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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

903名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 21:57:42 ID:8QR1JWFI0
 王朝の節目節目に歴史書が編纂されていたことが これまでの記述から揣摩臆測されるが、中華帝国から正史編纂事業を取り入れた時期が近いほど、その歴史観は 近似値として保持されたことだろう。

 『日本書紀』編纂命令者 天武天皇は、壬申の乱のとき、巨勢人ひと(=比等)の内訌など 蘇我系の氏族の協力を得て 戦いに勝利し 即位しているが、私はこのことなどから天武天皇は蘇我氏の人物であり、王朝交代をを記す歴史書の編纂を画していたのではないかと愚慮していた。

 大乱の勝者 天武天皇は 天文遁甲を能くし、『藤氏家伝』においては 槍という その当時 特殊な武器を使う等 その素姓は甚だ怪しい。天武天皇の構想していた正史『日本書紀』の原型は 中華帝国の正史の歴史観と最も近かったのではなかろうか?

 いや、正史編纂が国家事業となる唐以前の正史を参照にしたであろう蘇我馬子や聖徳太子の『天皇記』や『国記』が中華帝国の歴史観に最も近く、天武天皇の作った それは蘇我氏の第二王朝として既にアレンジがなされていたのかもしれない。

 しかし その後、天武に対して批判的だった彼の后が登極し、天武の構想(大方 天皇家と蘇我氏の二王朝交代)のアンチテーゼとして,また 現存していた天武の後継勢力すなわち蘇我氏の正統性を潰す意味を込めて、万世一系という血のつながりが創作されたのではないかと私は当て推量している。天武の后であり 天智の娘であった持統が 天武の血統に対して挑戦的だったことは、彼女があくまで自らの血統にこだわり その後"統を持たもつ"という諡が贈られていることから伺えた。

 そして、持統の正史改変の裏には 藤原一千年の基礎を築いた人物 不比等の関与があったのやもしれない。不比等は はじめ"史"として歴史の表舞台に登場していた。




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