌があり、しかも日本語も話せるフレミングは、外人でありながらも日本人とスムーズな意思疎通が可能な希少な人材であった。トントンに取材は進み、愛用のライカで商品と売り子さんのツーショットを撮ったり、職人のコメントなどを事細かに拾っていったのである。
250
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:09:24
「どういうことですか、聞いてませんよ?!」
「言ってなかったからな。今から話すから、これを食べて落ち着け」
「もがっ?!」
取材を終わらせた二人は、すぐ近くの公園のベンチに腰を下ろしていた。
事前に知らさされていない取材に、思わずフレミングに喰ってかかった角川であったが、大判どら焼きを口に突っ込まれて黙らされた。
「うぅっ、酷い…」
「ほら、お茶も飲め」
角川にお茶を渡しつつ、自らも大判どら焼きを頬張る。
生地の香ばしさとしっとり感、それに小豆の粒の存在感が光る餡が織り成す絶妙なハーモニー。そして、口の中に広がる甘さをすっきり流してくれるお茶。改めて和菓子の素晴らしさを実感させられたフレミングであった。
ちなみに、二人が飲んでいるお茶は缶飲料であった。
史実では、60年代半ばごろから普及していったプルタブ式の缶がこの世界の日本では既に普及していたのである。
プルタブ式の缶は技術的難易度は高くなく、どちらかというとアイデアの勝利的な産物である。
早期に実用化出来たら便利だということで、史実よりも早く逆行者達によって戦前に実用化されたのであるが、コスト的な問題で当初は軍用目的で製造されていた。
缶飲料は海軍に大歓迎され、陸軍よりも早く海軍内に缶飲料は普及していった。
海軍からすれば、高温多湿な海上でも安定的に保存することの出来る缶飲料は魅力的であった。衝撃に強く、温めたい場合はまとめて風呂に放り込めば済むので便利であるし、艦内であればリサイクルの分別も苦にならなかったのである。
その後、大量生産でコストが下がったために、民間でも缶飲料が普及していったのであるが、史実よりも早く缶飲料が実用化されものの、自動販売機の普及は遅れていた。これは技術的な問題云々ではなく、つり銭の問題であった。史実では100円硬貨の登場で自販機の普及が進んだと言われているが、この世界だとワンコインでジュース1本というわけにはいかなかったのである。
当然であるが、つり銭が多くなると小まめに管理する必要があった。当時の自販機は商品の補充よりも小銭の補充が多いと皮肉られたくらいである。結局、人が多いところに置くことが難しいという本末転倒な事態になったために、未だ缶飲料は店での小売りが主流なのであった。
251
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:10:44
「以前話したが、今は純文学は売れない。ならば、別のテーマを考える必要がある」
「はい…」
「今のトレンドはミリタリー、いわゆる軍事物だが…」
「そういったのは、大手出版社のコネと取材力に勝てません」
「だな。そこで全く異なったアプローチが必要になるわけだ」
公園のベンチに座ってどら焼きを食べ終えた二人は、ようやく本題に入っていた。
純文学が売れる見込みは無く、売れ筋のミリタリー系の題材は扱えない。ならば、第三の選択肢をというわけである。
「というわけで、私はグルメをテーマにした本を出すことをお勧めする」
「グルメ…美食ですか?そんなのが売れるとは思えませんが…」
「日本人でありながら食に無頓着とか…さては、貴様朝鮮人かぁぁ!?」
「ちょ、首、くるs…」
「あ、すまん、つい…」
超美食家を自称しているフレミングは、どのような状況であっても、可能な範囲で手間暇を惜しまず美味しいものを食べようとする日本人の食にかける情熱を知っていた。戦時中は我慢もするが、戦後になれば必ずグルメ雑誌が売れると確信していたのである。
「しかし、帝都は広いです。美味しい店をそう簡単に見つけられるものなのでしょうか…?」
「知ってるぞ。帝都で美味しい店は、片っ端から食べにいったし」
「えぇぇぇぇ!?」
「そういうわけで、第一弾は和菓子スイーツ特集だ!」
くどいようだが、フレミングは超美食家(自称)である。
立場上、金と暇は持て余していたし、移動手段に車が使えるので、来日してからは帝都の美味しい店をひたすら食べ歩いていたのである。
252
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:11:53
1946年。
フレミングと角川の手によって、戦後初となるグルメ雑誌『T〇ky〇waker』が刊行された。グルメ本でありながら、4色オフセット印刷による総カラー本という当時の常識からかけ離れた本であった。当然コスト高となるため角川は反対したのであるが、フレミングの熱意に押し負けた形となった。
表紙が、かわいい売り子と和菓子のツーショットな時点で当時のグルメ雑誌の常識をぶち壊していたが、その内容はグルメ雑誌としては素晴らしく画期的なものであった。フレミングの文才がいかんなく発揮された、ある種変態的とまで言うまで事細かく描写に力が入った味に関するレビュー記事に加えて、ページ丸ごと使用したスイーツのカラー写真は否が応でも読者の食欲をそそったのである。
第一弾の和菓子特集は早々に重版となり、続編の要望が殺到した。
フレミングとしても、美食はライフワークであるので以降のシリーズに積極的に関わっている。その後、読者の強い要望により、他の地域の特集も組まれることになる。
時が経つにつれて、T〇ky〇wakerは純然たるグルメ雑誌から、史実のようなグルメだけでなく衣装や流行ものを扱う総合トレンド誌になっていったのであるが、その分、グルメ雑誌としての純度が薄れたため、フレミングは独自に料理本をいくつか執筆している。どこで知ったのか、カルトかつ穴場的な場所が多いために一部のマニアに熱狂的な人気が出ているグルメ本となっている。
253
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:13:07
グルメ雑誌という安定したドル箱と、英国大使館からの刊行物の専属契約によって安定的な地盤を築くことに成功した角川書店は、角川のかねてからの願いであった純文学に進出した。以後は、文芸、辞書の分野にも進出し、順調に規模を拡大していった。
1953年に、フレミングはそれまでの経験をもとに『ジェームズ・ボンド』シリーズ第1作となる長編『カジノ・ロワイヤル』を発表した。この作品は当時の角川文庫から出版され、一大ベストセラーとなった。史実とはストーリーやキャストが変更されているが、それでも大ヒットしたのは、フレミングの文才によるものであろう。
ちなみに、以後のシリーズにも言えることであるが、枢軸とソ連が悪役にされることが多かった。
英国情報部と日本、そしてカリフォルニア共和国が協力して立ち向かうというストーリーが多かったのであるが、穿った言い方をすれば、プロパガンダの一種であった。もっとも、この世界の映画というのは、大なり小なりそういった意図があるのは否めなかったが。
フレミングがスポンサーに気を遣ったのか、日本が舞台になることが多く、それ故にボンドガールも日本人女優が務めることが多かった。ついでに、史実の外国人が想像したような変な描写な日本はほとんど見られなくなった。これはフレミングの日本滞在歴が長く、より日本を知悉したことによるものであろう。代わりに、ドイツが舞台になるときは敵役が超人やら改造人間だったり、やたらとヒトラーの銅像が置かれていたりとヘンテコな描写が増えてたりするが。
カジノ・ロワイヤルが映画化される際、角川文庫は映画に進出した。
人気作品であり、夢幻会関係者にも大量にファンがいたために、以後のシリーズが映画化される際にもスポンサーに困ることは無かったのであるが、その都度、ボンドガールとボンドカーの選定でもめるのが困りものであった。
イアン・フレミングと角川源義。
この二人には、とある共通点が存在した。両者とも奔放な生き方を好んだという点である。
前者はロンドンの遊び人に知れ渡るほどの『飲む、打つ、買う』な生活に明け暮れた筋金入りのプレイボーイであり、しかも、長身、黒髪、碧眼、裕福、名門、スポーツ万能、そして、お洒落という非リア充の敵であった。後者の角川源義に至っては、私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って、私生児を産ませるなどやりたい放題であった。
そんな二人が意気投合するのに時間はかからなかった。
結果、夜の帝都で乱痴気騒ぎをおこして警察の世話になることも多く、双方の関係者に多大なストレスをかけまくることになる。なお、フレミングと角川の友情は終生続き、フレミングが死去した際に角川は哀悼の句を送っている。
254
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:15:08
あとがき
皆様お久しぶりです。
今回はリクエストに応えてみました。
以下、用語解説です。
>東京盛
東京盛(とうきょうざかり)
大正時代に発売が開始された二級酒です。
史実では1970年代に製造中止になりましたが、2016年に復刻しています。
>史実のような苛烈な酒税取り立て
苛烈なんて言葉じゃ足りないくらいに凄まじいものでした。
下記アドレスに、十一屋の事件についての記事がありますが、こんな税取り立てをすれば、そりゃ零細酒蔵は潰れますわな…。
h ttps://jp.sake-times.com/knowledge/culture/sakge_g_meiji-liquor-tax
>肉骨粉
原材料を書いてしまうと、R-18G指定待ったなしなので書きませんよ?( ̄ー ̄)ニヤリ
>英国からの情報提供
拙作『憂鬱ソヴィエト空軍事情』で英国はソ連への技術提供をすると同時にソ連内に諜報網を作り始めているので、それにひっかかったという設定です。
>ポリスオフィス
英語だと警察署はポリスオフィス
米語だと警察署はポリスステーション
です。
>麹町警察署
グーグルマップだと英国大使館の敷地から100m程度のご近所さんです。
英国大使館は広い敷地を持つので、震災時の避難場所として有用です。非常時に備えて打ち合わせをしていると思い、ああいう描写となりました。
>カップラーメン
本編第4話で1927年にカップラーメンを食べている描写がありましたが、さすがにこの時代だとコスト度外視で生産していたかと。
それから20年近く経てば、コストも下がって民間でも売れるかと思います。それでも史実よりも10年は早いですが、憂鬱日本の技術は史実以上なので、たぶん大丈夫かと。
>袋ラーメン
少なくてもカップラーメンより早く民間で売り出しているのは間違いないかと。
戦前に実用化されていれば、非常用食料として備蓄しているでしょう。お湯で戻す糒よりも早く簡単に食べれますし。
>トヨタAA型
憂鬱日本の基礎工業力が上がっているので、史実のトヨタが復刻したAA型になってそうです。
どれくらい品質向上したかというと、自動車評論家・五十嵐平達氏曰く「昔のトヨタはシボレー(GM製大衆車)のようだったが、これはダッジ(クライスラー製中級車)だ」とのこと。
あくまで原型に忠実に製造したつもりが、技術の進歩の結果、戦前より材質の水準や加工精度が上がってしまったのが予期せざる性能向上の原因とのことですが、その理屈でいくと憂鬱日本で再現される車の大半に当てはまりそうな気がするのですが…(汗
>倉崎、三菱、豊田、日産の4社(BIG4)
日本の自動車メーカーで、日産とトヨタは鉄板でしょう。
残りの倉崎と三菱に関しては、本編第8話の『倉崎、三菱などを中心とした優秀な航空産業や自動車産業。』という描写があったので、自動車を生産していると判断しました。
>スバルやホンダといった新興自動車メーカー
戦前は上記4社の下請けとして、自動車部品を作っていたのが戦後になって自動車メーカーに転身したという設定です。
でも、ホンダはともかくスバルは川崎系列だから倉崎とかぶってしまうかも(汗
255
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:16:03
>日比谷松本楼
現在も営業している洋食の老舗中の老舗です。
古くは憲政運動の舞台になったりしているので、政治絡みで夢幻会と絡ませてみました。
>北一輝
史実レシピを再現してもらうために登場させました。
料理で史実レシピを再現したくなったら、この男を登場させれば万事OKです。便利w
>小坂梅吉
松本楼の初代社長にして貴族院議員です。
非政友会の長老ですが、近衛と親交があったというのは拙作の独自設定なので悪しからず。
>国産牛
本編13話より
「しかし美味しい牛肉の開発も急ぎたいですね。ああ、それと養豚産業や養鶏産業の梃入れももっと必要ですね。
史実に比べれば十分な品質はありますが、まだまだですし」
「養豚については、水田地帯と養豚場の切り離しが必要だろう? 日本脳炎大流行は困るぞ?」
本編13話だと1940年ごろでしょうか。
おそらく、このころから国産牛のブランド志向が始まったのだと思います。どのみち、輸入牛肉にコスト的に太刀打ち出来ないので、早期のブランド志向は間違ってはいないのですが、お値段も高騰する結果になってしまったわけです。
>アメリカンビーフ
吉〇家はアメリカンビーフを使っているがために低価格化で苦労しているとか。
この世界だとアメリカが崩壊して手に入らないので、吉〇家は存在しません(酷
>オージービーフ
す〇屋と〇屋はオージービーフを使っているみたいですね。
本編だと豪州から牛肉を輸入出来たという描写は見当たらないので、やはりす〇屋と〇屋も存在出来ないようです。
本文で書きましたが、近代的な養鶏場と養豚場は既にありますので、飼料さえあれば国内自給は可能です。
緑の革命が成功すれば、日本での鶏肉と豚肉の安定供給が可能になって値段も下がるかと思います。つまり、な〇卵が全国チェーンとして展開して親子丼とカツ丼が定番となる可能性があるわけです。申し訳ないですが、牛丼は諦めてください(酷
>代用コーヒー
コーヒー大好き民族なくせに、その殆どを輸入に頼っているのは致命的ですよね。
なお、史実ではベトナムとインドネシアのコーヒー生産が急速に伸びていますので、憂鬱世界でもベトナムとインドネシアでコーヒー栽培が軌道に乗れば日本でのコーヒーの価格は落ち着くと思われます。
>コナコーヒー
ハワイが領土となっているので、コナコーヒーの入手は問題ないでしょう。史実と同じく人件費の問題で高コストになるでしょうけど、それはしょうがないですね。
>モカコーヒーとブルーマウンテン
英国の勢力圏下に中東のイエメンとカリブ海のジャマイカがあります。イエメンはモカ、ジャマイカはブルーマウンテンなのですが、イエメンはともかく、ジャマイカは巨大津波で根こそぎやられてそうです。そうだとすれば、コーヒーが生産出来るようになるまでどれくらいかかることやら。コーヒー狂いな日本企業が支援してくれればなんとかなるかも?
>角川源義
角川書店の創始者です。
彼の存在を知ったからこそ、今回の支援SSが書けました。
私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って私生児を産ませるなど奔放な生き方を貫いた。
…wikiより抜粋。
似た者同士のフレミングと組ませるには最適でしょう。
出版社とコネが持てるので、007原作を日本で発表しやすいというメリットもありました。そんなわけで、憂鬱世界では007原作が最初に発表されるの国は日本になりましたw
256
:
フォレストン
:2018/01/26(金) 07:17:55
>1930年代の日本は、技術や生産施設を手に入れるべく欧米に積極的に進出し倒産寸前の会社を次々に買収していた。
本編第5話より。
これらの買収劇の中で最も日本が力を入れていたのが、アメリカのボーイング社の買収だった。
本編でボーイングの買収は失敗していますが、それ以外にも多くのアメリカ企業が日本に買収されました。アメリカン・バンタム社もそのひとつだったというわけです。史実でのアメリカン・バンタム社の末路は悲惨の一言に尽きるので、個人的に救済したくなってああいう描写となりました。
>九八式小型トラック
1938年(皇紀2598年)制式採用。
性能は史実バンタムジープ(BRC-40)です。
参考までにスペックを置いときます。
全長:3.23m
全幅:1.42m
全高:1.83m(幌装備時)
ホイールベース:2.00m
重量:953kg
エンジン:液冷4シリンダー 45馬力
変速機:前進3速マニュアルトランスミッション
>当時どれだけアメリカの名が忌み嫌われていたかよくわかる逸話である。
戦後本編では、アメリカ大陸が改名される予定であるとのことだったので、企業もそれにならうのではないかと。
もっとも、アメリカから無事に脱出出来た企業の中で、アメリカの名を冠する企業がどれくらいあるかは分かりませんけどね。
>清寿軒
江戸時代末期から営業している和菓子の老舗です。
羊羹のほうが歴史は古いらしいですが、今の主力商品はどら焼きです。
>すぐ近くの公園
堀留児童公園のことです。
清寿軒とは道路を挟んだ反対側のブロックにあります。
細長い立地とやたらと遊具が充実していること、さらに非常時にはかまどとして使えるベンチが置いてあったりと、退屈しなさそうな素敵な公園です。
>プルタブ式の缶
憂鬱世界では日本発祥の技術となりました。
史実では1950年代に発明されているのですが、開発者がインディアナ州出身なので、確実に巨大津波で亡くられているかと…。
なお、現在のようなプルタブが本体に残るタイプの缶は、製造時のクリアランスが厳しくなるので技術的な難易度は上がります。史実だと60年代半ば以降ですが、この世界だと10年くらい早めてもよいかも?
>海軍内に缶飲料は普及していった。
軍艦で缶飲料が使えたら便利だと思うのです。
ラムネだと瓶なので落とすと割れちゃいますし。
>缶飲料は店での小売りが主流
史実で自販機が普及したのは、100円硬貨が広まってからという話があったので、それまでは厳しいかもしれません。まぁ、小まめにつり銭の管理すれば良いだけの話なのですが、そこまでやるメリットがこの時代に存在するかなぁと。
>T〇ky〇waker
伏字になってない?気のせいです。
史実よりも30年以上早くこの世界では刊行されましたが、この世界では純然たるグルメ雑誌となりました。
257
:
名無しさん
:2018/02/12(月) 10:26:00
>>1
履歴は以下の通りかな?
提督たちの憂鬱 支援SS ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/9191/1237622486/
提督たちの憂鬱 支援SS その2 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/9191/1299215754/
提督たちの憂鬱 支援SS その03 ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/otaku/9191/1337499126/
提督たちの憂鬱 支援SS その04 ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/otaku/9191/1459268350/
261
:
俄か煎餅
:2019/03/21(木) 17:20:55 HOST:FL1-119-239-191-151.fko.mesh.ad.jp
海洋のローマを目指して 全ての航路はタラントに通ず
第二次世界大戦終結時、イタリア王国の国際的な地位は戦前と比べて大幅に上昇していた。ドイツと組み、日英仏連合と、次いでソ連と戦い抜いた一世一代の大戦争に勝利した事で、イタリアは南欧州全域への影響力を確保したのみならず、地中海の覇者となった事が大きかった。
多大な犠牲を払いつつも、元世界一位のイギリス王立海軍と、新たに世界一位となった大日本帝国海軍を相手に果敢に戦いを挑み、地中海から追い出したという輝かしい実績もある。今やイタリアは、枢軸国陣営最強の海軍国家であり、そして世界で見ても第三位の海軍を擁する列強の上位にまで浮上したのだ。最早イタリアを軽く見る国家は世界には存在せず、日独英達列強の最上位ですら、イタリアの発言を無視して聞き流す事など出来なかった。
無論、この激動の動乱の時代を、イタリア王国のトップたるドゥーチェの地位で指揮し、見事に国家の舵取りをやり切ったムッソリーニの人気は留まる所を知らなかった。ガタガタだった経済を立て直し、南イタリアを中心に国家全体の犯罪率を激減させ、労働者達の勤労環境だって改善してみせた功績もある。一たび彼が何処かで演説を行えば、空が割れんばかりの大歓声が彼を出迎えた。
こうして、極めて高い支持率、圧倒的な人気、歴史に名を刻んだ栄光と名誉、その全てを手に入れたムッソリーニは、しかしここで満足などしていなかった。第二次世界大戦。それに参戦し数年にわたり戦火を交えた経験は、今なお残るイタリアの課題をドゥーチェ達政府の人間に知らしめていた。
イタリアの国際的な地位は確かに向上した。しかし、今のイタリアには世界の頂点を狙う力など無い。それどころか、ドイツに成り代わって枢軸のトップに立てるだけの力も無い。戦争する上で、工業力というのは極めて重要な指標だ。その工業力で、日独英仏に差を――特に日独には大きな差を――開けられている事を、ムッソリーニは正しく理解していた。
第二次世界戦は勝てた。だがそれは、工業大国ドイツの力を借りれた事、そして敵である最強の工業国である大日本帝国がアメリカを気にして全力を出せなかった事という、外的要因に大きく依存した結果なのだ。もしも、第三次世界大戦が勃発し、そして全力を出して暴れる大日本帝国軍と真正面から激突した場合、たった一度の海戦、野戦で呆気無く叩き潰される可能性が高かった。
今のイタリアに、第三次世界大戦を戦うのは不可能だ。当分は不戦の方針を崩す事は出来ない。幸い、大日本帝国の底力を理解しているヒトラードイツが軽挙妄動に出る可能性も低い。今の内に、イタリアが更なる発展を遂げるために、目の前に山盛りの課題を着実にクリアしていく必要がある。地中海全域を手に入れたからといって、現状に満足して足踏みしている暇など存在しないのだ。
そう判断したムッソリーニは同時に、独日の対立に否応無しに巻き込まれ、破滅に向かって進撃する破目になる事を恐れた。独日が不倶戴天、犬猿の仲の怨敵である以上、何か些細なきっかけで激突してしまう可能性は否定出来ない。独日の全面戦争で矢面に立つ事が自殺行為に過ぎないと分かっている以上、緊張が垣間見えた段階で仲裁に乗り出さなければ自分達が死んでしまう。
加えて、バルボからの進言もある。現在の独日冷戦が、これから先も永遠に続くとは思えない。必ずどちらかが折れるだろう。そして、客観的に見て余裕の無いドイツが先に折れる可能性の方が高い。その時、ドイツ追従をし過ぎてドイツの同類と思われるより、今は敵である日本とも多少なりとも交流を深め、イタリアという国家を理解して貰えている方が、冷戦終結後の世界でイタリアが生きていく上での助けとなりうるだろう。そして、長い抗争の歴史の果てに歩み寄りをするであろう独日の仲を取り持つ事は、半世紀後、或いは一世紀後、必ずやイタリアの評価となる。後世のイタリアのため、ムッソリーニは自分がどう動くべきかを決定した。
262
:
俄か煎餅
:2019/03/21(木) 17:22:56 HOST:FL1-119-239-191-151.fko.mesh.ad.jp
幸い、独日の仲を取り持つためにも日本に接近するというムッソリーニの思惑は、呆気無く上手くいった。ドイツも現状で日本と戦うことの愚を理解していた事、日本も枢軸陣営とのパイプを欲していた事、日本の頂点に立つ嶋田首相がかつてイタリアに駐在武官として滞在していたツテがある事、両陣営共通の敵である大災厄アメリカ風邪が猛威を振るっていた事。すべてがイタリアにとって追い風となった。
イギリスを真似して大使館から情報を発信してみたり、陸海合同文化祭に色々出品してみたり。反対に、日本の食文化や芸術をイタリアのテレビで流してみたり。そうして始まった伊日間の交流は、すぐに急拡大し、やがて戦争によって一度は止まった物のやり取りも再開した。本場イタリア製のパスタが喰いたいからと輸入を申し込んで来る者がいたり、ワインが取り寄せられたり、日本から饅頭だとかお菓子類を買うものも出てきたり。流石に国防に使えそうな技術や物のやり取りこそ出来ないものの、概ね順調と言って良かった。
そして、このような交流が拡大していくにつれ、イタリアは次第に、狙い通りに枢軸と日本の窓口として機能するようになっていった。フランスやドイツの品物も、イタリアを介して日本に流れるようになり、逆に日本からの商品も、イタリアで箱だけ偽装してイタリアからの荷物として枢軸国内に流し始めた。
さて、この交流のためのイタリアへの出入り口として、ムッソリーニはイタリア半島南部、港町ターラントを指名していた。イタリアから日本を訪れるには、スエズ運河と紅海を通過し、インド洋を通り、マラッカ海峡を突破してから北上していくのが一番楽で確実だ。反対に日本からイタリアに来るのならこの航路を逆に辿ればいい。そのスエズ運河に近く、整備された大きな港町と言えば、ターラントは最適だった。
勿論、イタリア内部に最大の仮想敵国人である日本人の船を入れる事に反対する声もあった。船を受け入れれば、当然それを操る船乗り達も付いて来る。ずっと船に缶詰めにしたままなど出来るわけも無く、上陸も許すし、ホテルにも泊まれば、飲み屋を探して街に繰り出そうとする者だって現れる。この時イタリアは、アフリカの角にある東アフリカ帝国、バルカン半島西部にあるアルバニア王国を支配下に置いていた。そのため、本土ではなく、せめてそのどちらかで交流を行うべきという声も少なくはなかったのである。
理解不能な速度で発展し、鎖国を解いてから百年も経たずに世界最強の座にまで上り占めた有色人種の突然変異種。そんな連中がイタリア半島の土を踏む事を恐れ懸念する者達の想いも理解はできた。だが、ムッソリーニは日本との、日本人との交流をあくまでイタリア本土で行う事に拘り、己の決断を曲げなかった。バルボ達、ムッソリーニがこんな決断を下す影響を与えた者達も、防諜さえしっかりするなら、とこれに反対しなかった。ムッソリーニの狙いは、あくまで伊日間の交流であり、伊日間の接近である。エチオピアやアルバニアが日本と仲良くなっても意味が無いどころか、日本に取り込まれて切り崩されかねなかった。
263
:
俄か煎餅
:2019/03/21(木) 17:24:17 HOST:FL1-119-239-191-151.fko.mesh.ad.jp
元々地中海の中心付近にあるという地理的要因もあり、要衝であったターラントは、このような事情からイタリア上層部に更に注目される事となる。他国、特に、世界を支配する二大陣営――イタリアから見れば、イギリスは半日本陣営でナンバーツーのようなものだった――の片方のトップとの交流の地、という事で、日本に見くびられては困るために港の拡張や整備は重点的に行われた。そして、この港の整備のために参考にされたのは、他ならぬ日本の港であった。
イタリアは、港湾においても日本に比べ大きく出遅れている。ならば、世界最先端を独走する日本を参考にするのが最も手っ取り早くて確実である。ムッソリーニのこの決断に、誰も文句は言わなかった。内閣の人間達は、イタリアからパスタだのピザだのワインだの模型だのを抱えて日本に向かった貨物船の船員達から、日本の港の凄まじさは聞き及んでいたからだ。
北海道から鹿児島まで、縦長の日本列島を縦一文字に貫き繋ぐ一大高速鉄道計画、通称新幹線の話を聞いた時も目が点になったが、日本の港湾の発展具合も唖然とするぐらいに素晴らしかった。東京、名古屋、大阪。それらの巨大な港湾では、かの大鳳クラスの空母と同等かそれ以上の貨物船が平然と横付けできる埠頭が整備され、それに伴いガントリークレーンをはじめとする設備もまるで分身するかの如く増えていく。これらよりは規模が小さいが、その後を追うように整備されていく広島港や関門港だって相当なものだ。そして、これらに匹敵する規模の港なんて、欧州全体を探しても未だ存在しない。それを知ったイタリア上層部は、早速日本からやってくる貨物船の船員達に、日本の港と比べての規模や設備の差異と不満を聞き取りし、また在日イタリア大使館の人間を東京や横浜の港に派遣。凄まじい勢いで改修、拡張していく港湾の様子を報告させた。
この動きは勿論日本にも察知されたのだが、だからといって日本の公安はこのイタリアの動きを止める事など出来なかった。日本の諜報機関が優秀である事は、イタリアだって把握している。下手に非合法な活動を仕掛けようものなら、イタリアの諜報網が返り討ちに遭う。ならば、合法で正攻法な活動で真正面から情報を集めれば良い。そもそも欲しいのは民間施設の情報であり、イタリアから日本に行った船だって利用しているものなのだ。軍事転用も出来る最重要機密は流石に隠されるだろうが、そうじゃないものの見学まで断られるとは思わなかった。
方針が決まれば、早速行動あるのみである。世界一発達した日本の港の素晴らしさを見習うべく、政府の命を受けて見学に来たイタリア大使館職員。こんな肩書を引っ提げて堂々と正面から取材を申し込んだイタリア側は、恐らく公安であろう監視員に付き纏われながらも、太平洋の中枢となった港をそれはもうじっくりと見て回った。
コンテナという輸送システム自体の有用性の勉強から始まり、ガントリークレーンの構造や建設、維持、運用の注意事項、港でコンテナを動かす際に使う門型車輛であるストラドルキャリアという存在、積み上げたコンテナの崩落を防ぐ階段積みという手法、トレーラーや船台上での荷崩れを防ぐためのコンテナ内の荷物の詰め方まで。
荷崩れによる事故防止策といった細かな点まで考えてあるのは、流石は最も運用ノウハウを蓄えた国家であると言うべきだろう。まだコンテナ輸送というシステムに興味を持ったばかりと言っていいイタリアにとっては、貴重な情報であった。そして同時に、このコンテナ輸送というシステムがいずれ世界を席巻するであろうという事は、上はドゥーチェ、下は木っ端役人ですらが半ば確信した。
264
:
俄か煎餅
:2019/03/21(木) 17:25:21 HOST:FL1-119-239-191-151.fko.mesh.ad.jp
これは流通の、とりわけ海運の革命だ。やがて世界中でこのシステムが当たり前になる日が来るだろう。そして、イタリアはその影響をもろに受ける海運国家であった。
イタリアがこの画期的なシステムに乗り遅れてはならない。港湾も、鉄道も、やがて来たる時に備えて、この仕組みに適応できる物へと変革していくべきである。このドゥーチェの判断に、異を唱える者など居なかった。
無論、問題は山積みである。港を整備するためには莫大な額の金が必要になるし、それを鉄道輸送やトラック輸送にも波及させようとすれば更に金がかかる。予算の壁もあり、全ての問題に今すぐ対応する事は到底不可能だ。だが、出来る範囲だけでもやるべきである。イタリアを、世界の海運大国にするために。タラントを、西洋と東洋とを結ぶ玄関口にしてやろう。
以後、イタリア政府の方針に従って、タラントは以前にも増して、港町として急速に栄えていく。それは、伊独仏と日英が戦火を交えたモーリシャス事変という逆風を経ても変わらなかった。戦闘後、イタリアはドゥーチェの指揮の下、独日の橋渡しを行う仲介者の役割を忠実にこなし、タラントは日本からやってくる政府の使者を出迎えて玄関口の役目を果たした。
やがて、欧州と日本の橋渡しを行う仲介役から、時代が下るに従って欧州及び北部アフリカとアジアの仲介拠点となり、スエズ運河を通る貨物船がまず最初に向かう港、という地位を確立したのである。
全ての航路はタラントに通ず。今では、タラントは地中海におけるハブ港湾の代名詞となり、欧州の顔として、毎日数多の貨物船達を出迎えている。
265
:
俄か煎餅
:2019/03/21(木) 17:27:04 HOST:FL1-119-239-191-151.fko.mesh.ad.jp
以上
イタリアにちょっとテコ入れしてみたかった 後悔はしていない
なお、担う役割としては、史実マルタ島南東部、マルタフリーポートの役割を奪う形になります
物資集積所として、あちこちからタラントにコンテナを運んで来て、ここで仕訳けて積み替えてまた出発していく形になるでしょう 長距離国際便の交点です
マルタ島の金の生る木を奪われたイギリスは歯ぎしりして悔しがってそうですが――地中海喪失しちゃったから仕方ないね
なお、最大の商売敵は同じイタリア内のジェノヴァ(対仏、対スイス輸送はここからが近い)、トリエステ(対バルカン半島北部、対独、対ハンガリー等はここからが近い)である
とはいえ、ジェノヴァからタラント(約800km)、あるいはトリエステからタラント(約1000km)の短距離輸送も盛んでしょうけどね
アメリカと違って、伊半島縦断ダブルスタックコンテナカー百連結なんてのが走り回るような土地の余裕、ないでしょうし
将来、国際貨物船として、同じく極東のハブ港湾である東京とタラントをひたすら往復するのが仕事なパナマックスコンテナ船なんかも誕生する日が来るのやも知れません
266
:
700
:2019/06/28(金) 00:36:11 HOST:KD119105029058.ppp-bb.dion.ne.jp
提督たちの憂鬱について その85 レス982でモントゴメリー氏が書かれた
「水陸両用トラックA型」をネタに今では一部で一般名称化してしまったとある商標に
ついて書いてみました。
転載については自由に扱ってください。
267
:
700
:2019/06/28(金) 00:47:07 HOST:KD119105029058.ppp-bb.dion.ne.jp
クレーン付トラックあるいはユニック事始
フランスは「水陸両用トラックA型」を上陸部隊向けに大量導入を開始すると同時に
初期の納品分を用いて上陸戦演習を行った。軽榴弾砲(10cmクラス)を荷台に搭載し、
上陸させることが出来る「水陸両用トラックA型」の有用性は明らかであり、砲兵科
では大々的な導入を働きかけることとなる。
一方、現場では様々なトラブルがあり、初期には諸手を挙げて歓迎できる状況でも
なかった。特に問題となったのは以下の点であった。
- フランス陸軍が運用中の軽榴弾砲シュナイダーM1913 105mmカノンは戦闘重量こそ
2.3tと「水陸両用トラックA型」に搭載可能であったが、牽引形態では2.65tとなる
ため過積載により海上航行が危険なレベルであった。(※1)
- 砂浜を含む悪路走行性能が極めて低く、スタックすることが多かった。(※2)
- 水密性を保つため荷台に可倒式のアオリが無く、荷物の積み降ろしには一度持ち
上げて船縁を越えてから降ろす必要があった。
最初の問題は当初牽引用装備を別の車両で運搬し、積み降ろし後に必要に応じて合流
させるといった運用を行ったが、最終的には砲架の軽量化を行うことで解決すること
となり、ドイツ製75mm対戦車砲の砲架と合わせてM1947 105mmカノンとして結実した。
2番目の問題はベース車両のオペル ブリッツの4輪駆動モデルのトランスミッションを
トルク重視とし、標準よりも幅広のタイヤを使用することで改善されたが、改善後も
スタック脱出用の丸太は事実上の標準備品扱いであり続けた。
最後の問題は非常に大きな問題で最初の演習時には無事上陸したものの砲を積み降ろ
せずに終わると言う情け無い結果に終わった。(※3)
別途小型クレーンを持ち込み、砲の積み降ろしを行うという手順が定められたものの、
順調に推移しても混乱すると言われる上陸海岸でクレーンを広げるゆとりがある訳も
なく、時間も掛かるため改善が必要であった。これに対し、痺れを切らした兵員が
2台の「水陸両用トラックA型」を並べ、一方の上に持ち込んだ小型クレーンを展開し、
もう一方に搭載された榴弾砲を積み降ろすという裏技を展開するに至る。これを車両
整備部隊に随伴していたユニック社(※4)の社員が目撃したことから、輸送車両に
積み降ろし用のクレーンを装備すると言う、ありそうでなかった組み合わせが誕生
した。(※5)
もちろん只荷台にクレーンを固定するだけではクレーンアームを横に振った際の
安定性に問題が出るため、アウトリガーを装備し、フレームに接続するなど、
改造の範囲は大きく、最大積載量に悪影響が出るのは避けられなかった。しかし、
ちょうど砲架を軽量化した105mm榴弾砲が導入され始めた時期と重なったため、
これらの改造による積載量減少も許容範囲で収まることとなり、砲兵用として
クレーン付「水陸両用トラックA型」が配備されることとなる。そしてクレーン
アームに誇らしげに描かれたロゴにより車両そのものが「ユニック」と呼ばれる
ようになる。(※6)
輸送車両自体にクレーンを装備することはクレーン自体の重さにより輸送可能な
重量が減少することに繋がり、通常の荷受作業現場ではデメリットが大きいが、
混乱を前提とした戦場では自己完結性として歓迎されたのである。
その後、その便利さゆえに補給科を始めとするする他の兵科でもクレーン付輸送車両
(「水陸両用トラックA型」に限らず)を要求するに至り、フランス軍において同種の
車両は急速に一般化し、車両の製造元を問わず「ユニック」と呼ばれるようになる。
なお、「ユニック」という名称は現代日本においてもクレーン付トラックを示す
用語として建築業界を中心に通用するが、冷戦中は敵対国と言ってよいフランス
発祥の名称が何故定着したのかについて定説は無い。
268
:
700
:2019/06/28(金) 00:49:16 HOST:KD119105029058.ppp-bb.dion.ne.jp
※1 シュナイダー105mm砲は諸外国の軽榴弾砲よりは若干重い。
例:ドイツ 10.5cm leFH 18/40 1.9t
英国 25pdr 1.6t
日本 機動九一式十糎榴弾砲 1.75t
※2 元ネタのDUKWがベースとしたCCKW 2-1/2トントラックが悪路も考慮した6x6の
全輪駆動車両であったのに対し、「水陸両用トラックA型」がベースとした
オペル ブリッツは4輪の後輪駆動車が基本であり(4輪駆動モデルあり)、
エンジン出力も低めだった。またCCKWは2-1/2トントラックと呼ばれていた
ものの、これは悪路を前提とした数字であり、舗装路では4トン程度の積載
能力を持っており、車両としてのゆとりが大きかった。
※3 そのまま荷台上からの砲撃を敢行した結果、砲が荷台にめり込み、積み降ろし
不可能となったため当該「水陸両用トラックA型」を自走榴弾砲として登録し
直したという逸話が語られるが、過積載によりフレームを破損し修理不能として
廃車にせざるを得なかった「水陸両用トラックA型」が存在したことから
生まれたジョークである。
荷台からの発射も、再登録もされていない…はず、多分。
※4 フランスの自動車メーカー、第2次世界大戦直前ごろからトラック等商用車専業
となる。
※5 牽引用ウィンチを装備した輸送車両は普通に存在したが、荷物の積み降ろし
機能を持った輸送車両は存在しなかった。
※6 第一次世界大戦のマルヌの戦いにおいて兵員を前線へ運んだタクシー部隊に
ちなんだ命名とも言われる。(創業当時ユニックはタクシー向け車両を製造)
269
:
700
:2019/06/28(金) 00:51:34 HOST:KD119105029058.ppp-bb.dion.ne.jp
正直DUKWに始まる水陸両用トラックの使い勝手について気になっていたのが切っ掛けです。
荷降ろしを人手だけでやるのはどう考えても大変ですが(アオリが倒れないので普通の
トラックより上げ下ろしが発生する上に車高も高い)、そんな所に2t余りの荷物なんて
どうやって扱ったものか。クレーンが常にあるとは思えませんから。
なお自衛隊の補給科でもクレーン付トラック(作業装置付と呼ばれる)は人気のようです。
270
:
SARU
◆CXfJNqat7g
:2019/09/30(月) 06:45:27 HOST:fs76eee982.tkyc304.ap.nuro.jp
この話は拙著『遠すぎた街』とリンクしていますが単独で4でも差し支え有りません。
『死ヲ告ゲル翼』
英王立空軍にボールトンポール・デファイアントと云う単発複座戦闘機があった。
通常の戦闘機と異なり前方固定の兵装を持たず、後部座席へ配置された4連装旋回銃塔からの火線で敵機を絡め捕ろうという正に“挑戦的(デファイアント)”なコンセプトで開発された野心作だった。勿論数多くの野心作の例に漏れず、実戦で惨憺たる結果を晒したアイデア倒れの所謂“駄っ作機”として航空史に名前を残す事となった。
可動機銃の命中率を固定機銃のそれと比べた場合1対7だと云われ、更にこの機体は後席員が旋回銃塔を操作する事で操縦士との役割分担を果たそうとしたが、そもそも兵装で敵機に損害を与える為の射点へ自機を占位させるのは操縦士の役目でありそう言った意味からも大変無理の在るコンセプトとして後の失敗が確約された様な物だった。
『英國の戦い(バトル・オヴ・ブリテン)』の最中、デファイアントは昼間迎撃で独空軍の護衛戦闘機によって多大な損害を積み重ねて夜間迎撃任務へ回され、本格的な夜間戦闘機配備の目途が付くとアイデンティティーであった動力旋回銃塔を撤去して標的曳航機等の非戦闘任務へと用途変更を余儀無くされた。
対独徹底抗戦の旗手であったチャーチル首相(当時)が視察中に爆死した事から欧洲での戦火は一先収まり、スピットファイア等の一線級機整備を前に等閑に付されこのまま歴史の波間へと没し去るかに思われたデファイアント。その運命を大きく変えたのは日米開戦、そして大西洋大津波だった。
自らも本国や植民地、聯合共和國(コモンウェルス)に多大な被害を受けつつあった英國は、政府中枢を含む政治経済産業の罹災で混乱する国内事情を推して尚も対日戦を強行する合衆國に困惑しつつ、連戦連敗と当時は“アメリカ風邪”と称された伝染性及び致死率の高い疾患の内憂外患で急速に崩壊して行く当地への介入を独伊を中心とする欧洲聯合と水面下での協議を図っていた。と同時にカナダを含む北米へ派遣・展開する戦力の選定と準備が平行して進められるが、航空戦力に関しては経空脅威が微力である事と何よりも欧洲聯合への不信から本国の防衛体制維持に悪影響を及ぼさない範囲での派遣となった。
先行した工作員等による宣撫活動で現地勢力の取り込みは行われていたが、それでもと云うかやはりと云うか住民による自発的抵抗は各地で発生しており、時には建造物の密集した場所で屋上から屋上、窓から窓へ極少数の民兵がゲリラ活動を行って遣米兵団に損害を与えていた。そうした抵抗拠点を爆撃や通常の機銃掃射での排除はしばしば引き起こしの失敗から墜落の危険を伴ったが、或る時一機のデファイアントが銃塔を左に向けて固定したまま航過・掃射して見せると覿面の効果を現した為、小規模直協に多用される事となった。又、銃塔を左側へ指向した状態で左にバンクしつつ旋回・掃射する機動も有効とされた。
現地からの報告を受けたボールトンポール社は自らが製造を請け負った動力旋回銃塔装備のロック艦上単発複座戦闘機を設計したブラックバーン社とデファイアントの改造を協議し、僅か一か月と云う驚異的な期間での改設計と実機改造が行われた。
運用上ほぼ真左への固定が常態化していた動力旋回銃塔を後部座席毎撤去し、その跡へ7.7ミリ機銃四丁を左側固定してそれを三段重ねにした箱形の構造物を組み込んだ。当然、空気抵抗は増して元から遅かった速度は更に下がったが、直協任務や集弾率を高める意味から失速墜落しない程度の低速はむしろ歓迎された。
なけなしの四発重爆で空輸された改造キットで単座直協機として新生したデファイアントの初陣は『ナイツ・アンド・グレイル』──泥縄で立案され拙速と云うには余りにも急ぎ過ぎ加速度的に破綻し軍民に多数の犠牲者とアメリカ風邪の更なる蔓延をもたらした、あの悲惨なナッシュヴィル打通作戦だった。
住民を引き連れ潰走同然の体で撤退戦が行われると共に、追撃を行う旧聯邦軍の軽戦車や改造武装車を阻止・撃破すべく翼を得た十二本の火線が破壊を振り撒いた。それはスコットランドの伝承にある告死妖精(バンシー)に例えられ、何時しかテネシー川のバンシーと称される事となった。改造デファイアントがブラックバーン・バンシーの制式名を得たのも英國的諧謔の表れだったのかは憶測でしかない。
その後もバンシーは封鎖域から漏れ出ようとする瘴気じみた“何者か”に死を告げるべく翼を翻し続け、40年代末に機械的消耗と共食い整備の限界から姿を消す迄あの左旋回からの掃射で滅びを振り撒いていた。
終
271
:
SARUスマホ新調
:2019/09/30(月) 07:05:06 HOST:KD106132084227.au-net.ne.jp
デファイアント(とブラックバーン・ロック艦戦)の動力式銃塔が何か使えないかと思いついたまま書きました
wiki掲載はご自由に
272
:
名無しさん
:2024/09/24(火) 13:14:51 HOST:zaqd378a96d.rev.zaq.ne.jp
>>21
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