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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

859名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 21:29:16 ID:8QR1JWFI0
 大化の改新の端緒である乙巳の変は、後の天智天皇(第38代)こと中大兄皇子と藤原氏の祖 中臣鎌足を中心として謀議が重ねられ、蘇我氏の傍流 石川麻呂を味方につけ、645年7月、飛鳥板蓋宮で決行された。

 時の天皇は中大兄皇子の母である皇極女帝(第35代)。三韓の調の儀式が行われるとの触れ込みで、かの宮殿に群臣が集められた。参列者には、次期皇位継承の最有力候補 古人大兄皇子ら がいた。

 入鹿が入朝すると、まず道化を使って彼から剣を取り上げる。さらに宮門を閉じさせ、石川麻呂が上表文を読み上げている最中に、中大兄皇子が入鹿に切りつけた。中大兄皇子の手には、最初 槍が握られていた。

 入鹿はその後 滅多刺しにされて死亡。私宮に逃げ帰った古人大兄皇子は「韓人が入鹿を殺した」と嘆いたという。

 因みに、この言葉が"中臣鎌足=余豊璋"説の根拠の一つとされている。この当時 百済と高句麗は同盟関係にあり、高句麗を援けるために、百済王子 余豊璋が 変に関与したという可能性がないではなかった。

 しかし、"鎌足=余豊璋"が事実だったとして、蘇我氏の支流 倉山田石川麻呂を味方に引き込むことができるのか? また、石川麻呂自身が蘇我氏の本流になりたかったとしても果たして、彼が青二才や外国人の言うことに耳を貸すのか? "鎌足=余豊璋"説を一概に否定するつもりはないが、少々 疑問は残る。かの政変は、確たる地盤を持った石川麻呂が参加しなければ、実現のしようがなかった。そもそも、外国人が石川麻呂と接触していて怪しまれないのか?




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