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【アメリカ留学】じゃぱにーずinゆないてっどすていつ【体験談】

817名無しのやる夫だお:2024/05/19(日) 21:02:48 ID:8QR1JWFI0
 爾後、天智天皇が亡くなり、壬申の乱へと繋がるが、かの争乱は 朝鮮半島の一国 新羅と中国王朝 唐のどちらと同盟を結ぶかの争いであったとも考察されている。

 このうち、前者新羅と天皇家は 欽明天皇(第29代)の時代から宿敵関係にあったが、乱後、天武天皇は 新羅と遣使を交換し、唐との遣り取りを断絶。このような政策が採用されたのは、彼が 従来の天皇家とは異質な血統の持ち主であり、全方位外交を行う一族の出身だったからかもしれない。

 ちなみに、私は 天武朝は"第二次蘇我王朝" だったのではないかと愚慮している。壬申の乱という大乱に勝利を収めることができたのも、先代があったからだったのではないだろうか? 天武天皇を、漢の高祖 劉邦に擬なぞらえる見解が一部で唱えられているが、それだけでなく、天武を漢王朝の再興者 光武帝(後漢の初代皇帝)に擬ぎする見解も、確かに存在していた。

 天武天皇は、神話の中で 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)を 天照大神あまてらすおおみかみに比定していたのではないかと私は当たりをつけているが、ともすれば、そこに 天武にとっての先代がいたのやもしれない。その時代、中国王朝 隋に使節が派遣されているが、そこ『隋書』には男王(アメタリシヒコ)の名が記録されており、また、『国記』『天皇記』といった歴史書が編纂されていた。




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