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この人を弁護する!

5紋章官:2020/05/22(金) 19:01:22
東京圏はまだ緊急事態宣言のまま。なんとか近所を散歩するときくらい、マスク無しで済ませたいところです。肌が弱いのでかみそり負けで荒れや腫れるのは
ざらで、こんなにマスクをしていたことがなかったので、ちーと、頬あたりで擦れて毛穴が少し赤くなっていたりする。困ったもんです。

さて唐突書き込み、この人を弁護する!「麒麟がくる」編。だーれを取り上げるかといえば、朝倉義景。せっかく今川義元さんはしかるべき雰囲気と扱いで安堵して
いたら、かわりに朝倉義景さんがあの扱いとは。不憫です。なるほど、激動の時期に不向きな人物だったことは確かでしょう。しかしながら、戦国の最中、堅実に
越前一国を堅守していた人です。もちろん、初期には朝倉宗滴という傑出した長老が重きをなした事での安定だったにしても、その後、それこそ本当に最後の時期に
なるまで内部抗争もなく、他国に深く攻め入られる事もなく、出兵を控えて領民に重税や動員の負担をかけなかったとみれば、誠に名君。
それこそ領国拡大や派兵で一見、華やかな戦果を誇っても、一方で領民が負担で喘げば、何をいわんやとなります。この辺り武田信虎や一時期、武田信玄も陥った
失敗であり、小田原北条氏でも領内農村へ軍役負担軽減の例など見ればわかるところ。それこそ紹介されていませんが織田領内でもどうだったのでしょうか?
おそらく朝倉義景はよく言えば慎重な専守防衛主義者。悪く言えば優柔不断、おそらく自分が戦乱の時代に向いていない事を認識していた故に考えすぎて機を失う
方だったのでしょう。あとは今川氏真同様、相手が悪かった。まあ、私が同じ立場なら、同じだったかもしれません。自分が向いていない事を認識して、出兵は控え
領内安定と専守防衛に努める。一方で逃げ込んでくる足利義昭や公家たちの生活は困らないようにしかるべき扱いをする。そして領内安定により城下町一乗谷は、
公家や宣教師の記録と発掘調査から、大変な繁栄をしていたことが判ります。
優柔不断、文弱というよりも、変に領国改題の戦費負担などに苦労するよりも専守防衛に徹して領内経営にあたり、その豊かさを守ることを中心に置くほうが
賢明と考えるでしょう。昨今の研究で北近江浅井氏との関係は、どうも同盟というよりも主従関係に近かったとの説が出ており、その事で南部国境は安定、若狭武田家
は弱体内紛で優位。琵琶湖西岸の六角氏は浅井氏が牽制して、朽木氏などをクッションに距離を置き、あとは手ごわい加賀一向一揆との国境紛争に専念。
この加賀との抗争はかなり負担で朝倉宗滴も死の直前まで、この方面に出陣していたほどですから足利義昭を擁しての上洛が出来なかったのも、この一揆対策に
追われていたから、と言われます。それでも、国境紛争で抑え込んでいたのですから、越前全体の安定は担保されていたわけです。
何かと滅亡者、敗者を暗君、愚君と扱いますが、そろそろそういう見方を捨てて描けませんかねえ。それでは

6紋章官:2020/05/28(木) 19:02:21
コミケの当選者払い戻しのアンケートが届きました。寄付でも構わないのですが、次回以降への繰り越しクーポンを記念にもらおうと思い、繰り越し選択で返送しま
した。届いても使わずにとっておいて、昔こんなことがあったんですよ、と昔話する迷惑な高齢参加者になろうかともくろんでおります(笑)
とはいえ、コミケは世界中から人が押し寄せる3密の極みのようなイベント。果たして再開可能だろうか?と不安に駆られます。

さてこの人を弁護するで補足編。朝倉義景を上げましたが、彼や今川義元など数々の人物は後世の軍記物や小説等で、やられ役のため主人公引き立てのため、悪くされ
たり暗愚と描かれます。漫画でもそうですね。悪役ではないけどダメな人みたいに。でも視点を変えて描き直すことも昨今は多い。
例えば「センゴク」ですが、主人公仙石秀久自身が猿回し的に描かれるので、その分、周囲ややられ役や悪役にされがちの人が、そのような色付けではなく、堂々と
描かれる。この辺りは好ましいもので、武田勝頼、朝倉義景、そして独立漫画にもなった今川義元と大名たる人物として描かれる。それゆえ、この先、仙石秀久が
小田原の役で復帰したのち、朝鮮出兵と秀次事件、晩年期の秀吉をどう描くかが興味深いところです。
また蒼天航路、曹操を主人公にした漫画で登場人物を様々に脚色しますが、その中で個人的に最も誘惑されるの劉備に国を奪われる蜀の劉章。
通常、この方も暗愚惰弱に描かれますが、蒼天航路では全く異なる。劉備の巻き返しで成都に籠城、そこへ劉備の古参の部下が降伏を進める使者として会見する。
その際、この使者の言葉にはっとして劉章は嘆きます。
「国を継いで以来、戦火に苦しむ中原の民をよそに、関を固め、暖衣飽食、国を守ってきたのは誤りだったのか」
それに使者はこう答える。
「いや、この国の子供のように笑っている子は他で見たことがなかったよ」
使者は劉章が国を守ることに徹して、子供が無邪気に笑える平和を維持してきた事を評価する。それにこたえて劉章は降伏と国を譲ることを決意します。
多少、セリフなどは間違っているでしょうが、こんなやり取りの場面があります。他の大活劇や曹操の活躍、ダメ男なのに憎めない劉備、孔明の豹変など様々に
面白い人物や場面があるのに、この場面だけが強い印象が残っています。
同時に、歴史人物を考えるに果たしてやられ役の人は単純に暗愚でいいのか?との視点を突き付けられたところでもあります。勝敗、時の運、今一度、見直す
視座としてどうでしょうか?それでは

7紋章官:2020/06/05(金) 19:12:14
6月最初の金曜日!また感染が増え始めましたが、まあ、そうなるだろうと、誰もが判っていたところ。こういっては何ですが、中国人観光客の多かった
京都や東京銀座、浅草界隈での店舗絡みのクラスター話がないので、普通にショッピングする分には、マスク等で十分そうにも過信しそうになります。
ともかく、まずは皆さま、お気をつけて。

この間の歴史秘話ヒストリアで松永久秀さんを取り上げていましたねえ。ネタ的に、先にこの人を弁護するでとりあげといたので、勝ち!と思いました。
安上りですねえ。さて「蒼天航路」の劉章を取り上げましたが、アニメになりました「アンゴルモアー元寇襲来」、この原作漫画の中での高麗王朝の
元宗と忠烈王親子の対話。両者とも国を思い、王家の者としての役割を果たさんと異なる道をとる。息子の忠烈王は国土の疲弊や父王への辱めなど
を注ごうと、モンゴルに忠誠を誓う事で挽回を願っている。そしてモンゴルの装束で帰国して父王と対面。
その姿に父元宗は顔をゆがめてたしなめ、息子に諭します。
「辱めを受けようと、我が座はここ(高麗の玉座)にある」
間違えていたらすみません。うろ覚えです。さて、韓国史で彼がどのように位置づけられているかは知りません。
しかし、彼の治世はモンゴルの略奪だけでなく、武人政権の専横や三別抄の反乱(もしくは反モンゴル抵抗戦)と国王として失政を繰り返したと
ウキペディアには記載されています。
しかしながら、このセリフにてモンゴルに従属、その事で苦しもうと高麗王たる矜持は揺るがない、時代に翻弄された一人の国王の姿が描き出される。
アニメは対馬攻防の途中で終わりましたので、この場面まではアニメ化されませんが、韓国の方が読まれたら、どんな感想を持たれるのでしょうか?
聞いてみたいところです。漫画上、忠烈王の気持ちもわからない事はないですが、元宗の方に拝礼したくなります。
日本で放送される韓国歴史ドラマは何買っちゃあ、恋愛話だから、こんな場面は期待できそうないなあ。それでは

8紋章官:2020/06/11(木) 19:03:29
昨日の歴史秘話、比叡山焼き討ちの新研究も紹介されていましたね〜山上地区にはほとんど焼土層が見つからないことは10年ほど前から知られ始めていたもので、
滋賀のサンライズ出版の比叡山の本では、その概要を紹介され、焼き討ちは中程度だったのではないか、との説を立てていましたが、そうか、実際は坂本が焼き討ち
の主舞台という解釈もありなのか、と今更ながら納得したところです。

さてやっぱりアンゴルモアでの元宗のセリフを間違えていました。すみません。しかし、皆さんも様々な漫画や小説での印象に残るセリフや場面は多々あるでしょう
が、私はどういうわけか、主人公などのかっこいい場面ではなく、蒼天航路の劉章といい、銀英伝の皇帝フリードリッヒといい、そしてこの元宗といい、わき役で
敗者に属する人のセリフにひかれてしまう。まあ、皇帝フリードリッヒの場合は、負けはせず逃げきったとも言えますが。
皇帝と言えば、フス戦争を扱った「乙女戦争」に出てきます皇帝ジギスムント。一応、敵役ですが、皇帝としての苦悩が描かれる場面がありますねえ。この人も
父カレル4世という賢君を父に持ったことで、苦しむことになったのかもしません。漫画上でも決して徹底した悪人ではありません。
実際、彼は不器用でも教会大分裂を収拾することに手を尽くし、皇帝権力再確立を目指したことは確かです。ただ、基本的に言えば、カレルもそうですが、基本的
にボヘミア王家は外国人王家のため、潜在的に反発とボヘミア貴族層を完全掌握には至れなかったという事です。
実際、カレル4世も苦労しています。プラハの大聖堂や都市整備事業、大学開設と皇帝即位、金印勅書発行など数々の業績を上げてはいますが、一方でプラハ郊外
にカレルシュタイン城を築城、一見、皇帝の道楽に見えますが、実際はプラハにある王国重要文書や大聖堂にある即位宝物類を皇帝宝物と共に保管するとの口実
で地元民の力の強いプラハから運び出し、王家が管理できるように図った施設です。それくらい、カレルもまた深く気を付けていたのです。まあ、歴史の
一側面ですね。それではまた

9紋章官:2020/07/11(土) 02:26:29
二百十日とは申しますが、何もあんなに暴れ川にならなくてもいいのに、と水害をみて落ち込んでおります。新聞で鎌倉時代初期の水害に
源実朝が詠んだ八大竜王を非難する和歌を紹介していましたが、いや全く、という感じです。

さてこの人を弁護する。国王シリーズ。ヴォーバンとナポレオンをかき、先日、マリー・アントワネットの処刑までの日々を紹介する再現ドラマをとり
いれた海外ドキュメント番組がありましたので、この人を取り上げます。
ルイ16世。断頭台に消えた悲運の王。宝塚の中でも、ルイ16世のセリフに「錠前作りで暗いわけではないぞ」というようなのを見た
覚えがありますが、このようにどこか暗君的に扱われるのが通例。さすがにフランスの歴史家でもあまりに酷い、と彼の人柄や治世を
丹念に研究して名誉回復を諮った「ルイ16世伝」という分厚い書物が出ています。あまりの厚さに日本語版を買うのをあきらめました。
六法全書並み!実際のところ、この人も数学的思考を持った人で、遊び人が普通のフランス王家では大変珍しい、至って善良な家庭人的
人物。錠前づくりが趣味、というのも当時の王候は建前上、庶民の生活も知るべし、と農作業や職人仕事を体験するようにしていたので
(たとえばマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世は馬に犂をひかせて畑の土起こしをする農作業をしている水彩画が残されています)、
ルイ16世の場合、それが錠前作りだっただけの事。ただ、気に入ってしまったのかもしれません。
この延長でいくと、マリー・アントワネットがベルサイユに理想の庭園農村を作りあげたのも、このような素地があったからとわかります。
さてルイ16世は処刑人サンソンが尊敬したのも、残虐な拷問や刑罰を廃止する善良さがあったこと。一方で彼の数学的思考、科学技術
思考は彼がメートル法確立のために学者たちの調査を後押し、気球実験の承認など科学分野への理解に見られます。そして知的レベルも
高い。それはサンソンが王宮に招かれ目にした事。ギロチンの設計にあたり、処刑の専門家であるサンソンをよび意見を求め、しかも
図面で問題点を指摘して改良案をその場で示す。それに彼の証言が事実なら、国王ルイではなく、一個人として提案者とサンソンに
対等に語りあう節度を示す。ギロチン、いわゆる機械式断頭台も本来は処刑人や死刑囚の負担や苦しみ軽減を目的に提案されたもので
すが、その機能性ゆえに革命期の大量処刑を可能とし、ルイ16世自身も経験することになったのは悲劇的としか言いようが
ありません。当時のこの断頭台前の処刑、首をはねるのに剣を用いており、死刑囚が暴れる、処刑人の技量が低いなどで、2度
3度を頭や肩に切りつける、処刑台から転げ落ちて、引き上げられるなどいう例もあり、死刑囚だけでなく、処刑人にも大変な負担を
かしていました。ところが機械式断頭台だと、操作一つでやれるので、技量は不要、確実に素早く大量処刑が可能になってしまった。
話戻し、ルイ16世という人物はこれから科学的思考をもった善良な人物であり、偉業をなすよりも平和時の凡君、むしろ国家安定に
向いた人物だったのでしょう。しかし、彼は王朝の負債を一気に背負わされた!
ブルボン王朝はルイ13世に剛腕リシュリュー、ルイ14世に辣腕マザラン、ルイ15世に善良フルーリーという聖職者宰相が統治前半に
活躍します。ルイ15世の初期に宰相だった枢機卿フルーリー、知名度の低い、この人は元来、ルイ15世の教育係で温厚篤実、70歳代
と高齢。しかし、彼は長命で死ぬまでの十数年間、摂政宰相として国政を指導します。彼はベルサイユ宮殿増設工事停止、戦争回避、経費
見直しによる財政再建と民力休養に務めました。後に戦争中に平和を求める書簡を外国に送り、それを相手に暴露され権威喪失という事態
を招きますが、本来、平和を説く聖職者が平和を求める書簡を送るのは当然であり、この人物の平和主義が如実に表れています。
このような人物を摂政に持てたルイ15世は幸運、おかげで王国は安定、後半の派手な浪費を可能としました。
しかし、ルイ16世は、これらの宰相を持てなかったのが不運も重なり、革命に至ったとも言えます。しかも、野心家の従兄や弟たちの
策動で王権は事実上自壊、そして処刑の悲劇を迎えます。真に不運としか言いようがないと思います。どうでしょうか?それでは

10紋章官:2021/06/18(金) 22:19:21
梅雨ですねえ。雨が降るふる、雷が鳴る。そしてオリンピックはやるらしい。

さて大河ドラマで天狗党の乱がさらっと紹介されました。武田耕雲斎の処刑場面でいろいろ意見があったとか。それで久々にこのネタ、この人を弁護する!
といって武田耕雲斎ではありません。この人には弁護するまでもなく同情します。幕末期は苦手と嫌悪があります。会津・二本松・長岡等の悲劇だけではありません。
この天狗党の一件など、正直、処刑者記録を見ると鬱々となります。天狗党とはいいますが、これは様々な寄集めで意見の違いによる派閥の差が大きい。耕雲斎は
本来、穏健で説得に行ったはずが首領に祭り上げられ、最後は処刑。しかも水戸に残っていた家族も全員処刑。それも6歳やら2歳の幼子も斬首ってなんだそれは、
と言いたくなるところ。このため政局の変動で処刑をまぬがれていた武田耕雲斎の孫が明治維新後に朝廷の許可を得て水戸に入ると報復処刑の嵐。
これも他にも天狗党参加者の家族も処刑されていた報復でもありますのでやる気持ちもわかりますが、上役の命令で処刑を行った下級藩士まで処刑されて、
その家族が自殺という話もあり、水戸藩は天狗党蜂起から10年間は血で血を洗う内乱状態で流血やまず、事実上自己崩壊したのです。
そりゃ、他にも尾張藩の青葉松事件のように大政奉還後に朝廷の命令で幕府派とされた家臣粛清、これには同じ町内に住む武士が、佐幕派の武士の家を襲撃、家族
皆殺しにした事例もあるようで、のちに尾張徳川家を継いだ徳川義視が、このころの記録が欠け落ちている(焼却されている)ため詳細不明なのを見つけ、歴史編纂の
ため徳川林政史研究所を立ち上げた、という逸話から、徳川慶勝と尊王派と称する重臣の罪状と後ろめたさ(のこされた遺族に明治初年には給付、朝廷ものちに名誉回復
などしています)知られる例など各藩でありましたが、水戸藩程ひどくはありません。この点、破れてひどい扱いをされることとなった東北諸藩では、このような
痛ましい内ゲバが少ない分、救いにも思えます。

とはいえ、そんなことに触れない綺麗ごとの明治維新の大河ドラマ、今回のこの人を弁護するは、天狗党を処刑させた悪役になる田沼意尊。
彼は若年寄として幕府の命令を受け天狗党討伐を指揮。ドラマの中で「関東の200年の太平をやぶりおって」と憎々し気にいう場面がありますが、まさにその通り。
彼が天狗党討伐のため北関東で目にしたのは、天狗党に焼き討ちされた栃木宿、真壁宿などの惨状。なにしろ筑波挙兵後、軍資金や物資集めに協力を求める一方、
従わない豪農や農村を放火、略奪、殺人、恐喝。このため栃木宿はほぼまる焼けなど多大な被害。これを見た田沼意尊など幕府軍が激怒するのは当然の事。
天狗党がどれほど恨まれていたかといえば、幕府の討伐軍が来るとの報と同時に動員された諸藩には被害を受けた町人、農民たちが続々と足軽に応募、更に
物資徴発にきた天狗党や協力した豪農や参加者家を打ちこわしに出る始末。
このため説得に来て首領にされてしまった武田耕雲斎は指揮する上洛部隊の軍規を厳格化、略奪暴行を戒め、支払いをきっちり行う事で信用を獲得、その事で幕府の討伐
命令を受けた諸藩の多くは交戦を避け、幕府に申し開きできるように、軍資金の提供と案内人を付けて抜け道へ誘導、その事で上洛部隊は敦賀まで到達できました。
このため、被害の多い群馬県以東と長野県以西では天狗党への印象が違う事になる。
さて田沼意尊の立場で行けば、北関東の被害の惨状を見れば、天狗党は火付け強盗集団。鰊蔵に押し込め、200名を越える処刑を行うのは、栃木宿などの被害者たち
から見れば、当然の処断であり、けっして彼が悪意を持って決めたとは言えないのです。(この時、関東残留部隊もほぼ壊滅状態、一部逃走して抵抗継続)
とはいえ、彼の処断はここまで、水戸藩内での天狗党関係者や妻子処刑は水戸藩内の事。上は水戸支藩宍戸藩主松平頼徳という藩主一族まで切腹に追い込まれるような
深刻な粛清が続くこととなります。とはいえ、天狗党側の略奪行為は復権した明治維新後も反対派との弘道館戦争や松山戦争でも続き、反対派の方に同情が来るくらい。
このあたり水戸藩主徳川慶篤や慶喜に批判がでるのは仕方ないところです。渋沢栄一も京都に行くのが遅れて天狗党に参加していたら、どうなっていたのでしょうねえ。

綺麗ごとの大河ドラマに綺麗ごとのオリンピック、綺麗はいいですが、悪役にされた人も正当な理由があるという例です。ちなみに田沼意尊は維新動乱を生き残り
天狗党処刑で処罰されることもなく、転封はされましたが、これも徳川家が駿府藩になったための押し出しなので懲罰ではなく、明治に亡くなります。
歴史の一場面だけ取り上げてみてはいけません。その時、その立場でふるまった結果でもあるのです。それではまた〜

11紋章官:2021/07/02(金) 21:12:09
7月です。京都の祇園祭の山鉾巡行、博多祇園山笠は今年も中止。しかし、技術継承のためいくつかの山が組まれるそうです。せめて、それを眺めるくらいは許して
もらたいところ。その中、岸和田のだんじりは実行するとのこと!オリンピックをやるんですから、お祭りもやっていいでしょう。岸和田がんばれ!

大河ドラマでまだ引っ張ります。この人を弁護する。徳川慶喜。前にもやりましたっけ?ともかく、再評価もされていますが、いまいち人気がない。とはいえ、悪評が
あっても、この人の頭の良さと力量は万人認めるところ。通常、亡国の君主、この場合、幕府幕引きの当主ですが、海外の例をひくとだいたい、暗愚、惰弱、無能、小心、
優柔不断等々と書かれますが、徳川慶喜の場合、そこから縁遠いどころではないくらい無縁の人。頭の良さは傑出、判断力も抜群、禁門の変での弾丸飛び交う中での
陣頭指揮に見られるように胆力もある。この人への批判は鳥羽伏見の戦いと大坂からの海上逃亡の一件、その後の職務放棄とも見える蟄居生活。
とはいえ、分析していくと、この人の行動と判断力は合理的で並大抵ではありません。この人、「二心様」やら変わり身の早さを言われますが、他の諸大名、例えば
毛利敬親など「そうせい候」とあだ名されるように、自分では判断せずに家臣の意見を取り入れるようで、実際は自分が手を汚さない大名連に比べれば、自分の判断で
自分で責任を負って果断に行動したのです。それも後継者争いの後遺症で自分への反対派がいる幕閣、政権転覆をはかる朝廷急進派や討幕派大名、自分の思い通りに
動かせる方法が極めて限られた中で、最善の結果を奪い取る。そのためには冷酷非情、マッキャッベリならこれぞ君主と称える手腕を発揮して見せました。
二心殿と呼ばれて、すぐ転向するなどの悪評も、手の内がばれるように心中を他人に知られては君主として失格!故人曰く「君主豹変す」として
変わり身の早さも必要です。何しろ、頼れるのは殆ど自分の力量のみとなれば、仕方ない事です。彼が徳川家茂に代わり紀州徳川家に入り、紀州藩主として慶応までの間
に紀州藩を掌握して、禁裏総督としての乗り込んでいたら、歴史はまったく異なった展開もあったと思われます。何しろ紀州藩が土台になるのですから、強固な基盤を
もって動けます。あまり幕末紀州藩は目立ちませんが藩内に人材はおり、のちの徴兵制度の先駆「交代兵」制度などを行っています。
さて可能性として徳川慶喜は幕閣幕臣の意識改革のためにも大政奉還は必要と考えていたかと思われます。それまでの参与会議潰し、大政奉還後の政務確認、そして
海外公使団からの正当政権担当者確認、彼は武力を使わずに常に有利な立場を築き上げているのです。それに様々な判断を独断で行っていますが、いちいちお伺いを
たてて機を逸しないように独断専行で成果を上げただけの事。鳥羽伏見合戦後の海上逃亡も、まずは体一つで逃げれば巻き返せるとの判断です。織田信長だって、
金ヶ崎の撤退戦では主力軍を残して、少数で一気に京都へ脱出しています。それだけに岩倉具視、桂小五郎や大久保利通などが徳川慶喜を危険視するのは当然。
殺さないといつひっくり返されるかわからない、と恐怖心をもって武力追討軍を送り出したといえます。
そこで徳川慶喜は寛永寺に蟄居、後を仲の悪い勝海舟に任せ、自分は一切口を挟まない徹底さ。できませんよ。普通。家臣にあれこれ指図しようとするのを
まったくしなかったのですから。正直、徳川慶喜は幕臣、幕閣にあまりよく思われていないまま、徳川家当主、将軍職に就任したのですから、そもそも針の筵の上。
小栗上野介もあまり気が合わなかったようですが、どちらかいえば勝海舟の方が互いに嫌っている。相手の力量は評価していても!
とはいえ、冷静に徳川慶喜は倒幕側に顔が売れていて交渉できる勝海舟を選んで全権委任したのですから、その判断力の正しさは間違いありません。ただ、徳川慶喜の
気持ちは秦の幕引きをした公子嬰と同じだったかもしれません。これ以上の戦火回避に終わらせる。
最良は徳川家茂が長生きして勝海舟、小栗上野介など幕閣をまとめつつ、徳川慶喜が後見役のまま禁裏総督や参与会議で諸藩を翻弄、大政奉還で幕府は終わっても、
新体制会議で徳川家茂が首座に据えて、徳川慶喜は相談役に回り、戦火なき近代化が図られる、という事だったかと思われます。
そうはいきませんでしたが。さて長くなりましたので、ここまでに。まだ次回も引っ張ります。それではまた。

12紋章官:2021/07/09(金) 20:09:57
大雨お見舞い申し上げます。梅雨末期、7月上旬の災害が定例化です。ともかく死者さえ出なければ、とは思うのですが。

さて徳川慶喜の続き。この人の徹底ぶりは静岡への隠遁生活にも見られます。徳川宗家を徳川亀之助に譲り、屋敷に引き込もる。そして趣味の世界、自転車、
絵画、写真などにふける。それも静岡についてきた旧幕臣、さらに箱館まで抵抗した旧臣が来ても会わないと冷たさを見せますが、彼にしてみれば、これも自分と
旧幕臣を守る最善の行動。変に旧臣たちを援助やとりなし、面会などして、反政府の動きと言いがかりをつけられないようにするには、なんと言われようと
自分が嫌われるように行動するしかない。それこそ新時代に乗り遅れた人々が元将軍を担ぎ出そうとしてもおかしくない。その危険性を彼は十分理解していたのです。
その事で、旧幕臣たちもおとなしく新政府に従い、運命を切り開ければよい、それが最良の手でした。実際、新政府の高官は榎本武揚と勝海舟が大臣級になるのが
精一杯でしたが、明治中期までは家茂・慶喜時代の幕政改革などで知識、技術を身に着けた旧幕臣が政府中堅から上級までの官僚をしめました。
このあたり、逆に討幕した薩長で反乱を起こしたのと好対照。慶喜があきらめて新時代に適応するように間接的に促した結果と言えます。
そして、それをできなかったのは、西郷隆盛。薩摩に引退後、私学校設立までは人材育成と士族に時代への適応を求めたものでしたが、それが逆に政府に反発、
むしろ勝者だけに不満を募らせた士族の拠点となってしまい、西南戦争へと発展します。私学校生徒が政府弾薬庫を襲撃した際に西郷がとるべきだったのは、大坂から
単独逃亡した徳川慶喜同様、船で琉球か大阪へ逃亡することでしょう。そうすれば、担ぐべき象徴を失い、気勢がそがれ、また各地から士族たちが参戦することなく、
私学校暴発事件として短期終結した可能性はあります。しかし、西郷隆盛はそこまで冷徹な判断はできず、情に流されたといえます。
静岡で隠遁生活中の徳川慶喜は、この一件を聞いた時、どのような胸中だったでしょうか。嘲笑承知で引き取められない船で大坂から脱出を選択した際の事を思い返し、
深々とため息をついたかもしれません。見捨てることができなかったか、と。その事で西郷は九州中部から南部を戦火で覆い、自決するも英雄として名を残し、慶喜は
不人気不名誉を甘受して、江戸までの東海道一帯などの戦火を回避しました。さて、真に勇気のあるのはどちらか、今一度見直してみませんか?それでは

13紋章官:2022/01/29(土) 08:48:20
1月も終わりますねえ。コミケから1か月。郵送申込書のお金を振り込んでおいたのですが、どうなのでしょうか?

さてこの人を弁護する。後白河法皇を取り上げます。まあ、評判は良くない方でしょう。平氏、源義仲、源義経と次々乗り換え、九条兼実に「暗主」と批判される。
しかし、です。この人の行い、時々の情勢に応じ、身を守る選択と行動をとったのです。彼は白河院政に始まる院政時代に集積、系統で分裂した荘園領を整理、その
相続を定めましたが、それは批判的な九条兼実も「道理である」と、その妥当性を認めています。
九条兼実は政敵というだけでなく、基本、後白河法皇と仲が悪い。おそらく、そこには後白河法皇への軽蔑的な視点があったものと思われます。
それは本来、後白河法皇が傍流の存在。それが近衛天皇死去で、急遽、リリーフで即位した存在であること。近衛天皇病弱で、早くから後白河法皇の息子が後継候補
として美福門院一派に保護されていたので、当人にしてみれば、皇統や政治からは引き離され、兄崇徳天皇と弟近衛天皇に挟まれ、その分、身軽に遊ぶ事に集中できた、
といえます。それが保元・平治の乱で都に残る唯一の上皇となり、美福門院派に擁立された息子、孫の早い死去を受けて対抗の存在がなくなる。
それだけではありません。彼は巧みに動いています。平治の乱後に息子を支える一派により、見物桟敷を封鎖される辱めをうけると、平清盛に泣きつき報復しますが、
その際には、関白藤原忠通を誘って同行させています。これは美福門院派が白河院政から権力を固めた中堅受領層貴族、それは摂関家御堂流と対立する閑院流が中心で
あり、対立していました。そのゆえ、反感をもつ藤原忠通を同行させ、平清盛が断れないように追い込んだといえます。
なにしろ系譜上では平清盛は白河院政からの歴史をたどれば、本来、美福門院派の系統に属するのです。当然、天皇近臣を固める貴族たちとの対立を避けることを
考えるでしょう。それを見ぬいていた、といえます。このあたり、彼の政治的センスが見えてきます。長くなりますので、また次に。それでは

14紋章官:2022/02/04(金) 20:35:40
今日から冬のオリンピック、まあ、いいのでは?というところ。

後白河法皇の続きです。リリーフ役から否応なく朝廷の中心に座る事となった彼、その彼が平清盛と結びつきを深めていくのは、当然の事。そこには関白藤原忠通
も賛同していた事は、共に清盛のところに出かけたことからもわかります。不利な立場は摂関家も同じ事。保元の乱で弟頼長を死に追いやり、父忠実を完全に
逼塞に追い込んだものの、摂関家は打撃を受け、美福門院派受領層の前に地位を低下させます。
そのため、彼もまた対抗上、提携先が必要となり、平清盛に接近したと言えます。それに忠通は男子誕生が遅かったのが、その後、次々と男子が増え、いわゆる
五摂家に分裂する原因を作ります。彼の子供で、近衛、松殿、九条が成立。松殿家は早くに断絶するも、忠通死後は、この三家で争います。その中で、当主が若く
早く死去する近衛家が継続するため平盛子に所領継承させるのは、近衛家家人たちの利害とも一致、決して平清盛の無理押しではないことがわかります。
さて、このように摂関家が動揺、分裂して弱体化する中で、後白河法皇は平清盛と提携を深めるのは当然の選択となります。
さて美福門院の死後、その遺産は娘の八条女院が継承、当然、受領層の中心に立ち、次第に利害対立が生じてくる。それが以仁王を養子に迎え、彼の挙兵を推す
背景となります。とはいえ、平清盛は八条女院には手を出していません。一方で後白河法皇、院政開始のため平滋子との息子高倉天皇を即位させますが、この辺り
は先例があるところです。
すなわち白河法皇の崇徳天皇擁立です。白河法皇、いかにも絶対権力者に見えますが、それは晩年の事。それこそ立場は後白河法皇と同じ傍系、リリーフから
権勢を握ったのです。しかも遊び好きも同じ。という事で、その話はまた次に。それでは

15紋章官:2022/02/11(金) 21:03:14
三連休、始まりが雪で終わりも雪なのでしょうか?せっかく重要刀装具になり展示されている自分のものを刀剣博物館に見に行けない!なんてこったい!

さて白河法皇、院政開始から絶対権力者に見えますが、それは晩年のこと。前半生は強力な対抗者の存在により常に脅かされていました。しかし、それは
摂関家ではありません。最初は父後三条天皇、次は祖母と母違いの弟、そのあとは息子堀河天皇、そしてその際、提携したのは藤原摂関家!
そもそも白河法皇は生誕時の地位は低いところで、父後三条天皇は別な皇子を皇太子にと考えていたと言われています。
ところが、その皇子が幼く死去、更に後三条天皇が摂関家の巻き返し回避のため、ある程度の年齢になっていた白河法皇を皇太子にして、にわかに譲位、
その際、白河天皇に腹違いの弟を皇太子にすることを強制。これを白河天皇を受け入れます。譲位して後三条上皇の意中は、この異母弟でゆくゆくは、
成長をまって白河天皇に譲位させることでした・ところが、譲位後に後三条上皇がにわかに病に倒れ崩御!そこで白河天皇は行動の自由を獲得しますが、
この皇太子の異母弟と彼を推す後三条上皇の母院である自分の祖母が政敵として存在する事となります。
そのため白河天皇は後三条天皇と牽制と閑院流藤原家の成長で地位が揺らいでいた藤原摂関家と提携、対抗していくのです。そしてこの異母弟が急死した
ところを捉えて、幼い実子を皇太子に擁立、すると即日譲位を決行、異母弟一家を皇統から押しのけ幼い堀河天皇の後見として摂関家と手を組んで権力を
握ります。ところが、異母弟一家排斥に成功するも、摂関家の代替わりし、堀河天皇が成人すると、今度は堀河天皇が代替わりした摂関家と提携、白河上皇
が政治の中心から排除されます。ただし、元来、白河上皇は遊び好き、白河や鳥羽の地に遊興の別邸を営みます。
ところが、若い関白、更に堀河天皇が相次いで病死した事で、孫の鳥羽天皇が即位、また摂政に藤原忠実がつくこととなりますが、忠実は摂関家嫡男とはいえ、
まだ16歳と若すぎ、正式な摂政にはなれず、事実上は摂政心得という不安定な立場。このため天皇の祖父である白河法皇の地位が圧倒的になり、それまで
異母弟がわにいた閑院流藤原氏も従い、権力を固めるのです。まさに時流が彼に味方したといえるところで、いわゆる院政の成立は偶然の産物と言えるのです。
それゆえ鳥羽天皇が成人して親政を志向すると、曾孫の崇徳天皇に譲位させて権力を維持、鳥羽上皇を排除します。
このため、白河法皇死後に鳥羽上皇が主導権を握ると、崇徳天皇から近衛天皇に譲位させたのは、鳥羽上皇の地位強化策であり、崇徳上皇の巻き返しは当然想定
される争いが朝廷内にあったのです。なにしろ近衛天皇が同母妹の八条女院と異なり病弱で子供がなせないと早くに見られていたからです。
そして、この流れの中で、崇徳天皇の同母弟であり、近衛天皇の異母兄である後白河法皇は蚊帳の外、それを幸いに今様狂いの遊び人として気軽な立場でいたと
思われます。ところが、彼の息子が近衛天皇の母美福門院に目をつけられた。それは幼い事で近衛天皇の養子候補に選ばれる。何しろ崇徳上皇の皇子には皇位を
渡せない、近衛天皇に子供が見込めない、となれば、後白河法皇の元気な皇子を擁立するしか選択肢はないところ。しかも後白河法皇は父鳥羽上皇があきれる程
の今様狂いの遊び人とくれば、警戒する事もないので、心配もなかったでしょう。こうして目立たない脇役だった人が、朝廷の中心に押し出される羽目になって
いくわけです。そではまた次回

16紋章官:2022/02/19(土) 09:00:26
なんだか2月の土日になると雪か雨の予報ばかり。まあ、家でおとなしくしていなさい、という天の声か、と思うばかり。大人しく冊子を書いていましょうか。

まずは前回の間違い訂正。すみません、藤原忠実が父の死去時の年齢は22歳。摂関最速就任した時の藤原頼通の年齢は26歳。それも父、藤原道長が健在で
後見を受けられたのと違い、更に閑院流藤原家などの成長に脅かされている状態。それでも白河上皇との提携関係、更に摂関は御堂流藤原家の独占という認識
が堂上公卿に広まっていた事で、かろうじて地位を維持、そして忠実が失脚、息子藤原忠通にかろうじて関白職を譲るも、後見と実権を掌握する「大殿」、すな
わち摂関家での「院政」が構成されます。この「大殿」制は藤原忠通も踏襲しますが、近衛、松殿、九条と3家に分裂する事で断絶します。
この場合、藤原忠実は宇治に隠棲に追い込まれる分、朝廷での政務儀礼を藤原忠通が執行、その政務の時間を藤原忠実は摂関家所領の整理集積に当てることができ、
保元の乱直前には「殿下渡領」の他、宇治殿領とも称される荘園領集積を達成、上皇や美福門院に比する富を集積したのです。
どうしても、藤原忠実のこの点は触れないわけにはいけない、彼の重要な仕事です。白河上皇や藤原忠通と藤原頼長に挟まれ、目立ちませんが、彼は摂関家の
新しい道筋を失脚による宇治隠棲を奇貨に考えたことを評価してよいかと思います。あれ、また脱線。それではまた

17紋章官:2022/02/25(金) 20:29:38
ロシアのウクライナ侵攻。ため息をつくばかりです。まあ、ソ連以来の伝統ですが。フィンランドの冬戦争の場合、戦争初期に占領地に傀儡政権を立てて、正当化
をもくろみましたが、フィンランド軍の奮戦で膠着状態に陥り挫折。ただし、フィンランドの払った犠牲は大きく、独ソ戦参戦による継続戦争に突入、そしてドイツ
敗戦で他の東欧諸国と同様にソ連の管理下に入るところを、政治と軍に人材を得てかろうじて回避。ソ連の影響で社会主義政党を政権に加えることがあっても、基本
自由選挙による民主体制を維持、ソ連崩壊まで実に絶妙な地位を保ったところです。大いに学ぶ点があります。
フィンランドに学んで行動すれば、また異なった事もあったでしょうに。日本も大いに学ぶ必要はあります。しかし、政治家や外交官に、これをできそうな人が
見えない・・・

さて後白河法皇、彼もウクライナと同じです。リリーフで地盤が弱いところ、藤原摂関家、平清盛、源義仲、源頼朝と提携や駆け引きを繰り広げます。当人にすれば
予想外の人生だったでしょう。さて、彼に幸いだったのは、源頼朝が都志向で娘の入内等を望むも、必ずしも都に居座り、朝廷の政権中枢を掌握することを指向
しなかったこと。もちろん、そこには東国武家自治区、いわゆる上総広常や千葉常胤などのよく言えば地盤第一主義、悪く言えば土着性により、坂東自立を確立
すればよい、との武士団の意向もあったでしょうが、頼朝自身も娘の入内による朝廷への足掛かりを望むも、九条兼実との提携に見られるように、彼自身が朝廷で
位人心をきわめて、平清盛のように政権掌握を目指さず、あえて朝廷の事は朝廷に任せて、自分は鎌倉で専念する方針だったのは確実です。
なにしろ、右大将権大納言の公卿官職をあっさり辞官して鎌倉に帰還しています。彼の都育ちの経歴や、そもそも源氏は都の軍事貴族だった性格を考えると、大変、
不思議なところです。公卿として、そのまま都暮らしをする選択肢もあったはずなのに、です!それを考えれば、源頼朝は明らかに都の朝廷から一定の距離をとり、
影響力をもつことを志向したと言えます。その中で、源義経は京都に滞在、検非違使になり官位を進める。それは旧来の源氏の姿であり、昔の朝廷の軍事貴族だった
状態への逆戻り、もちろん、それは後白河法皇を含めた朝廷公卿の希望する姿。おそらく、源義経は源氏は当然、そういうもの、という意識があったかと思われます。
そこには、都の美女より選ばれた美女、九条院女房「常盤」を母に持ち、義父に一条大蔵卿長成をもったことで、頼朝以上に公卿達と近い立場が自然と、そういう
意識を醸成してもおかしくありません。当然、それは義経が頼朝とってかわれる地位を朝廷に認められていることを意味します。あ、これは別件なので、また脱線
してしまった。という事で、今日はこれまで。それでは〜

18紋章官:2022/03/04(金) 21:03:57
ただただ祈ることしかできませんが、冷静に、冷酷と言われるほど冷静に、事をみる心得が必要です。第2次世界大戦中、自国の平和維持を唯一の目標に、
ノルウェー、デンマークがドイツに占領されようが、フィンランドがソ連軍の侵攻で苦しもうが、救援要請に耳を塞ぎ、逃げてきたエストニア兵をソ連に
強制送還、自国安全第一主義で周辺諸国どころかアメリカなどからの罵声、侮蔑、嫌悪を甘受して、第2次大戦の戦火を回避、不法占拠された領土返還を
勝ち取る武装中立を貫いたスウェーデンの苦渋のふるまいに学ばねばなりません。

さて苦渋の道筋は後白河法皇も同様。平宗盛に東西での源平鼎立による和議を提案したのは、彼のバランス感覚と共に討伐による滅亡までは考えていなかった
現れでしょう。もちろん、片方だけのこり強くなると困る、というのが本心としても、それで事態の収拾を図ろうとしたことはわかります。
有名な神護寺三像、伝源頼朝像の由来になった後白河法皇が描かせ、収めたという4人の画像。それが藤原氏だけでなく、平重盛、源頼朝を含めていたという
のは彼の夢、朝廷のあるべき姿という彼の夢の現れと言われますし、実際、源平藤橘のうち、橘氏は脱落していますが、有力家門を統率する朝廷という政権
構想だったといえます。平氏滅亡で、そうはなりませんでしたが。源義経登用は、その本来の構想の一つだったかと思われます。
おそらく、後白河法皇には源義経を立てて、頼朝に対抗という事は考えていなかったのではないでしょうか?
単純に検非違使任官、伊予守(もちろん受領として)、従五位下叙任、これは後白河法皇や周囲にしてみると、軍事貴族源氏嫡流への当然の処遇だったかと
思われます。まずは検非違使は本来、武士が都の警備役を担う中では当然の事。それに義経の場合、母の再婚相手、一条大蔵卿藤粟長成の義理の息子という
立場もあり、都に通じた人物として任された、とも取れます。また伊予守は伝統的に、受領層への待遇で武家に任されることが多く、左馬頭になる前に源義朝も
叙任されています。本来、頼朝が受けててもいいのでしょうが、すでに東国の管理権を任せているので、今更与えても、という事で都暮らしの待遇に与えた
とも言えます。そして従五位下の官位。これも父祖の先例と在京の地位がなした事と、思われます。本来、官位昇進は在京が原則。いわんや従5位となれば
御所への出仕が前提。それに実父源義朝は従四位、義父藤原長成が正四位となると、その関係での蔭位でこれくらいは当然、という感覚があったかと思われます。
おそらく、それで朝廷に出仕する体裁を整えた。その程度だったと思われます。何しろ、御所に出入りするには、官位が必要で、しかも義父が公卿となれば、
その義理の息子を無位無官にすることは朝廷の「常識」、藤原長成の立場を考えれば、できないのです。さて、長くなっているので、また次回

19紋章官:2022/03/18(金) 20:48:52
16日夜の地震、被害にあわれた人たちにお見舞いを。そして私たちは震災の教訓を!自然災害は身近に感じていると思いますが、戦争とて同じです。

さて戦争の時代を生き抜く後白河法皇。まずは訂正。源義朝は伊予守にはなっていませんでしたね。播磨守でした。ちなみに伊予守や播磨守は有力受領の任地。
瀬戸内水運と豊富な産物で収入がよかったことによります。それだけに源義経は平氏没官領とはいえ、伊予守に叙任する事で、過去、平家が担っていた都の
軍事担当者としての当然の扱いといえます。それに、そもそも頼朝も範頼に平家追討、義経に京都治安担当と割り振っていたのです。
そこには都育ちで公卿につてを持つ義経の方が活動しやすいのは間違いなく、後白河法皇や九条兼実など朝廷の大勢も同様に藤原長成の義理の息子という義経の方
が安心だったでしょう。それこそ、地方育ちで縁のない範頼だと、朝廷で見下されることや、ふるまいを失敗する危険性がありますが、義経の場合、藤原長成だけでなく、
常盤が仕えていた九条院呈子の庇護も期待できます。そのような後見をもつ義経を朝廷も無下にはできません。
この点で頼朝よりも義経の方がよほど有利です。このなまじ、藤原長成という義父を持つことで義経もごく当然の事と考えていた可能性が十分あります。
それに、伝承よりも義経は常盤の手元で長く暮らしていた可能性があります。
それは長成と常盤の間の息子、義経の義弟二位侍従能成は、後に義経が頼朝に追われて都落ちする際、当初、従者を連れて同行しています。
それだけ仲が良かった事のあらわれと言われており、子供の頃、長成邸で一緒に育てられていた事が想像され、それだけ義経は朝廷中心の暮らしがしみ込んでいた
とも考えられます。それは平泉に行っても同じ事。独立勢力をもつ藤原秀衡と共に、長成の従弟の息子藤原基成の世話になっています。事によると、長成の依頼で、
朝廷の礼儀作法や学問などを基成が指導、兵法、武芸は藤原秀衡とそれぞれに学んでいたことも考えられます。だいたい、基成の弟は誰あろう藤原信頼。
基成にすれば、弟の事があり、義経の「亡命」を藤原秀衡にとりなしたと言われるくらいですから、基成から後白河法皇や都の公卿達にとりなしや誰かしら、都で
相談に乗れる気の利いたものをつけていてもおかしくありません。
それらで後白河法皇は安心、源義経は朝廷に奉仕するのは当然という様子を見て、従来の軍事貴族としての処遇をしていく、というところだったと思われます。
ですから、後白河法皇たちの立場にすれば、頼朝への対抗馬と操ろうとした、というのは、その時点では考えていなかったのではないでしょうか?
長くなりましたので、また次に

20紋章官:2022/03/25(金) 20:51:03
3月もまもなく終わり、新年アニメの平家物語、一挙2話放送で終わりました。おごれるものは久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、猛きものもついには滅びぬ。
ひとえに風の前の塵に同じ。諸行無常を歌いあげる物語は大原御幸と建礼門院往生の場面で静かに幕を引きます。ロシア語版を製作して輸出してはどうでしょうか?

長々と続きます後白河法皇。源義経登用も見方によっては、源頼朝を尊重した行動だったと言えます。そもそも義経が都にきたのは、頼朝の命令で範頼と共に遠征軍を
指揮、そして平家追討を範頼、都は義経と担当を采配したのも頼朝。つまり、頼朝は義経を都での代官に据えたわけです。そこには、先に触れたように義経の義父
藤原長成を仲介役に朝廷との交渉、折衝を期待した事が十分、考えられます。というか、当時、唯一の選択肢と言えます。他の坂東武士では、朝廷と交渉したくても、
そもそも法皇、公卿たちにとっては、平氏や源氏に従う存在であり、まともに相手をしてもらえるか、交渉ができるかは、源義仲の例を見ればわかるものです。
もちろん、頼朝の親戚三善家などが出てきても、朝廷序列では中下級公家。しかし、藤原長成は中級でも大蔵卿になれる地位。のちに北条時政が朝廷との交渉役を
担いますが、それには後妻牧の方の実家牧家という都の公家に伝手を持ってことがあっての事と思われます。
話し戻し、このようにもともと、頼朝の代官義経、役目が都の治安維持、平家追討後に引き続き都駐留で任に当たるとなれば、いつまでも無位無官で任すわけにもいかず
仕事がやりやすいように、叙位任官は自然な流れになります。むしろ従来の検非違使庁が機能している中では、無用な摩擦をさけるためにも義経に検非違使を任官、
そのため叙位を行い、業務の円滑化を図るのは、当然の事であり、頼朝に対抗して擁立や抜擢というほどではありません。
検非違使が完全に終焉するのは、室町幕府が都に開かれ、侍所がその権能を吸収した時なのです。それだけに朝廷の検非違使の権限が機能する時期に無官の義経が活動し
ては、それこそ衝突や調整問題が出てくることで、その解消を目指す実務的な手続き、また伊予守も検非違使になったので、職務担当手当の意味合いもあります。
なにしろ知行国制は官職手当は知行国から得て、必要経費を賄うのです。伝統的公卿層なら荘園などありますが、検非違使に任官した義経には自前の荘園もない。しかし
検非違使として自前で郎党などを養うために、伊予国の知行(年貢)を得る権利を与えられた、という意味合いもあるのです。
これも当時の朝廷の運営を理解すると見えてくるもの。それゆえ、後白河法皇たちにしてみれば、頼朝の権限を認め、その承認の意味合いを込め、頼朝が都においた、
義経に必要な官職を与えて役目を任すことを受け入れた事を示す行為となるのです。

さて長くなりましたので、またこの辺りまで、しかし、アニメ平家物語で平資盛は生存をにおわせる扱いでした。まあ、一番逞しいというか、図太いキャラでしたから。
それに平家物語では壇ノ浦での入水者に入っていますが、他では死亡者の名前に入っていないんです。ひっそり、生きていてもおかしくありません。それでは

21紋章官:2022/04/01(金) 22:50:12
4月を迎えました。桜も満開。一方で花冷えの寒気。戦火のニュースは続き、何かめげてきます。

さてかなり話が膨らんでしまいました。後白河法皇。弁護するよりも取り巻く環境を解説する範囲が広い事は、それだけ彼が生きた時代の変動の大きさを示しています。
それゆえ、本来、源義経への官位授与も実務上の必要と義経を通しての頼朝への懐柔策だったとみるべきです。それは上洛を促す意味合いもありました。
義経に検非違使なら、頼朝にはさらに上位の任官をするよ、というメッセージだったかと思われます。後白河法皇には、源頼朝を排除や義経を対抗馬にする意図はなく、
平清盛ほどの権勢は回避しつつ、妥協による取り込みを意図していたと思われます。
しかし、それが予想外の方向、頼朝の激しい反発にあい、義経と頼朝が決裂、そのため義経が後白河法皇に頼朝追討の院宣を求め、それに応じる事となります。
そして義経の都落ち、そして北条時政が軍勢を率いて入京すると、それを取り消し守護地頭の認可を与える。手のひら返しの行動となりますが、その後の義経追討命令
や奥州藤原氏追討の院宣交付を伸ばしていたのは、彼なりの意地だっかと思われます。
ただ考え方として、院宣を交付する事で、逆に許可を出したのから、命令を聞けと牽制、介入する方法もあったかもしれません。一つには、頼朝追討の院宣を義経に
与え、そのことで上位者として都からの退去を命令できたと言えます。ただし、頼朝へは、それが効果的だったか不明ですが。
さて、奥州藤原氏滅亡を受けて、後白河法皇はどのような感慨だったのでしょうか。崇徳上皇の流罪、藤原頼長の横死、藤原信西の首が晒され、藤原信頼の処刑、
平清盛の熱病死、そして孫の安徳天皇を含めた平家一門の入水自殺や処刑、勝利者だった源義経の没落、そして長く交流のあった奥州藤原氏の滅亡。
見知り、繁栄や強さを誇った者たちが次々と姿を消していく。それだけに、後白河法皇の遊興も、明日は我が身と思えばこそ、だった事かと思います。
それだけに東大寺大仏再建に助力、押し寄せた民衆が握る紐の先の筆を握り、開眼供養に臨んだ気持ちは、民衆と共に戦乱の終わりと往生のための結縁を望んだ、
生き抜いた者による供養と救いへの希求だったのかもしれません。予期せぬ即位、それは息子が美福門院の猶子に選ばれたときは、到底、想像できない展開だったかと
思われます。それはあくまで病弱で子供が期待できない近衛天皇後継の為で、その時点で息子の事はあきらめ、自分は自分と思っていた事でしょう。
まあ、天皇の実父には違いありませんから、小一条院のように院号は無理でも、しかるべき地位と待遇は望め、あとは気の向くまま道楽に勤しむ、その程度だった
でしょう。それでも、彼は朝廷の中心として、その後の役割を果たしたと言えます。平凡ながらもその生き抜いた実力を評価してもよいと思います。それでは。

22紋章官:2022/04/15(金) 20:48:16
戦雲重く、ただため息しか出ません。どうなることか。ただ祈ることしかできません。

さてこの人を弁護する。源頼朝。ただ同族殺しの点は源氏の宿命で逃れませんでしたが、案外と他者に優しいところはあります。大河ドラマでは悲劇の御曹司
源義高登場と上総広常の暗殺による粛清時代の幕開けとなります。この点、頼朝は容赦はありませんが、どうも源範頼は謹慎のまま死去したようで、殺しては
いないようです。それに対し義経は先に触れました義父藤原長成による朝廷との独自交渉可能な点で政治的にも頼朝にとってかわれる存在だったことで粛清した
と言えますが、範頼はその点、遊女を母に持つことで政治的に脅威にならないのが幸いしたというところでしょう。この点、源義仲も同様。
大河ドラマでは不器用な好人物。それで悲劇に陥るところですが、同時に朝廷との交渉、窓口が叔父の行家だったのが、不幸だったと言えます。
ちなみに吾妻鏡では義経について御家人達の評判も良くない事が記されていますが、その首を検分した御家人たちは嫌っていた者たちも皆を流した、という
ので、共に戦場をかけた思いは、好き嫌いを越えたものだったものだったでしょう。
さて、頼朝は同族は情け容赦なく排除しましたが、一方で敗れた平氏、棟梁宗盛、清経親子の処刑は行いましたが、他は案外と寛大に取り扱います。平重衡の場合、
当初、頼朝は助命流罪のつもりだったが焼き討ちされた南都僧兵の強い要求で政治的な理由で助命を断念、重衡を引き渡し処刑となりましたが、その重衡の首を
切った僧兵の無慈悲ぶりを聞いて激怒、その僧兵の首を切れと命令を発しています。また平維盛の嫡男六代御前、都で母、妹と共に母方の家に潜んでいるのを捕らえ
ましたが、文覚上人の懇願で助命、この平家直系の少年は命を助けられ、文覚が罪科に問われたとき、またはその死後に殺されたとも言われますが、実際は文覚に
連座して流罪にはなったようだが、殺されずに静かに生を終えたと見られています。
もちろん命の恩人、池禅尼の子供池大納言頼盛一家の保護は言うに及ばず、平清盛の近臣で壇ノ浦で捕らえた平盛国には助命どころか、仕えるように説得しています。
平盛国は断り、絶食して餓死を選んでいます。それに能登の時国家など、結構、生き残った平家一門に寛大な態度をとっています。宗盛親子の処刑は平家一門棟梁
ゆえ、その責を問うための処置といえ、もし宗盛が棟梁でなければ、先に見られるような害のない人物として流罪で生きながらえた可能性は十分あります。
それに義経を匿った僧侶を捕らえて尋問した際、僧侶が逆に兄弟仲を説いたことに感服、かれを祈願寺に召し抱えています。もちろん、静御前に激怒していますが、
身重の状態で殺しておらず、子供も娘ならば助けると譲歩を示す。もちろん、これには北条政子のとりなし、といよりおそらくは源義高の教訓で猛烈にまくしたて
かもしれませんが、決して信長秀吉張りの根絶やしまではおこなっっていません。さて、これをどう見ましょうか?それでは。

23紋章官:2022/05/18(水) 20:30:46
戦局が変わるのでしょうか?これから冷酷な見方をします。マウロポリに集中させ出血を強いて時間を稼ぎ、欧米からの豊富な支援物資で再武装化と編成を整え、反転攻勢。
冷徹な戦略としてありうるものです。今回のスターリングラードとなりうる可能性があります。さて。

この人を弁護する。梶原景時。今回の「鎌倉殿の13人」、明るく陽気な三木谷脚本のイメージは完全一掃、冷酷に次々と容赦なく子供も消していくストーリー。
但し、極端な悪人はいませんね。しいて言えば悪だくみする後白河法皇と源頼朝が悪役ですが、頼朝は「どうして人を信じられる?」という意味の和歌を残すほど、
猜疑心の強かった人です。ただ、これも源氏の同族殺しの業の深さゆえと言えますが、その忌まわしさに源実朝が源氏の血、窮まれり(滅亡のみ)と厭世的になるのは
仕方ないところです。とはいえ、一方で全体に好人物の源義仲、エキセントリックながら平宗盛親子に最後の面会を許し、農民に恩返し壇の浦では、殺した水主たちを
手厚く葬るように指示する源義経、また坂東さんの好演する北条時政も田舎武士の粗忽さと善良さを持つ戸惑いながらも地位上昇に役割を果たしていく人物として
描かれています。それこそ太平記の時の、武田鉄矢さんが好演した楠木正成に比するものと言えます。
さて、その中で中村獅童さんが演じる梶原景時。この人も、今回、好意的に描かれています。セリフでは言わせているように、この人、同時期の坂東武者とかなり毛色の
異なる頭の回転が速く、周囲から誤解や嫌われやすい人物でした。とはいえ今回、義経と逆櫓論争などしても、そのあとで義経の発想にかなわないことを認め、義経も
意見がぶつかっても、自分のことを唯一理解できる人物と認める、今までにない関係を描いています。
吾妻鏡に描かれる景時の人物はあまりよくない。上総介暗殺、義経の扱い、そして奥州征伐後の由利八郎への尋問での畠山重忠との態度の違い、傲慢な陰謀家というのが
定番の評価。それが最終的な御家人連判による弾劾と失脚。ところが北条氏の手によらない、京都の玉葉や愚管抄など朝廷側の記録を見ると、北条氏による追い落としの
気配が見えてきます。実際のところ、彼は頼朝が評価する実務能力、都で公家と交際できる教養や技芸を備えた人物。
何しろ、静御前が鶴ケ岡八幡で舞った時に、畠山重忠と共に囃子方を務めた技能の持ち主。まあ、畠山重忠の場合、静御前が笛を重忠ならと舞う事を承知した逸話もある
程、その際、幾分、頼朝と坂東武者への反発、嫌みもあったのでしょうが、心得もない田舎武士の囃子などお断りと言ったとされる中で、重忠と共に選ばれて静御前も
受け入れているのですから、彼の技芸の腕は都でも通用するものだってのでしょう。とはいえ、根は坂東武者。傲慢な所があるのは、地は隠せないといえます。
今回の義経排除も、野心がない事を認めつつも、両雄並び立たずとして義経排除を選んだことを言わせているのも、その頭の良さと、そこで頼朝並みに冷徹な判断を下せる
他の坂東武者と一線を隠せる政治家的人物と描いています。なにか、戦国時代の松永久秀を思わせるところです。まあ、こんな中でもまれていけば、義時も腹黒になるわな。
そうか、北条時政の失脚も、この調子行けば、政治から離れて昔の田舎武士に戻りたい、という時政の行動として描かれるかもしれません。大庭景親の出家も領地争いの
判定に不服での行動とされますが、どこか鎌倉に疲れて身を引く行動して描かれるかもしれません。老荘の思想に身の引き方の考え方に、こういうものがあります。
楚の宰相が死の床で息子に遺言する。自分の死後、功績に報いて王から都近くの豊かな領地を与えることを言われるだろうから、それは断り、辺鄙な貧しい土地を
もらいなさい。豊かな土地をもらうと、周囲から嫉妬され、王はそのうち惜しくなり、取り返すために罪を被せて没収するだろう。しかし、辺境の貧しい土地なら、
誰も嫉妬しないし狙われない、王も取り返そうとも思わない、それが安寧の知恵である。と。息子は、それに従い、王や周囲に笑われながら辺鄙な土地をもらい、
移住、その後、別な貴族が最初に提示された土地をもらったが、父の言ったように周囲に讒言されて罪をかぶされて領地どころか家まで潰され、その後も王家の内乱
などで荒れてい行く中、その家は辺鄙さ故、誰にも狙われず、安寧を保っている、と。処世術として興味深い話です。梶原景時、身の引き時を誤ったという
というところでしょうか?早すぎても、追討の可能性はありますが。それでは

24紋章官:2022/06/03(金) 21:01:29
6月を迎えました。昨日はイギリスでエリザベス女王在位70年記念式典の華やかなパレード。ちょうどコロナ渦からの解放感もあり、一段と盛り上がっている
ことでしょう。それこそ、ウクライナの戦争の不安を一時、忘れるために。

さてこの人を弁護する。今日はありふれたところですが、石田三成。すみません、丸亀のメイストームさん、突っ込み放題してください。多くの方がいろいろと
弁護となる再検証をしておられますので、ここで取り上げるのは、次の1点についてのみ。
関ケ原合戦の時、小早川秀秋に関白任官を提示した、ということ。先に小早川秀秋の立場で、関白秀次の例から自分を殺す気か、と疑心暗鬼、反発したと論証しま
したが、石田三成の立場で見直すと、まったく別、豊臣秀頼の関白就任のために実務的に小早川秀秋に任官を要請したとも考えられることです。
これもコミケでの新刊「関ケ原ー徳川家康の自衛戦争」の中で、徳川秀忠の関白任官の可能性の論証で軽く触れましたが、豊臣関白家継続のために小早川秀秋の
関白就任は自然な選択となります。先に豊臣秀吉が朝廷の関白争論というひょんなことから、関白就任、そして新しく関白職につける家系たる姓「豊臣」を与えられ
藤姓五摂家と同格の家を興しました。そして秀吉は関白職を豊臣秀次に譲り、更に秀次切腹後も関白職を空席にして、前任である太閤の立場で代行を行使する。
もちろん、これで関白になれると期待していた五摂家は内心不満。もちろん、本来、関白職は非常職なので、いなくても通常の最高官位左大臣を中心に運営や実務は
行えます。しかし、陣定など事実上、関白なしでは動かない状態。何かと不都合がある。しかし、関白職独占を志向する秀吉の生存中は空席のままでした。
そして秀吉の死後、朝廷側は当然、権利として関白職返還、五摂家による就任の動きを見せる。それを受ける豊臣家官僚団。
秀吉の意思はともかく、朝廷側の関白復活要求は道理であり、実務上も必要な事は理解していたと言えます。それも豊臣秀頼成長まで待っていられないことも。
そうなると誰を関白に立てるか、と考えた際、豊臣家側の候補として中納言小早川秀秋は当然の候補者となるのです。長くなりましたので、また次回。

25紋章官:2022/06/10(金) 21:28:29
梅雨入りで雨天続き、すっきりしなくてげんなり。でも、幾分涼しいのは助かります。

この人を弁護する。石田三成の小早川秀秋への関白職提示。この時点で、小早川秀秋が豊臣関白家での第一候補であったのは間違いないと言えます。まず秀吉と血縁関係
がある成人男性であること。第2に官位が中納言として公卿に列している事。そして一時は秀吉の養子、その中でも後継者候補であった事。彼が秀吉養子の中で、飛びぬけた
扱いと行動をとっていた事は、毛利輝元の大坂初訪問時での秀吉との謁見の際、秀秋の席次が高かった事からも知られるところで、何事もなければ、秀次ではなく関白
豊臣秀秋が登場していた可能性も十分あるのです。このため秀次切腹後、豊臣家で関白につける成人血縁男子は秀秋のみ、となります。
もちろん、単純に他養子や豊臣姓を許された者たち、例えば宇喜多秀家も正室豪姫とセットで、彼女の実家前田家の後押しもあり、また官位も中納言と有力ですが、血縁の
有無で一歩下がります。次が徳川秀忠、妻江を通じて秀頼の叔父、千姫との縁組で将来の義父、それに豊臣姓を受けており、また高台院と親しかった事から、有力候補
と言えます。とはいえ、徳川家という抜きんでた実家を持つ秀忠を関白にするのは大坂ではいささか不安があったでしょう。それよりは、一時は秀吉後継者であった
小早川秀秋に豊臣家に復帰、秀頼成人までのリリーフとして関白に就任、その後、秀吉亡き後はそれほど強引な手を取れないでしょうから、五摂家に関白職を返し、順番で
秀頼へ関白職を回す事を計画したとしても、おかしくありません。むしろ、秀頼成人まで空席にしていることでの強引さ、見方を変えれば正当性への疑念を残すよりは、
伝統的な五摂家の輪番を経て秀頼就任となれば、朝廷の伝統にのっとり正当な手続きを経たとして、批判を避ける事が出来ます。
そのために、まずは「豊臣秀秋」が関白に就任して空席を解消、2〜3年で五摂家へ交代、そうして順番を回していき、成人年齢に達した秀頼が晴れて関白に就任する。
その際、元関白秀秋が先任者として指導、相談役を務める。いたって穏健で段階を踏んだ妥当な方策。それこそ規則にうるさい石田三成がとりそうな手立てと言えます。
そこには打算も陰謀も入る余地はありません。それゆえ、秀秋への関白職提案は関ケ原での抱き込みで取り上げるよりも、それ以前から秀頼の関白就任への道筋として検討、
先に秀秋や北政所、そして後見補佐役の徳川家康や前田利家も知っていた可能性があると思われます。
とはいえ、豊臣家内の争いにより秀秋復帰や関白就任はなく、関ケ原合戦に突入したと言えます。とはいえ、その手順は関ケ原後に徳川家も協力して踏襲されます。
まずは五摂家での関白就任で空席を解消、その事で非常職の征夷大将軍に徳川家康が叙任、一方で秀頼は五摂家子弟と同等の扱いで昇進を続け、そして徳川秀忠は将軍に
なるも、その義理の娘、すなわち正室江の長女豊臣完子は淀殿の猶子、秀頼義理姉の扱いで関白家九条家に嫁ぎ、夫は関白になる。そのため、その次が秀頼と周囲は理解、
大坂の陣直前には秀頼関白就任近しと噂になったほどです。豊臣完子の九条家輿入れは徳川家にとっても秀忠が関白の義父になることを意味しており、悪い話ではなく、
また秀忠の娘東福門院和子の後水尾天皇への婚儀も、義兄となれる九条家、そして千姫の夫ゆえ、同じく義理の兄になる豊臣秀頼と豊臣家にも悪い話ではなく、むしろ
関白として天皇の外戚になるのは当然の行動、このあたり豊臣・徳川両家は利益共有による共同歩調を維持、継続する事に問題なかったと言えるのです。
それだけに1614年の方広寺梵鐘銘問題による急速な破綻は不思議でしかありません。脱線しましたが、その点で行けば、石田三成の小早川秀秋への関白就任提案は
関ケ原と無関係な話ではないか、そして三成に陰謀も打算もなかったものと思うものです。それではまた

26紋章官:2022/06/24(金) 21:30:03
6月もいよいよ大詰め!いい加減、原稿に着手しないといけませんが、急な暑さにへばっています。まずは皆さま、お体第一に!

この人を弁護する。今回は弁護ではなく評価するです。北条時政。牧の方の変で晩節を汚し、伊豆へ強制隠居、もしくは幽閉された事で、後世、子孫の北条一門からも
法事などがおろそかにされてぞんざいな扱いをされます。それに比べて北条政子、北条義時、北条泰時は長く手厚い法要などが営まれます。
とはいえ、この北条時政なくして、北条執権家は存在しません。何しろ、彼以前が全く分からない!一応、北条時政の父や従弟とされる人物はわかっていても、それだけ。
いくら伊豆の小武士にしても、後代北条家が権勢をもってから記録を作成するにも、創作の中に見え隠れする事実の影も形もないという、極めて謎な一族。
それが政子は流人源頼朝の正室となり、その挙兵が成功、鎌倉殿として覇権を確立する事で、単なる舅だけでなく、名もない一田舎武士とは思えない手腕を示す。
それが際立つのが、源義経追討で軍を率いて上洛、頼朝の代理人として後白河法皇や朝廷と交渉を行う。もちろん、鎌倉から大江広元や三善康信などの助言や付き人
などあったとしても、大番役で在京経験があっても、その時は単なる当番の東国武士。それがいきなり朝廷との交渉役を果たす。
いくら武力の後ろ盾があっても、平清盛、源義仲とやりあった後白河法皇や朝廷と交渉するのですから、翻弄されてもいいのに見事達成する。それに執権としても
御家人たちを取りまとめる。婿の権威に甘える単なる外戚ではなく、十分な手腕と力量を持っていた事が分かります。
それだけに、その能力をどこで磨き、備えていたのかは、極めて興味深いところ。それに後妻牧の方。この都育ちの妻を迎え、その実家牧家。これも俗称から名乗り
となったようですが、その本来の苗字が不明。それでも都に由来しており、そこそこの身分は持っていたと言え、それがたとえ伊豆でも伊東氏のような有力武士なら
ともかく、出自不明の小武士北条氏に縁組を行う事に踏み切ったのか、極めて不思議なことです。
結果的に牧家は縁組の成功、北条時政も源頼朝との縁組の果実を得て、思い寄らない大成功、単に身分上昇どころか伊豆駿河遠江の三国守護を兼ね執権へと
昇りつめる。しかし、そこで当人はどこかで身の引きどころを探していたかのように見えます。畠山重忠を滅ぼすなど陰謀家とみなされますが、はたして当人の
動きだったのでしょうか?そして牧の方事件で追放。伊豆に帰り、出家。この世を去ります。今回、坂東彌十郎さんの時政があまりに好人物で、ついつい引き込まれ
ますが、追放失脚という隠棲を当人は望んでいたように見えます。それが願成就院で願主大旦那として仏師運慶と共に名前を平時政と併記した胎内札に、その知られ
ざる人柄が伺われるように思われます。
今回の坂東彌十郎さんの北条時政像は、太平記での武田鉄矢さんの楠木正成像と同じく、平凡な人生を送るはずだった一田舎武士が状況変化で歴史の大舞台に押し出
され、実像とかけ離れた後世の姿ではない、どこか素朴さ持つ地に足が付いた実像に迫るものと評価したいと思います。それでは。

27紋章官:2022/11/09(水) 21:59:05
一の酉がおわり、昨夜は月食と天王星食。前回が400年前って、その時、だれが天王星のことまで気にしてはいないでしょう。月食まで
のこと。でも、昨夜は雲のなく、月食が始めからたっぷり見られたなあ〜

久々のこの人を弁護する。今回は弁護というより、あれ、何気にすごいじゃないか、という人。それは漫画「センゴク」の主人公仙石秀久。
この人で有名な事は、島津家久に大敗して讃岐に逃げ帰り、領地没収にもなったにも関わらず、小田原の陣で許され大名復帰。
そして徳川家康、そして殊に徳川秀忠に気に入られ、れっきとした豊臣系の人物ながら、小なりと言えど大名家として存続に成功する。
その気にいられ方は、藤堂高虎のように築城の才能があるわけではなく、また島津家久に大敗後も、切腹ではなく領地没収ですんでいること
から豊臣秀吉にも、何か気に入られていた様子が見られます。一方で、この人の戦歴は負け続き。
もともと美濃斎藤家に仕えいたのが、織田信長に降伏して木下秀吉の下に回される。元来の美濃の豪族、それも美濃源氏土岐氏を出自とする
仙石家は、兄が斎藤龍興の学友のような立場であった事を考えれば、小なりといえどしかるべき地位をもつ家。
いくら負けとはいえ、当時、地位の低い秀吉の下につけるのは、なかなか扱いが厳しいといえます。
但し、これが仙石秀久の開運となりました。とはいえ、その後も負け戦経験が多い。佐久間信盛につけられ、赴いた三方ヶ原で
武田信玄率いる武田軍に大敗。ただ、この敗戦を共にした事で、徳川家康が親近感をもっていたかもしれません。
次に金ヶ崎の木下隊の殿を経験、姉川の戦いと浅井勢に苦戦、また手取川の合戦で柴田勝家の下で上杉謙信と戦い敗走、その後、
次に豊臣秀吉の下で四国へ遠征、長曾我部元親と戦い敗北。そして戸次川の戦いで島津4兄弟の末弟島津家久の大敗。負けに負け続ける。
とはいえ、武田信玄、上杉謙信、長曾我部元親、島津家久、浅井長政と有名どころと戦い、生き残り続けた事は、この人の武勇と
強運を感じざるを得ません。第2次上田合戦では、自分の居城小諸城で後詰にいたので経験しませんが、この経験豊富な
人物が小諸に腰を据え、中山道に向かう徳川秀忠軍への追撃を真田昌幸に断念させる重し役は十分果たしたといえます。
ちなみに、嫡男としていた次男が「独断で」西軍側についたので、関ケ原合戦後に廃嫡していますが、これも真田家、蜂須賀家、前田家、
細川家等々と同様、東西両方に親子兄弟が表向きは独断と称して分かれてつき、家を守る方策だったと考える方が自然です。
それだけに、この人物、一人の戦国武将として評価できるところです。あれ、そうなると、この人を使うと
西は九州、四国や中国地方、東は東海、北陸、中部、関東とかなりの領域を舞台にできる・・・それも早々たる敵将を出せる。
大河ドラマの主役をはれる条件(なるべく広い地域を取り上げる)を持っている。初の漫画原作大河ドラマ!どうなりますやら。それでは

28紋章官:2024/02/14(水) 18:53:12
雪が降ったり、暖かかったり、季節感が大混乱。体調にはお気を付けを!

久々どころではない、この人を弁護する。もしくは評価する。徳川家康と徳川幕藩体制!前々からとある漫画での偏見に満ちた評価に眉を潜めていますので、少しは弁護を
するところ!幕末維新を企業倒産になぞらえていますが、それはその通りなんです。それは否定しません。しかしながら、鎖国による停滞による進歩がないとさげすんで
いるのは、まあ作者は、帝国主義による侵略主義大賛成なんだろうと思うばかりです。
幕藩体制の身分制度、制約等いろいろ批判しますが、では、いまは完全にそれが無いとでも?経済格差による事実上の階級社会に陥り、それこそ、ヴィクトリア朝の
イギリス首相ディズレイは述べた「二つの国がある」の状態に突き進んでいるのは現在は正しいと?
それがその時代、その時代で登場してしまう体制だという観点がありません。鎖国も現在は制限外交、ひとつの取りうる手段でありました。徳川幕藩体制は極めて内向き、
それこそ日本版モンロー主義です。評価は難しいとっころですが、当時の状況下において、望みうる限りで最良の段階まで至った社会でした。
大砲よりバターを!を付き進み、飢饉や不当な搾取での餓死者も厖大に出るところでしたが、一方で庶民文化、それが江戸などの都市部に留まらず農村地域にも広がり、
国策での教育制度なくして、同時代の他国、それこそ帝国主義に邁進していた欧米諸国とそん色ない識字率を達成、動力や銃器をのぞけば、引けを取らないレベルに
到達していた事を理解すべきです。それは、開国後の欧米人がすでに認識していたものです。
銃器が発達しなかったのは、戦争がない事で必要がなかっただけの事。動力も当時は石炭採掘が産業レベルという段階に至らず、また国内輸送であれば、風力と潮の流れ
による海運で補えたことによります。それに一度知れば、それを吸収、習得した速さは驚異的。
だいたい、動力船と武器で何をやるかといえば、植民地征服戦争だった事を思えば、侵略戦争をしないから不要だっただけの事。まあ、一種の文明論になるので、漫画の
描き方で文句をつける事もないのですが、どうも、あの論を見ていると根底に弱いものを食い物に、賢いやり方という仮面で他人の財産を奪えばいい、という論理に見え
るので眉を潜めるところです。まあ、こんな漫画をもてはやされる時代だから投機家、転売屋、買い占めやオレオレ詐欺が繁盛するはずだ。それでは


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