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RPGツクールでやる夫RPGを作るようです
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作ったら面白いと思わないか?
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幕府は最終的にトップがお飾りになるからなぁ…
かと言って平家や豊臣も短命政権だし…
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江戸幕府の征夷大将軍でも正二位の内大臣どまりで従一位の太政大臣になれない将軍わりとおるんだよな
それだと朝廷の右大臣のほうが将軍より官位が高いことになる
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本来、宮中を仕切るのは左右の大臣やからな
内大臣は実質的な宮中権力とは見なされにくかったのかもしれん
太政大臣にいたってはそもそも令外官や、常任ではないし職掌も決められとらんよね
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内大臣って明らかに左右大臣と比べて扱い低いからなぁ
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これはスレタイに対するワイなりの私見なんやけど、中央で貴族化したら実権を失って弱体化するからちゃうかな
ちょうど平安貴族から鎌倉武士に政治的実権が移り変わったように
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古今東西
没落期の政府は中央の統制が行き届かなくなって地方で実権を握る人間が裁量を得ることになる
徴税権を地方の有力者に売り渡したりなんかもまあ中世ではよくある話やろ
中世以後近代化以前の国家は地理的制約があるんで地方分権的な統治体制のほうが安定するんやと思う
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現代人の視点では「中央集権こそ合理的」「地方分権は非合理」となるけど昔はそうでもなかったんやないかな
古代ローマと大和朝廷
中世ヨーロッパと日本の戦国時代
同時期というほど同時期でもないけど中央集権的な帝国→地方分権的な小国乱立という点で近似する
古代世界の辺境は未開拓地が広がっとったけど時代が進むと開拓した農地がひしめき合うようになるわけで
結果として大帝国を維持するのは難しくなるんちゃうかな
で中世には地方分権的な体制に収斂していくと
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情報の伝達速度の差
これが大きい(速い)とより大きな領土を治められる
小さい(遅い)と小さい領土しか治められない
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技術の話をするなら軍事的な優位性の問題もあるやろね
古代世界、辺境の狩猟採集民族に対して戦術で対抗する農耕民族は無類の強さを誇っていたはずや
しかし誰も彼もが定住して農耕するようになったら軍事力も拮抗して領土拡張が難しくなる
それを崩したのが騎馬遊牧民族と銃火器なんやろう
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江戸幕府の幕藩体制は地方分権的といえば分権的やけど太平の世が260年も続いたわけよね
江戸時代以前は散発的な争いの繰り返しやったのに
戦国以前の「天下」なんて畿内周辺くらいのもん
それが織田豊臣徳川の一世代だけで一変して全国政権が確立したのは銃火器の大規模運用あってこそ成り立ったものやないか
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権力が二分つってももう承久の乱の時点で朝廷の武力は一掃されてるし、後嵯峨が遺言で幕府に次の天皇誰にするか委ねた時点で朝廷なんて大した意味もなくなってるでしょ
得宗家の官位知ってるか?到底政権運営してる一族のものとは思えんわ
結局官位とは別の正当性を用意できればどうでもいいわけ
それが鎌倉においては摂家将軍宮将軍だったというだけ
武力の根源は武者どもなんだからそっちの統制のために朝廷と別の武家政権として幕府を運営していくのは納得できる選択ではあるやろ
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平家 短命
鎌倉 北条乗っ取り
足利 終始グダグダ
豊臣 短命
幕府かどうか関係なく徳川以外全部成功例とは言えんやろ
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平家 短命
鎌倉 北条乗っ取り
足利 終始グダグダ
豊臣 短命
幕府かどうか関係なく徳川以外全部成功例とは言えんやろ
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平家政権「幕府?なにそれ美味しいの?」
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関白の役割としての後継は、明治以降の日本の内閣総理大臣だと思う
役職自体に権威はなく、一部の将軍の兼任や秀吉みたいにあくまで個人の力で維持しなければならない
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豊臣政権なんて自分で作った武家関白制を自分で破壊して秀吉個人政権にしちゃったじゃん
数年で崩壊したし統治する気すら感じない
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豊臣政権なんてお話にならないくらい短命やったろその理由考えれば大体わかるわな
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そりゃ日本中にありふえた暴力ですべてを解決しようとする連中を抑える暴力はない政権はダメだ。
社会学者のマックス・ヴェーバー大先生曰く、「正統性をもつ暴力の独占」(意訳)は国家の必要条件だ。
徳川幕府体制はこれに関してよくやっていた。
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将軍か関白かでなく、武士の力の源泉である武力を維持できる体制かどうかのような。
権力者に近くに広い直轄地あって、金山銀山や主要な港抑えて、対外貿易独占と、跡継ぎが代々確実なら、全国に小さな大名や国人の乱立なら、トップの肩書きなんか、何でも良かったはず。
秀吉が幕府開いていても、幼い秀頼を残して死んだ時点で、史実コースか戦後時代に逆戻りだろう。
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関白太政大臣出したのに摂関家から見捨てられて滅亡した伊勢平氏や豊臣家がいいの?
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明治維新がそうだけど日本における朝廷に直結した政体は朝廷儀礼のような伝統をどれだけ取捨選択可能なのかが鍵になる
明治維新において朝廷権威を利用する事は過去の伝統が復活して西洋の技術や文化を導入する足枷にもなりかねなかった
それでは新しい政体に切り替わった意味が大きく減殺されてしまうので当時の指導者は神武天皇を持ち出して洋化のために利用した
結局明治以前の政体交替で何故幕府方武家政権が採用されたかと言えば、それが仕切り直し=維新のために都合が良かったという結論に落ち着くと自分は考える
逆に言えば朝廷と近すぎる平家や豊臣が上手くいかなかったのは独自の伝統を自分たちで築く機会を逃す事となり、それが自分たちの権威付け構築の妨げになったと言えるだろう
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平氏政権も豊臣政権も短命に終わったけど、藤原時代は長く続いたから立ち回りさえ間違わなければ長く続くんじゃね
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てか相続制度が確立して相続問題など揉め事が江戸時代の頃には減っている
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朝廷があって、幕府もあった方が、後者の政体が長く続いた要因が何だったのか?改めて考える機会になった
権力者に政体があるよりは、権力者の
家臣達の意見を汲み取れた政体の方が
優れている、と言う事なのかもしれない
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豊臣秀次が何の問題もなく秀吉の跡を継げても
豊臣家は貴族として平家のように弱体化して結局は短期で滅ぶことになってたかもな
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朝廷の枠組みの中で政体を作るか、軍事政権として朝廷から大きく切り離して政体を作るかの違いなのかな
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律令制を換骨奪胎して乗っとるわけにはいかんかったのか?
たとえば鎌倉幕府あたりなら、各国の守護(に史実なら相当する役職)を○○守に、問注所や政所などの長官を○○卿としたりとか(不要な役所は廃絶する)
中国なら、王朝交代しなくても役所の構造改革なんて結構やってるのに
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後醍醐天皇がそれやって大失敗に終わったから。荘園が蔓延して死に体だった律令制は換骨奪胎なんてあかんでしょ。幕藩体制が換骨奪胎の結果とも言えるけど。
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幕府なんて後世の人が勝手に名付けてるだけで当事者は幕府を開いたなんて誰も思ってなかっただろうよ
江戸幕府が長く平和に続いたのは武士の揉め事の原因である土地問題を秀吉が片付けたからっていうのがデカい
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豊臣政権が崩壊した原因に、元々新興勢力で武力基盤が脆い上、子飼いの賤ヶ岳の七本槍など武将が徳川に接近したことは重要。
関ヶ原の戦いは半分くらい豊臣政権内戦の性質をもつ、その結果で豊臣政権の武力基盤が崩れ落ちたので、それ以降に徳川の武力攻勢に対抗し難くなった。
逆に徳川幕府が成功した理由に、巧妙な転封で外様大名を弱体化させて、さらに忠実な譜代大名で監視システムを作り上げたことで、「権威ある武力行使の独占化(暴力の独占化)」による部分は大きい。
鎌倉幕府と足利幕府さえ「権威ある武力行使の独占化」に関してあまり成功とはいえず、平家政権はなおさらだ。
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よく言われるように秀吉は早すぎた個人主義の人。武士が営々と守り通してきた家と所領への執着が薄いから大胆な改革が出来た。
家康はそこらへんの武士の機微が分かっていたから上手くバランスが取れたんじゃないかと思う。家を康んずるなんて名前だしね。
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始皇帝「言う程早いか?」
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戦力持ってる子飼いが唐入りで消耗したのも大きそう
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武力を担う武家の土地支配・家督の承認権こそが鎌倉・室町幕府の力の源泉
信長と秀吉は裁判によらず、自身の裁量で部下に土地を分け与えた創業者なので、幕府的な存在ではなかった
江戸幕府の場合、中世と違って諸侯による土地の一円支配が前提だったので、細かな所領の裁判は存在しなかった
足利将軍家は途中で公家化したけど、失敗したのは応仁文明の乱や明応の政変で権威を喪失したから
公武一体だったなら寺社院王家の所領にも睨みが利くかも知れないが、寺社院王摂関の勢力争いに巻き込まれるというデメリットもある
幕府の不知行地返還令はアレだけど、大内氏は京都に出て来てこの問題に直面した
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中央集権には強力な交通網整備が必須なので日本だと難しかったのではないだろうか
大陸では秦の始皇帝時代には一日最高500里(秦代の一里は約345メートル)の駅伝制を確立して、領土の端から首都咸陽に届けられた書類を始皇帝が決裁して送り返すって2週間かからずにやってた
一方日本では江戸時代でも幕府と薩摩藩の書簡の往来は最速でも片道20日、通常は40日以上かかってたし、スピード感が全然違う
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相続問題にケリつけたのは家康と家光
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そのツケが秀頼に回っちゃったんだよな
秀頼が朝廷で浮いた挙げ句右大臣辞任に追い込まれたのは、公家が秀吉へのヘイト溜めてたからだったし
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>諸侯による土地の一円支配
まあ、これに関しては太閤検地が複雑な土地利権を単純化にし、刀狩りで地侍の武力を弱体化させた政治遺産による部分も大きい。
秀吉は政権に忠実なる武力基盤の作成に失敗したが、やはり日本史における内政と経済の改革に影響は強かった。
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豊臣政権は中央集権に失敗し、徳川はそもそもそのような発想はなかったが、ある意味秀吉の政治遺産を徳川が運用した結果、江戸幕府は一応「大名(諸侯)集権」を成功させた。
少なくとも豊臣政権以降に地侍による反乱はほぼなくなった、残った政権安定性問題は概ね「大名の制御」だけだった。
実際、現時点で日本史における百姓・地侍層による最後の大規模反乱は天草の乱に止まる、その鎮圧に諸侯は幕府の権威に協力的だった。
それ以降はさらに儒教思想の普及によって、「官尊民卑」の概念は現代にまで続く、日本人は政府からどんな仕打ちを受けても概ね政府権威に忠実。
所謂マッカーサー幕府時代さえ大規模反乱はなかった。
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公武合体といえば幕末だが、その視点で見ると
平家、足利義満、豊臣辺りが公武合体
鎌倉は将軍を公家にすることである程度担保してた
室町は義満が朝廷に入り込んで政権を安定させたが、将軍によってスタンスが違う
江戸は明確に公武を分離したけど、それが幕末に至って仇となる
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座ったまま食らっただけ、は言い過ぎだけど信長・秀吉が天下餅をある程度やってくれたのが大きいな
家康1人じゃ無理だった
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元を辿れば関白も横紙破りだし武家に官位やりすぎて朝廷の公家が役職に付けなくなったし
朝議開催権ある大臣職秀次は切腹今出川晴季は秀次事件に巻き込まれて流罪で家康(内大臣)しか開催できなくなって発言力増大だし
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暴力そのものに正当性もクソもないだろうから、「暴力を正当に独占」が国家の必要条件、なら納得や
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その前の戦国大名化が進んだことも大きいと思う
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摂関は必ずしも世襲出来るわけではないから長期政権はしけない
武家による長期安定政権をしこうと思ったら征夷大将軍になって幕府を開くしかない
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実際、明治維新が日本史における中央集権への最後の大仕事である「大名の解体」を成功した。
それ以降は中央政府「正当性をもつ暴力(武力行使)の独占」を成功し、中央集権・官僚制の近代国家に順調に進めた。
まあ、別に法に禁止されているわけでもないながら、一般民間人によるデモやストライキさえまともにできない現状は、少々やり過ぎたかもしれない。
時々現代日本の民間人はなぜか独裁国家並に政府と官僚に服従することに疑問を感じる。
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