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原爆
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:2019/03/11(月) 19:30:04
広島原爆アーカイブ
原爆投下から半年後と1年後 市民を捉えた25枚
https://mainichi.jp/graphs/20171220/hpj/00m/040/004000g/23
被爆から1年の広島。福屋屋上では花柳舞踊研究生による広島復興小唄の舞踊練習が行われていた。背後は、爆心地相生橋方面。バラックが建ちはじめている。隣の建物は、商工組合中央金庫広島支所。画面奥左から住友銀行広島支店、芸備銀行本店、千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会。路面を走る電車の姿も見える=広島市胡町(現広島市中区)で1946年7月24日ごろ
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:2019/08/08(木) 01:07:30
アメリカ「原爆製造の街」で日本人高校生がメッセージ!「きのこ雲の下いたのは市民」ネットでも拡散
J-CASTテレビウォッチ / 2019年8月7日 12時2分
https://news.infoseek.co.jp/article/20190807jcasttv20194364508/
原爆のきのこ雲を「戦争を終わらせた誇り」としてロゴマークに使っているアメリカの高校で、日本人留学生の古賀野々華さん(18)が疑問を投げかけた。帰国が近づいた今年(2019年)5月に校内放送で訴えた動画が、6月にはネットに拡散して話題になっていたのだが、「モーニングショー」は広島、長崎の原爆記念日に合わせて取り上げたらしい。
この高校のあるワシントン州リッチランドは、長崎に投下された原爆のプルトニウムを生産したところで、「原子力の街」を自負している。高校のロゴマークは「R」の文字ときのこ雲をあしらったデザインで、校内のいたるところにあふれ、シャツにも印刷されている。1980年代から使っているという。
司会の羽鳥慎一「生徒や先生も誇りをもっているところへ、古賀さんが日本人の思いを伝えました」 古賀さんは「きのこ雲の下には兵士でなく市民がいました。罪のない人たちの命を奪うことに誇りを感じるべきでしょうか」と語った。「ロゴを変えたいというより、日本人の意見を伝えたいと思いました。耳を傾けてくれる人がいるとは全然考えていませんでした」と話す。
地元紙も「勇気ある行動」
浜田敬子(「ビジネスインサイダージャパン」編集長)「歴史教育は自国が正しかったと教えがちです。見方がこれだけ違うと知らせた。すごく意義あることです」
動画を見たアメリカ人からは、「それでも戦争を終わらせた」という反応がある一方で、「日本の人々がどう考えているのか知らなかった」と理解を示す投稿も多く寄せられた。「勇気ある行動」として地元紙にも取り上げられた。 玉川徹(テレビ朝日コメンテーター)「これが先進国ですよ。だれの意見も、人の意見として、いったん受け入れてから考える高校生たちを称賛したい」
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:2023/03/08(水) 21:09:57
アメリカが日本への原爆投下を決定した「本当の理由」のおぞましい狂気
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%82%92%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%9F-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1-%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%9E%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%84%E7%8B%82%E6%B0%97/ar-AA17Rmxd?ocid=msedgntp&cvid=6a102f8da62641fc9fcfed232e7191af&ei=15
なぜ世界各地で戦争や紛争は続くのか。世界経済はなぜ不安定なのか。
実は、現代という時代が今のような形になったのは「アメリカとロシアの闘い=冷戦」が多大な影響を及ぼしている。もともと欧米とロシアのこの闘いは、100年以上も前から続いており、地政学の大家・マッキンダーもこの闘いを「グレートゲーム」として考察していた。つまり、ここ100年の世界の歴史は「地政学」と「冷戦」という2つのファクターから眺めると、とてもクリアに理解が広がるのである。
1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された。
人類史上初・唯一の核兵器実戦使用をアメリカが決定した理由は、終戦を早めるためだったと言われている。
しかし、「本当の理由」は別にあった。
「地政学」+「冷戦」の視点から、従来の新聞やテレビの報道とはまた違った歴史のリアルを見ていこう。
これこそ、各国の公式見解やマスメディアの報道ではわからない「THE TRUE HISTORY」だ。
*本記事は、『地政学と冷戦で読み解く 戦後世界史』(講談社)を抜粋・編集したものです。
ポツダム会談をソ連占領地で開催した意味
ヤルタ会談からまもない1945年4月、アメリカのルーズベルトが急死し、後を継いでトルーマンが大統領に就任した。
ルーズベルトが死去したことを知ったスターリンはショックを受け、大きく落胆したと言われている。
ルーズベルトの死からまもない5月はじめにベルリンが陥落してまもなくドイツ帝国は崩壊し、7月17日からベルリン南西のポツダムでチャーチル、スターリン、トルーマンが集まって会談が開かれた。
これが日本に降伏を呼びかけたポツダム宣言で知られるポツダム会談だ。
ポツダムはソ連占領地域にあり、そこで会議を開くことになったのはスターリンの強い主張によるものだった。そのことにも、ドイツを破ったのが実質的にアメリカではなくソ連だったことが示されている。
会談は8月2日まで続いたが、この会談の冒頭でスターリンがトルーマンに、ヤルタ会談でルーズベルトからなされた対日参戦の要請に応じると正式に伝えている。そしてこの会談の最中に、イギリスの総選挙で保守党が敗れたためチャーチルが帰国し、イギリス代表は労働党のアトリー新首相に交代した。
ところが、死去したルーズベルトに代わって会談に出席したトルーマンは、ルーズベルトとは考えが違っていた。
それは、この会談でトルーマンの補佐官を務めた欧州連合軍最高司令官のアイゼンハワー(後のアメリカ大統領)が、ソ連の対日参戦に反対するよう助言していたためだった。
東ヨーロッパでドイツ軍を破ったソ連軍の強大さを見せつけられたアイゼンハワーは、もしソ連に満州と朝鮮半島の日本軍を攻撃させれば、そのまま極東がソ連に占領されてしまうという危機感を抱いていたのだ。
だがアイゼンハワーの助言は手遅れだった。ソ連軍はすでに攻撃準備を完了していたのだ。
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:2023/03/08(水) 21:10:15
一方イギリス代表団は、ポーランド問題をはじめ東ヨーロッパの国境画定などさまざまな戦後処理についてスターリンと激しく衝突し、スターリンは軍事力を背景に強硬な主張をくり返した。
そこでアイゼンハワーはトルーマンに、「ソ連が参戦する前に我々が日本に勝利しなければ、極東からソ連軍を排除できなくなる」とアドバイスした。
アイゼンハワーの頭に、ドイツの東半分をソ連に占領されてしまったことがあったのは間違いない。
こうしてトルーマンは、アメリカの多くの軍司令官や科学者が反対したにもかかわらず、バーンズ国務長官の強い主張を入れて日本への原爆投下を決定した。
原爆投下には、日本に対する処罰に加え、スターリンに対する「日本まで南下するな。我々はこれを持っているぞ」という警告のメッセージが込められていたと考えることができる。
なお、アメリカの多くの科学者が、「終戦を早めるために原爆の威力を見せつけるのなら、日本に投下しなくても、どこか広々としたところで爆発させて日本の指導者たちに見せればよい」と主張したと言われている。
こうしてポツダム会談が8月2日に終わると、4日後の8月6日に広島に原爆が投下され、その2日後の8月8日、ドイツが崩壊してからきっかり3ヵ月後に、ソ連はルーズベルトとの合意どおり日本に宣戦布告を行う。
そして翌9日にはソ連軍が満州に侵攻を開始し、その同じ日にアメリカは2つ目の原爆を長崎に投下した。
このあわただしい動きを見ても、米ソのせめぎ合いが感じられる。ルーズベルトとスターリンの間にはなにか通じ合うものがあったが、トルーマンとスターリンは明らかに競い合った。
スターリンはアメリカが原爆を投下したことを知って、「なんという残虐なことをするのだ」と言ったという。
だがそのスターリン自身は、2000万人以上もの自国民を粛清や戦争で死なせているのだ。
これが狂気でなくてなんだろう。
この続きは、本記事の抜粋元『地政学と冷戦で読み解く戦後世界史』でお読みいただけます!
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