Ｍｙ　Ｍｏｔｈｅｒ’ｓ　×××②

1：月：2010/07/08(木) 23:56:11: 　家にたどり着いたのは、夕方の６時半をまわったところだった。
　呼び鈴を鳴らさず、玄関のドアノブをいきなりまわす。だが予想外なことに、鍵がかかっていた。いつもなら当然、母は帰宅している時間だった。途中で買い物でもしているのだろうか。
　使っていない牛乳瓶用ポストの裏を手でまさぐる。あった。母はいつもここに合い鍵を隠すのだ。
　鍵を開けて、家の中に入った。

　まだ、その時まで、母を驚かしたいという僕の無邪気なたくらみは、かがやきを失っていなかった。僕は久々のわが家に対する感傷もほどほどに、鍵をポストの裏に戻し、玄関の扉に鍵をかけ、靴をビニールに包んで鞄に入れた。そして、僕が出た時のまま、きれいに片づけられている自室へ行った。
　もうじき、母が帰ってくる。そうしたら、いきなりこの部屋から出て行って、「お帰り」と声をかけるのだ――。
　重い荷物をベッドにおろし、部屋の明かりもつけずに、僕はその時を待って、ただ、わくわくとしていた。

　３０分後。玄関の扉が開く音がした。
　――母が帰ってきた。
　僕は思わずにっとわらいながら、腰掛けていたベッドから立ち上がった。物音をたてないよう、すり足で慎重に歩きながら、階段を降りる。
　その時だった。

「すぐ、お夕食の支度をしますから」

　階段のなかばで、僕は立ちどまった。
　母の声だった。立ちどまった理由は、その声が、誰かに語りかけるものだったからだ。
　つづいて、ぎしぎしと廊下の軋む音がする。

　僕は混乱した。
　当たり前に一人で帰宅するはずの母が、誰かと連れだって帰ってくるなど、完全に予想外の事態だったからだ。
　――いったい、誰だろう。
　そんな疑問が頭に浮かぶ。仕事が忙しくて、有閑マダムのサークル活動とは縁がなかった母だが、職場の同僚や学生時代の友人に親しいひとはいた。とはいえ、自宅に誰かを連れてきて、夕食をともにすることなどは、知る限りなかった。
　自分がそうであるように、母も一人暮らしになってから開放的になったのかもしれない。それはそれとして、完全に出るタイミングを失った格好の僕は、階段の途中で座り込みながら、そっと首を伸ばして、階段の降り口の向こうにある居間を見た。
　居間の戸は開いていた。エプロンを着る母の後ろ姿が見える。
　不意に、テレビの音がした。ここからでは姿も見えないが、居間に座っているらしい誰かがつけたらしい。
　――ひとの家だってのに、ずいぶんくつろいでくれるじゃないか。
　そんなことを思った。

　手持無沙汰のまま、僕は馬鹿みたいにその場に座って、少しだけのぞける居間の様子をちらちらとうかがった。
　テレビはついたままで、騒がしいバラエティー番組の音が流れている。母は長く伸ばした黒髪を揺らしながら、忙しく立ち働いて、料理を盛った皿やグラス、酒瓶などを持って、居間と台所を往復している。
　と――

「退屈だな」

　知らない、声がした。
　顔の見えぬ来訪者の声にちがいない。
　男の声だった。

　台所から母が戻ってきた。

「ごめんなさい。もうすぐ、ご用意できますから」

　両手をエプロンの前にそろえ、申し訳なさそうに言う。

「ちょっと来なさい」

　また、男の声だ。しゃがれたような渋い声。母はそろそろと近づいていき、階段半ばから見える視界から外れた。

　――いったい、誰だ。
　僕は思う。この横柄な客はいったい誰なのだ。
　不穏な胸騒ぎとともに、困惑を深めていると、

「あ………」

　小さくかすれるような母の声が、かすかに響いた。
　僕はまた、どきりとした。母の漏らした声は、今まで聞いたことのないような響きをともなっているような気がしたから。

　しばらくの静寂があった。

　やがて、「まだ、お食事も…済んでいないのに」という母の声が、切れ切れに聞こえてくる。
「そのわりには、ずいぶんと色っぽい顔をしていたじゃないか」
　男の言葉は、からかうような声音だった。
「目を閉じて、うっとりとした顔だった」
「意地悪……そんなことありません」
「そうかな」
「あ……」

　また、母の声。それは吐息だった。
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