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アジア
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:2015/11/30(月) 19:13:48
◇友好125周年 本紙報道で振り返る
明治維新後、オスマン帝国と公式に初交渉を持った日本人は、後に東京日日新聞(現・毎日新聞)主筆となる福地源一郎(桜痴(おうち))だった。不平等条約改正などを目指して欧米を巡った岩倉使節団の一員だった桜痴は1873(明治6)年、一行と別行動してイスタンブールへ赴いた。東京日日新聞は77?78年、ロシアとトルコが東欧地域を巡って戦い、結果ルーマニアなどが独立することになる「露土(ろと)戦争」も開戦から休戦まで分析を交えて報じ、世間の耳目を集めることになる。
エ号の訪日は、当時の新聞各紙の扱いは小さかったが、和歌山での遭難事故には多大な関心が寄せられた。東京日日は事故から3日後の90年9月19日、遭難をいち早く報じた号外を発行。<土耳古(トルコ)軍艦の沈没>との見出しで、乗組員が多数死亡し、生存者六十余人も大半が負傷したと伝え、<惨状目も当てられず>と報じた。翌20日発行の紙面では、1ページの大半を割いて詳報を伝えて<同情相愍(あいあわれ)む」とする社説を掲載。ようやく帰途についた乗組員を悼み、「アジア諸国の連帯」などを訴えた。
1985年のテヘラン邦人救出では、トルコ機での脱出の様子などを現地から報道。トルコの救援については、近年の首脳交流などの「友好関係の成果」とする日本政府の反応を伝えていた。87年、毎日新聞は「日本・トルコ友好百年」記念講演会を、トルコ大使館とともに開催。さらに76、92、99年にトルコで散発した大地震についても大きく紙面を割いた。同時に、毎日新聞社会事業団に寄せられた多額の救援金を現地に送るなど、被害者に寄り添った歴史がある。
◇トルコ艦沈没/テヘラン邦人救出 史実描く
1890年の紀伊大島・樫野地区。医師の田村(内野聖陽(せいよう))は助手のハル(忽那汐里(くつなしおり))と、貧しい人たちも親身に治療していた。エ号の水蒸気爆発のごう音を聞き駆けつけた島民たちは嵐の中、漂流者を必死に救出、治療する。海軍大尉のムスタファ(ケナン・エジェ)は既に呼吸が停止、海難事故で亡くしたいいなずけの姿を重ねたハルは立ち尽くすが??。 1985年、空爆の続くイラン・テヘランは、脱出を図る人たちで混乱していた。日本人学校教師・春海(忽那)と、トルコ大使館職員・ムラト(ケナン)は落ち合い空港に向かうも、救援機を待つトルコの人たちであふれていた。時を隔て文化の壁を越え、受け継がれる両国の絆を描く物語だ。
<スタッフ・キャスト> 監督 田中光敏 脚本 小松江里子 撮影 永田鉄男、会田正裕 音楽 大島ミチル
出演 内野聖陽、ケナン・エジェ、忽那汐里、アリジャン・ユジェソイ、夏川結衣、永島敏行、竹中直人、笹野高史
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