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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

878名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 21:44:18 ID:8QR1JWFI0
 古代の有力豪族 蘇我氏が1世紀に渡り 権勢を保持し得た理由として、かの一族の政策がうけたことはもちろんあったと私は思うが、彼らは同時に多数派工作など政権の基盤固めも行っていた。

 当時 国政を担う太政官の最高幹部は一氏族より1名のみという不文律があったが、彼らは一族の者を他氏に入れる"分氏政策"をとることによって政権を盤石ならしめんとした。例えば、2代目 馬子の兄弟は桜井氏や久米氏、小治田氏に入り、4代目 入鹿の弟は 物部大臣として歴史に名を刻んでいた。

 ただ、この工作に何ら問題がないわけではない。というのは、一族の諍いが 他氏族との諍いに置き換わり 他氏族にとって変わられる危険性を孕んでいるのだ。

 実際、第33代 推古女帝の崩御後に起きた後継争いで、その危機が発生している。この時蝦夷は田村皇子,後の舒明天皇(第34代)を推したのに対し、馬子の弟 境部摩理勢さかいべのまりせは聖徳太子の子とされる山背大兄王を推挙。結局、蝦夷が摩理勢を討伐することで、この危機は未然に回避された。

 そして、こうした諍いは 蝦夷の子 入鹿の代にもあったのではないかと私は踏んでいる。而して、このことが別の一族藤原氏の多数派工作に影響を与えたものと私は壁越推量している。

 あと余聞だが、この推古天皇の後継を巡る悶着の際、鎌足の父 中臣御食子なかとみのみけこは蘇我氏側に立ち、蝦夷と行動を共にしている。これは、常とは異なる行動だった。ひょっとすると、ここには何らかの秘密が隠されているのかもしれない。




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