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ストーム・オーヴァー・ジャパン
1
:
サラ
:2006/11/14(火) 21:08:49
避難用に使わせていただきます。
想定のコンセプトは史実よりも3倍の国力を持った日本とソ連との全面戦争です。
満州における戦車戦と本土決戦まで書くつもりです。
どうぞ、最後までお付き合いください。
13
:
サラ
:2006/11/14(火) 21:30:40
「それは違うだろう。ドゥーエの戦略爆撃理論によれば、敵の生産設備を爆撃することで航空機だけで戦争を終らせることだって可能だ」
「では、地球の反対側にあるソビエトの軍需工場を爆撃できるような爆撃機を作られますか?それを運用するのにどれだけの費用がかかりますか?護衛の戦闘機もない状況で、意味のある損害を相手に与え続けることが可能ですか?」
戦略爆撃論者が意図的に無視している点が1つある。
それは相手の生産設備、それを動かす労働者を爆撃だけで破壊するのはとてつもなくコストパフォーマンスが悪いということだ。
1機の航空機を生産するのに数百の労働者が従事しているが、その労働者を全て殺すよりも前線で1機の戦闘機を破壊する方がよほど容易なのだ。
爆弾の雨を降らせ、都市を無差別爆撃したところでやはり、その生産設備や労働者を皆殺しにするのは難しい。1人の兵士を前線で戦うのに、およそ50人の後方が必要になるが、戦略爆撃だけで戦争を終らせるには1人の兵士を殺すのに対して、その40倍の民間人を殺さなければならなくなる。
胸糞悪い計算だが、50倍の人間を敵地の奥深くまで爆撃機を飛ばして殺しにいくよりも前線で機銃掃射した方がまだマシだろう。
特にソビエトのような縦深の深い国土をもつ国を相手にするときは、工業地帯や都市を焼き払うことはとても難しい。広い国土に点在するそれらを1つ1つ潰しいくのは考えたくもないほどのコストがかかる。
「現時点において、対ソ戦における航空戦力の有効活用を図るのならば、それは地上戦の支援にしか使い道がありません。つまり戦術レベルの直協支援です。そしてもうひとつは防空です。敵の攻撃から地上部隊、あるいは本土の工業地帯を守らなければなりません」
航空機=空の砲兵=支援戦力=航空支援(対地攻撃)
=その対抗手段(防空)
「さて、戦術レベルでの航空支援としては、敵後方の補給段列への攻撃や砲兵陣地への爆撃など、いろいろありますがここでは具体例はとりあげません。しかし、これらの航空支援を行なわれる領域は戦線の真上か、その後方のであるということはご理解いただけると思います」
誰の反論もないことを確認してガランドは後に続けた。
「これらの戦術レベルの対地攻撃(対水上)を行なう機材として適切なのは、単発機ないし高速の双発機です。これらの戦術レベルの攻撃はよほどの事前調整がないかぎり陸空の協同は困難であり、出撃した爆撃機はこれというタイミングに陸軍を支援することは難しいでしょう。もちろん、改善の余地はありますが、現時点において無線一本で航空支援を呼ぶことは不可能です。戦線の上空か、後方に無作為に小編隊を送り込んで手当たりしだいに敵を吹き飛ばすような、不効率な攻撃しかできません」
「敵も同じことをやってくるだろうな」
「同じことをやってきましたよ」
実戦経験者としてガランドは断言した。
ガランドには雲霞のように飛来するソビエト空軍の戦闘機が脳裏に染みついて離れない。
奴らは地上で目に付くものを手当たり次第に吹き飛ばしていった。
満州でもそれと同じことをやるだろう。
14
:
サラ
:2006/11/14(火) 21:37:25
「この攻撃を行なうのに爆撃機は必要ありません。タイプ0、えーっと零戦したかな。アレで十分です。大型爆弾も必要ない。低空で高速で侵入する敵戦闘機を捕捉するのは非常に困難で、多くの場合は奇襲になり敵の地上戦力、或いは駐機してある航空機に大打撃を与えることができます」
「つまりーーー」
「つまり、戦闘機を爆装させた戦闘爆撃機が次の戦争の主力です。戦闘機に爆弾を載せることは簡単ですから、戦闘機だけを生産を集中すればいい。もちろん、哨戒や偵察、練習機は別に用意する必要はあります。次の戦場では大型や中型の爆撃機と同じことが単発の戦闘機で可能だということです」
彼らが対艦攻撃用兵器として配備を続けている双発の陸上攻撃機の廃棄すれば、7人のパイロットと2基の発動機がフリーになる。単純計算でも、1機の陸攻を廃棄することで2倍の戦闘機が配備できる。実際にはそれ以上だろう。
「よって、現有の陸上攻撃機部隊は縮小し、その人員と機材を使って戦闘爆撃機部隊の拡充に充てます。戦闘機部隊は増勢し本土にも十分な戦闘機は配備できるようになる。戦闘機は爆撃機に比べれば安価で、資源の消費も少ない。限られた国力を戦闘機の生産に集中することで最高の効率でロスケに打撃を与え、連中の本土爆撃を防ぐことが可能になります」
ガランドが着座すると再び会議室はざわめきに満たされたが、その殆どは否定的なものではなく自分の意見を吟味するためのものだった。
レセプションとはこういう風にやるもんだよ。
悔しそうな顔をしている源田を見てガランドは笑みを浮かべた。
これで戦闘機の重点配備は決定的になる。そして、その発案者は確実に俺のものになるだろう。
奴には悪いが、俺が一枚上手だったということだな。
会議は流れ解散のように状態になり、資料を確実で吟味することになったが、実際は殆ど大勢は決していた。
対ソ戦を前にして、海軍航空隊は航空機の生産について大鉈を振るう決定を下した。
各メーカーに内々に提示されたその決定は大きな波紋を呼び起こすことになるが、概ね受けいれら、急ピッチで準備が進めれていくことになる。
まず、生産中止がかねてから予想されていた零戦は予想に反して生産が続行されることになった。ただし、生産続行は暫定的なもので、生産機も戦爆タイプのみとされた。
それに変わって三菱では雷電改の大増産が決定された。雷電改は発動機をハ42に換装し、ドイツ系技術者の指導の下で震動問題を解消し、視界改善策、急降下制限速度の引き上げ、30mm機関砲への換装など徹底的な改造を施されおり、対戦闘機戦闘さえ可能になった第2世代の雷電ともいうべき機種であり、最重要生産機として中島飛行機、愛知航空などでも転換生産されることが決定した。
次期主力戦闘機の烈風も生産が開始されたが、巨大な主翼に爆弾架を山ほど取り付けた戦爆タイプの生産のみとされ、純粋な戦闘機型は生産されないことになった。
高速艦上偵察機の彩雲はシベリア奥地などの戦略偵察用に生産続行が決定した。
しかし、彗星艦爆や天山艦攻、流星改などの艦上攻撃機や1式陸攻などの攻撃機は縮小され、順次転換訓練を経て戦爆部隊へと改編されることが決定した。
15
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:35:52
ストーム・オーヴァー・ジャパン4「京都とヒトラー」
アルベルト・シュペーアは建築家である。
先の大戦でサードライヒが崩壊した後は、アメリカにわたって実業家として食っていこうと思っていた。ドイツ国内に残るのは不可能だった。ソビエトはナチ狩りと称して占領地で片っ端からNSDAP党員を逮捕していたし、ヒトラーのお気に入りだった彼はベルリン建設総監だったという過去がある。
それはアメリカに渡った後でもついてまわり、FBIに深夜の訪問を受けることもしばしばだった。
それでもシュペーアは成功した。
彼が起こした貿易会社は戦争特需に沸くアメリカで急成長を遂げた。テノクラートとして水準以上に優秀だったシュペーアはそれを商売に生かし、株取引で驚異的な利益を稼ぎ出した。特に大戦末期にアメリカからの軍需物資買い付けに携わったことから軍事関連の取引について彼は多くの知識をもっていたので、それを生かすことによって会社は瞬くまに巨大化した。既に2000人近い従業員を抱える大会社だ。地元では上流階級のジェントルマンとして通っている。
そんなシュペーアをヒトラーは電話一本で召集した。
そのことに不満はないが、彼としてはもう少しアメリカで今の生活を続けたかった。
「ままならないことをこの上ない」
「人生とはそういうものよ」
ヒトラー夫人、エヴァ・ヒトラーは微笑んだ。
「何もかも思い通りというわけにはいかないわ」
微笑む彼女は幸せそうだった
それだけで、今のこの一日が素晴らしいもののように思える。
きっと、ヒトラーが彼女を愛している理由はそれだろう。シュペーアはそう思った。
彼女さえいれば、たとえそこがソビエト軍に包囲された孤立無援のベルリンであったとしても、そこに何か素晴らしいものを見つけることができそうだった。
「ああしていると、総統もただの人ですね」
照れくさくなって、シュペーアは視線を逸らした。
視線は写真器を弄り回すヒトラーの前で止った。ベレー帽をかぶり、チェック柄のシャツに赤いベスト。そして丸い老眼鏡をしたヒトラーは観光に来たただの初老の外国人観光客にしか見えない。
日本人の好意によって、京都観光に招待されたヒトラーは京都を満喫しているようだった。
結構なことだった。
最近の総統は見るからにやつれている。異様に鋭くなった眼光は往時のそれをはるかに越えて、見るものを魅了してしまう。
しかし、何事にも程度がある。明らかに総統は健康を害していた。
この小旅行も寿命を削る勢いで働くヒトラーに危惧をした日本の財界の大物がセッティングしてくれたものだ。
総統には休憩が必要だった。
「総統だって只の人間よ。只の人間でない人間なんてこの世には1人もいないわ」
日本では今だ珍しい携帯カメラ、ライカの最後の生産品を構えたヒトラーに日本の小学生が群がっている。
ヒトラーは子供達に得意げにカメラの操作を教えていた。
それはドイツの総統というよりは孫達に囲まれる、極々平凡な、幸せなお祖父さんにしか見えなかった。
エヴァはそれを愛しげに見えていた。
16
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:36:24
「そうでしょうか?私は総統が魔法使いに思えたことがあります。あの人は私の夢を全てかなえてくれた」
決して売れっ子とは言えない、冴えない建築家だった自分を見出し、ベルリン建設総監までに抜擢したのはヒトラーだった。
シュペーアは今でもベルリンの総統官邸やニュルンベルグの党大会会場を設計した日々を思い出すことがある。
あの時こそが、自分の人生における最高の瞬間だった。そう断言できる。
「そうね。あの人はドイツにとって魔法使いだったものね。何もかもどん底の中で、あの人は夢を語って、それを次々に本当のことにしてくれた」
ヒトラーが政権を獲得したとき、ドイツはどん底の状況にあった。
ベルサイユ条約による軍備の制限、それに乗じて躍動する極左のテロ。経済を破滅させたハイパーインフレと世界大恐慌による空前絶後の経済的停滞。底なしの不況の中で、誰もがドイツの未来に絶望していた。
アメリカへの移民や出稼ぎが増えたのもこの次期だ。人々はドイツの未来を見捨てようとしていた。
「人は空を飛べないし、石ころから黄金を作り出すこともできないわ。それでも、人間は素晴らしいことができる。あの人のように」
「そうですね」
海外に脱出したドイツ人の多くが今だに最低の暮らしの中で喘いでいる。
しかし、シュペーアが把握している限り世界に散ったドイツ民族はその誇りを汚すような真似をしていないようだった。貧しさから犯罪に走る者がいることは事実だが、それされも苦渋の決断だったことが知れる。
日本には100万近いドイツ人、或いはユダヤ人が避難してきているが、皆整然と新しい土地で新しい生活を起こすために努力していた。
これはちょっとした奇跡だ。
戦争に敗れ、国を失った民族が自棄にもならず地道な努力を重ねている。それは奇跡に他ならず、歴史的に見ても稀有な例だ。それに成功している民族は数えるほどしかない。世界に散った華僑、アメリカを作り上げた清教徒、そしてドイツが排斥したユダヤ人。他の民族は国を失ったが最後、散りじりとなり、大国に呑まれて消えていった。
その奇跡を起こしているのがこの小さな老人だと知ったら、あの子供達はどう思うだろうか?
きっと理解されないだろう。理解されなくてもいい。しかし、彼らが成長して成人した頃には、その偉業は歴史の教科書には必ず載っているはずである。
シュペーアやその他の多くのドイツ人にとってヒトラーはドイツ民族最後の砦なのだった。
「でもね、夢を見たかぎりはその代価を払う日がいつか必ず訪れるわ」
「それが今だということですかね?」
「他にいつその代価を払うことができるのかしら?」
やれやれだ、とシュペーアは頭を振った。
本当に人生はままならないことばかりだった。
「Sieg Heil!(勝利万歳)」
冗談めかしてナチス式敬礼をしたシュペーアにヒトラーは思わず笑ってしまった。
その様子を見た子供達がシュペーアに続いてドイチャーグルス(ナチス式敬礼)を真似た。
「じーくはいる!」
それを見たヒトラーは顔に何か苦いものを浮かべた。
シュペーアも同じだった。
「・・・申し訳ありません。思慮が足りませんでした」
「いや、いい。もう過ぎたことだ」
ヒトラーは言った。過ぎたことにしては、彼の口調はあまり暗いものだった。
「それよりもさっそく、ワシントンの様子を聞かせてくれないか」
「あなた、仕事の話はホテルに戻ってからにしたら?」
エヴァは呆れたように言った。
これでは京都に旅行に来た意味がない。そういう顔をしていた。
「仕事の話はホテルに戻るまで禁止ですからね」
「わかった。わかった」
苦笑いを浮かべてヒトラーは言った。シュペーアも同じだった。
しかし実はエヴァの提案にシュペーアも賛成も賛成だったのだ。
シュペーアの視線は京都、東寺の五重塔に固定されていた。
建築家アルベルト・シュペーアにとって鉄骨やコンクリート、石材も使わず木材だけで構築された五重塔はまさしく東洋の神秘であり、芸術家としてこれ以上とない好奇の対象だった。
17
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:40:27
ストーム・オーヴァー・ジャパン5「満州の初夏」
その日は、穏やかな上天気だった。
満州の冬は厳しいが、その代わりに夏は素晴らしかった。新緑が萌える6月の満州里は緑の海だった。群生する野花が思い思いに島をつくり、広大な草原の中で一際目を引く。
18
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:41:10
空気はひたすらに重苦しい。そこだけ真冬のように大気が重く、寡黙な男達は一言も発することなく、黙々と手を動かしていた。
その中央に、100式司令部偵察機はあった。
100式司令部偵察機は前作の97式司令部偵察機の後継機として開発され、昭和15年に制式採用された。
日本陸海軍機の中で初めて時速600キロを超えた高速機で、発動機換装と機体の改修を繰り返して今だに主力偵察機の地位を保持している。
現在の最新モデルは5型だった。エンジンを1800馬力の誉(ターボ過給器装備型)に換装し、機体設計のリファインを施されている。
結果として、最高速力は時速730kmを達成し、日本軍機で最初に時速700kmの壁を破った航空機となった。つまり、100式司偵は時速600kmと時速700km突破記録のタイトルホルダーとなったことになる。
しかし、その100式司偵5型を以ってしてもシベリア奥地への戦略偵察機任務は危険な任務だった。
発動機の暖気運転が終った。
待機所で打ち合わせをしていたパイロットにその旨を次げた整備員は敬礼さえすることなく、去っていった。
パイロットも気にしなかった。気付くことさえない。
冷めた表情で、2人のパイロットは銘々勝手に装具を調え、一切会話を交わすことなく、視線さえ交わさず、飛行前の準備を終えた。
100式司偵の前で彼らの上司が待っていた。
「作戦に特に変更はない。命令はいつもどおりだ。必ず帰還せよ」
この時だけ2人は形どおりの綺麗な敬礼をした。
顔に傷のある上官はそれに答えて答礼した。
「それは味方を犠牲にしてでもか?」
「味方を犠牲にしてでも、だ」
それは大日本帝国における最大の情報機関、通称「帝諜」の非公式航空偵察部隊における日常的な会話だった。
国籍マークを塗りつぶした100式司令部偵察機は野原を転圧しただけの簡易滑走路を滑走し、瞬く間に加速、上昇していった。恐ろしく早い。
ふわりと空を飛ぶ複葉機に慣れ親しんだ少佐にとって、1800馬力の誉発動機の生み出す暴力的な加速は違和感を禁じえない。
「君も苦労しているな」
「飛ばない気楽さを選んだつもりだったんですが、気楽からはほど遠い」
苦い笑みを浮かべて少佐は言った。
白いワイシャツにスラックスというラフな姿のヴィルヘルム・カナリス提督は軽く頷いて見せた。
満州は初夏だ。
照りつける太陽は2人の影を深く濃いものにしていた。
亡命した親衛隊情報部、或いは国防軍情報部のエキスパートを引き抜き、その組織をさらに拡大させた帝諜において、カナリスはこんなところで油を売っている暇はないはずだが、この日に限って例外だった。
自らが立案し、そして成功させた非公式部隊によるソ連領への航空偵察作戦は、今日限りで打ち切りとなる。
もはやソ連の開戦意図は明白であり、偵察によってソ連の動向を知る必要性がなくなったためだ。今後、ソ連領への偵察は軍部の戦略偵察部隊に引き継がれる予定だった。
帝諜は軍事情報のみを取り扱う陸海軍の情報組織とは違い、政治、経済、安全保障全般にわたる情報収集をその旨としている。開戦が既に明らかになった段階においては、ソ連領への偵察飛行は意味がなくなっていた。
話し合いが終った以上、話し合いのために情報を集める必要はなくなる。
19
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:41:40
「これは個人的な情報源から得た話なんですが、おやめになるというのは本当ですか?」
「誰に聞いたかは尋ねないでおくが、それは概ね事実だろう」
オブザーバーとして、帝諜の組織の整備・拡大に携わってきたカナリスはこの極秘作戦の終了を以って職を辞すつもりだった。
「私なりに、平和を守るための努力をしてきたつもりだったが、それも無駄だったようだ。ここに至っては、もはや全ての努力が無駄だったとしか思えない」
「そんなことはないでしょう。少なくとも、我々はソ連の開戦意図を明確に掴んでいる。侵攻兵力の規模も詳細な資料が集まっています。戦争になれば、ますます我々は忙しくなるでしょう。帝諜には閣下が必要です」
「君には悪いが、私は戦争に関わりたくないのだ。戦争はもりこりごりなんだよ。私は平和を守るために情報を集めた。戦争に勝つために情報を集めるのは、昔1度やったがあまり楽しい経験ではなかった」
カナリスは疲れたように言った。
「私は軍人だが、戦争に振り回されるのにはもう疲れたよ。もう、ゆっくり休みたい」
「ヒトラー総統はきっと引き止められると思いますよ」
「総統にはもう十分に忠誠を尽くしたと思っている。これ以上は勘弁して欲しいな」
カナリスの表情は複雑だった。
彼はヒトラーとナチニズムを嫌悪していたが、しかし、ドイツは愛していた。ドイツとそこに住む人々を分け隔てなく愛していた。
先の大戦でも、カナリスは献身的に祖国のために忠誠を尽くした。しかし、ドイツは破れ、未だにソ連の占領下にある。
ドイツ復活が彼の人生の新しい生きる意味になったが、それを実現するにはヒトラーの手を借りるしかなかった。
不思議な話だが、ヒトラーに対する嫌悪感は3年前を境になくなっていた。ナチニズムは別だが、ヒトラーという一個人に対しては嫌悪感はなくなった。
自分が憎んでいたのは、総統という形の知れないものだったのかもしれない。カナリスは最近、そう思うようになった。
「老兵はただ去るのみさ」
カナリスは小さく呟いた。
高度10000m
100式司令部偵察機のコクピットは与圧されていたが、それでも高度7000m相当の気圧でしかない。
この分野においてはドイツも日本も英米に比べ立ち遅れていた。
日本の航空技術は3年前にドイツから大量の先端技術情報を手に入れたことによって飛躍的に発展したが、ドイツにおいても実用化が遅れていた与圧技術は一から開発するしかない。
空気は圧縮すると熱をもつ。
単純な、極々身近な現象であるが高度10000mの上空になるとこの発熱は無視できない。
しかも大気の薄い高高度においてはその発熱を冷却することも難しい。空気冷却は大量の空気のある低空や地上ではともかく、高高度飛行では効率が著しく悪化する。
冷却装置は正常に作動しているはずだったが、コクピット内の気温はじりじりと上昇していた。
パイロットは不快気に汗を拭う。
「まもなくハバフロスク上空」
20
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:43:16
後席員が無感情にいった。後席員は偵察カメラから一瞬も目を離さない。カメラは6台用意されていた。トライメトロゴン式地図作成カメラが3台。鉛直方向用立体撮影用カメラが2台、広域撮影用の大型カメラが1台。計6台だった。
日本光学の職人が熟練の技で研磨した大直径レンズを使ったこのカメラだけで戦車が3台買えるほどだという。それだけの代価を払う価値があるということだった。
パイロットはフィルムに何が写されているのか知らなかった。後席員に聞けばわかるかもしれなかったが、興味がなかった。
100式司偵は前席と後席は完全な分業制なのでお互いが何をしているのか、その実際を殆ど把握していなかった。
パイロットに必要なのは航法の技量と撮影から数分の間だけ機体を完全に水平飛行させる技量だけだった。それ以外のことは、知らなくてもよかった。知る必要もない。
「撮影開始まで後5分」
航法計画どおり、最終変進点を通過した100式司偵はハバフロスク上空に侵入した。
パイロットは等速度直線飛行を続けながら、機体を水平に飛行させた。
この瞬間こそが100式司偵が最も無防備になる時間だった。撮影のために急な回避運度をとることができない。
パイロットは油断なく周囲の空域を見渡した。
元々、海軍航空隊で陸攻を飛ばしていたパイロットにとって、この写真撮影の瞬間は爆撃進路に入った後の陸攻に似ていた。やり直しはきかない。逃げることもできない。撮影が終るまでは、何もできない。
緊急加速用ロケット作動スイッチにかかった指を今にも押し込んでしまいそうになる。
この瞬間のスリルこそが彼にとってのこの仕事の報酬だった。
彼はある種の異常者だった。彼は戦争を愛し、平和を憎んでいた。生命の危機が迫るほどに生の実感を感じるどうしようもないイレギュラーだった。生命の保存が生物の本能なら、彼はそれを正面から裏切っていた。
「敵機発見、2時方向」
殆ど同高度に敵機がいた。2機だ。YAK−9の高高度迎撃タイプ。
接触まであと3分と少々。機体は既に最高速度に近い。
「撮影終了まであと3分」
相棒の撮影終了が早いか、敵機の攻撃射程距離内に入るのが早いか。賭けだった。
しかし、彼は冷静に横風に機体が流されないようにあて舵を入れ、機体を直進させた。敵機はほぼ正面から突撃してきた。ヘッドオン。接触まで後1分。
「撮影終了」
「了解。帰還する」
21
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:44:11
パイロットはホンの僅かだけ機体を滑らせ、同時に加速用ロケットを点火した。
主翼下に吊り下げた補助ロケットが電気信号で点火し、膨大な推進力を発生させた。スロットルを全開。ミリタリー出力を超えて、ブースターを作動させた。水メタノールを噴射、緊急加速。
敵機は発砲した。20mm機関砲弾が掠めて飛ぶ。絶妙にずれた機軸と速度にYAK−9のパイロットは照準を狂わせた。
100式司偵は加速。速度計が跳ね上がる。時速800kmが迫っていた。加速用ロケットの燃焼は5秒だけだったが、機体は限界まで加速されていた。自動的に加速用ロケットは放棄される。
「敵機はケツについた。主翼下に加速用ロケットらしきものが見える。今点火した。加速している。追撃してくるぞ」
機械のように冷静に後席員は言った。
パイロットは笑みを強くする。そうでなくては面白くない。
「速度計を見る余裕がない。速度を読み上げてくれ」
パイロットは機体を降下させた。高度を速度に返還し、敵機を振り切る。
しかし、機速はすでに限界に近い。
「速度、820・・・830・・・・840・・」
YAK−9も降下し、さらに加速。距離が詰まる。振り切れない。
「速度、840・・・845・・・850・51、52、53、54、55・・・」
1km刻みで速度を読み上げる相棒の声にパイロットは興奮を隠せなかった。
すぐ傍まで死が迫っていた。機体は空中分解寸前だった。嫌な震動が機体を襲う。フラッターだ。パイロットは主翼に皺がよるのを見ていた。
「強度限界まで、あと50、49、48、47・・・」
偵察機である100式司偵は機体強度が低い。時速880km以上の速度になると空中分解するおそれがあった。
敵機は平然とそれよりも早い速度で間合いを詰めてきている。さすがは戦闘機というべきだった。鋼管構造のYak−9の機体強度は時速1000kmにも耐える。
振り切れない。パイロットは結論した。
ただし、通常の方法では。
100式司偵は強引な機首上げ、急減速をかけた。
大Gがかかり、機体は激震した。リベットが吹きとぶ。与圧カプセルが壊れる。ただし、高度は6000mを切っていたので急減圧はかからなかった。幾つかの部品が吹き飛び、燃料の配管が歪み、破断した。エンジンに燃料が回らなくなる。燃料噴射ポンプは大Gで一時的に機能が停止する。
敵機は咄嗟に発砲したが、狙いはずれていた。高速で、100式司偵の至近を掠めてオーバーシュートする。
パイロットはその後ろ姿を見送って、加速用ロケットを点火した。最後のロケットだった。
機体は再び加速し、失った速度を取り戻す。
パイロットは冷静に破断した燃料パイプの油送を止め、タンクを切り替えることで再び誉発動機を再指導させることに成功した。
YaK−9は諦めが悪く、追尾を続けたが国境の手間で引き返した。最高速力で飛ぶ100式司偵を後ろから追撃して狙い落すのは加速用ロケットを使い尽くしたYak−9には不可能だった。
ボロボロになった100式司偵は降着装置がおりず、胴体着陸する羽目になり、機体は大破したものの、パイロット2名を写真フィルムは無事に地上に降りることができた。
フィルムは直さま現像され、高速連絡機(戦闘機)で新京と東京に送られた。
22
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:45:26
1945年6月22日 晴れ。
その日は日本人にとって特別な一日となった。
夜明け前の空気は夏の満州らしく、清涼な風が吹いていた。
既に兵士達は数ヶ月前から、何が起きるのか感ずいていたので、その時がマジかに迫っても混乱はなかった。士官が昼夜交代で国境を双眼鏡で睨んでいるのを見れば、そこから何が現れるかは容易に想像できた。
最初にその兆候を捉えたのは意外なことだが、日本陸海軍の戦闘部隊ではなく、その遥か後方の満州国の首都新京にある国営ラジオ放送局だった。
彼らはいつもどおりに一日の業務を始めようとしていた。
局員は真空管が温まるの待って、短波受信機のスイッチを入れた。それは一番若い局員の仕事で、入社したての新人には辛い仕事だった。調整の難しい鉱石検波式の受信機をプレート電流計だけを頼りにチューニングするのは熟練が必要だった。しかし、それも慣れてしまうとルーチンワークでしかない。
チューニングが終った受信機をアンプに接続し回路を開く。
いつもなら、この時間にはソビエトの国営放送のニュースが聞こえるはずだった。
強力な送受信設備をもつラジオ局は国境を越えて飛び交う電波を拾うことも珍しくなく、ソ連のプロパガンダ用の短波放送を一部を受信することもできた。
スタジオには警官が常駐して、放送する内容を常に検閲していたが、その警官も短波放送の受信は禁止していなかった。なぜならば、戦線の遥か後方でその時が来たことを知るには、短波放送を聴くしか方法がなかったからだ。
早朝、真空管が温まったばかりの無線機は調子が悪く、放送はノイズまじりでなかなか安定しなかった。
それでもスピィーカーから響く、クラシックの調べは、ドボルザーグ交響曲9番新世界は不気味に人々の不安を直撃した。どれだけ周波数を変えても、ソビエトの公共放送は全て同じフレーズを繰り返すだけだった。
まさか、と思い、いつかきっと、と漠然とした不安でしかなかった予感はその日現実のものとなった。
国境を監視していた兵士達は朝焼けの空の空に響く砲声を聞いた。
それは長く尾を引き、風切り音を奏で、そして彼らの直情で光熱と爆音に変化した。
1945年6月22日、ソ連は250万の大軍を率いて満州になだれ込んだ。
日ソ戦争が始まった。
23
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:47:13
「アドラーよりファウケ、敵戦車部隊が接近中」
「ファウケ了解。これより出撃する。以上」
ついに始まってしまったか。
ミヒャエル・ビィットマンは車長ハッチから上半身を突き出させて、出撃準備を終えた戦車中隊の見渡した。
タイプ4。日本人が4式中戦車と呼ぶ最新鋭戦車が彼の中隊には12両配備されていた。完全充足状態だった。
その他の兵器も全て日本製だ。
ただしそれを操る人間は全てドイツ製だった。
「ゼップの演説が始まりますよ」
「聞けるか?」
「ええ、いつも調子ですが」
北フランスから共に脱出した通信手が回路を切り替え、車内無線に連隊長のゼップ・ディートリッヒの演説を乗せた。
「この帝国の興廃はこの一戦にあり、各員奮励努力せよ。友軍の強力な機甲部隊が西部と東部で反撃している。我々は満州の北部を支えるために、帝国の栄光の礎とならん・・・」
ヒトラーのボディーガードだったゼップは正規の軍事教育を受けたわけではなかったので、その指示は今一具体的ではなかった。
それでも、ゼップは兵士から愛されていた。
北フランスから奇跡的に英国本土に逃れることができたアドルフ・ヒトラー連隊の兵士の大半がヒトラーとそれを護衛するゼップに付き従って日本に亡命し、そして満州で再び戦場に立っていた。
多くの日本人にとって、彼らは理解の外にあった。
何が好き好んで命からがら欧州から逃れてきた彼らが頼みのしないのに戦場に戻りたがるのか、日本人には理解できなかった。多くの日本人とって戦争とは国家の義務であり、血税を納める苦役であり、明治の御世ならともかくとして昭和に入ってからはとかく軍隊は忌避される存在となっていた。陸海軍の数度に渡るクーデター未遂事件などがその原因であり、特に陸軍の評価は最低に近い。
出征する兵士は相変わらず盛大な見送りを受けていたし、徴兵検査に合格すれば宴会が開かれるが、それは壮行会というよりは残念会にちかい。
本音では誰も徴兵などされたくないし、徴兵から逃れるためのマニュアルさえ公然と市販されている日本において、志願して戦争にいくというのは何か得たいの知れない情念をもつ酔狂人としか理解されなかった。
それでもヒトラーが各方面で運動したおかげで、ゼップ・ディートリッヒが率いる世界最後の武装親衛隊、アドルフ・ヒトラー連隊はハイラル郊外の戦場に立つことができた。
「神よ。我々に贖罪の機会を与えてくださり、感謝します」
演説を締めくくった一言は屈強な元ボディーガードには似合わない可憐な響きがあった。
ビットマンはいかなるときも冷静さを失うことのない鋼の精神の持ち主だったが、この時だけは不意にこみ上げる感情を抑えるのに苦労した。
彼らは戦争狂ではなかったし、ナチニズムを狂信していたわけでもなかった。
ただ、守ると誓った祖国と人々を守れなかったことを悔いる普通の人間の集団に過ぎなかった。
あの時、俺達は祖国を見捨てて逃げ出した。
ビットマンも、他の誰も口には出さないが、アドルフ・ヒトラー連隊の全ての人間が同じ意識を共有していた。
この3年間、練成に練成を重ねてきたのはその罪を償うためだった。
あの時、もしも、自分達が死ぬまで戦っていたら、もしかしたら、あの悲劇は回避できたかもしれない。祖国が全て占領され、自分達を信じてくれた人々を裏切ることもなかったかもしれない。
今だに後を絶たない亡命者から聞く祖国は最悪の状態にあるらしい。拷問の後を残した亡命者達は皆、魂を抜かれたように虚ろで無気力で、抜け殻のようだった。
家族は今どうしているのだろう?
24
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:48:34
ビットマンはそれを考えると気が狂いそうな焦燥に襲われる。
「ワルプギスが敵と接触しました。敵戦車は旅団規模の模様」
戦場に急行するLSSAHの全面に展開した索敵スクリーンに引っかかったのはハイラルに突進するザバイカル方面軍の一部、T−34/85で編成された戦車旅団の先鋒だった。
その後ろにはタンクデサントで歩兵を鈴なりにさせた本隊を続いている。
先鋒は罠の弾き役だ。先鋒の任務はワザと攻撃を受けることで敵の所在を本隊に知らせることにある。
手の内をさらすのは得策ではなかった。
「アドラー。・アドラー。こちらファウケ。別命なき場合はこのまま敵戦車群との戦闘に突入する。ナバレックによる支援砲撃を要請。座標はアントン3405より、ベルタ3406に移動中。敵の先鋒を叩いてくれ」
「ファウケ・ファウケ・アドラー了解。戦闘を許可する。敵戦車群を撃滅せよ。120秒後に支援砲撃を行なう」
呪文のようなやり取りを交わし、ビットマンはその直後に砲声を聞いた。
パンツァーカイルの後方に構えた装甲砲兵隊、日本人流に表現すると自走砲兵隊が射撃を支援砲撃を開始したのだ。
日本人は旧式化した97式戦車の車体をもっぱら自走砲の車体として利用していた。オープントップの車体に90式野砲を取り付けた自走砲はきっかり120秒後に支援砲撃を開始、先鋒部隊のT−34が爆風と衝撃波に包まれ、数台が撃破された。残余が慌てて後退を開始した。
砲撃はさらに後方の歩兵を乗せたT−34/85に向かって伸びていく。
「上手いぞ、その調子でどんどん頼む」
砲撃を受けたT−34は直撃を受けないかぎり撃破されなかったが、その上に載る歩兵はただではすまなかった。
人体の形をしたものが、盛んにつちけむりの向こうで飛び爆ぜている。
ロシア人への復讐心に関しては全く不足していなかったビットマンは満足げに頷いた。
「カウツ、カウツ。アドラー。展開完了」
25
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:49:38
ビットマンは笑みを強くした。
突然の砲撃によって混乱する敵戦車旅団は中隊ごとに散開していた。ソビエト式の軍事ドクトリンと通信機の性能限界によってソビエト軍の戦車部隊の中隊以下の指揮統制が不可能だった。攻撃するのも、後退するのも全て中隊レベルで行なわなければならず、そこから先の命令伝達が難しい。
しかし、LSSAHにおいてそのようなことはありえなかった。各車間での連絡さえ可能な高性能な無線機が機敏な連携と機動性を彼らに与えていた。
敵戦車群は闇雲な突進を続けていたが、その前面にはパンツァーカイルの陣形から両翼を前進させV字型陣形で待ち受ける4式戦車1個大隊が待ち構えていた。
支援砲撃は両翼の中隊が前進するまでの時間稼ぎに過ぎない。
敵の旅団指揮官が両翼に展開した4式中戦車の存在に気がついたのは彼我の距離が2000mを切った時だった。
4式中戦車は停止して発砲。
対してT−34/85は走行しながら発砲。
結果は対照的だった。
一撃で12両のT−34が前面装甲を貫通され、その後部まで吹き飛ばされた。対して4式中戦車の損害は0だった。
クリスティー式サスペンションはその優秀性だけ語られる傾向があるが、実際は震動が酷く走行中の射撃は全く無謀だった。
そもそもT−34は2000m以上の距離での砲撃戦など全く考慮された設計がなされていない。
2000mからの射撃なら200mmの垂直装甲を貫通する100mm対戦車砲、別名長10サンチ高角砲は対艦攻撃用の徹甲弾をそのまま利用していた。
2000tもある駆逐艦を攻撃するための徹甲榴弾を地上を這い回る30t足らずの戦車に向けて使用すればその結果は自明である。車体内部で爆発した徹甲榴弾は砲弾ラックの弾薬を誘爆させた。爆圧で砲塔が上がる。乗員は即死だ。
「いいぞ、各車撃ちつづけろ」
両翼からの射撃を浴びてT−34/85は殆ど一方的に撃滅されていった。
ビットマンはこの日の戦闘で11両のT−34をしとめ、LSSAHは1個戦車旅団を丸ごと叩き潰す戦果を挙げた。
それでも、満州の前線において攻勢にでたソ連軍は巨大なスチームローラーのような、万力のような圧力をもって東西からある一点を目指して進撃を続けていた。
その一点は満州国の首都、新京と重なっていた。
26
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:50:15
日ソ戦争開戦直前になって、日本陸軍は満州防衛のために関東軍の組織をほぼ解体する形で再編成を行い、満州総軍司令部を新京に開設した。
満州総軍は第1、2、3、4方面軍を総括し、その指揮下に陸海軍の航空部隊を統合した第7航空軍を指揮下において、統合的な作戦指導が行なえる体制を整えていた。
総兵力は80万。歴史上、日本人が作り上げた陸軍としては最大規模だった。
歩兵師団24、戦車師団4、高射師団4、独立戦闘旅団10、独立中戦車大隊15、独立砲兵聯隊19、独立砲兵大隊14を有する大兵力だった。
独立戦闘旅団は陸軍においては編成されたばかりの新戦力で、歩兵1個連隊と戦車1個大隊を基幹として砲兵、工兵、高射兵など各1個大隊を組み込んだ諸兵科連合部隊だった。
ドイツ軍が先の大戦末期において多用したカンプフグルッペを範としたもので、それを建制化したものだった。
同様に独立中戦車大隊も、嘗てドイツが大戦末期に実戦投入した6号重戦車を集中運用する独立重戦車大隊を模範としている。ただし、装備車両が4式中戦車であるために重戦車大隊にはなっていない。
高射師団は純粋な防空部隊であり、満鉄沿線や都市部の防空を行なっていたが、高所速の高射砲を多数装備しているので対戦車能力はかなりのものだった。
対するソビエト軍は狙撃120、戦車師団1、戦車旅団40個と 30000門の火砲、2000機の作戦機を以って兵員数において3倍以上の戦力差がついていた。
3年前にソビエトは単独で英仏独の連合軍を叩き潰したことを考えれば、戦力差は10倍近いと見積もられていた。これは精神力の有無でどうにかなる問題ではないことは明らかだった。
日本陸軍は欧州連合軍、とりわけドイツ軍を壊滅させたミーシャの軍隊を心の底から恐れていたし、その認識は全く間違っていなかった。
しかし、
「LSSAHはチハルルから撤退しました。ソビエト軍の進撃速度は予想を下回っており、戦線は辛うじてですが維持されています」
情報参謀、堀栄三少佐の報告に山下奉文陸軍大将は深く頷いた。
新京は連日連夜ソビエト軍の爆撃を受けていたが、コンクリートで固めた地下指揮所には何ら問題なかった。
満州総軍は兵力を4方面に分けていた。
第1方面軍は満州東部の牡丹江に展開し、ソ連軍の第1極東方面軍の相手に激戦を展開していた。戦闘の焦点は満鉄線路が延びる牡丹江市であり、牡丹江を天然の防衛線として布陣した第1方面軍はソビエト軍の侵攻を完全に阻止していた。牡丹江の防衛線を突破された場合、新京を東から衝く形になり、満州全体の失陥に直結することからこの戦線の重要性は大きい。
第2方面軍は満州北東部の防衛を担当し、第2極東方面軍と戦っていた。現在はチャムースーを保持していが、既に後退が開始されておりハルピンまで後退する予定だった。
第3方面軍は満州北西部の防衛を担当し、ソビエト軍最大戦力のザバイカル方面軍の相手をしている。満鉄線路のあるチチハルは既に放棄されていた。現在はハルビンにむけて後退中である。
第4方面軍は、ザバイカル方面軍の主攻を受ける満州西部の防衛を担当する満州総軍の最大戦力がこの方面に投じられている。現在の最大の激戦区であり、この方面が崩れると新京が直撃される。
どのような国でも道路網、鉄道網は首都から放射状に整備されるものであるから、新京の失陥は満州国の失陥に直結していた。
27
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:51:09
「新京やハルピンに大量の難民が押し寄せており、この後送には時間がかかりそうです。鉄道網が爆撃によって寸断されており、輸送効率の低下が止りません」
「邦人の脱出は終っているのだな?」
「はい」
既に3年前から、欧州連合軍がソビエトに敗れた時点から、近い将来に訪れる対ソ戦に備えて関東軍は政府の対ソ融和策を無視する形で
関東軍は満蒙開拓団や満州国内の日本資産の国外移転を進めていた。
とかく、その暴走、独断専行の歴史ばかりが指弾される関東軍であったが、この独断専行は全く正しい判断だった。政府はソ連を刺激することを恐れて陣地構築や邦人疎開に消極的だったのに対して、関東軍は半ばだんまりで強引な疎開を推し進めており、戦場に日本人は兵士と軍人以外は存在しないようになっていた。
もちろん、都市部ではそうもいかず、都市機能を維持するために日本人がかなり都市部には残っている。
満州総軍の任務は彼らが朝鮮半島や本土に脱出するまでの時間を稼ぐことであり、そこに満州国国民の保護は含まれていなかった。
つまり、最初から日本政府、及び軍部は満州国の防衛を破棄したといえた。
しかし、山下は在留邦人の脱出が終ったあとでも、本来であるならば不必要な戦闘を継続させている。
そのことについての非難が内地では上がっており、東京では山下を罷免させようとする運動さえ行なわれているようだった。
山下としては、したいようにさせておくつもりだった。それに抵抗する意志などないし、内心この戦争にはうんざりとしていた。
陸軍主流派から外れている山下は、自分がなぜ満州総軍の指揮官に抜擢されたかその理由が手に取るように分かる。主流派の人間は敗北必至である満州での戦争で責任を取らされるのがイヤだったのだ。
実際、山下に要求されているのはソビエト軍に可能な限り打撃を与え、朝鮮半島へ撤退することだった。
誰1人手を上げなかった損な仕事である。
満州からの撤退戦という、どうころんでも最終的に敗北するしかないこの戦争から降りることができるのなら、山下は喜んで辞表を書くつもりだった。
ま、せいぜい好きにやるさ。
28
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:53:28
開き直りに近い覚悟を固めて山下は戦況に向かいあっている。
戦況は悪いが、全く希望がないわけでもない。何よりもその最終目標が明確なのはありがたかった。
要するに、我々は上手く負ければいいのだ。
各方面で日本軍は粘り強く戦い、そして後退を続けている。
3年前から関東軍が政府にはダンマリで構築してきた陣地はその機能を保っている。
国境の守りを放棄し、その資材を振り向けて作られた縦深防御陣地は多数の抵抗線と予備陣地、対戦車壕によって構築されており、ソビエト軍の迅速な進撃をよく阻止していた。
特に関東軍は独自の財源(阿片密売)によって、世界中から武器を買いあさっており、欧州戦終結後に流出した多数の英仏独の装備がこれらの陣地構築に使われていた。
数百万個の地雷が英独製の地雷が満州に持ち込まれており、大量に埋設した対戦車地雷がソビエト軍の急進撃を阻止するのに役立ってる。
また、歩兵師団には対戦車砲兼カノン砲として旧式化した高射砲を多数配備されていた。十四年式十糎高射砲や八八式七糎野戦高射砲は大正時代に開発された古い砲であり、既に旧式化していたが、高初速を見込まれ、各地で対戦車砲兼カノン砲として活用されていた。十四式十糎高射砲ならT−34をアウトレンジで撃破できる。駐退器に欠陥がある八八式は連続射撃が困難であるし、貫通力も十分ではなかったが近距離で側面を不意撃ちする限りでは十分だった。本来対戦車砲とはそのように運用される。
しかし、これらの高射砲は本来固定式であり、迅速な移動が困難だったために位置を暴露してしまうとソ連軍の砲兵によって容易に撃破されてしまう欠点があった。
歩兵の対戦車火器は他にも使い捨て式の対戦車ロケット砲があり、90mmのロケット弾を発射する発射機と十字フィン付きのロケット弾で構成される歩兵携帯対戦車兵器だった。射程は約100mで、HEAT弾によって120mmの装甲を貫通する能力があった。T−34なら正面装甲に当たってもこれを撃破できる。
しかし、戦線を突破した戦車に対して最も有効な兵器は同じ機動力をもつ戦車をぶつけることだった。
4式中戦車はその主砲の高い攻撃力によって弾切れまでT−34を寄せ付けなかったし、KV−1のような重戦車でも2000m先から撃破可能だった。
各方面で、4式中戦車を装備した独立中戦車大隊、戦闘旅団、戦車師団がおびただしい数のソ連戦車を撃破しながら後退している。
満州総軍の指揮下にある第8航空軍の陸海軍の戦闘機部隊は開戦の第一撃を空中で向かえ、これに大損害を与えることに成功しており、制空権は今だ日本軍にあった。
しかし、その制空権を利用した対地攻撃は繰り返し要請しているのにも関わらず低調である。
第8航空軍は航空支援の要求を無視し、前線の戦車を叩くのではなく少し後方の敵航空基地と輜重段列を狙って戦闘爆撃機を多数繰り出して波状攻撃を行なっていた。また、交通の要所、橋梁や鉄道路に対する爆撃によって交通妨害を行なっていた。
山下自身はまだ把握していなかったが、これらの地味な攻撃はソビエト軍の迅速な電撃戦を不可能にさせていた。
前線の戦車旅団は突破戦闘によって多数の弾薬と燃料を消耗しており、その補給を必要としていたが輸送用のトラックと道路と鉄道を重点的に狙った襲撃が前線の補給を困難なものにしており、輸送効率の低下によって補給を受けられない戦車旅団は残燃料が乏しくなると進撃と停止して、その場で防衛体制に入った。日本軍の後退が追撃を受けることなく迅速に行なわれているのはそのような理由があった。
29
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:55:01
ソビエトは対日侵攻作戦を開始するにあたって5000機の作戦機を用意して、これに臨んだ。
これは日本陸海軍の全航空戦力のおよそ2倍にあたり、満州に展開した陸軍航空隊の航空戦力が約1000機だったことを考えるとその戦力差は既に絶望的なものといえた。
戦力の集中は戦術の基礎中の基礎とはいえ、満州の日本軍を壊滅させるには十分すぎるほどの戦力といえた。少なくとも、ソビエト軍はそのように考えていた。
しかし、現実には満州の陸軍航空隊、実際には陸軍航空隊のほぼ全力をソビエト空軍が撃滅しえたかといえば、それは決定的に否といえた。
日本陸海軍が整備した航空戦力は、彼らが滅ぼした独仏空軍とは決定的に性質のことなるものだったからだ。
「モモ1、よりクリ1へ。目標発見。3時方向。まず、ロケットで先頭と最後尾を叩く。安全装置の解除を確認しておけ。対空砲火に注意しろ」
ドイツのテレフォンケン社の亡命技師によって完全な性能を発揮できるようになった空中電話機を使い、列機に指示を出しながら編隊長は機体を降下させた。
5式戦、飛燕3型は緩降下しつつ、平原の上を飛ぶ。
下方に広がる視界は一面の緑だった。それを横切るように土色の道路が続いている。北から南へ向かう真一文字の道路は、北に向かえばハイラル、南に向かえばハルピンに続く幹線道路に1つだった。
道路にはキャラバンのようにソビエト軍のトラックが長蛇の列を作っていた。車列は地平線の向こうまで続いているらしかった。大陸国らしいスケールの大きさである。
日本では想像することさえ困難な満州の広大な戦争風景だった。東京の下町生まれで、狭苦しい界隈を見て生まれ育った編隊長にとっては何度見ても首を傾げてしまいそうになる非日常だった。
道路は上空からでも分かるほどの酷い渋滞だった。
日本軍は後退する際に満州鉄道を徹底的に破壊したために、ソビエト軍は補給の大半をトラックに頼らなければならなかった。
そのために補給効率の低下は前線においては弾薬の不足という形で現れ、ソビエト軍は全般としては優勢ながらも決定的な局面でチャンスを逃すことを繰り返していた。日本軍はソビエト軍が補給の欠乏で停止するたびに巧みに局地的な反撃を繰り返し、そのたびにソビエト軍は甚大な損害を与えていた。
このような状況において、ソビエト軍は多くの場合現地調達と称して略奪、暴行、強姦などの犯罪行為に走る傾向が強い軍隊だったが、この戦争においてソビエト軍は驚くほど紳士的に振舞っている。ソビエト軍は住民に食料を配給し、破壊されたインフラを再建し、住民からの尊敬を得ることに成功している。
この戦争において、日本軍は、というよりは満州の全軍を預けられた山下奉文大将は開き直りに近い姿勢でこの戦争に臨んでおり、2度と日本人が満州に戻ることはないことを確信していた。
そのために日本軍は今だに満州の奪回に未練がある東京の陸軍参謀本部の命令を無視して、各地のインフラ設備を完全に破壊する焦土作戦を実施しており、補給の欠乏からソビエト軍が現地調達を行いたくても、それができないという彼らにとってはアンビバレンツな状況となっていた。
もちろん、この種の焦土作戦には反対が多い。村や穀倉を焼かれる住民にとっては言語同断な作戦である。しかし、山下大将は旧関東軍の特務機関を使って偽のソビエト軍の略奪を演出し、住民を巧みに難民として後送した後であらゆるものを焼いていった。飲料水には青酸の混ぜ、防衛できない都市は放火、爆破した。
戦後、戦争犯罪人としてソ連が山下の引き渡しを要求したのもこの作戦のためだった。日本は黙殺したが。
もちろん、そのような事情は編隊長の知る由もなかったし、ソビエト軍が補給に苦労しているというのはよい知らせだった。開戦以来、多くの仲間をソビエト軍機に撃墜されてきた編隊長はロシア人が躓いて転んだだけでも飛び上がって喜ぶほどロシア人を憎悪するようになっていた。
30
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:57:51
「てッぇ!」
編隊長がトリガーを引くのと同時に列機もロケット弾の発射した。
28号と呼ばれる3式1番28号爆弾、対地攻撃用ロケット弾は秒速300mでほぼ直進し、機体の微妙な操作によって広域に散開しながら車列を包み込むように着弾した。
爆発。
200m四方に火炎地獄が生まれた。
兵士を満載したトラックがロケット弾の直撃を受け、木っ端微塵に吹き飛ぶの編隊長は見た。ロシア人が空中に放り出され、ばらばらになって人形のように滅茶苦茶になってはじけ飛ぶ。
これが戦場でなければ笑い転げたいところだったが、編隊長は笑みを堪えて素早く機体を左旋回させた。
この時になってやっと、随伴の対空トラックの射撃が始まった。
射撃時間はあまり長くなった。別働の5式戦がロケット弾で対空火器を制圧したからだ。
戦闘機らしい俊敏な機動で進路を変えながら、4機の五式戦は補給段列の車列を銃撃していく。編隊長も立ち往生していた戦車に銃撃を浴びせて、これを炎上させた。海軍式のエリコン20mm機関砲は炸薬量が多く、エンジングリルを狙えば戦車を簡単に炎上させることができた。
道路から蜘蛛の子を散らすようにソビエト軍の兵士が逃げていく。編隊長は残ったロケット弾を叩き込み、彼らを粉々に粉砕した。
街道は墓場のような有様だった。逃げた兵士はトラックから10m四方の距離で殆どが死亡した。生き残った者は殆どいない。
編隊長は列機を集合させ、離脱に移った。その機動は戦闘機らしい俊敏なもので、まるでソビエト軍は通り魔にあったようなものだった。
5式戦は元々液冷エンジンDB601を搭載したスマートな3式戦「飛燕」から発展した陸軍航空隊の分類では軽戦闘機と呼ばれる機種だった。陸軍航空隊において軽戦は前線の制空戦闘と軽爆任務を兼ねる機種であるので、このような敵補給部隊への襲撃作戦を5式戦が行なうことは当然のことだった。
制式化以後、整備性や生産性の面で様々なトラブルが発生したDB601のライセンス生産品、ハ40の失敗に懲りた陸軍航空隊は亡命企業のダイムラーベンツが推薦したDB605を蹴って、5式戦にハ112(金星)に換装を決定した。
奇跡的にもハ40からハ112への換装は順調すぎるほど順調に進み、試験飛行においては関係者から神風が吹いたと狂喜するほどの性能を示した5式戦は1式戦「隼」や旧式化した軽爆、襲撃機を置き換えるために大量生産が進められていた。
過給機の性能が貧弱であるために高高度では急激に性能が低下する欠点があるが、低空においてなら5式戦は2000馬力級戦闘機とさえ互角に戦えるポテンシャルを誇る。
既に編隊長は3機のLa−7を低空での格闘戦で撃墜していた。
集合を終えた編隊はドイツ流のフィンガーフォーを維持しながら、帰路についた。
彼らの発信基地は新京よりもさらに南の撫順の郊外の野戦飛行場だった。そこは今だにソビエト空軍の攻撃が及ばない聖域だった。
航続能力が短いソビエト製戦闘機は前線上空での戦闘には適していたが、戦線の遥か後方を攻撃するには全く不適当だった。
欧州の常識から遥かにかけ離れた航続能力を誇る日本陸海軍の戦闘機部隊は朝鮮半島や遼東半島の基地から出撃し、帰還することが可能だった。
これがドイツ空軍だったのならば、開戦と同時の奇襲攻撃で前線に並んでいたところを撃滅されてしまったところである。事実、先の大戦においてドイツ空軍は前線の飛行場で並んでいたところを先制攻撃され、開戦初日に壊滅している。
ソビエト空軍の攻撃圏の遥か彼方から戦闘機を発進させる日本陸海軍機は敵からしてみればやっかいな相手だった。地上で捕捉することはできず、空中においては戦闘を徹底的な避けられる。倍近い戦力差があっても、空中戦だけで敵航空戦力を撃滅することは不可能である。
もちろん、ソビエト軍も手をこまねいているだけではなく、日本軍基地への攻撃を繰り返していたが、早期警戒網とおびただしい対空火器に守られた航空基地を戦闘機の護衛もなく攻撃するのは組織的な自殺強要と同義語だった。
31
:
サラ
:2006/11/26(日) 22:59:28
「隊長、11時方向。イリューシン」
並走するようにIL−2が飛んでいた。
シュツルモビークと呼ばれる対地攻撃機だった。既に旧式化しつつあるが、戦車にとっては今だに天敵の1つである。
方角からして、ハルピンの守備隊を爆撃するためのものだろう。
「ほかに敵機はいるか?」
「確認できず」
編隊長は迷った。
陸海軍航空隊は戦闘機部隊に対して絶対有利な場合、或いは緊急回避の場合を除いて空対空戦闘を禁じていた。
彼我の戦力差を考えれば、当然の処置だった。空対空戦闘は派手ではあるが、戦力の利用法としてはあまりにもコストパフォーマンスが悪い。
編隊長はしばしば、その命令を過酷な任務から部下を守るために濫用していた。
敵機は今だにこちらに気付いていないようだった。ほぼ同高度、巡航速度はこちらの方が早い。敵機は4機。同数だ。護衛の戦闘機は確認できない。絶対有利といえるかは微妙だ。
編隊長は燃料計を確認し、まだ一戦やれるだけの余裕があることを確かめた。
「モモ1より、クリ1へ。イリューシンをやる。クリ1、2は上空援護。こちらが突っ込む。敵機が散ったら、クリ1が上から仕留めろ」
「了解」
編隊長はスロットルを開いた。高度をとりつつ、猛然と接近する。
IL−2が5式戦の接近に気がついたのは銃撃を浴びる直前だった。稼いだ高度を速度に変換しつつ、降下しながら5式戦は銃撃を浴びせた。
陸海軍の航空協定によって陸軍に供給されるようになったエリコン20mm機関砲は弾頭重量が重く、大型爆撃機にも致命傷を与える。
編隊長は確かなOLP照準器の中央からやや下に、IL−2を捉え引き金を引いた。主翼の付け根に焼けた曳航弾が吸い込まれる。
銃撃を浴びせた5式戦はIL−2を掠めるように飛び過ぎた。続けて列機が同じIL−2を攻撃し、追加打撃を与えた。
そこでやっとシュツルモービクはゆっくりと傾き、エンジンから火を噴いてバランスを崩して落ちていった。
編隊長は降下で得た速度にエンジンのパワーを追加して高度を即座に回復させた。
上空援護をしていたクリ1、2。5式戦が2機、降下しつつ編隊を崩したIL−2に襲い掛かり、これを1機撃墜した。
編隊長は上空で戦果を確認しつつ、油断なく周囲を警戒した。護衛の戦闘機は見当たらなかった。
残余のIL−2は爆弾を捨てて離脱に移った。
追撃する余力はなかった。
「帰投する」
編隊長は何事もなかったように言った。
32
:
サラ
:2006/12/03(日) 19:19:15
ストーム・オーヴァー・ジャパン9
日本軍は全ての戦線において後退していたが、ソビエト軍に大きなダメージを与えていた。
4式中戦車は弾切れなるまでT−34を近寄せなかったし、少数ではあるが日本陸軍航空隊はソビエト空軍に対して常勝だった。歩兵は開戦前から構築されていた陣地に篭ってねばり強く戦ったし、地雷原と対戦車ロケット砲は戦車の不用意な突進を許さなかった。
しかし、それでもソビエト軍は3個師団をハルピンにおいて捕捉し、これを包囲していた。
「凄いぞ、地獄が見える」
ペリスコープから見える視界は小さかった。
それでも、その小さな世界は地獄で満たされている。視界の外にはその何十倍もの地獄が広がっていた。
砲爆撃の嵐が通り過ぎた平原は世界の果ての、その又向こう、アビスに近い風景だった。大地は炭化した植物によって黒く覆われ、沈下する灰によって縁取られていた。雪のように舞う灰はかつてここが豊な森だったこと教えてくれる。
燃え尽きた潅木や、雑木はさながら魔界の植物のように奇怪な姿であちらこちらに倒れないまま点在していた。
まさに戦場と呼ぶしかない光景だった。
生きている者など何一つ存在しないように見える。
この地獄さながらの光景を作り出したのは、日本陸軍がアメリカから緊急に輸入した新型のナパーム弾の仕業だった。
ナパーム剤を混ぜたガソリンとパーム油、ナフサの主成分とするナパーム弾を4発搭載した5式戦の数個編隊は対戦車砲が配置されていた雑木林と潅木の森を一瞬で焼き払い、ハルピンに向けて突進する第3戦車師団の最初の障害を粉砕していた。
数百度の高熱と大気を無酸素状態にするナパーム弾は広範囲の制圧にも優れており、数発のナパーム弾がT−34の1個大隊を壊滅させることも不可能ではなかった。ソビエト軍は戦車を集中して、密集させて運用することを好んでおり、その中央にナパーム弾が投下されると手のつけられない混乱に陥った。
「1時方向、敵戦車」
車長の声に砲手が素早く反応した。
4式10糎対戦車砲をおさめた巨大な砲塔は450馬力ディーゼルエンジンから一部動力を融通してもらっているにも関わらず旋回が遅い。内地で製造している改良型は補助エンジンを追加することで旋回速度をさらに高めていると聞いているが、ここにあるのは初期型の4式中戦車だけだった。
初めて見るその敵戦車は、今まで見てきたどの戦車とも違った。
砲塔は球体を半分に切ったような、御椀型の避弾経始の極地のようなスタイルに、車体もまた低重心で見るからに避弾経始に優れたフォルムだ。
どこか97式中戦車などの垢抜けないデザインを引きずる4式中戦車とは明らかに設計の存在している次元が違う。
その戦車こと、世界で始めて外国人が目にすることになったトロツキー重戦車3型、LTー3だった。
33
:
サラ
:2006/12/03(日) 19:19:45
「撃て」
車長は2500で射撃を命じた。
砲手がそれに答えた。赤く焼けた10糎徹甲榴弾がLT−3の正面装甲に吸い込まれる。
そして、弾かれた。あらぬ方向へ砲弾がすべり、視界から消える。
車長は顔面を引きつらせた。
2500m先からT−34の前面装甲を貫通する10糎徹甲榴弾が弾かれたのはこれが初めてだった。
続けて敵戦車の反撃が来た。発砲。発射炎、煙はこれまで見た砲の中でも一番大きかった。
4式中戦車は急発進で辛うじてこれを回避した。
車長は後方に爆発音を聞いた。危険を承知でハッチを跳ね上げ、上半身をさらして振り返ると僚車が敵戦車の直撃弾を浴びて擱坐していた。炎上している。
車長は視界が黒く狭まるのを感じ、意識して目を見開き敵情を探ることに徹した。怒ってはいけなかった。噴兵は死ぬ。
4式中戦車はジグザグ走行でさらに間合いをつめ、4発の10糎徹甲弾を命中させたがLT−3を撃破することはできなかった。
LT−3は後退しながら、ときおり思い出したように主砲を放つ。
車長はその射撃速度があまりにも遅いことに気がつく。
こちらが4発放つ間に、敵は1発を撃つのがやっとのようだった。射撃速度はこちらの方が明らかに早い。しかし、主砲の破壊力は向こうが上だ。LT−3は2500mから4式中戦車の前面装甲を貫通する。
実際には、貫通するのではなく122mm砲弾の大重量から来る衝撃波によって内部の装甲が剥離して、その一片が砲弾を誘爆させたことによって4式中戦車は撃破されてしまうのだが、車長はそのことに気付いていない。
4式中戦車は性能が許す限りの最高速度で突進し、LT−3重戦車の側面に回ろうとする。
その速度は速いとは言えない。
4式中戦車の450馬力空冷ディーゼルエンジンは36tの車体を支えるにはやや非力だった。水平コイルスプリング懸架装置は高速走行に向いているとはいえず、トロツキー重戦車のトーションバーサスペンションのような安定性も期待できなかった。履帯に関しても単純なシングルピン・シングルブロック、小型転輪式で必ずしも不整地での高速走行には向いていない。
4式中戦車とは100mmの傾斜装甲と10糎対戦車砲こそ優秀だったが、それを構成する技術については旧来のものをそのまま利用していた。
4式は古い設計による最強の戦車と言えた。
LT−3は砲塔と旋回させ、側面に回ろうとする4式を撃つが、なかなか当たらない。
トロツキー重戦車の122mm砲は元々野砲であるので、砲弾と装薬が分離していた。野砲なら問題にはならないが、車体容積の小さい戦車では大きな問題だった。別々に砲弾と装薬をセットするには時間がかかる。砲弾収納スペースも十分とはいえない。おかげで射撃速度は高くない。一撃の威力は素晴らしかったが、射撃速度と命中率は高くなかった。
4式が側面に回りこんだとき、LT−3は全ての砲弾を撃ちつくし、乗員はハッチからわらわらと逃げ出すところだった。
車長はそれを複雑な表情で見つめ、後方の大隊司令部に連絡を入れて敵戦車を鹵獲するための用意をするように要請した。
34
:
サラ
:2006/12/03(日) 19:20:19
ハルピンに包囲された3個師団を救出するために発動された「F作戦」は30kmの突破と包囲下にあった3個師団の10kmの脱出によって成功したが、その損害は甚大だった。
解囲のために満州総軍は第1戦車師団と4個戦闘旅団及び支援戦力として2個砲兵連隊を投入していたが、突破を図った第1戦車師団は大きなダメージを受けていた。側面援護の4個戦闘旅団にいたっては壊滅状態だった。
それでも、3個師団を救い出し、数万の難民を包囲下から脱出させることができた。当初の作戦目標は達成され、満州総軍はこれを勝利と判定した。
「果たしてそうだろうか?」
車長は疑問に思った。
雨が降っていた。
満州の年間降雨量はあまり多くない。雨が降るのは珍しいことだった。皆無ではないが、雨よりは雪が降ることが多い。
彼の4式中戦車とその1個大隊は数度にわたって襲来したT−34の旅団を撃退し、脱出回廊を確保することに成功していた。
回廊の幅2km程度だが、全長は40kmに及ぶ。彼と彼の所属する大隊この回廊を後3日間死守するように厳命されていた。
雨が降っているおかげで道は酷くぬかるんでいた。鉄路は使えないので移動はトラックか、馬匹か、或いは徒歩だった。道が抜かるんでしまうとトラックは動けなくなる。馬匹はそれよりはましだったが、速度は遅くなる。こんなときに役立つのが無限軌道を備えたハーフトラックだった。
戦車長は忙しく行き交うハーフトラックに列を眺めた。
日本軍は車両整備についてある種の開き直りに近い精神にいたり、戦車や自走砲などの正面装備以外は全て輸入することにしていた。自動車産業全般の立ち遅れから、トラックやハーフトラックの生産が間に合わないためだ。もてる全能力を戦車の生産につぎ込むのは間違いではなかたっし、おかげで月産300両の4式中戦車の生産ラインが途切れることなく戦車を供給している。
割を食ったのがハーフトラックなどの支援車両だった。しかし、いい面もある。日本製よりもよほど信頼性の高い米国製のM3やM2、或いはその廉価版であるM9,M5によって戦車師団の歩兵部隊は完全に装甲化されていた。通常の歩兵師団でも、アメリカから緊急輸入したトラックによって最低でも自動車化されている。近衛師団のような機動歩兵師団も現れていた。
満州総軍は戦車師団からハーフトラックを取り上げて、難民と負傷兵の後送に利用していた。おかげで、期日どおりに包囲からの脱出に間に合いそうだったが、その後には絶望的な後衛戦闘が待ち受けている。
車長の回りで工兵隊が進めている対戦車壕の切削や、地雷原の設置はそのための陣地作りだった。
これが効果を発揮するのは、そう遠くない未来のことだろう。
しかし、こんなことをして一体どうなるというのだろう?
戦車長は暗澹たる思い出難民と敗残兵の列を眺めていた。
戦況は悪く、いつでもどこでも我が軍は撤退を繰り返していた。敵に大損害を与えているといっても、満州の過半が既に失われている。
こんなことをしていては、いつかどこかで限界が来る。
反撃で敵を一掃するか、それとも大胆な撤退で戦線を縮小するか。下級士官にさえ分かりそうなことが、上層部に分からないはずがないと思った。
この戦争をどうやって終らせるつもりなのか、車長には想像もつかなかった。
35
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:44:51
ストーム・オーヴァー・ジャパン10「震える電」
ソビエト連邦における長距離爆撃機の開発は以外にも古く、第1次世界大戦時には既に4発爆撃機「イリヤー・ムーロメツ」を送り出している。
イリヤー・ムーロメツは爆弾搭載量は800kgを誇り、5丁の機銃で防護され、さらに装甲板さえ備える後の大型爆撃機の雛形ともいう存在だった。
もっとも、製造されたのは僅かに75機に過ぎない。第1次世界大戦を終らせたのはイリヤー・ムーロメツの800kg爆弾ではなく、戦車と水兵の反乱だった。
それでも、ロシア人による大型爆撃機の開発は続けられた。彼らが民族的に巨大な建造物を好む傾向があることもその一因であるが、それよりもより現実的な議論と論理的な帰結の上で、巨大な爆撃機による空中艦隊こそ次の戦争に勝つための必勝手段であると確信していた。
しかし実際には、次の戦争となった第2次世界大戦は機械化部隊による電撃戦、縦深突破によって決着がついてしまった。英国本土への戦略爆撃も、英国がソビエトと妥協したことによって不発に終っている。
空を埋め尽くすような爆撃機の大編隊が敵国の首都を焼き滅ぼす、そのような戦争は起きなかった。ベルリンも、パリも地上侵攻によって占領され、戦争は終った。
考えてみれば、空爆だけで戦争を終らせることが不可能であるのは子供でも分かる話である。爆撃で破壊された工場は再建すれば済む話であり、再建が不可能になるほどの継続的な爆撃を行なうよりも地上侵攻によって工場を占領してしまうのが早い。戦場を制するのは歩兵であり、戦争を終らせるには突き詰めれば敵国の首都を占領するのが最も早い。
結果として、なんら戦争に寄与することなく終ったソビエト空軍の長距離爆撃機部隊は殆どが前線の戦術爆撃に転用され、後継機の開発もまた殆どがスローペースになり、後継機の量産も遅々として進まなかった。
満州への武力侵攻が決定した段階において、ソビエトに日本本土を直接攻撃できる爆撃機が殆ど存在しなかったのはそのような理由だった。
それでも、その日東京を目指して南下する爆撃機の編隊があるのは、彼らがこの戦争を終らせるために日本本土を叩く必要性に気付き、必要な措置を講じたためだった。
「佐渡島北西洋上、高度4千m。大型機30機が南下中」
最初に反応したのは日本海で警戒航行中だった駆逐艦早潮だった。
僅か4隻だけで建造が打ち切られた陽炎型駆逐艦のうちの1隻は日本海軍において最も進んだレーダーを装備した。
参戦こそしていないものの満州戦争における英国製のレーダーのプレゼンスは大きく、英国製レーダーによって迎撃管制、早期警戒システムを実用化していた日本軍は効果的な航空作戦を可能にしている。
すぐさま、通報が東京の厚木基地地下にある巨大な防空管制センターに入り、地上CGIの全てに警報がなされた。
佐渡島には既に視程300kmを誇る早期警戒レーダーが配備されていたので、間もなく早潮が捉えた爆撃機の編隊は捕捉され、刻々と情報が各基地へ伝達されていった。
爆撃機が大型であること、そして飛行高度が既に8000mを超えていることから、最新型のTu−5。6発爆撃機である可能性が高かった。事実、その通りだった。
ソビエト軍に沿海州から発進して、日本本土を爆撃機して帰還できる爆撃機はTu−5しかない。
既に日本海沿岸の各基地からは陸海軍の戦闘機が離陸し、高度をとるために上昇を開始していた。
航続能力の長い日本軍機は、迎撃戦闘においても滞空時間が長く取れるために長時間の空中待機に耐えることができる。それは迎撃効率の向上に大きな意味があった。
続きます
36
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:45:36
ストーム・オーヴァー・ジャパン10「震える電」2
高高度の深い青の中に、飛行機雲が幾重にも重なって南へ向かって伸びていた。
雲は遥か下方に山をつくり、まるで流氷の海のように見える。その遥か上空をTu−5重爆撃機は飛行していた。
彼と彼の愛機はそれよりもさらに高い空を飛んでいた。高度10000mまで後少し。雷電改は強制空冷ファンの金属音を怒らせて、時速650kmで会敵予想地点に向かっていった。
地上で茹るような暑さの飛行服も、電熱器も今は肌の隙間から差し込む冷気を追い払うには力不足だった。
それでも吐く息は熱く、冷えた酸素が気持ちがいいほどだ。
「サド、サド。こちら新撰組1番。指示をあった敵機を発見した。Tu−5重爆撃機、約30機。おそらく東京へ向かうと思われる。ほかに反応はないか?」
「ほかに反応なし。それだけだ」
「了解。攻撃する」
「ロスケを吹き飛ばせ」
地上CGIの管制官の声援を受けて、彼は機体を軽くバンクさせた。列機も軽くバンクした。列機とのやりとりはそれだけで十分だった。
彼はスロットに全開にしつつ、Tu−5との間合いを急速に詰めていく。雷電改は高度10000mの高空にあってその性能を完全に発揮していた。
雷電改は14試局地戦闘機として開発された海軍初の対爆撃機迎撃専用機だった。14試局戦の開発が決まった時、その仮想的はソビエト軍のSB−2だった。雷電は強力な火力と上昇性能、高速度によって爆撃機を迎撃し、基地を守るための局地防空用戦闘機だった。
もっとも初期型の雷電はエンジンの震動問題と視界不良、機体強度の不足など様々な問題が続発し、一時は開発中止さえ検討されたほどだった。
雷電改は欧州での戦闘の戦訓とドイツから亡命した亡命軍人の戦訓と亡命企業のメッサーシュミット、ハインケル社の技術をふんだんに注ぎ込んだ次世代の雷電と言うべき存在である。
フルカン継手による無段変速機械式過給器の高高度飛行性能と燃料噴射ポンプを組み込んだ大型爆撃機用に開発された火星エンジンの18気筒版ともいうべきハ42をプロペラ延長軸によって延伸し、胴体を紡錘形に仕上げていた。
プロペラについても、震動対策に剛性に優れた幅広大直径プロペラを備えて日本製発動機の中では排気量が飛びぬけて高いハ42の凶悪なトルクに十分吸収できるもの採用している。
視界の不良についても、参考に輸入したF6Fなどを念頭に大幅なかさ上げと枠の少ない涙滴型風防を採用して良好な視界を確保している。
主翼も全面的に層流翼を採用し、機体の急降下上限を時速880kmまで引き上げていた。横転性能など機動性は画期的に向上し、最高速力は670kmに達していた。
対戦闘機戦闘においても優位に戦えるほどの性能向上を果たした雷電改は海軍航空隊の主力として増産が進んでいた。
もっとも、高い着陸速度から零戦の低速飛行性能になれたベテランの搭乗員からはあまり雷電改は好かれていない。年少のパイロットは違和感なく雷電改を乗りこなしていることを考えてみれば、それは単なるわがままに過ぎなかった。ベテランパイロットほどの零戦や或いは零戦よりも操縦が容易な烈風を好んだが、どちらも高速のYak−9やLa−5には今一歩及ばず、不利な戦いになることが多かった。
37
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:46:09
レシプロ戦闘機の終末期に現れた、幾つかの究極の一角を占めるようになった雷電改は高度1万mを己の領域としてソビエト軍爆撃機に肉薄していった。
高度優位を確保した雷電改は爆撃機編隊の上空へと侵入し、次々と背面降下に入る。それは海面に飛び込む海鳥に似ていた。
Tu−5は米本土を射程圏内に捉えることを目的として開発された長距離爆撃機の1機で、6発の2000馬力発動機を備えて速度550kmを達成した巨人機だった。防護機銃は12丁を数える。それが生み出す猛烈な防御射撃が上空から背面降下する雷電改に集中した。
1機が弾幕に正面から飛び込んで火を噴く。即座に自動消火装置にが作動して火を消す。防御用の装甲で囲まれたコクピットではパイロットが舌打ちして機体を離脱コースに乗せる。
弾幕を突破した7機の雷電改は編隊ごとに先頭集団のTu−5をOLP照準器に捉えた。
APIブローバック機構を備えたエリコン20mm機関砲としては最高峰の性能を誇るまでに改良を繰り返した99式2号銃5型を4門備えた雷電改はしゅう雨のように20mm機関砲弾をばら撒く。
弾幕に正撃されたTu−5は胴体を粉砕された。
雷電改はその脇を高速ですり抜け、防護機銃の射程から離脱する。
密集編隊の先頭にいた指揮官機を撃墜されたTu−5はあからさまに編隊を乱した。
そこへ残りの雷電改が肉薄していく。
多数の防護機銃を備えるTu−5への接近は容易ではなく、攻撃は上面からの背面降下か正面攻撃が最も効果的だった。背後から接近した迂闊な雷電改は射弾を集中され撃墜される。
迎撃機は血に飢えたピラニアのように次から次へとTu−5に群がったが、爆撃機の前進を止めるには至らなかった。
ソビエト空軍に後退の二文字はない。シベリアで木の数を数えたい人間はいない。
「裏日本の部隊では止められないようだ。あと1時間で爆撃機が帝都上空に侵入する」
「いよいよですか」
どこか楽しんでいるように藤堂守少尉は言った。
もちろん、本人の意識は表情のそれよりも遥かに遠いところにあったが、それでも外部が観察するかぎり状況を楽しんでいるようにしか見えない。
笑っているつもりはないのだが、どこか微笑んでるように見えてしまう藤堂守少尉の横顔を上官は呆れたように見ていた。
こいつは本物だな・・・
平時においてはどちらかといえば犯罪者に近い性質も、戦時においてはその価値は反転する。
元々、藤堂守は天山艦攻のパイロットだったが、今の彼の纏う空気は完全な戦闘機乗りのそれだった。
本人は決して認めないだろうが、ある意味天性の機会主義者だった守は対ソ戦に備える海軍において将来的に艦上攻撃機、魚雷を装備し敵艦に雷撃を行なう攻撃機に未来がないことを皮膚感覚で悟り、対ソ戦開戦直前に異動願いを出し、戦闘機部隊へと転向した。
操縦者としては天性の才能をもつ守は戦闘機部隊においても、若くて元気のある前途有望な戦闘機パイロットして認められ、対ソ戦が現実のものとなると同時に厚木基地へと配属された。
厚木基地には帝都防空のために海軍航空隊の精鋭が集められた最強の戦闘機部隊が展開している。守はその一員として対ソ戦に臨んでいた。
38
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:46:39
「敵機は全機撃墜する。ただし、市街地に残骸が落ちることはできるだけさけなきゃらん。迅速な攻撃が要求される」
「敵の狙いはどこの工場でしょうか?」
「分からん。だが、もしかすると宮城かもしれん」
重々しい口ぶりで飛行隊長は言った。
飛行隊の面々に緊張が走った。守も表情に変わりがなかったものの、やはり内心は動揺していた。
海軍軍人として任務には徹底した合理性で臨む守も、やはり時代の人だった。
「かかれ!」
飛行隊長の号令で一斉に、パイロット達は愛機の元へ走った。
既に搭乗機は暖気を終えてパイロットを待っている。
それでも全員が自分の目と手で愛機の僅かな異常もないか確認していた。これは飛行隊長が特に指示して全員に守らせている規則の1つだ。それまでパイロットは飛行前の点検を整備員に任せきりにすることが多く、機体の保守、整備についての意識もあまり高くなかった。
「壊さないで持ってかえってくださいよ」
「大丈夫だ。必ず無事に連れてかえるよ」
整備員とも可能な限り会話する時間をつくるように指示したのも今の飛行隊長だった。
整備員とパイロットが一体でなければ、戦闘機は持てる能力を発揮しきることができない。守はこの方針については賛成していた。彼の合理性も、それを肯定している。
整備員の手を借りて、守は操縦席に滑り込んだ。すぐにタラップがはずされる。この戦闘機は搭乗するのにタラップが必要だった。
コクピットから見える視界はクリアーだ。
以前に飛ばしていた天山ではこうはいかない。戦闘機の降着装置としては前輪式を初めて採用した震電は地上において前方視界は良好だった。後輪式ではエンジンカウルに視界が殆ど喰われてしまう。
「ぺラまわせ!」
整備員が機体下面に張り付き、エナーシャをまわしていた。
エナーシャは零戦の場合エンジンカウルの側面にあるが、震電の場合は下面にある。地上高があるので無理なくエナーシャをまわすことができる。
整備員のハンドサインを見ながら守はエナーシャとエンジンを直結させる。プロペラが回りだす。地上員はすぐに退避する。エンジンのスイッチを入れるとあとは自力で回り始める。
整備員が素早く車止めを外す。機体はそれだけで前進しはじめるが、守はブレーキをかけて制動した。ハ43のパワーは強大だった。
編隊長機に続き、守はそろそろと誘導路に入る。エンジントルクで偏向する針路をラダーで押さえつけた。
滑走路までには震電がずらりと並んでいた。12機だ。巨大な震電が並ぶさまは壮観だった。
一番機は滑走路の端から滑走を開始する。加速は早い。しかし、離陸は遅い。高翼面荷重の震電は離着陸速度が異常に高く、運用には重爆並の2000m級滑走路が必要だった。
一番機は機体をやっと浮かせると僅かに機首上げて高度を確保する。ぺラを擦る危険がない高度まえ上昇すると仰角をかけて一気に上昇していく。恐ろしく早い。
ベテランが揃っているだけあって難しい震電の離陸も難なくこなしていった。
最後に守の番がやってくる。12機の中では最若年だった。それでも守は特に緊張などすることなく滑走路に入り、難なく機体を離陸させた。
12機の震電は高度3000mまで上昇し、補助加速ロケットを点火。ほぼ垂直に近い確度で加速しつつ、高度を上げていった。
39
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:47:10
Tu−5、重爆撃機はある意味、酷く数奇な運命を辿った爆撃機だった。
ポストWW2型ソビエト製重爆撃機の始祖として現代では認識されているそれは、実は元々ドイツ製だった。
WW2において、ドイツ空軍はソビエト空軍のしかけた先制奇襲攻撃と消耗戦に敗れたが、その敗北の間際に幾つかの新型機とおびただしい数のペーパープランを生み出した。
Tu−5の原型となったのはユンカース社が開戦前に、ウラル爆撃機としてヴェーファー将軍の指導の下に開発されたJu89、ドイツ空軍初の戦略爆撃機だった。
しかし、ヴェーファー将軍が飛行機事故で死亡するとウラル爆撃機計画は中止され、第2次世界大戦の勃発、そして敗北によってJu−89の未来は完全に閉ざされてしまうことになる。
しかし、ユンカース社はほそぼそと研究を続け、1942年にドイツ空軍が滅亡する直前にJu−290、Ju−390を送り出すにいたった。
Ju−390はBMW801空冷14気筒、2000馬力エンジンを6基備え、8000kmの航続能力と最高速力時速500km。爆弾搭載量6tを実現していたが、ペーパープランの域を出ていなかった。実機は1機も作られていない。
Tu−5はJu−390をツポレフ設計局の手によって改修したもので、技術の遅れから後継機の開発に失敗していたソビエト空軍長距離爆撃機部隊を再建するための切り札だった。
雷電改、疾風、さらには5式戦まで参加した迎撃戦によってTu−5の編隊は半分までに減っていたが、今だ12機が東京を目指して飛行していた。
頑強なTu−5を撃墜することは難しく、弾薬を激しく消耗した日本軍戦闘機部隊は補給のために一旦後退を余儀なくされていた。
作戦前には、東京にたどり着く前に全滅すると考えられたこの爆撃作戦も僅かだが功名が見えてきていた。
既に全機が生きて故郷に戻ることが不可能であることを悟っていたけれど、それでも東京を爆撃することに彼らは少なくない意義を見出していた。
彼らは敵国を空中から焼き滅ぼすために生まれ、育てられた生粋の爆撃機乗りだった。前線で一両の戦車を撃破することよりも、敵国の都市を焼くことに喜びを見出すように教育されていた。
先の戦争において、何ら戦局に寄与することなく、本来の任務からかけ離れた前線での戦術攻撃に従事し、無念にも散っていた仲間のことを思えば、エンペラーの都を焼くために死ねる自分達は幸運だった。自らの命の炎で敵国の首都を炎上させるのも悪くない。誰もがそう思っていた。
そんなとき、彼らは来た。
40
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:47:40
ストーム・オーヴァー・ジャパン10「震える電」3
その時、彼我の相対距離はおよそ10kmだった。
Tu−5の指揮官機が最初にそれに気がついた。
「敵戦闘機!」
真っ青な高高度の空に飛行機雲が12条。
正面から突っ込んでくる。相対速度は音速を超えていた。
Tu−5の機長は見上げるようにして接近してくるそれを見ていた。そして気がついた。
やつらはいったいどれだけの高度で飛行しているのか?
今だ与圧コックピットを持たない、そして何より実用的な廃棄タービンを持たないTu−5の高高度飛行性能はあまり高くない。高度10000mに昇ることさえ一苦労だった。
しかし、敵機はそれよりもさらに高い高度から降下しつつ突っ込んでくる。
そうすると、相手はよほどの高性能な排気タービンか、機械式過給機、そして与圧コックピットを備えていることになる。
機長はヨーロッパを征服した祖国とその科学技術を無条件で信奉していた。それが脆くも打ち砕かれた衝撃に我を失いそうになる。
世界でもっとも進歩的な国家、ソビエト連邦はその科学技術に関しても世界でもっとも進歩的である。それが定説だった。
ある意味、もっとも近代的な、あまりにも近代的過ぎた社会主義による革命を達成したソビエトはある意味、近代という概念の申し子のような国家だった。
科学技術に対する妄信とさえいる信頼もその1つだった。
共産主義、社会主義、マルクス・レーニン思想が生まれたのは19世紀である。20世紀に実用化された技術の雛形が生まれたのが19世紀末のことであり、電気、化学、重工業の発展と科学の進歩は輝かしい20世紀を約束しているかのように思われた時代だった。
実際に、この時期に夢想された未来都市は20世紀末の先進国の大都市よりもよほど未来的であり、夢想的だった。空には複葉機と飛行船が飛び回り、地下鉄道と高架鉄道が都市をくまなく網羅する。そしてその中心にあるのは雲よりも高い超超高層ビル街。そういった夢想的な未来がすぐに現実のものとなると思われていたのが19世紀末であり、近代初期の科学に対する人々の認識だった。
実際に、この場にいた誰もが知らないことだったが、ソビエトに占領されたヨーロッパ各国や、ソビエト本国では古い石作りの街を破壊し、その上に空想的なスケールで巨大なビルディングや集合住宅、完全計画都市と呼ばれる未来都市が建設されつつあり、21世紀末まで全世界規模で残っている共産主義的アーティファクトとなっている。
話がそれだが、ソビエト連邦における科学に対する信頼はその他の先進国よりも遥かに強いものがあった。
これに匹敵するのは米ぐらいなものだった。日本人の科学に対する信仰は(というよりは日本人は信仰心がそもそも何所か欠如しているとしか思えない)生活の利便性のレベルに留まっており、ある意味無邪気ではあったが、信仰とは呼べるほどではない。
アメリカ合衆国はソビエトと同じ近代的な発想に基づく人工国家だけに科学に対する信頼が強いが、もともと宗教色が強い建国課程を経ているためか信仰と呼べるものに達していない。
この20世紀半ばにおけるソビエト連邦における科学への信仰は強いものがあり、自国の科学技術に対する信頼は根強いものがある。
もちろん、4式中戦車の10糎対戦車砲の砲撃でブリキの戦車のように簡単に撃破されてしまうT−34で戦っている戦車兵達は別の意見があっただろうが、ソビエト連邦の最新鋭爆撃機を飛ばしたTu−5のクルー達にとって、自分達よりさらに2000m以上高い高度を飛行していた震電は晴天の霹靂のような衝撃を齎した。
しかし、実際にはさほど劇的な話ではない。
41
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:48:22
「電探情報のミスだ。敵機の飛行高度は10000だ。降下しつつ正面攻撃を行なう」
編隊間無線に不平、不満の声が連鎖した。
地上GCIの情報伝達ミスのために震電12機、3個小隊は無駄に高い高度を飛行していた。
太平洋沿岸の主用工業地帯を守るために日本陸海軍は裏日本全域を埋めつくように電探警戒網を調えていたが。その運用法はまだまだ発展途上といえた。
英国から非公式に派遣されているRAFの指導者によって改善されつつあるものの、今だにシステムとしては完成されていない。誤報、情報の伝達ミスは日常茶飯事だった。
ドイツから亡命したテレフォンケン社の亡命技師達が日本の技術者と英国からの技術支援を受けて作り上げたウツルブルク改、日本名5式2号電探は地上敷設型射撃管制、迎撃精密誘導用レーダーとしてはこの時点で世界最高峰の性能を確保していたが、しかし、それを使う人間のほうにミスが多い。
また、不確実な目視情報や聴音探知などをシステムに組み込んでいるために情報の精度も決して高くない。
それでも、まだ敵前に躍り出ることができただけマシだった。無駄に高い高度をとったことで敵機との接触に失敗したのでは目も当てられない。
藤堂守は小隊長機に続いて、バンクをかけて機体を襲撃コースにのせる。
12機の震電は弓なりの機動を描いて、緩急降下しつつTu−5に接近した。
見る間にTu−5の機体が巨大化する。どちらかといえば旧来的な技術で製造されたTu−5重爆撃機は、それでも6発エンジンの巨大な爆撃機だった。
射撃訓練の教材では、照準機から全長がはみ出したあたりでまだ200mの距離があるとされていた。
5式30mm機関砲は強力な機関砲だが、必中を期すなら肉薄発射しかなかった。
守は陽光を反射する風防ガラスに狙いを絞り、引き金を引いた。
射撃速度は低い。数えることさえできそうな低発射速度だった。巨大な30mm機関砲弾の給弾は容易ではない。ただし破壊力は一桁違う。発射弾数が20を超えたあたりで、巨大な主翼の手前を震電は通過した。
空中衝突覚悟の肉薄射撃だった。
緩急降下で450ktまで加速した震電は機首に集中武装という好条件でありながら、攻撃の命中率は高くない。300kt程度の空中戦を前提とした光学照準器では450ktに達する震電の高速飛行には対応できない。
ジャイロスコープを使った自動補正機能付きの新型照準器、5式射爆照準器はまだ量産ラインにさえ乗っていない。
照準器の性能に信用がおけないのならば、攻撃はパイロットの勘に委ねられる。必殺を期すなら肉薄射撃しかなくなる。
守は振り向くことなく、巨大なV字型編隊を通過した。
雷電には有効な防護射撃も高速の震電には通用しない。相対速度はマッハ1を超えている。時速にして200km近い速度差がある場合、防護機銃の殆どは無視してしまってよい脅威となる。
それが何だったのか、その正体が分からないままに機体は上昇コースに乗せる。
その時、やっと守は自分の上げた戦果を確認することができた。巨大な爆撃機がそのままの姿で垂直に落ちていく。
機体の大きな損傷はなかったが、コクピット部分が消しゴムで削り取られたようになくなっていた。爆撃機は垂直降下に耐えられるほど頑丈ではなかった。すぐに空中分解する。主翼が根元でへし折れる。バランスを崩して竹とんぼのようにくるくる回る。
守は口元に満足そうに曲げた。それだけだった。
一通過で3機のTu−5が撃墜された。3個小隊で1機づつ攻撃したのだから、撃墜率は100%ということになる。
驚異的な戦果だった。
守は残弾をチェックし、まだ半分ほど残っていることを確認した。震電の5式30mm機関砲は装弾数が多くない。最大で60発ほどだが、フルロードすると給弾機構に無理がかかって故障するので実際には50発程度だ。
42
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:49:07
震電は現代においては神秘的なまでの高性能戦闘機として語られることが多いが、実際には対大型爆撃機迎撃用の一撃離脱型のインターセプターに過ぎない。初期型零戦の2mm機関砲の装弾数が60発だが、これよりも震電の30mm機関砲は弾数が少ないのだ。対戦闘機戦闘などしようものなら、一瞬で弾切れを起こしてしまう。
震電の基本的な運用法は電探情報を受けから緊急発進し、敵爆撃機の編隊を1撃、ないし2撃して離脱する。兵装がそれ以上を許してくれないからだ。攻撃を終えたら直ちに基地へ戻って補給を行なう。そして、爆撃を終えた敵爆撃機を後方からさらに一撃して離脱する。バッタような上昇と攻撃と降下を繰り替えす対重爆撃機専門の迎撃戦闘機だった。
守は小隊長機に続いて最後のRATOを点火した。
加速ロケットの燃焼時間は5秒程度だったが、正面攻撃で失った高度を回復させて、さらに上昇するには十分な加速だった。再び震電はTu−5の上空、1000m程度の高空へと昇る。
与圧服と酸素面を使った高高度飛行装備をフル活用した高高度飛行だった。Tu−5の機長は誤解していたが、震電には与圧コクピットなど装備されていなかった。代わりにより簡易な与圧服と酸素ヘルメットをつかった高高度飛行装備でパイロットを保護している。
高度10000mまで昇れば、関東が一望できた。
雲が出ているが、視界は良好だった。横方向に雲は出ていない。当たり前だった。高度10000mの高空に雲は出ない。遠くに聳え立つ積乱雲は例外で、高高度まで伸びていた。紫色の電がちらちらと舌を出している。
地図に描かれた街のように見える東京にむかって、銀色の爆撃機が9機飛行機雲を引いている。殆ど全滅に近い打撃をうけても彼らは撤退しようとはしていない。
ロシア人は全員ああのだろうか?
守は理解に苦しむように眉を顰めた。
明らかに軍事的に無意味なほどに大損害を受けている。常識的な思考に従うかぎり、作戦を中断して撤退するべきだ。
もちろん、守はそうした常識的な発想に従って作戦を中断した兵士達がソビエトにおいては粛清の対象とされていることを知らない。
ただ、無謀ともよべる作戦を完遂させようとするロシア人の勇気に感嘆しているだけだった。
「もしも、そうだとしたら」
守は重い調子で呟いた。
この先の戦争は随分と暗いものになる違いなかった。
フルスロットルを入れて、機体を最高速度まえ加速させた震電は間合いとタイミングを図りながら崩壊寸前のTu−5の編隊上空に出た。
既に小隊長の命令で攻撃は2機シュバルムごとに行なうように変更されていた。1個小隊が丸ごとなぐりかかるような攻撃法では爆撃機を取り逃がしてしまう可能性が高いからだ。
6組の2機編隊に分かれた無傷の震電、12機は反転し、急降下した。
編隊上空からロールをうって、急降下。垂直に引き起こして水平に飛行する爆撃機の直情から銃撃を浴びせる教科書どおりに背面突進だった。ただし、教科書どおりに行なうのは酷く難しい。彼我の相対速度と距離を見誤ると敵機の前後に飛び出すことになってしまう。どちらも高速で飛行しており、その位置は相対的に秒単位で変位するからだ。
しかし、ベテランパイロットしかいない震電3個小隊はその全てが最適に攻撃開始位置に占位し、銃撃を開始した。
防御射撃が赤い曳航弾の輝きを、ありたっけの弾丸をシャワーのように撃ち上げる。
被弾したものはいない。降下で450ktまで加速した震電に防御射撃は殆ど意味をなさない。照準が追いつかないからだ。
編隊を通過した時、震電12機は全ての弾丸を撃ちつくし攻撃力を喪失していた。
引き換えにした撃墜したTu−5は4機だった。2機がエンジンから煙を吹いている。6発のTu−5はエンジンが1つや2つは止っても飛べるので撃墜には至らない。撃破といったところだ。
それでも、驚異的な戦果であることは間違いなかった。
問題なのは僅かに生き残った残りのTu−5がこれだけの打撃を受けても突進をやめないことだった。
彼らはまもなく東京23区上空に到達する。
43
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:49:41
ヒトラー宅が爆撃を受けたことが分かったのは、空襲が終った直後だった。
「わが総統、ご無事ですね、ご無事ですね!」
軽い躁状態のヴィルヘルム・カイテル元国防軍最高司令部長官を無視して、ヒトラーは炎上する自宅を見つめていた。
250kg爆弾の直撃を受けたヒトラー宅は殆ど木っ端微塵で、敷地内に粉々になって散らばっている。今、炎上しているのはその残骸だった。
傍目にみるかぎり、ヒトラーは全く平静だった。しかし、内心には呆れとも、諦観ともつかない複雑な感情が渦巻いていた。
ヒトラーはこれまでに何度も死線を潜ってきた練達の士だった。
古くは第1次世界大戦の果てしない塹壕戦、機関銃戦、毒ガス戦であり、近くは先の大戦末期のベルリンからの脱出行だった。
その間に左翼のテロリストに暗殺されかけたり、NKDVの暗殺グループに狙われたこともある。総統になった後では、軍部の反逆者に狙われたこともあった。
そのたびにヒトラーは驚異的な幸運で生き残ってきたし、自分は神に愛されているとも思うことがあった。
先の大戦での敗北を見る限り、神はヒトラーを愛してくれてはいなかったけれど。
それでも、自分はこうして生き残っている。
最近、ヒトラーは自分が悪魔にとりつかれているのではないかと思うことがある。
生き残って、もっと苦しめと。
そんな声が闇の中から聞こえてきそうだった。
「総統、ご無事でなによりです」
息を切らせてアルベルト・シュペーアは言った。
仕事場から飛んできたらしい。
「うん。君も無事だったか」
「幸か不幸か」
複雑な表情でシュペーアは言った。
ソビエト軍の爆撃機は市街地の上で殆ど照準も何もなく、完全な無差別爆撃を行なった。
投下された爆弾は多くない。実質的な損害は殆どない。ソビエトは軍事的な戦略ではなく、政治的なプロパガンダの一種としてこの爆撃を計画していた。
主に住宅地を狙って投下された十数発の250kg爆弾は20世帯ほどの住宅を全壊させ、その倍近い数の何らかの損害を与え、火災を引き起こしていた。
死者数は多くて100人は超えないだろう。
この種の無差別爆撃は数百機単位で行なわなければ意味もあるダメージにはならない。
もちろん、家や家族を吹き飛ばされた人々には何の慰めにもならない。個人にとって、肉親の死は統計ではないのだ。死傷率は日本人口の数%に過ぎないが、死んだ人間にとって死は100%だった。
ヒトラーは表情にこそださないものの、酷く暗い気分になっていた。
総統だったころ、この種の爆撃についての報告書は何度も呼んだ覚えがある。しかし、決して今のような自分のように暗い、重苦しい気分になったことはなかった。
空襲で家を失うということがどのような意味をもつのか、初めて分かったような気がした。言葉に表すのは酷く難しい。近似該当の言葉を選ぶのならば、それは理不尽だった。
「また、家探しだな」
「いっそ、またここに新しい邸宅を造営されてはいかがですか?」
「なるほど、それもいいかもしれん」
芸術家志望だったヒトラーは興味動かされたように言った。
日本家屋に住むことなど考えてこともなかったヒトラーは日本に亡命したとき、洋館を買い求めた。日本政府はヒトラーに高級邸宅の提供を提案したが、ヒトラーはそれを断った。借りをつくりたくないのが、その理由だった。
しかし、実際には日本政府が提供を提案したのは典型的案日本家屋だったためだった。もちろん敷地や造りは数百万単位の最上級品だったが。
ヒトラーは自ら物件を探し歩き、東京郊外に目当ての物件を見つけた。
その洋館は明治時代にお雇い外人としてドイツから招聘されたドイツ人医師が建てたものだった。滞在中にドイツと同じ生活ができるように東京郊外に自ら設計した洋館を建てた医師は結局、そこで病を得て一生を終えることになったが、洋館は残っていた。ヒトラーはそれを買い取って、日本での本拠としたのだった。
「ところでヒトラー夫人の姿がみえませんが?」
「彼女なら、婦人会で炊き出しをやるそうなのでその手伝いにいったよ」
ヒトラーは妙に庶民的な、非日常的なことを言った。
44
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:50:26
ストーム・オーヴァー・ジャパン11「奉天大戦車戦」
満州総軍の司令部は開戦当初、新京にあった。
新京は満州国の首都であり、政治的、経済的中心である。交通網は首都を中心に放射状に伸びるものであり、満州国もその例外ではない。
新京には満州鉄道の幹線鉄道が走り、北はハルビン、南は大連旅順まで続いている。これは満州の大動脈だった。満州のあらゆる物産はこの幹線鉄道によって内陸から大連、旅順に運ばれ、そこから海外へ輸出される。逆もまた然りである。
よって満州で戦争をするかぎり、新京に全軍を指揮するための司令部をおくことは理に適っていた。
それが3ヶ月後に、朝鮮半島に近い通化に移った。
これは満州での戦争の終りを意味している。日本人にとって、それは既に開戦前からの規定事項だったが、それを知らない人間もいた。
「いや、むしろ意図して教えなかったわけだが」
山下奉文大将は新しい満州総軍の司令部の本会議室で呟くように言った。
新京からもってきた巨大なテーブルには、満州の地図が広げられていた。主だった参謀の全てが集まっている。
昨日まで司令部のあった新京には赤いピンが突き刺さっていた。新京より北の都市は全て赤いピンが突き刺さっている。
それはつまり、新京が敵軍の手に落ちたことを意味している。
ここでの敵軍と断ったのは、それがソビエト軍ではなかったからだ。
「満州国軍が反乱を起したのは間違いないのだな?」
「残念ですが、間違いありません」
満州国軍は満州総軍が新京を脱出した直後に反乱を起した。
これが反乱なのは、満州国政府は未だに日本政府との同盟を破棄していなかったからだ。しかし、反乱を起した満州国軍は臨時政府を立ち上げ日本との同盟の破棄を宣言している。
一応、正当な満州国政府は日本の味方といえたが、既に実権は失われているので実質的な意味は何も変わらなかった。
問題なのは、新京が反乱軍に占領されたことで吉林や通遼で今だに戦線が維持されている戦区への通行が遮断されてしまったことだった。通遼、新京、吉林を結んだ線を防衛線としようとしていた日本軍にとって新京は守りの要だった。
「栗林中将との連絡はつかないのか?」
「いいえ。残念ですが」
栗林中将は新京で新設された新京方面軍の司令官として最前線で指揮をとるはずだったが、その行方が分からなくなっていた。
反乱軍との戦闘で戦死している可能性が高い。
方面軍の司令部の壊滅で、前線は破滅的な混乱に陥っている。
ここに至って、山下は全軍に後退を命令するしかなくなっていた。
「しかし、閣下は幸運ですね。もし、あと1日満州総軍司令部の通化への移動が遅かったら、危なかったのは我々だったかもしれません」
「それは判断に迷うところだな」
「と、いいますと?」
「我々が司令部を下げたことで、彼らは反乱を起したのかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いだろう。我々は彼らに司令部を移動させることさえ教えていなかった。裏切られたと思われてもしかたがない」
45
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:50:56
山下は満州で戦争をしながらも、満州国軍のことを全く信頼していなかった。
彼らの中にはあらゆるレベルでスパイが紛れ込んでいる可能性が高かった。彼らが日本を憎む理由は幾らでもあった。
「ようするに、我々は余所者に過ぎなかったわけだ」
誰にも聞こえない口内だけ響く呟きを山下は舌の上にのせた。
山下は満州に朝鮮半島を守るための緩衝地帯として満州国を作ったことに関しては賛成だった。しかし、その後に関しては間違っていたのではないかと思うようになっていた。
満州国が建国された後で、日本はそこに五族協和の王道楽土をつくろうとした。緩衝地帯という役割を遥かに越えた何か壮大な実験を行なってきた。その夢に魅せられて多くの日本人が満州に渡ったし、自らそこに何か新しいことを夢見て海を越えたものもいる。
しかし、実際に彼らが夢見た満州は果たして現実のそれとして実体を伴っていたのか甚だ疑問だった。
既に、日本人は全て満州から逃げ出している。対ソ戦が避けられなくなった3年前から、多くの日本人が満州から日本に戻っていった。企業は膨大な資産を本土に戻す作業を開始し、満州の経済は急速に崩壊へ向かった。既に開戦前から、満州国は解体寸前だったのだ。満鉄の株価が紙切れと同然なのがその良い例である。
いや、そもそも満州に渡ったはずの日本人が今だ日本の国籍を残したままであること自体がこの傀儡国家の現実を何よりも雄弁に物語っているといえた。
結局、誰もここに根を下すつもりはなんてなかったのだ。
今となっては、輝かしい数々の国家的実験や先進的な政策の多くが、いずれこの地を捨てることを前提としてとしか思えなかった。そうでなければ不可能のような、本土では検討さえされないような冒険的な経済政策が数多いことを友人から聞いていた。そして、その多くが失敗に終っていることも知っている。その責任を誰もとっていないことも。さらに、その経済政策の失敗による国庫の穴を大規模な阿片栽培によって穴埋めしていることも。
彼は一体ここで何をしたかったのだろう?
山下は満州事変の首謀者の顔を思い浮かべた。彼が何を考えていたか知りたかった。既に故人だったが。
満州事変の首謀者だった彼は、関東軍の同志達と日本に凱旋したその日に上陸した舞鶴港で逮捕され、投獄されていた。
彼は軍を独断で動かして勝手に戦争を始めてしまった。それも政府の不拡大方針を無視して。政府は彼を許すつもりなど全くなかったし、軍が勝手に戦争を始めることを事後承諾するつもりもなかった。
政府が彼を満州にいる間は泳がせていたのは、満州にいる間は関東軍に守られているために逮捕できないからだ。
意気揚々と日本に凱旋した彼は巣鴨拘置所に護送され、軍籍を剥奪された後で特別法廷に連行され、数時間の審議の後、翌日に処刑された。彼の同志も同じ運命を辿ったし、関係者の多くが徹底した当局の追及を受けていた。陸軍では不審な自殺が流行った。
自殺の多くは報道では勤務の重圧などといった言葉で説明されていたが、あれは帝諜の特別執行部隊による処刑だったと山下は確信している。好き好んでピアノ線で首を吊ろうとする人間はいない。あの世にもこの世にも、絶対に。
そして、政府は全ての罪を彼にかぶせたうえで彼がつくった満州国を幾つかの取引によって国際社会に承認させて、それを自分達にとって都合のいい傀儡国家とした。
それは現在でも何も変わらない。
おそらく政府は帝諜を使って軍を内偵し、彼の満州占領計画を探り当て、それを利用したのだろう。彼は政府に利用さるだけされて、口封じのために弁護人なし、傍聴人なしの即決裁判によって処刑された。
真相は全て闇の中だった。全ては山下の空想に過ぎない。
彼がこの満州にどのような理想を見ていたのか。それはもう誰にも分からない。満州は政府にとって期限付きの楽土に過ぎない。
あらかじめ失われることが決定していた理想の国家、満州。
では、兵士達は何のために死んでいくのか?
46
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:57:29
「失われた地平線のために死んだというのか?」
「は?」
参謀の1人が首を捻って尋ねた。
「いや、なんでもない。報告を続けてくれ」
「はい。新司偵による航空偵察の結果、ザバイカル方面軍の大規模戦力の集結を確認しました。規模は1個戦車軍と推定されます。狙いは奉天です。奉天をとることで、彼らは新京、吉林、通遼の部隊の退路を遮断し、殲滅するつもりです」
眩暈のする数字だった。
つまり、その戦力は4個戦車旅団ないし、それと同数の機械化狙撃兵旅団ということになる。1個旅団に50両の戦車がいると仮定すればその保有戦車はおそらく400両近い。これに軍団直轄の重戦車旅団や駆逐戦車旅団、さらに軍団規模の予備戦力さえ彼らは用意してくるだろう。航空偵察から漏れた分が必ず存在するはずだ。
少なく見積もっても600両、最大で1000両の戦車。
「それは何かの間違いだろう。我々がこの3ヶ月で撃破した戦車は既に1000両を越えているはずだぞ」
「やめたまえ。見苦しいぞ」
山下は冷たく言った。
「信じる、信じないはそれぞれの自由だ」
山下は情報を信じないことにしていた。信じてしまってはそれはドグマであり、宗教になってしまう。そこには何の反証もない。
「もはや、日本的な判断基準による信頼は何一つあてにならない。そういう国家を相手に日本は戦争をしているのだ。1個戦車軍が突っ込んでくるのなら、それで結構だ。私は1個軍集団が突撃してきても何も驚かないぞ」
諦観とも、諦めともつかない調子で山下は言った。
「奉天の防衛には、第2、第3、第4戦車師団を投入する。可能なかぎりの稼動戦車を投入してソビエト軍を迎撃する」
それ以外には何もないように山下は決断した。
こうして奉天を巡って満州戦争最大の戦車戦が勃発することになる。参加した戦車はソビエト軍約1300両、日本軍は約500両だった。
47
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:58:01
ストーム・オーヴァー・ジャパン11「奉天大戦車戦」その2
奉天大戦車戦は満州国軍の反乱によって新京を失った日本軍が全面的な後退を開始したことによって始まった。
これまで巧妙な後退戦闘によってソビエト軍に大損害を与えてきた日本軍も突発的な満州国軍の反乱という想定外の事態とそれに伴う新京失陥という事態への対処は完全に後手に回り、全軍の撤退を開始する際に多くの隙を見せることになった。
通遼守備隊がその典型的なパターンであり、移動速度がばらばらな歩兵部隊と戦車部隊の調整がとれない後退が戦線の対戦車攻撃能力を危険なレベルまで低下させ、ザバイカル方面軍の強引な波状攻撃によって戦線突破を許してしまう。
ザバイカル方面軍は日本軍の左翼の後方を破壊しながら進撃を継続し、奉天を目指していた。
奉天は新京を失った今、満州の最大都市であり、後退する友軍を収容するために奉天を失うわけにはいかなかった。また、渾江を渡るには奉天を落すしかない。渾江は深い河ではないが、車両が渡れるほど浅くもなかった。
奉天周辺には渾江だけではなく、遼河など大河川が流れており、奉天はこれらの大河川の中洲に位置している。河は南北に流れるので、西から突破を図ることは困難だった。南北に流れる川が天然の防壁になるからだ。それでも奉天を手に入れるには遼河を渡らなくてはならない。
日本軍は大遼河にそって布陣し、敵前渡河を図るソビエト軍を待ち構えていた。
砲声が鳴り止んだ。
この3ヶ月で殆どの戦場音楽に慣れてしまった伍長は塹壕の中で、おもむろに手足を伸ばした。手足はまだついている。指が何本か欠けていたが、それも慣れてしまった。1ヶ月ほど前のことだ。不運なことに隣を歩いていた親友が地雷を踏んで即死し、その破片が彼から薬指と中指を奪い去っていた。
もちろん、奪われたのは指だけではない。
親友は妹の婚約者であり、未来の自分の弟だった。幸いなことに親友が踏んだのは味方の地雷ではなく、日本軍の撤退を妨害するために投下されたロシア製の空中散布地雷だったのでロシア人へ復讐を行なう理由は全く正当なものであるはずだ。
「今、何時だ?」
「8時30分、21秒。今は22秒」
同じ蛸壺に潜っていた上等兵が大声で怒鳴った。
蛸壺は狭く、耳元で怒鳴るので耳が痛いほどだ。
「怒鳴らなくても聞こえる」
「すいません。どうも耳の調子がおかしいので、怒鳴らないと自分が喋っているかどうか分からないんですよ」
首から下げた双眼鏡を手にして上等兵は言った。
自分よりもいくらか繊細なつくり耳の持ち主だった上等兵は砲撃で聴覚をやられているようだった。
「なるだけ静かに喋ってくれ。気が散って仕方がない」
「なるだけ努力しますよ」
双眼鏡を構えて上等兵は言う。
どこか嘲弄するような話し方に怒りを覚えるが、伍長は意図してそれを無視した。怒っても仕方がなかった。こいつはソビエト軍の砲爆撃の最中でも、こんな調子だったからだ。これが彼なりの正気の保ち方らしかった。
この程度ならまだ可愛いほうだ。伍長はそう思うことで怒りを静めた。
この手のセルフコントロールができない人間は多くの場合、酒や薬物、或いは宗教に走る。酒や薬物でボロボロになって後送される初年兵を見たことがある伍長としては、上等兵の斜に構えた態度などまだ健全なうちに入る。
「なるだけ、努力してくれ」
48
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:58:42
伍長はスライドを引き、薬室に初弾を送り込んだ。
それは長く日本軍兵士の友として戦ってきた38式歩兵銃ではなかった。より、無骨で鋭角的な印象を放つ日本的美意識からかけ離れた武器だった。
その名も4式自動小銃という。
亡命企業の1つであるハーネル社が機関カービン銃MKb42として先の大戦末期に試作品を完成させ、日本に亡命した後で陸軍がそれを買い取り、改良を加えることで完成させたものだった。
先の大戦において、ソビエト軍は戦車の集中運用による電撃戦で欧州を制覇したが、歩兵同士の戦闘においても欧州連合軍を圧倒していた。特に、シモノフ半自動小銃はボルトアクション式小銃よりも高い火力を示しており、欧州各国の歩兵部隊はしばしばソビエト軍のより小規模な歩兵部隊に圧倒された。
これに対抗できたのは、MG34など優れた汎用機関銃を大量配備していたドイツやブレンガン軽機関銃を分隊レベルまで浸透させていたイギリス軍だけで、フランス軍は火力不足で圧倒され、ポーランド軍は全く歯が立たなかった。
日本陸軍は大戦勃発前にノモンハン事件においてシモノフ半自動小銃を鹵獲していたが、38式歩兵銃でこれに対抗することはおよそ不可能だった。早急な対抗手段を講じる必要があったが、陸軍は昭和期に入ってからクーデター未遂事件を頻発しており、その度に厳しい批判にさらされ、政府の経済優先政策もあって未だに主力は古い38式歩兵銃に過ぎず、軽機関銃や重機関銃の配備も全く進んでいなかった。
欧州で戦争が始まりようやく陸軍は予算がつけられたが、次の戦争まで時間はあまり残されていなかった。
新型小銃は最低でも、半自動小銃。叶うことならフルオート射撃が可能でシモノフ半自動小銃を火力で上回ることが求められた。
使用弾薬は生産設備の制限から38式歩兵銃の6.5mm×50弾。38式実包をそのまま使えることが求められた。今の日本に新しい弾薬を製造している余裕はなく、過去の生産分のストックがそのまま使えなければならない。
また、急速な装備の更新をおこなうためにも生産性が重視された。動員を行えば、練度未熟な兵士も増える。操作性、整備性も可能な限り高くなければならない。部品の互換性が全くなく、職人芸で生産されていた38式歩兵銃は全くその点において落第だった。
ハーネル社が陸軍に持ち込んだMKb42は使用弾薬が7.92mm×33であることを除けば、陸軍の要求を全て満たしていた。ハーネル社は大量生産を前提としたプレス加工を多用した設計を行い、信頼性の高いガス圧作動式を採用していた。分解清掃が容易になるように細心の注意が図られていたし、日本軍の基準では考えられないよな手荒な扱いをしても射撃可能だった。泥水に放り込んだ後でも射撃可能だった。400m以内における殺傷力は38式歩兵銃よりも高いほどだった。
最大の難問は、7.62mm短小弾を用いるMKb42の機関部を6.5mm×50弾に適合するように改造することだった。当然、動作不良が頻発した。しかし、ライフル弾である6.5mm弾の装薬を減じた弱装弾を用いることと機関部のクリアランスに大きな余裕を持たせることで解決された。生産性をあげるためにさらに部品点数は少なくなった。
突貫工事の改修と関係者が不眠不休の努力で耐用試験が行なわれ、日ソ開戦前に4式自動小銃は生産ラインに乗って大量生産が行なわれていた。細かい問題は幾つか生じていた。弾倉のバネの反発力が不十分で給弾に不良が生じることが多く、鉄製のハンドガードはすぐに過熱して銃を保持することが困難になる。しかし、機関部の不具合など致命的な問題は発生していない。とかくこれまで煩く言われた命中精度も射撃レートを落とし、反動を抑えるために弱装弾を使ったことでオリジナルのMKb42より高くなっていた。これはある意味、奇跡に限りなく近いことだった。それでも命中精度は38式歩兵銃に比べれば劣悪だったが、自動小銃にボルトアクション式と同レベルの精度を求める方がどうかしているといえた。事実、命中精度に関する苦情は日ソ開戦後にはピタリと止んでいる。
しかし、兵士に十分な訓練を行なうことが出来ていなかった。適切に使用すれば、シモノフ半自動小銃を圧倒するはずの4式自動小銃を用いながらも、運用の未確立で銃撃戦に負けることもあった。
49
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:59:13
しかし、それでも陸軍はそれまでなら考えられないような努力、例えば操作方法を漫画形式でマニュアル化するなど、その普及に全力を上げていた。それだけの価値がある兵器として4式自動小銃は陸軍に認められていた。
この日独合作の新世代小銃をヒトラーは「勝利に向かって突撃する銃」、つまり突撃銃として亡命ドイツ軍において採用することを決めた。亡命ドイツ軍においては、4式自動小銃はSturmgewehr、STG44として採用されている。こちらでも4式は高く評価されている。
日本陸軍は土壇場において、歩兵に最高の友をプレゼントすることに成功したのだった。
優れた兵器がバリエーション化されるのはどの国でも同じであり、伍長の手の中にある4式自動小銃は4倍率スコープを装着した狙撃銃タイプだった。4式の中でも精度の高い当たりの銃を使っているから、600mまでなら確実にヒットする。
命中精度こそ38式歩兵銃には及ばないが、速射に必要な野戦なら4式の方が優れていた。
加熱対策用にボロ布を巻いたハンドガードで銃身を保持したまま、時を待っていた。上等兵が敵を探していた。狙撃兵は常に観測者とセットで戦う。狙撃銃のスコープは視野が狭く、索敵に使うには難があるからだ。
一見して、川辺の様子は一変していた。
頑固が雑草と鬱蒼とした雑木に覆われていたはずの川原は別世界となっていた。むき出しの土の色と粉砕された岩が奇怪な風景を作り上げていた。なぎ倒された雑木が幾重にも重なり、生木が燃える煙で視界はあまりよくなかった。
伍長が潜む丘にはほかにも歩兵が塹壕を掘り、土塁と掩体壕を作った機関銃陣地を作っているはずだが、連絡は取れそうにもない。
こうして連絡壕の存在が決定的な重要なのは明らかだったが、残念なことに十分な補強するには時間が足りなかった。
日本軍は開戦から3ヶ月で多くのことを学んでいた。
ソビエト軍の砲爆撃は圧倒的なであること、味方の砲兵はあてにならないこと。砲撃に耐えるには堅牢な野戦陣地を構築する以外にないこと、等である。
歩兵はさまざまな手段でソビエト軍の事前準備砲撃の兆候を掴むと、銃火器ともども掩蓋付きの半地下式待避壕に退避した。丸太を組んで土盛りしただけの待避壕だったが、迫撃砲弾の直撃には耐えられる。重砲の直撃を受けた場合は大量死が約束されていたが、天蓋の普通の塹壕よりは遥かに安全だった。
地下に潜ることでソビエト軍の圧倒的な砲撃をやり過ごし、戦車と歩兵の突撃が始まる前に元の配置についてソビエト軍を迎え撃つのが一般的な戦術である。
ソビエト軍の突撃が始まった。
50
:
サラ
:2006/12/11(月) 20:59:43
対岸からおびただしい数のゴムボートと艀が遼河の流れに乗り出す。
その規模は殆ど上陸作戦のそれに近い。7kmに及ぶ渡河点をソビエト軍は定め、様々な手段でかき集めた小舟艇で歩兵を対岸に渡そうとした。
すぐさま弾着観測所から野戦電話で命令が飛び、迫撃砲が砲撃を開始した。
日本軍の砲兵で生き残っているのは、迫撃砲のような軽量砲か、自走砲だった。馬匹で移動する重砲は迅速な陣地転換ができないので対砲射撃を受けて簡単に壊滅してしまう。重砲でも生き残っているのは牽引車が十分に配備された部隊に限られた。
迫撃砲の射撃に混じって、独特の射撃音を響かせて墳進弾が舟艇の上に降り注ぐ。
墳進弾は既に歩兵携帯の対戦車墳進弾が実用化されていたが、面制圧兵器としてのそれはまだ配備数が多くない。
驚くべきことにソビエト軍の頭上に降り注ぐ墳進弾の全ては、RS-82ロケット弾だった。先の欧州大戦で鹵獲されたものが日本に運び込まれ、その性能と高い生産性を買われて日本陸軍の制式兵器となっていた。ロケット弾の性能としても、有翼安定式のカチューシャの方が、ドイツ軍が配備しようとしていた回転安定式より優れていた。発射チューブとして使われているのはただの鉄パイプであり、使い捨てするつもりなら自作の木製発射台でも代用可能だった。
日本軍は4式8糎多連装墳進砲としてこれを旧式化した95式軽戦車の車体に搭載することで自走ロケット砲として運用していた。発射炎が大きいロケット砲は非常に目立つ存在であり、ソビエト軍はすぐさま発射地点を割り出して対砲射撃を行うので自走化しなければ到底生き残れるものではなかった。
95式軽戦車は2000両以上も生産され、かつては陸軍装甲部隊の中核を担った名戦車だったが、1945年の満州においては前線での運用はあらゆる意味で自殺的であり、その車体は再利用することは低コストで砲兵の自走化を図ることができる意味で非常に有効だった。
迫撃砲と墳進弾の弾幕射撃はどこにそれだけの砲火力を隠していたのかと思わせるほど強烈なものだった。
水面が殆ど見えなくなるほど打ち込まれた墳進弾によって上陸第一波は殆どが水上で壊滅することになった。
もちろん、ソビエト軍も無為無策ではない。すぐさま発見した発射炎に向けて対砲射撃を行い、戦術機を呼び寄せ爆撃を要請した。
日本軍は素早く陣地転換してソビエト軍の対砲射撃をやり過ごし、上空ではこの場所だけは航空優勢が必要であるために展開した陸海軍の戦闘機部隊が迎撃戦を展開した。
自分の頭上を飛び越えて行なわれる戦いに伍長はまるで関心を示さなかった。
時折、低空に降下した戦闘機が丘の上を掠めたが、それさえも殆ど無視していた。心の中で無事を祈っているが、それ以上のことは何もなかった。
伍長の注意は全て深く青い川面の少し上に向けられていた。
ソビエト軍は五月雨式に舟艇を発進させ、再び渡河を果たそうと突撃を再開していた。砲兵支援も、航空支援ももはやあてにはならない。
その2-2へ続きます
51
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:00:14
ストーム・オーヴァー・ジャパン11「奉天大戦車戦」その2−2
ここからが伍長にとっての本当の戦いだった。
伍長は先頭を切って進むゴムボートに狙いを絞った。観測者の上等兵はそこに敵の指揮官がいることを見抜いていた。
伍長は安全装置を解除し、セレクターを単射に切り替える。余談だが、セレクターは安全装置、単射、連射の順になっていた。カタカナでア、タ、レと刻印されている。冗談ではなく、本当の話だった。
伍長は狭いスコープに指揮官の横顔を捉えた。表情は分からないが、何かを叫んでいるように見えた。兵を鼓舞しているのかもしれない。胸を張って、上体を無防備にもさらけ出していた。
勇敢な奴だ。
伍長はそう思った。
賞賛に値するとさえ思った。十数分前に行なわれた友軍の破滅的な墳進弾攻撃に怯みさえしていない。水面が沸騰するほど撃ち込まれた墳進弾の制圧砲撃を見てなお、河に漕ぎ出した勇気は賞賛に値する。
しかし、彼は敵だった。
伍長は引き金を引いた。
瞬きを1つ挟んで、彼はもんどり撃ってたおれた。胴を直撃した6.5mm弾が彼をひっくり返した。心臓を狙ったが、狙いはやはりそれていた。4式は命中精度が高い銃ではない。精度の高い当たりの銃でもそうだった。
慌ててかけよる部下に伍長はトリガーを絞る。ボートの上の死体はこれで2つになった。
その時、上等兵が彼の足を小突いた。
身振りの感覚だけで伍長は上等兵が指示した方向に銃口を向けた。伍長と上等兵の関係は決して理想的な部下、上司の関係ではなかったが、2人の呼吸は完全にシンクロしていた。
ハンターとキラー、或いは鵜匠と鵜の関係だろうか。
伍長は余計なことを考えながら、さらに死体を4つに増やした。ソビエト軍は指揮官を狙撃されることを恐れて階級章を外していた。しかし、無駄なことだった。多くの場合、指揮官は先頭にいる。或いは一番後ろに。隊伍の前後を探せば、大抵はめぼしがついた。
戦場を制する戦場音楽は砲声ではなく、銃声だった。聞き慣れた4式の単射音、連射音。それを塗りつぶすように一風変わった射撃音。
「中機が撃ち始めたな」
ぎりぎりまでひきつけて3式中機関銃が射撃を開始した。
その射撃音は酷く独特で3式中機関銃の射撃であることは直に明らかになる。例えるならば、毎分1200回転する単気筒エンジンの駆動音に近い。銃弾を発射する音ではなく、高速駆動する機械の作動音に近い銃声だった。あまりにも射撃速度が早すぎて連続した音として捉えることができない。
その射撃音は人によって電動ノコギリと表現することもあるが、電動ノコギリを見たことがない伍長には分からない例えだった。
3式中機関銃はドイツが先の大戦末期に戦場に送り出したMG42を4式自動小銃と同じ6.5mm弾で撃てるように改修したものだった。開戦時には既に原型が完成したMG42は軽機関銃としても重機関銃としても使える汎用機関銃とも呼ぶべき新兵器だった。
旧式な11年式軽機、故障が頻発する96式軽機などの旧式化した軽機関銃を更新し、火力不足と考えられた92式重機関銃を置き換える目的で採用された3式中機関銃はこのころ日本軍の主力機関銃となっていた。
2脚では軽機関銃、3脚なら重機関銃として使い分けることができる汎用性とソビエト軍の人海戦術を阻止する毎分1200発の射撃速度は寡兵で戦線を支える日本軍にとってなくてはならない兵器となっていた。
中機関銃とは、重機関銃と軽機関銃を兼ねるという意味合いから新しくもうけられてカテゴリであり、ドイツ軍のドクトリンの移植が進む日本軍においては分隊の要は3式中機関銃であるとされるほどになっている。
凄まじい射撃速度の3式中機関銃が射撃をマトモに浴びたゴムボートは一瞬でボロキレに変わっていた。乗っていた兵士は銃弾の衝撃で痙攣するように踊り、水面に消える。
数年前の日本軍では考えられないような火力戦を展開し、絶え間なくこぎ寄せるソビエト軍の舟艇に銃撃を浴びせ続けた。
しかし、押し寄せる敵は無数。これもまた絶え間なく対岸に向けて舟艇を送り続ける。
どこか狂的なものさえ感じさせる我武者羅な突撃に、伍長は薄ら寒いものさえ感じた。
日本軍の旧来ドクトリンは歩兵の白兵突撃を重視していたが、機関銃の前に突撃しろとは書いてはいない。それは自殺行為だからだ。
既に川の流れには赤く染まるほどの打撃を受けているにも関わらず、ソビエト軍は渡河をやめようとしていない。
52
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:00:47
「馬鹿な」
「ああ、馬鹿だぜ。ちくしょう、戦車だ!」
4倍スコープの視界に伍長は戦車を認めた。
対岸に戦車が現れた。対岸までの距離はおよそ700m。
「長っ鼻のT−34だ」
「おちつけ。まだ大丈夫だ」
「撃たれてからじゃ遅い」
上等兵が喚いた。
満州戦争では、砲身が短い76mm砲装備のやや旧式なT−34も大量に用いられていた。砲身の長さが違うので、類別は容易だった。
長砲身のT−34は85mm砲を備えた強力な戦車だ。4式中戦車も接近されると危険なことになる。
対岸からの直接照準で日本軍の火点と潰そうとしたT−34は殆ど何もしないうちに撃破される。ダックインで砲撃から逃れていた4式中戦車が一撃でT−34を沈黙させる。4式中戦車の10糎対戦車砲は2000m先からT−34の前面装甲を貫通するほどの高初速を誇った。この距離なら命中率は必中に近い。
4式中戦車は続けて、対岸のソ連軍を直接照準で砲撃した。榴弾の至近爆発で歩兵が粉々になるのが見えた。爆圧で人間がボロ雑巾のように吹き飛ばされる。
伍長は知らずに笑みを浮かべていた。
対岸のT−34が反撃を行なう。今度は3両だった。
砲声が3度響く。火柱は対岸で上がった。
ダックインして砲塔のみつきだした4式中戦車と全身をさらしているT−34では勝負にならない。T−34がLT−3重戦車だったとしても結果は同じだった。
対岸では戦車が松明のように燃える。
「いいじゃないか」
このまま戦い続けるかぎり、何ヶ月でも何年でもこの陣地を死守することができそうだった。ソビエト軍は無意味に損害を増やすだけだった。
これが普通の軍隊だったら、確かに伍長の思ったとおりになるだろう。
しかし、伍長はこの時忘れていたが彼らの相手はソビエト軍だった。
対岸の砲兵陣地が再び砲撃を開始した。
対岸の日本軍陣地を制圧するための砲撃だった。日本軍は砲声が陣地に届いた時点で、待避壕への避難を始めている。
伍長もそれに習った。砲撃は天蓋付きの待避壕に避難してやり過ごすのが通常の対応だったからだ。半地下式の陣地なら砲撃中も射撃を継続できるが、それは少ないし、その必要もなかった。なぜならば、砲撃中には歩兵が接近してこないからだ。当たり前だが。
しかし、上等兵は凍りついたように双眼鏡をかまえ、その場から一歩も動こうとしていなかった。
「おい、どうした?」
「奴ら正気かよ・・・・」
53
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:01:17
戦慄が砲声の隙間に木霊した。
伍長は何のことが分からず、上等兵の視線の先を追った。遼河の流れには幾つも水柱が立っていた。狙いがそれたロケット弾が水面で爆発し破片をばら撒いた。野戦重砲の重い砲弾が水底にまで達して爆発する。水柱と共に吹き上げた土砂が対岸の日本軍陣地まで降り注いだ。
そんな砲撃の最中に、次々と対岸からボートが漕ぎ出していく。
伍長の頬を伝った汗が空いた口の端を滑って顎から落ちた。音もなく戦慄が砕ける。
「・・・・」
「・・・・」
ソビエト軍は砲撃の最中に歩兵を前進させていた。
砲弾は日本軍の陣地に降り注いでいたが、かなりの数が川面にも落ちている。味方の砲撃でボートは吹き飛ぶ。対岸にとりついても味方の砲撃で吹き飛ばされる。
「今日は気合が入ってやがるな。てぇめらそんなに死にてーのかよ。そんなに死にたいなら、自分で自分の首でもつりやがれってんだ」
東京の下町で育った伍長は口汚く罵った。
敵は砲撃で歩兵を少々吹き飛ばしても構わないつもりらしい。砲撃で味方が吹き飛んでも、日本軍の陣地を制圧できればおつりが来ると考えたのだろう。砲撃で制圧された陣地に歩兵がとりつけば、後は人海戦術でどうにでもなると考えたのだ。
「ぼさっとすんじゃねぇ、仕事だ。仕事するぞ」
「お、おう」
上等兵の尻を蹴飛ばして、伍長は4式自動小銃を構えた。
思いついたように伍長はライフルから4倍率スコープを外した。ここに至っては、もはや狙撃など不可能だった。冷静な照準など無理な話だ。敵の侵攻を阻止するために1発でも多くの弾丸を撃ち込む方が戦理に適う。
観測者の上等兵も双眼鏡を小銃に持ち替えて、蛸壺から接近しつつあるボートに狙いを定めた。
緩衝材の入ったスコープ専用の収納箱に丁寧にしまい、それを背嚢におさめた。4倍率スコープは量産が始まったばかりで、前線では数が不足していた。貴重品である。伍長の手管は宝石をあしらった指輪をケースに収める様子に似ていた。
もっとも、この先スコープを使った狙撃をもう一度やれる機会など、到底ありそうには思えなかったけれど。
54
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:06:10
ソビエト軍の執拗な攻勢は続けられたが、日本軍は大きな犠牲を払いながらこれを撃退した。奉天正面の守りは堅く、遼河に沿って構築された日本軍陣地を突破することは容易ではなかった。
しかし、物量に勝るソビエト軍は奉天正面だけではなく、別方面からも渡河を試みていた。日本軍は広い範囲に薄い防衛線を構築していたので、どこかが一箇所崩れるとその背後はがら空きだった。どこか一箇所で突破が成功すれば、防衛線は簡単に崩壊する。その危険性を日本軍も、ソビエト軍も正確に認識していた。
奉天で指揮を執っていた第11軍司令部が黒溝台、沈旦堡の陥落を知ったとき、すぐさま予備戦力として温存されていた第2、第3戦車師団を出撃させた。
黒溝台、沈旦堡は奉天と遼陽の中間にある日露戦争の古戦場であり、遼河と渾江が合流する地点でもある。ここには幹線道路がとおり、日本軍の後方連絡線となっていた。ここが占領された場合、奉天と遼陽の連絡が絶たれることになる。ソビエト軍は新京方面から撤退中の日本軍だけではなく、より大きな包囲網を築き、奉天より北にある日本軍全ての後方を遮断するつもりだった。
もちろん、日本軍もその危険を承知しており、手厚く守備部隊を置いていたが、河の合流地点という狭隘な地形が災いして縦深のある陣地が構築されていなかった。火力の集中も困難だった。
さらにソビエト軍は日本軍の予想のさらに上をいく奇襲によって、渡河を成功させている。ソビエト軍はトロツキー重戦車を潜水渡河させたのだった。
日本軍はトロツキー重戦車3型が潜水渡河装置を標準装備しているという情報を掴んでいなかった。分散配置されていた独立中戦車大隊の4式中戦車は即座にこれを撃破したが、重戦車旅団を全て潜水渡河させたソビエト軍が最終的に戦場を制した。
ソビエト軍は奉天正面に日本軍の注意をひきつけ、その遥か後方を遮断する奇襲に成功したのだった。
ここにあって、日本軍の反撃は必至だった。ソビエト軍の橋頭堡を粉砕しなければ、満州にいる日本軍全軍が包囲殲滅される。
黒溝台の敗北は、この戦争の敗北を意味していた。
55
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:06:41
ストーム・オーヴァー・ジャパン11「奉天大戦車戦」 その3-1
「大久保より、新宿。上野においてジャイアントパンダ3型を発見。ジャイアントパンダ3型は大隊規模。盆踊りを要請する」
前線から届いた意味不明な無線通信を聞いて、西竹一大佐はその内容を素早く解読した。
大久保、新宿、上野は部隊名の隠語である。それぞれ、戦車第22、26、21連隊を意味していた。ジャイアントパンダはソビエト軍重戦車を意味する。3型はトロツキー重戦車3型を意味する。強敵だった。4式中戦車でも対処が困難な高い防御力を誇る。最後の盆踊りは砲兵支援だ。彼の手元には1個自走砲大隊があった。
3個戦車連隊を擁する戦闘旅団、ドイツ流に訳せばパンツァーカンプフグルッペ、戦闘旅団「ウエスト」はソビエト軍の防御陣地に正面に到達した。
狭隘な、機動の余地がない黒溝台の周辺は、大河の合流地点は、巨大な河の中洲では迂回は不可能である。陣地があればこれを正面から打ち破る他ない。
ソビエト軍の橋頭堡を粉砕し、奉天の後方連絡線を回復させることができなければ、全軍が包囲されてしまう。
既に前線のある方角からは砲声が瞬くように響いていた。甲高い、高初速の戦車砲特有の砲声だ。4式中戦車の10糎対戦車砲の音色だった。
「盆踊り、じゃなかった。砲兵は今どこにいる?」
「こちらです」
旅団指揮車は米国製M3ハーフトラックの兵員室を改装して指揮機材を搭載していた。
日本は兵器生産について、正面装備とその武器弾薬の製造に生産力の全てを振り向けており、この種の補助的兵器については全て輸入で賄うことにしていた。
どこか垢抜けない、つまり無駄の多いスタイルの4式中戦車の後を、洗練された機械的合理性を感じさせる米国製ハーフトラックが追うのは、どこか主客の逆転のような、曰く言いがたい違和感を感じさせた。
機械的信頼性に疑問がつきまとう日本製戦車に比べて、米国製のハーフトラックは無故障ともいっていいほど、高い信頼性が誇っている。
『このようなハーフトラックを生産できるようになりたいものだ』
海外経験の長い西は、高度経済成長を遂げてもなお、日本の製造技術が海外のそれに及ばないことを知っていた。昔ほど酷くはないが、ドイツのような精密加工やアメリカのような大量生産には至っていない。
日本が真の意味での工業国になるのは、もう少し先の話である。
できれば、その時まで生きていたい。西はそう思った。
今だモーターリゼーションの及ばない日本において、西は数少ないモータスポーツの愛好家の1人だった。いつか日本でも、ミッレミリアのようなカーレースを催したいと思っている。それが遥か遠い理想郷と思えるほど、日本の自動車産業は遅れている。
西はどちらかといえば、ナチスには批判的な人間の1人だったが、彼らが日本に亡命するときに持ち込んだ、メルセデス・ベンツSSKだけは心の底から羨んでいた。
56
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:07:13
「よし、できるだけ支援をまわしてやれ」
この命令で旅団司令部がにわかに慌しくなった。
命令を送信する通信兵がマイクに向かって叫び、ディーゼルエンジンの駆動音と履帯が地面を踏みしめる硬質の音色が混ざる。
戦闘旅団「ウエスト」は3つの戦車連隊と機動歩兵、そして自走砲大隊と工兵隊や自走対空中隊からなる完全機械化部隊だった。
3個戦車連隊を聞くと大軍を思い浮かべてしまうが、日本軍の戦車連隊の下には大隊はなく、中隊のみなので実質的には諸外国の3個大隊に過ぎない。
機動歩兵は、ドイツ流に表現すれば装甲擲弾兵となり、M3ハーフトラックに搭乗することで戦車と同じ機動力を発揮する歩兵部隊である。
自走砲は、呼んで字のごとく自走化された砲兵隊であり、旧式化した97式中戦車の車体に91式10糎榴弾砲を搭載している。戦車部隊の進撃に合わせて迅速な砲兵支援を行なうことができる。
工兵についても、各種機材をM3、M8ハーフトラックに乗せて戦車部隊に随伴が可能である。最後の対空中隊はM9ハーフトラックの車体に海軍の25mm連装機関砲を搭載したもので、空中からの攻撃から戦車隊を守るために存在する。
これは完全なる諸兵科連合のパンツァーカンプフグルッペだった。
今や、ドイツ陸軍の機甲戦術の正統後継者となった日本軍、第3戦車師団は戦闘旅団「ウエスト」を先鋒として、ソビエト軍の橋頭堡へ向けて突進を開始しようとしていた。
部隊の士気は悪くなかった。
強大極まりないソビエト軍を相手に4ヶ月も戦ってきたにも関わらず、戦車第3師団の士気は開戦前よりもむしろ上がっているといえた。
しかし、それは戦勝によってもたらされたものではなく、自分達の後には何もないという悲壮感の類によるものであることを西は兵士達の顔から感じ取っていた。
西は出撃前に面会した第3戦車師団長、栗林忠道中将の顔を思い浮かべる。
生まれつき根の明るい西はこの状況においても、どこか陽性の空気を発散していたが、栗林は控えめに表現しても焦慮から遥かに遠い絶望的な何かを顔に浮かべていた。
「いかなる犠牲を払っても」
精神主義がまかり通る日本陸軍において、理性的、合理的思考をする栗林が「死戦」を命じるのは、西には意外に感じられた。
それほどまでに戦況は悪化していたが、西の顔には絶望はなかった。もちろん、彼は状況を理解している。開戦時に70万を集めた満州総軍はその戦力を50万にすり減らしている。内地からの増援を受けても、損害の穴埋めにもなっていない。
戦車第3師団については、最優先で補充が得られているので充足率は高かったが、それは大損害を受けた部隊を解体し、補充に当てているためであり、いずれはジリ貧になることが目に見えていた。
死傷者は20万に達している。僅か3ヶ月で発生した損害とは思えない数字だった。日露戦争の旅順攻囲戦など問題にならない数字だ。破滅的な戦線の崩壊や、包囲殲滅戦も起きていない。それでこの損害だった。この損害は理解しかねるものがある。
「あるいは、まだこの程度で済んでいることを幸運に思うべきなのかもしれないな」
「は?」
「なんでもないよ」
西は意識をこれから始まる戦闘に集中させた。
砲声が後方から響き、砲弾は西の頭上を飛び終えて前線に向かって飛んでいった。それが光と爆風に変化し、奉天大戦車戦の号砲となった。
57
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:07:43
奉天から南下する戦車第3師団に呼応する形で南からの突進が始まっていた。
このとき遼陽では前線で壊滅した部隊が幾つか再編成のために訓練に明け暮れていた。その中にはハルピンで包囲され、壊滅的打撃を受けながらも包囲を脱出した第7機動歩兵師団や、第16師団などの有力な機械化歩兵師団が含まれていた。
黒溝台が占領され、奉天との連絡が途絶したことにより、これらの部隊を糾合させ、幾つかの戦闘旅団が急造されることになった。
もっとも、その内容は薄ら寒ささえ感じさせるほど貧弱なものだった。
機械化師団だった第7機動歩兵師団や第16師団はハルピンで装備の大半を喪失しており、保有していた戦車大隊については全滅していた。
また、牡丹江前面においてソビエト軍の進撃を1ヶ月に渡って阻止してきた第24、26及び第35師団は再建不能と見なされて、解体される寸前だった。
突進の先頭に立つべき戦車については、野戦修理工廠があったことからそこにあった修理中の戦車や鹵獲戦車をかき集めることでおよそ50両の戦車を集めていた。
「ノモンハンよりはマシだよ」
「はぁ、ノモンハンですか?」
「そうだよ。君は知らないかもしれないけれどね。あそこで祖国とソビエトは戦争をしたことがあるのさ。随分昔の話だよ」
どこか遠いところを見るように彼は言った。
「おっと、こいつは秘密だったな」
宮崎繁三郎中将は地図を過ぎ去る風景を眺め、そう嘯いた。
宮崎中将はノモンハン事件においてソビエト軍を相手に勝利した数少ない日本軍将校の1人だった。
ノモンハン事件は戦線拡大を恐れた日本政府の手で速やかに停戦に向かったが、現地の関東軍はそれを無視して停戦前に駆け込み攻勢を行ない、大損害を出して撃退された。事実上の敗北といっていい壊滅的打撃を受けた。政府はその損害を隠すためにノモンハン事件についてはその存在そのものをなかったことにして、情報を隠蔽した。
その封印が解かれたのは3年前だった。欧州連合軍が破れ、次の戦争が満州で起きることが確実になった段階において日本政府は対ソ戦に備えるためにもノモンハン事件について再調査を命じていた。
宮崎はノモンハン事件以後、左遷され閑職にまわされていたが、ノモンハン事件の再評価によって、その手腕を見込まれて第7機動歩兵師団を預けられていた。宮崎の指揮した第7機動歩兵師団はハルピンで包囲され、師団は壊滅的打撃を受けている。
東京の参謀本部ではその責任を問う声があり、満州総軍司令部に解任の圧力をかかっているらしいが、宮崎は気にもしていなかった。
高い機動力をもつはずの第7機動歩兵師団が包囲されたのは、難民の脱出させるための時間稼ぎを最後まで行なっていたためであり、満州国民の避難を優先させる満州総軍の基本方針に従った結果に過ぎない。
そもそも、ノモンハン事件の再評価以降、急に上がった自分の評価について宮崎はどこか気後れするものを感じていた。
確かにノモンハンでの戦闘は酷いもので、散々な目にあった後で情報隠蔽のために閑職に飛ばされたことを怨んだこともある。
しかし、たしか辻だったか?ノモンハンで無謀な作戦を立てた馬鹿参謀がピアノ線で首吊り自殺をしたこと(荷重がかかった瞬間に首が飛ぶ。文字通りの意味で)で、怨む対象をなくしていた宮崎にとってはあの事件はどうでもいいことになっていた。少なくとも、怒りはなくなっていた。復讐は果たされている。自分の手でないことが残念だったが。
宮崎は遼陽にあった再建途上、あるいは解体される寸前だった部隊を根こそぎかき集め、戦闘旅団を編成し、これを直率していた。他の師団長達は病院にいるか、死んでいた。
5個師団の残余をかき集めても旅団規模に過ぎないあたり、それぞれに師団の受けた凄まじい損害のほどが知れる。
58
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:08:18
「あの時は、戦車が本当によく燃えてね。八幡製鉄所みたいに煙があちこちで上がっていたんだ。さえぎるものなんて何もないから、ヤクザのかちこみみたいな戦争だったよ。本当に辛い戦いだったよ」
「そうですか」
言葉少なく、陰山少佐は応じた。
内心は冷や汗をかいている。なんでお偉いさんの中将が部隊の先頭を走っているのか、彼にはよく分からなかった。将校とは、もっと後ろの方で部隊の指揮をとるものだと陰山は思っていた。
しかし、中将を護衛小隊(旅団本部付きの護衛部隊)はそれが当たり前のような顔をしているので、疑問に思っていても口にするわけにはいかない。
「あの・・・旅団本部に戻られなくてもよろしいですか?」
それでも陰山は一応、聞いてみた。
「ああ?ん・・・大丈夫だろ。旅団本部のことは参謀に任せてある。作戦が始まると旅団長というのは意外に仕事がなくて暇なものなんだ」
陰山は中将と彼の参謀長とでは仕事に対する認識が酷く違うものだろうと思っていたが、もう何も言わないことにした。
宮崎は徹頭徹尾、野戦指揮官なのだった。
「ノモンハンの時、こういう戦車があればチタまで進撃できただろうに」
残念そうに宮崎は言った。
「それについては、全く請負ますよ。この戦車があれば、モスクワにだって進撃できたでしょう」
この時だけは陰山は元気よく笑うことが出来た。
陰山が率いる試作重戦車装備の実験小隊はそれほどの戦車を装備していた。
「ところで、この戦車は初めてみるわけだが、なんていう戦車なんだ?」
「試製6式重戦車といいます。ドイツと日本の戦車開発技術の粋を凝らした戦車です。ドイツ人はこいつをケーニヒスティーガーと呼んでいます」
「ケーニヒスティーガー?」
「虎の王者という意味です」
トランスポーターで運ばれる新型重戦車を陰山は誇らしげに見上げた。
つづきます
59
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:08:58
ストーム・オーヴァー・ジャパン11「奉天大戦車戦」 その3-2
ティーガーと呼ばれる重戦車については、あまりにも有名であるためその詳細を省く。しかし、6号重戦車が投入された1942年末の戦場がドイツにとってあまりにも絶望的なものだったことから、ティーガー重戦車はソビエト軍に恐怖と衝撃を齎してものの、ドイツに勝利を齎すことはできなかった。
しかし、ドイツ北部の、絶望的な防衛戦においてティーガーは縦横無尽の働きをしたのは事実であるし、数台のティーガーがソ連軍の1個軍の進撃をとめることさえ珍しくなかった。
T−34を相手に苦闘を続けたドイツ軍は、ティーガーの実戦投入によって初めてT−34を超える戦車を手に入れることができたのである。
これに対してT−34で築いた戦車戦力の優位を覆されたソビエト軍は大きな衝撃を受け、これが対ティーガー戦車用の重戦車開発につながり、LT−2、LT−3のようなソ連製重戦車の開発に繋がることになるのである。
もっとも、ティーガーが投入されてからまもなく、欧州連合軍はダイナモ作戦を発動し、ブレスト、ダンケルク、カレー、アントワープ、ビルへルムハ−フェンなど、辛うじて確保されていた港湾から海路で欧州から離脱したので戦争そのものはソビエトの勝利に終っている。
日本に亡命したヒトラー以下、亡命ドイツ政府、軍、企業、或いは文化人、多数の亡命者などと一緒に3両のティーガー重戦車は来日した。そして、日本戦車開発技術に革命を齎した。
その革命の恩恵を最初に受けたのが4式中戦車だった。しかし、4式中戦車はあくまで日本独自の戦車技術のみで開発された戦車であり、その設計思想はチハのそれとさほど進歩していない。
4式中戦車はある意味、チハ系列の最終発展型といえる。傾斜した100mmの前面装甲や、T−34やLT−2をアウトレンジする10糎対戦車砲をチハに組み込んだだけの戦車であり、異常に強力な歩兵支援戦車に過ぎない。側面装甲は僅か30mmに過ぎず、側面下部に至っては12mmである。ライフル弾にさえ貫通される弱装甲だった。最高速度も路上で時速40kmに過ぎず、路外では30km。これでは迅速な突破、迂回等を求めるドイツ流の機甲戦術には使えない。ドイツにおいては、この種の戦闘車両は突撃砲に分類される。
事実、4式中戦車の初期案は車体に10糎対戦車砲を固定装備する突撃砲だった。攻勢にでないかぎり、この種の突撃砲の方が生産性も生存性も高くなる。それが戦車となったのは、突撃砲だけでは戦術上の柔軟性が失われるためである。
とはいえ、やはり4式はあくまで次の主力戦車が量産化されるまでのつなぎに過ぎない。パワープラントのディーゼルエンジンは統制型の新型を採用していたが、僅かに400馬力であり常に戦闘重量の37tに対してアンダーパワーで、高速で機動した場合にオーバーヒートを頻発したし、操縦装置に関しても、クラッチの切り替えが異常に難しく、操縦性の高速で移動するには無理があるしろものだった。
日本陸軍はとりあえずT−34を圧倒できる旧来の技術を使用した4式を量産し、その後でドイツからの技術導入で開発した真打の重戦車を戦車師団の中核にするつもりだった。数的劣勢が宿命ずけられた日本陸軍において、戦車の質的優勢は絶対条件である。
試製6式重戦車は、ドイツが大戦末期に幾つか試案されたティーガーⅠの後継戦車に改良を加えて具現化したものだった。
「試製6式の主砲は128mm50口径砲です。こいつは海軍の艦砲をベースに開発した新型砲です。2000m先からLT−3の前面装甲を貫通します。弾が重いですから、それ以上先からでも、撃破できるでしょうね。着弾の衝撃波で中の人間が死にますから」
「そりゃすごいな」
「ただし、分離薬莢式なので射撃速度は4式の半分。砲弾も38発の携行が限度です」
60
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:09:37
試製6式を設計したフェルディナンド・ポルシェ博士の提出した初期設計案では長砲身88mm砲を使用し、70発近い砲弾を携行できるはずだったのだが、4式の10糎対戦車砲に劣る88mm砲L71を配備する意味もないので、この設計は無意味だった。
というよりも、ガソリン・電気駆動の初期設計案はとても日本の製造技術では生産不可能である。提出した初期設計案は1秒で却下されたという伝説があるほどだ。
きっとドイツだって無理だろう。
陰山少佐は思った。陰山はやけに気難しく、気分屋で、狂的なアイデアばかり捻りだすポルシェ博士と2人3脚で戦車開発を行なってきた、帝国陸軍一の戦車マニアである。
とはいえ、変速機が要らないモーター駆動のポルシェ・ティーガーはある意味、そこに非常に負担をかける重戦車にとっては理想の駆動システムである。陰山とて日本の製造技術の現状をしらなければガソリン・電気駆動のポルシェ・ティーガーの設計を、諸手を上げて賛成していたかもしれない。
30年代半ばから高度経済成長を遂げた日本経済も、先端技術については未だに世界の後追いに終始しているのが現状である。戦争特需と外資の大幅な導入で経済規模こそ拡大したが、それを支える生産技術については外国からの輸入、あるいは違法コピーで賄っているのが本当のところだ。
世界の工場を気取ったところで、実際には世界の下請け工場に過ぎないのである。上流から流れてくる仕事を請け負い、製品にして市場に出すのが日本の役割であり、未だに日本経済は列強の下請け、先進国を名乗るには程遠い。
もちろん、自前の技術開発、製品開発もやっていないわけではない。しかし、英米に追いつくにはまだ時間がかかる。欧州連合軍が敗北した際に、防共協定を結んでいた日本が世論の反発を押し切ってドイツ人亡命者の大量受け入れを決定したのは、英米との技術格差を一気に短縮する絶好のチャンスだったからだ。
政治的に危険なヒトラーの受け入れを表明したのも、その文脈から来ている。ヒトラーは日本の内情を把握した上で、技術提供と交換に亡命者の受け入れを認めさせたのである。
そして、日本はドイツ戦車開発チームの至宝。フェルディナント・ポルシェ博士を手に入れ、彼に次期主力戦車の開発を依頼した。
それが果たして正しかったのかどうか、陰山は未だによく分からない。
間違っていたんじゃないかと思うこともある。
とはいえ、ポルシェ博士はたまにどうかと思うこともあるが、ある種の天才であることは間違いない。
日本の製造技術の現状を把握したポルシェ博士は、
「後進国の日本人でも生産できるティーガーをつくる」
と、ムカつくことを宣言し、それまでの方針を180度転換した。
サスペンションはリーフ式サスペンションとした。これは4号戦車と同じもので単純かつ堅牢な構造で日本の製造技術でも容易に生産できた。転輪は生産性や整備性を配慮して上部支持輪を省くために大直径転輪を採用した。おかげで足回りは酷く単純だった。未熟な日本人でもこれなら整備に失敗する余地はないと考えられた。千鳥式転輪は最初から考慮されなかった。日本人には複雑すぎるからという理由だった。
トーションバー式サスペンションは荷重を受け止めるねじり棒の量産が日本人には難しいことから不可能だった。車体を横断するねじり棒がないおかげでその分だけ車高を下げる高価もある。
日本には戦車用の小型大出力液令エンジンがなかったので、空冷星型エンジン「栄」を改造したものを使用する。既に零戦向けの「栄」は生産が停止される寸前だったが、既に生産した余剰品が相当数あるのでそれを改造することで廃品を効率的に再利用できる。「栄」は既に大量生産の実績があり、使い古されているので信頼性は高い。改造で若干の出力低下はあったものの、850馬力の高出力を発揮する。
61
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:10:08
さらに博士は天才的な閃きでドイツがこれまで踏襲してきた前輪駆動式を改め、後輪駆動式とした。変速機はエンジンと同じ車体後部に置くので車内を縦断するドライブシャフトが無用になり、利用できる車内スペースは増大する。しかし、後輪駆動とした最大の理由は日本の製造技術では高品位なドライブシャフトを造れないためである(4式中戦車のドライブシャフトはすぐに折れる)さらにエンジンと変速機の距離を縮めることでエンジンと変速機を一体化した現代戦車の標準であるパワーパックがここに完成した。半ば偶然ではあったけれど。
10tクレーンさえあれば、故障したエンジンとトランスミッションを1時間で交換できる。予備のパワーパックを用意しておいて、航空機のエンジンのように定時的に交換するようにすれば稼働率は限りなく100%近くなる。戦車の故障は多くの場合、エンジンとトランスミッションにその原因を帰するからだ。
装甲厚は前面装甲で150mmに達し、砲塔に至っては200mmである。側面装甲も90mmだ。車体と砲塔は全溶接とし、生産性をあげるために様々な工夫を凝らしてある。部品点数も極限まで減らし、砲塔に至っては6つパーツだけで完成した。
もっとも、そうした生産性についての配慮だけではなく、様々な新技術もこの戦車には取り入れられている。
例えば、車長用の大型キューポラにある二つの出っ張りである。これは軍艦で利用されているステレオ式測距器だった。遠距離砲戦における精密照準が可能になる。大口径砲の長射程を生かすには必須の装備だ。射撃管制用キューポラと呼ばれるそれは、動力スタビライズされ、ステレオ式測距器と車長長手照準器と連動している。
車長用照準器で敵戦車を照準すれば、自動的にステレオ式測距器が敵戦車との距離を計測してくれる。ここからさらに電気式算定具によって敵戦車との距離、方位、速度、その他射撃諸源が算出され、砲塔が自動的に旋回する。そして砲手照準器に照準環が表示される。後は砲手が発射スイッチを押せば、目標に向けて128mm徹甲弾が飛んでいく仕組みである。
これは軍艦の方位盤による射撃管制と同じものだった。元々128mm対戦車砲は海軍の12.7サンチ平射砲をベースに開発されたものであるから、軍艦の射撃管制システムが取り入れられていても不思議ではなかった。
これまでの単眼式の単純な照準器では2000m以上の射撃は職人芸と運の要素が強かった。動く目標が相手なら、命中率は10%程度である。しかし、この射撃管制装置を用いることで2000m以上先からの射撃でも、相手が動目標であっても、狙って当たるレベルまで命中率は向上したのである。
ポルシェ博士の天才な思いつきで海軍との共同開発となった試製6式射撃統制装置は、陸軍の最高機密兵器として、車両を放棄する際には確実に爆破処分するように指定されていた。そのための自爆装置まで内蔵されている。
とはいえ、遠距離で砲撃戦を行なうことが当たり前である海軍にしてれみれば、この種の方位盤射撃管制装置など何をいまさらというレベルであり、後にこの機密指定は解除されている。
さらに夜戦用の新機材として、アクティブ式赤外線投光器が砲塔上に装備されている。夜戦を重視している日本陸軍において、これは画期的な装備だった。これはドイツが先の大戦中に研究していたものを完成させたものだ。量産化に向けて最後の調整に入っており、戦車以外にもさまざまな分野への応用が期待されていた。
車体の構成は、変速機を車体後部に移したことから前面装甲を60度まで傾斜させることが可能になっている。60度傾斜した前面装甲はそのまま砲塔前縁と融合しており、ショットストラップは試製6式重戦車にはありえない。150mmの均質圧延装甲板を60度も傾斜させたことにより、実質的な装甲厚は200mm以上と考えられていた。
砲塔前面は30度傾斜した200mm装甲板にザウコップ式防楯を組み合わせており、LT−3の122mm砲にさえ耐えられる。
これだけの装備と装甲を詰め込んだ戦車が52tに納まっているのはある種の奇跡という他ないだろう。
これはティーガーⅠの57tよりも低い数値だ。エンジンの馬力が上がっているのでティーガーⅠよりも機動性は向上している。36tの4式中戦車よりも機動性は高い。
旧式だが堅牢極まりないサスペンションと信頼性の高い大馬力空冷エンジンとオルファー変速機(ティーガーⅠと同じ401216型)を徹底的に改良したB型と一体としたパワーパック。そして、大口径の128mm対戦車砲。砲塔前面200mmの重装甲。
こんな戦車はソビエトにだってないだろう。
もちろん、上手い話には裏があるわけだが。
62
:
サラ
:2006/12/11(月) 21:10:41
「先遣の第2戦車小隊が抵抗線と接触し、救援を求めています」
「分かった。すぐいく」
通信手の声に陰山は答えた。
「どうやら我が試作戦車の性能をお見せする時が来たようです」
「そのようだな!」
楽しそうに宮崎は応じた。
トランスポーターが停車し、3両の試製6式重戦車は慌しく戦闘準備に追われる。陰山もトラベリングロックを解除し、エンジングリルのカヴァーを外した。
空冷エンジン独特の乾いた始動音が響き、エンジン回転数が跳ね上がる。空冷ガソリンエンジンを採用したことで、エンジンの始動は随分楽になっている。
「おい、急げ」
今だ配置についていない砲手を陰山は急かした。
操縦手は冷や汗をかきながら、車長用キューポラから車内に滑り込み、苦労して砲手席につく。陰山もすぐに車長キューポラの車長席についた。そうすると丁度、陰山の足の間に砲手の後頭部が見えた。
殆ど砲手は機械に挟まれるような形になる。冗談ではないが、陰山が戦死すると砲手は全く脱出できなくなってしまう。
奇跡には代償が必要だった。
試製6式重戦車は70tに達する初期設計案(VK4502(P))のデザインでそのまま小型化することによってその重量を52tまで軽量化した。
結果として、失われたのは内部の空きスペースだった。人間工学的な配慮は試製6式には全く存在しなかった。
日本人の小柄な体格に合わせて車内スペースを極限し、空いたスペースを圧縮することによって車体全体を小型化し、装甲面積を減らすことで軽量化を図る。
それがフェルディナンド・ポルシェ博士の天才的な設計思想の全てだった。
試製6式は同様の設計思想をもつLT−3、トロツキー重戦者の異母兄弟ともいえた。
そして、どちらがより優れた戦車か、それは間もなく明らかになる。
トランスポーターから降りた試製6式重戦車は背中に中将とその護衛小隊を乗せて前線に向かった。
先に交戦している4式中戦車からの報告によれば相手はLT−3、トロツキー重戦車だという。
楽しくて堪らないように陰山は笑った。
運命の対決はもうすぐそこだった。
保守おつかれさまです<ALL
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