■洋書(すべて国際的に高く評価されているのでオススメ)
日本 権力構造の謎 カレル・ヴァン ウォルフレン
菊と刀 ルース・ベネディクト
犬と鬼-知られざる日本の肖像 アレックス・カー
ひきこもりの国 マイケル・ジーレンジガー
お役所の掟 宮本政於
Tokyo Vice: An American Reporter on the Police Beat in Japan Jake Adelstein
Hirohito and the Making of Modern Japan Herbert P. Bix
Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption Laura Hillenbrand
アメリカ・中米・ヨーロッパ・日本を除くアジアで今「SEL」が急速に普及してきています。
SOCIAL EMOTIONAL LEARNING、感情と人間関係学習です。簡単に「生きる力を磨くプロセス教育」と言ってよいでしょう。
私たちは、SELの先進校であるアメリカのヌエバ・スクールの指導を受け、SELの考え方に従った「生きる力」教育を進めていきます。
Du kannst, denn du sollst. 「あなたは、そうすべきである。だから、あなたはそうすることができる」 カント(Immanuel Kant, 1724〜1804)
ここまで、西洋の責任概念三つ:responsibility、accountability、liabilityを紹介した。
お気づきだろう。全て〜〜abilityと人間の持つ「能力」を表現している。なぜ「能力」が「責任」なのか?
日本人には不可思議だ。日本人は通常、「責任」とは「他から課せられた、ないし、与えられた課題」と考える。
では何故、西洋人は「能力=責任」と考えるのか? 今回はこの西洋独特の考え方に関して説明する。
そもそも「洋魂」、すなわち西洋の精神基盤は「キリスト教」
--詳しく言えば西ヨーロッパに広まっているカトリック・プロテスタント系のキリスト教--だ。
20世紀の百年間で「合理主義」が進みその影が薄れたとはいえ、西洋人の意識の底にはガッチリとキリスト教が組み込まれている。
このキリスト教のエッセンスとは、ズバリ「普遍主義的個人主義」だ。
ベースは個個人の違いを尊重する個人主義でありながらも、
個々に異なる考え方の中に遍(あまね)く通底する普遍や「共通善」の存在を人々が受け入れ、
この共通善を実現するための「社会契約」を国家構成員が結ぶ。そうやって築いていくのが「西洋近代社会」だ。
ここで大事なのは「共通善」の具体的内容は定めないこと。その存在は認めるが具体的内容は分からないとする。
つまり「共通善が何であるかは超越存在である神だけが知っていて、本当のところは人間は与(あずか)り知らん」というわけだ。
(中略)
この様な西洋近代社会における共同生活の基本的慣例ルールの蓄積を、西洋社会では民法(Civil Code)と呼ぶ。
当然の如く西洋民法の根底にはbona fide(ラテン語)、英語で言えばgood faith(良い信仰)の原則が組み込まれている。
「権利の行使および義務の履行は、good faithに従い行わなければならない。」
The exercise of rights and performance of duties must be done in good faith.
明治維新以来、闇雲に西洋社会を模倣した日本の民法にも、勿論この原則は(現在は)組み込まれている。
当初「和魂洋才」を標榜した明治日本は、1896年日本民法制定時はこの原則の組み込みを拒否した。
第二次世界大戦後の1947年、あきれた米国占領軍が強く指導してこのbona fideはようやっと日本民法に組み込まれたが、
この期に及んでも往生際の悪い日本は「信義則」とこの原則を呼び、「good faith」を「信義に従い誠実に」と翻訳している。
滑稽なまでの「悪あがき」だ。素直に「キリスト教信仰則」とすれば良いではないか。西洋民法の土台は間違いなくキリスト教なのだから。
話が長くなってしまった。・・・responsibility、他からの要求に応じる責任、
これだけが責任だと思っている日本人のおかしさを説明しようとして、話が長くなってしまった。
とにかく西洋人は「責任」とは「お仕着せの」あるいは「定まった」あるいは「所与の」ものではない、と考えている。
そしてその根底にはキリスト教の「普遍主義的個人主義」という「慎重さ」が隠されている。
つまり、個々の能力の発露の中にもしかしたら「本当のところ」が隠されているのかもしれない、という「慎重さ」が「洋魂」の根底にある。
そしてその「慎重さ」が「ヒトとしての責務」に幅を持たせる。
応答責任、発信責任、無過失賠償責任(no fault liability)といったものも「責任」だという考えに至る所以である。