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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

831名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 21:14:36 ID:8QR1JWFI0
 徳多は 658年に亡くなっているが、天武天皇は その即位後、徳多に対する多大なる恩義に、最高位を叙勲する形で報いたのではないだろうか? 天武は 壬申の乱の功労者などにも 高位の死後贈位を多数 行っていた。

 "徳多"という名にも 何らかの想いが込められていると私は思うが、彼は 蘇我政権の大番頭とも言うべき存在であり、彼の目が黒いうちは、中大兄皇子も中臣鎌足も 勝手なことは出来なかったのではないかと私はニラんでいる。

 その辺りの細かいところは "大化の改新"を採り上げる際に、詳しく述べたいと思うが、一つだけ述べておけば、孝徳天皇の皇子 有間皇子が 中大兄皇子に粛清されたのは、巨勢徳多が亡くなった後のことであった(658年)。

 なお、天武自身が 中臣鎌足を抑えられなかったのは、鎌足の本当の素姓ゆえだろう。彼は 大方 蘇我氏の関係者であり、天武にとっては目上にあたる存在だった。




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