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大東亜戦争
1
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:2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争
349
:
NAME
:2023/09/13(水) 03:05:48
現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。 「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた) いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。
350
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:2023/09/13(水) 03:06:02
真相を隠し続けた駐米大使たち [TOP]
しかも、これには後日談がある。 だいぶ昔の『タイム』誌で読んだのだが、あるとき、2人のオランダ海軍の軍人が正式な任官を前にして、生涯の誓いをしたという。それは、「どんなことがあっても、お互いのことを褒めあおう」ということであった。 閉鎖的な組織の中での出世の原則は、「同僚から足を引っ張られない」ということに尽きる。外部からの評価などあまり関係ない。要は、仲間内での“受け”がいいかということが大事なのだ。この2人は誓いを守った。その結果、めでたく両人ともオランダ海軍のトップの座に就いたという。 この話と似たようなことが、開戦のとき一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちの中でもあったらしい。すなわち、「あの晩のことは、一生涯、誰も□にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。 その誓いは守られた。このときワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。その中には戦後、外務次官になった人もいるし、国連大使になった人もいる。勲一等を天皇陛下からいただいた人もいる。 あの『昭和天皇独白録』を筆記した寺崎英成という人は、あの晩、送別会の主役であった人物である。もちろん、断交通知が遅れたことについて、彼だけを責めるつもりはない。しかし、真珠湾攻撃がなぜスニーク・アタックと呼ばれるようになったのかは、当然知っていたはずである。ところが彼もまた、その真相を誰にも話さなかった。そして、話さないまま、天皇の御用掛になった。 言うまでもないことだが、昭和天皇は最後まで日米開戦を望んでおられなかった。閣議が「開戦やむなし」という結論になったときも、「和平の可能性はないか」ということを重臣に何度も確認しておられたという。 このようなお考えであったから、天皇はきっと真珠湾攻撃がスニーク・アタックになったことを残念に思っておられたはずである。「暗号解読に予想外に手間取り」という言い訳を聞かされて、やむなく納得しておられたのだ。
ところが、その真相が違うことは、目の前にいる寺崎本人が誰よりもよく知っていたのである。何という皮肉な話であろうか。 もちろん、寺崎にしても、天皇に対して真相を隠しつづけることは苦痛であったと思う。それは想像にかたくない。だが、やはり寺崎たち関係者は、事実を自ら公表すべきであったのだ。
もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。 駐米大使をはじめ、当時の関係者たちがペンシルヴァニア・アベニューにずらり並んで切腹して天皇と日本国民に詫びるということでもやっていたら――読者は笑うかもしれないが、明治の外交官であれば、そのくらいのことはやったであろう――そのニュースは世界中を駆け巡り、真珠湾奇襲についての悪評は消えていたはずである。 「そうすれば、この間の戦争も、もっと早期に終わったかもしれない」というのは、かつて駐タイ大使であった岡崎久彦氏の意見である。この見方に私も賛成である。 アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで対日戦争に深入りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度日本を叩いたら、さっさと有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。 もし、この戦争が“スニーク・アタック”で始まっていなければ、彼らとて岡崎氏の言うごとく「早く手を打とう」と考えた可能性もあろう。だが、現実にはアメリカの世論は反日ムード一色である。とても早期講和などと言い出せる状態ではない。戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカの選択肢をも狭めたのである。
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:2023/09/13(水) 03:06:17
★ なわ・ふみひと の ひとくち解説 ★ この本の著者・渡部昇一氏は、今日では日本の歴史を鋭い洞察力を持って分析できる数少ない人物のひとり(だった)と言えるでしょう。しかしながら、その“分析”には致命的な弱点があるのです。それは世界の歴史を陰から動かしている「世界支配層」の存在に気づいていない(または、タブーなのであえて知らないふりをしている)点です。 太平洋戦争(大東亜戦争)に関する分析は各方面でなされていますが、今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説となっています。要するに、日本がアメリカに宣戦布告をせざるを得ないようにあの手この手と嫌がらせをして、ついに真珠湾攻撃に踏み切らせたというわけです。 このことは一面の真実と言えるでしょう。しかしながら、もしあの真珠湾攻撃が正々堂々と宣戦布告をしたあとに行なわれていたとすれば、アメリカ国民はあれほど強烈に「日本を叩け」ということを言ったでしょうか。むしろ、日本を戦争へと追い込んだアメリカにこそ大きな問題があることが、国内でもいろいろと問題視されたはずです。それらが全く問題にされることなく、「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです。 当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解でしょう。渡部氏は、アメリカ大使館員の当日の行動を「機転がきかなかった」と解釈してすませていますが、問題の表面だけを撫でているとしか思えません。大使館員がそのような行動を起こし、戦後も責任が問われないようにと、巧妙に仕組まれた行動とみるべきなのです。 つまり、最初から「日本が宣戦布告もしないで真珠湾を攻撃した」という筋書きがあったのです。その筋書きにそって、山本五十六が突然「アメリカと戦争を始めるなら、まず真珠湾を攻撃すべきだ。この案が認められないのなら、私は司令長官を辞める」とまで主張した背景もそこにあるのです。 アメリカ側ではルーズベルトが、その筋書きどおり「日本は宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃してくるから、それを卑怯者呼ばわりすればアメリカ国民は参戦を認めるだろう」と読んでいたということです。そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになったのです。すべて、大きな筋書きにそって世界情勢は動いているということで、そのなかでは、アメリカの日本大使館員が“宣戦布告”文書を真珠湾攻撃の後に手渡すというシナリオなどは三文役者の役回りとでも言えるものでしかないでしょう。 結果として、日本は未来永劫「卑怯な国」というレッテルを張られることになったのですが、その大使館員たちは誰も責任を問われることなく、栄転することさえできたのです。これが、表には出てこない“歴史の深層”です。
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:2023/12/12(火) 21:51:03
「首を斬る快感」を語るおやじが許せなくて 武田鉄矢さんと父の物語
聞き手・後藤遼太2023年12月7日 11時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCX624QRC8UTIL026.html?iref=com_rnavi_arank_nr01
「中国の匪賊(ひぞく)のヤツらを、日本刀で何人か斬った」と自慢することもあった。首を切り落とす快感を話すおやじが、本当に嫌で嫌で。母ちゃんはおやじの横で静かに首を振っていました。おやじと周囲には、「断層」がありました。
彼の夢は、大日本帝国の勝利だったんです。敗北によってアメリカの時代がやってきて、それに対する不満と怒りが渦巻いていたんでしょう。おやじの戦後は、皇居前で正座したまま、その姿勢のまま終わっていったんじゃないですかね。
ところが、母は進駐軍の将校…
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:2024/03/11(月) 16:00:41
「バーン」靖国神社に落ちた爆弾、生き残った8歳 メラメラ燃える自宅は「美しかった」 #戦争の記憶
https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/pacificwar2.html
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:2024/06/16(日) 07:17:48
「あんたを殺さんと俺が殺される」銃剣突き出すと敵兵の血…今も毎朝夕、手を合わせる98歳
2023/08/12 17:11
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20230811-OYTNT50035/
生き抜いて〜元兵士の78年(上)
太平洋戦争を経験し、恩給を受給する元兵士の平均年齢が昨年、100歳を超えた。戦争の不条理を肌身で知る人たちは、その記憶を背負い、戦後78年をどう生き抜いたのか。今なお戦火が世界を揺さぶる中、重い証言に耳を傾けた。
特攻隊員が通った剣道場に遺品、寒稽古皆勤賞の賞状も「爽やかで勤勉で稽古熱心な人だったようです」
目を閉じると、まぶたに浮かぶのは満州(現中国東北部)と中国の国境近くで起きた交戦時の光景だ。自らが手にかけた2人の敵兵は、まだ若かった。「あんたを殺さんと、俺が殺される。上の命令だから勘弁してくれ。すまんね……」
戦後、長崎県島原市の平川重信さん(98)は毎朝夕、自宅の仏壇に手を合わせてきた。2人の敵兵とその親を思い、自然と言葉が口をつく。心に深く刻まれた傷は、1世紀近く人生を歩んだ今も消えることはない。
1924年、同県 布津 村(現・南島原市)の農家に長男として生まれた。16歳の時、南満州鉄道に勤める親類を頼って満州・撫順へ。機関士見習いとして働いたが、戦局が悪化し、20歳で陸軍に入隊。銃剣で敵を突く訓練に明け暮れた。
終戦間際、民家への襲撃から住民を守る部隊にいた時のことだ。攻め込んできた敵兵が小銃に弾を詰めるのが見えた。気づかれないようほふく前進で進む。1・5メートルまで近づいた時、不意に銃口が向けられた。
「先に殺さんと殺される」。銃剣を突き出すと、相手の血が降りかかった。隣には小銃で日本兵を狙う別の敵兵がいた。背後から銃剣で突いた。無我夢中だった。
交戦の中で砲弾が爆発し、自身の右手人さし指が吹き飛んだ。上官に「痛いか」と問われ、「痛い」と答えると、「このくらいで痛くて戦争ができるか」と顔が腫れるまで殴られた。
数か月後、玉音放送が流れた。上官はたった一言、「戦争終わり!」と言った。「神の国だから絶対負けないと言われてきたのに。何のために戦ったのか」。命を奪った敵兵のことがよぎり、虚無感が押し寄せた。
93歳が初めて語る「B29」本土初空襲…未明の警報に地響き、崩れる壁「何が何だか」
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:2024/06/16(日) 07:18:02
攻め入ってきた旧ソ連軍に、列車でシベリアに連行された。マイナス約30度。極寒の地で、日本兵約10人で肩を抱き合って寝た。翌朝目を覚ますと、目の前の仲間は冷たくなっていた。遺体は山奥の溝に捨てられたと聞いた。 巨木の伐採など重労働に耐え、木の中の虫や、湯飲み半分ほどの雑穀・コーリャンで命をつないだ。抑留は約2年に及び、47年に帰国の途に就いた。
北海道から青森へ移動し、男性が駅で売っていたりんごを奪うと、上等兵から「ここは内地だぞ」と怒鳴られた。「シベリアから帰ったね。体を大切に長生きしろよ」。怒りもせず気遣ってくれた男性の言葉に「俺も日本人だったな」と実感がこみ上げた。「ありがとうございます」。ひざまずき、声を上げて泣いた。
たどり着いた実家では、母がぬるま湯で背中を優しく洗い、父は伸びきった髪を切って「我が家ぞ。ゆっくり寝ろ」と休ませてくれた。おかゆを口に運ぶと、人間らしさを取り戻していく喜びに浸るとともに、死んだ戦友を思い出して深い悲しみに襲われた。
復員当初は露天商として働き、30歳を過ぎて島原市で個人商店を始めた。焼きそばや回転焼きをつくり、腹をすかせた小中学生や高校生がおいしそうに食べる姿に目を細めた。
ただ、戦地の記憶が脳裏から離れることはなかった。「敵兵の親御さんは、『息子はどんな死に方をしたのか』と考えながら亡くなったのではないか」。シベリアで失った仲間を忘れたこともない。自宅や介護施設でご飯を半分にしてほしいと頼んできたのは「この飯さえあれば……」との悔しさがあるからだ。
93歳が初めて語る「B29」本土初空襲…未明の警報に地響き、崩れる壁「何が何だか」
次女の松本文子さん(64)から昨年、体験を詳しく聞かれ、敵兵をあやめたことや抑留地の悲劇を初めて伝えた。戦友から託されたと感じてきた責務を果たし、ご飯を普通の量に戻した。松本さんは「ずっと、つらくて言えなかったのでしょう。わだかまりを吐き出せたのでは」と推し量る。
昨年始まったロシアのウクライナ侵略は終わりが見えず、兵士の撃ち合いを想像しては胸を痛めている。「なぜ、また殺し合うのか。戦争はどっちにもいいことはない。絶対したらいかん。したらいかんとです」。どれだけ長い時を経ても、戦争で負った心の傷が癒えることはない。それを知るからこそ、強く訴える。
恩給受給、平均100歳超す
総務省によると、出征して一定期間軍務に就いたり、負傷したりして国から軍人恩給を受けている元兵士らの平均年齢は2022年3月に100歳を超え、23年3月には100・8歳に達した。戦後29年のピーク時(1974年)に約139万人いた受給者は、同50年(95年)に約81万人、同70年(2015年)に約5万人にまで減少。今年3月には2356人となった。
一方、戦地での過酷な体験は心の傷として残り、家族にすら記憶を語らず鬼籍に入った人も多い。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」(東京)によると、人が変わったように無気力になったり、暴力的になったりするケースが報告されている。
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:2025/06/09(月) 02:37:41
大東亜戦争でさえも、コントロールされた結果である
ミッドウェーでの惨敗で、日本は負けに転じたが、それをやったのは ご存じ山本五十六
日本は、すでに乗っ取られていた
餓死病死ばっかりだったのも見殺しと言うか殺人
行く必要無い南方に行かせて
見殺しにしたのも同じ それでも日本人は、祖国のため家族のために、玉砕した・・・
内地では、天皇陛下に申し訳ないと思わないのか非国民!と
天皇を使い従属を強いた
今でも、本物の天皇(裏天皇)は実在する。
「人類の歴史で
「一度の攻撃で殺された人数最悪記録」はトップ3が全て『日本人虐殺』
1位:広島原爆 14万人
2位:東京大空襲 10万人
3位:長崎原爆 7.4万人
《日本本土空襲》
投下爆弾 16万9800トン
死者 50万人以上
死者最多 0〜9歳(10万5000人)
罹災者100万人以上」
人類で初めて 人種平等を唱えたのは日本人。
大東亜戦争の目的は、日本人大虐殺
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