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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

425永遠の行方「王と麒麟(77)」:2011/08/14(日) 08:46:44

 政務の合間に内殿の一室で体を休めていた陽子は、ふと窓框に鳥が止まった
音に気づいて視線を向けた。雁の色を尾羽に帯びた鸞にほほえむ。
「久しぶりだな」
 そんなことをひとりごちる。大がかりな謀反のくわだてがあったとの噂は聞
いていたが、後始末を終えてようやく慶に意識を向けるだけの余裕ができたと
いうことだろうか。
 だが鸞が尚隆の声でまず人払いを求める言葉を口にしたので、彼女は眉根を
寄せた。こんなことは初めてだった。
 不審に思いながらも側にいた官を下がらせる。鸞はしばらく沈黙し、十分な
時間が経ったと声の主が判断したのだろうあとで、ふたたび男の声で喋りはじ
めた。淡々とした声音で語られる内容に、陽子は次第に緊張が高まるのを感じ
た。

「どう思う?」
 急ぎ景麒と冢宰の浩瀚を呼び寄せた陽子は、鸞による親書を聞かせた上で尋
ねた。内容を明かす場合、尚隆はこのふたりのみに留めてくれるとありがたい
と伝えてきていた。半身である景麒は別格として、浩瀚を加えたのは、政務を
こなす上で彼の手助けなしに陽子が動くことはまだ無理だと知っているからだ
ろう。
「謀反人を一網打尽にしたものの、延台輔が首魁の姦計に陥り呪をかけられて
昏睡状態に陥ってしまった。しかしながら碧霞玄君も保証しているように麒麟
である延台輔の健康に障りはなく、目下のところ術を解くべく鋭意調査中であ
る――と」
「そうだ」浩瀚に応えた陽子は、少し考えてから「だが細かい事情がよくわか
らないな」とつぶやいた。「延王が延麒は無事だとおっしゃるならそうなんだ
ろうけれど。それに別に慶に助けを求めているわけでもなさそうだ」
「麒麟は天地の気脈からも力を得られる生きものです」景麒が答えた。「只人
であれば昏睡が長引けば危険ですが、数ヶ月程度意識が戻らないくらいでは影
響はほとんどないでしょう」

426永遠の行方「王と麒麟(78)」:2011/08/14(日) 08:51:41
「数ヶ月ですめば良いのですが」
 慎重に答えた浩瀚に、陽子は「というと?」と尋ねた。
「延王は謀反についての詳細は省略しておられましたが、雁で陰謀が発覚した
のは昨年十二月ですね。明けて一月には地方州に行幸なさっておいでで、それ
も謀反人をあぶりだす策の一環だったとか。実際、その直後に一党が討ち取ら
れています」
「そうらしいな」
「宮城に還御されたのが今月半ば。その頃に延台輔が呪にかけられたのなら、
さほど日数は経っておりません。しかしながら謀反人を討ったのが一月末から
二月初めらしいことを考えると、遅くとも主上が青鳥を送られた頃には既に昏
睡に陥っていた可能性があります。したがって一ヶ月乃至二ヶ月は経過してい
ることになり、解呪にかなり手間取っていると見ていいでしょう。そして今回
の親書の主旨は、主上が送られた私信の返事が滞っていることの謝罪で、延王
が延台輔の代わりに開封したことも詫びておいでだ。つまり解決のめどは立た
ないが、そろそろ主上に秘しておくのは限界として、仕方なく事情を報せてき
たことになります」
 陽子は考えこんだ。「実際には親書の内容より深刻な事態というわけか」
「でなければ、そもそも碧霞玄君にお伺いなど立てないでしょう」
 麒麟の生命は王とつながっている。延王が失政せずとも、延麒に何事かあれ
ば雁の大王朝はあっけなく瓦解する。
 泰麒捜索の折、恩は延王が斃れたときに返すと陽子は言ったが、正直なとこ
ろあれはあくまでその予兆がないからこそ言えた軽口だった。内心では、少な
く見積もってもあと二、三十年は安泰だろうと考えていた。
 だが尚隆が失道せずとも、麒麟を失えばその命は尽きてしまう。
 陽子は拳を握り締めた。半身に目を向ける。
「謀反の経過を含め、延王は端的にわかりやすく説明してくださったので、全
体像は掴めたと思う。だが正直なところ今ひとつ現状がわからない。景麒、す
まないが玄英宮に行って事情を詳しく伺ってきてくれないか」
「延王は金波宮の他の者には伏せておいてくれとおっしゃっていましたが」

427永遠の行方「王と麒麟(79)」:2011/08/14(日) 09:01:56
「うん、だから密かに行ってくれ。わたしや浩瀚では無理だが、おまえなら転
変すれば玄英宮まではすぐだ。一日くらい、何か理由をつけて政務を休んでも
不審には思われないだろう。とんぼ返りになるから大変だが、今雁にもしもの
ことがあったら、慶にとっても打撃が大きすぎる。それに延麒は麒麟の長老格
のひとりだし、慶も日頃から世話になってきた。もしできることがあるなら役
に立ちたいし、何より同じ麒麟としておまえも心配だろう」
 景麒は少し考えてから「わかりました」と答えた。
「わたしからの見舞いと併せ、向こうで何か気づいたことがあれば延王に申し
あげてくれ。この件はおまえが戻ってからあらためて話しあうことにする。碧
霞玄君のお墨付きがある以上、少なくとも今日明日のうちに深刻な事態に陥る
ような緊急性はないはずだから」
「それにおそらく延王も、主上が詳細な状況をお尋ねになることは予想してい
るでしょう」
 浩瀚の言葉に、陽子は「そうだな」とうなずいた。
 ふたりを下がらせたのち、政務に戻る前に陽子はしばし考えこんだ。後援し
てくれる隣国の危難を景王として不安に思う気持ちはもちろんだが、日頃から
私的なやりとりをしていた延麒が災難を被ったことを考えると心が痛んだ。彼
女自身も謀反人に襲われた経験があるだけに、とても他人事とは思えなかった。
それに浩瀚の言うことが当たっていれば、既に二ヶ月に渡って昏睡状態に陥っ
ているかもしれないのだ。
(ここが蓬莱で延麒が普通の人間なら、病院でチューブにつながれて臥せって
いるところなんだろうな……)
 麒麟が天地の気脈とやらからも力を得られる存在で幸いだ。自身が巧を放浪
していたときの過酷な旅を振り返ってみると、神仙であっても元が人間であれ
ば、水や食物を摂らねば長い間には衰弱するのは明らかだったからだ。
 もっとも麒麟は生臭を厭うだけで、飲食自体は普通にする。ということは他
の神仙よりは緩やかにせよ、絶食すれば徐々に衰弱していくのは避けられない
ように思われた。
 陽子はおとなしく留まっている雁の鸞に目を遣った。

428永遠の行方「王と麒麟(80)」:2011/08/14(日) 09:07:16
 尚隆は延麒への親書の開封を詫びていたが、実際のところ謝られる必要はな
かった。延麒と文をやりとりするようになったとき、「尚隆に教えろと命令さ
れれば話さずにいることはできないぞ」と彼に念を押されていたし、内容はと
言えば、今回は路木に祈る作物に関する雑談のたぐいだったからだ。それも万
が一、無関係な人物に読まれても支障のないよう蓬莱文で書いていたし、署名
も「陽子」のみとしていた。しかし尚隆なら見られても不都合なことは何もな
い。もっともあらためて考えると謝罪は口実で、陽子に今回の事件のことを報
せるほうが主旨だったように思われた。
(それにしても延王はよく現代文を読み下せたな。わたしなんかは教科書に写
真で載っていた古文もほとんど読めなかったのに。でもあれは字を崩してあっ
たからかな。逆に昔の人が現代の楷書体を読むなら読みやすいのかもしれない。
外来のカタカナ語の意味は掴めなかったと思うけど)
 陽子が延麒とやりとりするようになったのは蓬莱がらみの理由だった。慶を
少しでも良くするために、蓬莱の知識なり技術なりで役立つことがあればと思
い、延麒が遊びに来た折に雑談がてら相談したのがきっかけだ。その昔、国を
整えるのに尚隆も蓬莱の知識を生かしたことがあると聞いていたせいもあった。
「それを景麒にも話してみたか?」
 延麒にそう聞かれ、陽子は首を振ったものだ。
「話していない。というか景麒には話せない。あいつは蓬莱のことを匂わせた
だけでも途端に嫌な顔をするから」
「そうか。まあ、そうかもなぁ」顔をしかめた彼女に、延麒は同情するように
笑った。
「景麒だけじゃない。たぶん他の人間も、官も民もひっくるめてだけど、わた
しがいつまでも蓬莱のことを考えているとすると、基本的に良い気はしないだ
ろうと思う。この世界で生きていくに当たって、いつまでも元の世界のあれこ
れに目を向けられたままでは困るから。

429永遠の行方「王と麒麟(81)」:2011/08/14(日) 09:14:21
 もちろんそれはわかるんだ。ただ慶には余裕がない。現実に困窮している民
が大勢いる以上、少しでも早く何とかしたいし、もし蓬莱の知識で役に立つも
のがあればぜひとも取り入れたい。実際、蓬莱に便利な技術のたぐいがあるの
は事実なんだから。とはいえ今言った理由があるからとりあえず相談できるの
は、慶の民でもなくちょくちょく蓬莱に行っている延麒だけだ。迷惑かもしれ
ないが」
「迷惑ってことはないけどさ。でもそれって鈴や祥瓊にも相談できないのか?
少なくとも鈴は海客だから、陽子と話は合いやすいだろ」
 陽子は少し考えてから首を振った。
「彼女たちは友達でもあるけれど、やはり適当ではないと思う。鈴も現在の蓬
莱は知らないわけだし、なのに愚策かも知れない、上策かも知れない、それを
判断する基準を持っていない人たちに相談するのは、ある意味では無責任では
ないだろうか」
「知識そのものがなくても、その人が持つ感覚自体は参考になるぜ。それにい
ろいろ取り入れるに当たっては、蓬莱のことを知っているかどうかより、むし
ろこっちの世界の事情を心得ているかどうかが重要じゃないかな。どちらにし
ても意見を求めるとかそういうんじゃなく、話すだけでも違うと思うし、陽子
に頼りにされた相手も嬉しいだろう。それにひとりで考えこんでいると気分が
滅入るものだし、いつの間にか思考が堂々巡りになっていたりもするもんだ。
それを吐き出すだけでも何かと落ちつくんじゃないか」
「……そうだろうか」
「たとえば昔、朱衡がおもしろいことをやっててさ。まだ朝が整わず、何かと
忙しくててんてこ舞いだったとき、陶器の置物を執務室の入口に置いて、自分
に何かを進言する場合は内容をまず置物に喋れって部下に言い置いてた。おか
げで珍妙な光景が繰り広げられたけど、それだけのことなのに進言が厳選され、
内容もずいぶん実のあるものに変わったんだとさ。喋ることで考えがおのずと
整理される上、一語一語に対する相手の反応も考慮するようになるから、文書
で練るよりいいものができやすかったらしい。置物相手でもそうなんだから、
生きた人間に話せばもっと有用な結果が出るんじゃないか」

430永遠の行方「王と麒麟(82)」:2011/08/14(日) 09:26:24
「それはそうだけど……」陽子は口ごもったが、すぐに首を振った。「でもだ
めだ。正直なところ、自分の考えをまとめる段階にも達していないんだ。だか
ら多少なりとも背景をわかっている相手に、雑談がてら、とりとめのない話題
を気軽に話すことができれば――」そこまで言って、何かに気づいたように苦
笑する。「そう、これもある種の甘えなんだろうな。要は現代の蓬莱に関する
面倒な説明を全部省略して話を理解してくれる相手に、気楽に吐き出したいん
だ。そうすると手頃なのが、金波宮にもよく来る延麒で」
「ああ――なるほど」延麒も苦笑した。
「景麒や鈴や、他の人たちがどうこうってわけじゃないんだな、本当は。蓬莱
のことを考えるのに、わたしは自分に言い訳をしたかっただけか……」
 陽子はほのかに笑みをとどめたまま、力なく視線を床に落とした。
 本心では、蓬莱に帰るという望みを完全に捨て去ったわけではない。生涯を
この世界で過ごすという決心を固められたわけでもない。
 それでも王として手を尽くしながら懸命に数年を過ごすうちに、少しは覚悟
ができたと思っていた。家族を始めとする身近な人々のことをあえて考えない
ようにすれば、利用できるものは利用するという、王としてのたくましい思考
のもとに、一般論として蓬莱の技術なり知識なりを役立たせられないかと思っ
ていた。
 しかしそれは、どんな細い糸であっても故郷とつながりを持っていたいとい
う、無意識の欲求の発露に過ぎなかったのかもしれない……。
「実際、役立つ知識はあると思うぜ」黙りこんでしまった陽子に、延麒はいた
わるように言った。「ただ、こっちの人間にとって蓬莱というのはあくまでお
とぎの国だ。自分たちの生活とは何の関わりもない。俺は蓬莱にもむろん良い
ところはあると思っているし、取り入れたら民のためになるんじゃないかと考
えることも多々あるけど、せいぜい近臣に蓬莱の服を見せて、似たようなのを
作ってくれと頼むぐらいが関の山だ。さっき陽子が言ったとおり、確かに為政
者がそんなうわついた考えを持っていると官や民に知れれば反感が出かねない
し、事と次第によっては『だから胎果は』などと見当違いの不満をいだかれる
危険もある。その意味では気楽に蓬莱のことを話せるのは、尚隆を除けば俺も
陽子くらいかもな。もっとも尚隆も現代の蓬莱について具体的に知っているわ
けじゃないが」

431永遠の行方「王と麒麟(83)」:2011/08/14(日) 09:36:02
「雁は昔から蓬莱の技術や仕組みを取り入れてきたって聞いたけど、それでも
雁の官もいまだに抵抗あるんだろうか」
 延麒は肩をすくめた。「尚隆の場合は結果を出してきたし、急激な変化を起
こさないよう時間をかけたから、官もいたずらに拒否反応を起こすわけじゃな
いが、それでも均衡を取るのは難しい。尚隆はあくまでこちらの世界の枠組み
の中に蓬莱のやりかたを取り入れただけで、物事の仕組みの根本を変えたわけ
でもないんだがな」
「そうか」
「でもまあ、そういうことを考えることで陽子の気が紛れるなら結構なことだ。
もっとも俺もそううまい時期に慶に来られるとは限らないから、何なら鸞でも
青鳥でも、私信を送ってくれれば適当に返事はするぞ。本当にいい考えが浮か
ばないでもないし、それが民のためになれば万々歳だ」
「……鸞しかないな」少し考えてから溜息まじりに答える。「わたしはまだ自
力ではじゅうぶん読み書きできないから」
 すると延麒が「何なら蓬莱文でもいいぜ」と返したので彼女はびっくりした。
「それなら読める人間も限られるから安全でもあるだろ」
「延麒は現代文も読めるってこと?」
「まあ、何とか」彼はにっと笑った。「むしろ俺、向こうで生まれ育った時代
では読み書きを習ってなくてさ。だから蓬莱文は比較的最近になって覚えたっ
ていうか」
「それって、いつ頃の話?」
 最近だと言われれば、普通の感覚ならせいぜい数年前、古くても十年前あた
りが限度だろう。しかし延王や延麒の場合、数十年、下手をすれば百年単位で
ものを言うので、一般的な感覚は当てにならなかった。
「ええと、どうだったかな」彼は指折り数えて考えた。「七十年前かそこらか
なあ。少なくとも習ってから百年も経ってないと思うけど」
「やっぱり」
「え?」
「いや、何でもない。でも七十年前ってけっこう昔だけど大丈夫? 今とは仮
名遣いや漢字も違うんじゃ」

432永遠の行方「王と麒麟(84)」:2011/08/14(日) 09:47:04
「ああ、だから書くのはちょっと苦手だ。でも読みだけなら何とかなる。でな
いと向こうの看板なんかも読めないから、遊びに行ったときにつまんないだろ」
「……なるほど」納得した陽子はくすりと笑った。
「ただ、もし尚隆に教えろと命令されれば、文の内容を話さずにいることはで
きないぞ?」
「もちろんかまわない。むしろ延王にもいろいろ助言をいただきたいくらいだ」
 こういうわけで、それから折に触れ、陽子は延麒に青鳥で文を送るように
なった。相手も忙しいだろうから必ずしも返事を求めていたわけではなかった
にせよ、書きなれた蓬莱文で気の赴くままに手紙を書けるのは嬉しかったし、
祥瓊らと話をしたり桓?と剣の稽古をするのとは違う種類の息抜きにもなった。
 たまに来る延麒からの返信はごく短いものだったが、陽子が送った手紙の内
容を理解しているのは確かで、何となく張り合いがあった――。
 陽子は回想を振り払うように軽く頭を振ると、座っていた椅子から立ち上
がった。
 もし浩瀚が推測したとおり解呪に手間取っているのなら、景麒が戻ったら力
になれることはないか検討してみよう。呪について陽子は何も知らないと言っ
て良かったが、それでも手伝えることがないとは限らない。第一、事件の渦中
にいる者は、明白な事実に気づかぬことが往々にしてあるものだ。あまりに近
すぎると、自明のことが却って意識から抜け落ちてしまうためだろう。となれ
ば遠く離れた金波宮にいる陽子にも、だからこそ役に立てることがあるかもし
れない。

 翌日の早朝に金波宮を発った景麒は、その日の夜には戻ってきた。陽子は長
楽殿の一室に浩瀚も呼び、ふたたび三人で会合を持った。
「延台輔にかけられた術を解くめどは立っていないそうです」
 景麒は固い表情で報告した。延王はみずから仁重殿に景麒を案内し、人払い
をした上で現状を端的に語ったという。この麒麟の性格をよく知っていると
あって、いたずらに言葉を弄する必要はないと判断したのだろう。

433永遠の行方「王と麒麟(85)」:2011/08/14(日) 09:58:53
「延麒はどんなふうだった?」
「臥牀で寝ておられました」
「それはそうだろう」
「お元気そうでした。普通に眠っておられるように見えました」
 陽子はちょっと考えてから尋ねた。「延麒を昏睡に陥れた術がどんなものか
わかっているのか?」
「睡獄の呪です」
「解くのが難しい術なのか?」
「そうとは限りませんが、どうやら解除条件が設定されているようです。その
条件が成立しないと延台輔は目覚めません。延王は術をかけた謀反人が、延台
輔が一番望んでおられることを条件にしたらしいとおっしゃっていました」
 陽子は浩瀚と顔を見合わせてから言った。
「意味がよくわからないんだが」
「延台輔のお望みを誰も知らないのですが、謀反人は絶対にかなうはずがない
と考えていたようです」
「つまりこういうことですか」浩瀚が口を挟んだ。「延台輔はひそかにある願
いを持っておられたが、残念ながら絶対に成立し得ないと思われる内容だった。
偶然にしろ策を弄したにしろその内容を知った謀反人は、皮肉をこめてあえて
その願いの成就を解呪の条件にした――と」
「そうです」
 景麒はうなずいた。陽子は顔をこわばらせた。
「しかしそうだとすると、絶対に延麒を目覚めさせられないってことじゃない
か。延麒の望みを誰も知らない上に、知っていたとしても成就できないんじゃ」
「本当に不可能なことを解呪条件として指定することはできません。あくまで
延台輔がそう思いこんでおられたというだけなので、延王は延台輔のお望みを
知ることができれば術を解けるとおっしゃいました」
「ああ――そういうことか」
 陽子はほっとしたが、厄介な状況であることは変わらなかった。
「それで延王はわたしに、延台輔の一番のお望みについて心当たりはないかと
お尋ねになりました」

434永遠の行方「王と麒麟(86)」:2011/08/14(日) 10:06:01
「で、あったのか?」
「ありません」
「……おまえ、延麒を心配しているよな?」
 景麒は心外だとでも言うように眉をひそめ、「もちろんです」と答えた。
「ひとつも思い当たることはないのか? 麒麟の一番の願いなんて、国が平和
になるようにとか人々が困窮しないようにとか、けっこう限られてくると思う
が」
「そういう内容ではなく、ごく個人的な願いのようです。延台輔は恥じて、誰
にもおっしゃっていないらしいとの話でした」
「恥じて――?」
 陽子は困惑のままに繰り返し、ふたたび浩瀚と顔を見合わせた。これまでの
延麒とのつきあいを思い起こしても、どうもぴんと来なかった。
「延王は主上にも、もし心当たりがあるようなら報せてほしいとおっしゃって
いました」
「残念ながら、今のところ思い当たることはないな……」
 いずれにしても景麒は半日程度玄英宮に滞在したに過ぎないため、持ち帰っ
た話は最低限の内容だった。現状はわかったものの、ではどうすれば延麒を救
えるかを考えるには材料が少なすぎた。
 雁で謀反のくわだてがあったことは金波宮でも知られていたので、陽子はそ
の見舞いを口実にあらためて景麒を派遣することにした。そうすれば公に数日
は滞在できるから、もっと詳しい事情を見聞きすることができるだろう。それ
に景麒は心当たりはないと言ったが、延麒と同じ麒麟としての視点が役に立つ
かもしれない。むしろ延王はそれを期待する部分もあって、いろいろ報せてき
たのではないだろうか。
 もちろん陽子自身が赴ければ一番良いのだが、相変わらず政務は山積みだし、
そう簡単に宮城を空けるわけにはいかなかった。
 彼女はひとまず鸞を返して、謀反に対する非公式の見舞いとして景麒を派遣
する旨を伝えた。そして自分にできることがあればぜひとも協力したいので、
延麒が術にかけられた経緯の詳細を含め、さらに詳しい事情を景麒に伝えてほ
しいと頼んだのだった。

4351:2011/08/14(日) 10:09:35
次は玄英宮での描写に戻る予定ですが、投下までまたしばらく間が空きます。
というか暑さでパソコン様もへばっているので、
涼しくなってから続きを書ければと思います。

436名無しさん:2011/08/23(火) 03:28:31
陽子キター!
どう絡んでくるか楽しみです
姐さんのパソコン様、涼しくなったら頼むよ〜

437265:2011/08/27(土) 17:42:06
また一年弱ぶりに立ち寄ってみたら、さすがです姐さん…!
(襟を正しての年中行事みたいに拝見しております。)
こちらの身にも突き刺さってくるものがビシバシあって
いつも痛いけれど目から鱗が落ちるような心地がしています。
続きも楽しみにお待ちします。

438名無しさん:2011/09/10(土) 09:57:11
たまには覗いて見るもんです。
続編キター!!
久々にろくたんも出てきて嬉しいです。続き待ってます!

439永遠の行方「王と麒麟(87)」:2011/09/22(木) 19:09:17

 慶において事情を知る者を安易に増やさないため、今回も景麒は従者さえ連
れず単身雁に赴いた。非公式であったこともあり大仰な歓迎の儀は省かれ、重
臣の居並ぶ内議の場で、景王からの見舞いの書状が延王に渡されるに留まった。
 書状および景麒の口から、六太を救うための協力が約される。それを受けた
延王からさっそく、同じ麒麟としての立場からわかることがあれば教えてほし
いとの要請がなされた。
 とんぼ返りだった先日の極秘訪問の際は簡単な言及のみだったため、景麒は
まず、謀反の顛末に関する詳細な説明を受けた。ついで六太の現状と、呪を解
くためにこれまで試みられた手段についても説明が行なわれた。何しろ何が手
がかりになるかわからない状況だ。特に今回は、六太と同じ麒麟の視点からな
ら有益な手がかりが得られるかもしれないと玄英宮側は期待していたし、親交
の深い景王の善意を疑う理由もないので、把握されているすべての情報が伝え
られた。
 一通り質疑応答を繰り返した景麒は、翌朝、仁重殿に赴いた。先日は六太の
顔を一瞥する程度で帰っていったし、大司空らから受けた説明を咀嚼した上で、
あらためて六太の状態を確認するためだ。
 外国からの賓客のもてなしを担当する秋官府の長として、朱衡は大司空とと
もに景麒を仁重殿に案内した。数人の女官が期待に満ちたまなざしで出迎え、
うやうやしく主のもとへ導く。
 臥室に入った景麒は、前回と同じく花の咲き乱れる室内をめずらしそうに見
回した。朱衡はほほえんで言った。
「ここは相変わらず常春の領域なのですよ。先日は詳しく申しあげる暇があり
ませんでしたが、少しでも延台輔に心地よく過ごしていただこうと、皆で腐心
しております」
「良いのではないでしょうか」景麒は何やら考えこんでから答えた。朱衡が問
いかけるように見つめると、彼は「良い香りは魔を払うと言われますから」と
続けた。

440永遠の行方「王と麒麟(88)」:2011/09/22(木) 19:11:58
 華やぎが目を楽しませているのはもちろん、花の香りが穏やかに満ちている。
大司空が「なるほど」と大きくうなずき、傍らで控えていた女官もぱっと顔を
輝かせた。
「まあ……では、たとえば香を焚くのはいかがでしょう」
「悪くありません。呪を解く手助けになることはないでしょうが、悪いものを
寄せつけにくいはずですから。延台輔が使令も封じられている以上、これ以上
の災厄を招かないためにも、考えられるかぎりの守りを固めておくべきです」
「さすがに麒麟たる景台輔はお詳しくていらっしゃる」
 誠実な答えに軽い驚きを覚えながら、朱衡は応じた。前景王の時代と併せ、
彼は一度ならずこの麒麟に会ったことがあったが、以前はあまり気も利かず、
言葉もそっけない印象だった。無口とは違うが、話をしていても途中でこちら
の言葉が宙ぶらりんになる感じなのだ。
 それが今やかなり言葉も増えたし、前日の種々の説明の際もこちらの官とき
ちんとやりとりしていた。先日のあわただしい訪問の際は気づかなかったが、
ずいぶんと進歩したものだと朱衡は思った。他国の宰輔に対して言うことでは
ないため、口にすることは控えたが。
 人払いをしていったん女官を遠ざけた彼らは、六太の眠る牀榻内に足を踏み
いれた。
「それで、いかがでしょうな、景台輔」大司空が尋ねた。「あらためて延台輔
をごらんになって、何かお感じになることは」
「麒麟の強い気を感じます。特に問題があるようには見えません」
「お目覚めにならないことを除けば、ですね」
「そうです」
「ふうむ。やはり台輔のお望みを地道に探るしかないか……」
 先日の訪問の際も景麒は尚隆に心当たりを尋ねられたが、景麒はまったくな
いと答えた。しかし今、彼は考えに沈んだかと思うとこう言い切った。
「延台輔も麒麟です。麒麟の願うことはやはり、国のことか王のことしかあり
ません」
「しかし」朱衡が言葉を挟んだ。「昨日もお話ししたように、ごく私的なお望
みとしか思えないのですが」

441永遠の行方「王と麒麟(89)」:2011/09/22(木) 19:15:30
「私的だとしても、国か王か、いずれかに関わることです」
「そうでしょうか」
 つい疑わしそうな目を向けると、景麒は憐れむようにふっと口元をなごませ
た。
「あなたがたは麒麟の性(さが)をご存じない。われわれの思考は決して、国
や主君から完全に切り離されることはありません。延王は、延台輔がごく個人
的な願いをいだき、それを恥じて口にしなかったようだとおっしゃっていまし
たが」
「そうです」
「延台輔ご自身がいかに個人的な望みと思っておられようと、それを恥じてお
られようと、やはり国か王に関わることとしか考えられません」
 朱衡は大司空と視線を交わした。果たしてこれは手がかりなのか。しかし鵜
呑みにすることはためらわれた。生きてきた歳月の違いのせいかもしれないが、
景麒より六太のほうが心情的にはるかに複雑な面を持っているのは確かだった
からだ。
「なるほど。まだ宮城内における聞き取りも終わっておりませんから、景台輔
のご助言も踏まえて調査を続けることに致しましょう」
 大司空が無難に返した。朱衡は話題を変え、解呪条件を設定したほうが術が
堅牢になると聞いたが、どうしても解けないものなのかと尋ねた。景麒はまた
考えこみ、「あまり適切なたとえを思いつきませんが」と前置きして言った。
「呪によって眠りに縛られるのが不自然な状態であるのは確かなので、長い間
にはどうしてもどこかにゆがみが生じます。そこであえて最初から出口として
の扉を設けてやる。これが解呪条件です。生じたゆがみは氾濫した河の堤のよ
うに、出口がなければどこが決壊するかわかりませんが、流れる先を一ヶ所に
誘導してやれば制御しやすいからです。なおかつ出口に至る経路で、ゆがみを
逃がす形で巧みに流れの力をそいでやる。そうすれば扉に到達しても力づくで
突破されることはありません。いずれにしろ全方位を完全に抑えることは難し
いですが、最終的に一ヶ所のみ強力に封じれば良いとなれば、話はずっと簡単
になるのです」

442永遠の行方「王と麒麟(90)」:2011/09/22(木) 19:18:05
「そうですか……」
「おまけに所定の手続きによって呪を受け入れたということは、延台輔ご自身
が『目覚めたくない』と思わされているのと同義です。それによって術が強化
されているため厄介です」
「やはり延台輔の願いごとを探るのが確実な方法のようですね」
 朱衡はそう答えてから、過日、主君に命じられた内容を説明した。
「延台輔のお望みそのものが確実な鍵であることを、広く知られるわけにはい
きません。『自分ならそれを知っている』と言えば、でっちあげでも何でも国
との取引材料になりえますから。そこで仁重殿の女官を誘導して、延台輔の願
いがかなえば術が解けるかもしれないという、おとぎ話のような可能性を彼女
らが思いついたことにしたいのです。そうすれば彼女らの忠心に押される形で
心当たりを調査する理由になります。それでいてさほど重要視されていない印
象も与えるため、不穏な輩がたくらみに利用する危険も抑えられるでしょう。
 景台輔のお越しは良い機会ゆえ、そちらに話を向けたいので、ご助力をお願
いできますか」
「……わたしは芝居が不得手です」
 景麒は渋い顔で答えた。朱衡は笑った。
「いえ、むしろ普通になさっていて良いのです。単にわれわれの話を否定しな
いでさえいただければ」
「そういうことでしたら」
 相手はしぶしぶといった体で応じた。朱衡は女官を呼びいれると茶を命じ、
客庁に移って休憩した。しばらく大司空と景麒を相手に雑談をしたのち、朱衡
は控えている女官のひとりに尋ねた。
「本日はまだ主上はこちらにお見えになっていないのだな?」
「はい。いつもふらりとお立ち寄りになりますので、わたくしどももいつお越
しになるか存じません」
「主上は最近はここで何を?」
「以前と同じですわ。台輔のお世話を手伝ってくださいます。それだけでなく、
わたくしどもを力づけてくださいます」

443永遠の行方「王と麒麟(91)」:2011/09/22(木) 19:23:49
「なるほど」
「先日お見えになったときなど、台輔の鼻先に菓子でもぶらさげてやれと冗談
をおっしゃいました。夢の中より現実の世界のほうが良いとわかれば自分で目
覚めるだろうからと」
「ああ、それはいい考えかもしれない」
 尚隆の撒いた「種」はこれかと合点した朱衡はにこやかに応じた。景麒に視
線を戻して「何しろうちの台輔はかなり食い意地が張っていましてね」と軽口
を叩いてみせる。
「しかし残念ながら、ここにある菓子だけでは足りんでしょうなあ」
 戸惑うような景麒を尻目に、大司空も調子を合わせた。ふたりして冗談のよ
うに笑いあいながら、さてここからどうやって話を続けようかと朱衡が考えて
いると、一番隅に控えていた女官が「あの」と口を挟んだ。
「そのう、思ったのですが……」
 とたんに傍らの同輩に袖を引かれ、差し出がましさをたしなめられた彼女は
言葉を切った。朱衡は安心させるようにうなずいた。
「景台輔は延台輔のために遠路はるばるお越しくださったのだ。何か思いつい
たのなら、この際だから申しあげてみなさい。どれほどささいな内容でもかま
わない」
「は、はい」彼女もぎこちないながら微笑を返した。「あの、主上は冗談で
おっしゃいましたけれど、本当にその可能性はないのでしょうか」
「その可能性とは?」
「現実のほうが良いと思っていただくことで、術が解ける可能性です。もちろ
ん実際にはお菓子でどうにかできる問題ではないでしょうが、何か他の、台輔
がとても望んでおられることがあって、それがかなったとしたら。ずっとお眠
りになっているとはいえ、台輔は意識のどこかでわたくしどもの話を聞いてお
られるかもしれません。だとしたらお望みがかなったことを知れば、ご自身で
何とか目覚めようとなさるのではありませんか?」
「ほう」興味深そうにうなずいた朱衡は、景麒に尋ねた。「いかがでしょう、
景台輔。話としてはできすぎという気がしないでもありませんが、少しは可能
性があると思われますか?」

444永遠の行方「王と麒麟(92)」:2011/09/22(木) 19:26:12
 景麒は黙って彼を凝視していたが、やがてためらいがちに答えた。
「わかりませんが……。そう――いう可能性もあるかもしれません……」
「少なくともその試みが害になることはなさそうですね」
 そう言うと景麒はあやふやな口調で「はあ」と同意し、ややあってから思い
切ったように言った。
「そもそも天命を享けた王、それを主君に戴く麒麟は、失道しないかぎり天帝
の加護を受けています。いわば天運を味方につけているのであり、本来、そう
いう相手に対する呪詛を成功させるのは困難です。したがって普通は相手の運
気が下降気味になったとき、それを加速させるような呪詛を仕掛けます。まと
もに張りあっても勝ち目はありませんから。
 もちろん今回の呪者もそれなりに運を味方につけていた。巧妙に罠を張って
延王を油断させただけでなく、即座に死に至らしめるような危険な呪を避ける
ことで、被術者側の無意識の抵抗を最小限に抑えるだけの狡猾さもあった。呪
者が延王に手渡した料紙に焚きしめてあった香も、おそらく術を成功に導くの
に役立つ調合だったのでしょう。
 とはいえ呪者の運もそこまで。呪詛によって滅ぼされるとしたら、しょせん
それだけの運しか持っていなかったのです。しかし延王も延台輔も天運を味方
につけているはずですから、この不遇は一時的なものでしょう。今しがたこの
者が言ったように、お望みがかなえば、延台輔ご自身が目覚めようと努力なさ
る可能性も十分ありえます」
 上出来だ、と朱衡は思った。ここまで話を合わせてもらえれば文句はない。
彼は女官に向き直った。
「かと言って、台輔にそのような大きなお望みがあるかどうかはわからないが、
もし心当たりがあるなら、どんな細かいことでも大宗伯に相談しなさい。台輔
のことを一番よくわかっているのは、日頃からおそばにいるおまえたちなのだ
から」
「は、はい」
「そう――もしかしたら他の者はそのような思いつきを馬鹿にするかもしれな
い。だが主に対するおまえたちの誠心から出た話を卑下することはない。六官
に相談した上でなら、何でも思うとおりにしなさい」
 その後、朱衡らは別室に控えていた黄医の元にも景麒を案内した。主君に報
告すべき内容を把握した景麒は、この件については適宜鸞なり青鳥なりで連絡
を取りあうことを確認し、翌日慶に戻っていった。

4451:2011/09/22(木) 19:33:38
続きはまた明日。
(一ヶ月見ない間に、したらばのスレ表示スタイルがかなり変わりましたね)

>>436
今回、陽子は顔見せ程度、もっと後になってからまた登場するので
しばらくお待ちください♥

>>437-438
マジで一年ぐらいの長いスパンで覗いてもらえると手ごろですw
もともと進行が遅い上に、停滞というか膠着状態の章ですからねー。

突き刺さる……というのが何かちょっと心配ですが、オリキャラのときのように
もしかなり読む人を選ぶ部分があれば指摘してもらえるとありがたいです。
正直かなり鈍感なほうなので、自分では気づかないんですよ……。

446永遠の行方「王と麒麟(93)」:2011/09/23(金) 12:29:25

 麒麟が気にかけるのは王か国のこと。景麒が断言した話を聞いた他の六官は
戸惑った。今回の条件に合致する逸話に心当たりはないし、それは尚隆も同じ
だ。
 これが普通の人間なら、忠心をもって仕えつつも内心で主君を妬み、成り代
わりたいと望むこともあるだろう。そしてそのような二面性を持つ自分の浅ま
しさを恥じることがあるかもしれない。
 しかし六太は麒麟だ。妬みだの恨みだのといった負の感情に由来する望みを
抱くとは考えられないし、かと言って国の繁栄や主君の長寿を願っているので
あれば恥じることではない。仮に六太の基準で恥と思うことがあったとしても、
ここまで固く口をつぐんでいた理由にはならない。そもそも六太が雁を愛して
いるのは明らかだし、たまに言い争うことがあるとはいえ、主君とも五百年の
長きに渡ってうまくやってきた。むしろ尚隆とつるんで突っ走り、何かと官を
困らせてきたほどで……。
「だが留意はしておこう」尚隆は内議の席で重臣たちにそう言った。「少なく
とも同じ麒麟の言葉だからな。あるいは俺たちが何か見落としているのかもし
れん。あまりにも明白すぎて却って気づかないようなことを」
 その内議では光州からの報告も伝えられたものの得るところはなかった。し
かし、もとより六官のほとんどは、光州から解決策がもたらされることなど期
待していなかった。
 ついで宮城内で行なっている聴取の経過が報告された。「望みがかなえば六
太の目が覚める可能性はある」との噂を流した上で、各人に心当たりを尋ねた
ところ、根拠の有無に関わらず話がいろいろ出てきていた。何しろ六太は普段
から宮城のあちこちを気軽に歩いていたため、身分の高低に関わらず、言葉を
交わしたことのある者は多い。彼らから出てきた意見を集め、解呪に力を尽く
している冬官たちに伝えるとともに、情報の集積から見えてくるものがないか
どうか吟味する。
「しかし宮城でのことはどうしても政務がらみの話が主体になります。もっと
個人的な話題が出てくれば、いろいろ判断の助けになるのですが」

447永遠の行方「王と麒麟(94)」:2011/09/23(金) 12:32:39
 一同を見回した白沢に、朱衡が「そうですね」と応じ、少し考えてから続け
た。
「拙官も折に触れて身近な者に尋ねているところですが、実のところ興味深い
話はありました。もう少し詳しく聞いてからと思ったのですが、簡単に申しま
すと、国府にある海客の団欒所についてです。台輔がご身分を隠した上でちょ
くちょく足を運んでおられたことは冢宰もご存じですね」
「もちろん聞いています。そもそも団欒所は靖州侯たる台輔の命があって設け
られた場所ですから」
「秋官府の下吏のひとりが興味本位でたまに訪ねるようになったそうで、その
者から聞いたのですが、団欒所では海客と関弓の民が和やかに交流し、菓子を
持ち寄って飲食したり、蓬莱の楽器を弾いて一緒に歌ったりしているそうです。
蓬莱やこちらの歌をね。聞けば台輔も海客を真似て楽器を演奏することがある
とか」
「ほう」
 尚隆が意外そうな声を上げ、他の者も一様に驚いた。楽器の演奏などという
高雅な趣味は、やんちゃな雁の宰輔には似合わないものだったし、事実そんな
場面を見たことがある者はいなかった。
「それは知らなかった。時々団欒所に通っていることは聞いていたが……。俺
が手慰みに笛を吹くとき、いつもつまらなそうにしておったから、その手の物
に興味はないと思っていたぞ」
「もちろん台輔は楽人ではありませんから、あくまでお遊びの域を出ないで
しょう。一度、件の下吏に案内させて扉の外から窺ったことがある程度なので
詳しくは存じませんが、太鼓をぽこぽこ叩くとか、その程度のようですよ」
「だがそれはそれで楽しそうだ」尚隆はおもしろがり、しきりに「あの六太が
な」とひとりごとのように繰り返した。

448永遠の行方「王と麒麟(95)」:2011/09/23(金) 12:41:30
「要は民に混じってわいわい騒ぐのが楽しかったのでしょう。それに簡単な俗
謡を通じて、海客にわれわれの言葉を学ばせる試みも行なっておられたようで
す。
 ただし件の下吏は、当時は拙官の私邸の奄でしたが、その時点では台輔に気
づいておりませんでした。いつも下界に行くときのように御髪を隠した粗末な
なりでしたし、下吏のほうも年長の海客とばかり話していたからでしょう。そ
れで拙官が教えた上で固く口止めをしておきました。またその日は大勢でにぎ
わっていたため、官服でなかったこともあって、台輔も拙官に気づかなかった
ようです」
 尚隆はにやりとした。「六太が宮城で問題を起こしたときに備え、取引のネ
タのひとつとしてしまいこんだわけか」
「政務さえまじめにやっていただければ、その手の息抜きぐらい認めないわけ
ではありませんから」
 さらりと答えた朱衡に、尚隆は「怖いな。俺もどんな弱みを握られているや
ら」と楽しそうに返した。
「いずれにしろ海客の歌は、宮城での堅苦しい雅楽などとはまったく趣が違い
ました。そもそも非常に騒がしいのですよ」朱衡は当時を思い出して苦笑した。
「民が好む俗楽をさらに騒々しくした感じで、雅のかけらもありませんでした。
興味本位で見に行きながら早々に退散したのはそのためです。台輔に見つかる
ことを避けたというより、正直なところ頭が痛くなりましてね。下吏はもっと
静かな歌もあると、あとで言い訳していましたが」
「だが興味深い。これまで報告された情報と毛色も異なる。六太がいつも具体
的に何をしていたか、その下吏からさらに聞き出したらどうだ」
 朱衡はうなずき、「そのつもりです」と答えた。

-----
次の投下まで、またしばらく間が開きます。

449永遠の行方「王と麒麟(96)」:2011/11/12(土) 13:44:54

 小さなたたずまいの甘味屋で女主人が店番をしていると、そんな店には不似
合いな若い男が訪れた。地味ながら仕立ての良い長袍は、どう見ても農民では
ないが、商売人でもなさそうだ。
 ちょうど客足が途切れて暇を持て余していたところだったので、彼女はつい
しげしげと客を見つめた。
 威圧感はないが、長身なので大きく見える。二間ほどの間口、奥行きもさほ
どではないささやかな店では、それだけで満員になったように思えてしまう。
何となく覚えがある顔のような気もするが、さだかではない。
「いらっしゃい」
 声をかけると、男は狭い店内をぐるりと見回してから「ちと尋ねるが」と
言った。
 なんだ、道でも聞きたいのかとがっかりしながらも、「はいはい、何でしょ
う」と愛想よく応えると。
「女将(おかみ)は六太という少年を知っているか? たまにここで買ってい
たらしいのだが」
 彼女は怪訝な顔をしたもののうなずいた。
「知ってますよ、あのいたずら坊主でしょ。最近は見ないけど」
「俺は風漢という。実は六太の知り合いでな、少し前に六太の養い親が地方に
いくことになって、それに六太もついていったのだ」
 唐突な話題に女主人は面食らった。
「しかし急なことだったので、世話になった人たちに挨拶もできなかったらし
い。それで代わりにこの界隈で挨拶をしてきてほしいと頼まれて、こうして
回っている」
「それは……どうも。ご丁寧に」
 そう答えたものの、そこは商売人の勘、男の言うことに不審を覚えて警戒し
た。それを察したのだろう、相手は苦笑した。
「六太は言わなかったかも知れんが、打ち明けて話すと養い親はそこそこ高い
官位なのだ。俺は以前から世話になっていたもので、子息の頼まれごとをこな
して点数稼ぎをする意味もある」

450永遠の行方「王と麒麟(97)」:2011/11/12(土) 19:58:23
 女主人は曖昧にうなずいた。だがふと考え込んだ彼女は急に目を見開いた。
「旦那、もしかして一度、六太とここに来たことがありませんか?」
「さあ、どうだろう」男は眉根を寄せた。「覚えていないが、あったかも知れ
ん。何度かこの辺で甘味屋めぐりにつきあってやったことはあるからな」
「あたしは旦那に見覚えがありますよ」彼女はようやく警戒を解いて笑いかけ
た。「六太の親御さんには見えなかったし、ちょいと歳の離れた兄弟にしても
雰囲気が違いすぎるし、不思議に思ったのを今思い出しました。なんだ、親御
さんの知り合いだったんですねえ」
「六太と並んでいると似合わぬか」
 苦笑する男に、女主人も人懐こく笑った。
「こう言っちゃ何ですけど、旦那はあまり堅気には見えませんからね。ああ、
ごめんなさいね、だからって無法者に見えるってわけじゃないですから。子供
を連れ歩くような家庭的なお人には見えないだけで」
「ふむ。鋭いな」
「商売人ですから、これで人を見る目は確かですよ」
 胸を張って答える。いずれにしろ男は話が通じて安心したようだった。
「そうですか、六太がねえ。うちはここへ店を構えて三年ですけど、一年ほど
前からよく買いに来てくれました。引っ越すと知っていたら、お餞別をあげた
のに」
「急な話だったらしいからな。俺も後になって聞いた。そのうち、また戻って
くるだろう」
「ま、お役人はお役目でそういうこともままあるそうですね。よろしくお伝え
ください」
 すると男はまた店内を見回し、所狭しと置いてある菓子を眺めた。
「六太がここの品を懐かしがっているので、来たついでにいくつか買って送っ
てやりたいのだが。あれが好きそうな菓子はどれだろう」
「あの子は、牛や山羊のお乳なんかは体に合わないと言っていたけど、そうい
うのが入っていないお菓子は何でもおいしいって言ってくれましたよ。一種類
をたくさん食べるより、ちょっとずついろいろなお菓子を食べるのが好きだっ
たみたい」
「そうか。それなら日持ちのするものを適当に見繕ってくれんか」

451永遠の行方「王と麒麟(98)」:2011/11/15(火) 22:48:15
「はいはい。ちょっと待っててくださいね」
 彼女が手早く菓子を選んで小さな包みを作ると、男は小卓の片隅に載ってい
た素朴なからくり人形に目を留めた。取っ手を回すと人形が走るように脚を動
かす仕掛けになっている。彼がめずらしそうに手に取ったのに気づき、女主人
は「うちの息子が作ったものです」と教えた。
「ほう。あんたの息子は職人か」
「本職は大工だから、お遊びみたいなものですけどね。お菓子を買いにきた子
供たちが喜ぶものだから置いてあるんですよ」
「ふむ。確かに六太もこんな細工が好きだった」
「そういえばあの子も、新しい細工に取り替えるたびに動かして遊んでいっ
たっけ。やっぱり男の子ですねえ。仕組みが気になるらしくて、ひっくり返し
たり、取っ手を回しながら歯車の動きを見たりしてました。あたしも息子が
作ったものが喜ばれると嬉しいものだから、古くなったのをあげたこともあり
ますよ」
 嬉しそうに笑って言うと、男も笑い返した。
「そうか。そんなふうに覚えてもらえていたと知ったら六太は喜ぶだろう。何
しろ急に関弓を離れたから、便りを読むとかなり淋しがっているようだ。菓子
と一緒に、こうして知り合いを訪ねた話をいろいろ書き送ってやりたいと思っ
ている」
「ぜひよろしく言ってくださいな」
「ついでと言っては何だが、他に六太が好きそうなものを知らんか? どうせ
この菓子を送るのだから、まとめていろいろ送ってやりたい」
「お菓子で?」
「何でも良いのだ。実を言うと俺も六太がいなくなって淋しくてな。あれはな
かなか賑やかな子供だったから、養い親に世話になったことはさておいても、
できるだけのことはしてやりたい」
 そう言った男は確かに少しさびしそうだった。子供がひとり引っ越しただけ
で、大の大人が、と女主人は少しあきれた。
「いたずら好きでしたけどねえ」そう言って肩をすくめる。「でもまあ、心配
はいりませんよ。何だかんだ言って子供はすぐ周囲になじむものです」

452永遠の行方「王と麒麟(99)」:2011/11/15(火) 22:52:24
「そうかもしれん。何にしても六太が好きなものをたくさん送ってやって、少
しでも向こうに馴染む手助けができればと思っている。菓子やからくり人形の
他に六太の好きな物を聞いたことがあったら、ぜひ教えてくれ」
「さて、いきなり言われてもねえ」
 女主人が困惑して考えこむと、男は「何でもいい」と言った。
「六太が好きだった物、楽しみにしていたこと、喜んでいたことに心当たりは
ないか? 物でなくてもかまわん。たとえば俺はこの界隈で挨拶をしてきてく
れと頼まれただけだが、もし別の場所にも親しくしていた人物がいるなら、
そっちも回っても良いのだ。そうすれば六太への手紙に書けるからな。そう
いった相手を知っていたら、教えてもらえるとありがたい」
 ずいぶん必死だとさすがに奇妙に思いながらも、他に客はいないとあって、
女主人はゆっくり考えた。
「あの子は海客とも親しくしていたみたいだから、蓬莱ふうの、めずらしいも
のがいいんじゃないかしら」
「海客?」
「聞いた話じゃ、国府に海客の団欒所があるそうで、そこで楽しく遊ぶことも
あったようですよ」
「ああ、それは知っている」
「何だったかしら、他にもいろいろ聞いたと思ったんだけど。そうそう、一度、
絵描きを知らないかと聞かれたことがありました。紙芝居ってのをやりたかっ
たんですって」
「紙芝居?」
「講談のようなものだそうですよ。ただ、紙に描いた情景を客に見せながら説
明するんです。そうして情景を差し替えながら物語を進めていく。芝居なら役
者や小道具が必要だけど、紙芝居なら絵を描いた紙と講釈師がいればできるで
しょう。でもあいにく、あたしの知り合いに絵描きはいなくて」
「ほう……」
 こうまで六太のために気を配る男に不審を覚えながらも、これまで話したこ
とは別段、誰かの不利益になったり危険を招くような内容ではないはずだ。そ
う考えて女主人は尋ねられるままに、思い出せる内容をひととおり話した。さ
らには自分の息子が六太に頼まれて木を削り、蓬莱ふうの楽器作りを手伝った
話もしてやった。

453永遠の行方「王と麒麟(100)」:2011/11/15(火) 22:56:24
 そういったあれこれを話すと、男は時折「ほう。それは知らなかったな」と
相槌を打ちながら、微笑とともに聞いていた。
 やがて菓子の包みをかかえた男が帰っていくと、女主人は彼が何度か口にし
たその言葉に首をひねった。親兄弟ではないなら、知らないことがあってもむ
しろ当然ではないか……。

 鏡磨きの道具を抱えて歩いていた男は、ふと雑踏の中で覚えのある顔を見つ
けた。場末のいかがわしい賭場で、二、三度言葉を交わしたことのある相手だ。
「よう。風漢じゃねえか」
 にやにやしながら近づくと、相手は見慣れた鷹揚な笑みを見せた。
 風漢はほどほどに賭博を楽しむことを知っていながら、金のあるときは惜し
げもなく使い切って素寒貧になる、しかもそれで一向に困った様子がないとい
う不思議な男だった。おおかた、どこかの大店(おおだな)の身内なのだろう
が、なかなか憎めない男でもあった。おまけに長身ではあるがごつい印象はな
く、すっきりと見栄えの良い姿とあって、身なりさえ整えればなかなかの色男
と言えるだろう。
「どうだい、これから」
 指で賽(さい)を投げる真似をする。だが相手は苦笑して首を振った。
「すまんが、手持ちがなくてな」
「そりゃ残念だ。俺のほうはつけの代金を徴収してきたところだから、けっこ
う懐はあったかいぞ」
「まあ、次の機会にな」去りかけた風漢は、ふと思いついたように振り返った。
「おまえ、六太を知っているか? ときどき俺と一緒に歩いていた十三歳の少
年なのだが」
「ふん? あんたが餓鬼を連れてたって?」
 莫迦にしたように鼻で笑う。そもそもこの男とは賭場でしか会ったことはな
い。子供連れのはずはなかった。
「そうか、知らんか……」
「その餓鬼がなんだって?」

454永遠の行方「王と麒麟(101)」:2011/11/15(火) 23:00:00
 話の見えないのが嫌だったので尋ねると、風漢は彼が世話になった役人の子
息だと説明した。その一家が仕事の関係で急に地方に引っ越したため、よくこ
の街で遊んでいた子息に頼まれて代わりに挨拶回りをしているのだという。
「よくもまあ、そんなつまらんことを」
 つい呆れた声を漏らすと、風漢は「そう言ってくれるな」と笑った。
「それなりの官位の役人だから、子息でも恩を売っておけばいずれ役立つこと
もあろう。それに地方へ行ったのは一時的なことだから、しばらくしたらまた
戻ってくるはずだ」
「へえ。あんたでもそんな世知辛いことを考えるんだな」
 彼は何となく幻滅して答えた。どこか飄々としているこの男も、やはり浮世
の枷からは逃れられないのだ……。
 だがそれは彼自身も同じだ。懐が温かいとは言っても、しがない鏡磨きの仕
事で稼げる金はたかが知れている。十年も前に女房と別れて以来、楽しみと
言っては女と博打しかない。もっともそれで身上を潰すほどの甲斐性もないが、
それが幸いなのかどうか。
「……まあ、確かに役人に恩を売れるものなら売っておいたほうがいいわな」
 おざなりにつぶやく。軽くうなずき合って互いに立ち去ろうとしたところで、
ふと足を止めた風漢がまた男を見やった。その目に一瞬の逡巡を認めて、男は
意外に思った。
「……俺に女房子供はおらぬが、六太のことは幼い頃からよく知っているゆえ、
俺にとっても息子のようなものなのだ。それが急な転居で淋しがっているよう
なので、親が役人というのはさておいても、少しでも慰めになるようなことを
してやりたい」
「ふん?」
 取ってつけたような打ち明け話に、男はつまらなそうに鼻を鳴らし、顔をし
かめた。
 彼にも息子がいる。別れた女房が引き取って以来、どこで何をしているのか
もわからないが。妻子に大したことをしてやれなかったという負い目が、逆に
冷たい態度を装わせた。

455永遠の行方「王と麒麟(102)」:2011/11/15(火) 23:03:36
「どうかしたか?」
 風漢に尋ねられ、男は興味がなさそうに首を振った。それから少しそっけな
かったかもしれないと思い直して、言い訳のように答えた。
「子供のことだ、機嫌を取りたいなら、適当に玩具でも買ってやればいいだろ
が」
「たとえば?」
「これが小娘なら飾りもので間違いなく機嫌を取れる。十三歳でいいとこの坊
ちゃんなら、扱いやすい短刀ってとこだな。柄や鞘に見栄えのする細工がして
あって、帯にでも挟めるようなやつだ。背伸びをしたい年頃だ、喜ぶだろうさ」
「それが、六太は剣だの弓矢だのといった猛々しいものは嫌いなのだ。菓子や
らからくり人形やらを好んでいるのは知っているが、他にも何かないかと探し
ている」
「へえ。ずいぶんやわな小僧だな」
「何にしろ、そういうわけで六太の好みを知っている者がいれば助かるのだが」
「悪いが、心当たりはないな」
 肩をすくめてみせる。それから二言三言交わしたあと、彼らは別々の方向に
歩き去った。
 しばらく歩いたあとで鏡磨きの男はふと背後を振り返った。雑踏の向こうに、
既に風漢の姿はない。
 家庭とは縁がなさそうなあの男でも、子供を気にかけるものなのか。だが、
あの物言いからしてただの言い訳のように思えた。どうせ高官である親のほう
に取り入りたいだけだ。派手に遊びすぎてとうとう金が尽きたか、何かやばい
ことをして後ろ盾がほしくなったか……。
「息子、ねえ……」
 口の中でつぶやく。そしてつい、幼い頃に手放したきりの自分の息子を思い
出してまた顔をしかめたのだった。

456永遠の行方「王と麒麟(103)」:2011/11/15(火) 23:07:43

「変わりはないようだな」
 その日、いつものように仁重殿を訪れた尚隆は、相変わらず意識のない六太
を見おろして言った。付き添っていた黄医は、いつも尚隆が六太に飲ませる果
汁を女官に用意させながら「残念ながら」と答えた。
 やがて枕元に座って六太を片腕でかかえ、時間をかけて果汁を飲ませた尚隆
は、ふと何かに気づいたように半身の腕をなぞった。
「ずいぶんやせたようだが」
「はい」
 もともと六太は細身だし、子供らしいふっくらとした頬は失われていないの
で気づきにくかったが、以前と比べて明らかに腕が細くなっていた。眉をひそ
めた尚隆は、ついで衾をはぎ、薄い被衫の上から太もものあたりに掌をすべら
せた。脚の変化は腕よりも顕著だった。
「脚もかなりやせたな」
「はい。既に何ヶ月も寝たきりでいらっしゃいますから仕方がありません」
「と言うと?」
「ご自分で腕や脚を動かしになれませんので、筋肉が落ちてきています」
 黄医は説明した。神仙であっても暴飲暴食をすれば太るし、逆に鍛錬すれば
体が引き締まるものだ。それは只人となんら変わらない。当然、手足を使わな
ければ萎え、筋肉が落ちて細くなっていく。それが続けば、やがて歩くことす
らままならなくなる。
「朝昼晩と、手足をさすったり関節を動かしたりしてはおりますが、こればか
りは台輔ご自身が身動きなさらないとどうにもなりません」
「かくしゃくとしていた老人が、風邪で寝込んだとたん脚が萎えて起きるのが
難しくなったという話を聞いたことがあるが……」
 黄医はうなずいた。「老人ですと、たった一週間寝込んだだけでも相当に足
腰が弱るものです。ただ台輔はお若い体ですし、そもそも神獣麒麟でいらっ
しゃるのですから、お目覚めにさえなれば回復なさるでしょう。それでもこの
ご様子では、元のお体に戻るまでしばらく訓練が必要かと」
「意識が戻っても、当分は歩けないということか」
「起き上がるのも難しいと思われます」
 重々しい答えに尚隆は無言のまま視線を落とし、腕の中の六太の寝顔をじっ
と見つめた。

4571:2011/11/15(火) 23:09:51
今回はここまでです。
今のところ、年内にあと一回投下できるかどうか?という感じ。

458名無しさん:2011/11/21(月) 00:38:15
ふぉぉ油断してしばらく来ていなかったら投下キテタワ――(゚∀゚)――!!
必死な尚隆良いですなー(*´Д`)ハァハァ

459名無しさん:2011/12/14(水) 20:06:48
年末というせいもあってか閑散として淋しいので
続きをちまちま落としていきますね。

460永遠の行方「王と麒麟(104)」:2011/12/14(水) 20:09:41

 今回、鳴賢が海客の団欒所を覗いてみようと思い立ったのは、単なる好奇心
からというわけでもなかった。普段の生活から抜け出してみたかったのだ。
もっと正確に言えば逃げ出したかった。
 大学で友人たちと歓談すると一時的に気は晴れるが、それでも胸のどこかに
重苦しい塊はあった。親しい相手が目の前にいながら、彼らに打ち明けられな
い事情を抱えていると、友人と会うこと自体が逆に重荷になる。かと言って、
完全に見知らぬ人々の中に身を置くのはいっそう孤独が深まる気がする。
 そこで彼は、知り合いというほど親しくないものの、見た顔のある団欒所を
思い出したのだった。
 新年もちょっと覗いてみて、目ざとく彼を見つけた守真に酒をふるまわれた
から、訪れるのはこれで三回目だ。新年の祝いのときは関弓の民もいて、およ
そ三十人ほどで楽しく語らっていたようだが、今日の開放日にいたのは十数人
だった。
 交わされている言葉から推して関弓の民がほとんど。海客は守真と恂生だけ
のようだった。最初に訪れたとき見たみすぼらしい部分はとうになく、小綺麗
に整頓された堂室の奥には、こちらの世界や蓬莱のものらしい楽器が置かれて
いて、恂生が婚約者の――それとももう結婚したのだったか――娘と一緒に、
親に連れられてきたのだろう子供らと遊んでやっていた。他の関弓の民は思い
思いの場所で椅子に座るなどして歓談しており、うちひとりの女性が守真のい
る卓で一緒にお茶を飲んでいた。
 居心地が悪かったら、すぐ帰ろう。そう考えて堂内を見回した鳴賢を、今回
も守真が真っ先に見つけた。常に来訪者に気を配っているのかもしれない。そ
う思って振り返ってみれば、彼女はいつも堂室の扉に向かって座っていたし、
二度目に訪れたときもちゃんと名前を呼んで声をかけてくれていた。
「こんにちは、鳴賢」
 にこやかな挨拶に、鳴賢も「こんにちは」と返した。置かれている榻のひと
つに手招かれたので、傍らの女性に会釈しながら隣に座ると、すぐに茶と菓子
の小皿が出てきた。載っている菓子のひとつは今まで見たことがないほど精緻
なものだったから、彼は驚いて見つめた。

461永遠の行方「王と麒麟(105)」:2011/12/15(木) 22:08:41
「これは蓬莱の菓子?」
「いいえ」守真はおかしそうに笑った。「ただの焼き菓子だもの。抜き型は工
夫したけど、あとは色とりどりの飴を垂らしたり、砂糖づけの乾果を細かく
切って載せて蓬莱ふうに飾りつけただけ。お菓子に限らないけど、蓬莱では見
た目を美しく細やかに盛りつけることも大切なの」
「へえー」
 鳴賢は素直に感心し、件の菓子を手にとってためつすがめつした。これなら
高級な菜館の甘味としても出せるのではないだろうか。
 傍らの関弓の女性も、守真の手料理はとても綺麗で美味しいと褒めた。守真
は、本当は手抜きが得意なんだけどと笑ったあとで、簡単にできるものばかり
だと腕がなまるので、ときどき難しそうな飾りつけに挑戦するのだと言った。
「何しろこういう飾りつけに必要な材料もすぐ安価に手に入るんだもの、雁は
すばらしいわ。国によっては、たとえば砂糖は高級品でなかなか庶民は買えな
いって聞くでしょ」
「そうなんですか?」
「ええ、蜂蜜のほうが安いし一般的らしいわよ。甘いものって気持ちが和らぐ
から、わたしたちみたいな者でも気軽に砂糖を買えるのは本当にありがたい
わ」
「荒れた国じゃ、そもそも甘味自体が少ないらしいからね。でも雁には主上が
いらっしゃるから」
 関弓の女性が誇らしげな表情で相槌を打った。自国のことを褒められて悪い
気はしないから、鳴賢も嬉しく思いながら、飴で飾った菓子を口に入れた。抑
えた甘さとほろ苦さが同居した不思議な味だった。
「お味はどう?」
「うまいです。甘さもくどくなくて上品な感じです」
「それは良かったわ。ここじゃ、男の人でもとことん甘いのが好きな人が多い
みたいだけど、そういうのばかりだと飽きやすいと思って砂糖を控えめにして
みたの」
「これならいくらでも食べられそうです」
「じゃあ、帰るときにまたお土産にしてあげるわね。大学でお友達とどうぞ」
「あれ、あんた、大学生なの?」

462永遠の行方「王と麒麟(106)」:2011/12/17(土) 12:47:53
 目を丸くした女性に、鳴賢は「落ちこぼれかけてますけどね」と笑った。楽
器の一画では、子供たちを前に恂生が鼓を叩いてやっていて、子供たち自身は
手のひらほどの小さくて単純な楽器で、鼓と拍子を合わせながら笑い声を上げ
ている。詩吟と同じく音楽も教養のひとつだから、鳴賢も笛のひとつも嗜まな
いではないが、蓬莱の楽器はさすがにめずらしく、こうして見ただけでは弾き
かたがわからないものもあって興味深かった。
「開放日でも、あまり海客は来ないんですね」
 何気なく言うと、守真は「そうね」とうなずいた。
「雁に住んでいる海客だけでも数十人はいると聞くし、関弓に近いところにい
る人だけでも十人はいるだろうけど、だんだん来なくなる傾向があるわ」
「どうして?」
「海客同士はいわば同郷だから懐かしくはあるけれど、それって嫌でも蓬莱を
思いだすってことでしょ。でもわたしたちはもう故郷に戻れない。だから気持
ちにけりをつけるためにあえて離れるんだと思う」
「ふうん……」
「ただ、それでうまくやっていければいいけど、精神的に追い詰められて堕ち
るところまで堕ちる人もいるの。困ったときは頼ってほしいんだけど、なかな
かそういうわけにもいかなくて」
 以前鳴賢は楽俊から、団欒所の開く日が定められたのは、仲間内で閉じこ
もって問題を起こす輩がいたからだと聞かされた。だが問題はもっと複雑なの
かもしれない。
「いろいろ難しいのよね。誰でも傷つくのは怖いから」守真は考え深げに言っ
た。「特にこっちに流されてきたばかりの海客は打ちひしがれていて、十の慰
めがあっても、ささいな行き違いひとつで傷ついたりする。それが続くとどん
どん過敏になって、百の慰めがあっても一の困難で傷つくようになる。だから
と言って内にこもっていても何にもならないんだけど、そこまで悟るには長い
時間がかかるわ。こればかりは他人に言われてどうなるものでもないから」
「でもいつかは、なんていうか――諦めないといけませんよね?」
「そうね。でも難しいわ。たまに平然として見える人もいるんだけど、内心で
は他の人以上に傷ついていたりするの。本人が自覚していなくても。だからと
言って、やっぱり心のうちを吐き出してもらわないとわたしたちもどうしよう
もないんだけど」

463永遠の行方「王と麒麟(107)」:2011/12/18(日) 09:50:07
 悲嘆と衝撃を表に出さない人は鬱憤をどんどん溜めていって、思いもかけな
いときに爆発するのだという。それが他人を傷つける形だったりすると、海客
全員がそう見られるようになってしまうと守真は悲しそうに語った。
 彼女は、手を伸ばせばはたかれることもあるだろうが、その手をつかんで助
けてくれる人もいる、閉じこもっていてはそういう出会いの可能性も自分で拒
否することになるとも言った。だがそれは、悲嘆を経て現実を見つめる心境に
たどり着いたからこそ言える言葉なのだろう。
 ふと鳴賢は悟った。自分がここに来ようと思ったのは、彼自身に劣らず悩み
傷ついている人が確実にいるとわかっていたからだと。一見穏やかに暮らして
いるように見える守真と恂生だって、大いに荒れたことがあるはずなのだ。そ
ういえば初めて会ったとき、恂生がそんなことを言っていた……。
「そういうわけで、ここにくる顔ぶれはだいたい決まっているの。もっと人が
少なければ悠子ちゃんも来るけど、今日は顔を見せたと思ったらすぐ里家に
帰ってしまったわ。それでも随分進歩したのよ」
「ユウコちゃん?」
「胎果の女の子よ。緑の髪の」
「――ああ」
 楽俊を嫌悪していると鳴賢が直感した娘だ。彼自身もあまり顔を合わせたい
相手ではなかったから、いないほうが気が楽だった。
「あとは国府に勤めている華期(かき)って男性も常連だけど、最近は仕事が
忙しいみたいで全然顔を見ないわね。彼がいると恂生とふたりで演奏してくれ
るから、子供たちが喜ぶんだけど」
「へえ」
「六太もいれば、三人で小さな子供たちを楽しませてくれるわ。男性も意外と
子供好きだったり世話好きだったりするのよね」
 不意打ちのように口にされた名前に、鳴賢は鋭い痛みを覚えた。誤魔化すよ
うに顔を伏せて茶を口にする。
「……守真さんは、楽器は?」
 何とか取り繕って尋ねる。相手は困ったように笑った。
「ピアノを少しだけ。昔はもう少しマシだったんだけど、指がなまっちゃって、
今じゃ簡単な童謡くらいしか弾けないわねえ」

464永遠の行方「王と麒麟(108)」:2011/12/19(月) 18:48:59
「ぴあの?」
「ほら、あそこの一画で手前にある黒い大きな楽器のこと」
 指し示されたほうを鳴賢は頭をめぐらせて見た。それは奇妙な形をした卓の
ような黒い楽器で、いったいどのように弾くものなのか見当がつかなかった。
「でもここにあんな大きな楽器があるのって不思議よね。随分古いものだと思
うんだけど――さすがに百年ってことはないでしょうけど、少なくとも何十年
かは経ている感じなのよ。あのまま蓬莱から流されてきたとも思えないし、仮
に流されてきたのだとしたら状態が良すぎるし、いったい誰が持ちこんだのか
しら。カスタネットは華期の手作りで、ドラムセットもこちらの楽器を改造し
たりして恂生が何とか形にしたんだけど、あのグランドピアノはわたしがここ
に来たときはもうあったの。ただ調律は、昔いた海客から引き継いだ恂生も四
苦八苦していて、もういい音は出ないわね。それでもお遊びには十分だわ」
「そうですか」
 適当に相槌を打ちながら、鳴賢は六太のことを考えた。六太の身分について
は知らないらしいのでさておき、昏睡状態であることを知ったら彼女も心を痛
めるだろう。
 倩霞の家に行く途中で話した内容を思い出す。海客と関弓の民の交流につい
て、六太は随分楽しそうに語っていた。何か――そう、紙芝居とか言っていた。
おそらくここにある楽器についても、それを使った楽しい催しを考えていただ
ろうに。
 ――自分にも何かできないだろうか。
 ふと彼は思った。絵を描けないから紙芝居も作れないし蓬莱の楽器も弾けな
いが、そんな自分でも少しは役に立つことがあるのではないだろうか。

 同じ日、鳴賢が寮の自室に戻ってしばらくすると、ふらりと風漢がやってき
た。
 風漢は「元気でやっているようだな」と声をかけた。物思いが晴れたわけで
はないが、蓬莱のことをいろいろ守真や恂生に尋ねているうちに気がまぎれた
ため、それなりに明るい顔をしていたのだろう。
「今日は、何か?」

465永遠の行方「王と麒麟(109)」:2011/12/20(火) 21:49:34
「またおまえと話をしようと思ってな。六太について、俺の知らないことがま
だまだ出てきそうだ」
「じゃあ、まだ……」
「こればかりは大当たりを引き当てるまで、正解に近づいているかどうかすら
判断できんから仕方がない」
 鳴賢はがっかりした。だが相手の言うとおりではあったから、気を取り直し
て「そうだな」と応じた。
 風漢はまた軽食の包みを持参していて、鳴賢に勧めてくれた。鳴賢のほうは
守真からもらった菓子があったのでそれを出すと、風漢もめずらしがった。
「今日、海客の団欒所に行ってきてさ。国府にあるんだけど知ってるか?」
「ああ。六太がかなり気にかけていたようだからな」
「そこにいた海客がくれたんだ。細やかに飾ったり盛りつけるのが蓬莱ふうら
しいぜ」
「なるほど」
 菓子を手に取ってしげしげと眺めた風漢は、楽俊にも会い、六太の望みにつ
いて心当たりを尋ねたと言った。
「楽俊――文張にも事情を話したってことか?」鳴賢は驚いた。
「いや。理由は明かせぬが、故あって知りたいとだけ言っておいた」
「……それで納得したのか?」
「余計なことは何も聞いてこなかったな」
「へえ……。さすがと言うべきなんだろうな」
 感嘆をこめて応える。風漢の尋ねかた次第にしても、普通は事情を尋ねるだ
ろうに。
「口止めはしたのか?」
「ああ。だがやはり六太に何かがあったことは察したようで心配そうだった。
近いうちにちゃんと時間を取って経緯を説明してやるつもりではいるが、それ
で逆に勉強に影響が出るようではまずい。難しいところだ。むろん本来ならお
まえも巻きこむべきではないが、すまないと思っている」
「あ、いや」鳴賢はあわてた。「あんたのせいじゃない。むしろ俺は、こう
やって話を聞いてもらってありがたいくらいだ。他には誰とも話せないし」

466永遠の行方「王と麒麟(110)」:2011/12/21(水) 20:27:22
「ふむ。ならば楽俊にも早いうちに事情を明かすとするか。そうすればおまえ
も話し相手ができる。なに、話が広がることは心配するな。もともと楽俊は六
太の身分を知っているし、何年も親しくつきあっている。個人的にいろいろ頼
まれごとをこなしたりもしていたようだ」
 巧国出身の楽俊がどこで知り合ったかはわからないが、大学に入学したとき
には既に六太の正体を知っていたのだろう。思わず「やっぱり」とつぶやくと、
風漢は「ん?」と言うかのように眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。
 いずれにしろいくら伏せたいと思っても、六太を助けようとするかぎり、少
しずつ事情を知る人間が増えていくのは避けられなかった。あらためて考える
までもなく当たり前のことだったが、いくら心配するなと言われても、秘密が
どんどん漏れていくようで鳴賢は落ち着かなかった。彼としてはそれが悪い方
向に転ばないことを祈るしかない。
「そうすると、俺なんかより文張のほうがよっぽど詳しそうだな。それで、心
当たりはあったって?」
「残念ながら目新しい話はなかった。意外とおまえが聞いたような深刻な話は
しておらぬようだ。関弓で六太がよく行っていた店も教えてもらったので、そ
のうちの何軒かに顔を出してきたが、こちらも収穫というほどのものはない。
いきなり突っ込んだ話などできぬゆえ、六太の好物を尋ねる程度しかできな
かったせいもあろうが」
 どうやらここしばらく、まめに街を歩いて聞き込みをしていたらしい。風漢
は、六太が養い親の官吏と一緒に地方に引っ越したという設定を披露した。急
なことだったので、彼が六太の代理として挨拶に回っているのだと。あまりう
まい言い訳とは思わなかったが、大人数ではなく風漢ひとりがひっそりと回っ
ているかぎりは目立たないし、問題ないだろう。
 聞き込みの相手は大人が大半だが、往来で茶卵売りの少年につかまって茶卵
を売りつけられた折に、近辺の子供たちが六太のことを知っているか尋ねたり
もしたらしい。残念ながらすべて空振りに終わったようだが、特に落胆した様
子はなかった。

467永遠の行方「王と麒麟(111)」:2011/12/22(木) 19:52:48
「正直、期待していなかったとは言わぬ。だが難しいだろうと思ってはいたか
らな、そういう感触をはっきりつかんだだけでも収穫と言える。そもそも仮に
六太が自分の望みについて話した相手がいたとしても、さほど親しくないなら
当人はとうに忘れ去っているだろう。やはり今まで知られていなかった知り合
いとやらを探すよりは、おまえや楽俊のような、既に俺も知っている相手と何
度も話して情報を掘り起こすほうが見込みがある。他の者に手を広げるとして
もそのあとでいい」
「俺にわかることならいくらでも聞いてくれ。自分では何も思いつかないが、
いろいろ尋ねてくれれば思い出すことがあるかもしれない」
 鳴賢は言った。もっとも何が手がかりになるかもわからないし、風漢のほう
からいちいち尋ねるのも効率が悪かったので、結局、何年も前の楽俊の房間で
の六太との出会いからこれまでのことを、思い出せるかぎり話すことになった。
以前、菜館で話した内容とも多く重複したが、風漢は辛抱強く耳を傾け、むし
ろ途中で質問を挟んであやふやな点を細かく尋ねたりした。
 六太つながりで海客の団欒所についても話が及び、ふと鳴賢は「あそこで俺
でも役立てることってあると思うか?」と聞いてみた。六太は海客のことを気
にかけていた。六太自身も蓬莱の生まれであることが関係しているのかもしれ
ないが、自分が尽力することで多少なりとも六太のためになるだろうか。
「おまえが本当にそうしたいなら、まずは彼らのことをもっと知ることだろう
な。知ればおのずとやりたいこと、やれることが見えてくるものだ」
「そうか。そうかもな」
 こんなことに巻き込まれる前だったら、鳴賢も積極的に海客と関わりたいと
は考えなかっただろう。だが風漢が、いろいろな人々と知り合って縁ができる
のはいいものだぞ、と笑顔で続けたので、力づけられた気分だった。先日の飲
み食いの際の語らいと言い、どうやら相手は鳴賢がこれまで考えていたより懐
の深い人物だったらしい。
 何だかんだ言いながら、やっぱり国官ともなると違うんだな、と心の中でひ
とりごちる。あの大司寇も立派な人物だった。だが。
 それほどの人々に囲まれていながら六太は、王が孤独だと言ったのだ。断言
したわけではないが、そうほのめかした。

468永遠の行方「王と麒麟(112)」:2011/12/23(金) 11:22:23
 いや、あれは宮城での話ではなく、市井の民人がいだいている偶像の話だっ
たか――と、既に細部が曖昧になっている記憶をたぐる。そして孤独にさいな
まれるのは王だけではないだろうと考えた。
 なぜなら麒麟も同じなのだから。人々は勝手に幻想を抱いてその幻想に心酔
する。麒麟本人が何を思おうとどうでもいい。普段は明るい六太が、内心では
いろいろ思い悩んでいるようだった。しかし誰も個人としての六太の心境なん
か考えもしないのだろう。だから――そう、きっとあれは六太自身のことでも
あったのだ。
 それを訴えると、風漢は考え深げに鳴賢を見つめた。彼の口から漏れる言葉
は含蓄に富んでおり、今や鳴賢は無意識に相手の助言を期待していた。
「おまえの慰めになるかどうかはわからぬか」
「うん」
「民人が王や麒麟の人となりを知らないとおまえは言うが、それも利点がある」
「利点?」
「仮に王が私生活にだらしなく、六太が言うように賭博好き女好きだったとし
ても、民が知るのはその施政が良いか悪いかだけだ。つまりは余計な知識に惑
わされずに王を評価できるということだ」
「それはそうだけど……」
「だからこそ王が失道したら厳しく糾弾できるのだし、未練もなく次の王を求
められるだろう。もし個人としての王を知っていれば、それまでの功績から見
捨てることを躊躇するかもしれないし、苦しむかもしれない。だが既に国は傾
いているのだ、生活も困窮しているだろう。そんな時代に、王に同情してさら
に民が苦しむことはない」
 あっさり言ってのけた彼を、鳴賢は触れれば切れる刃のようだと思った。あ
まりの鋭さゆえに斬られたときは気づかないが、なまくらかと思って油断して
いると痛い目に遭う。
 これほど冷静に割り切っている臣下をかかえている延王は、果たして幸せな
のだろうか。いや、六太はそのことを知っていたからこそ、主君の心情を慮っ
ていたのではないか……。
「六太にしても麒麟ゆえに目先の慈悲に惑わされ、大局を見定めることができ
ない。六太個人を知り、あれが施す慈悲の詳細を知ったら、反感を持つ民は大
勢出てくる」

469永遠の行方「王と麒麟(113)」:2011/12/24(土) 11:58:20
「そうなのか?」
 驚いて問い返すと、風漢は苦笑した。
「おまえも、官吏が浮民の親子を追い立てたことを六太が責める言葉を口にし
たとき、内心で不満を覚えたと言っていたろうが。浮民だけではない、たとえ
大勢の人間を殺した極悪人でも、目の前で嘆願されれば六太は赦さずにはいら
れない。被害者の親族がどれほど憤り嘆き悲しもうとな。それが麒麟という生
きものの性情なのだ。だから麒麟を神秘の神人として幻想のままに置いておく
のは悪いことでははない。民に伝わるのはあくまで宰輔が慈悲深いという漠然
とした事実だけだから、よほどのことがなければ悪意の持ちようがない」
 鳴賢は何も言えずに聞いていた。今回の謀反の首謀者である暁紅のことも六
太は赦していた。少なくとも責める様子はなく、憐れんでさえいた。それを光
州で病に斃れた人々の縁者が知ったら、憤りを覚える者も出るだろう。
 風漢は続けた、どんなものにも表と裏の両面があり、良いことだけ、悪いこ
とだけ、という事柄は滅多にないと。
「一筋縄ではいかないな」鳴賢は溜息まじりにつぶやいた。「言われてみれば、
確かに個人としての王や麒麟を知らないってことは利点もある。雲の上の存在
だと思っていればこそ、よほど切迫しなければ、謀反だの何だのといった良か
らぬ考えをめぐらすこともないだろうから」
 今回の事件にしても、暁紅はもともと州城にいた仙なのだから普通の民が起
こしたわけではない。それも王が失政したわけでもなく個人的かつ利己的な恨
みが動機のようだから、対応に当たった延王の気持ちはかなり違うだろう。
もっとも五百年ものあいだ君臨し続け、奸臣による多くの謀反を鎮めてきた王
なのだから、この程度ではびくともしないだろうが。
「……五百年も生きるって、どんな気持ちなんだろうな」
 ふと言葉を漏らす。風漢が黙っていたので、鳴賢はひとりごとのように続け
た。
「しかもおもしろおかしく遊び暮らすんならともかく、毎日が重責の連続なん
てさ。王は失敗したら死ぬしかない。それでも昇山したやつなら王になる気
満々だったはずだからまだしも、今の主上は違うだろ。そうして麒麟のほうは、
王が人の道を失ったら代わりに病んで死ぬ。そりゃ自分が選んだ王なんだから、
仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど、結局は他人の言動のせいで自
分が苦しんで死ぬってことだ。俺なら王にも麒麟にもなりたくはないな」

470永遠の行方「王と麒麟(114)」:2011/12/25(日) 11:33:26
「そうだな。しかし現実には、私欲から王位を簒奪しようとする者は絶えない。
今回の謀反人が仕えていた元・州候もそうだ。よほど王位に魅力を感じるのだ
ろう。だがそういう輩がうまく国を治められるとは思えぬし、治められねば
早々に国が荒れて殺されるしかないのだがな。おそらく普通に仙として王に仕
えていたほうが、よほど安らかに長生きできように」
 実際に宮城で働いているせいか実感のこもった言葉に、鳴賢も同意した。
「今回のことで、才の前王の遺言を思い出してさ」
「責難は成事にあらず、というあれか?」
 鳴賢は笑って、「打てば響くように返ってきたな。やっぱりあんたは高級官
吏だ」と言った。
「さっきの話にも通じるけど、王や麒麟に対して、本当にみんな自分とは切り
離して考えてるんだな、って思って」だが少し前までは鳴賢自身もそうだった
のだ。「国を富ませるのも荒らすのも王で、自分たちは関係ないって感じで。
国が富めば恩恵を受ける。荒れれば暮らしが苦しくなる。そういう単純な図式
しか俺たちの意識にないのはどうなんだろう。それに六太が言ってたけど、慶
じゃ登極したばかりで右も左もわからなかった予王に、官が冷たくて全然協力
しなかったって。でも国ってのは、頂点に王がいるにしても、みんなで治める
ものじゃないのか。でないとうまくいくものもうまくいかないのじゃないか。
なのに何で王にばかり責任をなすりつけるのかな、って。その前に自分たちが
すべきことをやっていたのかって。
 だから俺は今は勉強する。なぜなら学生だから。王を含めた誰かを責めるの
ではなく、そうやってまず自分の本分を尽くして――無事に卒業できたら玄英
宮に行ってさ、少しでも六太の役に立てたらいいなって。
 そりゃ、官吏になっちまったら宰輔と気安く話せるわけもない。けじめとい
うものは大事だし、万が一、六太が俺を重用してくれたら――そんなことはな
いだろうけど万が一――贔屓だの何だのと陰口をたたかれるのは目に見えてい
る。それじゃあ逆に六太の足を引っ張るだけだ。だから俺は、上に何のつなぎ
もないただの新米官吏として働くことになる。それでも王宮に出仕できさえす
れば、下っ端なりに国政に役立てると思うんだ」
「うむ。何よりその心根が六太は嬉しいと思うぞ」
 そう言った風漢のまなざしは穏やかで優しく、いたわりに満ちていた。

471名無しさん:2011/12/25(日) 11:39:21
今年の投下はここまでです。

さて今年は何かと大変な方々が多かったと思いますが、
皆さまにとって来年が少しでも良い年になればいいなと思います。

というわけで少し早いですが「良いお年を」。

472名無しさん:2012/01/20(金) 07:38:37
ぎゃーつ続きが( 〃Д〃)モェモェ
姐さん、遅れましたがあけおめことよろです!
ネズミも好きなんで、楽春の名前に舞い上がってます。続き待ってます!いつまでもー!

473永遠の行方「王と麒麟(115)」:2012/03/08(木) 20:23:13

 今回の件で陽子が雁に連絡を寄越すときは、小さな紙片に記した蓬莱文を青
鳥で運ぶ、これまでの六太とのやりとりを装う取り決めになっていた。慶の諸
官に知られないようにするにはそれが一番自然で容易だったからだ。むろん今
度は陽子は、尚隆のみならず彼の近臣に文面を見られることを承知しているだ
ろう。
 その日、六太宛に届いた青鳥の内容は簡潔で、現状および景麒が訪問して以
降の進展を尋ねるものであり、今回も大司馬が推薦した海客出身の軍吏に翻訳
させた。ほんの数行の原文に対し、書き上げられた文章はずっと多かった。訳
文のみ記した書面が一枚、さらに元の蓬莱文と訳文を併記し、相互に単語の意
味を照合できる形で仕上げた書類を添付していたからだ。これなら文意をねじ
まげるなどの捏造を施しにくいだけでなく、そういった作為による誤訳を発見
しやすくもなる。さらには蓬莱文の素養のない人間でも、原文をそのまま理解
する助けになる。おそらく尚隆なら、あと二、三度繰り返せば現代の蓬莱文を
読み下す要領をつかめるだろう。
 軍吏は最初に訳させたときも同じ形式を用いていたが、別に大司馬の指図が
あってのことではなかった。海客を信用しない者がいたとしても、誠意を疑わ
れぬよう、ひいては取り立ててくれた大司馬に害が及ばぬよう工夫したものら
しい。
「なるほど」
 訳文が記された書面を大司馬から受け取った尚隆はうなずいた。感心した様
子の主君に、請け負った大司馬も満足だった。
 文面には六太の現状を尋ねる言葉、当事者でもないのに催促するようで申し
訳ないという詫びの文言に続いて、少しでも進展があったら教えてほしい旨が
連ねてあった。さらに、何が手がかりになるかわからないとのことなので、自
分がこれまで六太と話した内容を少しずつ書き送る用意があるとも。
「六太は陽子と親しくやりとりしていたのだし、わざわざ手紙で言及すること
はなくとも、慶を訪問した折にでも普段と違うことを口にしたかも知れぬ」
「確かに」
「では陽子の政務に支障がない範囲で書き送ってもらうとするか」
「実は主上。この文を訳させた軍吏も、例の団欒所に顔を出していたそうで
す」

474永遠の行方「王と麒麟(116)」:2012/03/09(金) 21:52:57
「ほう?」
 尚隆が眉を上げると、大司馬は続けた。
「作業を任せる前に口止めをしたのみならず質問も禁じていましたので、その
者自身は余計な口を利かずに作業しておりました。しかしあれも海客です。何
か言いたそうにしておりましたので、ふと思いついて尋ねたところ――」
「六太を知っていたというわけか」
「はい。ただし年に二、三度顔を合わせれば良いほうだったとあって、たまに
団欒所に顔を出す少年が台輔だということは気づいていなかったそうです。今
回の件で景王からの親書に台輔のお名前があったため、そこで初めて『もし
や』と思ったとか」
 あごをなでた尚隆は考え深げに言った。「その程度であれば大した話はして
おらぬだろうが、念のため聴取はしておくことだ」
「ではさっそく」
 しばらくして大司馬は陽子宛の返信を預かり、大司馬府に戻っていった。

 朱衡のほうも、重用している下吏から団欒所での六太の様子について聞き出
していた。
 ただ以前、団欒所を訪れた際に彼が懲りた様子を見せていたためだろう、話
を振っても下吏は躊躇して、あまり詳細な話はしなかった。そこで数日挟んだ
のち、執務の休憩の折に再度言及したところで、ようやく本格的に話を始めた。
「しばらく台輔の意識が戻らないなら、代わりに海客のことを気にかけてさし
あげたほうが良いからね。それに台輔の意外な姿について聞くのはなかなか楽
しいことだとわかった」
 朱衡がそう言うと、下吏も納得した顔になった。そして自分が団欒所に行く
ことになった当初から順を追って話しはじめた。
「でも前にも言いましたけど、俺、全然台輔に気づかなかったんです。団欒所
には守真って中年の世話好きな女性がいましてね、もっぱらその人と話してい
たし、確か最初に見たとき、台輔は恂生っていうもっと若い海客と一緒に子供
を遊ばせてやっていたから。俺は守真から蓬莱のめずらしい話をいろいろ聞け
るのがおもしろくて何度か顔を出すようになって、そこで仕入れた四方山話を
大司寇にするようになったわけです」

475永遠の行方「王と麒麟(117)」:2012/03/09(金) 23:34:34
 団欒所には海客の楽器もいくつか置かれていた。三度目か四度目に訪れたと
き、関弓の幼い子供たちにせがまれた守真が、ピアノという楽器で童謡を弾き
だした。彼女に合わせて恂生も琵琶に似た楽器を弾き始め、そこへ顔を出した
六太が打楽器を合わせ始めた。ここに至って下吏は初めて六太を注視したの
だった。
「蓬莱の童謡ってのは本当に子供向けの他愛のない歌なんです。でも俺は詞も
知らなかったし、端っこで他の連中と話をしながら何となく聴いていただけで
す。そりゃ途中で、どっかで見たような顔が鼓を叩きはじめたなぁ、とは思い
ましたけど、離れていたしあまり気にしませんでした。大司寇をご案内したの
はその頃で、台輔だって言われて、もうびっくりですよ。でも確か、次に行っ
たときは台輔はおられませんでした。むろん大司寇に口止めされてたから、
こっちに気づかれたらまずいとは思ったんで、むしろ好都合でしたけど」
 そもそも団欒所の開放日は決まっているし、それなりに忙しい六太がいつも
顔を出せるはずもない。
 それから数ヶ月の間、下吏がそこで六太を見かけることはなかった。その間
彼は恂生と話すようになり、恂生が蓬莱で「バンド」という小さな楽隊に参加
していたことを聞いたのだった。
「なんか凄いんですよ。恂生は大学生だったって言ってたから、官吏になるつ
もりだったんでしょうが、蓬莱でも楽は高官の嗜みなんですかね。自分で詞を
書いたり曲を作ったりもするんだそうです。守真が弾く曲は童謡だったり、
『クラシック』っていう綺麗で落ち着いた曲だったりするんですが、恂生のは
全然違ってて。われわれの音楽に似たものがないんで説明が難しいんですが―
―あ、そうか、大司寇は一度お聴きになったんですよね。あれ、本当はうるさ
いだけじゃないんです、意外と奥が深くて、たとえば蓬莱でも若者なんかは既
成の概念や体制に対する怒りに似た反抗心を持っていて、その心情のひとつの
表現として――」
 どうやらこの下吏は海客の音楽がひどく気に入っているらしい。最初こそ話
すのも遠慮がちだったというのに、朱衡がほほえんで聞いているとだんだん口
調が熱を帯びてきた。そしてひとしきり拳を振り回すようにして蓬莱の音楽に
ついて熱く語ったあと、ようやく「あっ、すいません、つい」とあわてた顔で
言葉を切った。
「気にしなくていい、なかなか興をそそる話だ」

476永遠の行方「王と麒麟(118)」:2012/03/09(金) 23:55:08
 朱衡は笑いながら言った。実際、これまで六太の口から聞いた覚えのない内
容だけに興味深かった。
 彼は恐縮した相手を促して話を続けさせ、団欒所で下吏が守真や恂生から聞
いた六太の言動に耳を傾けた。そしてこれほど長くつきあいながら、今まで六
太のそんな面を知らなかったことを不思議に思い、おそらく尚隆も興味深く聞
くだろうと考えた。

「台輔は最初から蓬莱の音楽を好んでおられたわけではないでしょう」下吏か
ら聞き出した内容を報告した朱衡は最後に言った。「ただ、海客にこちらの言
葉を覚えさせるに良い手段だとひらめいたのだと思います。実際、旋律という
ものは耳に残ります。詞がついていれば一緒に覚えるでしょう。どうやら日常
生活で使われる頻度の高い語を選び出して詞に入れ、それに合わせた曲を海客
の青年に作らせて頻繁に歌わせることで、われわれの言葉を学ばせていたよう
です」
 内議の席にいた他の重臣のうち、大司馬もうなずいた。
「うちの海客の軍吏にも尋ねてみたが、実際に効果は上がっていたらしい。わ
れわれの言葉のみで詞を作ったり、はたまた蓬莱の言葉と交互に繰り返したり、
いろいろ種類があるようだ。単純に一から十まで数を追うだけの歌もあり、団
欒所に来た関弓の民もそれで片言の蓬莱語を覚えたという。かなり意思の疎通
に役立ったのではないかな」
「台輔は目のつけどころが違いますね」他の者も感心した様子だった。
「ただ密かにおやりになっていたことだけは不思議ですが」
 朱衡が首を傾げると、尚隆は「別に隠していたわけではあるまい」と笑った。
「おそらく遊びの延長で始めたのだろうし、あくまで趣味の範疇と思っていた
のだろう。しかし試みを始めたのが数年前でありながら、この短期間でかなり
の効果が上がっていたとすれば、いずれ何らかの形で大きく取り上げるつもり
だったのかも知れん」
「ああ、それもそうですね」
 件の下吏が語ったところによれば、六太は恂生にいくつかの蓬莱の楽器の手
ほどきを受けたらしい。ということは以前朱衡が言った「太鼓をぽこぽこ叩く
程度」ではなく、一応はそれなりに弾けたのだろう。少なくとも恂生や、たま
に加わる軍吏の華期と楽しく合奏したこともあるとの話だった。

477永遠の行方「王と麒麟(119)」:2012/03/14(水) 23:33:43
「俺が笛を吹くときはつまらなそうな顔をしておったのになあ。俺の腕前では
興味がわかなかったということか」
 尚隆が情けなさそうな顔で溜息をついたので、近臣らは笑いを漏らした。
 朱衡に続いて報告した大司馬は、六太は海客と作った歌を、子供らを含めた
関弓の民の前で歌うこともあったと告げた。新しく歌を作ったとき、守真や恂
生と交代で、あるいは一緒に披露したのだという。
「ほほう、それはそれは」
「あの台輔がねえ」
 少年の姿を留め、声変わりもしていない六太が、子供らの前で元気よく声を
張り上げて歌うさまを想像するのはほほえましいことだった。一から十まで数
える歌も、曲を作った海客らと一緒ににぎやかに披露し、関弓の民もそれを聞
きながら覚えて一緒に歌ったのかもしれない。尚隆も楽しそうに笑みを浮かべ
ながら報告を聞いていた。
「あら」
 ふと大司徒が眉根を寄せたので、他の者が「何か?」と尋ねた。大司徒は周
囲を見回しながら、おずおずと言った。
「あのう、思ったのですが、台輔は歌うたいになりたいとか――まさか、そう
いう夢をお持ちだったわけではない、ですよね……?」
 他の者は一瞬呆気に取られ、ついで吹き出した。
「まさか」
「あくまでお遊びでしょう。たまたま結果的に海客の役に立っただけで」
「はあ」
「だが――まあ……」
 ひとしきり笑ったあとで、彼らは真顔になって顔を見合わせた。
「可能性としては、なくもない、か……?」
「さ、さあ?」
 うーん、と真剣に考え込む。だがそれを見守る尚隆はと言えば気楽な顔で、
「なるほど、ありうるな」とおかしそうに笑っているだけだ。
「あ、そういえば」声を上げた朱衡に視線が集中する。
「大司寇、何か?」
「今、思い出したのですが、こんなことがありました。何十年も前のことです
が」

478永遠の行方「王と麒麟(120)」:2012/03/14(水) 23:40:02
 当時、朱衡の下吏がまだ私邸で奄をしていた頃、蓬莱から流れてきたらしい
雑貨を興味半分で買い求めたことがあった。その中に蓬莱の楽器を演奏する女
性をかたどった美しい陶器の置物があり、小さなものだったせいか状態が良く、
譲られた朱衡は私邸の片隅に飾っていたのだという。
「あるときたまたま台輔がそれをご覧になり、これはピアノという楽器だと説
明してくださいました。たいそう気に入ったご様子でしたので差し上げたとこ
ろ、しばらくして仁重殿に伺ったとき、件の置物が大切に飾られているのを拝
見いたしました」
「ほう」椅子の肘掛に頬杖をついて聞いていた尚隆も考え深げな声を漏らした。
「すっかり忘れておりましたが、普段あまり物に執着なさらない台輔にしては、
ずいぶんお気に召したようでした」
「なるほどな。いずれにせよ、あれが思ったより音楽に興味を引かれているこ
とはわかったわけだ。まったくそれならそれで、俺の笛にも多少なりとも関心
を持ってくれればいいものを」
 尚隆がふたたび情けない顔で「俺の立場がない」とぶつぶつ愚痴ったので、
近臣らからまた穏やかな笑いがこぼれた。いったん微妙に緊張した空気がほぐ
れ、なごんだ雰囲気の中で彼らはあれこれ語り合った。
「台輔が歌うたいになりたいという夢をお持ちだったか否かはさておき、お目
覚めにならなければかなうはずがない以上、少なくとも呪者が設定した解呪条
件ではありませんね」
「ま、いちおう詰めている冬官には伝えておきましょう。手がかりになるかも
しれませんから」
「しかし台輔も意外な面をお持ちだったわけですな」
「拙官も海客が作ったという歌に興味が湧いてきました」
「ええと、一から順に数える歌でしたか、いずれそれを歌っている台輔のご様
子を拝見したいものですね」
「そういえば台輔はあれで、たまに意外なものに関心を見せることはありまし
たな。厨房で粉がこねられて菓子が焼きあがるまでをじっと眺めていたり、工
人が殿閣を修理している様子を飽きもせずにごらんになっていたり」
「そうそう。時折、宮城のあちこちをうろちょろなさって」

479永遠の行方「王と麒麟(121)」:2012/03/14(水) 23:53:00
「外朝にある宿舎に御髪を隠して入りこみ、官吏の幼い子弟と遊んだりもして
いたそうですよ。台輔に拝謁のかなわない身分の者が多いため、いまだに台輔
の正体に気づいてはいないようですが」
 尚隆はこれらの話に興味深そうに耳を傾け、時折「ほう」と意外そうな声を
上げた。そして「それは知らなかった」とおかしそうに笑った。
「主上はさっさと関弓山を抜け出して下界に行っておしまいのことが多いです
から、確かにこういったことはあまりご存じなかったでしょうね」
 近臣らも笑いながら答え、ひとしきり、こんなことがあった、あんなことも
あった、という思い出話の花が咲いた。尚隆は穏やかに微笑したまま、時折
「そうか」と静かな相槌を打っていた。

 仁重殿を訪ねた尚隆は、笑顔で軽く手を振って女官らをさがらせた。牀榻に
足を踏み入れ、いつも黄医がかけている椅子に腰をおろす。
 表情に穏やかな微笑を留めたまま、彼はやがて静かに吐息を漏らした。眠る
半身にからかうような視線を投げ、口角を上げてにやりとする。
「――まったく」口の中でつぶやく。「何と言っても五百年だぞ。なのにそれ
だけ長い付き合いがある俺さえ、おまえの望みを知らぬ。おまけに関弓山内部
でのことに至っては、俺より他の者のほうがよく知っている。困ったことだ」
 そのまましばらく六太の寝顔を眺めていた彼は、ふたたび吐息をつくと言っ
た。
「別行動も多かったからな、逆におまえも俺について知らぬことは多かろう。
――そう、ひとり旅の途中、たまに奏国の太子と出会うことがあるのだが、他
の者に言ったことは一度もないゆえ、おそらくおまえも知らぬだろうな。街道
の奥まったところにある田舎に素朴な飯を食わせてくれる老人がいて、ここ二
十年ほどたまに訪ねて行くことも。その昔、碁石を集めていたことも、その理
由も――だがな」いったん言葉を切ってからまた続ける。「それでも俺は淋し
いぞ。これだけの歳月を過ごしながら、ただいたずらに時を重ねたに過ぎな
かったのか。互いに知らぬことばかりだが、そもそも相手のことを知りたいと
思うほど興味がなかったのか。生命を分けあっているはずの俺たちなのに、絆
と言えるものは何もなかったのか」
 それだけ言って尚隆は黙り込んだ。そうして長いこと経ってから微笑ととも
に繰り返した。「淋しいな」と。

480名無しさん:2012/03/14(水) 23:58:08
とりあえずここまで。
諸事情により、次回の投下まで少なくとも何ヶ月か開くと思います。

481名無しさん:2012/03/19(月) 00:25:54
姐さん乙です。
尚隆セツナス。
次回まで気長にお待ちしております。

482名無しさん:2012/04/10(火) 07:30:47
こまめに覗くものですねぇ!更新ありがとうございます!!唄うたいなロクタンもかわいいと思います。

483名無しさん:2012/06/10(日) 11:34:14
久しぶりにちょこっとだけ投下します。
なお次の投下は、前回以上に間が開くかもしれません。

484永遠の行方「王と麒麟(122)」:2012/06/10(日) 11:37:01

 控えめに叩かれた扉を開くと、鳴賢の房間の前に立っていたのは楽俊だった。
「よう。どうした」
 鳴賢が声をかけると、相手は「昨夜、風漢さまからいろいろ話を聞いたもん
でな」と言った。どきりとした鳴賢は「まあ入れよ」と中に招き入れた。
 楽俊に床机を勧め、向かい合って座ったところで尋ねる。
「いろいろって、どんなことを聞いた?」
「うん、たぶん――全部なんだろうな」
「全部……」
「謀反の経緯から台輔の現状まで。そりゃ、細かい部分ははしょってるんだろ
うが」
「そうか……」
 鳴賢はそう言って黙り込んだ。予期していたことではあったが、いざそうな
るとなかなか言葉が出てこなかった。
「大変だったんだな」
 いたわるようにぽつりと言われ、鳴賢はうなずいた。それでようやく、ずっ
と気になっていたことを確かめる気になった。
「文張、おまえ、六太の正体をずっと知っていたんだよな?」
「そうだ。ずっと黙ってて悪かった」
「いや、それは仕方がない。それに風漢が宮城に出仕している官吏だってこと
も知ってたんだよな? 道理でいつもあのふたりを丁寧に『さん』づけで呼ん
でたわけだ」
「すまねえ」楽俊はぺこりと頭を下げた。
「いいさ、おまえもいろいろ事情があったんだろうし。六太が台輔だってわ
かったとき、おまえも驚いたか?」
「いんや。何せ最初に会ったときから台輔だったからな」
「へ?」
「おいらが巧にいたとき、行き倒れてた海客の女の子を拾ったって話を覚えて
るか? 実を言うとな、その子を連れて雁に来たとき、いろいろ問題があって
主上におすがりしようってことになったんだ。そしたら風漢さまに会って玄英
宮に連れていかれて、そこでちょうど外出からお戻りになった台輔と会った」

485永遠の行方「王と麒麟(123)」:2012/06/10(日) 11:39:52
「へええ……」
 呆気に取られた鳴賢は、相手をまじまじと見つめた。風漢に対し「さん」で
はなく「さま」づけに変わったことも気づいたが、今までは風漢が国官だと知
らない自分たち相手に、やたらと敬意を表した言葉遣いにするわけにはいかな
かったのだろう。
「この大学を受験することができたのも、風漢さまのお計らいのおかげでな。
おいら、単に海客の女の子を拾って連れてきただけなのに、おふたりには感謝
してもしきれないほどの恩を受けてるんだ。台輔の頼まれごとをこなしてたら、
巧から母ちゃんを連れてくるための金まで用立ててくれて。本当に親切な方々
なんだよ」
「そうか……」
 何とかそれだけ言って鳴賢はふたたび黙り込んだ。言われてみれば、すべて
うなずけることばかりだった。
「おまえ、実はすごいやつだったんだな」
「別においらはすごくねえよ」
「いや、すごいよ。それに良い行ないをすれば報いがあるっていうけど、世の
中ってのは本当に善意が善意を生むんだな」
「そうじゃねえんだ」楽俊はちょっとしょげたふうに視線を落とした。「おい
ら、雁が海客を手厚く迎えてるって聞いてたから、その子を連れて行ったら、
もしかしたら褒美をもらえるんじゃないかと思ったんだ」
「それがどうした」いつになくしおれた様子に、鳴賢は思わず笑っていた。
「巧からはるばる危険を冒して海客の子を連れてきてやったんじゃないか。途
中、妖魔に襲われたこともあるとも言ってたろ。そりゃ、ちょっとくらいは見
返りを期待したにせよ、根本に善意がなきゃできないことだ。むしろおまえが
そうやって自分のことも考えてたとわかって嬉しいよ。究極のお人よしだと、
他人に騙されるだけだったりして危なっかしいからな。
 ――で。おまえも風漢に聞かれたんだよな? 六太の望みが何なのか」
「聞かれたはいいが、おいらも全然心当たりがねえ。そりゃ、多少は個人的な
ことも話したけど、何が好きだこれが好きだなんてたぐいの話には一回もなら
なかったからなあ」

486永遠の行方「王と麒麟(124)」:2012/06/10(日) 11:41:59
「確かに風漢もそんなようなことを言ってた。まあ、心当たりがないのは俺も
同じだしな」
 とはいえ鳴賢には少し気がかりなことがあった。今回の事件に関して詳細を
大司寇に報告し、その後で六太について知っていることを風漢に伝えはしたも
のの、あえて口にしなかった事柄もあるからだ。
 何年か前、六太が口にした片思いの話。そして暁紅の邸で託された王への伝
言。六太は決して、どちらも他人に明かされることを望むまいし、特に片思い
の件は誰にも話さないと鳴賢は約束していた。
 だが……。
「何ヶ月も台輔の姿を見ないとは思ってたんだが、あのかたは主上に命じられ
て密かに国外の様子を探りに行くこともあるから、今回もてっきりそれかと
思っていた。まさか呪をかけられて昏睡状態とは想像もしなかった」
「前代未聞の事件だからな……」
 彼らはひとしきり、謀反によって受けた驚きについて話した。その後、鳴賢
は風漢から頼まれていた内容を口にした。
「おまえに教えてもらった海客の団欒所、あそこに六太もよく行ってたんだ。
つまり海客たちは六太の正体を知らないながらも親しく接していたことになる。
それで俺が折を見て話を聞いてくることになった。風漢は関弓を歩いてあちこ
ちで聞き込みをしていたってのに、なんでか団欒所には足を向けていないらし
い。もっともいきなり訪れて六太のことを尋ねても不審がられるだけだろうけ
どな。ちなみに聞いてるかも知れないが、六太は養い親の官吏がいきなり地方
に異動になったんで、それにくっついていったことになってる」
「ああ、聞いた」
「大学で六太と話したことがある連中にも、雑談ついでにそれを伝えてさりげ
なく話を聞いたほうがいいだろうな」
「そうだな、おいらや鳴賢がいないところで台輔と話してたやつはいないだろ
うが、念のために。おいらのほうは母ちゃんに聞いてみる。あの人も台輔のこ
とを知ってるし、厨房の出入りの業者からかなり街の噂話を仕入れてるから、
何か手がかりをつかめるかも知れねえ」

487永遠の行方「王と麒麟(125)」:2012/06/10(日) 11:44:22
「おいおい」鳴賢はあわててたしなめた。「いくらおばさんが相手でも、やた
らと話をしたらまずいって」
「大丈夫だ。母ちゃんは台輔のご身分を伏せて話をするだろうし、風漢さまに
了解も得てる」
「そう……なのか?」
「ああ。だからやたらと話を広めるわけじゃねえ。安心してくれ」
 鳴賢は考え込んだ。楽俊が言うなら心配はいらないのだろうが、それでも不
安はぬぐえなかった。
 それからしばらく、ふたりは六太について友人たちに尋ねる際の口実を含め、
いろいろと打ち合わせした。楽俊が自分の房間に戻っていったあと、残された
鳴賢は、団欒所等で話を聞きまわるまでもなく宮城内での聴取で成果が現われ、
六太の目が覚めるようにと、真摯な思いで祈らずにはいられなかった。
 だがそれからさらに何度も風漢と話をする機会があったものの、鳴賢が待ち
わびている報せはなかなかもたらされなかった。いったい六太の一番の望みと
は何なのか、有用と思われる手がかりは宮城においても得られていなかったの
だ。
 そしてそのまま四ヶ月が過ぎ、五ヶ月、六ヶ月が過ぎても、状況は何も変わ
らなかった。季節はあっさりと夏を通り過ぎ、気づいたときには既に秋の気配
が立ちこめていた。

- 続く -

488名無しさん:2012/06/11(月) 20:50:14
更新嬉しいです。 バンザーイ。ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノ
楽俊可愛らしくて萌え萌え。

じりじりしながら次もお待ちしておりまする。

489名無しさん:2012/06/14(木) 01:03:45
お待ちしてました。
ろくたんの一番の望みを尚隆たちが知る時が楽しみ。

気長に待ってますので続きもまた時期がきたらお願いします。

490名無しさん:2012/06/27(水) 03:40:01
鳴賢と楽俊のシーンは、ほんとにわくわくします!
また鳴賢が真実に一歩近づいた…!
物語、ほんとに面白いです!更新有難うございます。

491名無しさん:2012/07/09(月) 19:25:22
いつもいつも待ってくださっていてありがとうございます。
既にかなり書いていたのですが、どうも踏ん切りがつかずに長らく保留にしてました(^^;
でも先日、久しぶりに最初から読み返したところ、
少なくとも致命的な矛盾はなさそうだとわかったので続きを投下します。
(随分たまってるけど、投稿間隔を2分空けないといけないのは大変なので少しずつ)

492永遠の行方「王と麒麟(126)」:2012/07/09(月) 19:41:50

 関弓から、何か進展したという報せはいまだもたらされていない。光州内で
の調査も、とうにし尽くした感がある。今日の執務を終えて自室に下がった帷
湍は、暮れなずむ窓の向こうを眺めながら、つい「くそっ」と悪態をついた。
 尚隆が呪の眠りに囚われたときも慄然としたが、六太が彼の身代わりになっ
たことを聞いたときは、それこそ世界が終わったかのような衝撃を受けた。
 なぜ六太が誘いだされる前に、謀反人の居場所を突きとめられなかったのか。
少なくとも晏暁紅を疑うだけでなく、早急に彼女の居場所を探すよう強く関弓
に進言すべきではなかったか。
 主と同様に怠け癖のある六太に激怒したことは数えきれないとはいえ、麒麟
の本質である彼の慈悲を疑ったことは一度もない。そもそも考えが回らないだ
けで、六太は基本的に善意に満ちている。奔放な主に影響を受けやすいのは
困ったことだが、莫迦な子ほど可愛いというか、宮城にいたときに六太に困ら
された幾多の思い出は、振り返ってみれば決して嫌なものではなかった。
 ――なのに。
 彼は煩悶のままに拳を握り締めた。
 謀反人から取り引きを持ちかけられた六太は、まったく躊躇せずに応じたと
いう。王の身を、ひいては雁を守るために身代わりとなった。何だかんだ言っ
ても、彼はやはり一国の宰相なのだ。
 翻って自分はどうか。
 発端は光州にありながら結局、帷湍はすべて後手に回っただけだった。関弓
を頼るばかりで、彼自身は何ひとつ解決できていない。いち早く晏暁紅が怪し
いと睨んだことも、六太が身代わりになったという事実の前には虚しいだけだ。
 そもそもどうして尚隆の求めに応じて彼を幇周に伴ってしまったのだろう。
何が起きようと主君だけは安全な場所にいてもらわねばならなかったのに。
 後悔してもしきれない帷湍だった。
 せめてこの不始末を少しでも償うために処罰を受けたいとさえ思うが、今の
ところ主君から何らかの咎を受けたわけではない。そのことで内朝の一部が不
満を覚えているのはわかっているので、普段以上に質素な生活を送って州城で
謹慎しているつもりだが、もともと州侯とは簡単に州城を出るものでもないの
だから、悔悟と恭順の気持ちを表わすのは主君に奏上した文だけだ。
 ――台輔の身代わりになれるものなら、すぐにでも関弓に赴くのに。
 そうは思っても、自分に王や麒麟のような価値はないこと、したがって最初
から謀反人の標的ではなかったのだろうことは重々承知の帷湍だった。

493永遠の行方「王と麒麟(127)」:2012/07/09(月) 21:10:57

 ごくわずかな緊張をはらみながらも、玄英宮の空気は奇妙な均衡が保たれて
いた。
 仁重殿の女官たちは毎日、朝が来ると主の臥室の窓を開けて光と風を入れ、
牀榻の扉を開ける。下界はとうに夏を過ぎて秋の装いを深めていたが、ここは
相変わらず花の楽園だった。宰輔の直轄地から納められた豊かな果物が、陶製
の大皿に山と盛られてみずみずしい芳香を放っている。
「おはようございます、台輔」
 彼女らは帳の奥でひっそりと横たわる主に声をかけた。被衫を脱がせると、
湯で絞った手巾で丹念に顔や体を拭いて手足をさする。ついで日課となってい
る黄医の診察を受けさせたあと、ゆったりとした服を着せて安楽な椅子に座ら
せ、長い髪をくしけずる。
 だがひとしきり主の世話をすると、もう女官たちは手持ち無沙汰になってし
まう。何しろ六太は基本的に飲食できないため、せいぜい果汁や水のような重
湯をごく少量飲ませるくらいで、通常の献立を用意する必要はない。政務も執
れないから装束を調えて広徳殿へ送り出したり帰りを迎えたりすることもない
し、話し相手になったり散歩につきあうこともない。それでいて所属の人員が
減らされたわけでもないので、少々の雑事は簡単に済んでしまう。以前のよう
なめりはりの効いた忙しさはなく、女官たちは終日時間をもてあますことに
なった。
「なんだか最近は、下吏もわたしたちとまともに目を合わせない感じじゃあり
ません? 腫れものに触るような扱いというか……」
「本当にねえ。まるで仁重殿だけが過去に置き去りにされていくよう」
 心地よい風の通る露台で紗の天蓋をしつらえ、その下に六太を座らせたあと、
彼女たちは自然と愚痴めいた言葉を交わした。六太の望みがかなえば目覚める
かもと、その可能性に望みをいだいているものの、話を聞いた諸官は大抵疑わ
しくも気の毒そうな目を向けるばかり。それでも必死に情報を集めて解呪を担
当している冬官に伝え、自分たちでも試行錯誤しているが、六太が目覚める気
配はなかった。

494永遠の行方「王と麒麟(128)」:2012/07/09(月) 21:31:09
「他のかたがたは台輔が心配ではないのかしら? 主上は毎日のようにお見舞
いにいらしてくださるのに、諸官の訪問は間遠になるばかりではありません
か」
「確かに台輔のご様子は変わりませんが、それならそれで日課としてお見舞い
に参上してくださってもいいのに」
「いくらお命に別状がないと言ってもねえ」
「そりゃあ、主上がご健勝なのは喜ばしいことですが」
 しかしながら状況に変化がなく緊急性もないとなれば、四六時中緊張してい
るわけにはいかない。六太の安全さえ確保したなら、とりあえずそっとしてお
くしかなく、彼女たちもそれは理解していた。だがそれと、見通しの立たない
日々の中で精神的に消耗していくのは別問題だ。
「諸官は少しのんびりしすぎているんじゃありませんこと? これでは、あっ
という間に一年が経ってしまいます」
「特に靖州府の官。台輔の下でのお勤めだというのに薄情です」
「こちらの官に比べ、お忙しい合間を縫って青鳥をくださる景王のほうが、よ
ほど心配してくださっていますわ」
「それは――さすがに言いすぎでしょう」
 ふと官位が上の女官がたしなめたので、注意を受けた女官ははっとなった。
「皆さんが台輔を案じる気持ちはわかりますが、台輔の御前です。あまり聞き
苦しいことを口になさいませんよう」
「も、申し訳ありません」
「それよりもっと楽しいことを考えましょう。そうそう、楽士を手配していた
だく件、大宗伯が了承してくださったそうです。これで毎日、台輔に美しい楽
の音をお聞かせできますね。むろん台輔も馴染んでおられたという海客の楽曲
とは異なるでしょうが、あれは騒々しくて聞き苦しいとのもっぱらの噂ですか
らね。今の台輔には静かで綺麗な曲がふさわしいと思います」
「きっとお気持ちが安らぎますわ」
「それから先ほど、新しくお作りするお被衫の生地の見本が届きました。今の
ものよりずっと柔らかくて肌触りも良く――」
 彼女らは気持ちを切り替え、六太に日々を気持ちよく過ごしてもらうための
話し合いをはじめた。

495永遠の行方「王と麒麟(129)」:2012/07/09(月) 22:52:00

 ある日の午後、陽子は地官府から上がってきた書類を検分していた。民が要
望している新しい作物の一覧だ。
 路木に願えるのは王だけだが、どのような作物を願うかをすべて陽子ひとり
で考えられるはずもない。それらはたいてい下の官府から順次要望が上がって
きて、途中で取捨選択されつつ、最終的に王の元に来ることになっている。陽
子の仕事はそれらを承認するか差し戻すかし、さらには承認した作物を儀典に
則って路木に祈願することだった。
 休憩のために茶を煎れてもらって一息入れた陽子は、書類を持参した浩瀚の
おとないを受けたとき、少し考えてから他の官を下がらせた。ひとり残った浩
瀚が「内密の話でも?」と尋ねてきた。
「うん。なかなか雁から良い報せが来ないなと思って」
「延台輔のことですね」
「あれからもう何ヶ月も経っているのに」
「それは仕方がないかと。もともと難しい状況です。口に出さずとも、延王も
長期戦を覚悟されているはずですよ」
「やはりそうなんだろうか」
 陽子は考え込んだ。正直なところ彼女自身はそこまで厳しい見通しを立てて
いたわけではなかった。最初に報せを受けたときは多大な衝撃に打たれたが、
何しろ大国雁は百戦錬磨の延王を戴いている。当初は難儀したとしても、さほ
ど経ずして解決の報せがもたらされるのではとの期待を持っていたのだ。
 彼女は「延王は強いな……」とぽつりとつぶやいた。
「この新しい作物に関する書類を見て延麒のことを思い出したんだ。これまで
彼とはいろいろなことを話したけれど、政務についても相談したことがある。
そのときは蓬莱の物ややりかたをうまく取り入れられないかと思って。わたし
が一番良く知っている世界だから」
「蓬莱の物と言っても、簡単に持ってこられるわけではありませんが」
「うん。だから延麒も物品ではなく、知識とかそういう無形のもので役立つ内
容を考えたほうがいいと助言してくれた。路木に願う作物とか。実際には結局
こうして官府から上がってくる作物を願うだけだけれど。

496永遠の行方「王と麒麟(130)」:2012/07/10(火) 20:06:09
 そういえば浩瀚は、蓬莱には里木も路木もないって知ってる?」
「はい。あちらでは子は男女の交渉によって女の腹にできるもので、両親の形
質を均等に受け継ぐとか。そのため兄弟姉妹を始めとして、縁者は容姿が似る
と聞いています。正直に申せば少々気味が悪い気がしないでもありませんが」
 浩瀚の弁に、雁にいる友人を思い出した陽子はくすりと笑った。
「里木や路木に慣れているとそう感じるんだろうな。あちらは出生を管理する
者もおらず、その意味ではまったくもって無秩序な世界だし」
「しかし人に限らず、動物も植物も雌雄が交わることで両親の形質を受け継く
子孫ができるとなれば、確かに里木も路木も不要ですね。ある望ましい性質を
持つ動植物が欲しい場合、それに近い性質の雌雄をかけあわせればいいので
しょう?」
「そうなるな。実際にはそういう品種改良も、簡単に望ましい性質が現われる
とは限らないので大変らしいけど。もちろん人の手でかけあわせずとも、子が
普通に両親の形質を継ぐ以上、自然と子孫は変異していく。それが長く続くと、
まったく別の種に思えるくらい先祖と違った子孫ができるんだ。たとえば蓬莱
にはいろいろな種類の犬がいて、大きさもさまざまなら毛足の長さもさまざま、
性格もおっとりしていたり逆に攻撃的だったりする。そういうのも長い間品種
改良を重ねた結果らしい。こちらでも植物なら、野木に新しい種類の種が生る
ことはあると聞いたけど」
「それでも滅多にないことです。それゆえ新しい植物を見つけることを生業と
する猟木師は、横取りされないよう相当神経質になります。とはいえ穀物に限
るなら、新しい種は路木にしか生りません」
「穀物か……。そうだな、小麦についてはよく知らないけど、米なら蓬莱はた
くさん種類があったよ。寒さに強かったり害虫に強かったり収穫量が多かった
り。味が良かったり香りが良かったり……。そういえば果物も、林檎なんか色
からして相当バリエーションがあったな。味も酸味が強かったり甘かったり
さっぱりしてたりで」
 陽子が懐かしそうに語る傍らで、浩瀚は「寒さや害虫に強いというのはいい
ですね」とにっこりした。

497永遠の行方「王と麒麟(131)」:2012/07/10(火) 20:17:32
「こっちにはそういう特徴を持つ品種はないんだろうか?」
「拙官も詳しいわけではありませんが、民が苦労している作物があるかもしれ
ませんね。いくら主上のおかげで天候が安定しても、もともとの性質として育
てにくいとか育てやすいといった特徴はありますから。そろそろ農地の状況も
改善してきたことですし、主食である穀類の生産量を上げるためにも、民の声
を吸いあげて新しい小麦や米を願っていただくのも良いかもしれません」
「品種のバリエーションを増やすこと自体はいいと思うんだ。怖いのは、何か
予想外のことが起きたときに、それに弱い同形質の作物がすべてだめになるこ
とだから。そんなとき作物の特徴が異なれば、少なくとも全滅はしないだろう。
そう――路木に願って済むことならいくらでもやるから、民が望む作物があれ
ば、これからはいったん地官府で吟味したりせずに無条件で要望を上げてほし
いな。結果的にもし新しい種が不評だったとしても、民が植えなくなるだけか
ら自然と淘汰されるだろう。それくらいは大したことじゃない。あるいは慶で
不評だったとしても気候や土壌の違う他国なら種をほしがって高く売れるかも
しれない」
「しかし……」
「なんだ?」
「天帝がお聞き届けくださるかどうかにかかっているとはいえ、あまり主上が
路木を安売りなさると、民の間で軽んじる空気も出かねませんが」
 慎重な意見を述べた浩瀚に、陽子は朗らかに笑った。
「いいじゃないか、それくらい。蓬莱と違って品種改良は王の肩にかかってい
るんだぞ。取りまとめる官も大変だろうから優先順位はつけるつもりだが、何
より民の暮らしを少しでも良くすることが大事だろう。それに比べれば王や宮
城の体面などどうでもいい。むしろ民が気軽にいろいろな案を出してくれるよ
うになるほうが好ましいじゃないか」
 単に延麒を心配する話から、思いがけず意欲的な話題になって陽子は嬉し
かった。こちらに来て極貧の生活を経験したとはいえ、蓬莱で培われたもとも
との味覚で判断すれば、民が日々食するものはさほど美味とは言えず、献立も
単調にすぎた。おまけに慶はまだまだ国全体が貧しい上に収穫量が絶対的に不
足している。陽子は何とかして、人々がおいしいものを腹いっぱい食べられる
国にしたかった。

498永遠の行方「王と麒麟(132)」:2012/07/10(火) 21:24:13
「それにしても主上は景台輔ではなく延台輔に相談なさったのですね」
 ふと指摘され、陽子は「あ、うん、まあ……」と言葉を濁して苦笑いした。
そうして、景麒には内緒にしてくれよ、と浩瀚を軽く拝む仕草をした。
「別に景麒をないがしろにしたわけじゃない。ただやはり軽々しく蓬莱の話題
を出すものではないだろうと思ったんだ。わたしは今ではこの国の王なのだし、
景麒に限らず、いつまでもあちらに囚われているように思われるのは本意では
ないから。ただ蓬莱は自分がよく知る世界で、こちらにはない便利なものや優
れた技術があるのは事実なので、わたしの少ない知識でも国政に役立てられる
かもと単純に考えただけなんだ。そして延麒は蓬莱の事情にも詳しいから、何
か有益な助言をもらえればと。それでも耳にすれば不快に思う人はいるだろう
から、日頃はあまり口にしないようにしている」
「確かに安易に話題になさることではありませんね。賢明なご判断だと思いま
す」
「もっとも延麒に相談したのは、わたしの甘えもあるんだけどね。彼なら蓬莱
の事情に詳しいから、予備的な説明をせずともすんなり話が通じてやりやすい
んだ。でもこれも景麒に言うことじゃないだろう」
「それは――そうですが」
 眉をひそめた浩瀚に、陽子は先回りして「わかってる」と笑った。
「そんなことをしていたら景麒とぎくしゃくしかねないってことは。でもこれ
でもあいつとは、少しずつ互いに理解を深めてはいるんだ」
「ならば良いのですが」
「そういえば延麒に、碁を覚えて景麒と打ったらどうかとも勧められたっけ。
蓬莱にも碁はあるけど、こちらでは教養のひとつなんだって?」
「ああ、蓬莱にもあるのですね。そうです。しかし主上は嗜まれないのですか。
あれは単純でいて奥の深い遊戯ですから、おもしろい上に気分転換にもなりま
すよ」
「そうらしいな。延麒には無理に話題を見つけずとも、碁盤を挟んで勝負をす
れば自然と相手に親しむものだと言われた。実際、延麒は延王とも碁を打つこ
とがあるらしい。あれで延王は弱くて、延麒はこれまで全戦全勝らしいよ。ふ
ふ、わたしも碁なら延王に勝てるのかな」

499永遠の行方「王と麒麟(133)」:2012/07/10(火) 21:49:53
「拙官の官邸や私邸にも碁盤を備えてございます。正寝にもどこかにしまいこ
まれているはずです。昔、螺鈿の細工が施された見事な碁盤を拝見した覚えが
ありますから。よろしければあとで少しお教えしましょうか? 規則自体は子
供でもすぐ覚えられるほど単純ですから、基本さえ押さえれば、折に触れて女
官を相手に腕を磨けばよろしいかと」
「そうだな。それもいいかもしれない。ところで景麒のほうは碁を知っている
んだろうか? あいつが碁盤の前に座っている姿はあまりイメージできないけ
ど」
「さあ……。伺ったことはありませんが、どうでしょう」
「何なら浩瀚から教えてもらったあと、わたしがあいつに教えればいいか」
「それもよろしいですね。何にしても碁は性格がでますよ。台輔がどんな碁を
打つのか、拙官も興味があります。それに一局打つのにそこそこ時間がかかり
ますから、確かに相手と親しむには良いでしょう。延台輔のお勧めは悪くない
ように存じます」
「うん。延麒も延王と同じで、一見でたらめなようでも考えるべきことはきち
んと考えているんだよな。碁を覚えて、いずれ延麒の意識が戻ったら対局をお
願いしてみようかな」
「延台輔も喜ばれるでしょう」
「他にもいろいろ提案されたけど、碁以外はなじみがなかったから覚えていな
いな。彼は――延王もそうかもしれないけど、遊びごとには詳しいらしい。あ
れでけっこう趣味人なのかも。そういえば前に雁に招かれたとき、延麒に案内
されて国府にあった海客の団欒所とかいう場所に行ったことがある。蓬莱の楽
器がいろいろ置いてあって、延麒と一緒にピアノを演奏したっけ。あれは楽し
かったなあ」
 そのとき六太は、尚隆も笛を吹いたり舞を舞ったりすると言っていた。それ
を思い出した陽子は、やはり雁の主従はいいコンビなのだろうとつくづく思う
のだった。
「ほほう、蓬莱の楽器、ですか」

500永遠の行方「王と麒麟(134)」:2012/07/10(火) 22:52:55
「うん。雁は海客を歓迎しているから、そういうものも積極的に集めているの
かもしれない。なじみ深い楽曲を聞くと、それだけで気持ちが安定するものだ
し、そうやって海客が国になじむ手助けをしているんだろう」
「蓬莱の楽曲は、われわれのものとはかなり違うという話を聞いたことはあり
ます」
「音階もリズムも違うからね、どうしても聞いた印象が変わってくる。もちろ
ん音楽は生きるために必須のものではないけれど、海客にとって一番つらいの
はむしろ、そういうちょっとした――それでいて決定的な文化の違いなんだ。
だから蓬莱のものを真似た楽器を目にしたり楽曲を聴くのは、精神の安定に役
立つと思う。雁では海客は三年間は援助されるから、単に命をつなぐだけなら
難しいことはない。でも人間ってそれだけで生きられるものではないだろう。
食べものにしてもそうだ。たとえどんなにおいしいものを食べても、時には故
郷の素朴な味が恋しくてたまらなくなるときがある。思えば登極前、雁に助け
を求めて玄英宮に滞在していたとき、何品か蓬莱ふうの料理が出されたことが
あるけど、あれも気を遣ってくれた結果だったのかも」
 目を細めて懐かしそうに語った陽子は、しばらくいたずらに手元の書類を
繰ったあと、不意に「そうだ」と声を上げた。
「何か?」
「これでも料理は得意だったんだ、母にいろいろ仕込まれたから。そのうち気
分転換がてら、皆に料理をふるまいたいな。小麦粉や卵、砂糖はあるわけだか
ら、簡単なお菓子も作れるだろう。クッキーやホットケーキ程度なら簡単そう
だ。ドーナツなんかもいいな。卵を使わない生地を作れば景麒にも食べさせら
れるし」
「主上のお手製の料理ですか。もったいなくも楽しみです」
「浩瀚は――さすがに料理はしないか」
「残念ながら」
 浩瀚はほほえみ、ひとしきり歓談したふたりはやがて政務の話に戻ったの
だった。

501永遠の行方「王と麒麟(135)」:2012/07/11(水) 21:41:49

 大学で行なわれた各種試験が終わり、提出する論文のめどもついた鳴賢は、
久しぶりに団欒所に赴いた。今度こそ卒業したいと必死に頑張ったものの、既
に卒業が確実視されている楽俊と違って感触はよくない。それでも何とかふた
つの允許を得る見通しは立ったため、少なからずほっとしていた。
「へえ……。六太って官吏の養子だったんだ……?」
 恂生は、彼を手伝いがてら鳴賢が六太のことに言及すると、驚きではなく当
惑の面持ちになった。何か不自然だったろうかと心配になった鳴賢だが、楽俊
に確認したかぎり六太はほとんど自分について話していないはずだし、この設
定で通すしかないのだ。不思議そうな顔を作り、こう尋ねてみた。
「長い付き合いらしいのに知らなかったのか? だいたいそんなに意外か? 
官吏じゃないのに仙だったら、普通は官吏の身内に決まってるだろう」
「あ、いや。――うん、そうか。養い親にくっついて他州に行ったのか」
「でも一時的なものらしいから、いずれは戻ってくるんじゃないか」
「ふうん……。しかしそうなると残念だな。六太がいないとここも淋しくなる」
「仕方ないさ。官吏なんてのは出世したければ命令ひとつでどこへでも行かさ
れることを覚悟しなきゃいけないんだから。もちろん急なことだったから、六
太も皆に挨拶できなかったことを残念がっていたらしい。俺も後になって知り
合いの官吏に聞かされたくらいだ。そのうち落ち着いたら手紙でもくれるん
じゃないか」
 鳴賢は何気なさそうに答えてから目の前に置いた板に集中し、大きく「海客
団集室」の文字を書いた。ついで紙に今月と来月の開放日の予定と、誰でも気
軽に訪ねてほしい旨の告知文を書く。板は扁額として入口に掲げ、紙はその下
に掲示することになっていた。
 国官を目指すくらいだから鳴賢は筆跡には自信がある。黒々とした墨で鮮や
かに書き上げられたそれは堂々としていて、掲示を提案した鳴賢自身も満足し
た。
「こんな感じでどうかな」
「うん、すごい。格好いいな。俺なんかいまだに筆の扱いに苦労しているから、
そうやって一発で書かれると尊敬する」

502永遠の行方「王と麒麟(136)」:2012/07/11(水) 21:52:08
 恂生はそう褒めてから振り向き、少し離れたところで談笑しながら人形を
作っていた女性たちに大声を張り上げた。
「守真、この板はしばらく置いたままにして墨を乾かすから触らないで。あと、
催しの詳細は日時が確定してから書くってことでいいよな」
「ええ、それでお願いするわ」
 作りかけの素朴な人形を軽く掲げながら、一団の中にいた守真が笑顔を返し
た。
 絵師を手配できれば紙芝居をやりたいところだったが、残念ながら適当な人
物に心当たりがなかった。そこで頭をひねったところ、簡単な人形を作って人
形劇をしたらどうかとの守真の思いつきが出て皆で形にしているところだった。
確かにいくら語りに合わせて情景を差し替えるとしても、静的な絵を見せるよ
り、人形で動きのある場面を演出したほうが幼い子供などには受けやすいだろ
う。
 女性の一団にはめずらしいことに緑の髪の胎果の少女もいて、関弓の民と並
んで黙々と針を進めていた。守真はその彼女をちらりと見てから恂生に言った。
「区切りがついたのなら、悠子ちゃんが書いた脚本をまた見てあげてくれる?
 せっかくだから鳴賢も意見を聞かせてちょうだい」
 無造作に片手を上げて「おー」と応えた恂生は、そのまま鳴賢を手招きしな
がら守真たちに歩み寄った。
「ところで知ってた? 今鳴賢に聞いたんだけど、六太が養い親の官吏にくっ
ついて地方州に引越しちゃったんだって。要は転勤。ずいぶん急だけどしばら
く戻ってこれないらしい」
「えっ……」
 目を丸くした守真は針を持つ手を止めてこちらを凝視した。ぱちぱちとまば
たいた彼女はしばらく何も言葉を口にしなかったが、やがて傍らの悠子に話し
かけた。
「大変、六太の親御さんが急に地方に転勤になって、あの子もついていったん
ですって。もう当分会えないってことだわ」
 なぜ恂生が言ったのと同じような説明を繰り返すのだろうと不思議に思った
鳴賢だが、緑の髪の娘はまだこちらの言葉に難儀しているのかもしれないと思
い当たった。恂生と違って守真は仙だから、彼女が話せばここにいる誰に対し
ても言葉が通じる。

503永遠の行方「王と麒麟(137)」:2012/07/11(水) 23:01:21
 ぱっと顔を上げた悠子は、明らかな驚愕の声を上げて守真を凝視した。それ
から一言二言口にしたが鳴賢には聞き取れず、守真が優しくたしなめた。
「結局あれから口を利いていないの? 困った子ねえ。こっちには電話っても
のがないんだから、どちらかが引越しちゃったらそう簡単に謝れないわよ? 
手紙だって気軽にやりとりできるとはかぎらないんだし」
 鳴賢は恂生の袖を引き、小声で「六太と何かあったのか?」と尋ねてみた。
恂生は困ったような笑みを浮かべて教えてくれた。
「別に仲たがいをしたわけじゃない。去年の年末あたりだったか、六太が言っ
たささいなことで悠子がつっかかってね。いつものことだから六太のほうは適
当に受け流していたけど、悠子が勝手にへそを曲げて口を利かなかったんだ。
でも六太はしばらくここに来ていないから、それから会ってないだろうな。と
なるとそのまま引っ越されたんじゃ寝覚めは悪いだろう?」
「なるほど」
 ここで口論の原因を聞くことでもないので、あとできちんと教えてもらおう
と心に留める。六太に関わることなら何でも手がかりになる可能性がある。
 悠子が書いたという話は三本あり、鳴賢は彼女と恂生と一緒に少し離れた場
所に椅子を移動した。粗末な紙に書かれた物語は蓬莱語だったため、一部にあ
らすじ程度の大雑把な部分が残っているそれを恂生が読みあげて鳴賢に聞かせ
た。
 一本は東海に棲む美しい竜王公主の恋物語だったが、展開そのものはわかり
やすくて幼い子供でも楽しめそうだった。残りの二本は、病気がちの母親のた
めに山に希少な薬草を探しに行く兄妹の冒険譚と、横暴な領主が次々に出す難
題を、めんどりや穴熊といった動物たちと協力して解決していく腕白少年の滑
稽譚。聞けば守真や恂生の意見を取り入れて既に二回ほど手直しをしているら
しいのだが、正直なところこの娘に何かの才があるとは思ってもみなかった鳴
賢は驚いた。
 恂生が鳴賢に「どう?」と尋ねる。
「飽きが来ないよう、全部異なる傾向の話にしてもらったんだ。それと楽しい
気持ちになってもらいたいから、どれもめでたしめでたしで終わるようになっ
てる。説教くさい展開もない」
「うん、おもしろい。すごいな、まるで講談を聞いているようだ。おまけに初
めて聞く物語だから新鮮だ」

504永遠の行方「王と麒麟(138)」:2012/07/11(水) 23:09:17
 鳴賢は正直に認めた。それを通訳したのだろう、恂生が蓬莱語で話しかける
と、それまで一度たりともまともに鳴賢を見たことのなかった娘がびっくりし
た目を向けてきた。そういえば大して会ったことがあるわけではないにしろ、
この娘が少しでも笑ったり明るい表情をしたところを見たことはなかったな、
と鳴賢は気がついた。
「特に最後の話、お節介なめんどりとひょうきんな穴熊のやりとりが滑稽でい
い。それと領主が本当に憎らしいから、大言壮語を吐いて窮地に追い込まれた
ように見えながら、その都度切り抜ける少年も気分がいいな」
「うん、ハラハラドキドキするだろう?」
「ところでその話は架空の国での出来事ってなってるけど」
「ああ、それも天帝が世界を作り直す前の時代にしてある。何しろ領主が悪役
だからね、万が一それをお上への批判にすりかえられたら大変だ」
 おどけるように肩をすくめた恂生に、鳴賢は理解とともにうなずいた。悠子
自身が配慮したにせよ守真か恂生が助言したにせよ、ちゃんと考えられている
のだ。
「すごくおもしろい」
 これくらいは聞き取れるだろうと娘に簡単な言葉をかけると、相手は戸惑っ
た表情ながらもおずおずと会釈してきた。
「ところでこれって見料を取らないのか?」
「え? 無料だよ、もちろん。単にここに集まって楽しんでもらいたいだけで、
商売するつもりはないから」
「それはもったいないな」
「食うに困っているわけじゃないから。そもそもこうしてここで関弓の民と歓
談するのも、互いに親しむのが目的だし、欲を出すと却って厄介ごとを招きか
ねないよ。他の海客にも影響があることなんだから、無欲が一番だ。それに小
金を稼げなくても、楽しんでもらえたら充分やりがいがある。関弓のような大
きな街でさえ、普通の民が楽しめる娯楽は限られているからね」
「それでも目に見える形で報酬があると、意欲が違うと思うんだがなぁ。たと
えお茶代程度だとしても」
 恂生が悠子に一言二言言い、娘は相変わらず戸惑いながらも再度鳴賢に軽く
頭を下げた。見料のことを口にしたため、彼女の物語にそれだけの価値はある
とでも伝えられたのだろう。

505永遠の行方「王と麒麟(139)」:2012/07/11(水) 23:26:01
 その話はそこで切り上げ、さらにしばらく内容を検討したあと休憩すること
になった。守真らがいる場所に椅子を戻して一緒にお茶をすする。
 鳴賢が話題を向けるまでもなく、守真が六太についてあれこれ尋ねてきたの
で、問われるままに話をした。その後、鳴賢が手紙を書いて知り合いの官吏に
託し、届けてもらうつもりだと告げ、ついでに六太の好きなものがあれば送っ
てやりたいと口にすると、好きな菓子やら親しくしていた人の噂話やらが出て
きた。その延長で悠子との口喧嘩について尋ねたところ、こういうことだった。
 あるとき六太が彼女に、淋しいときは太い木の幹に抱きつくと安心できると
教えたのだという。それを悠子は「莫迦じゃないの、あんた」と一刀両断、し
かしめげない六太は「そうなんだけど、意外に落ち着くんだ」と答えたらしい。
「落ち葉の中に潜り込んで寝たりとかさ。それに相手が木なら、誰にも気づか
れないですむぞ」
 ふたりが何を話してそんな話題になったせよ、六太としては相手を慰撫する
つもりだったのだろう。しかし悠子は逆に莫迦にされたと怒ったらしい。確か
に木に抱きつけだの落葉の中で寝ろだの、突拍子もないことのように思えた、
が。
「実は俺、この間試してみたんだ。六太が根拠のないことを言うとは思えな
かったから」
 と恂生。隣町に行く用事ができたとき、途中で立派な大木を見つけ、ふと六
太の言葉を思い出して抱きついてみたのだという。
「そうしたら不思議なんだけど、確かにちょっと気持ちが安らぐ気がしたな」
「へえ……」鳴賢は驚いた。
「ついでに木の根元で仰向けになって体に落葉をかけてみたら、なんていうか
大地に抱かれているような気持ちになってさ。あれもなかなか悪くなかった」
「ほら、六太はあなたを莫迦にしたわけじゃないし、いい加減なことを言った
わけでもなかったのよ」
 うつむいた悠子に守真はそう励ましてから、恂生に「わたしもそのうち試し
てみようかしら」と笑顔を向けた。そして「そんな助言ができるなんて、六太
も淋しいときがあったのかしらね」と続けたので、鳴賢はどきりとした。
「気持ちを落ち着けたくて、木に抱きついたりしてみたのかしら。恂生は聞い
たことある?」

506永遠の行方「王と麒麟(140)」:2012/07/11(水) 23:34:11
「誰かに教えてもらったのかもしれない。それともたまたま遊びでそうやって
みたら気分が良かったのを覚えていたとか」
「気楽そうに見えたけど、あの子もあれでいろいろあるのかもしれない。引越
し先でも元気にしていればいいんだけど。そうね、わたしもぜひ手紙を書きた
いわ。宛先がわからないから鳴賢に頼んでもいい?」
「ああ、いいですよ。六太のことを知らせてくれた官吏に一緒に送ってもらい
ます」
 それから人形劇の話に戻り、この際、観客のための榻やら上に置く靠枕やら
も自分たちで新しく作ろうかという話になっていった。

 玄英宮では静かな日々が続いていた。主君が昏睡に陥っていたときと異なり、
どこか淀んだものが鬱屈して爆発を待っているといった緊張感もない。常であ
れば不在がちな主君もほとんど宮城を空けることなく、聞きこみのために関弓
に降りても、一、二刻で戻ってくる。おかげで書類がたまることもなく政務は
円滑に回っていた。六太に関する懸念さえなければ、何事もなかったかのよう
な毎日。
「大司寇、たまには夕餉でも一緒にいかがですか。銘酒を手に入れましたので、
ぜひ一献」
 そう言って冢宰白沢に誘われた朱衡は、「喜んで」と応じて相手の私邸に出
向いた。
「こちらにお越しになるのは久しぶりですね」
「確か昨春の梅見に伺ったきりですから。官邸にはたまにお邪魔していました
が」
「今年は梅見どころではありませんでしたな」
 そんな言葉をにこやかに交わしながら、白沢は朱衡に料理と酒を勧めた。ひ
としきり歓談したあと、白沢は従者を下がらせ、昨夜届いたばかりの慶の親書
のことを話題にした。
 当初は六太とのもともとのやりとりをなぞって青鳥を飛ばしていたのだが、
昨夜は前触れもなく景麒が獣型で現われ、これまで六太が陽子と交わしたあれ
これが書かれた大量の書面を届けたのだった。青鳥につけられる紙片に書ける
文章量などたかが知れている。それで地道にちまちま送らざるをえないことに
陽子が辛抱できなくなったらしい。何しろ周囲に怪しまれないためには、青鳥
を飛ばす頻度も多くはできないのだ。

507永遠の行方「王と麒麟(141)」:2012/07/12(木) 19:19:36
「景王が思い切りの良いかたであるのは存じておりますが、あれにはびっくり
しました。何しろ景台輔は、大量の書面を入れた袋を背にくくりつけておられ
ましたから」
 くすくすと笑う朱衡に、白沢も苦笑して相槌を打った。
「そうそう。飛脚代わりにされ、疲れた表情でお気の毒でした。確かに麒麟の
俊足でなければできないことですが、申し訳ないことに深夜にとんぼ返りです
よ」
 それでいて陽子は覚えているかぎりをすべて書き送ってきたわけではない。
これまでの六太との親交を考えれば、ごく一部にすぎないだろう。彼女からの
伝言によれば、まずは六太が関心を示したことのある話題を時系列で一覧に書
き出した、何が手がかりになるかわからないため判断は玄英宮に任せるが、古
い順にやりとりの詳細を書きあげていくので、少なくとも月に一度ぐらいの頻
度で景麒に届けさせるとのことだった。
「景王もお忙しいでしょうにありがたいことです。これで手がかりが得られれ
ばいいのですが」
「景台輔が以前おっしゃった、麒麟が願うのは国か王のことという話とつなが
るような何かが出てくれば……。もちろん台輔のあずかり知らぬところで、台
輔のお心を探るような真似をしていることには罪悪感を覚えますが、そこは非
常時としてお許しいただくしかありません」
「ええ。台輔もご理解くださるでしょう」
 そうは言いながら、これまで六太が誰にも明かそうとしなかった、明かした
くないと思っていた事柄であるのは確か。他に方法がないとはいえ、それを探
り出さねばならないことに、申し訳ないと詫びる気持ちは朱衡も持っていた。
「ところで大司寇、最近の秋官府の様子はいかがですか? 特に浮き足立って
いるようなことは?」
 話題を変えた白沢に、朱衡は首を振った。
「変わりありません。むろん台輔のことはみな心配していますが、とりあえず
状況に変化はないわけですし、仕事をしていれば気も紛れます」
「そうですな、秋官府に限らず、大半の官は台輔の御身を案じながらも主上の
健在ぶりに安堵しています。特に官位が低くなればなるほど、意識的にしろ無
意識にしろ、台輔のことを考えないようにしているようです」

508永遠の行方「王と麒麟(142)」:2012/07/12(木) 19:46:17
「もともと低位の者には、日々の業務における台輔との接点などありませんか
らね。意識から追い出すのは容易でしょう」
 既に何ヶ月も六太なしで政務が回っている上、玄英宮は王や宰輔の不在に慣
れている。おまけに末端の官にできることはないとなれば、事件を脇にのけて
いるより仕方がない。
「そうです。そしてこのままの状態が一年も続けば、おそらく諦めに近い空気
が支配的になってくると思われます」
 朱衡が反射的に眉根を寄せたので、白沢は弁解するように続けた。
「もちろん台輔のために尽力し続けますが、正直なところ先が見えないのは確
かです」
「本格的な調査を始めてからさほど経っていない状況ですし、それでいて興味
深い話はいろいろ出てきていますよ」
「それでも、です」白沢はめずらしく厳しい表情になっていた。「何しろ慈悲
深くも厄介なことに、台輔ご自身がわれわれに逃げ道を与えてくださいました」
「逃げ道?」
「官に宛てた言伝です。託された書面も簡潔でしたが、例の大学生により伝え
られた、ご自分を単なる物として扱い見捨ててほしいとのお言葉……」
「――ああ」
「このまま解決しなかったとしても、『仕方ない、台輔もわかってくださって
いる』と言い訳することができます」
「しかしわれわれは諦めませんよ」
 朱衡が強く言い放つと、白沢もそれに同意するように大きくうなずいた。
「とはいえ残念ながら解決の見通しは立っていません。実のところ拙官は、い
ずれ宮城で諦念が支配的な空気になったとき、主上に与える影響を心配してい
ます」
 朱衡はまじまじと相手を見、それから力を抜いてほほえんだ。
「冢宰も意外と心配性でいらっしゃる。われわれが主上に翻弄されるならとも
かく、あの主上が官に影響を受けることなどありえません。いつもこちらの思
惑を無視して、ご自分の思うとおりにしてきたかたなのですから」

509永遠の行方「王と麒麟(143)」:2012/07/12(木) 19:55:31
「ええ、これまではそうでした」白沢は溜息をついた。「実際のところ仮に諦
念が支配的になろうと、台輔をお救いできるそのときまで平穏に過ぎればそれ
でも良いのです。しかしいくら主上が胆力のあるかたとはいえ、発端からこれ
まで、あまりにも平然となさっていることが逆に気になります」
「主上のお立場で簡単に動揺を見せるわけにもいかないでしょう。今現在、玄
英宮の諸官が落ち着いていられるのは、間違いなく主上が泰然としてくださっ
ているおかげです。
 もちろん主上なりに台輔を心配しておられます。でなければ毎日のように仁
重殿に見舞いに行かれるはずはありません。そもそもあの主上が何ヶ月も宮城
に留まっておられること自体、異例です」
「それはそうなのですが……側近であるわれわれにぐらい、もう少しお心を見
せてくださっても良いのではないか、と。いや、あれで主上が内面を簡単にお
見せになるかたでないことは承知しています。しかし過去の謀反と異なり、今
回のことは残念ながら主上ご自身のお力ではどうにもならない。呪の専門家で
はありませんから、どうしても冬官など、他の者に解決をゆだねざるを得ない。
これまで日常においてはわれらを信頼して任せながら、ここぞというときには
みずから解決に乗り出すというやりかたでやってきた、それが通用しないので
す」
「そうかもしれませんが、まだ六、七ヶ月しか経っていないのですし」
 まだ、と言うべきか、もう、と言うべきか。
「大司寇。問題は、いろいろな台輔の話が出てきているとはいえ、まったく先
が見えないことです。忌憚のないところを申せば、解決まで何年、何十年か
かっても不思議はない状況です」
「その可能性は最初から主上も承知しておられますよ。むろんわれわれも。だ
からこそまず碧霞玄君のお墨付きをいただいたわけでしょう」
 そう答えたものの、できれば最悪の事態は考えたくない朱衡だった。白沢は
続けた。
「台輔がたまに顔を出しておられたという海客の団欒所、景王の親書を翻訳し
ている軍吏もそこにいたとの話ですが、主上はその軍吏をご自分で聴取しよう
とはなさりませんでしたな。それなりに台輔と親しくしていたと思われるのに。
そして重大な事件にはご自分で首を突っ込むたちの主上が、関弓で地道に聞き
込みをしながら、足元の団欒所にはいっこうに立ち寄る気配がない」

510永遠の行方「王と麒麟(144)」:2012/07/12(木) 20:33:15
「台輔と異なり、これまで一度も足を向けたことはないようですね。とはいえ
もともと主上は、すぐ凌雲山を抜け出しておしまいになるようなかたですから。
それに団欒所のことは鳴賢に任せたとおっしゃっていました」
「しかし主上は胎果であられる。蓬莱ゆかりの人々にもっと興味を持ってもい
いはずだとは思いませんか? なのに逆に避けておられるかのようだ」
「はあ」
「世の中には、言葉や態度に出さないほど逆に傷が深いということもあります。
考えてみれば主上は、蓬莱でのことをほとんど口になさったことがない。今回
の事件では、台輔が生い立ちを明かさなかったことばかり印象が強いようです
が、実のところは主上も同じです。おふたりとも、五百年という歳月を思えば
不自然すぎるほどわれわれに過去を話しておられません」
 それは事実だったので、朱衡は迷いながらも「確かに」と認めた。
「と言うことは主上も台輔に劣らず、蓬莱での出来事に傷ついておられる可能
性があると思うのです。しかしも蓬莱から主上をお連れした台輔がそれに触れ
ないということは、台輔もご承知の事柄なのでしょう。
 ただでさえ麒麟は王の命の担保であり、半身と言われるほどの存在。加えて
主上の場合はそういった蓬莱での縁がありますから、さらに強い絆を感じても
不思議はありません。なのに誰の目にも通り一遍の心配しかしていないように
見えるとなれば、そのことが逆に気にかかっても仕方ありますまい」
 白沢の言葉はうなずけるものであったので、朱衡は否定しなかった。沈黙を
挟んでこう答える。
「本来、王にとって麒麟はいて当たり前の存在ですね。いわば空気のようなも
の。いなくなって初めて違和感を覚える……」
「別行動も多く、大喧嘩をなさることもめずらしくなかったとはいえ、普段の
おふたりはなかなかに仲の良いご様子でした。その台輔がご自分の意思や主命
で出かけておられるならともかく、意識不明で臥せったまま、何ヶ月も主上の
傍らにお姿がない。加えて使令という下僕も消えてしまった現在、長年その存
在に慣れて便利に使っていた主上にしてみれば違和感どころではないはずです。
むろん今の段階でどうということではありませんが、大司寇にはお心に留め置
いていただければと」

511永遠の行方「王と麒麟(145)」:2012/07/12(木) 20:59:10
 朱衡は考えこんだ。要は白沢はこう言いたいのだ、六太ほど尚隆の過去を
知って理解している者はいないだろうし、したがって麒麟であると否とを問わ
ず代わりはないはずだ、と。その六太を失ったも同然の今、主君の心に本人も
予想してしないような動揺が走る可能性はある。いや、表面に現われていない
だけで、現時点で既にかなり傷ついているのではないだろうか……。
 何しろ胎果の尚隆には家族がいない。后を娶ってもおらず、相変わらず後宮
は空のまま、側室たる妃嬪を蓄えたこともない。あれで公私をきっぱり分ける
尚隆は、宮城で女官に手を出したこともない。いかに下界で女遊びをしようと、
長く生きた神仙は既に市井の民人とは異なる時間を生きているものだから、そ
こに深いつながりを見いだすことはできないだろう。
 こうしてあらためて考えてみると、尚隆は意外と危ういように思えた。不測
の事態が起きたとき、家族なり恋人なりがいれば心の支えになるだろうが、尚
隆にそういう相手はひとりもいないのだから。
 果たして宮城は主君にとって「家」足りえているのだろうかと、朱衡は初め
て真剣に考えた。出奔のたび、自然に帰ってきたいと思ったから帰ってきてい
たのか、それとも他に行くあてがないから仕方がなかったのか。六太もそうだ
が、そもそも宮城の居心地が良ければ、あれほど頻繁に下界に赴いただろうか。
 主君の生い立ちは朱衡もよく知らない。仕えた五百年で知りえたのは、尚隆
が領主の息子であり、死んだ父親から継いで治めていた所領を失ったため六太
が連れ出したという話ぐらいだ。それも六太や尚隆がほのめかした言葉の断片
をつなげてそう解釈しただけで、具体的な家族の話は一度も耳にしたことがな
かった。
 これだけの時間が経った以上、白沢が言うように、今となってはおそらく六
太のみが知る過去なのだろう。そして主君が自分の個人的な事情を口にしない
ということは、真に心を開いている相手がいないということでもある。何かが
あればひとりで立ち直るしかないし、事実これまではそうやってきたはずの主
君だった。

512永遠の行方「王と麒麟(146)」:2012/07/13(金) 20:21:41

 団欒所で行なわれた人形劇は大成功だった。長年、ここを管理してきた守真
でさえ、これほど催しが盛況だったことはないと言ったほどで、裏方とはいえ
手伝った鳴賢も嬉しかった。
 朱旌の講談や小説と同じように受け止められたことと、近所の知り合いを中
心に配った絵入りのちらしが木版による色刷りでめずらしかったこと、何より
無料だったためだろう。日常における娯楽の少なさもあって、予告した時刻に
は子供を連れた母親や老人を中心に五十人以上が集まっていた。
 人形は手袋のように手を入れて動かす簡単な作りだが、それを操る守真と恂
生の大げさな身振りと口上が受け、最前列に座った子供たちは終始笑ったり叫
んだり大騒ぎだった。
 海客は守真と恂生、裏方にいた悠子の三人だけだったので人手は足りなかっ
たが、日頃から何度も顔を出していた関弓の女たちが茶や菓子を出すのを手助
けした。めずらしく人型の楽俊も母親を連れて訪れていて、楽俊の母は守真に
挨拶をするなり他の女たちとともにはりきって手伝いを始めた。
 これで酒を出したりお金をやりとりしていたら諍いが起きた可能性もあるが、
大半が老人や女子供で顔見知りが多かったこと、ふるまわれたのがささやかな
茶と菓子だけだったのが逆に良かったのかもしれない。
 劇がひとつ終わるごとに休憩を兼ねた歓談の時間を設け、集まった人々は皆
知り合いとなって楽しく言葉を交わした。ずっと守真の傍らにくっついていた
悠子だけは、言葉に不自由しているとあってほとんどしゃべらなかったが、物
語が彼女の手によることが知られると皆が口々に感嘆の声を上げたので、話が
見えないなりに嬉しく思ったらしく、遠慮がちな笑みを浮かべることもあった。
「これ、六太が言いだした紙芝居がきっかけだけどさ。どうなるかと思ったけ
ど、やってみて良かった」
 最後の物語を上演したあと、一通り観客の間を回って言葉を交わしていた恂
生は鳴賢の隣に来て座るなりそう言った。
「今まではこういうのやったことないのか?」
「うん。楽器の演奏とか皆で歌うとかお茶会とか、そういうたぐいの催しが主
体だった。俺は蓬莱の歌謡曲で好きなのを演奏したり歌ったりしたけど、大し
て受けなかったなぁ。そうしたら六太が、綺麗に彩色した絵で紙芝居をしたら
どうかと言い出したんだ。それなら万人受けするだろうって」

513永遠の行方「王と麒麟(147)」:2012/07/13(金) 20:33:52
「ああ、俺も聞いたことがある。でも絵師を手配できなかったって言ってた」
「んー」恂生は頭をかいた。「本当は手配できなかったわけじゃない。実は悠
子がけっこう得意でさ、描いてもらったらって話だったんだ。もともと六太は
そのつもりで言いだしたらしくて」
「あの子、絵も描けるんだ?」
 鳴賢が驚いて尋ねると、恂生は困ったような顔をしつつ「まあな」と答えた。
「だけどあの子は自分の絵を他人に見られるのを嫌がって。慣れた用具がな
かったのと、絵が漫画的で――そういう手法の絵が蓬莱にあるんだ。こちらに
ない感じの。それで絶対にけなされると思ったらしい。悠子はあれで他人の目
をひどく気にするたちだから」
「でも今回の脚本は書いたんだろ?」
「あれは最初、守真たちと雑談していて出た話を発展させたものだから、抵抗
が少なかったんじゃないかな。俺も守真も話を考えるなんてのは不得手で、あ
の子がいろいろ肉付けしたのを後で聞いてとにかく褒めたら、ようやくやる気
を出してくれて。ただでさえあのくらいの歳の子は扱いが難しいから、あのと
きはほっとした」
「そうだったんだ……」
「でも良かったよ、うまくいって。六太がいたら一緒に喜んでくれただろうに、
それだけが残念かな。そうだ、君に頼みがあるんだけど」
 恂生が今回の脚本の写しを六太に送りたいと言ったので、鳴賢は引き受ける
ことにした。前に守真に頼まれた六太宛の手紙と同様、大司寇に言付ければ仁
重殿に届けてもらえるだろう。残念ながら返信は期待できないが。
「海客の――蓬莱の音楽については、俺も楽俊から聞いたことがある。変わっ
てるって」
「一口に蓬莱の音楽と言ってもいろいろあるんだけどね。俺がよく歌っていた
のは流行り歌というか俗謡のたぐい。俺、蓬莱ではバンドっていう小さな楽隊
をやってて、そういう歌ばかり演奏してたんだ。自分で曲も作ってた。でも
こっちじゃ面子は揃わないし楽器もないしでくさってたら、それまで何かと周
囲をうろちょろしていた六太が、自分に教えてほしいって言ってきて。

514永遠の行方「王と麒麟(148)」:2012/07/13(金) 21:19:53
 今から思うと、それで気を引いて俺と親しくなるきっかけにしようとしてく
れたんだろうな。結局、蓬莱の流行り歌をいろいろ教えて、調達できたぶんの
楽器の弾きかたも教えて、そうしたら一緒に歌ったり弾いたりしてくれるよう
になってさ。それまで俺、けっこう荒れてたんだけど、それでやっとちゃんと
六太と話をする気になれたんだ」
 恂生は当時を思い出すようにしみじみと語った。興味を引かれた鳴賢が、ど
んな曲を六太に教えたのか尋ねたが、「ギターでもあればすぐ旋律を弾けるん
だけど、今はちょっと無理。俺、ピアノは弾けないし」と答えた。
「でも良かったら次の機会にでも、守真と無伴奏で歌ってやるよ。蓬莱独特の
物や慣習を知らないと完全には歌詞を理解できないだろうけど、大抵は恋の歌
だから何となく雰囲気はわかると思う」
「……恋の歌なんだ?」
「そう。だから蓬莱でも、そういう歌をくだらないと莫迦にする人もいて――」
「六太も恋の歌を歌ったりしたのかい?」
「うん、一緒にね」恂生は嬉しそうだった。「つきあいってだけじゃなく、本
当に楽しそうにしてくれたよ。あれで六太は度胸も声量もあって、歌いかたも
堂々としているんだ。音程も確かだし、教えた俺が言うのも何だけど見事な歌
いっぷりだった。大勢を前にしても全然あがらないし」
 それはそうだろう。日頃から六太は大勢の女官にかしずかれていたはずだし、
朝議や政務で、諸官を前にする毎日だったはずだ。こんなところで何十人かの
民の注目を集める程度で、いちいち緊張などしなかったに違いない。
「おまけに声変わりもしてないから女声部も歌えたし、二重唱をするときは重
宝したな。もっとも本人は子供っぽいから男声部を歌えないと不満があったみ
たいだけど、俺はなかなか綺麗で通りの良い声だと思ってた。ここでいろいろ
作業しているときも、蓬莱の流行り歌を鼻歌で歌っていることもよくあったっ
け」
「それも恋の歌?」
「そう。何せ教えた歌の大半がそうだから」
 鳴賢は考えこんだ。たかが歌だ、旋律が良ければ歌いたくもなるだろうし、
恋を織りこんだ歌詞自体に惹かれたとはかぎらない。

515永遠の行方「王と麒麟(149)」:2012/07/13(金) 21:37:49
 とはいえ六太は切ない片恋をしていたはず……。
「恂生、もし良かったら俺にも蓬莱の歌を教えてくれないか? ちょっと興味
が湧いてきた」
「かまわないよ。というか、蓬莱のものに関心を持ってもらえるのは嬉しいか
ら大歓迎だ。楽譜はここに常時置いてあるから、次の開放日にでも来てくれれ
ば、二、三曲ならすぐ覚えられると思う」
「譜面があるんだ? 詞が書いてあるなら貸してもらえるかな?」
「いいけど……でも蓬莱語で書いてあるぞ?」
「あ、そうか。俺には読めないな」
 鳴賢はがっかりしたが、数曲なら恂生が簡単に翻訳しておいてくれることに
なった。彼が普段生活している店の場所を詳しく教えてもらい、次の開放日を
待たず、三日後に取りに行く約束を取りつける。
 蓬莱の恋歌に、六太の望みに関する手がかりがあるとはかぎらない。しかし
彼が繰り返し歌っていた曲があるなら、多少なりとも詞に共感していたはずで、
そこから心中を察することができるかもしれない。

 いつもの鼠姿に戻った楽俊と連れだって寮に戻った鳴賢は、その後で楽俊の
母が作って届けてくれた蒸し菓子でお茶にし、人形劇についてあれこれ話した。
「おいら、ああいうの初めて見たけどおもしろかったな。母ちゃんもずいぶん
褒めて、次があるなら、ぜひまた見たいって言っていた。朱旌の小説みたいに
大がかりな舞台がなくても、それっぽく見えるもんなんだなあ」
 楽俊はしきりに感心していたが、それは鳴賢も同じだった。
「もともと六太が紙芝居ってのをやりたがっていて、絵師を手配できなくて人
形劇に変えたんだ。でもこうなると紙芝居も見てみたいよな。何より彼らが新
しく作った物語だから目新しくていい」
「よくまあ、ああいう話を考えつくもんだ。悠子とかっていう海客の子が考え
たんだってな」
「うん、そう。守真たちと雑談みたいにして話していたのが原型らしいけど、
あの子に何かの才があるとは思ってもみなかったから驚いたよ。正直、これま
であまり良い印象は持っていなかったんだ。だっておまえを気味悪がったのっ
てあの子だろ?」

516永遠の行方「王と麒麟(150)」:2012/07/13(金) 21:46:08
「よくわかったな」
「そりゃあな。見ていればぴんとくる」
 でも、と鳴賢は続けた。考えてみれば、まだ里家で養われているような女の
子だ。それが蝕に巻きこまれて、着の身着のままでこちらに流され、二度と肉
親とは会えなくなってしまった。だとしたらいろいろと同情の余地はある。性
格的に多少の欠点はあれど、鳴賢が脚本を褒めた際の戸惑った表情と言い、こ
ちらに来て以来、他人に認められることがほとんどなかったのかもしれない。
それでかたくなになっていたなら、今回のことがきっかけで少しは人当たりが
良くなる可能性はあるし、半獣に対して考えを改めるかもしれない。
「むろんわからないけどな。でも最初に思ったより嫌な子じゃないかもと思っ
たんだ。六太も気にかけていたようだし」
「おいらのことなら別に気にしてねえから、鳴賢も忘れてくれ。蓬莱に半獣が
いないなら、あの子もおいらを気味悪がったというより、むしろ怖がったのか
もしれねえしな。そのうち自然に慣れてくれるさ」
 その後、鳴賢が恂生の言っていた蓬莱の流行り歌の話題に変えると、楽俊は
うーんと天井を振りあおいだ。
「言われてみると、確かに台輔は機嫌がいいとき鼻歌を歌うこともあったなあ。
もしかしたらあれも蓬莱の歌だったのかもしれねえ」
「鼻歌か……。じゃあ詞はわからないな」
「詞を知りたいのか?」
「六太が好きな歌の詞がわかれば、少なくとも好みを知る手助けにはなるだろ
う? それで今度恂生に、蓬莱の歌詞をいくつか教えてもらうことになったん
だ」
「そうか。そうだな、台輔が好きだったものなら、確かに何でも手がかりにな
る可能性はある。おいらもこれまでの台輔との話を思い出して、あらためて考
えてみることにするよ。ついでに母ちゃんにも聞いてみるかな」
「ああ、頼む。俺のほうはまた折を見て海客たちと話すつもりだ」
 これまで大学の朋友たちにさりげなく聞いたかぎりでは、鳴賢たちほど親し
くなかったとあって、六太と突っこんだ話をした者はいなかった。それに比べ
れば団欒所の海客たちのほうが、六太が彼らを気にかけて力になってやってい
たぶん、はるかに親しいはずだ。

517永遠の行方「王と麒麟(151)」:2012/07/13(金) 22:47:47
「恂生を励ますために、六太は彼から蓬莱の歌や楽器を習ったりしていたらし
い。そういった趣味の話をしていたなら、好みだの何だのについても一通り話
題にしたことがあるんじゃないか」
 恋愛問題についてとは言わずに表現をぼかす。こればかりは楽俊にも悟られ
るわけにはいかなかった。

 それから三日後に恂生を訪ねた鳴賢は、彼の新妻である揺峰も交えてお茶を
飲んだ際、予期したとおりこれまで出てこなかった話をいろいろ耳にした。そ
れは事実というより、揺峰によると「こうじゃないの」という程度の推測では
あった。しかし蓬莱の恋歌にかこつけて話題を向けると、彼女は六太が麒麟だ
と知らないせいか、好きな女の子くらいいるだろうと当然のように語った。宮
城の諸官にとっては思いがけないことに違いないが、かと言って揺峰はまった
く根拠のない話をしたわけでもなかった。
「だってそういうことに興味のある年頃でしょ? そりゃ仙ってことは見た目
より少しは年上なんだろうけど、大して変わらないわよ。それに六太は歌がう
まいの。よく通る声で安定しているから聞きごたえがあるのね。楽しい歌はも
ちろん楽しくにぎやかに歌ってたけど、しっとりとした恋歌なんか情感たっぷ
りに歌いあげるんだもの、あれで好きな子のひとりやふたりいなかったはずは
ないわ」
 気楽な調子で断言した彼女に、鳴賢は続けて尋ねた。
「でもこの近くにはいなかったですよね、六太の好きな子。少なくとも俺は知
らない」
「うーん、どうかしら」揺峰は小首をかしげて考えた。「そうね、確かにわた
しが知るかぎりでは相愛の子はいなかったかも。でも片恋なら、こっそり陰か
ら姿を覗き見るような相手ぐらいいたんじゃない? もっとも引越したんなら、
これまでのことはそれとして、新しい土地で気の合う子を見つけると思うけど」
 あっけらかんとした物言い。まさか六太が、苦しい片恋を続けているとは考
えてもいないのだろう。
 頼んでおいた歌詞については、恂生が揺峰とふたりがかりで翻訳しておいて
くれていた。恋する娘を表現した恋歌、恋人が去ったことを嘆く失恋の歌、友
人を励ます歌、の三編。

518永遠の行方「王と麒麟(152)」:2012/07/13(金) 23:08:52
 それなりの期待を持って詞に目を通した鳴賢だったが、しかしながら翻訳の
精度の問題なのか、まったくもって心を惹かれる表現でも文体でもなかった。
だがそんなことは予想済みだったのだろう、感想を述べず、礼だけを返した鳴
賢に恂生が苦笑した。
「あまり高尚な詞じゃないのはわかってる。ひねりもないしね。でも大抵の流
行り歌は曲に乗せて歌わないと魅力がわからないと思うよ。今ちょっとサビの
部分だけ蓬莱語で歌ってみる。翻訳で言うとこの部分だな」
 彼は詞の書かれた紙の一点を指すと、わずかに体を揺らして拍子を取りなが
ら、あまり大声にならないよう注意して歌いはじめた。蓬莱語の意味はわから
ないながら、無味乾燥で見るべきところなどないと思われた詞が、とたんに生
命を吹きこまれて生き生きとした表情を見せはじめる。
 鳴賢の知る俗謡とは毛色が違うため耳が馴染まず、すぐには良い歌だと言う
ことはできなかった。しかし歌詞を見た際に受けた白けた印象を考えれば、存
外悪くなかった。
「これ、三つとも六太は歌ったことがある?」
「何度もね。度胸のある六太の声量で歌われると、この恋歌などは歌詞は単純
なのにかなり聞きごたえがあるんだ。揺峰も言ったように、彼はしっとりした
失恋の歌だって情感たっぷりに歌ってくれる」
「失恋の歌……」
「帰ってくるまであの歌声が聞けないなんて本当に淋しいな。最近は華期も団
欒所に顔を出さないし、悠子は楽器を弾けないし、俺と守真だけでやるとなる
と歌も伴奏も演目がかぎられる。俺たちが歌ったりしている間、団欒所に来て
くれる人の相手をする人がいなくなるからね。これまではたまに歌会を開いて
いたんだけど、しばらくはお茶会を主体にするか、このあいだみたいな人形劇
を企画するしかないな。好評だったから別にやりたくないわけじゃないけど、
俺としてはやっぱりバンドに未練があるんだよなぁ」
 しばらくして鳴賢は、蓬莱の他の歌も教えてもらうことを改めて約束して帰
途についた。寮に戻り、得た情報を楽俊と交換する。
 その後、ひとり自室に戻った鳴賢は、持ち帰った蓬莱の歌詞に目を落とすと
考えに沈んだ。

519永遠の行方「王と麒麟(153)」:2012/07/13(金) 23:12:20
 いくら情感たっぷりに恋の歌や失恋の歌を歌えたからといって、それが六太
の心情をあらわしているとは限らない。初めて聞いた鳴賢でさえ、耳慣れない
ながらも旋律に魅力を感じたのだから、誰でも気晴らしに流行り歌ぐらい歌う
さ、と軽く済ませるのが分別というものだろう。だが揺峰は、六太だって恋の
ひとつやふたつしたことがあるだろうと言っていた。一般的に女性は男性より
観察眼が鋭いものだ。彼女の勘が的を射たものだったら。
 とはいえ彼女は六太の身分を知らない。麒麟であることを知らない。ひとり
の少年に対して当たり前のように語った自分の言葉が、麒麟の恋という非常識
な事態を指すとは考えてもいない。両者を結びつけられるのは鳴賢だけだ。六
太の告白の細部はさすがに忘れてしまったが、これまで誰にも言ったことはな
いとの言葉は覚えていた。つまり鳴賢が胸にしまっておくかぎり、他の誰にも
想像できない可能性は高い。
 当たり前だ。何より王と国のことを考えねばならないはずの神獣が、どこの
誰とも知れぬ女性に苦しい懸想をしているなど。
 だが果たしてこれは正しい手がかりなのだろうか。想う女性に関する事柄が
六太の望みならその可能性はあるが……。
 六太は呪者に「あさましい」とののしられ、自分でも恥じているようだった。
もし国や主君への忠勤を差し置いて望みのない恋にうつつを抜かしていたなら、
それも納得できてしまう。
 ――なんということだ。ぴったり符合するじゃないか。
 鳴賢は座っていた椅子から立ちあがり、狭い室内をうろつきまわった。考え
れば考えるほど重要な手がかりに思えてきて胸の動悸が高まった。もしや六太
の最大の願いとは想いを遂げることではないのか? 少なくとも想いが通じ合
うことでは?
 彼はふたたび椅子に座りこみ、うなりながら両腕で頭をかかえた。いったん
思いついてしまうと、その考えを頭から振り払うことは困難だった。
「でも俺、六太と約束したんだ。好きな娘がいることは誰にも話さないって。
天帝にも言わないって。そりゃ、あのときはこんな事態になるなんて六太も予
想してはいなかったろうけど」

520名無しさん:2012/07/14(土) 00:49:08
キテタ━(゚∀゚)━!!!
なるほどこう繋がってくるわけですね!
思わぬ展開にトキメキが止まらないです(*´∀`*)
鳴賢ガンバ!!

521永遠の行方「王と麒麟(154)」:2012/07/14(土) 08:24:36
 もっとも六太は、鳴賢が誰かにもらしてしまうことになっても気にするなと
も言った。そのときはそのときだと。だが――そうだ、そうなったら自分は壊
れるとも言っていた。それほど真摯な想いなのだ。やはり鳴賢ごときが軽々し
く他言できる内容ではない。
「いったい宮城では少しは進展しているんだろうか? それとも相変わらずお
手上げ状態なのか……」
 深々と溜息をついたのち、鳴賢は房間の扉を振り返った。
 ここしばらく風漢の顔を見ていないから、状況はわからない。だが明らかな
進展があれば、あれだけ気遣ってくれた風漢のことだ、早々に伝えに訪れるだ
ろう。それがないことの意味は明らかだった。

 その夜、臥牀の中であれこれ考えていた鳴賢は、結局一睡もできなかった。
 六太の恋は、呪を解くための正しい手がかりだろうか。彼の想い人が明らか
になれば、事件は解決に向かうのだろうか。
 それともしばらく様子を見たほうがいいのか。だがたとえば相手の女性が仙
だったとしても、いつまでも健在とはかぎらない。こうしてぐずぐずしている
うちに、事態は取り返しのつかないことになってしまわないだろうか。
 誰にも相談できないまま鳴賢は悶々とした。どうすべきか、自分で決断しな
ければならない。
 むろん想い人が人妻だったり、六太に対し尊崇の念はいだいても恋愛感情な
ど持っていない可能性は高い。しかし風漢が呪についていろいろ説明してくれ
たからわかるが、厳密な意味での六太の望みと、実際に暁紅が設定した解呪条
件とは別の話だろう。ならば本心からでなくとも、相手の女性が愛の言葉を六
太の耳元でささやけば済むとか、その程度で何とかならないだろうか。
 醜くも黒く腐りながら、楽しそうに六太をあしらっていた暁紅の最期の様子
を思い起こす。あの女の心は歪んでいた。そんな女が、愛のささやき程度で
あっさり解けるような呪を設定するだろうか……。

522永遠の行方「王と麒麟(155)」:2012/07/14(土) 08:49:29
 いや、やるかもしれない、と望みをつなぐ。もし暁紅が嘲ったのが麒麟の懸
想という私事であり、恥じた六太が決して口にしないだろうこと、したがって
想いが成就しないことを確信していたなら、そもそも他人が相手の女性を割り
出すことさえ困難だと承知していたはずだ。事実、鳴賢は知らないし、六太が
恋をしているなど諸官も気づかないからこそ、これまで色恋の方面に調査を進
めなかったに違いない。無意識のうちにその可能性を除外しているわけだ。
 ならば愛のささやき程度でも解ける呪である可能性はある。問題はむしろ、
たとえ永遠に目覚めなくても、みずからの恋を秘したいと考えていただろう六
太の悲愴な心中で……。
 悩み続けた鳴賢は、明け方近くになってようやく覚悟を決めた。暗い天井を
凝視したのち、しばし瞑目する。
 すべての責任は自分が負おう。優しい六太なら絶対に鳴賢を責めないことは
わかっている。だが自分の進言で首尾よく六太が目覚めたとして、相手の女性
ともどもいたたまれない思いをする結果になったなら、一命をもって詫びよう。
一介の大学生の行為にすぎないとしても、ひとりの人間が生命をもって訴えれ
ば、周囲の官も少しは考えてくれるだろう。
 何より六太は恋をしただけだ。彼がいかに恥じようと、それ自体は何ら責め
られるものではない。今回の事件がなければ誰にも知られずに済んだはずの、
ささやかな私事にすぎないのだから。いくら国と主君に生涯をささげるべき神
獣でも、それくらいの感情は許されていいはずだ。
 そうだ、そのときは上奏文を書いて六太の誠心を訴え、主上のお慈悲におす
がりすることにしよう……。
 いったん決心すると、鳴賢はまだ暗い中で起きて手燭をともした。六太の願
いごとについて心当たりがあると、さっそく大司寇宛に手紙を出そうと考えた
のだ。
 ただし――滅多な相手に話すことはできないと、こればかりは厳しく考えた。
畏怖の念に打ち震えながらも、話す相手は畏れおおくも雁の主上のみと思い定
める。あれほど六太が思いつめていた事柄が切ない片恋だとしたら、六官とは
いえ臣下に明かすのは酷すぎて、鳴賢自身の心情としても耐えられなかった。
ならばせめて、六太の唯一無二の主にして半身である延王にのみ秘密を伝えよ
う。

523名無しさん:2012/07/14(土) 09:23:14
>>520
>なるほどこう繋がってくるわけですね!

あはは、そうです。あれだけ海客の団欒所がどうだの
オリキャラばっかうだうだ書いたのも、要はここに来るという……。
これで>>7-14ともやっとつながりました。五年ごしです。長かったぁ。

続きはまた夜に投下に来ます。

524永遠の行方「王と麒麟(156)」:2012/07/14(土) 19:45:05

 封をした書簡を大司寇宛にひそかに出した日の夜、鳴賢の房間を風漢が訪れ
た。一瞬どきりとしたものの、書簡には六太との約束を簡単に述べた上で、王
にのみ明かすと念を押しておいたはず。そのため、たまたま風漢の来訪が重
なっただけかと思ったのだが。
「大司寇に手紙を出したそうだな。六太の最大の願いについて心当たりを思い
出したそうだが」
 話を切り出した風漢に、鳴賢は目をむき、声を失った。くれぐれも内密にと
頼んでおいたはずなのに。実際に会ったのは一度きりとはいえ、大司寇を信頼
していた彼は多大な衝撃を受けた。
 だがいったん知られてしまった以上、国官を前に黙しているわけにもいかな
い。進退窮まった鳴賢は思わず目を閉じたものの、すぐに強い決意をにじませ
て相手を睨んだ。
「……なぜあんたがそれを知っている?」
「大司寇におまえの手紙を見せられたのだ。それで事情を聞きに来た。内密に
してくれとのことだったので、他の者は知らん」
 話が漏れたのみならず、書簡そのものまで見られたのか。鳴賢は打ちのめさ
れた気分になった。
「そうだ。手紙にも書いたが、誰にも話さないと六太に約束した事柄だ。ただ
今は非常事態だから……。
 だが約束を破ることになる以上、せめて麒麟の半身とされる主上にだけお伝
えしたい。他人に知られることを望んでいなかった六太のためにも、主上以外
には絶対に明かしたくない。あんたには悪いが、官に話す気はないから帰って
くれないか」
 それきり口を閉ざす。別に延王の尊顔を拝したいとか、そこまで不遜な望み
をいだいているわけではない。無事に目通りが許されたとしても、玉簾の奥に
おわす影に叩頭しながら奏上するといった感じだろうか。いずれにせよ、王に
だけ秘密を伝えられることさえ保証されれば、体裁は何でもかまわなかった。
 風漢は、ふむ、とあごをなでると、しばらく考えてから言った。




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