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大東亜戦争

1NAME:2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

171NAME:2015/06/01(月) 02:20:00
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」 中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ?
2015/05/14
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE6%E5%89%B2%E5%BC%B7%E3%81%8C%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%9F%B7%E6%8B%97%E3%81%AA%E2%80%9D%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%AF%E7%9A%84%E5%A4%96%E3%82%8C%EF%BC%9F/ar-BBjNkGh#page=2

4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。 この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。

 インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。 さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。

 政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。

 安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。 我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。

172NAME:2015/06/02(火) 22:57:24
【サイパン戦跡】
自分探し?イスラムに行くより「戦跡巡りをしなさい」
2015.6.2 14:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150602/lif1506020013-n1.html

現地のチャモロ人と結婚したバルシーナス米子さんが米自治領・北マリアナ諸島のサイパン島で観光コースから外れた戦跡巡りのガイドを始めたのは十数年前のことだった。日本からやってくる慰霊団を見掛けては「案内してあげたい」と思っていたという。 逸話が映画「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」にもなった大場栄大尉とともに終戦を知らず山にひそみ、3カ月半にわたり抵抗を続けた帰還兵が尋ねてきたこともある。

「麓で(米兵が)映画鑑賞会をしている間に缶詰を盗んだ」「懸賞金が掛けられていたから、大場大尉よりも堀内上等兵の方が有名だった」などと当時のことを淡々と振り返っていくそうだ。 米軍上陸時に奮戦した黒木大隊が使用した十五センチ榴弾砲が、山間部の谷地にある民間私有地に残る。満州から転戦した1915年製の兵器が錆だらけながらも形をとどめ、近くには隊員の名前が刻まれた慰霊碑と「黒木大隊玉砕の地」の碑が建つ。普段は柵に鍵が掛けられ、訪れる日本人は皆無という。

テニアン島に近いアギガン岬にトーチカが1つだけポツンと残る。壁は厚く頑丈な造りだ。迎撃戦の指揮を執る南雲忠一海軍大将に自信満々で披露したが、指揮官は「1つだけあってもしょうがない」と冷たくあしらったという。壁には艦砲射撃を受けた跡が大きく残っていた。 サイパン陥落後は米軍のB29爆撃機の基地となったアスリート飛行場に戦車、高射砲、弾薬庫のほかいつくかの防空壕が残る。中に入ってみた。暗くて狭くて息苦しい。時間帯によっては暑さも相当なものだろう。台風襲来の際は今でも避難所として活用しているという。

「子供が泣くと『出てけ』と言われたそうです」。米子さんの声が防空壕で反響する。「サイパンは民間人を巻き込んだ最初の激戦地だった。帰れない軍人以外の日本人は2万人、チャモロ人やカロニアンの現地人も1000人くらい死んだ。迷惑な戦争だ」「自分探しとか言ってイスラムに行く若者がいるけど、サイパンの戦跡を回ってほしい」。米子さんは強く訴えた。(産経デジタル 長浜明宏)

173NAME:2015/06/05(金) 20:46:34
ブルース・ウィリス、旧日本軍の「重慶爆撃」題材の中国映画に出演へ フライング・タイガース教官役
2015.6.5 17:26更新
http://www.sankei.com/world/news/150605/wor1506050031-n1.html

【ロサンゼルス=中村将】日中戦争中の旧日本軍による重慶爆撃を題材にした中国映画「大爆撃」(仮題、蕭鋒監督)に、米ハリウッド俳優、ブルース・ウィリス氏(60)が、主役級で出演する契約を中国側と結んだ。ウィリス氏の広報担当者が産経新聞に明らかにした。中国は、終戦70年の今年を「抗日戦争勝利70年」としており、今年末か、遅くとも来年初めまでの作品公開を目指す。

 映画は、中国の国有大手映画会社「中国電影集団公司」などが共同で制作。ウィリス氏は中国側と先週契約し、今月2日、中国・上海に向かった。現地での撮影は計8日間という。 米芸能誌「バラエティー」によると、制作費は約9千万ドル(約111億6千万円)で、中国映画としては最高レベルという。一方、中国側では制作費を3億5千万元(約70億円)と伝えている。 今回の映画は、旧日本軍の爆撃で被害を受けた重慶市民を中心にストーリーを展開。ウィリス氏は中国空軍を支援した米義勇航空部隊「フライング・タイガース」の飛行教官役。韓国メディアによると、韓国人気俳優、ソン・スンホン氏(39)も戦闘機の搭乗員を演じるという。

重慶爆撃は1938年12月から43年8月にかけて、当時の中国政府が首都機能を移した重慶に対して行われた。中国は爆撃による死者が市民ら少なくとも「1万人以上」だとして日本の戦争責任を追及してきた。映画にもこうした視点が反映される可能性がある。 ウィリス氏は米アクション映画「ダイ・ハード」(1988年)で主役を演じた人気俳優。同シリーズは「ダイ・ハード/ラスト・デイ」(2013年)まで5作が上映されている。「アルマゲドン」(98年)などでも主役を演じた。

174NAME:2015/06/08(月) 22:28:40
【歴史戦】
GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明
元米外交官、ジョン・エマーソンが米上院小委員会で証言した記録 (英国立公文書館所蔵)
2015.6.8 07:40更新
http://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n1.html

占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸)  文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。

 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。

エマーソンは後に「(延安での収穫を元に)日本に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」(大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付けるもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。

 GHQは、終戦直後の昭和20年9月に「プレスコード」(新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで検閲を実施。10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周知徹底する」との一般命令第4号を出した。さらに、12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送させ、戦勝国史観を浸透させた。

自虐史観、今も日本人に影響 軍国主義者と国民「二分法」駆使

 日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」。その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党による日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。

「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙にいとまがない」

 昭和20年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだまされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。それは現在も国民的な「神話」となっている。

175NAME:2015/06/08(月) 22:29:26
 文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WGIPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘した。

 『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソンだった。

英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソンは57年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期GHQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認めている。 エマーソンは戦前の36年から41年までと、終戦直後の45年から46年、さらに62年から66年まで3度日本に駐在した日本専門家。占領初期は政治顧問として対敵諜報部に所属した。エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところによると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重慶に赴任し、中国共産党・八路軍の対日心理作戦の成功に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。

 エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかける心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳した。野坂の日本人民解放連盟は八路軍敵軍工作部と表裏一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。 中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだった。

中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批判させて共産主義者に強制的思想改造したのは50年に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれたが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型といえる思想改造が行われた。

 エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」となった。 GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本人に自虐史観を植え付けたといえる。 (敬称略)

 二分法 「共通の敵を打倒するため連帯できる諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑制するための根拠として使われた。教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。(敬称略)

■反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論家・加瀬英明氏

 「GHQは日本民族から独立心を奪い、精神を破壊して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするためにWGIPを仕掛けた。軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東時代からの中国共産党の教化政策。米国は朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように利用したのだろう。その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。壮大な『歴史戦』といえる」

【用語解説】「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」 GHQが占領政策として戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため行った宣伝計画。日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米国の正当化を図った。新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあうよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メディアや官界、大学などで活躍した。

176NAME:2015/06/15(月) 23:10:52
【歴史戦】
GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明
2015.6.8 07:40更新
http://www.sankei.com/life/news/150608/lif1506080009-n1.html

占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸)

 文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。

 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。

177NAME:2015/06/15(月) 23:36:02
中国で意外に多い「ゼロ戦」称賛・・・「最も美しい戦闘機」「米軍の胆を冷やした」など
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A7%E6%84%8F%E5%A4%96%E3%81%AB%E5%A4%9A%E3%81%84%E3%80%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E6%88%A6%E3%80%8D%E7%A7%B0%E8%B3%9B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%80%8C%E6%9C%80%E3%82%82%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E3%81%AE%E8%83%86%E3%82%92%E5%86%B7%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9/ar-BBjfSQ7#page=2

中国ではかつての戦争の影響があり、「日本の古い伝統」に対して批判的な見方が目立つ場合がある。例えば武士道だ。実際には「主君への忠誠」、「親孝行」、「弱者を助ける」、「名誉を重んじる」との儒教の影響がみられる倫理観が強いにもかかわらず、「人殺しの原理」程度に認識する人が多い。 ところが、「零式艦上戦闘機(零戦、ゼロ戦)」の語で中国版ツイッター(微博、ウェイボー)で検索してみたところ、批判的な投稿はあまり見当たらない。逆に、「最も美しい戦闘機」「米軍の胆を冷やした」などの評価が目立つ。

 まずは、模型ファンがいる。「零式艦上戦闘機二一型を20機買ったよ」と収集に励んでいるとの自己紹介がある。さらに「初めて金属製の模型を作っていたけど、うまくいかないなあ。(中略)これじゃ何型か分からないよ。ピトー管は左翼につけるのだったかなあ?」と、マニアぶりを披露した人もいる。 零式艦上戦闘機を称讃する声としては「長距離飛行、強い戦闘力。米国と決死の戦い。1940-43年の損害率は零戦1で米軍機が6。米軍は胆を冷やした」、「この機(零戦)に乗る者は英雄中の英雄だった」などがある。

 零戦初の空戦について「1940年9月12日に壁山空戦が発生した。中国空軍の(ソ連製の)I-16とI-15が日本軍新鋭の零式艦上機に惨敗した。撃墜されたのは13機、損害を受けたのは11機だった」と紹介した書き込みもある(日本側記録では27機撃墜など。零戦は13機全機が帰還)。 零戦開発の責任者だった堀越二郎氏を紹介したり、生産した三菱重工業を「本当にすごい」と称賛する声もある。また、宮崎駿監督の「風立ちぬ」にも触れ、「(中国)国内では上映できない。われわれにとって一大損失としか言えない」と評した人もいる。

 中国で「日本の兵器」を称讃した場合、批判のコメントが殺到しそうだが見当たらない。一方で賛同のコメントも少なく、「ゼロ戦ファン」が、自分の思いをそれぞれ書き込んでいる状態だ。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C) Christopher Fell /123RF.COM、米国で保存され、ワシントン州で飛行する零戦。2013年6月撮影)

178NAME:2015/06/16(火) 20:57:02
日本は侵略国家か
http://ironna.jp/theme/238

連合艦隊はなぜロシアに勝てたのか
http://ironna.jp/theme/274

179NAME:2015/06/22(月) 04:32:51
【戦後70年】
謝罪マニアに告ぐ 「敗戦国」から脱却せよ 阿比留瑠比
2015.6.21 15:08更新
http://www.sankei.com/premium/news/150621/prm1506210022-n1.html
(1/8ページ)

「もはや戦後ではない」 経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述したのは昭和31年、今から60年近く前の話である。当時の鳩山一郎首相の孫で、ルーピー(クルクルパー)と呼ばれた鳩山由紀夫元首相が政界を引退してからも、すでに随分たつ気がする。 昭和60年の施政方針演説で中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、はや30年が経過した。あの時代を象徴したこの言葉も、もうあまり思い出されることもなくなった。

 それなのに、日本はいまだに「戦後」という堅牢な枠に閉じ込められたままだ。今年はメディアや国会で「戦後70年」が強調されており、戦勝国はお祭り気分ではしゃいでいるが、筆者はこの言葉を使うこと自体に抵抗を覚える。 なぜなら70年と言えば、人が生まれて学校へ通い、社会に出て年金受給者となる時間をさらに上回る長い歳月なのである。にもかかわらず「戦後」はいつまでたっても終わらず、日本はいつまでたっても内外で敗戦国、敵国の扱いに甘んじている。

 なんと非生産的で退嬰的な現状だろうか。もちろん、中国や韓国のように、建国の経緯から日本を執拗に悪者にし続けなければ正統性が保てない国もあるが、どうしてそんな相手国の勝手な事情にこっちが付き合わなくてはならないのか。 やはり、安倍晋三首相が第1次政権時代に掲げた「戦後レジームからの脱却」が必要である。これからの日本を背負う世代は、偽善と自己愛に満ちた内向きの反省と自虐の中に閉じ籠もることはやめ、国際社会で自国に自信と誇りを抱き、堂々と前を向いてほしい。

180NAME:2015/06/25(木) 20:57:35
日本サポーターの「旭日旗」没収・・・サッカー女子W杯、韓国人観戦客が発見して運営者に通報=韓国報道
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97%E3%80%8D%E6%B2%A1%E5%8F%8E%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%A5%B3%E5%AD%90%EF%BD%97%E6%9D%AF%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%A6%B3%E6%88%A6%E5%AE%A2%E3%81%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%81%A6%E9%81%8B%E5%96%B6%E8%80%85%E3%81%AB%E9%80%9A%E5%A0%B1%EF%BC%9D%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%A0%B1%E9%81%93/ar-BBl0IF6#page=2

8日にカナダ・バンクーバーで行われたサッカーの女子ワールドカップ(W杯)カナダ大会の日本女子代表(なでしこジャパン)とスイス代表との戦いで、日本のサポーターが「旭日旗」をスタジアムに持ち込んでいたと、複数の韓国メディアが報じた。 報道によると、旭日旗を見つけたのはカナダ在住の韓国人A氏。親戚と試合を観戦するためにスタジアムを訪れたところ、日本のサポーターが旭日旗を振りながら応援していたという。

 旭日旗を目の当たりにしたA氏は激怒し、すぐさま試合の運営スタッフに「旭日旗は帝国主義の日本が使っていた戦犯旗」と抗議した。報道によれば、この抗議を受けてFIFAの関係者が、旭日旗を没収したとのこと。 A氏は「日本チームの試合でいつも目にしていた戦犯旗がスタジアムから消えてとても嬉しかった。試合は日本が勝利したから悔しかったけど」と残念そうに話したという。

 韓国メディアは記事で、FIFAの規定には政治的活動が禁止されていることを説明した上で、「旭日旗やそれをイメージしたユニフォーム、応援道具がスタジアムに持ち込まれるケースは頻発している。ハーケンクロイツと同じで帝国主義と侵略の象徴物であるにも関わらず、FIFAの対処は寛大だ」とFIFAの対応を批判した。

 また、韓国サッカーファンは、旭日旗について抗議しなかったカナダのサッカーファンにも苛立ちを示している。カナダは太平洋戦争で日本と戦ったのに、なぜ怒らないのか、ということのようだ。 報道によると、韓国のSNSには「カナダの参戦した勇士たちに恥ずかしくないのか」、「欧米人は旭日旗を拒否するどころか好むこともある」、「韓国もスポーツ外交力をつけなければ」などの意見が書き込まれているという。(編集担当:新川悠)

181NAME:2015/06/27(土) 21:56:43
中国外相、「侵略受けた国と和解を」 戦後70年談話の安倍首相をけん制
2015.6.27 17:04更新
http://www.sankei.com/world/news/150627/wor1506270044-n1.html

中国の王毅外相は27日、北京で開かれている「世界平和フォーラム」で講演し「日本の指導者は歴史(認識問題)の被告席に立ち続けるのか、侵略を受けた国と和解するのか、これは日本が解決しなければならない重大な問題だ」と述べ、夏に戦後70年談話を出す安倍晋三首相を強くけん制した。 今年は「反ファシストと抗日戦争勝利70年」であり、「中国を含め世界各国は侵略を美化するいかなる言行にも反対だ」とも語った。(共同)

182NAME:2015/07/07(火) 22:19:54
アメリカ人の6割強が「日本は戦争謝罪の必要ない」 中国、韓国の“執拗な”要求は的外れ?
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE6%E5%89%B2%E5%BC%B7%E3%81%8C%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%81%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E2%80%9C%E5%9F%B7%E6%8B%97%E3%81%AA%E2%80%9D%E8%A6%81%E6%B1%82%E3%81%AF%E7%9A%84%E5%A4%96%E3%82%8C%EF%BC%9F/ar-BBjNkGh#page=2

4月29日、安倍晋三首相が日本の首相として初めて、アメリカの上下両院合同会議で演説を行った。アメリカの議員の琴線に触れるキーワードを散りばめた演説は、党の区別なく絶賛された。 この演説は、日本のメディアでも大きなニュースとなったが、歴史的な出来事にもかかわらず、国民の関心度は低いように感じられた。それは、「政治的無関心」の空気が、日本全体を覆っているからではないだろうか。

 インターネット調査会社のマクロミルが定点観測している「MACROMILL WEEKLY INDEX」のデータから、「政治関心度」を見てみよう。昨年11月第3週時点の65.9ポイントを頂点に減少傾向にあり、安倍首相の演説直前(4月第4週)では、56.4ポイントと9.5ポイント減少していた。 さらに、同データの「政治テーマ」(関心のある国の政策テーマ)を見てみると、「外交・安全保障政策」は今年2月第1週の35.9ポイントから減少傾向にあり、4月第4週で24.1ポイントと、実に11.8ポイントも下げていた。

 政治的無関心が顕著に表れたのは、2014年12月に行われた衆議院議員総選挙だ。小選挙区の投票率は52.66%と、戦後最低を記録した。4月に行われた統一地方選挙の投票率も、前半戦は38の道府県で過去最低を記録、後半戦も市長選、市議選、町村長選などで過去最低が相次いだ。 安倍政権が長期政権となる可能性が高まった一方、国民の政治的関心はさらに低くなっていきそうだ。安定的な政権が誕生したから関心が低くなったのか、関心が低くなったから安定的な政権が誕生したのか。「卵が先か鶏が先か」のような話になるが、いずれにしても、政治的関心の低下は権力チェックの緩みにつながり、政治的暴走を許しかねない。 我々国民は、安定的な政権の時こそ、政治的関心を高めるように努力しなければならないのだ。

さて、ここでもう一つ興味深い統計データを見てみよう。アメリカのピューリサーチセンターが4月7日に発表した、アメリカ人の日本に対する印象の調査である。「第二次世界大戦中の行いについて、日本は十分な謝罪をしたか」という質問について、「日本はすでに十分な謝罪をした」が37%、「謝罪は必要ではない」は24%で、合計61%のアメリカ人が、日本について「十分な謝罪をした、あるいは謝罪は必要でない」と答えているのだ。

 普段、我々は中国や韓国が「日本は謝罪していない」と主張するニュースに触れることが多いため、アメリカ人も同様の考えをしていると思いがちだ。しかし、実際はそうではないのである。安倍首相の歴史的演説によって、この数字がどのように変化するか、注目だ。 いずれにせよ、今回の安倍首相の訪米によって日米関係の潮目は変わった。今後の政治の動きに、私たちはこれまで以上に関心を持つべきである。
(文=鈴木領一/ビジネス・プロデューサー)

183NAME:2015/07/08(水) 04:07:10
なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか?桶狭間の合戦の謎
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%8B4%E5%8D%83%E3%81%AE%E5%85%B5%E3%81%A7%E3%80%813%E4%B8%87%E3%81%AE%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83%E3%82%92%E7%A0%B4%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%AE%E8%AC%8E/ar-AAcDm1P#page=2

だが結果は、信長の圧倒的な勝利である。そこで考えられたのは、劣勢の信長が勝ったのは、敵の不意を衝くために「迂回」して「奇襲」したのだ、と。信長は兵を、今川軍の前線を秘匿させながら大きく迂回して、いきなり今川義元の本陣を奇襲した――。 この説を公然と唱え始めたのが、明治期の陸軍参謀本部である。劣勢をひっくり返すには、敵から身を隠し密かに行軍して、今川義元の本陣を衝く。これ以外には考えられない、と明治の軍人たちは真剣に考えたのである。 この考え方は軍人たちに定着していき、やがて大国アメリカの軍事力を叩くには奇襲しかない、として立案され実行したのが真珠湾攻撃である。この奇襲は、結果としてアメリカ国民の戦意を高揚させ、日本がズルズルと敗退する原因になった。

●勝機は、その一点集中

 では、桶狭間の合戦は、本当はどうであったのか。それは信長の側近で右筆(ゆうひつ/秘書)の太田牛一(ぎゅういち)が書いた『信長(しんちょう)公記』に記述されている。 義元の出陣を知った信長は、清洲城を飛び出すと一直線で熱田神宮から自軍の砦(とりで)となる丹下砦、善照寺砦を経て中嶋砦に到達した。今川軍は信長方の砦を攻めるために、各地に分散している。もちろん前方にも軍勢が展開しているため、信長が兵を前進させようとすると、重臣たちはその無謀をたしなめた。

 そのとき密偵の梁田政綱から、義元が桶狭間山の後方の窪地で休息中という報告がもたらされた。中嶋砦からわずか2キロメートルの場所である。信長はすかさず手勢の2000をまとめると、海抜65メートルの桶狭間山を目指すよう指示した。そこに達するには今川軍の前線を突破しなければならない。しかも、そこは湿地で足場が悪いので「死地(しち)」をいわれている場所である。そのため重臣たちは、いたずらに死ぬだけだと必死になって押しとどめようとした。

 だが信長は「死地だからこそ、敵は油断している。真っ直ぐに一気に桶狭間山に登れば、勝機がある」といって聞かない。わずか2キロメートル先に敵の大将がいる。小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中しかない。これは小兵力が勝つ軍事学の要点である。さらに信長は、将兵を鼓舞する。 「わが眼前の敵は、朝からの砦攻めで疲れきっている。わが方は少数ながら十分な力がある。小軍なりとも決して大軍を恐れるな。運は天にあり。この戦(いくさ)に勝てば武士の面目が立ち、末代までの名誉となるぞ。ただただ励め」

 これに加えて、敵への攻め方も指示する。 「敵が仕掛けてきたら、ただちに引き、敵が引き上げたら押し返せ。もみ合いの中から敵のスキを衝いて、一気に追い崩せ。首は切り取らずに、捨て置きにせよ」 敵の首を取ることは、論功行賞の査定となる。だが、それをしていては時間の無駄となる。前田利家などは、信長の命令に反して首を持ち帰ってきて手柄とした。すると信長は、「この戦いの手柄は首の数とは関係しない」と言い含めて、前線に送り返している。信長は常々、「備えず構えず、機をはかって応変する。この間合いこそ肝要(かんよう)なり」と固定された戦法ではなく、臨機応変こそが勝機につながると考えていた。この点にも信長の卓越した発想と行動がある。

184NAME:2015/07/08(水) 04:08:33
●戦は約2時間で終了

 信長軍は、「死地」で今川軍ともみ合いながら、桶狭間山の山麓に取りついた。中嶋砦から直線で1時間ほどである。このとき信長に幸運が訪れる。突然、豪雨が降りしきり、信長軍の行動を隠したのである。信長軍が山頂に達したとき、豪雨は追尾する今川軍に降りそそいでいた。その後背にいた義元本陣のあたり一帯は、すでに青空がのぞいている。信長は山頂に兵をまとめると、「熱田大明神(だいみょうじん)の助けぞ。すわ、かかれ!」と大音声をあげるやいなや、義元本陣めがけて突進した。

 一方、義元本陣では、昼の酒宴が豪雨のために中断されていた。やがて雷雨がやみ、空が晴れてきた。そのとき背後の桶狭間山から一団が本陣めがけて駆け下りてくる。その先頭は信長軍に追われる今川軍の先鋒であったが、彼らは「敵襲!」と叫ぶ間もなく、本陣になだれ込む。それを追いかける信長軍が突入。今川軍はあわてふためいて、崩れだした。

 武器はおろか、義元が乗る塗輿(ぬりごし)まで放り出して逃げ散る。旗本三百騎といわれる親衛隊が円陣をつくって義元を囲むが、それがかえって義元の位置を知らせることになった。浮足だつ今川方は、みるみる切り崩され、義元のまわりは、ついに50騎ばかり。スキをついた信長方の毛利新助が、義元を組み伏せて、首を打ち落とした。

「大将の首、討ち取ったり!」 新助の勝ち名乗りに今川方の闘志はたちまち潰(つい)えて、クモの子を散らすように、われ先にと逃げ出したのである。 この桶狭間での合戦は、およそ2時間で終わった。今川方で討ち取られた首は、およそ2000であった。信長は兵力を敵の大将に一点に集中させることで「小が大に勝つ」という、まさに戦術の要諦を実行したのである。 (文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)

185NAME:2015/07/19(日) 03:27:09
西村 幸吉さん 証言
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100510_00000

187NAME:2015/07/26(日) 07:08:58
特攻とナチスの虐殺は違う 鹿児島南九州市・知覧、「アウシュビッツ」との連携見直しへ 遺族らから反対意見相次ぐ
http://www.sankei.com/politics/news/150725/plt1507250002-n1.html
2015.7.25 08:00更新

さきの大戦末期、旧日本陸軍の特攻基地「知覧飛行場」があった鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランド南部の都市と進めていた友好交流協定について、締結見直しを検討していることが24日、分かった。特攻隊員の遺族らから「ナチスによるユダヤ人差別・虐殺の象徴と、特攻基地を同一視すべきではない」などとする反対意見が相次いでいるためで、市は仕切り直しを余儀なくされそうだ。(南九州支局 谷田智恒)

 南九州市によると、ポーランドの都市は、オシフィエンチム市。アルベルト・バルトッシュ市長から今年5月、「世界平和の発信に向けたパートナーシップを前向きに考えたい」とする親書が届いた。 これを受け、今月8〜12日、南九州市の霜出(しもいで)勘平市長ら4人がオシフィエンチム市を訪問し、友好交流協定を結ぶことを確認したという。南九州市は、国連が定めた「国際平和デー」の9月21日にバルトッシュ市長らを招いて、協定締結式を開くことを決めた。

 この両市の連携を今月15日以降、地元紙などが報じたところ「祖国・家族を守るために命をなげうった特攻隊の基地と、ユダヤ人虐殺の象徴であるアウシュビッツが同質のものとして受け止められかねない」などと懸念する意見が、市に寄せられるようになった。これまで100件を超す抗議の電話やメールなどがあったという。

自民党鹿児島県連にも、特攻隊員の遺族から「命をかけて祖国を守ることを仲間と約束した若者の崇高な思いを、軽率な行いで汚されたくない」などとする投書が届いた。党県連関係者は「地方自治体の取り組みに干渉はしないが、アウシュビッツと異なり、知覧は決して『忌まわしい過去』ではない。違和感を覚えられる遺族の心情は理解でき、国際的に知覧が『日本のアウシュビッツ』と誤解されないか心配だ」と語った。

 数多くの特攻隊員の世話をし、「特攻の母」と呼ばれた故・鳥浜トメさんの孫、明久氏は「戦争の“狂気”といえば共通する面もあるが、アウシュビッツと全く違う。知覧は知覧で良いと思う」と話した。 反対意見が相次ぐ状況を踏まえ、南九州市は庁内で会議を開くなど、計画見直しも含め検討を始めた。

 霜出勘平・南九州市長の話「アウシュビッツ博物館で、知覧特攻平和会館が所有する特攻隊関連の資料展示ができれば、世界中の人に特攻のことを理解してもらえると思って友好交流提携を考えた。あくまで世界平和発信のため、良かれと思って計画したが、色々なご意見があることもわかった。こうした取り組みは多くの賛同を得て進めるべきであり、争いが起こったら意味がない。熟慮を重ね、決断したい」

188NAME:2015/07/26(日) 08:05:11
【歴史事件簿】
ミッドウェー海戦(4) わずか数分で「蒼龍」「赤城」など3空母が被弾・炎上…予想外の展開に動揺広がる連合艦隊
2015.7.24 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/150724/wst1507240007-n1.html

昭和17年6月、ミッドウェー作戦を展開中の南雲機動部隊は索敵機からの「敵空母発見」の知らせに焦りを隠せない。島への第二次空襲のため魚雷装着の攻撃機を陸用爆弾に転換中の突然の出現だった。しかも敵の攻撃機がこちらに向け発艦している最中だという。第一次攻撃隊を収容しながら再び爆弾から対艦用の魚雷へ転換する機動部隊に残された時間は少ない。「赤城」以下4隻の空母は必死の作業を続けたが、そこに…。

ここは「正攻法」で

 「敵空母発見」の知らせは、南雲機動部隊の後方にいた主力部隊の「大和」も受信していたが、「作戦どおり」と比較的冷静に受け止められていた。あらかじめ敵機動部隊用に魚雷を装着した攻撃機を準備していたのだから、むしろ好機とみていた。 ところが、ミッドウェー島を空襲した第一次攻撃隊の要請で第二次攻撃隊の準備を進めていた南雲機動部隊の4隻の空母では必死の作業が続いていた。

 敵空母の発見直後、機動部隊を指揮する南雲忠一中将は、「飛龍」「蒼龍(そうりゅう)」の2隻の空母からなる第二航空戦隊司令の山口多聞少将から、「陸用爆撃を装着したままで、ただちに発進すべし」などとする意見を受ける。 山口少将からすれば、艦載機を満載したままで敵の攻撃を受けることは火薬庫に火を付けるようなものなので、とにかく艦載機を手放したいのと同時に、敵空母の甲板に穴を開けるだけならという思惑があったようだ。

だが南雲中将は、爆弾を装着したままで発進するにしても、ちょうど帰ってきた第一次攻撃隊を先に着艦させなければ、燃料切れで100機近くの飛行機が墜落する危険性もはらんでいたため、まずは収容という頭があった。 しかも爆弾では効果が薄いだろうし、攻撃機を護衛する戦闘機も少ない。このため第一次攻撃隊の収容と並行して爆弾を魚雷に転換する作業を進め、完了したのち敵に向かう-というごくごく当たり前の命令を発したのだった。 その判断の裏には、索敵機が報告する島の北450キロにいるとされる敵との距離から「まだ時間はある」という判断とともに、何度も島から護衛戦闘機もなく攻めてきたアメリカ攻撃機が次々と零戦に撃ち落とされているのを目の当たりにしたこともあった。

急降下で攻めてくるアメリカ機

 とはいえ、アメリカが島から実施した南雲機動部隊への攻撃もやみくもに行ったわけではなく、味方の機動部隊へ南雲機動部隊の正確な所在地を絶えず知らせることにつながった。 しかも、兵装転換に必死の南雲機動部隊の作業をしばし滞らせることに成功したほか、偶然だろうが、第一次攻撃隊の帰還と重なったため、アメリカ機と見間違えて味方機を撃ち落としそうになるなどの混乱も誘発させている。 4日午前8時半過ぎ、南雲機動部隊の各空母の甲板では第一次攻撃隊の収容を開始する。同時に艦内では爆弾から魚雷への兵装転換を行っていた。

通常の兵装転換だと、飛行隊の基礎となる2個中隊にあたる18機をこなすのに2時間前後かかるとされるなど、手間ひまのかかる作業だけに、パイロットも入っての総動員態勢で行われた。 そして1時間ほどで収容を終えてアメリカ機動部隊に向けて北に進路を向けたところで、真上からアメリカ機14機が襲ってきた。アメリカ空母「ホーネット」から発艦したデバステイター(TBD)雷撃機だった。 南雲中将らも、機種からしてミッドウェー島からではなく、味方の索敵機から報告を受けていた空母からの攻撃機だとわかった。

 すぐに対空砲で応戦するとともに上空で護衛していた零戦18機と、「赤城」と「加賀」から発艦した計8機の零戦で迎撃して全機撃墜する。しかし予想よりも早く来たことに、何とも言えない不安感に襲われた南雲中将らだった。 実は、「利根」の索敵機が報告してきた距離は誤りがあり、敵の機動部隊は報告してきたミッドウェー島の北約450メートルよりもはるかに近い約260キロの地点にいたのだった。 最初の攻撃が収まった直後、さらに追い打ちをかけるようにヨークタウンの攻撃機が「飛龍」をめがけ突っ込んでくると、「エンタープライズ」の艦爆隊30機と「ヨークタウン」艦爆隊17機も続けざまに襲ってきた。

189NAME:2015/07/26(日) 08:06:49
黒煙を上げ逃げ惑う南雲機動部隊

 午前10時半前のことだった。やや「飛龍」が突出したかたちで前方を進む南雲機動部隊。ようやく発艦準備も整い、攻撃隊が出撃しようとしたそのとき、次から次に襲ってきたアメリカ機だった。 あまりの急な攻撃だっただけに、対空砲も間に合わずに、「加賀」の甲板に爆弾が命中して、大きな爆発音とともに炎と黒煙が上がった。「蒼龍」も被弾すると、数機の航空機が飛び跳ねて海中に落ちるほどの大爆発が起きた。

 「赤城」への攻撃は護衛の戦闘機が着艦して燃料と弾薬を補給し、発艦しようとした瞬間だった。2発の爆弾が続けて命中。第2次攻撃用の爆弾と魚雷を装備した飛行機で満載状態だったため誘爆を起こし、艦型が分からないほどの黒煙に包まれた。 わずか数分の出来事だった。敵の機動部隊に攻撃を加えることもなく黒煙をあげる3空母。 後方にいた「大和」内の連合艦隊司令長官、山本五十六大将のもとに、機動部隊次席司令官の阿部弘毅少将から「3空母が被弾して炎上」の連絡が入ったのは午前10時50分のこと。

 誰もが負ける戦いではないと思っていただけに、予想外の展開に驚きの声のあとは、言葉を失った山本大将ら大和艦内の連合艦隊幕僚連中だった。 だが、3空母から50キロほど離れて雲の下にいた「飛龍」は敵の攻撃を免れ、無傷だった。 「飛龍で敵空母を攻撃しようと兵力を結集している最中」とする阿部少将の知らせを聞いたときは、絶望のふちにいた山本大将もわずかながら救われた思いをしたのかもしれない。 そして午前11時、山口少将が「われ、航空戦の指揮を執る」と宣言し、小林道雄大尉指揮の第一次攻撃隊24機がアメリカ機動部隊に向け発艦していった。

国策映画の名作「カサブランカ」 アメリカも第二次大戦参戦と同時に映画業界も協力をせざるを得ない状況になる。これまでの巨大市場だった日本やドイツが参戦と同時に敵国となり、利益が見込めなくなったためだった。 そんな中で生まれた映画が、「カサブランカ」だった。フランスがドイツに占領される中、親ドイツ政権が支配するフランス領モロッコを舞台に、かつての恋人を亡命させようとするアメリカ人男性を描いたラブストーリー。

 ミッドウェー海戦直後の1942(昭和17)年11月の公開以来、70年以上もたった今も名作の名をほしいままにしている。 日本でも昭和15年に公開された「支那の夜」が中国大陸を舞台にした日本人男性と中国人女性のラブストーリーで、こちらは世界的に受け入れやすい恋愛モノで日中戦争を正当化した国策映画という見方が一般的に強い。

190NAME:2015/07/29(水) 15:48:15
【特攻 戦後70年】
第2部(1)「今までは国にあげた子やった」気丈な母の思い、32年間封印
2015.7.29 13:30更新
http://www.sankei.com/premium/news/150729/prm1507290008-n1.html

昭和52年5月28日。自宅で長男の三十三回忌法要を終え、墓前で線香をあげようとした瞬間、75歳の母親は長男の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れた。 そんな母親の姿はそれまで家族全員、誰も見たことがなかった。三男が駆け寄り肩を貸しながらどうしたのかと聞くと、「今まで日本の国にあげた子供やったんや。天皇陛下にあげた子供やったんや。でも、今日の三十三回忌でやっとわしの子供になったんや」。母親はそうつぶやくと、大声を出して墓石にしがみついた。

 中西時代(ときよ)さん(享年83)。長男の伸一少尉(戦死後大尉)は20年5月28日、陸軍特攻隊第54振武隊の隊員として鹿児島県・知覧飛行場を出撃、沖縄近海で散華した。22歳だった。 中西少尉は和歌山県日高郡和田村(現在の美浜町)出身で6人きょうだいの長男だった。小学校の校長をしていた父親、介造(すけぞう)さん(享年86)の後を継いで教員になろうと和歌山県師範学校へ。18年春、卒業と同時に地元の和田国民学校の教壇に立ち、同年10月に教員資格を取得し正式に教員となったが、1カ月足らずで退職、陸軍特別操縦見習士官に志願した。 当時12歳だった三男の小松雅也さん(84)はある夜、兄と父親が声を潜めて相談していたのを今でも鮮明に覚えている。

「兄が父親に『戦争が激しくなってきた。教師をしているときじゃない。飛行兵にならにゃあ』と迫っていたのです。父親は黙ってうなずいていました」 小松さんは「当時は国のために忠義を尽くせと教えられていたから、兄が飛行兵を志願したのは当然だった」と少尉の気持ちを代弁し、「父親も母親も喜んでいたと思う」と続けた。 陸軍に進んだ少尉は三重県・明野陸軍飛行学校や福岡県・大刀洗航空隊を経て知覧飛行場に配属される。

 少尉は出撃するまでに2回、実家に帰っている。 1回目は19年暮れ。家族がそろうといきなり「特攻隊を志願した」と告白した。介造さんが「そうか」とうなずくと、時代さんが「伸一、お国のためにしっかり手柄立てるんやで」と手を握った。涙はなかった。 小松さんは時代さんの毅然(きぜん)とした態度を鮮明に覚えている。「特攻隊は必ず死ぬのは分かっていたが、それより、息子に国のために役立ってもらいたいという思いの方が強かったのだと思う。兄貴の特攻志願は中西家にとって誇りだった」

年が変わり20年になると、新聞は連日、特攻隊の出撃を報じた。 「伸一もそろそろ突入する時分やろな」 「そうやな。もう突入しているかもな」 家族全員が死を確信していた4月25日夜、少尉が突然、帰ってきた。聞くと、飛行機が故障したため、新しい飛行機を受け取りに明野飛行場に来たので立ち寄ったという。 その夜、両親と少尉は夜が更けるまで話し込んでいたが、特攻の話は出なかった。翌日、小松さんは両親ら3人と御坊駅で兄を見送る。少尉が汽車に乗ろうとすると、時代さんが身を乗り出し大きく手を振って「伸一、手柄立ててようっ」と何度も叫んだ。

 その9日後の5月4日昼ごろ、少尉の操縦する飛燕が自宅上空に現れた。明野飛行場から知覧に戻る途中だった。小松さんは屋根の上から日の丸を振り、時代さんは庭で大きく手を振った。少尉は自宅上空を4、5回旋回した後、西の方向に飛び去った。 6月中旬、中西家に2人の軍人が訪ねてきた。特攻機を護衛した直掩機(ちょくえんき)の搭乗員で、少尉が5月28日早朝、沖縄周辺海域で敵艦に突入して戦死したことを告げた。2人の報告に時代さんが即座に「ありがたい。手柄を立ててくれたの、伸一。ようやった」と小躍りした。

191NAME:2015/07/29(水) 15:51:16
特攻隊を志願したときも、最後の別れをしたときも涙を見せず、特攻隊員として突入した報を聞いたときは小躍りさえした時代さん。32年間、母親の思いを封印し続けた時代さんは、三十三回忌法要で流した初めての涙で、ようやく戦争の呪縛から解き放たれた。

少尉の思い永遠に引き継ぐ

 昭和30年夏、中西家に1通の手紙が届いた。差出人は関東地方に住む27歳の女性だった。手紙には「伸一さんのお墓参りをさせてほしい」とあった。両親は一緒に墓参りをしたが、女性は墓参りの理由を一切、明かさなかった。 数年後、母親の時代さんが墓参りをした際、この女性が墓前で手を合わせて何かを話しかけていた。1時間近くたち、腰を上げた女性に近づくと、「今日は伸一さんと2人で話をしたいことがあったのです」と言ったものの、それ以上は口をつぐんだ。女性はその後、平成20年代初めまで6回ほど墓参りをしたという。 女性が「実は一緒になりたかった」と明かしたのは何年もたってからだった。昭和20年、中西伸一少尉は22歳、女性は16歳。書店で出会い、話をするようになった。当時は単なる憧れだったが、時間がたつにつれて、憧れ以上の気持ちに気づいたという。忘れられない人だから墓参りを続けていると言った。

平成8年5月3日、知覧で開かれた慰霊祭の際、少尉の弟の小松雅也さんらはこの女性を誘い、少尉の遺品を特攻平和会館に納めることにした。合流した女性は「軍服を一晩貸してください」。翌朝、女性は目を真っ赤に腫らしたまま、小松さんらの前に現れた。小松さんは「一晩中、兄貴だと思って、軍服を抱いて寝たんでしょう。切ないです」と振り返った。

 女性は特攻に関する証言集に自分の思いを投稿していた。

 「『どこへ行くの?』私の問いに彼は、『そこだよ』と目で、広げてあった新聞をさした。新聞の一面には、沖縄の決戦の文字が躍っていた…略…『捕虜になってもいい、生きていて』。思ってもいなかった言葉が突然飛び出て、私は一瞬呆然(ぼうぜん)とした…略…後悔しながらも、それが自分の本当の心である事を自覚していた」 「駅までの短い道を、彼は負け戦の無念さ、国家の大事に殉ずる国民の使命感を諄々(じゅんじゅん)と説くのであった。そして、『俺だって、生きていたいよ』と、つぶやく様に言って言葉を終えた。この最後の言葉は今も私の胸の中に、熱い生への執着を絶ち切って死地へ向かった一人の青年の、凝縮された哀(かな)しみとして重く残っている」

192NAME:2015/07/29(水) 15:53:24
女性は証言集の中で少尉から届いた手紙も紹介している。手紙には「もう手紙を書かないで下さい。あなたがいくら書いても、もう私の手には届きません。近日中に出撃します。いつか貴女と一緒に故郷の和歌山へ行こうと思っていました。それが実現出来なくて残念です。さようなら」とあった。 最後に女性は知覧の特攻平和会館に飾られた遺影を前に「お久しぶりねえ」「いつまでも若いのね」と無言で問いかけたと記している。女性の戦後は終わっていないのだ。

 少尉が上空から故郷に最後の別れをした際、一度は教鞭(きょうべん)をとった和田国民学校の上空も舞っている。教え子たちは運動場で手を振り別れを告げた。 当時6年生だった女性がその時の気持ちを、慰霊祭で読んだ弔辞に込めている。 「私たちは夢中に手を挙げて先生先生と声をかぎりに叫んだ。先生も機上からお前たちもしっかりやれよとおっしゃって下さって居る事だろう…略…先生はきっと敵艦上で花々しく戦死された事であらう…略…先生の御たまは永久に私達の心を去りません」

女性は最後にこう結んでいる。 「あの特攻精神こそ、現在の我が国になくてはならぬ正しい正儀(原文ママ)の道です。今日の慰れい祭に當(あた)り、中西先生の生前をしのび恩をあらたにし、お教を固く守って新日本建設にまい進いたします。私達の目の前に見せていただいたあの精神は、言はづともよくわかります。きっと私達も先生の御意志にそいます」と。

「今の平和は兄たちがいたから」

 「知覧の三角兵舎を初めて訪ねたとき、出撃前夜の兄貴の気持ちはどうだったんだろう、母親や故郷を思い出したんだろうと思うと、涙が止まらなくなった」 戦時中は特攻出撃する兄を当然のように応援していた小松さんも、戦後70年がたった今はこう感じる。 「兄たちのおかげで戦後70年間、平和の中で暮らしてきた。これほどありがたいものはない。わしらは恐ろしい戦争体験をしたから、戦争と平和を比較できる。わしらが体験したところへ二度と戻らせたくない。そのためにも、今の平和は兄たちがいたからだと伝えていかないといけない」 中西少尉はほかの特攻隊員がそうであったように、護国の使命感だけでなく、両親、兄弟、恋人、教え子ら自分と関わりのある全ての人の思いを背負って出撃、突入したのであろう。少尉の思いは女性の弔辞にあるように、永遠に引き継がれていかなければならない。

 「特攻」第2部は、特攻隊員を送り出した親族らの思い、復員した元特攻隊員らの戦後70年を伝える。(編集委員 宮本雅史)

193NAME:2015/08/02(日) 04:54:04
日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。
【話の肖像画プレミアム】
ヘンリー・S・ストークス(77)=元NYT東京支局長=「反日プロパガンダに惑わされず、誇りある国になってほしい」 
2015.8.1 08:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150801/prm1508010018-n1.html

日本は白人支配からアジアを解放した

 〈半世紀にわたり日本に滞在、日本外国特派員協会で最古参だ。著書「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社)は、「在日外国人記者がはじめて書いた正しい近・現代日本史」(評論家の宮崎正弘さん)などと話題を集め、出版依頼が相次いでいる〉

 多くの読者の皆さまに感謝します。「東京裁判は勝者の復讐(ふくしゅう)劇にすぎない」「いわゆる『南京大虐殺』はなかった」と世界の既成概念に欧米人で初めて挑戦したことに興味を持っていただいた。ただ私は歴史に対して公平でありたかったのです。〈初めて日本に来たときは、戦勝国史観に立ち、「日本は悪かった」「東京裁判は正しく、南京大虐殺はあった」と信じていた〉

 滞日が長くなるにつれて、霧が晴れるように米国が押しつけた歴史観が誤りであることを悟り、歴史的真実がどこにあるか認識できるようになりました。皆さんも反日国家のプロパガンダに惑わされず、歴史の真実を知って、日本が誇りある国になってほしい。〈東京発の欧米特派員の報道には偏向した内容が少なくない。彼らの一部は日本を「肯定」する最長老に「修正主義者」のレッテルを貼った〉

 滞日経験が浅い彼らのほとんどが勉強不足です。昨年5月に私の本について「南京虐殺否定 無断加筆 ベストセラー翻訳者」との捏造(ねつぞう)記事を書いた共同通信の若い米国人記者も、創作小説にすぎないアイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」を史実のごとくに信じていました。米東部の名門大学を卒業したエリートですらこのレベルです。 私こそ「リベラル」。人種的偏見や差別に反対で、草の根の声を大切にしています。真実を壊す嘘を受け入れられません。しかし、日本でリベラルといえば、中国や旧ソ連を支持する左翼です。これはおかしい。

 〈「日本は侵略した」と欧米や中国、韓国、日本の学者まで主張する〉それは「連合国側の史観」。敵側の戦時プロパガンダです。確かに日本が欧米諸国のアジア植民地に軍事進攻したことは事実です。しかし、それ以前に侵略して植民地にしたのは欧米諸国です。日本は欧米の植民地を占領し、日本の将兵が宣教師のような使命感に駆られて、アジア諸民族を独立へ導いた。アジア諸国は日本によって白人支配から独立した。西洋人は世界史を見直すべきです。日本はアジアを独立に導いた「希望の光」。「侵略」したのではなく「解放」し、独立に導いたのです。 アジア、アフリカ、北米、南米、豪州を侵略した西洋は謝罪していません。なぜ日本だけが謝罪しなければいけないのか。白人が有色人種を侵略するのは「文明化」で、有色人種が白人を侵略するのが「犯罪」とはナンセンスです。

 〈欧米人にも同じ主張をする同志が出てきた〉米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏は私の著書を読んで確信を持ったようです。弁護士のケント・ギルバート氏も賛同してくれました。特派員の後輩たちも続いてくれることを期待します。

194NAME:2015/08/06(木) 21:59:22
「反省」「侵略」を明記=謝罪は踏襲求めず―平和国家の歩み強調・有識者懇報告書
時事通信 8月6日(木)18時52分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000131-jij-pol

戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日午後、安倍晋三首相に報告書を提出した。 報告書は、先の大戦に対する「痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」との表現も記載した。戦後日本の平和国家としての歩みを強調した一方、中国、韓国との和解は「完全に達成されたとは言えない」と指摘。村山富市首相談話にある「おわび」の踏襲は求めなかった。

 報告書を受け取った首相は「先の大戦からわれわれは何を学び、どのような道のりを進んでいくのかを世界に向けて発信していく談話を作成したい」と語った。今後、報告書を踏まえ70年談話の内容を詰める。終戦記念日の前日の14日に公表する方向で調整している。

 報告書は、戦後の日本について、「痛切な反省に基づき、特に1930年代から40年代前半の姿とは全く異なる国に生まれ変わった」と指摘。政府開発援助(ODA)や国連平和維持活動(PKO)などを通じて、日本の「平和主義・国際貢献路線」は国際社会から高い評価を受けているとした。
 ただし、中韓両国との和解は不十分とした上で、「地道に和解に向けた話し合いを続ける」必要があるとした。東南アジア諸国に対しても、「過去を忘れずに謙虚な態度で接することが重要」と強調した。 焦点の「おわび」は直接明記はせず、反省と謝罪を盛り込んだ村山談話や小泉純一郎首相談話の内容を中国側が評価していることを紹介するにとどめた。

 第2次大戦前の日本については、「民族自決の大勢に逆行し、植民地支配が過酷化した」とした上で、「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」と当時の政府や軍の指導者の責任に言及。「満州事変以後、大陸への侵略を拡大した」とも明記した。ただし、「侵略」に関しては、有識者会議の複数の委員から、「国際法上、定義が定まっていない」などとして、報告書への記載に異議があったことにも触れた。北岡伸一座長代理によると、2委員が反対したという。

 報告書は、今後の日本の取り組みについて、「これまで以上に積極的に国際秩序の安定に寄与する必要がある」などと安倍内閣が掲げる「積極的平和主義」の推進を提言。戦後70年に当たって取るべき具体的施策では、近現代史教育の強化や多国間の歴史共同研究の実施などを列挙した。 この後、西室座長は記者会見で報告書の性格について「首相に指示することを意図したものではない。この中から何をくみ取るかは、首相にお任せすることだ」と語った。

195NAME:2015/08/09(日) 23:57:18
対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
2015.8.9 16:00更新
http://www.sankei.com/life/news/150809/lif1508090026-n1.html

■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握

 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)

日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。

電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。

196NAME:2015/08/10(月) 01:47:43
【戦後70年と私】占領政策の真実 間違いに気付いていたマッカーサー ケント・ギルバート氏
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150807/dms1508071550004-n1.htm

70年前の終戦直後、日米関係は、お互いが完全な対立軸からスタートした。 米国は、大日本帝国とは、軍国主義の独裁者が神道という宗教を利用して国民を統率する、非民主的国家であり、世界征服をたくらむ野蛮で好戦的な民族の国だと考えていた。 日本の占領政策、言い換えれば「保護観察処分」は、危険な日本を制度面と精神面の両方から矯正する趣旨で始まった。 東京裁判(極東国際軍事裁判)を通じたABC級戦犯の処罰や、戦争の贖罪(しょくざい)意識を植付ける「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」、日本国憲法第9条も一貫した趣旨に基づいている。

 しかし、朝鮮戦争が起きたころには、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官のマッカーサー元帥は、根本的な間違いに気付いていた。米国が戦うべき敵は日本ではなく最初からソ連であり、日米戦は不必要だったのだ。 強い日本軍が、野蛮で危険なソ連の脅威からアジアの平和を守っていた。米国は間抜けな勘違いのせいで、日本軍を完全に解体してしまった。これが今日まで続く、米軍日本駐留の根本原因である。

 最高司令官を解任されて帰国したマッカーサー元帥はワシントンに呼ばれ、1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言した。 「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security(=日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」と。 日本が始めた大東亜戦争は侵略戦争ではないという意味だ。戦後体制の大前提を根底から覆す、このマッカーサー証言の存在すら知らない人が日米両国とも圧倒的多数である。

 占領下の日本には「プレスコード」(=GHQによる言論統制。『連合国や連合国軍への批判』など禁止事項を厳格に列記した)があったので、このニュースを取り上げることはできなかった。 しかし、終戦70年を目前にした現在も、日本の首相経験者や与野党の要職者が、「安倍晋三首相は70年談話で日本の侵略戦争をわびろ」などと、無知蒙昧(もうまい)ぶりを披露している。 70年間に、日米ともさまざまな機密文書が公開され、過去の多くの常識が、今では非常識になった。

 開戦前の日米和平交渉の経過や、当時のルーズベルト大統領が議会承認を得ずに「ハル・ノート」という最後通告を日本に突きつけた事実は、米国人にも隠されていた。 ハル・ノートの草案を書いたハリー・ホワイト財務次官補は、後に「ソ連のスパイ」だとバレて自殺した。日米開戦支持の議会演説を行ったハミルトン・フィッシュ下院議員は、すべての真実を知って大激怒。自分の演説を恥じ、「ルーズベルト大統領を許せない」と死ぬまで言い続けた。 戦後70年の節目を機に、日本人のみなさんには、日米関係のみならず、国際情勢全般について、最新情報へのアップデートをお願いしたい。 次回は、政治ジャーナリスト、細川珠生氏

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。

197NAME:2015/08/10(月) 02:34:14
【戦後70年と私】俳優・津川雅彦氏 故郷を守れない輩を日本人と呼べるのか?
津川さんは、日本人の劣化を憂えた ★俳優・津川雅彦氏
http://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20150804/dms1508041550003-s1.htm

55年前、「安保反対」で青春を謳歌(おうか)した連中の成長がない。魅力のない日本人になり下がったのは、成長が止まったから。成長は人格に「期待」と「信頼」という最大の「魅力」を与える。</p><p class="clearfix sentence"> ユーロにおんぶに抱っこで、経済に鈍感になったギリシャ人のごとく。米国におんぶに抱っこされ、自国を守るために他国の青年の血は流させても、自分の血は流したくない卑怯(ひきょう)な日本人に成り下がった。故郷(くに)を守れない輩を日本人と呼べるのか?</p><p class="clearfix sentence"> 東日本大震災の際、東北人は命の危険を目前に「我慢」「忍耐」「礼節」の覚悟を見せ、「誇り高き日本人」と世界を感動させた。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文以来、約1万6000年の間、自然を愛する「文化を育ててきた日本人」は素晴らしいと、世界は富士山を文化遺産に認めた。</p><p class="clearfix sentence"> 日本ほど自然が豊かな国はない。四季あり、適度な湿気と肥えた土壌、きれいな川と海、緑いっぱいの山、澄んだ空気! 自然を愛するすごさは、「厳しい自然の猛威」を経験し、「平穏」と「危機」を表裏として覚悟できる人格を育てる。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文1万年、平安350年、江戸270年、世界一平和な歴史を築いてきた日本人。たった一度戦争に負けただけで腑抜けになった。</p><p class="clearfix sentence"> 反日的メディアや教育組織の自虐史観に洗脳され、誇りを失った日本人。「私が悪うございました」と戦後70年間謝り続け、いまだに中国と韓国に土下座し、「いい人」を懸命に演じる。マスコミは「そのまま! そのまま! お人好しが素晴らしい」と、GHQ(連合国軍総司令部)に歩調を合わせたごとく扇動する。</p><p class="clearfix sentence"> 人間すべてに差があるからこそ個人の尊厳は守られる。「平等、平等」とバカのひとつ覚えで、子供の運動会では1等賞の名誉を奪い。学校では貴重な個性がイジメに遭う。経済の格差にもこだわる、いじましさは心の大切さを鈍感にする。</p><p class="clearfix sentence"> 縄文土器誕生以来、1万6000年! 文化史上、今ほど程度の低い日本人はいない。</p><p class="clearfix sentence"> 安倍晋三首相は昭和以降、最も実行力と清潔感のある宰相だ。大切に育てなきゃ損するのは国民。なのに、「アンポ」1つで何も見えなくなり、付和雷同して支持率を下げる。いまだ民主党的幼稚な政治を見抜けぬ大衆は、安全保障関連法案で「徴兵制度ができる」「戦争になる」と戦慄(おのの)く。発想が単純過ぎて笑っちゃう。</p><p class="clearfix sentence"> 戦争の原因は、「民族愛対民族愛」「宗教対宗教」「思想対思想」「富対貧」の対決。中国やロシア、北朝鮮の共産国や、韓国やイスラム国の敵意を「安保」で防御はできても、こんな一面的で、愚鈍なお人好したちで日本は本当に大丈夫なのか?

198NAME:2015/08/10(月) 04:18:39
【戦後70年〜昭和20年夏(5)】
抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べた者は死んだ…
2015.8.10 01:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150810/prm1508100011-n1.html

「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います」 ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。 厚生労働省が実施する旧ソ連による抑留犠牲者の遺骨収集事業。会津は4度目の参加となる。 ロシア側の資料によると、かつて付近に第3762野戦病院があり、死亡した抑留者200人余りがここに埋葬されたという。

 冬は凍土と化す厳しい気候。長い歳月を経た遺骨はきれいな状態では見つからない。500平方メートル超の埋葬地を小さく区切って掘り進め、土に不自然な変色が見つかると遺骨がないかを丁寧に確認する。今回は10日間の作業で39柱を収集し、帰還させた。会津はこう語った。 「現場を離れる時はいつも残さざるを得ない遺骨を思って涙が出るんです」

1991(平成3)年から抑留者調査や遺骨収集に協力してきたガリーナ・ポタポワ(76)は、ある埋葬地で日本人女性が慟哭する姿に衝撃を受けた。 「やっとお父さんを見つけた。お母さんは死んだわ。ここに来られて本当によかった…」 その姿は、戦死した父の墓を80年代に見つけた時の自分と同じだった。ポタポワはこう語った。 「『埋葬地に来てやっと私にとっての戦争が終わった』と言われるのが何よりもうれしい。この問題に国籍は関係ありません」

 コムソモリスクには1945(昭和20)年〜49(昭和24)年にかけ、日本人約1万5千人が抑留された。満足な食事も与えられぬ中、日本人はよく働き、ホテル、学校、住宅など432の建物を建築した。 街の中心部のホテル「アムール」は内部こそ改装されたが、今もなお現役。同じく日本人が建てた2階建て集合住宅群に住む元調理師のタマーラ・ボブリク(68)はこう語った。

「この通りの家はすべて日本人が建てたと両親から聞きました。古くはなったが、造りが大変しっかりしており、改修なしで住み続けています」 地元郷土史家のマリーナ・クジミナは「当時を知っている人は、いかに日本人が仕事熱心だったかを知っている。悪く言う人などいない」と説明した。

 45年8月9日午前0時(日本時間)、日ソ中立条約を一方的に破棄してソ連軍80個師団157万人が満州や朝鮮、千島列島などに一斉侵攻した。日本軍の多くは15日のポツダム宣言受諾後、武装解除に応じたが、悲劇はそれで終わらなかった。 ソ連軍は、満州や朝鮮などから約57万5千人をシベリアやモンゴルなどに連行し、森林伐採や鉄道敷設などの重労働を強いた。飢えと寒さ、虐待などで約5万5千人が命を落とした。 だが、シベリア抑留はロシアでほとんど認知されておらず、抑留者は「軍事捕虜」と称される。この大雑把な認識はロシア人自身が、対独戦とスターリン時代の弾圧で膨大な犠牲者を出したことに根ざす。

199NAME:2015/08/10(月) 04:23:13
クジミナはソ連末期、閲覧可能になったロシア人の弾圧犠牲者の資料を調べる中で「囚人」に交じって日本人が強制労働させられたことを初めて知った。 「極東は辺境なので働きたいという人は少ない。それでも国土維持のための労働力が必要だということで政治弾圧された人々が囚人として送り込まれた。ソ連政府は囚人をただ働きさせるのと同じ発想で日本人を抑留したのではないか」 ロシア政府は、日本人抑留者のうち1万5千人以上に関する資料をなお開示していない。未収集の遺骨は3万3千柱超。戦後70年を経て遺骨収集は年々困難になりつつある。

十字架が並ぶ墓地、木材を積んだ汽車-。見慣れない風景だった。 「こりゃ、だまされた。日本じゃないどこかに連れて来られたぞ」 独立歩兵第62部隊上等兵、前田昌利(93)=宇都宮市在住=は千島列島・幌筵(ほろむしろ)島で終戦を知った。ソ連軍がいつ島に上陸したのかは分からない。交戦で数人の死傷者が出たが、ソ連軍の通訳に「もう戦争は終わった」と言われ、武装解除に応じた。

前田も「おかしい」とは思っていた。数週間前から連日のように米軍機が島の上空を旋回するようになったからだ。赤いマフラーの女性を同乗させ、遊覧飛行する米軍機もあった。 ソ連兵の「トウキョウ ダモイ(帰国)」という言葉を信じ、輸送船に乗り込んだが、ナホトカ港を経由して連行された先はコムソモリスクのラーゲリ(収容所)だった。

 ラーゲリでは、木材の伐採作業や線路の敷設工事を命じられた。重労働もつらかったが、もっと怖かったのは凍傷だった。鼻や耳が白くなり、壊死(えし)して黒くなると切り落とすしかない。仲間と「おーい、白いぞ」と声をかけ合い、互いにマッサージした。 時計などの持ち物はソ連兵に取り上げられた。ソ連の女性兵は、日本人から奪った歯磨き粉をうれしそうに顔に塗っていた。ソ連兵の制服はボロボロ。缶詰にはUSAの刻印があった。「ソ連もよほど物資がないんだな」と思った。

与えられた食事は黒パン1切れだけ。空腹を満たすため、ソ連兵の目を盗んでは野草をゆでて食べた。 ある日、「カエルの卵」を持ち帰った者がいた。飯盒(はんごう)に入れた卵をストーブで炊き、味付けは岩塩。仲間は大喜びで食べたが、前田はなぜか口に入れる気がしなかった。翌朝、卵を食べた者は全員死んでいた。

 ラーゲリでは時折、健康診断が行われ、健康状態のよい順にA、B、C-とランク分けされ、労働内容が決まった。前田は歯肉を傷つけ、女医に血の混じった唾液を見せた。しばらくすると朝鮮に移送された。 朝鮮では船への積み込み作業に従事した。食糧や衣類、家具-。タンスや畳など日本人のものだと分かる品も多かった。 極寒のシベリアよりは格段にましだったが、休む度にソ連兵にムチで尻をたたかれた。街を歩くと朝鮮人から日本語で罵声を浴びた。 「兵隊さん、日本なんて国はもうないんだぞ!」 栄養失調で鳥目となり、夜はほとんど目が見えない。作業の合間に川でヤツメウナギを捕って食べるとほんの少し回復した。

200NAME:2015/08/10(月) 04:28:13
帰国できたのは昭和23年初夏。「船に乗れ」と言われ、着いた先は長崎・佐世保港だった。引揚援護局でわずかな現金をもらってサツマイモを買い、夢中でほお張った。あの甘さと感激は今も忘れられない。

 約57万5千人に上る日本人抑留は明確なポツダム宣言(第9項)違反だが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンの指示により極めて計画的に行われた。 原因は1945(昭和20)年2月、米英ソ3首脳が戦後処理を話し合ったヤルタ会談にある。 ここでスターリンは第32代米大統領のフランクリン・ルーズベルトに対日参戦を約束し、満州や千島列島などの権益を要求したが、もう一つ重要な取り決めがあった。3カ国外相が署名したヤルタ協定だった。

 ドイツが連合国に与えた損害を(1)国民資産(工作機械、船舶など)(2)日常的な生産物(3)労働力-で現物賠償させることを決めた。 問題は「労働力」だった。米英は、まさかソ連が協定を盾に戦後も捕虜らに強制労働させるとは思っていなかったようだが、ソ連は「米英のお墨付きを得た」と受け取った。

英首相のウィンストン・チャーチルは後にスターリンの非人道性に気づき、二の句を継げなかった。7月のポツダム会談で、チャーチルが英国の炭鉱労働者不足を嘆くと、スターリンは事もなげにこう言った。 「それなら炭鉱でドイツ人捕虜を使うことだ。私はそうしている」 スターリンにとって「捕虜=労働力」は「戦利品」だった。対日参戦の目的は領土拡大だけでなく「労働力」確保にもあったのだ。 ソ連は戦後も400万人以上の外国人捕虜を長期間抑留した。最も多かったのはドイツの約240万人、次に日本、3番目がハンガリーの約50万人だった。

 満州国の首都・新京(現長春市)で武装解除に応じた独立歩兵第78部隊第1中隊少尉の秋元正俊(96)=栃木県日光市在住=は昭和20年暮れ、クラスノヤルスク北の炭鉱・エニセイスクのラーゲリに送られた。

氷点下40度近い極寒地を片道約1時間歩き、1日3交代制で採炭や鉄道敷設作業に従事した。秋元は作業前、いつも「今日もみんな元気で帰っぺな!」と呼びかけたが、毎日のように人が死んでいった。やはり食事はパン1切れ。野良犬、ネズミ、ヘビ-。食べられるものは何でも食べた。 気温が氷点下50度を下回ったある日、公会堂に一時避難するとピアノがあった。小学教諭だった秋元が「故郷」を弾くと仲間たちは合唱を始めたが、途中から嗚(お)咽(えつ)に変わった。「ダモイ(帰国)まで頑張ろう!」。これが合言葉だった。

 第135独立混成旅団伍長、安田重晴(94)=京都府舞鶴市在住=が連行されたのはシベリアの山中のラーゲリだった。 2重の鉄条網に囲まれ、四方に監視塔。丸太小屋には3段ベッドが蚕棚のように並んでいた。暖房はドラム缶製の薪(まき)ストーブだけ。電灯もなく松ヤニを燃やして明かりにした。

201NAME:2015/08/10(月) 04:30:48
食事は朝晩はコウリャンやアワの薄い粥(かゆ)。昼は握り拳ほどの黒パン。空腹をこらえながら木材伐採を続けた。2人一組で直径30〜40センチの木を切り倒し、枝を落として1メートルの長さにそろえ集積所まで運ぶ。1日のノルマは6立方メートル。氷点下30度でも作業は続いた。 夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。

 凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた。 そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。どこからともなく万歳が上がった。 夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。「山ってこんなにきれいだったのか…」。全員が涙を浮かべて景色にみとれた。(敬称略)

202NAME:2015/08/13(木) 20:08:59
捻じ曲げられたポツダム宣言
http://ironna.jp/theme/330

203NAME:2015/08/14(金) 21:39:42
【戦後70年談話】
首相談話全文
2015.8.14 18:03更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140016-n1.html

【戦後70年談話】首相談話全文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e5%be%8c%ef%bc%97%ef%bc%90%e5%b9%b4%e8%ab%87%e8%a9%b1%e3%80%91%e9%a6%96%e7%9b%b8%e8%ab%87%e8%a9%b1%e5%85%a8%e6%96%87/ar-BBlJGpl#page=2

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。 そして七十年前。日本は、敗戦しました。 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

204NAME:2015/08/14(金) 21:43:12
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

205NAME:2015/08/14(金) 21:44:01
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。  平成二十七年八月十四日 内閣総理大臣 安倍晋三

206NAME:2015/08/15(土) 03:54:33
【戦後70年談話】
「外交的にバランス」外交評論家の宮家氏 「日本のあり方示す」ケント・ギルバート氏
2015.8.14 22:14更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140038-n1.html

外交評論家の宮家邦彦氏の話「過去の談話は反省とおわびにばかり重点が置かれてきたが、今回の談話はより総合的で成熟した内容という印象だ。戦争に至る当時の国際環境や、日本がなぜ国策を誤ったかについて丁寧に説明している。『頭を垂れる』『痛惜』という自分自身の言葉を使っており、外交的にもバランスがとれている。保守政治家として知られる安倍晋三首相が、右でも左でもない客観的な内容の談話を発表したことで、歴史認識に関する国論の分裂を修復する第一歩になるのではないか」

 カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏の話「成熟した文明国として品格ある内容で、歴史上起きたことを正しく伝えており、近隣諸国に対する礼儀や誠意が伝わってきた。日本がアジアの平和と繁栄のため力を尽くしてきたことは明らかな事実。今後もその姿勢は変わらないことをアピールした点は大国としてふさわしく、これまでの政策に確信を持っていなければできない。謝罪のあり方で難癖をつける国もあるだろうが、今後の日本のあり方もしっかり示しており、前向きな姿勢が感じられるよいものだった」

【戦後70年】
東京大空襲、広島・長崎原爆「米国に謝罪、反省求めず」 政府答弁書を決定
2015.8.14 22:17更新
http://www.sankei.com/politics/news/150814/plt1508140039-n1.html

政府は14日の臨時閣議で、昭和20年3月の東京大空襲に関し「戦後70年を経た現時点で米国に謝罪、反省を求めるよりも、政府としては、今後も世界の平和と繁栄に貢献していくことが重要である」とする答弁書を決定した。東京大空襲が「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであったと考える」とも指摘した。

 また、米国による広島と長崎への原爆についても「人道主義の精神に合致しない」と強調する一方、「米国に謝罪や反省を求めるよりも、政府としては、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」とする答弁書を決定した。 いずれも民主党の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えた。

207NAME:2015/08/18(火) 00:04:42
安倍談話が中国で予想以上の批判を受けた理由
吉田陽介[日中関係研究所研究員]
2015年8月17日
http://diamond.jp/articles/-/76880

「談話には反省とお詫びが入るのでしょうか」。 14日夕方に安倍談話が発表される前、中国人の友人はこう筆者に尋ねた。現在中国の国際地位が向上し、周辺諸国との関係でも中国抜きには考えられないため、日本の国益を考え、恐らく入るのではないかと筆者は答えた。また別の友人は、「直接にお詫びという言葉を使わずにお詫びの気持ちを表明するのではないか」と見ていた。

中国人はなぜ安倍談話に注目したのか。中国には歴史問題という譲れない原則問題があり、それによって日中関係が影響を受けることを憂慮しているからだ。 前にも述べたように、中国の原則問題は歴史問題のほかに、領土問題もある。中国はこれを外交上の「底線(最低ライン)」としており、それを越えた者に対しては果敢に批判を加え、ひいては関係が冷却化する。もし村山談話から後退する談話が発表されたら、中国としては「日本は底線を越えた」として批判し、相応の措置をとるしかなく、それによって両国関係がまた停滞することを憂慮した。 また、中国の安倍首相への警戒感もある。現在の中国の安倍首相の評価は、第一次政権のときの小泉時代に停滞した日中関係を打開した政治家ではなく、「戦争のできる国」をつくろうとしている軍国主義者というものだ。

 中国の一般の人も中国メディアの報道の影響を受け、安倍政権の安保法案は「日本を戦争のできる国にする法案」という認識だ。この政権によって日本は歴史に逆行する動きをみせるのではないかと中国は警戒している。 中国には「ヘビに咬まれた者は、縄を見てもヘビだと思ってしまう」という言葉があるが、侵略された側としては、現在の日本の動きは軍国主義時代に向かうと映るのだろう。それゆえ、中国は安倍政権を警戒し、その政権が発表する談話は日本の歴史観を説明する格好の判断材料となるため、安倍談話に注目したのである。

「頭をちょこっと下げただけ」と安倍総理の謝罪を批判

 安倍談話は筆者のみるところ、国内の様々な声や諸外国との関係を考え合わせたうえでバランスをとり、言葉の使い方にも気を遣った印象だが、中国は談話についてあまり積極的な反応を示しているとは言い難い。 談話発表後、中国メディアも談話について伝えた。例えば、14日午後6時の新華社報道は、「反省」と「お詫び」が盛り込まれていることを伝えたが、これからの世代に「謝罪し続ける使命を背負わせてはいけない」という言葉が入っていることと、日本の侵略と植民地統治について直接に言っていないと伝えた。 「反省」と「お詫び」については多くのメディアが報じ、とりわけ、「謝罪し続ける使命を背負わせてはいけない」というくだりについて、中国は「日本は今後謝罪するつもりがないのか」ととったようだ。

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208NAME:2015/08/19(水) 23:50:50
民主・長島昭久氏 安倍談話は「歴史的な文書となる」
2015年08月18日 15時33分
http://yukan-news.ameba.jp/20150818-69/

安倍晋三首相(60)が8月14日に発表した、戦後70年談話(安倍談話)について民主党の長島昭久衆議院議員(53)がツイッターで自身の見解を述べている。  安倍談話の発表後、民主党や共産党は「反省やおわびについての首相の認識が明確ではない」などとして、国会で首相に説明を要求する構えだが、長島氏は「戦後70年の総理談話は歴史的な文書となるであろう」と評価した。  長島氏は安倍談話の内容について以下の3つの点において特徴的だと述べる。

1、「国際秩序の挑戦者」という国際関係論では重要な文言を使い、過去の反省とともに暗に中国に対する牽制を行っている点。
2、謝罪外交に終止符を打った点。
3、全体として英文調。

 長島氏は談話の中で「この胸に刻み続けます」と繰り返し述べていることを挙げ、世界に向けて発信することを念頭に作成したのだろうと推測。 「少々不満が残った」部分があるとしているが、全体的には「これまでのいかなる歴史談話よりも具体的かつ詳細に反省すべき内容、感謝すべき対象(国および国民)を明記した。そして、その反省に基づいて未来志向の決意を内外に鮮明にした。その上で、歴代政権の歴史認識が今後も揺るぎないことを再確認した」と評価した。

209NAME:2015/08/22(土) 13:28:06
【戦後70年】
今甦る芙蓉部隊(上) 月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊「戦友の命を背負っていく」
2015.8.22 11:34更新  (1/7ページ)【戦後70年】
http://www.sankei.com/west/news/150822/wst1508220036-n1.html

もはや夜間攻撃しか勝ち目はない-。自爆を前提とした特攻を避け、艦上爆撃機・彗星(すいせい)で最後の最後まで、米軍に立ちはだかった旧海軍の夜襲専門「芙蓉(ふよう)部隊」の獅子奮迅ぶりが、元搭乗員の証言で判明した。月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊は何を目指したのか。

米軍のジャケット

 元搭乗員は、福岡県小郡市在住の坪井晴隆(89)だ。彗星の操縦士として夜ごと出撃し、沖縄周辺で標的となる敵艦を見つけ、特攻機を誘導するのが主な任務だった。 「戦争の経験は私にとってかけがえのない宝なんです。決して忘れられない人生の一コマでね。戦友はぼろぼろと亡くなった。彼らみんなの命を背負っていくんだ、との気持ちで今、生きているんです」 芙蓉部隊のことを一から説明するのが面倒で、新聞社などの取材を断り続けてきたという。そんな坪井が今年8月15日、自宅応接間で記者の前に現れた。

210NAME:2015/08/22(土) 13:35:20
【戦後70年】
「小野田さんはこっちの動きすべて把握していた」 ルバング島で捜索、岩瀬匠さん
2015.8.22 08:38更新
http://www.sankei.com/west/news/150822/wst1508220026-n1.html

「二度とできないような特別な経験だった」

 元陸軍少尉、小野田寛郎(ひろお)さんのルバング島捜索隊に参加した和歌山県有田川町の岩瀬匠さん(81)は、昭和48年の捜索をこう振り返った。小野田さんの出身地でもある同県海南市の職員として同年2月から2カ月間、「第三次小野田少尉救出隊」として活動した。同市の宇賀部神社には、捜索の目印や出来事を記録した岩瀬さんの「ルバング雑記」の写しが千人針とともに展示されている。

 「小野田さん、出てきて下さい」「同級生の○○です」

 ルバング島で活動した元兵士や同級生らによる捜索隊は、密林内に「海南拠点」「クマノ拠点」などを設け、各所からスピーカーで呼びかけた。前半1カ月はテントで小野田さんが出てくるのを待ち、後半は密林を歩き回って捜索する作戦だった。岩瀬さんは物資の供給役を担い、各地の拠点を行き来した。

 小野田さんの父、種次郎さんも島を訪れ、懸命な呼びかけを行ったが、返事はなかったという。小野田さんは自身の著書で、岩瀬さんらによる2月中旬の捜索についても記述。また呼びかけが始まったが、父の声は聞けなかったと振り返っている。 「小野田さんはこの時、島南部のヤプーサン岬でひっそり隠れていたと後から聞いた。こちらの動きはすべて把握していたんです」と岩瀬さんは打ち明けた。

〈マンゴーの木の下で昼食〉

 〈右の道にワナが仕掛けられ かかる 約100メートル進むと又 ワナあり〉

 〈レーダーサイト着 ワナは兵隊が仕掛けたものらしい〉

 ルバング雑記は現地の様子をこう記す。地下足袋で歩き回ったジャングルは、「グリーンスネーク」という毒蛇がいたが、アリやハチに刺されることが多く、隊員らは苦しんだ。しかし、根っからの山好きだった岩瀬さんは特に苦にならなかったという。「小野田さんが30年近く暮らせる場所だから大丈夫だと思っていた」

 〈珍しい鳥 良い鳴声〉。ルバング雑記では、現地の豊かな自然も記していた。

 2カ月の捜索後、救出隊は密林の麓に「小野田山荘」を建設し、同級生や全捜索隊員の寄せ書きと種次郎さんの俳句などを残し、4月に帰国。岩瀬さんは市への報告書にこう記した。

 〈いつかは彼の心に通じ 救出されるであろうことを期待する>

 小野田さんが帰国したのは、翌年3月。「救出隊は人が多すぎたんじゃないか。一人で探しに来たら会えると確信していた」と岩瀬さん。「出てきはることはわかっていた。本当はもう一度、今度は一人で行かせてほしいと言いたかったが、よう言わなんだ」

211NAME:2015/08/22(土) 22:06:24
卑怯と罵られた日本の真珠湾攻撃。その裏で交錯していた日本人たちの想いとは?
2011年12月10日
http://eikojuku.seesaa.net/article/239776797.html

アメリカ在住の外交官たちは、戦争回避の想いを強く持っていた。 しかし、アメリカ国務長官「コーデル・ハル」氏との外交交渉は、全く思わしくない。
アメリカの求める厳しい条件(ハル・ノート)を日本が飲むことは、まず不可能であった。
それでも、何とかアメリカとの戦争だけは「回避」したい。 そこで、「来栖三郎」駐米特命全権大使は、「裏口工作」に踏み切った。
「国賊となってくれ」来栖氏がそう言って白羽の矢を立てた相手は、「寺崎英成」であった。
「国賊」とはどういう意味か? 寺崎氏は来栖氏の真意を図りかねた。 
来栖氏が寺崎氏に求めたのは、アメリカ大統領ルーズベルトに、「あるお願い」をすることだった。

212NAME:2015/08/25(火) 00:46:30
「真の和解を」“カミカゼ”で父亡くした英国人 特攻隊遺族と対面
2015.8.24 23:06更新
http://www.sankei.com/life/news/150824/lif1508240036-n1.html

第二次世界大戦末期、神風特攻隊の攻撃で父親を失った英国人の遺族が、「真の和解を果たしたい」として望んだ特攻隊員の遺族らとの面会が24日、東京都内で実現した。戦後70年の時を経た念願の面会に、両国の遺族は平和を祈る“友”として歩み出した。(今仲信博) 来日したのは、英中部ノースウィックに住む英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)。父親のジョージさんは1945年5月9日、乗船していた英空母が沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、戦死した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

 「カミカゼ」を恨んだこともあったというデービッドさんだが、自らも父親となり、心からの和解をしたいと特攻隊員の遺族を捜し始めた。その様子を本紙が6月20日付の紙面で報じ、フジニュースネットワーク(FNN)が旧日本軍の資料を調べ、英空母への攻撃を行ったのは当時22歳の黒瀬順斎(よしなり)中尉だったことが判明。黒瀬中尉には12歳年下の弟、黒瀬宗義さん(80)=さいたま市在住=がいることも分かり、日本での面会が実現した。

この日、顔を合わせた2人は握手を交し、黒瀬さんが「遠い英国より、お父さまの敵である私たちと面談するため、来日されたことに敬意を表します」と語りかけると、デービッドさんは「平和な状況で友好的な出会いを果たせ、とてもうれしく思います」とこたえた。 黒瀬さんは兄の遺品として、英国の元軍人から送られた零式艦上戦闘機(零戦)の破片を持っていた。デービッドさんに見せると、「この破片を持っていることは信じられない」と驚いた様子。感慨深げに、破片を見つめるデービッドさんに、黒瀬さんは兄との思い出話などを語り、「命を張ってぶつかっていった人たちのことを、戦後に悪く言う人はいなかった」としみじみ振り返る。

 戦後70年の節目に「真の和解」を成し遂げた2人だが、黒瀬さんは当初、面会に抵抗があったという。しかし、デービッドさんの熱意に押され、心が動いた。「『恨みっこなしで、平和な付き合いをしよう』というのがありがたかった」と話す。 デービッドさんは「言葉の壁があるが、今後も手紙を書き合うなどして、この友情を続けていきたい」と笑顔をみせた。

213NAME:2015/08/25(火) 00:47:39
「真の和解を」“カミカゼ”で父亡くした英国人 特攻隊遺族と対面
2015.8.24 23:06更新
http://www.sankei.com/life/news/150824/lif1508240036-n1.html

第二次世界大戦末期、神風特攻隊の攻撃で父親を失った英国人の遺族が、「真の和解を果たしたい」として望んだ特攻隊員の遺族らとの面会が24日、東京都内で実現した。戦後70年の時を経た念願の面会に、両国の遺族は平和を祈る“友”として歩み出した。(今仲信博) 来日したのは、英中部ノースウィックに住む英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)。父親のジョージさんは1945年5月9日、乗船していた英空母が沖縄沖で特攻隊の攻撃を受け、戦死した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

 「カミカゼ」を恨んだこともあったというデービッドさんだが、自らも父親となり、心からの和解をしたいと特攻隊員の遺族を捜し始めた。その様子を本紙が6月20日付の紙面で報じ、フジニュースネットワーク(FNN)が旧日本軍の資料を調べ、英空母への攻撃を行ったのは当時22歳の黒瀬順斎(よしなり)中尉だったことが判明。黒瀬中尉には12歳年下の弟、黒瀬宗義さん(80)=さいたま市在住=がいることも分かり、日本での面会が実現した。

この日、顔を合わせた2人は握手を交し、黒瀬さんが「遠い英国より、お父さまの敵である私たちと面談するため、来日されたことに敬意を表します」と語りかけると、デービッドさんは「平和な状況で友好的な出会いを果たせ、とてもうれしく思います」とこたえた。 黒瀬さんは兄の遺品として、英国の元軍人から送られた零式艦上戦闘機(零戦)の破片を持っていた。デービッドさんに見せると、「この破片を持っていることは信じられない」と驚いた様子。感慨深げに、破片を見つめるデービッドさんに、黒瀬さんは兄との思い出話などを語り、「命を張ってぶつかっていった人たちのことを、戦後に悪く言う人はいなかった」としみじみ振り返る。

 戦後70年の節目に「真の和解」を成し遂げた2人だが、黒瀬さんは当初、面会に抵抗があったという。しかし、デービッドさんの熱意に押され、心が動いた。「『恨みっこなしで、平和な付き合いをしよう』というのがありがたかった」と話す。 デービッドさんは「言葉の壁があるが、今後も手紙を書き合うなどして、この友情を続けていきたい」と笑顔をみせた。

初対面で握手をかわす、特攻隊で兄の黒瀬順斎中尉を亡くした黒瀬宗義さん(左)と特攻隊の攻撃で父のジョージさんを亡くした英海軍退役軍人のデービッド・ヒンキンズさん=24日、東京都北区 (大西正純撮影)

214NAME:2015/09/05(土) 15:20:34
中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF

フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

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◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C)Liu Junrong/123RF.COM)

215NAME:2015/09/13(日) 23:39:57
戦争を実体験した女性作家 安保法案「反対」の矛盾に疑問 K・ギルバート氏
2015.08.29
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150829/dms1508291000002-n1.htm

先日、満洲で終戦を迎えたときに14歳だった、女性作家のラジオ番組を聴いた。先の戦争を実体験した人ならではの話は、とても興味深かったが、私には論理矛盾が気になった。 ご本人も気付いていない様子だったので、少し指摘してみたい。

 1945年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲や樺太、千島列島への侵略を始めた。1週間もせずに日本政府はポツダム宣言を受諾した。満洲に駐留する日本軍も武装解除された。彼女は銃が積み上がる様子を窓から実際に見たという。 その後、満洲では中国人やソ連兵による暴動や略奪が相次いだ。家財はおろか、命を奪われた日本人も少なくない。武装解除のせいで日本軍が日本人居留民を守れなくなったからである。

 彼女自身も、ソ連軍将校に強姦されそうになったという。激しく抵抗した後、物置に隠れて難を逃れた。母親も娘を守ろうと必死に抵抗したそうだ。ちなみに母親の行動は正当防衛に当たるが、これは個人レベルの集団的自衛権行使と言い換えることもできる。 彼女は現在、憲法9条を信奉し、反戦平和運動を行っているが、戦時中は「軍国少女」だった。国のために命をささげる覚悟だったのに、国とは一晩で無くなるものかとむなしく感じたそうだ。平穏な日本人居留地の治安が崩壊したことを、「国が無くなった」と表現したのだろう。

 繰り返しになるが、ソ連兵などの暴動や略奪の原因は、敗戦による日本軍の武装解除である。つまり、強い軍隊がいなければ、国は国民を守れないという現実を彼女は実体験として知っている。 それなのに憲法9条を信奉し、国の自衛権を強化する安全保障関連法案に反対する矛盾を、頭の中でどう処理しているのか、不思議である。 学徒動員兵の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』が反戦平和運動に転向したきっかけと話していたが、あれはGHQ(連合国軍総司令部)の意向を受けたプロパガンダ作品との指摘がある。

 大本営発表の洗脳から、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の洗脳へと自動スライドしただけで、彼女の人生は、ずっと洗脳状態にあるのではないか。 「自分自身の頭でよく考えるべきだ」と、彼女は呼びかけていた。まったくその通りである。まずは自分の頭の中にある古臭い常識を最新版にアップデートしたうえで、彼女自身がもう一度、自分の頭で考えてほしい。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行う。自著・共著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、『素晴らしい国・日本に告ぐ』(青林堂)など。

216NAME:2015/11/01(日) 00:32:41
当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-category-20.html
その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。これには潜んでいた日本軍も参ってしまつた、その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。 「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。

幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。 その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。この悲劇をただ見守るしかなかった。(この婦女子はその後一人として生還しなかつた) 婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、

「おい、もう我慢ならん。撃て」吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。 残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかつた。

217NAME:2015/11/18(水) 23:01:19
特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り
2015.11.17 20:55更新
http://www.sankei.com/west/news/151117/wst1511170080-n1.html

パリで起きた同時多発テロ事件で、現地メディアが自爆テロ実行犯を「kamikaze」(カミカズ)=カミカゼの仏語風発音=と表現していることに、語源となった神風特攻隊の元隊員から憤りの声が上がっている。命をなげうち、祖国を守ろうとした特攻と、無辜(むこ)の民間人を犠牲にするテロを同一視するような報道に、元隊員は「国のために戦死した仲間は、テロリストとは全く異なる」と反発している。

 「日本をなんとか救おうと、愛国心の一念から仲間は飛び立ち、命をささげた。テロと特攻を一緒にするのは戦友に対する侮辱であり、残念至極だ」 福岡県豊前市の末吉初男さん(88)は17日、産経新聞の取材にこう語った。

 末吉さんは16歳で陸軍少年飛行兵に応募し、昭和18年に陸軍飛行学校に入校した。18歳だった20年4月28日、特攻隊として、4機5人と台湾の飛行場から飛び立ったが、約1時間後、隊長機にトラブルが起きて沖縄・石垣島に全機不時着した。再出撃の命令は出ず、そのまま終戦を迎えた。

 末吉さんは、爆弾を積んだ小型ボートで敵艦隊に突入する特攻に旧海軍が「神風」という言葉を用い始め、国内に広がったと記憶している。鎌倉時代の元寇の際に暴風が起きたことから、「日本が最悪の状況に陥ったときには神風が吹く、国を守るために神様が加勢してくれると信じさせてくれる言葉だった」と振り返る。 戦後70年、亡くなった戦友のことは片時も忘れず、冥福を祈り続けた。 今回、パリの事件を報道で知り、「無差別に人を狙う、こんな恐ろしいことが起こる世の中になった」と残念な思いでいた。 ところが、そんなテロの代名詞に「カミカゼ」が、誤って用いられている。

特攻の攻撃対象は敵艦であり、乗っているのは軍人だ。無差別に一般市民を巻き添えにすることは決してなかった。末吉さんも、敵艦を攻撃するために特殊教育を受けた。 航空母艦を標的とする際、鉄板の甲板に突っ込んでも空母は沈まない。格納している航空機の昇降口を狙うなど、課せられた任務を遂行するために、むやみな突入をしないことは絶対だった。

 「戦友は上司の命令に従い、国を守るため、天皇陛下のためと死んだ。特攻とテロが一緒にされるとは心外でたまらない。戦友に対して申し訳なく、はがゆい思いでいっぱいだ」 自爆テロやテロリストを「カミカゼ」と表現する報道は、2001年9月の米中枢同時テロ以降、見られるようになった。今回テロ事件が起きたフランスでは、「3人の『カミカズ』のうち、1人がフランス人だ」「『カミカズ』が競技場に侵入しようとしていた」などの文言で報じられ、捜査を担当するパリの検事も記者会見で「カミカズ」と口にしている。

 末吉さんは、これまで生き残ったことを申し訳なく思う気持ちから、戦争体験をほとんど語ってこなかった。だが、戦後70年を迎え、ようやく今年、生き証人として自らの経験を語り始めた。 「話を聞く若い世代の中には、これから政治家や指導者になる人もいるだろう。ひとりでも多くの人に、真実を知ってもらいたい」と強調した。(九州総局 高瀬真由子)

218NAME:2015/11/18(水) 23:49:44
【パリ同時多発テロ】自爆テロ犯は「カミカズ」仏報道で「神風特攻隊」を誤解?写真あり
【戦後70年】死のうと思い死ねなかった元特攻隊員 生き残ったことに負い目を感じ生活〈三重発2〉写真あり
【歴史戦】予想された〝中韓の攻撃〟 慰霊に名借りた「日本の地位失墜」運動 世界文化遺産・九州、山口の文化財標的に 写真あり
【戦艦「武蔵」艦長の息子(上)】叔父が「神風特攻隊」と名付けた 猪口勇さん講演写真あり
【戦後70年】「隊員の精神は崇高なもの」特攻隊の魂、創作落語で伝える 三代目桂春蝶さん写真あり
【戦後70年】壁一面の「血書」陸軍少年特攻隊員が残した終戦に揺れる心情 同期が書き主の情報提供呼びかけ写真あり

219NAME:2015/12/18(金) 01:42:41
真珠湾攻撃:憎しみなき殺し合い…空母「瑞鶴」の元整備兵
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83%E6%86%8E%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8D%E6%AE%BA%E3%81%97%E5%90%88%E3%81%84%E2%80%A6%E7%A9%BA%E6%AF%8D%E3%80%8C%E7%91%9E%E9%B6%B4%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%83%E6%95%B4%E5%82%99%E5%85%B5/ar-AAg8Wkr#page=2

74年前の1941年12月8日は、日米開戦の火蓋(ひぶた)を切った米ハワイ・真珠湾攻撃の日だ。この攻撃に参加した空母「瑞鶴(ずいかく)」の航空整備兵だった川上秀一さん(97)=岡山県笠岡市=は「米国のような大国と本当に戦争をするのか」という戸惑いと不安、緊張を今も忘れない。緒戦の勝利から敗戦への道を体験した川上さんは「米国人を憎いなんて一度も思わなかった。それでも殺し合わなければならなかった」と振り返る。【高田房二郎】

 ◇「腹いっぱい食べられる」志願した海軍

 川上さんは36年、海軍に志願した。小さな農家の出身で「軍隊なら腹いっぱい食べられる」という考えだった。41年11月下旬。択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に着いた川上さんは、集結した艦船に驚いた。出航時に行き先は知らされず「大規模な訓練か」と考えた。間もなく「ハワイへ向かう。外交交渉が決裂すれば米国と開戦する」と告げられた。

艦隊は奇襲を悟られぬよう北方を進み、僚艦との連絡は手旗と発光信号に限られた。荒波にもまれ船酔いに苦しむ兵士もいた。便所で一緒になった部下は青ざめた顔で「本当に戦争になるのでしょうか。日本は勝てるでしょうか」と尋ねてきた。川上さんは不安を隠して平静を装った。 ハワイ沖に到着し、隊長機の整備を担当した川上さんは「とにかく故障せず、飛び立ってくれ」と念じた。瑞鶴から飛んだ攻撃機などは全て帰還した。「みんな口には出さなかったが、高揚感が漂っていた」と振り返る。

 日本が優勢だった期間は短く、42年6月のミッドウェー海戦を境に戦況は暗転した。川上さんは瑞鶴で約20回の戦闘に参加し、日本の連合艦隊が事実上壊滅した44年10月のフィリピン・レイテ沖海戦が最後の戦いとなった。 瑞鶴は敵艦をおびき寄せるおとり役。猛烈な爆撃と魚雷攻撃で撃沈された。泳ぎが苦手の川上さんは、ふんどし姿で海に飛び込み数時間漂流し、味方のボートに救出された。 その後は国内の航空隊に所属し、三重県で終戦を迎えた。天皇の玉音放送を聞きながら、瑞鶴の沈没時に若い兵士らが「お母さん」と小さく叫び、力尽きていった姿を思い浮かべていた。悔し涙があふれた。

 戦後は土木関連の会社を経営したが、戦争体験を語ることはほとんどなかった。瑞鶴の研究者による聞き取りや地元の報道機関の取材に応じたくらいだ。 90歳を超えた今も戦争の記憶は鮮明で、海軍の履歴表を手に、あの時代をとうとうと語る。しかし、戦後生まれが日本人の約8割となり、戦争体験の風化は確実に進んでいる。 川上さんは「戦争だけは絶対するもんじゃない。勝っても負けても得することは何もない」と言った。

220NAME:2016/01/11(月) 22:51:06
【井上和彦氏講演会詳報】タイ、インド、台湾…「アジアの声」は日本の戦いを高く評価している
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e4%ba%95%e4%b8%8a%e5%92%8c%e5%bd%a6%e6%b0%8f%e8%ac%9b%e6%bc%94%e4%bc%9a%e8%a9%b3%e5%a0%b1%e3%80%91%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%80%81%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%89%e3%80%81%e5%8f%b0%e6%b9%be%e2%80%a6%e3%80%8c%e3%82%a2%e3%82%b8%e3%82%a2%e3%81%ae%e5%a3%b0%e3%80%8d%e3%81%af%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%88%a6%e3%81%84%e3%82%92%e9%ab%98%e3%81%8f%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b/ar-CCmKj0#page=2

本紙「正論」欄執筆メンバーでジャーナリスト、井上和彦氏の講演会「日本が戦ってくれて感謝しています」(主催・産経新聞雑誌「正論」、協賛・大阪冶金興業)が10日、大阪市北区中之島の大阪市中央公会堂大ホールで開かれた。詳報は次の通り。

歴史戦

 いま中国が仕掛けている歴史戦、韓国が仕掛けてくる歴史戦、皆さん頭にきますでしょう。でも、韓国や中国の批判で歴史に注目することで、日本の本当の姿がわかってくるという部分がある。これからお話することは、恐らく学校や、あるいは戦後の教育のなかで教えられてこなかったことです。

 まずはタイですが、過去には日本と一緒に第二次世界大戦を戦った同盟国です。だから8月15日に「アジアの声が-」などというなら、タイは(その批判勢力から)省かなければならない。タイ駐屯軍司令官だった中村明人中将は、戦争10年後の昭和30年にタイに赴き、空港で大歓迎を受けている。“侵略”したら、こんなに歓迎されるのか。ありえない。

シンガポールでは

 またシンガポールでは、山下奉文将軍率いる部隊が55日間で1100キロを進撃し陥落させた。その山下将軍の等身大の像が、シンガポールのセントーサ島の博物館にある。“侵略”されたはずのシンガポールにあるのです。 山下将軍は日本軍戦没者慰霊碑を建てただけでなく、敵兵を弔うために全高約13メートルともいわれる巨大な十字架を建てたが、こうしたことはかつてシンガポールの中学校の歴史教科書にも載っていたのです。こうなるとシンガポールも、日本を非難する「アジアの声」から省かないといけない。

モディ首相が感謝

 マレー半島のF機関については知らない人も多いが、兵庫県出身の藤原岩一少佐が率いた組織です。藤原少佐は戦後、陸上自衛隊の第1師団長を務めた方です。F機関は戦争中、英国の植民地政策に反対するインド人を集めた「インド国民軍」の創設に大きな役割を果たしました。 一昨年9月、インドのモディ首相が来日して安倍首相と会談しましたが、その翌日の、とある会談がインドで大ニュースとなりました。モディ首相は、日本とともに英国と戦ったインド独立の英雄チャンドラ・ボースの同僚であった三角佐一郎氏と面会し、ひざまずいて手を握ったのです。

 またフィリピンでは、画家のダニエル・ディソンさんという方が「神風特別攻撃隊」について、自らの命を犠牲にしてアジアのために戦ったと高く評価しています。彼は「カミカゼは白人の横暴に対する最後の抵抗だった」といいます。

飛虎将軍廟

 台湾では「飛虎将軍廟」という神社があり、台湾沖航空戦で敵戦闘機に体当たりして散った操縦士の杉浦茂峰兵曹長を神様として祀っている。台湾の南端、高雄市の東方工商専科学校では、現在も教育勅語を教育に取り入れています。

 インドネシアでもオランダの約350年にわたる植民地統治を日本軍が終わらせ、PETA(郷土防衛義勇軍)を作った。国立英雄墓地には、第二次大戦終結後もインドネシアに残り、独立のために戦った日本兵も葬られています。

第一次大戦の「戦勝国」

 最後に地中海のマルタ共和国。第一次大戦の際、連合国の一員としてマルタ島に派遣された日本海軍の第二特務艦隊は、連合国客船などの護衛任務で連合国から高い評価を得た。特にドイツ潜水艦の雷撃で英国客船「トランシルヴァニア」が撃沈された際は、同艦隊の駆逐艦「榊」が僚艦とともに約3000人の英国将兵を救助しました。国王ジョージ5世はこのことを英国国会で聞き、国会では日本語で「バンザイ」の三唱が起きたといいます。

 「榊」はこの後、ドイツ潜水艦の攻撃を受け、艦長以下59人が戦死します。その方々を祀った石碑がマルタ島にあります。

 第一次大戦で日本は戦勝国だったということを忘れてはならない。皆さん、平成30年、2018年は第一次大戦の戦勝100周年です。そのときに、われわれは戦勝国だった、われわれは世界の秩序と人種平等を訴えた最初の国であるということを言って出ればいいのです。

221NAME:2016/01/17(日) 22:43:20
五十六神話を捨てるとき
http://ironna.jp/theme/474

米軍事アナリストが徹底分析 「五十六神話」完全崩壊
http://ironna.jp/article/2666

山本の構想で仮に太平洋艦隊の侵攻を六カ月遅らせることに成功しても、新造艦計画による米国の物的優位を妨げられるものではない。真珠湾攻撃により全米国人の憤激は頂点に達し、官民あげて戦争目的の完遂に邁進することになった。実際、米国が真珠湾、フィリピンの敗戦によって戦意を喪失して講和するなど論外である。山本は根本的なことを大きく読み違えている。結局、真珠湾が成功しても講和にならなければ、必然的に日本が勝利する見込みのない米国との長期戦となる。 真珠湾攻撃は米国との長期戦を誘発するものであり、その他のありえた日本の可能性のすべてを放棄させた。仮に最後通牒が間に合ったとしても、これは形式要件を有しないものであり事態に影響はない。

日本政府が最後通牒をワシントン時間午後一時に米国政府に手渡すことが遅れたことは書籍や映画で何度も取り上げられており、開戦にいたる重要なエピソードになっている。しかしこの時手渡された覚書は宣戦布告とみなされるものではない。「よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」と結ばれている。交渉が妥協点を見いだせなかったとは振り出しに戻ることであり、次のステップが戦争であると伺わせる言葉は全くない。外交関係の断絶や外交団の召喚にも触れていない。

ルーズベルト大統領も十二月八日の有名な「屈辱の日」のスピーチにおいて、十四部の覚書につき、「この回答は現在の外交交渉を続けることが無用であると思われると述べているが、戦争もしくは武力攻撃の脅しやそれを伺わせるものは何も含まれていない」と述べている。野村、来栖大使も覚書を手渡し戦争勃発と知り驚いたとされる。枢密院の会議を経て帝国政府による英米に対する正式な宣戦布告がされたのは東京時間の十時四十五分(真珠湾時間十五時十五分)であり攻撃開始の七時間後である。最後通牒手渡し遅延のエピソードが定着しているが、ことの本質を惑わすものである。

山本は最後通牒が予定通り通告されたか最後まで気にしていたというが、その指揮下の潜水艦はその前日に米国領海内においてラハイナ泊地の偵察を行い、特殊潜航艇は前夜に領海侵犯し、水上偵察機による領空侵犯が一時間前になされている。

222NAME:2016/01/26(火) 03:40:53
【現代を問う】
日本は自衛のため戦った…主張変えたマッカーサー、証言の周知で戦後自虐教育の是正を
2016.1.25 15:00更新
http://www.sankei.com/west/news/160125/wst1601250005-n1.html

新年を迎え、昭和20年の「大東亜戦争」(注1)の敗戦以後、6年余り日本を支配、統治し、明治・大正・昭和(戦前)の日本を「悪者国家」とし、あの戦争は日本の侵略戦争だったと決めつけた『米国占領軍総司令官・マッカーサー元帥』の1951年(昭和26年)5月3日、米国上院軍事・外交合同委員会での証言がマスコミ、学校教育で周知されることを期待している。

 以下にマッカーサー証言を紹介する。 われわれは日本を包囲しました(注2)。日本は8千万人という膨大な人口を抱え、4つ島にひしめいていました。その半分が農業人口で、半分が工業生産に従事していました。日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接していたいずれにも劣らぬ優秀なものです。

 日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときの方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳を持っていました。これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働く材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。 しかし、彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。

そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです(注3)。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では1千万から1200万人の失業者が発生し、亡国と化するであろうことを日本政府・軍部は恐れていました。したがって日本が戦争を始めた目的は、大部分が安全保障(セキュリティー)(注4)のためだったのです。

 筆者注・(1)あの戦争を米国は「太平洋戦争」と呼び、日本政府は「大東亜戦争」と命名

 (2)包囲とは、ABCD包囲網のこと。Aはアメリカ、Bはブリテイン英国、Cはチャイナ、Dはダッチ=オランダの頭文字。米国は日露戦争後から日本人への人種差別を強化、昭和14年以後、鉄・クズ鉄など対日禁輸を強め、ついに昭和16年7月に日本の在米金融資産凍結、8月には決定的な「石油」の対日全面禁輸に踏み切った。これは米国の日本への宣戦布告に相当する。

 (3)日本軍は開戦直後の昭和17年に資源を求めて南下したが、略奪・収奪のためではなかった。フィリピンから米国を、インドシナ半島から仏国を、インドネシアからオランダを、シンガポール・マレー半島から英国を撤退させ、欧米の植民地支配から解放し各民族の独立の道を開いた。

 昭和18年、ビルマのバー・モウ総理大臣、タイのワンワイタヤコーン殿下(首相代理)、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、中華民国の汪兆銘行政院長、満州国の張景国総理大臣、インドの自由インド仮政府・チャンドラ・ボース首班らの首脳会議「大東亜会議」(日本の東条英機首相の主催)で、「人種差別撤廃」「互恵精神でアジアの共存共栄」を宣言した。

223NAME:2016/01/26(火) 15:40:38
インドネシアの独立の闘士・スカルノとハッタはまだ独立していないため、正式参加できなかったが、会議直後に来日し昭和天皇より皇居に招かれた。東南アジアやインドは「日本が侵略した」とは言っていない。反対に「欧米を追放してくれて日本に感謝する」と言っている。アジアから有色人種の日本によって、追い出された白人の欧米が「侵略」と決めつけたのである。

 (4)安全保障とは「自衛」という意味。自衛戦争は現在でも国際法で認められている。マッカーサーは戦後6年を経て、それまでの主張を180度逆転し、東京裁判での東条英機元首相の日本は「自衛のために戦った」「あの戦争は米国が仕掛けた」という『宣誓供述』を認めたのである。 このマッカーサー証言を、戦後の「自虐的歴史教育」「日本侵略国家論」「日本の伝統否定」「反皇室教育」を是正するために広く周知するべきである。

 森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学。

224NAME:2016/05/11(水) 00:51:27
【オバマ氏広島訪問】
安倍首相発言詳報 「犠牲者の思いに応えるもの」「大統領にとって大きな決意」
2016.5.10 23:01更新
http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100055-n1.html

安倍晋三首相は10日、オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後の27日に被爆地の広島を訪問することが決まったことを受け、官邸で記者団の取材に応じ、「被爆地から世界に向けて核兵器のない世界について決意を改めて発信することこそ意義のあることだ」と強調し、自らも同行することを明らかにした。発言の詳細は以下の通り。

 「今月27日、伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領とともに被爆地・広島を訪問することを決定いたしました。オバマ大統領の広島訪問を心から歓迎いたします。70年前の原爆投下によって、たくさんの市井の人々が無残にも犠牲となりました。今回の訪問を、全ての犠牲者を、日米でともに追悼する機会としたいと思います。日本は唯一の戦争被爆国として、二度とこの悲惨な体験を、世界のどんな場所であっても再び繰り返させてはならないと、この思いで、核兵器の廃絶を一貫して訴えて参りました。今回オバマ大統領が広島を訪問し、そして被爆の実相に触れ、その気持ちを、そしてその思いを世界に発信することは、核兵器のない世界へ向けて、大きな力になると信じています。そしてその世界を実現するために、オバマ大統領とともに全力を尽くしていきたいと思います」

 --原爆投下について米国側の謝罪は必要だと思うか

「70年前の原爆投下によってたくさんの方々が犠牲になりました。そして今でも多くの方々が苦しんでおられるのも事実であります。そして、その皆さんは、二度とこうした悲劇を繰り返してはならないと強く思っておられることと思います。オバマ大統領は、核兵器を使用した唯一の国として、核兵器のない世界に向けて行動する責任を負っていると常々述べておられます。今回、被爆地から世界に向けて、核兵器のない世界について、決意を改めて発信することこそ、私たちの世代、そしてまた、子供たちや孫たちや次の世代にとって、意義のあることだと思います」

 --つまり謝罪は求めないということか

 「今度、オバマ大統領が実際に被爆地に足を運ぶ。それはアメリカ大統領にとっては大きな決意だったと思います。そして、唯一の戦争被爆国の首相である私とともに、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が、ともに犠牲者に対して哀悼の誠をささげる、このことが、まさに被爆の犠牲となった方々、そして今も苦しむ人々の思いに応えるものだと私は信じております」

225NAME:2016/05/11(水) 00:55:38
【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
朝日新聞の「従軍慰安婦」報道を鵜呑みにし、謝罪を繰り返した政治家たちよ 歴史から目をそむけまい
2016.5.10 14:10更新 (1/7ページ)
http://www.sankei.com/premium/news/160413/prm1604130004-n1.html

「歴史から目をそむけまい」

 朝日新聞は1992年1月12日付でこう題する社説を掲載し、「従軍慰安婦」について「挺身隊の名で勧誘または強制連行され、各地で兵士などの相手をさせられた」と断じ、軍や政府の関与を否定する日本政府を非難した上で大上段にこう説いた。 「恥ずかしい体験はだれでも思い出したくないものだ。しかし、戦争という特異な状況のもととはいえ、植民地下の朝鮮から多数の人々を駆り出し、男性には労務や兵役を、女性には兵士の慰安をという役割を強要したのは、たかだか半世紀前のわが国であった。この事実の重みは私たちが負い続けなければならない。歴史から目をそむけることはできない」

 朝日新聞はこれに前後して従軍慰安婦キャンペーンを繰り広げ、「太平洋戦争に入ると主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その数は8万人とも20万人ともいわれる」と主張した。この報道を受け、韓国では激しい日本批判が巻き起こり、直後に訪韓した宮沢喜一首相(当時)はろくに事実関係を調べもせずに計8回も謝罪と反省を繰り返した。

 ところが、論拠となる「朝鮮人女性を『慰安婦狩り』と称して強制連行した」という説は、元山口県労務報国会下関支部動員部長を名乗る吉田清治氏(故人)の完全な作り話だった。そもそも従軍慰安婦というのは戦後の造語にすぎず、朝日新聞が混同した「挺身隊」と「慰安婦」は全く別なものを指す。日本軍や政府が慰安婦の強制連行に関与したことを示す資料も見つかっていない。

226NAME:2016/05/20(金) 23:15:08
日本に好感を持つ中国人が少ない理由「日本はドイツとぜんぜん違う」=中国
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ab%e5%a5%bd%e6%84%9f%e3%82%92%e6%8c%81%e3%81%a4%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%8c%e5%b0%91%e3%81%aa%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1%e3%80%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%a8%e3%81%9c%e3%82%93%e3%81%9c%e3%82%93%e9%81%95%e3%81%86%e3%80%8d%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd/ar-BBteVEz#page=2

公益財団法人・新聞通信調査会は先日、「諸外国における対日メディア世論調査」を発表した。その結果、日本に対する好感度は中国が3割未満だったのに対し、タイは最高の90。8%と、国によって大きく差が見られた。 これを受けて、中国メディアの参考消息はこのほど、「日本に好感を持つ中国人は3割未満、タイは対日好感度で最高位」と題して各国の対日感情に関する記事を掲載した。 同調査は、米中韓英仏タイの6カ国に対して行われた。日本に対する高感度は、タイが90.8%で最も高く、次いで米国が78.6%、英国が69.7%、韓国が32.3%と続き、中国は最も低い27.8%だった。

 中国が6カ国で最も低い数値だった理由として、記事は「歴史問題にある」と分析。この点で日本はドイツと大きく異なっているとした。中国ではドイツに対する好感度が高いが、それはドイツが「第二次大戦中の罪を深く反省し、この歴史に対する批判的な態度を明確にし、欧州各国との和解を実現した」ことにあると論じた。 一方、「日本は戦争犯罪の事実を認めず、歴史を美化し、ごまかしたり言い訳したりしているため、中国人の反感を買っている」と主張。日本は不利な事実を伝えたがらない異常な国家だと論じ、日本は歴史問題や領土問題で中国・韓国と正常な関係を築くことができないので、正常な国家とはなり得ないと主張した。

 最後に記事は、歴史問題と領土問題が日中友好を著しく損ねており、これが中国人の日本人に対する認識と感情に大きな影響を与えていると主張。そのため、日本に対する固定観念が出来上がったのだと論じた。記事では日中関係の低迷のすべての原因を日本に押し付けているが、1980年代のように日中関係が良好だった時期もある。中国における愛国教育や反日を煽るような教育にも日中関係が低迷した原因があると言えるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

227NAME:2016/05/24(火) 19:38:08
ケリー長官の広島訪問、海外メディアはどう報じたか?
http://www.huffingtonpost.jp/2016/04/12/kerry-hiroshima_n_9667170.html

アメリカのケリー国務長官は4月11日、G7外相とともに広島市の広島平和記念資料館(原爆資料館)を参観し、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。このニュースは、海外でどのように報じられたのか。韓国メディアは厳しい見方で報じているのに対し、英米メディアは訪問の意義を中心に伝えた。

■韓国・KBS「黙祷のとき、少しだけあごを引いた」

KBSは「アメリカ政府は今回の訪問が、謝罪と解釈されることを警戒しています」として、黙祷の時のケリー氏の姿を「あごを少し引いただけで、全体的に厳しい姿勢を維持しました」などと報じた。

■韓国・朝鮮日報「日本の『加害』を希釈」

朝鮮日報は、ケリー氏らは献花の後、「日本の第二次大戦敗戦の象徴格である『原爆ドーム』を訪問した」と記した。記事は、安倍政権が「核軍縮と核不拡散の動きを示すとともに、日米間の強固な結束を国際社会に知らせようと構想したものと見られる」と分析。「第2次大戦に敗戦したことでできた『平和憲法』の改正を模索する状況で、ケリー長官の平和公園訪問が、戦争を起こした日本の『加害』を希釈させ、『被害』を浮上させる結果につながる可能性があるという懸念もある」と報じた。

■アメリカ・ABC「重々しい空気は、児童の歓迎によってたち消えた」

ABCは「(献花)式典の重々しい空気は、約800人の日本の児童が旗を振って歓迎したのでたち消えた」などと書かれたAP通信の記事を伝え、12日午後2時現在、Facebookで1000回以上シェアされている。

記事は、「アメリカ人の多くは、戦争を早く終らせるために原爆を投下したのは正義だと考えている」とする一方、「日本政府や遺族はアメリカに対して謝罪を求めていない」として、71歳の広島に住む飲食店オーナーの「世界の未来や次の世代の平和のことを考えると、(謝罪が)必ず必要だなどとは思わない」というコメントを伝えた。また、「爆心地からすぐそばのところへのケリー長官の訪問は、アメリカの進化を完遂させた」と分析した。

228NAME:2016/05/24(火) 19:39:53
■アメリカ・WSJ「ケリー国務長官は、岸田外相の背中に手を回した」

ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、「日本とアメリカの両政府はこれまで、大勢の人を殺害した原爆投下について、アメリカが謝罪すべきかどうかを慎重にバランスを取ってきた」と説明。しかし、アメリカ人の多くは、謝罪の姿勢は、どんなものであろうとふさわしくないと考えていると報じた。 一方で、WSJは献花式典のワンシーンを写真に添えた。そこには、献花の後にお互いに背中に手を回している岸田文雄外相とケリー氏がいた。

■アメリカ・NYT「日本人はアメリカが難しいということを理解している」

ニューヨーク・タイムズは、東京財団上席研究員で外交・安全保障が専門の渡部恒雄氏のコメントを紹介した。渡部氏は「一部の日本人は、アメリカ人の謝罪の言葉が聞きたいかもしれないが、日本人のほとんどはそうではない」と説明。日本の保守層が安全保障上の理由からアメリカに謝罪を求めていないことや、リベラル層もアメリカのオバマ大統領が反核のメッセージを伝える目的で広島を訪問すれば、謝罪の言葉がなくても納得するとの考えを述べた。 渡部氏はさらに、「アジアの国々と日本にある謝罪政治とは異なり、ほとんどの日本人は、アメリカの指導者が謝罪することは非常にハードルが高いということを理解しています」と話したという。

■イギリス・ガーディアン紙「核保有国の外相も初めて広島へ」

ガーディアンは、ケリー国務長官と共に、イギリスのフィリップ・ハモンド氏とフランスのジャン=マルク・エロー氏も、核兵器を保有する国の外相として初めて、平和記念公園を訪れたことを伝えた。 また、ハモンド氏が共同通信に語ったという、「私たちはここに来ることで、未来の戦争を回避し、平和的な解決策を見つける責任があることを認識、痛感します」という言葉も伝えた。

229NAME:2016/05/24(火) 19:43:37
被爆者78%、米へ謝罪求めず 広島、長崎の115人アンケート
2016年5月22日 21時40分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016052201001616.html

オバマ米大統領が現職として初めて被爆地の広島を27日に訪問するのを前に、共同通信が広島、長崎で被爆した115人に実施した面接方式のアンケートで、原爆投下の是非に踏み込み謝罪することを78・3%が「求めない」と回答した。「求める」とした人は15・7%にとどまった。 大統領の訪問実現を優先する上で障害となる謝罪を回避したい意向や、太平洋戦争での日本側の加害行為を踏まえ米側だけに責任を求められないとの意見が目立った。一方で、投下を正当化する米国の世論を疑問視する声も多く、謝罪に言及しない米側の姿勢を必ずしも受け入れている訳ではないことがうかがえる。

230NAME:2016/05/25(水) 21:32:48
【オバマ広島訪問】
「原爆投下と違う選択肢あった」米歴史家イアン・トール氏に聞く
2016.5.25 20:24更新
http://www.sankei.com/world/news/160525/wor1605250025-n1.html

オバマ米大統領が27日、広島を訪問する。原爆投下は必要だったのか。太平洋戦争を日米両国の立場から描いた「太平洋の試練」シリーズの著者で歴史家のイアン・トール氏に聞いた。(ロサンゼルス 中村将)

 原爆投下は、多くの米国人の命、そしておそらく多くの日本人の命も救うために、必要だったと多くのアメリカ人は信じている。それに反する史観は、米国では、左翼的な修正主義史観であるというレッテル貼りが行われている。 だが、そうだろうか。史料から考える歴史家たちはむしろ違う結論を導き出そうとしている。私もそのひとりである。機密解除されてきた米国政府の当時の史料は、違う選択肢もあったことを示している。

 例えば、原爆投下の翌日、マッカーサー(連合国軍最高司令官)を運んだ飛行機のパイロットの日記には、「マッカーサーはあきらかにこのフランケンシュタインの登場に、困惑し落ち込んでいた」と記されているし、「ジャップを殺せ」と太平洋の戦いを指揮した南太平洋部隊司令長官のハルゼーですら戦後、「原爆投下はあやまちであった」と結論づけている。 トルーマン(大統領)自身も、1945年7月25日の日記に、原爆の使用を「軍事目標、戦闘員に限定し、女性や子供に対しては用いないことができないだろうか」と陸軍長官に聞いたと、記している。

またさまざまな史料は、当時政権内部では、原子爆弾を米国が所有していることを日本側に事前に通知し、軍事目標に対して使用することで合意していたことを示している。それなのになぜ、事前通告なし、都市に直接投下という結論に至ったのか。 戦後のソ連(当時)に対する牽制(けんせい)のために必要だった、という結論に当時の国務長官とトルーマンの膝づめの会議で急転直下決まった。この会議自体の記録は残っていないが、さまざまな証拠はそれを示唆しているように思える。

 今回、ホワイトハウスは「なぜ、米国は広島に原爆を落としたのか」という問いには踏み込まないことを示唆している。確かに現在の大統領がそれに踏み込むのは賢明ではない。頭を下げ、献花をし、二度とこうしたことを起こさせないと、私たちにかわって宣言する、それだけでいい。 しかし、私たちは、史実に対して、何が起こったかについて、思考停止に陥ることなく、事実を基に考えていく必要がある。原爆投下は必要だったのか-と。(談)

【プロフィル】Ian Toll 1967年生まれ。ジョージタウン大学卒、ハーバード大学ケネディ行政大学院公共政策学修士課程修了。著書に「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで」「太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで」など。

231NAME:2016/05/27(金) 08:06:09
【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
広島原爆投下を眼下に見た紫電改操縦士がいた!「これは戦争じゃない。虐殺だ…」
2016.5.25 14:00更新 (1/8ページ)
http://www.sankei.com/premium/news/160523/prm1605230002-n1.html

原爆は戦争ではない。虐殺だ。 1945(昭和20)年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。

 高度5千メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。 その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿は全く利かない。必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。

 「街がない!」 広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫。炎も煙もなかった。 やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」 そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。

232NAME:2016/05/29(日) 21:02:59
【オバマ氏広島訪問】
「よかった」評価が98% 被爆者や米退役軍人ら、慎重意見も
2016.5.29 20:34更新
http://www.sankei.com/world/news/160529/wor1605290031-n1.html

共同通信社の全国電話世論調査で、オバマ米大統領の広島訪問を「よかった」と評価した回答が98・0%に達した。ただ、広島、長崎の被爆者の間には前向きに捉える声もある一方で「きれい事で終わらせてはいけない」などと慎重な見方が少なくない。米退役軍人団体からも「ほろ苦い」との感想が漏れ、複雑な心境をうかがわせた。

 広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の清水弘士さん(73)は、オバマ氏の原爆資料館見学がわずか10分程度だったことに憤る。「一番聞きたかったのは、被害の実態を見て何を感じたのか。用意してきた演説では本当の思いは分からない。きれい事で終わらせてはいけない」と話す。

 一方、米国では、これまで原爆展開催などに猛反発してきた米退役軍人団体が「紛争のない世界は全員が共有すべき展望だ」などと指摘するにとどまり、強い批判は出ていない。米国では30日が今年の戦没将兵記念日。(共同)

233NAME:2016/06/07(火) 22:35:38
「大統領が受けた歓迎、全アメリカ人が感謝」ケネディ氏
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%8C%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E6%AD%93%E8%BF%8E%E3%80%81%E5%85%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%8C%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%80%8D%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E6%B0%8F/ar-BBtPkMN

ケネディ駐日米大使

 いま日米同盟にとって歴史的な瞬間を迎えている。安倍晋三首相と日本の国民全員が心を開いて、オバマ大統領の広島訪問に歓迎して下さった。すべてのアメリカ人は大統領が受けた感情を揺り動かす歓迎に感謝し、日米両国がともに達成したことの大きさを誇りに思う。(東京都内のホテルで)

234NAME:2016/06/09(木) 13:39:40
「広島に来て良かった」オバマ氏側近、専用機から電話
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%8C%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%81%AB%E6%9D%A5%E3%81%A6%E8%89%AF%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%9E%E6%B0%8F%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%80%81%E5%B0%82%E7%94%A8%E6%A9%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E9%9B%BB%E8%A9%B1/ar-BBtGEQn
2016/05/31

米国のオバマ大統領が27日に広島市を訪れた後、米国に向かう大統領専用機「エアフォース・ワン」から、側近に「広島の皆さんが歓迎してくれたことを感謝したい」と外務省へ電話させていたことがわかった。同省が31日に開かれた自民党の会合で明らかにした。

 同省関係者によると、オバマ氏が広島市の平和記念公園でスピーチなどを終え、車でヘリポートへ向かう途中、沿道で多くの市民が見送っていたという。それを見たオバマ氏が、「広島に来て良かった」などとお礼の電話をかけさせたという。(小林豪)

235NAME:2016/07/25(月) 23:54:34
アジアを1930年代に引き戻しかねない中国
https://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%921930%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E6%88%BB%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AD%E3%81%AA%E3%81%84%E4%B8%AD%E5%9B%BD/ar-BBuDIRZ#page=2

1933年、日本は満州侵略を非難された後、国際連盟を脱退した。この挑戦的な行動は世界的な協力がアジアの危機の平和的な解決につながり得るというリベラルな国際主義者たちの希望に打撃を与えた。さらには、明治から大正にかけての数十年に及んだ日本のグローバル化を終わらせ、日本政府は西側の主要国と敵対するという道を歩み始めた。その結果が太平洋戦争である。

 今日、中国が同じような行動を取る可能性はあるのだろうか。先週、オランダ・ハーグの仲裁裁判所が下した裁定に対する中国政府の反応は、85年前の大国間の競争で日本を封じ込めようとした国際連盟を拒絶した日本政府を彷彿とさせる。

 南シナ海の広範な水域で領有権を主張する中国に対してフィリピンは2013年に仲裁手続きを申し立てた。ところが中国政府はこの争いは仲裁裁判所の管轄外だとし、審理への参加も拒否するという過ちを犯した。

 国連海洋法条約の下、中国政府には地形の所有権に基づいて審理を拒否する権利があるが、この裁判で争われているのはそうした地形によって生み出される海洋権益である。中国が批准しているその条約によると、その裁定には拘束力があるという。

 中国政府は主権を主張している南シナ海の地形に関して、昔から島であると述べてきた。したがって中国には排他的経済水域(EEZ)を得る権利があり、さまざまな建設や管理の権利があるというわけだ。ところが、仲裁裁判所は中国政府の主張には何の根拠もないとし、そうした地形はすべて単なる岩礁、あるいは「低潮高地」であると判断した。

 仲裁裁判所はさらに踏み込んで、中国政府が南シナ海の大半の領有権を宣言するのに利用した「九段線」の内側にある資源に対しても、中国が主張しているいかなる歴史的権利について認めなかった。同裁判所が中国にこれほど不利な判断を下すと予想した専門家はほとんどいなかった。

 その裁定は法的問題を明確にした一方で、この争いを引き起こした地政学的な競争の解決にはほとんど役に立っていない。中国政府は判断が下るずっと以前から、それが中国の国益に反するものであれば無視すると明言していた。その裁定に対する迅速かつ完全な非難により、今や中国は国際社会を向こうに回してしまった。

236NAME:2016/07/25(月) 23:55:39
 危険なのは、中国政府が今や同国と国際社会の関係はこれまで以上に悪化したとみていることだ。市民社会に対する習近平国家主席の厳しい取り締まりにより、よりリベラルな中国の出現は疑問視されている。中国の過去数十年に及ぶ世界との関係強化も今やスリクにさらされているのかもしれない。

 中国政府は物議を醸す問題で協力するどころか、近隣諸国を警戒させたり、威嚇したりする政策を一層強化するかもしれない。だとすれば中国は、今や法的判断を後ろ盾とした国際社会がそうした行動にますます反発するということを予期すべきだろう。こうした状況はアジアにより不安で危険な時代をもたらすことになる。

 国際法は第2次世界大戦後の世界秩序の基盤であるという慢心は、衰えることがない国民国家の利権というものにいつも挑戦されてきた。国内の法制度の不完全で混乱した枠組みを世界の舞台に移行させるという遠大な試みは、国際交流の大きな部分を形作ってきた。しかしそれは、地政学的利益を具体化するのには失敗してきた。

 世界的な法制度の正当性は今やその裁定に対する中国の反応によって試されるかもしれない。中国政府は「南シナ海の領土主権と海洋権益がその裁定の影響を受けることはないだろう」と述べている。そうした権益の支配を確立するために中国は何をする気なのか。

 中国は他国の漁船に対する嫌がらせや妨害を継続する可能性が高い。ベトナムは先週、南シナ海のパラセル(中国名・西沙)諸島付近でベトナム漁船が中国船から体当たりを受けて沈没したと主張した。

 中国政府は南シナ海での人工島建設を「決してやめない」と述べ、さらに挑発的な態度を示した。物議を醸したスプラトリー(南沙)諸島での埋め立て活動の再現で、スカボロー礁(中国名は黄岩島)に防御施設や軍事基地を建設するかもしれない。2012年にフィリピン最大のルソン島からわずか210キロしか離れていないスカボロー礁を奪い取って実効支配している中国は今やフィリピンにとって脅威となっている。

 法的な後ろ盾を得たことで、中国の近隣諸国はより強く抵抗するかもしれない。海上軍事衝突の可能性は劇的に高まるだろう。中国も愛国心から同様に強硬な姿勢で権益をあきらめることはないということを示そうとするかもしれない。

 今回の裁定では、米国がこの地域の同盟国やパートナーをより直接的に支援することへの期待も高まるだろう。米国政府に対する「航行の自由」作戦や外国漁船に対する中国の嫌がらせを防止する活動への協力の要請もこれまで以上に増える可能性が高い。そうしたことに対する不満感から中国が国際社会からこれ以上孤立したり、影響力を行使する手段としてあからさまな軍事衝突に向かうことがないように、米国は一貫した戦略を練らなければならない。

 ハーグの仲裁裁判所の裁定によってアジアの海域の覇権争いが解決するということはなかった。それはむしろ悪化した可能性が高く、戦争のリスクも高まってしまった。(筆者のマイケル・オースリン氏はアメリカン・エンタープライズ研究所の日本部長)

237NAME:2016/08/03(水) 13:50:41
日本の国際的評価を高めた「義和団事件」と日露戦争への道
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e5%9b%bd%e9%9a%9b%e7%9a%84%e8%a9%95%e4%be%a1%e3%82%92%e9%ab%98%e3%82%81%e3%81%9f%e3%80%8c%e7%be%a9%e5%92%8c%e5%9b%a3%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8d%e3%81%a8%e6%97%a5%e9%9c%b2%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%b8%e3%81%ae%e9%81%93/ar-BBvaOdj#page=2

近刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)が発売4日でたちまち重版・4万5000部突破の気鋭の戦史・紛争史研究の山崎雅弘による新連載です。日本の近現代史を世界からの視点を交えつつ「自慢」でも「自虐」でもない歴史として見つめ直します。『5つの戦争から読みとく日本近現代史』からそのエッセンスを紹介しています。第3回は三国干渉から、日本の国際的評価を高めた義和団事件収束、そして日露戦争への道を解説します。

三国干渉はロシアとの衝突の予兆だった

9ヵ月間にわたり繰り広げられた日清戦争は、新興国日本の存在感を国際社会に誇示する出来事であったのと同時に、日本政府と日本国民に、自国の「強さ」と「弱さ」の両方を思い知らせた事件でもありました。

日本の「強さ」とは、清国との戦争で日本軍が示した戦争遂行能力の高さであり、「弱さ」とは、戦後処理の過程で生じた遼東半島の返還要求(三国干渉)を、日本政府がなす術もなく受け入れさせられたという外交面での無力でした。

日本は「西洋のルール」をきちんと守って清国との戦争を行ったはずなのに、どうして欧州の列強は、理不尽な干渉をしてくるのか。それは、日本がまだ「二流の国」だと彼らに見くびられているからではないのか……。

戦場での連戦連勝にもかかわらず、戦後処理では部分的に「敗北」させられたことに、大きな屈辱感を覚えた日本国民は、これ以降「臥薪嘗胆(あえて自分を苦難に追い込むことで屈辱を忘れず鍛錬に励む態度を意味する故事)」を合言葉に、さらなる「強国」を目指して政府が打ち出した軍備増強政策を支持し、高くなった税金にも我慢して、政府の「富国強兵」政策に協力することになります。

一方、日清戦争における日本軍の勝利は、日本を取り巻く安全保障面での問題を根本的に解決することには繫がりませんでした。むしろ逆に、朝鮮半島をめぐる戦略的なゲームに、新たな「プレイヤー」を引き込むという予期せぬ結果をもたらすことになりました。

そのプレイヤーとは、北の巨大帝国ロシアです。ロシアは、以前から極東方面において南への勢力拡大の機をうかがっており、日清戦争で日本・朝鮮・清国の勢力バランスが大きく揺らいだのを見て、「わが国が南方に進出するチャンスが到来した」と理解していました。

この時、清国と朝鮮もまた、それぞれ異なる理由で、ロシアの登場を「自国にとって好都合な出来事」だと捉えていました。清国は、日清戦争の勝利で勢いに乗る日本が、本格的に朝鮮や満洲に進出してきたら困ると危惧し、ロシアが北から日本を牽制して、大陸への日本の影響力拡大を邪魔してくれたら大いに助かる、というふうに理解していました。

清国の政治を取り仕切る最高指導者・李鴻章は、1896年6月3日、ロシアのロバノフ外相と露清防敵相互援助条約(露清密約)を結び、満洲を横断する鉄道利権(ロシアのシベリア鉄道と極東最大の軍港ウラジオストクを結ぶ「東清鉄道」の敷設権)をロシアに譲渡して、日本がこの地方に進出しづらくなる状況を創り出しました。

238NAME:2016/08/03(水) 13:51:40
義和団事件── 欧米多国籍軍への初参加

そして、2年後の1898(明治三一)年3月27日には、日本が三国干渉で清国に返還した遼東半島の重要な港湾である、旅順および大連の二五年間の租借権と、そこから東清鉄道に通じる鉄道線(南支線)の敷設権が、清国からロシアへと手渡されました。その二年後に東アジアの国際関係を揺るがす大事件が発生します。

1900(明治三三)年2月、「扶清滅洋(清国政府を助け、外国勢力を滅ぼせ)」という、幕末日本の「尊皇攘夷(天皇を尊び、外国勢力を排撃する)」と似たスローガンを掲げる民族主義者の政治結社「義和団」が、清国の各地で欧米利権の排斥運動を開始し、同日には西太后ら清国首脳が北京を明け渡して西安と脱出しました。

義和団に対する多国籍軍の武力行使において、福島安正少将や柴五郎中佐などの日本軍将校は優れたリーダーシップを発揮し、軍事行動の流儀が少しずつ異なる列強の軍隊に、足並みを揃えさせる役割を担いました。前線で戦う日本軍の兵士も、列強の軍人に遜色ない働きを見せ、欧米列強の首脳は日本軍の統率力や軍事的能力を改めて評価しました。

結局、義和団の乱/北清事変は清国の敗北で幕を閉じ、多国籍軍の構成国は1901年9月7日に締結された講和条約に基づき、ただちに撤兵を開始することになりました。

ところが、満洲支配の既成事実を欲するロシアだけは、自国が権利を有する東清鉄道の線路が義和団に破壊された事実を挙げ、「同鉄道の建設修理事業を保護するため」という理由で撤兵に応じず、逆に満洲駐留部隊の規模を増大させるという行動に出ました。

実は、義和団事件が発生する直前の1899年5月にも、朝鮮半島南端の馬山浦にロシアの軍艦が現れ、朝鮮政府に同地の租借を要求する事件が発生していました。この要求は即座に拒絶されたものの、ロシアはなおも朝鮮の利権を求めて威嚇を繰り返しました。

こうしたロシアの行動は、数年後に日露戦争を引き起こす原因のひとつになります。

239NAME:2016/08/14(日) 23:06:16
2万枚のネガに刻まれた戦争 “大東亜共栄圏”の実像
https://www.youtube.com/watch?v=6_u4Svthrl8kanta
a1 か月前
日中戦争で軍部の予算が大幅に増額されて海軍の夢だった対米戦7割の戦力がそろったからだよ
国民は経済的に困窮しても、中国軍相手には無傷の帝国海軍は潤っていた
初期の海軍の快進撃は機動艦隊の活躍もあるけど、アメリカは大西洋と太平洋で戦力を二分する必要があるからアメリカの七割あれば戦えると実は計算された勝利だったのよ

でアメリカもそのことを自覚してるから海軍軍縮条約で日本の戦力をアメリカの6割にとどめるようにしてた

そしてアメリカは大恐慌と孤立主義で軍の再建途中でアメリカの国力を考えるとかなり弱く、スターク案・・・日本軍を圧倒できるのは1944年の予定だった
山本56が一年やそこらなら戦えると言ったのはスターク案を海軍が理解していたから、だから海軍は早期講和!とアグレッシブに攻撃しまくるけど、陸軍はWW1の結果を研究してたから太平洋戦争も総力戦になると分かってた陸軍は持久戦を計画していた

イギリスはドイツが倒してくれると他人任せ

で開戦の原因は・・・無いんだなw
当時の日本軍って下剋上主義と若手の強硬派がジーさん将軍を操ってたり、石油の禁輸にビビったり、ドイツに便乗するだけのハゲタカと好き勝手やってるだけなのね
リーダー不在で好き勝手にやってたら戦争が泥沼だわアメリカと敵対するわ、リーダーが居ないから決断・・・妥協もないわでそのままGOで戦争

240NAME:2016/08/15(月) 01:35:32
オバマ氏の広島演説を批判=カストロ前議長が90歳―キューバ
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%82%aa%e3%83%90%e3%83%9e%e6%b0%8f%e3%81%ae%e5%ba%83%e5%b3%b6%e6%bc%94%e8%aa%ac%e3%82%92%e6%89%b9%e5%88%a4%ef%bc%9d%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%83%88%e3%83%ad%e5%89%8d%e8%ad%b0%e9%95%b7%e3%81%8c%ef%bc%99%ef%bc%90%e6%ad%b3%e2%80%95%e3%82%ad%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%90/ar-BBvBh1p

【リオデジャネイロ時事】キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長は13日、90歳の誕生日を迎えた。5月に広島を訪問した際のオバマ米大統領の演説を批判するコラムを寄稿したほか、卒寿の式典に出席して4カ月ぶりに公の場に姿を見せ、反米主義を掲げる「革命の英雄」の健在ぶりをアピールした。

 前議長は13日の共産党機関紙グランマ(電子版)で、広島で行われたオバマ大統領の演説は「何十万人の住民を殺害したことへの謝罪の言葉が欠けていた」と強調。広島と長崎を無作為に選んだ原爆の投下は「犯罪的な攻撃だ」と厳しく指摘した。コラムは12日付。

 弟のラウル・カストロ国家評議会議長や同盟国ベネズエラのマドゥロ大統領とともにハバナで行われた式典にも出席した。背中は丸まっているが、白いジャンパー姿で元気にマドゥロ氏と談笑する様子などが国営テレビでも生中継された。

241NAME:2016/08/16(火) 22:39:33
【軍事ワールド】「特攻隊」ドイツにも… 独版「紫電改のタカ」に米英爆撃機は震え上がる 大戦末期秘録
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e8%bb%8d%e4%ba%8b%e3%83%af%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%89%e3%80%91%e3%80%8c%e7%89%b9%e6%94%bb%e9%9a%8a%e3%80%8d%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e3%81%ab%e3%82%82%e2%80%a6-%e7%8b%ac%e7%89%88%e3%80%8c%e7%b4%ab%e9%9b%bb%e6%94%b9%e3%81%ae%e3%82%bf%e3%82%ab%e3%80%8d%e3%81%ab%e7%b1%b3%e8%8b%b1%e7%88%86%e6%92%83%e6%a9%9f%e3%81%af%e9%9c%87%e3%81%88%e4%b8%8a%e3%81%8c%e3%82%8b-%e5%a4%a7%e6%88%a6%e6%9c%ab%e6%9c%9f%e7%a7%98%e9%8c%b2/ar-BBvFTe0

「特攻隊」はドイツにもあった-。米の外交専門誌「ザ・ナショナル・インタレスト」(TNI、電子版)は7月、第二次大戦末期のドイツが日本の神風特別攻撃隊(特攻隊)をヒントにした、敵爆撃機に体当たり攻撃する戦闘機隊「エルベ特別攻撃隊」の実態を報じた。大戦末期、敗戦が迫るなかの日本とドイツの航空戦には共通点が浮かび上がる。(岡田敏彦)

爆撃機を迎え撃つ

 日本の特攻隊は、敵艦船に対して生還の可能性が全くない体当たり攻撃を行うものが主だったが、ドイツの「エルベ特別攻撃隊」は事情が異なる。ドイツが参考にしたのは、日本の「震天制空隊」などの敵爆撃機に対する体当たり攻撃部隊だった。攻撃方法は対艦船と同じく、乗機もろとも敵に突っ込む体当たりが基本だが、エルベ特攻隊の場合は体当たり後に壊れた乗機からパラシュートで脱出、生還することとなっていた。

 TNI誌(電子版)などによると、部隊が発足したのは1945年3月。終戦まで2カ月という時期だった。ドイツではジェット戦闘機Me262など革新的な戦闘機が実用化されていたが、あまりにも数が少なく、実用化も遅すぎた。結果、昼は米軍の4発重爆撃機B-17やB-24が、夜は英軍のランカスター重爆撃機が爆撃する状態にあった。

 迎撃に飛び立つドイツ空軍は、昼夜両面の対応に苦闘していた。その迎撃にあたってキーマンとなったのが、後にエルベ特攻隊を発案するハヨ・ヘルマン大佐だった。ヘルマン大佐こそ、対爆撃機戦術を編み出してきた第一人者だったからだ。

対爆撃機の専門家

 ヘルマン大佐は、英軍がレーダー攪乱材「ウインドウ」(現代の「チャフ」の原型)を用いてドイツの夜間防空体勢が壊滅の危機に瀕した際、レーダーに頼らない「目視での」迎撃戦法を立案した。

 闇夜にカラスを探すような難しさだが、それを解決するため、ありったけのサーチライトで爆撃機を照らす方法を導入した。それに加えて実際には、爆撃で燃えさかる都市の炎さえ利用された。炎の照り返しを受けてぼんやり浮かび上がる敵機に対し、あらかじめ空中で待機していた戦闘機が総攻撃をしかけるというものだ。

 この戦闘方法なら、レーダーを積んだ貴重品の夜間戦闘機ではなく、数多い昼間戦闘機を投入できる。地上のレーダー誘導を受けないことから「ヴィルテ・ザウ」(野生の猪)と呼ばれたこの戦法は、後に専門部隊(JG300)が創設され、通常の20ミリ機関銃よりも威力の高い30ミリ機関砲を装備する専用機も作られ、一定の戦果をあげた。こうした戦術を編み出した実績を持つヘルマン大佐が、肝いりで立案したのが「エルベ特攻隊」だった。

242NAME:2016/08/16(火) 22:40:05
一度きりの出撃

 体当たり戦術を取り入れざるを得なかった背景には、大戦末期の日本と同様に、熟練パイロットが激減したという事情がある。

 米英軍のB-17やランカスターは機体の前後上下に迎撃用の機関銃を装備しており、夜間なら闇にまぎれて忍び寄れるが、昼間はこうした機銃の餌食になる危険性が高い。戦闘機で迎撃するにも、有効射程に入る前に撃ち落とされてしまうことも度々あった。もはや撃墜するには、体当たりしかないとの悲惨な状況だった。

 独週刊誌「シュピーゲル」(電子版)などによると、エルベ特攻隊の実現化にあたっては様々な検討がなされた。機体をぶつけるというよりは、プロペラで敵機の翼を切り裂くような戦法が創案された。また、空冷エンジンよりも重い液冷エンジンを搭載した機体で機首から突っ込み、エンジンの質量で敵機に大ダメージを与えるという案も採られた。体当たり後のパイロットは大破した機体からパラシュートで生還するとの方針だった。日本の特攻隊との最大の違いについてTNIは、その可能性はともかく、まがりなりにも生還が前提とされてることをあげている。ただし、日本の震天制空隊など爆撃機への体当たりを目的とした部隊では、やはり生還者は皆無ではない。

 エルベ特攻隊の隊員は志願制で集められ、45年4月7日、1300機を擁する米軍の爆撃機の襲来に対して初の出撃命令が下る。

 183機のBf109戦闘機やFw190戦闘機で構成されたエルベ特攻隊が爆撃機に体当たりするべく飛び立った。シュピーゲル誌(電子版)によると、この攻撃中、ドイツの無線は「連合軍の爆撃で死んだ母や妻、子のことを想起せよ」といった悲壮なプロパガンダ放送を流した。だが、結果は期待したようなものではなかった。

 大戦末期では経験豊富なパイロットは多くなく、離陸での事故も頻発。実際に戦闘できたのは100機程度で、米軍の記録では、撃墜されたのは全部で17機。ただし、この作戦には「エルベ特攻隊」のほかにも多くのドイツ戦闘機隊が参加していた。一方でエルベ特攻隊の被害は甚大で、183機のうち、出撃基地に無事戻ったのは15機。133機が撃墜もしくは修復不能な被害を受け二度と飛べない状態となった。被害の大きさと戦果の少なさ、そして補充する戦闘機がないため、エルベ特攻隊は約10日後に解隊された。

 ちなみにエルベ特攻隊が唯一の作戦を行った4月7日、日本では海軍の戦艦大和が沖縄特攻の「天一号作戦」の途上、米海軍機動部隊の攻撃により坊ノ岬沖で撃沈されている。

エースを集める

 パイロットと機材の不足は日独ともに大戦末期共通の課題だったが、「特攻隊」とは対称的な部隊が作られたのも日独共通だった。日本では源田実大佐の発案により、新鋭機「紫電改」と熟練パイロットを集中配備した第343海軍航空隊「剣部隊」が編成され、松山を基地に防空戦を展開するが、ドイツではさらに強力なエリート部隊が創設された。

 1945年1月、ドイツ空軍の総司令官ヘルマン・ゲーリングと対立し、空軍戦闘機隊総監の職を追われたアドルフ・ガーランド中将は、戦友のヨハネス・シュタインホフ大佐らの支援を得て、その階級とはかけ離れて“格下”の一戦闘機部隊の指揮官として空軍に残った。指揮する戦闘機部隊の名は「JV44」(第44戦闘団)。世界初の実用ジェット戦闘機Me262を運用する部隊だ。

 Me262を高速爆撃機として運用しようとしたアドルフ・ヒトラー総統とゲーリングに反し、戦闘機としての運用を主張し続けたガーランドが、その自説を実証するとともに、連合軍に対し一矢報いようとしたのだ。

 当時は多くのドイツ戦闘機部隊が壊滅的被害を受けて組織的戦闘ができなくなっていた。そんななか、大戦初期で96機を撃墜した伝説のエースであるガーランドの下で戦おうというパイロットたちが次々と入隊してきた。戦争末期の混乱のなか、異動命令なしに転属、つまり勝手に集まってきたのは、名だたるエースばかり。

 50〜100機撃墜を目安に与えられる勲章「騎士鉄十字章」を持っている者が大半で、さらに上位の「柏葉付き騎士鉄十字章」を持つヴァルター・クルピンスキ大尉(197機撃墜)や「柏葉剣付き」を持つゲルハルト・バルクホルン少佐(301機撃墜)、ハインツ・ベーア中佐(220機撃墜)ら、ドイツ空軍の屋台骨を背負ってきたパイロットが勢揃いした。ジェット機への転換訓練に手間取り、燃料不足に苦しむなか、4月から5月7日の部隊降伏までに47機を撃墜し、その幕を閉じた。

243NAME:2016/08/19(金) 01:39:43
ミャンマーは本当に“親日国”なのか?両国の忘れてはならない歴史 - 根本敬 (上智大学総合グローバル学部教授)
http://blogos.com/article/187369/

244NAME:2016/09/12(月) 16:35:50
3つの「選択ミス」が日本を戦争へと走らせた 一番の大きな曲がり角はリットン報告書
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/3%e3%81%a4%e3%81%ae%ef%bd%a2%e9%81%b8%e6%8a%9e%e3%83%9f%e3%82%b9%ef%bd%a3%e3%81%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%82%92%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%b8%e3%81%a8%e8%b5%b0%e3%82%89%e3%81%9b%e3%81%9f-%e4%b8%80%e7%95%aa%e3%81%ae%e5%a4%a7%e3%81%8d%e3%81%aa%e6%9b%b2%e3%81%8c%e3%82%8a%e8%a7%92%e3%81%af%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%b3%e5%a0%b1%e5%91%8a%e6%9b%b8/ar-AAiKwPI#page=2


日本は世界から「どちらを選ぶか」と三度、「戦争まで」の10年の間に問われた。それでもよりよき道を選べなかったのはなぜか。『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』著者の加藤陽子・東京大学文学部教授に話を聞いた。

 ──1941年の宣戦布告まで10年間に三度、問われたのですね。

 リットン報告書、日独伊三国軍事同盟、それに日米交渉。つまり1932年にリットン報告書を受け取るかどうか、20日間で急いで三国軍事同盟を結ぶかどうか、1941年4月に始まり太平洋戦争の直前まで行われた日米交渉を妥結して、米国と戦争をしないことにするかどうか。「憲法原理」で譲れない部分の戦いだった。

「憲法原理」で譲れない部分の戦いとは?

 ──憲法原理とは。

 フランスの思想家・ルソーは、戦争がなぜ起こるかを一言で答えてくれている。戦争は、主権や社会契約に対する攻撃であり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとるものだと。この場合の憲法とは、具体的な条文ではなく、その社会を成り立たせている基本的秩序、憲法原理を意味する。

 私が未練がましく、戦争において「たら」「れば」をしつこく言うのは、現実に歴史上起こったからといって、それがいちばん蓋然性の高いことだったわけではないからだ。

 ──いちばん高くはない?

 すぐに思い浮かべることができるのは最近の自然現象、熊本の地震だ。蓋然性が高かったわけではなく、次に地震が起こる確率は0.3%と学者が言い切れる事例だった。それでも、起こった。戦争は、交渉がいろいろな意味で失敗して起こる。戦争についてもその前に学者が予想していれば、こういう条件があってそれで戦争が起こる確率はコンマ以下だったと言ったかもしれない。

 起こった因果関係を歴史学者が勝手に説明するのではなく、さまざまな可能性を描くのが大事だ。非常に蓋然性は低くても、起こったことの意味の大きさから言えば、事実に驚いたほうがいい。それでも、起こったのだ。そう認識すれば、いずれにおいてもその過程でさまざまに努力を払うべき度合いを高くしようという促しになる。

245NAME:2016/09/12(月) 16:37:31
 ──その際は選択肢をはっきりさせることが必要ですね。

 三度問われた機会にも、選択肢が本当の実態を反映させた形でわかるようにメディアや学校で示されてはいない。そういう時代があったことをいつも頭の隅に置いておけば、「AするためにはBしなければいけない」「もしこうすれば、確実に〜できる」というような選択肢を国家なり政党なりから問いかけられたときにも、批判ができるし、冷静な判断を下せる。

 ──特に政治や外交では選択肢が見えにくい。

 仮に日本が困難な交渉に至り、世論が中国をたたけというような絶望的な方向になったとする。その最後の交渉に外相が行くのを、どうせダメといった気持ちで見るのではなく、むしろ0.3%の蓋然性でも起こったことがあると思い返し、あらゆる選択肢を思い起こすことだ。

 最悪の失敗例を詳細に知っておくことで、その失敗例が歴史上の現実になったこと自体、必ずしも蓋然性が高くて起こったのではなかったことを理解する。その連関をつぶさに知れば冷静に物事を見る目を養うことができる。

リットン報告書が一番の大きな曲がり角

 ──最悪の失敗例として、この三つを選んだ理由は。

 1929年に世界恐慌が始まっていた。この三つはいずれもそれ以降の日本の、経済的な行方を左右する条件を決めていく交渉事だった。中でも1931年の満州事変を契機とするリットン報告書が一番の大きな曲がり角だ。妥結の可能性も高くあり、松岡洋右外相もあれだけ粘る。中国側の報告書に対する本当の反応は、日本側の既成事実に配慮しすぎだと厳しく批判したもので、実際に読んでもらえば、報告書が中国側に一方的に肩入れしたとのイメージは一変するはずだ。そのあたりを丁寧に議論した。

 いずれも日本の憲法原理を問われ、それに答えなければいけない交渉事であり、米国と日本が不倶戴天の関係になっていく流れを促した。日本は第1次世界大戦以降、1920年代に資源を輸入して製品を輸出する大きな工業国として成長していた国。米国と協調できていた。それが1930年代からうまくいかなくなる。東アジア、西太平洋で米国の自由貿易、自由航行を許すのかどうか。両国の憲法原理で譲れない部分の戦いだ。それが戦争直前の10年間に三度にわたり問われたのだ。

 ──近年の中国にも似たことがいえるようですね。

 今も米国、英国、ロシア、中国ほか、あらゆる国にはそれぞれの憲法原理がある。そして、これは譲れないとそれぞれの憲法原理を世界に発信している。その中で中国に、その憲法原理は認められないと、世界からじわじわとシグナルが送られ始めている。10年間をかけて日本はどうするかを問われ、うまく対応できなかった。今、中国もベトナムに問われ、フィリピンに問われ、米国や日本にも問われ、そのような状況が積み重なり始めた。

国家の利害を代表する当事者たちの舞台裏

 ──この本は同時に世界史の中の日本政治経済史になっていますね。

 1930年代の歴史は政治経済が軸で展開する。日本において世界史の一角で国家の利害を代表する当事者が、死活的に命を削って交渉に励む姿が見えてくるだけではない。米国に資産を押さえられる前に横浜正金銀行にある日本円をいち早く下ろしていたとか、禁輸前に米国の国務省から揮発油の「輸入許可手形」をもぎ取るとか、あるいは交渉時に日本は米国の通信暗号を9割方解読していたとか、「切り結ぶ」舞台裏のエピソードに事欠かない。

 ──正統派の歴史書?

 若い人の中にいる「日本を愛したい、でも悪いことをやったというのでは愛せない」と言う人たちに伝えたい。確かに大きな失敗をして、失敗からのリカバリーも本当に大きな負担となった。この三つの交渉事の結果、日米戦争が起き、ドイツと米国の戦争も起こり、アジア、太平洋が日本軍の占領下に置かれて、世界がくまなく戦場になった。そういう大きな戦争を世界でつなげることをやった国だが、その後71年間頑張って文化的なコンテンツも含め幸せだと外からうらやまれる国になった。だから、愛していい国だと教えてあげたい。

 現在、真面目な歴史書が自虐史観やお花畑状態などといわれることもある。実証的に支持されないことを言っていれば職を失う立場にある人間が、まじめに書いているから安心といわれながら、「学説知」と「世間学問知」の間を信頼感で埋める役割を担えればいいと考えている。

246NAME:2016/09/17(土) 22:49:24
敬服に値する・・・日本はなぜ「精緻さを追求する国」になったのか=中国
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%95%ac%e6%9c%8d%e3%81%ab%e5%80%a4%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e7%b2%be%e7%b7%bb%e3%81%95%e3%82%92%e8%bf%bd%e6%b1%82%e3%81%99%e3%82%8b%e5%9b%bd%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd/ar-BBwfTzc#page=2

多くの中国人にとって、日本は複雑な感情を抱く国のようだ。歴史問題による怨恨を忘れることができない一方で、日本の製品やサービスの質の高さ、秩序ある日本社会などは称賛せざるを得ないと考えているらしい。 中国メディアの東方頭条はこのほど、日本は国土が狭く、人口が多く、資源が少ないという不利な条件のもとで「精緻さを追求する国」になったと主張し、中国人にとって敬服に値する国だと伝えている。

 記事は、国土の小ささによって「精緻さ」を身につけたと主張し、例えば農業では小さな耕地であっても、質の高い農作物を生産するための工夫が数多くなされていることを指摘。また、小国であるからこそ、日本人は常に危機感を持ち続けてきたとし、それが日本の発展とイノベーションにつながったのではないかと考察した。

 続けて、日本が中国を侵略したのも国土の小ささを背景とした危機感によるものであり、中国侵略の失敗によって日本はさらに危機感を高めることになったと主張。だからこそ、現代の日本社会では「あらゆることがルールや規則どおりに行われ、ちょっとした違いも許されない厳格さが実現したのだ」と主張。こうした厳格さがあるため、日本社会は製品からサービスまで、あらゆる存在が精緻なのだと論じた。

 一方で記事は、「中国人は自国の大きさをいつも自慢しているが、誇れるのはそれしかない」と主張。自国が大きいゆえに日本人のような危機感を持っていないのが中国人の欠点であるとし、「自国の短所や欠点を見抜き、それを補って余りある強みを確立した日本は、やはり敬服に値する」と主張している。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

247NAME:2016/09/21(水) 15:57:49
マッカーサー 日本人は「12歳」発言
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/1617647.html

民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べた。

248NAME:2016/10/04(火) 15:21:50
血に染まった島ペリリュー島での戦いに迫る実録映画
http://www.msn.com/ja-jp/movies/story/%E8%A1%80%E3%81%AB%E6%9F%93%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B3%B6%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%B3%B6%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E6%98%A0%E7%94%BB/ar-BBwVr2U

太平洋戦争中に起こった旧日本軍とアメリカ軍の「ペリリュー島の戦い」に迫ったドキュメンタリー映画『追憶』の予告編が公開され、南太平洋パラオ諸島に浮かぶ小さな島で起こった壮絶な戦いの一部が明らかになった。

 1944年11月、70日に及ぶ激戦の末、旧日本軍、アメリカ軍、あわせて1万人を超す命が散ったペリリュー島。昨年4月には天皇・皇后両陛下が訪問され、慰霊碑で戦没者を追悼された。本作は70年前の激闘にアメリカの国防総省や国立公文書館に残る資料や、ペリリュー島で戦った元旧日本兵や元アメリカ軍海兵隊兵士の証言などから迫るドキュメンタリー作品。当時の旧日本軍守備隊を指揮した中川州男大佐について書かれた「愛の手紙 ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯」が基になっている。

 美しい現在のペリリュー島の映像から始まる予告編では歌手・俳優・演出家として活躍している美輪明宏による語りとともに、思わず目を覆いたくなる戦争の映像が次々と映し出される。また、戦いに参加していた元日本兵や元アメリカ海兵のほか、戦いのことを知るペリリュー島の島民も当時のことを日本語で振り返っている。 『天心の譜(しらべ)』などの小栗謙一が監督を務めた本作は、約70年前に確かに起こってしまった戦争の空しさと悲惨さを、現代を生きる日本人に訴えかけてくる。(編集部・海江田宗) 映画『追憶』は11月5日公開

249NAME:2016/10/04(火) 22:47:25
【松代大本営】
大戦末期、本土決戦の最後の砦 移転先として極秘建造された地下壕の全容がついに…天皇御座所予定地跡も
2016.10.3 10:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/161003/prm1610030001-n1.html

先の大戦末期に皇居や政府機関の移転先として建設が進められた長野市の「松代大本営地下壕」のうち一般公開されていない「舞鶴山地下壕」について同市が、近い将来に保存や管理、公開ができないか検討に入った。舞鶴山地下壕の上には「天皇御座所予定地跡」など歴史的に重要な遺跡がある。当時のもようを後世に伝える貴重な史跡の取り扱いの行方が注目される。(長野支局 三宅真太郎)

 舞鶴山地下壕は大戦最中の昭和19年に同市松代地区の舞鶴山に堀り抜かれた。大本営、天皇、皇后両陛下の部屋と宮内省(宮内庁の前身)の移転が予定されていたが、実現しないまま20年に終戦を迎えた。そして22年、地下壕の地盤が固いうえ、通年の気温変化が少ないといった理由で、地下壕と地上施設に中央気象台松代分室(現・気象庁松代地震観測所)が開設された。

 同分室には多い時で十数人の職員が常駐し、地震観測業務が継続されてきた。その間、一般の見学者は内部の一部エリアや展示室に入ることができた。 しかし今年4月、気象庁のシステム更新に伴って解析業務を東京の本庁に移管したため無人化された。これにより施設公開への扉は閉ざされ、一般来訪者が内部に触れる機会は年1回、10月に開催される見学会のみとなった。

 舞鶴山地下壕は今後、観測機器や書類などの整理を終えた後、所管が気象庁から財務省に移り、国有財産として管理される予定だ。同省への移管作業には数年かかるとみられているが、移管後に一般公開される見通しは立っていない。 財務省担当者は「一般的に戦争遺跡には崩落の危険など安全面の課題も多く、財務省として管理して公開することは難しいのではないか」と話す。

 そこで長野市は、同省から譲渡や貸与を受けることにより、将来的に責任をもって保存や管理、公開する道筋を模索することになった。加藤久雄市長は8月24日の定例記者会見で「天皇、皇后両陛下の御座所もあり、非常に貴重な施設だ。市として保存、公開も視野に入れて考えたい」と述べた。一方、舞鶴山の近くにある「象山地下壕」については、市が平成元年から約500メートル部分を管理して無料で公開しており、年間10万人前後の見学者が訪れる。

 松代大本営地下壕の保存活動や観光客向けのガイドを行うNPO法人「松代大本営平和祈念館」の花岡邦明理事長(65)は、産経新聞の取材に対し、「終戦から71年が経ち、直接語ることができる人が減っている中で、当時を物語る戦争遺跡は貴重。市民の学習の場として広く公開してほしい」と語る。

 松代大本営地下壕 先の大戦末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘裏に大本営や政府各省などを移す計画で昭和19年11月から翌年8月の終戦の日までの9カ月間で建設され、全工程の約8割が完成した。長野市松代町の舞鶴山、皆神山、象山に碁盤の目状に掘り抜かれ、総延長は10キロに及ぶ。

250NAME:2016/10/30(日) 23:33:54
【戦後70年】
真珠湾奇襲、英MI5は知っていた 証拠の日記見つかる 007のモデルのスパイ暗躍 情報伝えられたFBI長官は…
2014.12.8 09:30更新
http://www.sankei.com/world/news/141208/wor1412080016-n1.html

73年前の12月8日、日本は真珠湾を攻撃した。当時の日本の最高機密だが、英独の二重スパイが攻撃計画を事前に察知し、英MI5(情報局保安部)が把握していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。MI5のガイ・リッデル副長官は日記に、スパイが奇襲4カ月前に独側から偵察を指示されたリストに真珠湾と米艦隊があったことを「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。スパイの回顧録によると、米FBIにも奇襲を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰していたという。(編集委員 岡部伸)

 このスパイは、セルビア人のドシュコ・ポポフ。コードネームは「トライシクル」(三輪車)で映画「007」シリーズのジェームズ・ボンドのモデルの1人として知られる。 リッデル日記によると、真珠湾攻撃後の1941年12月17日付に「『トライシクルの質問状』を今、われわれ(MI5)が所有している。これは8月にドイツ人たちが真珠湾について特別に関心を示し、可能な限りのあらゆる情報を入手したがっていたことを極めて明瞭に示している」と書かれていた。

 ポポフの回想録「スパイ/カウンタースパイ」によると、「トライシクルの質問状」は、ポポフが同年7月、ポルトガルのリスボンで独諜報機関のアプヴェール(国防軍情報部)から「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。この中に真珠湾の米軍施設や米艦隊などが含まれていたという。

ポポフは、アプヴェールの同僚から、1940年11月に英海軍が航空機でイタリアの軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を示していると聞いていたため、日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測したという。 渡米したポポフは、FBIのニューヨーク支部長と面会し「日本が真珠湾を奇襲する可能性がある」と告げた。フーバー長官にも面会して進言したが、フーバーは二重スパイのポポフを信用せず、個人的に握り潰した。さらにフランス人のハリウッド女優、シモーヌ・シモンと交際し、高級ホテルやペントハウスで暮らす豪勢な生活を非難したという。

 「質問状」は書類だけでなく、ドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘の連絡手段「マイクロドット」としても手渡された。高倍率の拡大鏡で見ると微細な文字が判明する技術。ポポフはこれをFBIに渡し、英米は初めてドイツの革命的なスパイ技術の存在を知った。 真珠湾を偵察する「質問状」は、明確な攻撃計画ではなく、奇襲の意図も明記していないため、日本の奇襲計画情報を入手して、米国に伝えたというポポフの主張は信頼性に欠けるとの見方もあった。

251NAME:2016/10/30(日) 23:34:30
しかし、その後、情報公開が進み、米国では「ポポフの真珠湾情報はフーバーに伝わったが、ルーズベルト大統領まで上げられなかった」とする論文も発表された。大戦中にドイツの「エニグマ」など世界各国の暗号を解読し、現在は博物館となっているブレッチリーパークでも「ポポフは奇襲4カ月前にリスボンで真珠湾の『調査』情報を受け取り、MI5に報告し、FBIに伝えた。しかし、フーバー長官は、ポポフを嫌い、拒否。FBIのエージェントは敬意を払って関心を持った」とポポフが真珠湾情報を得て英米に伝えていたと公表している。

【プロフィル】ドシュコ・ポポフ セルビアの裕福な家庭に生まれ、ドイツの大学を卒業後、弁護士となった。第二次大戦勃発後、ドイツのスパイとなったが、ナチス嫌いだったため、英MI5に引き抜かれ、二重スパイとなった。ノルマンディー上陸作戦で偽情報をドイツに流して作戦を成功に導いたことにより戦後、英国籍を得て英国王室から勲章を受けた。

 ギャンブル、女性好きで知られ、「007」のジェームズ・ボンドのモデルの一人とされる。コードネーム「トライシクル」は「女性2人とベッドを共にする習性」「部下を2人雇って3人で情報収集」などから命名されたといわれる。「007」原作者のイアン・フレミングはポポフの監視役だった。

【用語解説】MI5 英情報局保安部。英国内での外国スパイや共産主義者などの摘発、国家機密の漏洩阻止などのカウンター・インテリジェンス(防諜)を行う内務省管轄の情報機関。冷戦時代、ソ連のスパイ、キム・フィルビーら「ケンブリッジ5」を突き止め、大戦中は、日独の諜報活動に監視の目を光らせ、二重スパイを送り込み、欺瞞情報を流して勝利に貢献した。英国は他に外務省管轄の通称「MI6」、秘密情報部(SIS)を持つ。

252NAME:2016/11/25(金) 02:07:26
ククリット・プラモード
http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-798.html

しかしながら、 そういったプロパガンダの試みは 度々失敗の憂き目を見た。 なぜなら、 強制労働、 米の供出義務、 軍警察(ケンペイタイ)の恐怖、 殴打、 暴行、 日本人に対するお辞儀の義務 といった 日本の占領下における 苦い現実があったからだ。  -- 中学校教科書 --

この文章を紹介したのは、名越二荒之助という方で、 デビュー作の 「大東亜戦争を見直そう」 の中にある。 (それ以外にない。 したがって、 今 この文章が 盛んに使われているが、 原典は これのみであり、 引用先を 明示しないのは おかしいといえる。)  

ククリット・プラモード元首相について
http://kuruzou.zero-yen.com/khukrit.htm
老境に達して糖尿病が悪化し、車椅子の不自由な生活を余儀なくされていたククリットさんは、しばしば日本の大学から、「本学の名誉博士号をやるから、日本まで取りに来い」と言われ、相当頭にきていた。また、部下であるサイアム・ラット紙の記者さえも、めったにサートン通りの自宅へ招き入れないのに、アホ面をさらした日本の右翼は、あたかも神様に謁見を求めるかのような慇懃無礼さで前触れなく押しかけてくる…ククリットさんを反日家に仕立てたのは、他でもなく、戦後民主主義にかぶれた日本人の無神経さと、先達の遺骨ばかりしゃぶって、一向に自分たちの世代の責務(使命感)に覚醒しようとしない日本人愛国者のレトロ感覚に対する苛立ちだったようだ。

「大東亜戦争が正しかったかどうか、まだわからない。いずれにせよ、日本人は『大東亜共栄圏を作る』といってアジアの民衆を戦争に巻き込んだ。武力戦で英米に遅れをとろうと、日本人が立派な大東亜共栄圏を完成させれば、日本の戦争の正義は貫かれる」 大事なのは、歴史の検証や、ましてや靖国議論などではない。武力戦は終わっても、大東亜戦争には、まだ建設の大いなる作業が残されている。爺さんたちが求めていたのは、現代日本人の「行動」だったのである。

253NAME:2016/12/06(火) 05:48:50
【安倍晋三首相真珠湾訪問】
「傑出した知性示せる」「軽率な言動取らないはず」 識者はどう見る?
2016.12.6 00:06更新
http://www.sankei.com/politics/news/161206/plt1612060001-n1.html

現職首相として初めて米ハワイの真珠湾を訪問すると発表した安倍晋三首相。識者はこれをどう見るか。

 ◇杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏(国際政治学)

 「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の真珠湾訪問は連動しており、日米関係にとって好ましいことだ。ただし、安倍首相は謝罪するべきではなく、あくまで慰霊の訪問に徹してほしい。あらゆる国家には独自の歴史認識があり、自国の歴史観を貫きながら相手の立場も理解することが必要だ。今回の訪問は、戦った国同士がいつまでも禍根を残すべきではないということを行動で示すことになる。日米両国の最高指導者が世界でも傑出した知性を示すことになると思う」

 ◇拓殖大学客員教授の潮匡人氏(安全保障)

 「広島でオバマ大統領が謝罪したようにも、していないようにも見えたように、安倍首相も曖昧な言動をするだろう。開戦の通告が遅れたことは歴史的事実として認められていることだが、侵略戦争を認めるとなれば重大な戦争犯罪に問われることになる。安倍首相は広島と長崎への原爆投下、全国への空襲爆撃の遺族の思いも理解しているはずなので、軽率な言動は取らないだろう。和解から、未来に向けた、さらなる日米関係強化のための一歩になることを期待している」

254NAME:2016/12/28(水) 21:24:25
【安倍首相真珠湾訪問】「訪問に感謝」と90歳代の元米兵ら
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e5%ae%89%e5%80%8d%e9%a6%96%e7%9b%b8%e7%9c%9f%e7%8f%a0%e6%b9%be%e8%a8%aa%e5%95%8f%e3%80%91%e3%80%8c%e8%a8%aa%e5%95%8f%e3%81%ab%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%80%8d%e3%81%a8%ef%bc%99%ef%bc%90%e6%ad%b3%e4%bb%a3%e3%81%ae%e5%85%83%e7%b1%b3%e5%85%b5%e3%82%89/ar-BBxDmt3?ocid=iehp#page=2

【ホノルル=加納宏幸】真珠湾攻撃を経験した90歳代の元米兵らは、強い日差しが照りつける中で安倍晋三首相とオバマ米大統領の演説を真剣な表情で見守った。攻撃から75年を経て実現した日米両首脳の訪問を歓迎。式典が終わると、車椅子に座って、攻撃で沈んだ戦艦上に建つ慰霊施設「アリゾナ記念館」をじっと見つめていた。 海軍の医療要員として攻撃を経験したスターリング・ケールさん(95)は首相の訪問を「とてもうれしい。75年が経ち、日本の首相が来てくれたことに感謝している」と述べた。

 ケールさんは、首相が日米両国の和解に言及したことを高く評価し、首相が日本国民として申し訳ないという気持ちを表明したと受け止めた。

 米軍施設に勤務していたアル・ロドリゲスさん(96)は、演説を終えて近付いてきた首相に「ありがとう」というと、抱きしめられた。ロドリゲスさんは、「訪問を楽しみにしていたので、ありがたいことです。私たちは和解した」と述べた。 元米兵らは記者団から真珠湾攻撃について日本の首相からの謝罪が必要かという質問を受けていたが、いずれも首相が訪問に踏み切ったこと自体を評価し、謝罪する必要はないという認識を示していた。

255NAME:2017/02/07(火) 21:14:35
【銀幕裏の声】
ほとんど特攻、海面すれすれまで急降下…機首引き上げた瞬間に敵艦乗員と目が合った 爆撃グラマンを振り切った男(下)
2017.2.7 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170207/wst1702070006-n1.html

映画「永遠の0(ゼロ)」で岡田准一が演じた零戦パイロット、宮部久蔵は卓越した技術で敵艦の艦砲射撃を交わすアクロバチックな操縦を見せた。「零戦パイロットばかりが命を懸けて戦っていたわけではないですよ」と語る元海軍艦上爆撃機「彗(すい)星(せい)」パイロット、大野徳兵衛さん(90)は急降下爆撃の際、海面すれすれまで高度を落とし敵艦に近づき爆弾を投下、機首を引き上げた瞬間、「艦橋にいる敵乗員と目が合った」と言う。アクロバチックな操縦技術を誇ったのは宮部のような戦闘機パイロットだけではなかった。「爆撃機パイロットの腕も凄かったんですよ。私は10回も不時着していますが…」。米軍機も恐れた“高速艦爆”パイロット、大野さんが戦闘機の護衛なし、彗星だけの特攻の真実を明かした。(戸津井康之)

地面に衝突する! 初めて目にした急降下訓練に茫然

 ラバウルの航空部隊で、九九式艦上爆撃機のパイロットとして激戦をくぐり抜けてきた大野さんは、いったん日本へ帰国。昭和19年5月、鈴鹿の航空基地へ友人と2人で向かった。 日本が開発した最新型の高速艦上爆撃機「彗星」の操縦訓練を受けるためだった。 「基地近くの駅に降り立ち、田んぼのあぜ道に腰を下ろして休憩していたときでした…」 2人の目の前で、攻撃機の急降下訓練が始まった。 機体はほぼ垂直に降下、地面に衝突するぐらいの低高度で機首を引き起こし、猛スピードで駆け抜けていった。 「降下の際はエンジンを絞るので、音が小さいのですが、機首を引き上げるときにはパワーを上げるので、もの凄い轟(ごう)音(おん)が周囲に響きます。壮絶な訓練が何回も私たちの目の前で繰り返されたんです」

 この機体こそ、大野さんたちがこれから操縦訓練を受ける最新型の艦爆「彗星」だった。

256NAME:2017/02/19(日) 14:32:55
【満州文化物語(43)】
やっと再訪できた故郷 引き揚げ者の苦悩
2017.2.19 12:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/170217/prm1702170012-n1.html

「親孝行な」妹の死

 「これでやっと中国に行けるねぇ」 日中の国交が回復、平和友好条約も結ばれた後、ちばてつや(78)はあるパーティーで赤塚不二夫(平成20年に72歳で死去)から声を掛けられた。 「え? なぜ中国?」 いぶかるちばに、赤塚は回りをそっと見渡しながらこうささやいた。

 「実はオレ、中国にいたのよ。満州の奉天なんだ」 「えっ、オレも奉天ですよ」 ちばは驚いた。これまで赤塚からそんな話をまったく聞いたことがなかったからである。 終戦時、奉天で消防署に勤務していた赤塚の父親はソ連軍(当時)によってシベリアへ抑留された。残された母親と10歳の赤塚、3人の幼い弟妹の5人は昭和21年6月、命からがら長崎・佐世保港へと引き揚げてくる。そして、母の実家である奈良・郡山に着いた直後、生後6カ月の末の妹は息を引き取ってしまう。

赤塚はその痛恨事を“親孝行”と書いた。《かあちゃんは泣かなかった…ここまで苦労してきたのは、ただ子供たちをどんなことがあってもこの家まで送り届けなければ、という必死な思いがあったからだ…引き揚げの途中で子供に死なれでもしたら、かあちゃんは半狂乱になったかもしれない…そういう意味では本当にかあちゃん思いの親孝行な妹だった、とぼくは思っている》(『赤塚不二夫自叙伝 これでいいのだ』)

 母子がいったん手を離せば、もう二度とは会えない。迷子は即座に「死」を意味する極限状態。トイレも屋根も食べ物もろくにない無蓋(むがい)列車に揺られ、いつ襲われるか分からない道なき道を歩き、1年もかけてやっと引き揚げ船が出る港町まで着いたのだ。その間におびただしい死を見てきた。「生きながらえることができるなら」とわずかなお金で中国人に幼子を託してしまった親は数知れない。

「余計者」へのいじめ

 引き揚げ者は内地(日本)に帰ってからも苦労が絶えなかった。日本中が廃虚になり、住む場所も食べる物もないところへ、“厄介者”が加わるのだ。赤塚の一家も2間しかない実家に大人5人、子供3人がひしめき合う貧乏生活。代表作『おそ松くん』の登場人物はその時代に地元の悪ガキらと遊んだ記憶がモチーフになったという。

257NAME:2017/02/19(日) 14:45:24
ちばは、引き揚げ時7歳。奉天から両親と幼い弟3人で、父の実家の千葉県の田舎へ来たが、なかなかなじめなかった。地元の子供たちからからかわれ、いじめられる。「だって、食糧難の時代に引き揚げ者なんて余計者でしょ。内地の人からすれば今ごろ帰ってきて『向こうにいてくれたほうがよかった』という話ですよ。(その後も)引き揚げの話はできるだけしなかった」

 昭和20年12月に茨城・神栖(かみす)へ引き揚げた古谷三敏(ふるや・みつとし)も「“満州、満州”って言われ、半年間もいじめられた。僕にもプライドがあるので『何で田舎の人間にバカにされるのか』と毎日ケンカですよ」

 新京にいた北見けんいち(76)は、自宅の2階から緑色のソ連軍の大きな戦車がぞろぞろと入ってくるのを見た。印刷会社勤務の父親は終戦直前の20年8月10日に“根こそぎ動員”で招集され、そのままシベリアに抑留されてしまう。

 それまでは裕福な暮らしだった。母親が経営する食堂は日本の軍人らで大繁盛。2歳のときには満鉄の特急「あじあ」に乗って里帰りしたり、北見を世話する乳母が2人もいて、冬でも温室栽培のトマトを食べていた。結局、父親は4年間シベリアに抑留される。引き揚げは野球の水原茂と同じ船だったという。

 森田拳次(77)の父親はいったんシベリア行きの列車に乗せられながらも、隙を見て脱走。肥だめなどに身を隠しながら、命からがら家族のところへたどり着く。東京へ引き揚げた森田と北見は同じ中学の先輩後輩になった。

涙あふれた自宅再訪

 戦後、満州からの引き揚げ者は、その事実を“封印”して生きてきた人が少なくない。「侵略者の子供」などと謂(い)われなき指弾をされたり、就職や結婚で差別を受けることもあった。 満州や大陸育ちの漫画家たちが、やっと「故郷」を訪問できるようになったのも1980年代以降のことである。それから何度も訪問を重ねた。

 ちばが幼少期を過ごした奉天の自宅は高い塀に囲まれた印刷会社の社宅で、当初はそのまま残っていた。「幼い僕は放浪癖があったのか、塀を乗り越えて1人で街へ繰り出し、よく親を慌てさせた。おいしい食べ物や家畜、石炭の匂いが懐かしくってね」 終戦時4歳だった北見は「覚えているはずがない」新京の自宅付近を再訪したとき「この辺りだ!」と叫んで立ち止まり、泣き出した。近所のお年寄りに尋ねてみたらそこで間違いない。「やっぱり僕にとっては満州が故郷だよね。いとおしさを感じますよ」

やがて彼らは「中国引揚げ漫画家の会」などをつくり、体験を次世代の若者や海外へ伝える活動を始める。自らの体験を漫画に描き、中国でも漫画展をやった。 言い出しっぺは森田だ。「日本と中国は政府レベルでやると角が立つけど、実際に話してみると、中国の若い人たちも日本の漫画が大好き。(作品を見て)涙を流す女子大生もいたんだから。やってよかったと思いましたね」。古谷も「われわれも年齢を重ねて、エンターテインメントだけじゃなくて、そろそろこうした体験を残したいとね」。

 ちばが言う。「今中国とはギクシャクした関係だけど、庶民同士は仲がいい。僕も父に中国人の親友がいてその助けで帰って来られた。どうして国同士になるとうまくやっていけないのかな? 確かに日本人はひどいことをしたかもしれないけど鉄道や病院も残した。そろそろお互い昔のことは忘れて先(将来)のことを考えませんか」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

 ●古谷三敏 昭和11年生まれ。奉天で育ち、後に北京、北戴河へ。代表作は「ダメおやじ」「寄席芸人伝」など。 ●ちばてつや 昭和14年東京生まれ。奉天で育つ。代表作は「あしたのジョー」「のたり松太郎」など。 ●森田拳次 昭和14年東京生まれ、生後間もなく奉天へ。代表作は「丸出だめ夫」「ロボタン」など。 ●北見けんいち 昭和15年新京生まれ。母親が食堂を経営。代表作は「釣りバカ日誌」など。

258NAME:2017/04/17(月) 21:50:51

1943.11 カイロ会談 カイロ宣言 無条件降伏後の日本に対する処理方針についての宣言。
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-089.html
アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蔣介石が署名
会談の議題が対日戦争
同月初めに日本の東条英機内閣が、大東亜共栄圏に組み込んだアジア諸国の代表を東京に招集して大東亜会議を開催し、11月6日には「大東亜共同宣言」を発表して、戦争目的を「アジア解放」に置いたことに対抗する意図


1945.2 ヤルタ会談
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-101.html
アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳による戦後処理に関する会談。
ヤルタはロシアのクリミア半島にある保養地として有名
この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成された

259NAME:2017/05/21(日) 20:07:48
インパール作戦から73年「感無量です」 インド北東部で追悼式典、日本側から40人参加
2017.5.20 21:12更新
http://www.sankei.com/world/news/170520/wor1705200062-n1.html

第二次大戦中、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指して惨敗した「インパール作戦」から73年となり、日英両軍が戦闘を交えたインド北東部マニプール州インパールで20日、犠牲者の追悼式典が行われた。

 式典は70年を迎えた2014年から毎年実施。今回は戦地の1つとなった隣接するナガランド州当局者も初めて参加、日本側からは平松賢司大使やインド進出の企業関係者ら約40人が訪れた。

 英国から現地を訪れたマクドナルド昭子さん(66)は、父が旧日本軍の陸軍中尉としてインパール作戦に参加した。「この地で多くの人たちが命を落としたことを考えると、感無量です」と、涙を浮かべた。

 マクドナルドさんは、日英の和解と理解を目指す在英の民間団体、ビルマ作戦協会の代表を務めており「戦争の現場を歩くことは戦争を考える上で重要。今後も訪れたい」と話した。(共同)

260NAME:2017/05/21(日) 23:55:13
「インパール作戦」追悼式典…日本兵3万人死亡
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%8c%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%ab%e4%bd%9c%e6%88%a6%e3%80%8d%e8%bf%bd%e6%82%bc%e5%bc%8f%e5%85%b8%e2%80%a6%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%ef%bc%93%e4%b8%87%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1/ar-BBBlKnm?ocid=iehp

【インパール(インド北東部)=田尾茂樹】第2次世界大戦中の「インパール作戦」で戦死した犠牲者の追悼式典が20日、インド・インパールで開かれた。日本企業関係者や地元住民ら約100人が参加し、平和への誓いを新たにした。 戦争の悲劇を後世に語り継ぐ活動を行う地元の住民グループ「第2次世界大戦インパールキャンペーン財団」などが主催した。同作戦から70年が過ぎた3年前から、この時期に実施されている。

日本軍は同作戦で連合軍の拠点攻略を目指して英軍と激戦を繰り広げ、日本兵3万人以上が死亡したとされる。インパール郊外には、地元住民らが慰霊碑を設けている。この日の式典では、出席者が慰霊碑に花を手向けて黙とうした。財団設立人の一人、ユムナム・ラジェシュワルさん(40)は「二度と悲惨な戦争を繰り返さないために多くの人に関心を持ってもらいたい」と話した。

261NAME:2017/07/07(金) 23:36:16
【銀幕裏の声】
武器持たぬ米衛生兵は“恐ろしい日本兵”も救助した-壮絶な沖縄戦の真実描く米大作「ハクソー・リッジ」(上)
2017.6.30 10:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄を戦場に日米が最大かつ“最終決戦”ともいえる壮絶な戦闘を繰り広げている。ハリウッド大作「ハクソー・リッジ」は、この戦闘の記録を一人の米衛生兵、デズモンド・ドスの視点から描いた異色作だ。「ドスのような一兵卒の記録は近年になって明らかになるケースが多く、米戦史の第一級の史料になってきています」。こう語るのは米大統領研究者で「アメリカ人の物語」(悠書館)の著者である大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さん。「ドスのような良心的兵役拒否者は米国では少数派。米国といえば戦争ばかりしている国と思いがちですが、少数ながら非戦・反戦の信念を持つ人が昔からいたのです」。戦場で戦うことを拒否したドスが、なぜ映画化される英雄となったのか。戦史の裏に隠された真実とは…。(戸津井康之)

武器を持たない戦争

 「汝、殺すことなかれ」 この教えを忠実に守り、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として育ったドス(アンドリュー・ガーフィールド)は典型的な良心的兵役拒否者だった。だが、友人たちが次々と出征するなか、「自分は武器を持たず、衛生兵として国に尽くしたい」と、両親の反対を押し切り、志願兵として陸軍に入隊する。ところが射撃訓練中も銃を手にすることを拒んだため、上官や同僚たちと対立。命令違反者として何度も除隊するよう宣告されるが、ドスの決意は固かった…。

火炎放射器で焼き尽くす米兵…実際は、日本兵を恐れてた

「南北戦争の時代、良心的兵役拒否者はお金を払うか代役を見つければ兵役を免れることができましたが、それができない人は軍営に行かねばなりませんでした。銃を持つことを拒否し、銃剣で刺された人もいます。あくまで米国で良心的兵役拒否者は少数派で、彼らが権利を獲得する過程には長い戦いの歴史があるのです」と西川さんは説明する。

恐るべき日本兵!?

 1945年4月、ドスが所属する米第77師団は沖縄へ向かう。実戦を前に意気揚々と戦地に到着したはずの隊員たちだったが、先発部隊が6回も日本兵に撃退されている現実を知り愕然とする。 大勢の米負傷兵を荷台に乗せたトラックとすれ違う際、「俺たちは、これからこんな屈強で恐ろしい日本兵と戦うのか…」とドスの同僚らが交わす会話が印象的だ。

 日本でも沖縄戦を題材にした映画がこれまで何作も撮られているが、その中では米兵に島の端まで追われた沖縄の人たちが手榴弾で集団自決するシーンなどが描かれていた。塹壕の中に日本兵を閉じ込め、火炎放射器で焼き尽くす米兵たちの姿は衝撃的で、映画を見た多くの日本人が「米兵は恐ろしい」と感じたはずだ。実際、日本兵はそう思いながら戦っていただろう。

「すぐ腕章を外せ! 日本兵に狙撃されるぞ!」

262NAME:2017/07/07(金) 23:40:58
だが、この見方とは逆に、「ハクソー・リッジ」では米兵たちがいかに日本兵を恐れていたかが描かれていて興味深い。

戦場で問われる勇気とは

 日本兵に撃退された先輩の衛生兵が、戦場に向かうドスにこうアドバイスする。「すぐに赤十字の腕章をはずせ。目立つから日本兵に狙撃されるぞ!」 この戦場では衛生兵であっても米兵に変わりはない-。武器を持たないドスが実戦の戦場で兵士として通用するかどうかが突き付けられる場面だ。

 「ドスは武器を取る以外の戦いがあることを示そうとした。それは、銃を持たない勇気もあるという教訓のようにも思います」と西川さんは解説し、こう続けた。「トランプ大統領はオバマ元大統領と比較すると銃規制に消極的です。だからこそこの映画が今、公開される意味があるのでしょう。戦争映画では、銃を持つ勇気が称賛されがちですが、銃を持たない勇気もあるということをメル・ギブソン監督は描きたかったのでしょう」

武器を持たない衛生兵、ドスの“戦争”が遂(つい)に始まる。彼がハクソー・リッジで見た生き地獄とは…。

263NAME:2017/07/07(金) 23:53:44
【銀幕裏の声】
神様、あともう一人だけ命を救わせて-日本兵も救助した米衛生兵、弾が飛び交う戦場に留まり…「ハクソー・リッジ」(下)
2017.7.5 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/170629/wst1706290007-n1.html

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、沖縄本島に米軍が上陸。日米は最大かつ“最終決戦”ともいえる沖縄戦を展開していた。映画「ハクソー・リッジ」の舞台は日本名「前田高地」。沖縄本島を死守するため、日本兵はこの地に塹壕を築き、米軍の攻撃を何度も撃退していた。そんな激戦地で、アンドリュー・ガーフィールド演じる主人公、米衛生兵のデズモンド・ドスは「戦争は命を奪うが、僕は命を救う」という信念に基づき、銃を手に持たず独自の戦いに挑もうとしていた。難攻不落のハクソー・リッジでドスが見た生き地獄とは…。(戸津井康之)

敵兵も救う信念

 高さ150メートルの断崖絶壁。その崖を登り切った頂上に日本の前線基地があった。のこぎり(ハクソー)の歯のようなギサギザの形状をした崖(リッジ)…。沖縄本島の激戦地となった前田高地を米兵たちはこう呼んで恐れた。 崖の上にロープをかけて、ドスたち米兵が次々とハクソー・リッジをかけ登っていく。

 日本兵はまだ攻撃してこない。米兵士全員が崖の上に登り、隊列を組んで前進を開始しようとした…。その瞬間、塹壕に潜んでいた日本兵が一気に攻撃をしかけてくる。 米兵たちはパニックを起こし、次々と敗走、崖の上から逃げるように降りていく。 だが、多くの味方が敗走していく中、戦場に踏みとどまる男がいた。衛生兵のドスだ。

 彼は、銃撃されて負傷し、身動きがとれなくなった米兵たちに救急処置を行い、一人ずつロープに身体をしばりつけて、安全な崖の下へと降ろしていく。 真夜中になってもドスは救助活動をやめなかった。その数は計75人にものぼった。驚くべきことに救助された兵士の中には日本兵もいた。ドスは戦場で苦しんでいた日本兵にも救急処置を行い、崖の下へ降ろしていたのだ。

ドスも嘆くであろう日本人ドライバーへの暴言

 先月28日、米国の人気自動車レース「インディ500」で日本人ドライバー、佐藤琢磨選手が優勝した。米国が世界に誇る伝統のレース。その長い歴史の中で、日本人選手として初の快挙だった。 この快挙に対し、米紙デンバー・ポストのベテラン記者がこんなツイートを投稿した。「個人的な批判をするつもりはないが、メモリアルデー(戦没者追悼記念日)の週末に日本人ドライバーがインディ500で優勝したことはとても不愉快」だと。 このツイートに対し、批判が殺到。同紙は翌日、この記者を解雇した。

 すぐに同記者は反省文を発表。自分の父が米兵士として日本軍と戦い、父の友人が沖縄戦で戦死したことを説明した上で、「第二次世界大戦での敵国のひとつ(日本)を引き合いに出したのはばかげていた」と謝罪した。 米大統領研究者で大阪大外国語学部非常勤講師、西川秀和さんは「実際に日本軍と戦った米軍人のドス本人が沖縄の戦場で、敵兵である日本兵を助けていた事実を考えると、数十年後のこの発言は米国人としてあまりにも恥ずかしいですね」と苦言を呈し、こう続けた。「この記者は、ドスが沖縄戦で取った行動、勇気についてどう思うのでしょう? ぜひ『ハクソー・リッジ』を見てほしいですね」

問われる真の勇気

 「訓練中は銃も手に持てない臆病者だとばかにしていたが、戦場では彼が最も勇敢だった…」

264NAME:2017/07/07(金) 23:54:30
サム・ワーシントンが演じた実在するドスの上官、グローヴァー大尉は後にドスをこう称(たた)えている。 訓練中から度々、ドスと対立し、兵士失格だとしてドスの異動を強く進言していたのがグローヴァー大尉だった。 「ドスが沖縄の戦場で僕の命を救ってくれたのです。皮肉ですね」。もし、彼の進言通りドスを異動させ、一緒に沖縄で戦っていなければ、彼は戦死していたかもしれない。そのことを彼は認め、ドスに感謝の言葉を送っている。 1945年10月、ドスは当時のトルーマン米大統領から名誉勲章を授与される。良心的兵役拒否者として初の表彰だった。

 「軍隊内の人種差別撤廃を大統領令で断行したのがトルーマンです。良心的兵役拒否者も長い間、軍隊内で不遇な扱いを受けており、ドスの表彰も米軍内部の風通しを良くする一環といえるでしょう。信仰や人種を問わず平等に扱うという考え方はアメリカをアメリカたらしめる理想ですから」と西川さんは言う。

 味方の兵士が姿を消し、いつ狙撃されるか分からない戦場に踏みとどったドスが、一人、また一人と次々と負傷兵をロープにしばり、崖の下へと降ろしていく。 75人を救助する間、ずっと彼は心の中でこうつぶやいていた。 「神様、あともう一人だけ。私に命を救わせてください…」 人間の真の勇気とは何か-を、見る者の胸に突き付けてくる、かつてない戦争映画の傑作が生まれた。

265NAME:2017/08/11(金) 22:29:26
【戦争を考える】日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%82%92%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b%e3%80%91%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%85%b5%e3%81%ae%e6%ae%ba%e5%ae%b3%e3%82%92%e8%a8%bc%e8%a8%80%e3%81%97%e3%81%9f98%e6%ad%b3%e3%80%8c%e3%82%84%e3%82%8a%e6%ae%8b%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-AApOuiY#page=2

沖縄戦経験者の元日本兵、飯田直次郎さん(98)は、昨年ごろから、住民に対し悪行を働いた海軍の軍曹を殺害したことを証言し始めた。日本兵による日本兵の殺害に関する証言は極めて珍しい。 &copy; 週刊女性PRIME 教師になりたかったが徴兵され「人殺しの練習ばかり」で夢破れたと話す飯田さん

飯田さんは1944年、東部第六二師団下田部隊に入隊し、沖縄へ向かった。 それまでは教育部隊に所属、中国戦線に6年半、派兵された。いったん本土へ戻ったときに結婚。半年後に再び派遣されるが、このとき、妻は身ごもっていた。「いつ召集がくるかわからないから、妻も覚悟のうえだったはず。それが当たり前でした」 沖縄戦は、アメリカ軍の本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦だった。飯田さんが沖縄に派遣されたのは、アメリカ軍の潜水艦攻撃が激しくなったためだ。「最初は台湾に行くはずでしたが、途中の下関で船が止まって、別の部隊が台湾へ。そのため、私たちの部隊は沖縄に行くことになったんです」

 このころ、すでに飯田さんは“日本が負ける”と思っていたという。なぜか。「最後に来た部隊は竹槍(たけやり)を持っていました。銃がないんです。“ああ、これはダメだな”とあきらめました」 11月末、飯田さんらは那覇に上陸した。識名の守備軍として配備されたが、那覇は10月10日の大空襲ですでに廃墟になっていた。 その後、飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。

 ’45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。イモの葉っぱは常食でしたよ」 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。

「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」 ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」 そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。

 「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」 飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。 この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。 関係者がほとんど亡くなっているということもあるが、「やり残したこと」として、記録に残すことを決めた。

「本当は誰にも話さず、心に秘めて亡くなろうと思ったんです。日本人同士の争いは恥ではないかと。でも、そのことを知っている人はもう私しかいない」 飯田さんは戦後2年たって実家へ戻った。その後、これまでに37回、沖縄へ行き慰霊の旅を続けている。

 戦友から寄付を募り、部隊が全滅した場所に慰霊碑も建てた。 飯田さんはアメリカ軍から逃げる牧港付近で、背後から撃たれた。火炎放射器によって100人ほどいた兵隊はほとんど焼死。生き残った飯田さんは、そのときの銃弾がまだ身体の中にある。傷は、沖縄戦の悲劇を物語り、日本兵による日本兵の殺害は、貴重な証言となっている。「沖縄ではいろんなことをした。嫌な思い出は残っているけど、いい思い出は何もないよ。戦争は勝っても負けてもよくない」 取材・文/渋井哲也 ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

266NAME:2017/08/16(水) 00:13:03
【終戦の日】
「祖国のため命かけた大叔父の生きた証しを」インパール戦で戦病死したはずが実は特務機関に? 足跡追うも手がかりなく…
2017.8.15 16:30更新
http://www.sankei.com/west/news/170815/wst1708150055-n1.html

「大叔父は戦地でどんな最期を迎えたのか」。東京都練馬区の澤井園子さん(48)は、戦後72年がたった今もその足跡を追い続けている。大叔父の神居達(かみい・とおる)さんは、第二次大戦時にビルマ(現ミャンマー)で多大な犠牲者を出した「インパール作戦」で戦病死したとされたが、その後、別動隊にいた可能性が浮上し、最期の様子が不明となった。それから8年間にわたり調査を続けているが、真実は謎のまま。過ぎゆく時間を感じながら、大叔父の生きた証しを探している。

「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろすも…

 澤井さんの祖父の弟である神居さんは、軍歴を記した兵籍簿などによると、昭和16年に立命館大を中退し、18年4月に召集され、陸軍歩兵60連隊の機関銃中隊の一員としてインパール作戦に参加。19年5月にインド・アッサム州から約700キロ離れた軍司令部があるビルマ・メイミョーに搬送され、7月に26歳で戦病死したとされる。

 一方、平成16年12月、64歳で亡くなった澤井さんの母は生前、「大好きだった叔父さんが戦死したビルマへ慰霊に行きたい」と口癖のように語っていた。 「母には親孝行ができなかった。せめて代わりに供養しよう」。澤井さんは、育児に一段落ついた21年から大叔父の足取りを追い始め、22年2月に戦友会のメンバーとともにビルマを訪問。大叔父が亡くなったとされる地で手を合わせ、「母との約束を果たせた」と胸をなで下ろした。

生還者の誰もが「知らない」と

 ところが、ここから大叔父の謎をめぐる“彷徨(ほうこう)”が始まった。 慰霊訪問後、澤井さんは大叔父が所属したとされた機関銃中隊の生還者2人と面会したが、いずれも大叔父のことを「知らない」と断言した。 その後、複数のビルマからの生還者にも会ったが、下士官だった大叔父が軍司令部がある地に運ばれて亡くなることは「あり得ない」と指摘された。軍医将校だった生還者には「別の支援ルートがあった特務機関に所属していたのならあり得る」と教えられた。

 調査を進めると、大学で大叔父の1年先輩だった人物が、日本軍の対インド工作を担った特務機関「光機関」に所属し、ビルマに派遣されていたことが判明。その人の日記に、光機関から大学の後輩を5人ほど選んで連れてくるよう要請を受けたとの記述があり、大叔父のビルマ入りの時期と重なっていた。 また、大叔父の死亡者調書を作成した人物が、光機関の将校だったこともわかった。光機関の生還者の手記には「敗戦時に全機関員の軍歴を改竄(かいざん)した」との記述があった。 大叔父は英語に堪能で、ビルマに赴く前、家族に「通訳をする」と話していた。澤井さんは、大叔父が光機関に所属し、日本軍とインド国民軍をつなぐ任務に就いていたのでは-という仮説を立てたが、確証は得られない。

手がかりが年々少なくなっていく中で

 調査を始めて8年。旧日本軍関係者や戦史の専門家ら100人以上に会ったが、大学の専門家に門前払いされるなど、調査は簡単には進まなかった。一方で「素人の私がここまで来れたのは、多くの方の優しさとご縁があったから」との思いもある。 澤井さんは大叔父の調査過程をブログ「ミャンマーに思いを寄せて」に公開してきたが、知り合った旧軍関係者もほとんどが亡くなり、手がかりは年々少なくなっている。 「大叔父は祖国のために命をかけたのに、『そんな人はいない』と存在すら認められていないことになっている。だから、何とか身内の私が大叔父の生きた証しを見つけたいんです」

267NAME:2017/08/16(水) 00:15:43
【終戦の日】
反天連デモに抗議の声200人 「帰れ!」「つぶせ!」靖国神社近くで飛び交う罵声
2017.8.15 20:10更新
http://www.sankei.com/affairs/news/170815/afr1708150018-n1.html

72回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた東京都千代田区の日本武道館からほど近い九段下の交差点に、右派系団体のメンバーら約200人が集結した。毎年8月15日に靖国神社近くで「天皇制いらない」などとシュプレヒコールを上げてデモ行進する反天皇制運動連絡会(反天連)のメンバーに抗議する、いわゆる「カウンター」と呼ばれる人たち。英霊を慰める終戦の日、靖国神社近くではシュプレヒコールや怒号が飛び交った。 午後5時ごろ、九段下交差点を通りかかった反天連のデモ隊約80人は口々に「天皇制反対」「安倍はやめろ」とシュプレヒコールを繰り返しながら前進。これをかき消すように交差点そばの歩道に陣取った「行動する保守運動」のメンバーら約200人が「帰れ」「反天連つぶせ」「国賊」などと怒号を上げて抗議した。

 警視庁は一時、交通を遮断し、歩行者をくぎ付けにする方法でデモ隊を通過させた。デモ行進の際、所々で「行動する保守運動」以外の右翼団体の関係者らが怒号を浴びせる中、大きな混乱もなくデモ隊はデモを終えた。 日本第一党の桜井誠党首(45)は「数の問題ではないが、今回の反天連のデモ隊は前年より減って70〜80人ほどだった。私たち抗議運動は当初、数十人で始めたが、今はこれだけの人が抗議の声を上げるようになった」などと演説すると、沿道から「桜井」コールが起こった。(WEB編集チーム)

268NAME:2017/09/02(土) 21:33:59
GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/ghq%e3%81%ab%e5%90%9b%e8%87%a8%e3%81%97%e3%81%9f%e3%83%9e%e3%83%83%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%84%9a%e5%b0%86%e3%81%b6%e3%82%8a/ar-AAqKZFS?OCID=HPDHP

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。

仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。 しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。 1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。 直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。 
この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。 一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。 10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。 “Where is Kim Buck Tooth?”(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

269NAME:2017/09/02(土) 21:34:46
ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。 中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。 マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。 1950年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。 体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。 このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。 マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。 度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。

宇山卓栄(うやま・たくえい) 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。(写真=時事通信フォト)

270NAME:2018/01/14(日) 00:49:22
私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなしに攻めて戦争を起こした」「日本は残虐な悪い国だ」ということを新聞でも、テレビでも繰り返し教わってきました。でも、今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の常識とは真逆とも言える証言が、47年公開を禁じられたフーヴァー元大統領の回顧録から次々と浮かび上がりました。

ハル・ノート、原爆投下、終戦…アメリカではこの証言をもとに、歴史の見方が、世界の見方が少しずつ変わり始めているのに、日本の大手メディアはいっこうにこの事実を大きく取り上げてくれません。太平洋戦争に隠されたその大嘘の数々とはどのようなものだったのか?
http://www.worldforecast.jp/lp/fukota/fb.html


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