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南 京

1NAME:2012/08/23(木) 21:49:19
南 京

56NAME:2015/04/26(日) 02:23:54
【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(4)】
信頼性乏しい残忍写真 「南京記念館」プロパガンダ展示“中国主張に異を唱えるのはみな右翼”
2015.4.21 07:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150421/prm1504210010-n1.html

「南京大虐殺記念館」には看過できない展示も少なくない。中国が「南京大虐殺」の証拠として掲げる数々の展示のうち、例えば、「日本兵」とされる人物が、ひざまずいて後ろ手に縛られた中国人とみられる男の首を刀で斬ろうと構えている「斬首前」の写真。

 この写真では、人物によって影の方向が一致しなかったり、後ろにいる兵士の靴の向きが不自然だったりして、専門家の間で「証拠写真」として信頼性に疑問符がついている。 高さ2メートル近い大型写真パネルに中国語で「殺中国人取楽」とあり、横に日本語で「楽しみとして中国人を殺す」と書かれている。 全館を通じ、案内板は中国語、英語のほか、あえて日本語を加え、日本人の訪問者も意識した演出がなされている。

意図的トリミング

 向井敏明と野田毅の両少尉が競ったという「百人斬り」の新聞記事も大型パネルに引き伸ばされて展示されている。 さらに「南京の老人が空襲で被害を受けた子供を抱えている」と説明された2メートルほどの高さの写真。これは昭和13(1938)年に米ライフ誌に掲載された横長の写真から左右の人物を排除して、中央の老人と子供だけを大きく引き伸ばしたパネルだ。元の写真では老人のすぐ右側を中国人の男と少女が普通に歩いており、左側には中国兵とみられる男があわてる様子もなく、腕組みをしながら老人をみている。

 あえてトリミングし、センセーショナルに見える部分だけを利用して、意図的な説明を加えてパネルにした可能性もある。 そうしてみれば、中国側が「日本軍による非道な中国人虐殺行為の鉄証(動かぬ証拠)だ」と主張する写真の展示も、どこまでが日本と関係があり、どこからが無関係なのか、容易には証明できそうもない。「さらし首」や「暴行され乱暴された中国人女性」「幼児の死体」など記念館の展示内容は凄惨(せいさん)を極める。

 また、「日本軍は残虐な暴行を隠すために死体にガソリンをかけて焼き払ったり、船で揚子江の真ん中まで運び、川の中に放り込んだりして、10万体あまりの死体を処分した」などとの説明で、川岸に打ち寄せられた多数の死体の写真なども大きく展示している。 日中関係筋は、「中国側は正しく検証されていなくとも、いずれの展示写真も疑う余地がない、覆せないとする“観念先行”の状態に陥っている」と話す。

日本に非難の矛先

 こうした残忍な写真の連続で参観者の感情に訴えた後、昭和12(1937)年当時、南京に在住していた欧米人らが急遽(きゅうきょ)設置した「南京安全区国際委員会」を紹介する大きなスペースが広がる。 難民収容所で9000人あまりの中国人女性や子供を保護したという米国人女性宣教師ボートリンが、日本軍に立ち向かっている姿の銅像には「母親の鳥が小鳥やヒヨコを守ろうと羽を広げた」と説明がつけられている。米国人牧師や独大手企業シーメンス駐在員らの銅像も並ぶ。

 欧米人が一致団結して日本軍から「安全区」で救った中国人の数は20万人にものぼったとしている。あえてドイツも加えることで、非難の矛先を日本にのみ向けているのかもしれない。 「南京大虐殺記念館」とは別に、南京市内には「南京抗日航空烈士記念館」もある。そこには慰霊碑があり、「抗日戦時に蘇(ソ連)、美(米国)、韓(韓国)などの国の多数のパイロットや高射砲兵らが、中国空軍とともに空からも侵略した日本と戦って犠牲になった」と説明してある。当時、存在しなかった「韓国」を加えるなど、中韓連携をアピールするねらいも透けて見える。

 「南京大虐殺記念館」の展示に戻るが、安全区の先に、日本で聞き取り調査を行ったという「南京加害者の元日本軍兵士の告白」コーナーがあり、さらに「史学研究」を行った功労者として、サングラスをかけた元朝日新聞記者、本多勝一の写真も登場する。 「日本人自らがすべてを認めた南京事件」との強い印象を参観者に与え、中国側の主張にわずかでも異論を唱える相手はみな「右翼」と決めつける構図に仕立て上げている。(敬称略)

57NAME:2015/05/01(金) 02:41:32
「南京大虐殺」写真廃棄、慰安婦展示も撤去 偏向展示・自虐史観と批判受け ピースおおさか改装オープン
2015.4.30 06:50更新
http://www.sankei.com/west/news/150430/wst1504300009-n1.html

大阪府と大阪市が共同出資する財団法人「大阪国際平和センター」(ピースおおさか、大阪市中央区)が、いわゆる「南京大虐殺」の写真といわれながら信憑(しんぴょう)性が疑われるものや、著作権が確認できない写真を廃棄処分し、慰安婦に関する展示を取りやめるなどしたうえで、30日に改装オープンすることが、関係者への取材で分かった。府議や市議らから「自虐的」と批判されたことを受け、展示内容を精査した。 改装前の3つの展示ゾーンのうち、展示室B「15年戦争(満州事変から第二次大戦まで)」には慰安婦に関する展示があったほか、日中戦争中に旧日本軍が行ったとされ、信憑性をめぐって議論が分かれている「南京大虐殺」のコーナーもあり、中国人の頭部とされる写真などが展示されていた。

 改装後は旧日本軍の加害行為についての写真や資料のほか、慰安婦に関する展示を取りやめ、大阪空襲の被害に関する展示を中心に再構成。日清戦争から終戦までの約50年の経緯を約14分間の映像にまとめた。関係者によると、ナレーションで「日本軍による南京事件、重慶爆撃では多数の住民が犠牲となった」と説明。昭和12年に中国人部隊が日本人居留民らを殺害した通州事件についても、新たに「通州などでは日本の軍人、居留民が犠牲となった」と触れた。

「中国人の頭部」「女性や子供の遺体」写真の出典は…著作権処理なく、捏造の声

また、「南京大虐殺」のコーナーに展示されていた中国人の頭部とされる写真や、女性や子供を含む遺体の写真などは著作権の許諾処理がなされておらず、信憑性を疑う意見もある上、保管場所にも余裕がないため廃棄処分した。一方、府民から譲渡された資料は、改装後も常設・特別展で引き続き展示する。

 ピースおおさかの「南京大虐殺」に関する展示をめぐっては、市民団体や府市議らから、当時のデータや証言を踏まえ、「大虐殺はなかったとする研究結果も出てきた」「旧日本軍を悪逆非道な存在と決めつけ、でっち上げや捏造(ねつぞう)がある」などと虚構性を訴える声が上がり、橋下徹前知事(現大阪市長)が展示のあり方について「府民の意思を反映すべきだ」と指摘。改装のため閉館していた。 同センターは、地下鉄中央線やJR環状線の森ノ宮駅が最寄りで、原則火曜〜日曜に開館される。

58NAME:2015/05/11(月) 20:28:40
【歴史戦WEST】
南京事件「虐殺30万人」に疑念 日本軍元少尉の日記が明かす「士気」と「規律」、中国匪賊の「蛮行」
2015.5.11 11:00更新
http://www.sankei.com/west/news/150511/wst1505110006-n1.html

「南京事件」はあったのか、なかったのか-。昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされ、いまだに犠牲者数や存否をめぐって論争が続く南京事件。中国側が「30万人」と主張する犠牲者数は、日本国内では支持する有識者はほとんどいないものの、国を挙げた中国側の執拗(しつよう)な取り組みによって30万人説が国際的に一人歩きしている側面もある。事実はどうだったのか。南京攻略戦から78年を経て、新たに明らかになった元将校の日記や手紙からは規律に満ちた日本軍の様相が浮かび上がる。反日姿勢を強める中国側の喧伝にはますます疑念を抱かざるを得ない。(歴史戦WEST取材班)

「泥の兵隊」日本軍を苦しめた南京への道

 歳月の長さを感じさせる黄ばんだ手帳や、封書の束、モノクロ写真…。その数はざっと50点以上はあるだろうか。いずれも約80年前に上海、南京攻略戦を皮切りに日中戦争を戦った陸軍少尉、西山源次郎さんが残した貴重な記録だ。 《毎日十里(約40キロ)余り歩いて、毎朝腰が上がらない。(中略)南京が近くなったので毎日、遊軍機は飛び、攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった》 源次郎さんが手帳に鉛筆でつづった文章からは、昭和12年初冬、当時の中華民国の首都、南京の攻略に向かう日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくるようだ。

 「父が南京攻略戦に参加していると知っていれば…」。源次郎さんの長男、邦夫さん(78)は父の遺品を手に語る。源次郎さんは平成5年、87歳で死去。18年に母も亡くなり、遺品を整理していた際、父の日記や戦地から母に送った手紙など膨大な資料を見つけた。資料を見て初めて、父が南京攻略戦に参加していたことを知った。

源次郎さんは、慶應大を卒業後、帝国生命(現朝日生命)に勤務していた昭和12年9月に召集された。この年の7月、日中戦争が勃発しており、源次郎さんは陸軍第114師団歩兵第115連隊の小隊長として中国大陸に向かった。 同年12月10日から始まった南京総攻撃。当時の源次郎さんの日記には、鉛筆書きで南京城が陥落した同月13日までの出来事が1〜2行、簡潔に記されているだけだが、時折次のような記述もある。

 《道がよければ二日か三日で来られる距離と思うに、悪路のため二十日もかかり兵の苦労たるや何とも言いようもなく、泥んこで休憩する場所もなく立ちっ放し。体中どろどろで土の付いていないのは眼だけで、顔をなでると泥が手に一杯取れるほど、正に泥の兵隊であった》 南京への道が、日本軍将兵を悩ませた様子が浮かび上がる。攻略戦に参加した別の元兵士によると、上海から南京への道は主に田園地帯で、悪路を進軍したという。

南京城…「随分馬鹿げたものを作った」

 さらに南京では厳しい戦いを迫られた。戦後に書いたと思われる源次郎さんの手記は、戦闘の激しさを物語る。 《南京南方六里(約24キロ)の秣陵関に到着した。南京城は火災を起こして紅く夜空を染め、砲声も聞こえる。秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、多くの将兵が収容されていた。第三大隊だけで三百名が戦死傷した》 源次郎さんらは南京城の南側にある雨花門から迫る。《西山隊も早く第一線に行け、南京もまもなく落ちるだろうと言われ、猛進を続け、吾々のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。ここからクリークを渡ると、城壁まで三百米(メートル)、城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊も十二日夜城壁をよじ登って突入した。残敵掃討をするが、城内は火災と銃声で声も聞こえない。夜中になって銃声も止み、民家で休憩する》

59NAME:2015/05/11(月) 20:32:30
手記によれば、源次郎さんらが南京城に入ったのは陥落の前日だ。その後、城壁上での警備を命じられ、夜を明かす。空が白み始め、眼下に広大な南京城内が姿を現す。 《南京城は周囲十二里、汽車の線路もありその巨大さに驚くとともに、随分馬鹿げたものを作ったものと呆れる》と心情を記している。

踏み荒らされた家屋に「惜しい」

 日記は数日途絶え、16日から再開する。 この日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎さんは、部下を率いて城壁上を移動。《支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥く、死体も数十ありたり》という状況だった。 午後11時ごろまで任務に就いたが、その間、大隊長から、部隊の団結とともに規律の維持を求められたという。

 17日には《午前九時半集合、正午南門を発する予定…(中略)十時には早くも出発》。次の任務地に向かうため南京城を離れた。 自らも航空自衛隊で空将補を務めた邦夫さんは、自身の経験を踏まえ、17日の記述に着目するのだ。 「師団であれば万単位、連隊でも何千人単位で構成されている。部隊は前夜遅くまで警備を行っていたにもかかわらず、急な移動命令でもただちに出発できる態勢を確保していた。このように迅速に行動できるのは、高い士気と規律を維持していたからに違いない」

 日記や手記だけでなく、源次郎さんは妻にあてた私信の中でも南京城内の様子について触れている。南京陥落から約1カ月半後の昭和13年1月25日付の手紙にはこうある。 《南京城では千円もするような毛筆を見つけた者や、銀狐や時計、双眼鏡、拳銃、首飾り等々金目の物を大分見つけた者もあるやうです。残幣を何万円も見つけた者があって、将校はいちいち取り締まらなければならないので、困りました》当時、南京城内にいた住民らは、欧米人らでつくる国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。だが、多くは貧しい人々ばかりで、裕福な住民らは早々に南京を脱出している。

 日本軍が富裕層の家から高級品を略奪したとする意見があるが、中国軍の仕業との見方もある。 源次郎さんの記述について、邦夫さんは「陥落直後の城内の掃討作戦中に目にした様子だろう」と推測した上で、「文面からは、部下の略奪を嘆いているのではなく、部下から発見の報告を受け、父はすべてに対応しなければならず困っていたのでしょう。こうした状況からも規律が守られていたことがうかがえる」と語る。 さらに、家の中は中国軍により《書籍や家宝となるやうなものが沢山荒し放題あらされて或いは踏み荒らされ》といった状況で、《惜しいと思いました》と無念さを記している。

「支那の兵隊」と同一視は「かなわない」

 日本軍は南京城内で住民を殺し、ほかの地域でも残虐行為を行った-と中国側は主張する。 しかし、その後山東省や北京近郊などの戦線で任務に就いた源次郎さんが妻にあてた私信からは、日本兵と住民の異なる関係が浮かび上がる。 手紙では、中国人の匪賊(非正規武装集団)と住民の戦闘が絶えず、住民が殺されたり、子供が誘拐されたりする悲惨な出来事が繰り返されているとし、《いくら日本軍が討伐しても、三年や五年で尽きるものではない》と訴えている。 また、住民との関係について《支那では兵隊は良くない人間ばかりなので(住民は)日本軍も同じように考えているのです。兵隊は悪いことをするものという考えがあるからすぐ逃げる。支那の兵隊と一緒にみられてはかなわないね》

61NAME:2015/05/11(月) 20:35:45
だが、日本兵に対する住民の見方は徐々に変化する。 《最近部落での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》 《支那兵は毎日食い物をもらいに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です》 「日中戦争時の日本軍の残虐性を示す」とされてきた当時の写真が、その後の検証で匪賊や中国側によるものと判明したケースもある。源次郎さんの記述からも、中国大陸であったとされる「蛮行」は、果たして日本軍による行為だったのかという疑念すら浮かんでくる。

日記に「虐殺」記述なし

 戦後、源次郎さんは郷里に戻って中学校教員として家族を養った。邦夫さんらには戦場での話をしなかった。戦時中はひげを生やし、いかつい風貌(ふうぼう)だったが、家族には終始穏やかな態度で接していた。 「父が話したかったことは、残された日記や手紙にすべて収まっている。父らの世代が戦時中のことを語らないのは、言えば自己弁護になるし、語ることを潔しとしない世代だったからではないか」

 邦夫さんは父の足跡を伝えようと、日記や手紙などを本にまとめ、子供や孫、親類に配った。 防衛大学校に4期生として入校した邦夫さんが、防大の講義やその後の自衛隊生活で常に求められたのは規律だったという。 「強い軍隊ほど規律の保持が徹底される。逆に軍紀が厳粛だからこそ、戦場という場で能力が発揮できる」と実感を込めて語る邦夫さん。戦後、突如として現れた「南京大虐殺」説に対して疑念をぬぐえず、悔しさをつのらせる。

「もし当時、虐殺といった不当行為を目撃していれば、父は真実を日記や手紙に書き残していただろう。日記からはそんなことはうかがえない。物理的に30万人を虐殺するのは無理なのに、戦後の大きな風潮のうねりの中で歴史の歪曲(わいきょく)に染まってしまった」 勝者が敗者を裁き、勝者が主張する虚構と欺瞞(ぎまん)に満ちた歴史観がまかり通る戦後の国際社会。歴史の真実を明らかにすることは、源次郎さんら多くの日本軍将兵らとともに日本の名誉を回復することにほかならない。

日中戦争に従軍した西山源次郎さん。自身のカメラを持参して、当時の中国の様子などを撮影したとみられる(西山邦夫さん提供)

62NAME:2015/08/22(土) 23:32:32
南京 日本軍 人数
http://okwave.jp/qa/q3224951.html
南京攻略戦では主兵力は中支方面軍3個師団半、第十軍3個師団半でその他に包囲部隊が参加しており約12万と見られています。
上海戦での消耗もあり無理な急行軍を強行してきたので第一線の実兵力は編成より下回っていたとおもいます。

これに対する中国軍は兵力10〜8万と見られますが、編成と兵の士気、装備がまちまちで、精鋭部隊は訓練、装備、士気とも優秀でした。
幅画陣地により頑強に抗戦しました。

63NAME:2015/10/12(月) 01:41:02
【世界記憶遺産】
「大虐殺」は虚偽や疑問点だらけ 憤る声も
2015.10.11 11:50更新
http://www.sankei.com/world/news/151010/wor1510100053-n1.html

国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された。中国側はこれまで、「反日プロパガンダ」の一環として「南京」を利用してきたが、識者らによって虚偽や疑問点が次々と暴かれている。

「犠牲者数」変遷

 「南京大虐殺」は1937(昭和12)年12月13日、当時の中華民国の首都・南京陥落後、旧日本軍の占領下にあった最初の6週間に、多くの中国人が殺されたと喧伝(けんでん)される事件だ。死者数については中国側は「30万人」と主張しているが、近年の日本国内での研究で虚偽であることが定説となっている。 国内では平成17年度の高校教科書検定で、「20万人以上とする説が有力」とした記述が検定を合格するなど、「大虐殺派」(十数万人以上)の学者の見解が流布した時期もあるが、研究が進むにつれ、「一定程度の虐殺はあった」とする「中間派」(2万〜4万人)や、そもそも虐殺はなかったとする「事件否定派」の勢いが増している。 否定派の根拠は、南京の人口は日本軍占領前が20万人、占領1カ月後が25万人だったことなどだ。少なくとも、中国が唱える30万人説や大虐殺派の主張は検討に値しないといえる。
問われる信憑性

 虐殺の“証拠”にも多くの疑問符が付いている。 南京攻略戦で、旧日本軍の2将校が日本刀で「百人斬り」を行ったとされる当時の報道。処刑された将校の遺族が「報道は事実無根で名誉を傷つけられた」として毎日、朝日両新聞などを訴え、東京高裁は平成18年5月の控訴審判決で、記事について「信じることはできず、甚だ疑わしいものと考えるのが合理的」とした。 訴追された2将校に対する裁判でも、外国人記者による脚色などが影響し、死刑判決が下ったことが専門家の研究で明らかになっている。

 中国の「南京大虐殺記念館」に展示されている“虐殺写真”の信憑(しんぴょう)性も無きに等しい。例えば「日本兵」とされる人物が、ひざまずいて後ろ手に縛られた中国人とみられる男の首を刀で斬ろうとしている写真。人物によって影の方向が異なるなど、極めて不自然な点が指摘されているのだ。 中国系米国人ジャーナリスト、アイリス・チャン氏が18年前に米国で出版し、50万部以上のベストセラーとなった「ザ・レイプ・オブ・南京」は、多数の不正確な記述や無関係な写真掲載が出版当初から問題となった。チャン氏はこの著書を通じて中国による反日プロパガンダ(政治宣伝)に米国社会を巻き込んだが、2004年に自殺している。

「プロパガンダ」

 こうした多くの虚偽や疑問点があるにもかかわらず世界記憶遺産に登録されたことに、識者らからも憤りの声が噴出している。 「『南京事件』は日本をおとしめるための戦時プロパガンダだ」。日本の民間団体が今年7月にユネスコに提出した登録反対書簡を監修した拓殖大の藤岡信勝客員教授はこう断じ、「登録の不当性と記憶遺産の政治的悪用に抗議する意思を世界に示すため、日本はユネスコに支払っている分担金の拠出を拒否すべきだ」と訴える。

ともに反対書簡を監修した明星大の高橋史朗教授は、「今後は日本が反論しても『国際機関が認めたではないか』と返され、何を言っても始まらない状況になってしまう恐れがある」と影響を懸念。「国家戦略として官民一体の態勢をつくり、恒常的に対応していく必要がある」と話す。 南京事件研究家の阿羅健一さんは「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」とする日本政府の公式見解について、「ユネスコ側から見れば日本政府が事件があったと認めていることになる」と指摘、政府見解の見直しを求めた。 平成24年2月に南京事件を否定する発言をした名古屋市の河村たかし市長は10日、「いわゆる『南京事件』については、根本から議論があるところである。今回のユネスコ登録は極めて残念であり、政府は速やかに抗議すべきである」とコメントした。

64NAME:2015/11/19(木) 23:35:15
自民党:南京大虐殺「虐殺当てはまる事実は」再検討の動き
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e8%87%aa%e6%b0%91%e5%85%9a%e5%8d%97%e4%ba%ac%e5%a4%a7%e8%99%90%e6%ae%ba%e3%80%8c%e8%99%90%e6%ae%ba%e5%bd%93%e3%81%a6%e3%81%af%e3%81%be%e3%82%8b%e4%ba%8b%e5%ae%9f%e3%81%af%e3%80%8d%e5%86%8d%e6%a4%9c%e8%a8%8e%e3%81%ae%e5%8b%95%e3%81%8d/ar-BBnc7Tz

自民党国際情報検討委員会の原田義昭委員長は19日の党本部の会合で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「虐殺の概念に当てはまる事実があったのか。もう一回歴史的な事実を総合的に検討すべきだ」と述べ、政府に対し、南京大虐殺に関する見解の再検討を求める意向を示した。

 会合では、10月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した南京大虐殺の資料が登録された問題を議論した。出席議員からは「南京事件がなかったという意見もある。歴史認識を再構築すべきではないか」「あいまいな表現をしているから国際社会からあらぬ誤解を受ける」などの意見が出た。 政府は南京大虐殺について「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を示している。原田氏は外務省に対して、政府見解の基となる資料の提示を求める考えを示した。【小田中大】

65NAME:2015/12/02(水) 22:11:49
南京大虐殺:生存者が語る…最後の証言集会、東京で9日
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%8d%97%e4%ba%ac%e5%a4%a7%e8%99%90%e6%ae%ba%e7%94%9f%e5%ad%98%e8%80%85%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b%e2%80%a6%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e8%a8%bc%e8%a8%80%e9%9b%86%e4%bc%9a%e3%80%81%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e3%81%a7%ef%bc%99%e6%97%a5/ar-AAfVcnZ

◇市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」

 市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」が約20年にわたり毎年、中国・南京大虐殺(1937年12月)の生存者を日本へ招き、各地で証言集会を開いてきたが、今月上旬、大阪と名古屋、東京で開く3回で最後を迎える。来日に協力してきた南京大虐殺記念館(中国・南京市)が、生存者の高齢や健康不安を理由に終了を要請した。関係者は今後、現地での交流を呼び掛ける。

 今年は、陳徳寿さん(83)が5日に大阪、7日に名古屋、9日に東京で証言する。陳さんは当時、南京城内に住み、父やおばが日本兵に銃剣で刺し殺されたという。戦後の生活についても話す予定だ。

 連絡会は96年に最初の本格的な集会を開いた。以後も毎年、生存者を招いて10日間ほど各地で集会を開いた。招いた生存者は計30人以上で、川の中に隠れて生き延びた男性や性暴力を受けた女性らがさまざまな被害を語り、会場ごとに数十〜数百人が聞いた。渡航や滞在費は、日本の市民カンパと入場料でまかなった。

 連絡会共同代表の一人で「ノーモア南京名古屋の会」事務局の平山良平さん(67)によると、記念館とは「証言者が語る史実を定着させたい」との思いが一致していた。2001年に来日した女性は、平山さんら世話役にさえ笑顔を見せず、目も合わせなかった。「怒りを直接感じた。証言ビデオとは違う」と振り返り、証言集会が絶えることを惜しむ。

 生存者と事前に現地で会って招いてきた「銘心会南京」=大阪府=の松岡環代表(68)によると、年々、生存者が亡くなり、寝たきりになるなどしているが、話せる人は今も多い。01年からは会員らとともに現地で交流会を開くなど慰問に努めている。「本来は日本人が南京へ行くべきだ。地元で会って現状を見て、つながり続けよう」と呼び掛ける。

 集会の日時と会場は次の通り。5日午後1時半、大阪市北区天神橋3のPLP会館▽7日午後6時半、名古屋市中区大井町のイーブルなごや(女性会館)▽9日午後6時半、東京都文京区本郷1の全水道会館。【花岡洋二】

66NAME:2015/12/14(月) 23:43:20
【世界記憶遺産】
中国版「アンネの日記」こそが南京大虐殺がなかった証拠だ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)
2015.12.14 14:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/151129/prm1511290009-n1.html

そもそも1970年代前半までの歴史教科書には「南京事件」は全く載っていなかった。朝日新聞の本多勝一記者が中国共産党中央委員会の招待で四十日間、中国共産党の用意した語り部をあてがわれて「取材」した記事が「中国の旅」として報道されたのが、全ての始まりである。

事件があったのだということを広く認知させる役割を果たしたのは、秦郁彦氏の『南京事件』(中公新書、1986年)だった。同書では4万人説が唱えられ、当時は30万人説などと比べて良識的な研究として読まれたが、今では全く時代遅れの本となった。 なぜなら、同書で公平な第3者としてあつかわれ、事件のイメージをつくるベースとなっている欧米のジャーナリストが、その後の研究で国民党から金を受け取ってプロパガンダ本を書いたエージェントであったことがわかったからだ。秦氏が中公新書を絶版としなかったので、同書は未だに影響力をもっている。

東中野修道・亜細亜大教授の『「南京虐殺」の徹底検証』(1998年、展転社)以後の「事件否定派」の研究を真面目に読んでいただきたいと念願する。

例えば、日本テレビで10月4日の深夜に放映され、10月11日に再放送された「南京事件-兵士達の遺言」は、城外の戦闘をテーマにしたものであって、市民の「虐殺」とは別の話なのに、これを混同して描いていた。虐殺の存在を肯定する立場の人々は、両者の分割線を絶えず曖昧にする。 中国共産党の南京事件の定義ははっきりしていて、「南京陥落後の1カ月半の間に、南京城内で非戦闘員の市民30万人を不法に殺害した」というものである。これが「虐殺」に関わるテーマである。

http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ba7c323938bb4c49f843826f525a69cc
http://www.at-douga.com/?p=14681

そもそも中国がユネスコの記憶遺産を政治利用できることに気付いたのは、2009年にオランダが申請した「アンネの日記」が登録されたことがヒントになったといわれている。「その手があったか」ということで、「南京」を日本叩きの外交カードにするために、中国はこの制度の利用を思いついたのである。

67NAME:2015/12/14(月) 23:49:28
 第2に、女性の日記であるという共通性を利用し、「中国版・アンネの日記」として打ち出せば世界的に宣伝するのに都合がいいと考えたのだろう。一種の「コバンザメ商法」で、「アンネの日記」の知名度に乗っかって「程瑞芳の日記」を世界的に有名にしようと狙ったと思われる。ただし、アンネ・フランクがうら若い女性であったのに対し、「東洋のアンネ」はすでに孫のいる女だった。

安全区には1万人以上の敗残兵が、武器を持って潜伏していた。後に摘発された武器弾薬は、トラック50台分に及んだ。彼等は軍服を脱ぎ捨て、民間人の服装をして、便衣兵となっていた。こうした行動は戦時国際法違反であり、民間人に潜り込んだ敵兵を摘出して掃討することは戦闘の一環で合法的な行為だった。 日本軍は12月14、15、16の3日間、掃討戦を展開した。

程瑞芳は、実は東京裁判に供述書を提出し、11人の娘が連れ去られ強姦されたこと、1人の男が部屋に入って強姦したこと、1軒の家が焼かれ主人が殺されたこと、の3件を証言していた。 阿羅氏は、程瑞芳日記の記述を、(1)漠然とした記述(2)噂話(3)虚偽(4)程瑞芳自身が見た被害-の4つに分類した。 「虚偽」というのは「ある場所では死体で路面が見えなくなっている」といった記述である。東京裁判で検察側が提出した記録によれば、安全区内にあった死体は175体であった。路面が見えなくなるどころか、死体を見つけるのが大変である。

かくて「程瑞芳自身が見た被害」をまとめると、強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件、となる。東京裁判に提出した供述書の被害よりも強姦件数が減っていることに注目していただきたい。 仮に、強姦8件以下の被害が確かに程瑞芳の目撃した被害だとしても、つまり、彼女がこの点で嘘を書いていないと仮定しても、この資料の結論は全く奇妙なことになる。ここには殺人の記録が皆無だからである。前記・松岡氏の言う通り、これが、「中国人が、南京大虐殺をその当時、その場で記録した文章」だとすれば、この資料からは「『南京大虐殺』では殺人はなかった」という結論になる。これは矛盾した、無意味な命題であるから、結局は「南京大虐殺はなかった」という命題に書きかえられる。

多数の非行は敗残中国兵の所業

 それだけではない。これらの不法行為はそもそも日本人がやったのかどうかに疑問がある。というのは、1938年1月4日付けのニューヨークタイムスに次のような記事が掲載されているからである。 「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた。大佐は宣教師によって、難民収容所を管理する2番目の地位に就けられていた」

南京の日本軍は、掃討や警備などのため宿営所を出る時は、中隊、小隊、分隊といった単位ごとに同一の行動をとった。夜間外出は禁止されていた。脱走すれば厳罰に処せられる。 さらに重要なことは、南京陥落直後から市内は全面停電となり、クリスマスころまで復旧しなかったことである。禁を犯して外出し、地理も分からない真っ暗闇の敵国の首都を、敵の敗残兵が武器をもって身を潜めているなか、女性をとらえて強姦するという行為に及んだ日本兵は何人いただろうか。殆ど考えられない。ところが、「南京安全地帯の記録」では、強姦事件の半数は夜間に起こっているのである。これは敗残中国兵の仕業であることが明白だ。

68NAME:2016/08/05(金) 15:36:49
【新閣僚に聞く(詳報)】稲田朋美防衛相詳報(4) 南京事件「百人斬りはなかったと思っています」「30万人、40万人という数がどうであったかは重要」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e6%96%b0%e9%96%a3%e5%83%9a%e3%81%ab%e8%81%9e%e3%81%8f%ef%bc%88%e8%a9%b3%e5%a0%b1%ef%bc%89%e3%80%91%e7%a8%b2%e7%94%b0%e6%9c%8b%e7%be%8e%e9%98%b2%e8%a1%9b%e7%9b%b8%e8%a9%b3%e5%a0%b1%ef%bc%88%ef%bc%94%ef%bc%89-%e5%8d%97%e4%ba%ac%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%80%8c%e7%99%be%e4%ba%ba%e6%96%ac%e3%82%8a%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%a8%e6%80%9d%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%be%e3%81%99%e3%80%8d%e3%80%8c%ef%bc%93%ef%bc%90%e4%b8%87%e4%ba%ba%e3%80%81%ef%bc%94%ef%bc%90%e4%b8%87%e4%ba%ba%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e6%95%b0%e3%81%8c%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%a7%e3%81%82%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%8b%e3%81%af%e9%87%8d%e8%a6%81%e3%80%8d/ar-BBvhcPX

【普天間飛行場移設】 --普天間飛行場の移設先は辺野古が唯一の解決策だと思っているとおっしゃった。移設が進んでいない根本的な原因は

「まずはですね、普天間の辺野古移設に至った、決められた経緯でありますけれども、この問題の本質は、普天間飛行場が世界一危険な飛行場といわれ、まさしく市の中心部、ど真ん中、小学校の近くにあるということだと思っております。そういったこの問題の本質を、やはり住民の皆さま方にしっかりと説明をしていくことが必要だろうと思っております。そして大きな議論の末に裁判所で国と県が和解をして和解条項が成立したわけでありますので、その和解条項に基づいて今、国も提訴し、さらには協議を進めていくんだということも引き続き説明した上で誠実に対処していく必要がある。引き続き粘り強く取り組んでいく必要があると思っております」

 --防衛相として沖縄に訪問したい考えは 「この問題については、知事や県民の皆さん方にもしっかりと説明をする必要があると思っております。いま具体的にスケジュール的なものを検討しているわけではありませんけれども、その必要があると考えております」

【中韓メディアによる右翼批判】 --防衛相就任が決まってから中国や韓国から右翼政治家と批判されている。受け止めは。自分自身ではどういう政治家だと考えているか。

 「たぶん弁護士時代に関わっていた裁判などをとらえられたりされているのではないかと思っておりますけれども、私自身は歴史認識の問題について、さまざまな評価はあるでしょうけれども、一番重要なことは客観的な事実が何かということだと思います。私自身の歴史認識に関する考え方も一面的なものではなくて、やはり客観的事実が何かであるかということを追求してきたつもりであります」

 「その上で、私は先ほども申し上げましたように、東アジア、太平洋地域の平和と安定、そして、そのためには中国、韓国との協力的な関係を築いていくということは不可欠だろうというふうに思っております。いつでもそういった交流というか、話し合いの場を自分から設けていきたい。そして議論することによって私に対する誤解もたぶん払拭されていくのではないかというふうに考えております」

 --中谷元・前防衛相は訪中を追求していたが訪中の考えは 「機会があれば訪中したいと思っております」

69NAME:2016/08/05(金) 15:39:04
【南京事件】 --海外メディアは歴史問題について追及している。南京事件について考えを聞きたい。外務省の見解では非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できないが、正しい数は諸説あるのでどれかというのは取りませんとしている。この見解に対する考えは

 「私が弁護士時代に取り組んでいたのは南京大虐殺の象徴的な事件といわれている(昭和12年の南京攻略戦で報道された)百人斬りがあったかなかったか、私は、これはなかったと思っておりますが、そういったことを裁判として取り上げていたわけであります。それ以上の歴史認識についてはここでお答えすることは差し控えたいと思います」

 --外務省の正式見解についてはどうか。南京入城の際に民間人殺害があったと。 「30万人、40万人という数が南京大虐殺の数として指摘をされています。そういった点については、私は大変研究も進んでいるので、何度も言いますけども、歴史的事実については、私は客観的事実が何かということは最も重要だろうというふうに思います」

 --数は分からないが、民間人の虐殺や略奪があったという見解についてはどうか 「数はどうであったかとは、私は重要なことだというふうに思っております。それ以上にこの問題について、お答えする立場にないと思っております」

 --たとえば秦郁彦は、わりと右のほうだと思うが、日本軍の陣中日記や作戦の詳報などを見て、捕虜になって捕まった人が軍事裁判にかけられず殺されている。無法な殺害に当たるので、その意味では数万の殺害は認めざるを得ないと。数万の殺害は認めるのか 「秦先生を含めさまざまな見解が出ています。何が客観的な事実かどうか、これをしっかりと見極めていくことが重要で、それ以上について私がお答えできる立場にないと思います」

--外務省の見解についてはどうか 「外務省の見解が政府の見解と反するということではない。というか、当たり前のことですけれども」

 --その見解を取るのか。従うのか 「大臣も、というか、私は歴史的な問題については客観的な事実がすべてであり、数は関係ないというご意見もありますけれども、数も含めて客観的事実が何かということをしっかりと検証していくことが重要だと思っております」

 --捕虜の殺害はどうか 「私がここで秦先生の見解について何かコメントする立場にはありません」

【世論調査】 --共同通信が4日に行った世論調査で防衛相起用について「評価しない」が43%、「評価する」が32%ということで評価しないが上回った。今後この結果を受けてどう取り組まれるか 「わが国の防衛という大変重要な責務についてしっかりと取り組んでいくということだと思います」

70NAME:2017/01/18(水) 04:42:19
「南京大虐殺記念館」名誉館長が来日 講演で「世界記憶遺産登録を勧めたのはフィリピンの閣僚」と主張
2016.12.16 13:17更新

「南京大虐殺記念館」名誉館長の朱成山氏が来日し、15日夜、東京都千代田区の在日本韓国YMCA国際ホールで講演した。犠牲者数や存否をめぐって議論がある「南京事件」について、朱氏は「30万人という被害者の数は歴史的事実。国際法廷で出た結論だ」と述べ、「30万人以上になるのは確実だ」と主張した。国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題では、「われわれのアイデアではない。勧めてくれたのはフィリピンの閣僚だ」と経緯を明かした。(WEB編集チーム 三枝玄太郎)

朱氏はこの日の講演で、「名古屋で講演したとき、右翼が『南京の人口が20万人なのに、被害者数が30万人に上るのはおかしい』と質問した」エピソードを紹介し、1937年5月時点で南京の人口は101万人余りだったと主張。「20万人は国際安全区の中に収容された数だ」と反論した。面積も3・86平方キロというのは国際安全区の面積で、南京行政区は476平方キロあったと説明した。

世界記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が昨年登録されたことについては、フィリピンの閣僚の名前を挙げ、「(米の牧師で極東軍事裁判で証人として証言した)ジョン・マギー氏のフィルムを見た際、『これは記憶遺産になりますよ』と勧められた」と述べた。

 マギー・フィルムとは、南京事件の犠牲者を撮影したとする16ミリフィルム。多くの遺体が映っているが、戦闘で死んだものなのか虐殺されたものなのかは分かっていない。フィルムは極東軍事裁判に証拠としては提出されていない。 最後に朱氏が「世界平和のため、一緒にがんばっていきましょう」と呼びかけると、会場の約150人から拍手がわき起こった。

 一方、在日本韓国YMCA国際ホールの外では、右派系の市民団体が「南京大虐殺の集会がこちらであるそうです、それよりも(日中戦争の発端となった盧溝橋事件の直後、北京郊外で日本人200人以上が中国人部隊に殺害された)通州事件を取り上げたらどうか」「日本ヘイトをやめろ」などと抗議する姿もあった。 会場では、こうした団体が朱氏に質問することを呼びかけていたためか、質疑応答はなく、報道関係者以外の参加者が会場を撮影すると、スタッフが「つまみ出すぞ」「誰の許可を得てやっているんだ」と声を荒らげる場面もあった。

71NAME:2017/01/18(水) 04:49:56
【歴史戦】
アパホテルを中国外務省が批判 客室の書籍「南京大虐殺」を否定
2017.1.18 00:09更新
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180004-n1.html

【北京=西見由章】日本のビジネスホテルチェーン大手のアパグループが運営するアパホテルの客室に、「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定した書籍が備えられていることに対し、中国外務省の華春瑩報道官は17日、「日本国内の一部勢力は歴史を正視しようとしない。正しい歴史観を国民に教育し、実際の行動でアジアの隣国の信頼を得るよう促す」と述べた。中国外務省が日本の民間の言論にまで批判の矛先を向けるのは異例だ。

 華氏は「強制連行された慰安婦と南京大虐殺は、国際社会が認める歴史的事実であり、確実な証拠が多くある」と主張した。 この問題はアパホテルに宿泊した中国人と米国人の男女が12日、中国版ツイッター・微博で書籍について指摘し、中国国内のネット上で非難の声が上がっていた。中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は、日本で営業している中国の旅行社がアパホテルの取り扱いを中止したと報じた。

【歴史戦】
「南京大虐殺」否定書籍 アパホテル「撤去しない」
2017.1.18 00:11更新
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180005-n1.html

中国国内で非難の声が上がっているのは、アパグループの元谷外志雄代表のエッセーをまとめた本とされる。アパグループは17日、客室から撤去する考えがないとする見解を公式サイト上に掲載した。 同社は「特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」と説明。その上で「日本には言論の自由が保障されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならない」との考えを強調した。

72NAME:2017/01/23(月) 22:27:06
「南京事件なかったのでは」姉妹都市・名古屋の河村市長
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e5%8d%97%e4%ba%ac%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%ae%e3%81%a7%e3%81%af%e3%80%8d%e5%a7%89%e5%a6%b9%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%83%bb%e5%90%8d%e5%8f%a4%e5%b1%8b%e3%81%ae%e6%b2%b3%e6%9d%91%e5%b8%82%e9%95%b7/ar-AAm7YUX?ocid=iehp#page=2

名古屋市の河村たかし市長は23日の記者会見で、日中戦争中の1937年に起きた南京事件について「いわゆる南京事件はなかったのではないか。中国は『30万人、市民を虐殺』と言っているが、本当なら日本人が全員南京に行って土下座しないといけない」と述べた。

 アパグループ(東京)が運営するホテルの客室に南京事件に否定的な書籍を置き、中国で批判されていることに関連し、記者の質問に答えた。ホテル客室への書籍配置については「内容は別として、それはそれで結構なこと」と理解を示した。

 河村氏は「市民虐殺はなかったのではないか。通常の戦闘行為はあったが、政府見解でも『虐殺』は認めていない」とも述べた。一方で政府は、被害者の人数は諸説あるとしつつ、「日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」(外務省ホームページ)との見解を示している。 河村氏は2012年に同様の発言をし、名古屋市は姉妹友好都市の南京市との交流が途絶えるなどの影響がでた。河村氏は持論について「撤回するつもりはない」と述べた。

73NAME:2018/04/13(金) 01:56:29
南京で日本人が道を尋ねたらどうなるか実験してみた・・・お年寄りはどう反応した?=中国メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e5%8d%97%e4%ba%ac%e3%81%a7%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%8c%e9%81%93%e3%82%92%e5%b0%8b%e3%81%ad%e3%81%9f%e3%82%89%e3%81%a9%e3%81%86%e3%81%aa%e3%82%8b%e3%81%8b%e5%ae%9f%e9%a8%93%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%bf%e3%81%9f%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%81%8a%e5%b9%b4%e5%af%84%e3%82%8a%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e5%8f%8d%e5%bf%9c%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bc%9f%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-AAvMyY5?ocid=iehp#page=2

中国共産党青年団中央の中国版ツイッター・微博(ウェイボー)アカウントは9日、日本人女性が江蘇省南京市で市民に道を尋ねたらどうなるかを実験した動画を紹介した。

 動画では、日本人だという1人の女性が、片言の中国語でさまざまな人に道を尋ねている。紹介された市民はみな快く道を教えてくれた。そして、女性がある中年男性に、「私は1人で日本から来たのですが、南京では誰も助けてくれないと思っていました」と話すと、この男性は「あなたが日本人だからといって、南京大虐殺があったからといって、今の南京人のほとんどは日本人だから助けないなんて考えは持っていないよ」と答えている。

 また、別の中年女性は、「南京人はとても友好的。日本人だからといって、危険な目に合わせるようなことはしない」と回答。「すごく嫌いでもないし、すごく好きでもない」という人もいたが、「恨んでいる」、「憎んでいる」と答えた人は動画の中ではいなかった。

 動画に出てくる高齢者たちは、「日本人も中国人もみんな友好的。市民はみんな友好的なのだ」、「悪いのは、一部の人たちだ」、「われわれは歴史を追究したりしない。でも、歴史を忘れることはない」と語っている。

 この動画を見た中国のネットユーザーは「なぜか見てると涙が出てきた」、「歴史を忘れないということは、永遠に恨むことではない!」、「南京人は日本人を仇のようには思っていない」など、市民の態度を称賛する意見が数多く寄せられた。しかし一方で、「このような実験に意味があるのか」との懐疑的な見方をするユーザーも少なからず見られた。(編集担当:今関忠馬)(写真は南京市の遠景。提供:123RF)

74NAME:2018/05/13(日) 18:27:14
南京大虐殺紀念館The Memorial of the Nanjing Massacre
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g294220-d1799087-Reviews-The_Memorial_of_the_Nanjing_Massacre-Nanjing_Jiangsu.html

侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%B5%E8%8F%AF%E6%97%A5%E8%BB%8D%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%AE%BA%E9%81%AD%E9%9B%A3%E5%90%8C%E8%83%9E%E7%B4%80%E5%BF%B5%E9%A4%A8

「これが南京大虐殺記念館だ」 〜無関心ではいられない真実 日本社会党が資金源だった
https://matome.naver.jp/odai/2141121809780484901
【100人斬りは大嘘bot】元東京日日新聞(毎日)のカメラマン佐藤振壽氏は、日本軍の向井少尉と野田少尉による100人斬りの新聞記事は事実でないと、最後まで言い続けて亡くなっている。: goo.gl/O4iG5r pic.twitter.com/0qmTXj1gIg

記念館建設をすすめた田辺誠
日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、 南京大虐殺記念館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため総評が3000万円の建設資金を寄付し、その資金で同紀念館が建設された

75NAME:2018/05/29(火) 00:01:09
「南京大虐殺はなかった」という人へ-「否定派のウソ」と「事実」-
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html

太平洋戦争時の中国の指導者であった蒋介石は、日本軍が誤爆した南京空襲については国連に報告していますが
https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9367192.html
最も根本である「日本の対中国戦争は侵略行為であり違法である」という意味の宣言をすでに採択されている状況下で、直後の12月に首都を攻略され国家滅亡の淵に立っていた中華民国政府側が屋上屋を重ねる感のある南京虐殺事件提訴よりもより実効性のある列強からの直接援助や対日経済制裁を引き出す努力の方に力をかけたとしても不思議ではありません。また、すでにドイツ、イタリアも連盟脱退し、連盟自体の影響力は低下を否めない状況です。

東京裁判では南京大虐殺について証拠がないということで取り下げられていることが確認できました。また、それ以降から1980年代に至るまでに話題になった記録が見つからないことも分かりました。

蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。」と証言していた。
https://ameblo.jp/qptyan/entry-11344994160.html

■中国国民のみなさんに知っていただきたい事実
 日本国民の中における右翼の割合はごくわずかです。
 ただ彼らは権力志向が非常に強く
 彼らのあらゆる卑劣な手段に正義が負けて
 長年にわたり自民党という右翼政党にこの国の権力は
 掌握されてしまっているのです。
 そのためあたかも
 日本国民の多くが右翼思想に染まっているかに誤解されているのです。
 右翼思想をもつのは日本国民の中のごく特殊な人間だけです。

 「蒋介石が「南京大虐殺などない」と言った」。ネットでときおり見かける記述ですが、これがもし本当であれば、世界的な大ニュースです。
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/tanakashoukaiseki.html
しかし、その間に田中氏は、「南京虐殺の虚構」「南京事件の総括」という「否定本」をモノにしていますが、そこにはこのエピソードは全く登場しません。
「南京事件の総括」には「虐殺否定十五の論拠」なるものが掲載されていますが、「何応欽軍事報告にもない」「国際連盟も議題にせず」といった「小ネタ」はあっても、 「蒋介石自身が否定している」という、インパクトの強い、まさに目玉になりそうな話は出てきません。田中氏は、35年も経って、突然記憶がよみがえったのでしょうか。

中国は知らなかったか?
掲示板などでは、あたかも、中国国民党政府が一九三八年当時には「南京虐殺」の認識を持っていなかった、と言わんばかりの書き込みをよく目にします。ここでは、蒋介石、及び蒋介石夫人の宋美齢 などが、当時どのように「事件」を認識していたか、を確認しておきましょう。
http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html

【南京大虐殺】「中国とアメリカによるほら話だよ」アメリカ人も気づき始めたレイプオブ南京の嘘
http://hakkou-ichiu.com/archives/1966

76NAME:2018/05/29(火) 00:12:51
蒋介石 田中 松井
蒋介石の証言では南京大虐殺なんてなかったそうですが。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13132059263

田中正明は2001年12月23日の講演でこう言いました。

「1966年に台湾に行って蒋介石に会った時、松井石根という名を耳にした瞬間、蒋介石の顔色がさっと変わりました。目を真っ赤にし、涙ぐんで『松井閣下には誠に申し訳ないことをしました』手が震え、涙で目を潤ませて、こう言われるのです。

『南京には大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録しているはずです。私も当時大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです』といいながら涙しつつ私の手を2度3度握り締めるのです」

田中が蒋介石に会ったのが1966年。それを発表したのが35年後の2001年。もし本当だったら台湾から帰ってきてすぐ大騒ぎしたでしょうね。しかも田中が1984年に出版した「南京虐殺の虚構」でもこの話は出てこない。

田中がこれを発表した2001年は田中は90歳。思考能力を失ってデタラメを言ったとしか考えられません(90歳でもしっかりした方はいるので老齢をバカにするつもりはありませんが)

蒋介石は日記にこう書いています。
1938年1月22日
「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている」「南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である」「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」

日本軍が中国、特に南京でやった事は通常の戦争の域を大きく逸脱しています。殺人、略奪、強姦、やり放題。当時の日本陸軍の将軍たち、実戦に参加した兵士たちも認めている。

南京攻略軍総司令官・松井石根大将 東京裁判で死刑直前のコメント
「南京事件はお恥ずかしい限りです、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった」「従って、私だけでもこういう結果(注:死刑)になるという事は、当時の軍人たちに一人でも多く深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」

陸軍省人事局長・阿南少将(のち大将、陸軍大臣)南京視察メモ
「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪絶えず」「「婦人方面、殺人、不軍紀行為は国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」

第11軍司令官・岡村寧次中将(のち大将)
「派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民に対する掠奪強姦多数ありしことは事実なるが如し」

77NAME:2018/05/29(火) 00:32:37
田中先生が蒋介石に対して
「閣下には以前お会いしたことがあります。」「南京での会議に同席して松井大将と共に私も居りました。」と言ったところ、
蒋介石は、急に顔を真っ赤にして、震えるように目から涙を流して、
「松井閣下には申し訳ないことをしました・・・」といって、田中先生の手を握って話さなかったそうです。

その状況を見ていた台湾側の同席者は、なぜ蒋介石がそこまで狼狽したのかを理解出来なったそうです。
どうして、蒋介石がそこまで言ったのかといえば、蒋介石が日本に留学中に住んでいた下宿の保証人は
松井大将だったのです。
http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/280.html

78NAME:2018/06/26(火) 03:20:44
福田氏、南京で虐殺記念館を訪問 日本の首相経験者で4人目
共同通信社
2018/06/26 01:59
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e7%a6%8f%e7%94%b0%e6%b0%8f%e3%80%81%e5%8d%97%e4%ba%ac%e3%81%a7%e8%99%90%e6%ae%ba%e8%a8%98%e5%bf%b5%e9%a4%a8%e3%82%92%e8%a8%aa%e5%95%8f-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e9%a6%96%e7%9b%b8%e7%b5%8c%e9%a8%93%e8%80%85%e3%81%a74%e4%ba%ba%e7%9b%ae/ar-AAz9uDV?ocid=iehp

【北京共同】福田康夫元首相が24日、中国江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問していたことが25日、分かった。中国メディアが報じた。日本の首相経験者では海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。

 中国メディアによると、福田氏は犠牲者に献花し、黙とう。記者団に対し「最も大切なのは平和で、戦争の悲劇は再び起こしてはならない。ただ、すでに発生した事実は進んで直視する必要がある」と述べた。 同時に「日本人は記念館を訪問し歴史を理解すべきだ」と指摘した。

79NAME:2019/04/10(水) 22:00:55
南京大虐殺の嘘:あり得なかった「市民の大虐殺」
森 清勇 2019/04/09 06:00
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E5%98%98%E3%81%82%E3%82%8A%E5%BE%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D/ar-BBVK0b5#page=2

NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ・2015年10月4日放映)は、「ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞」をはじめ、1つの番組で7本受賞した。 番組製作者の清水潔氏は「事実の証明に苦労した放送だったので、・・・それを後押しして頂けたようで嬉しく思う」と、著書『「南京事件」を調査せよ』(2016年8月刊)で述べている。 日本テレビは2018年5月14日に「南京事件Ⅱ」を放映。これを観た福田康夫元首相は、「日本軍が中国人を殺したのは事実なんだ」と思い、また幼少の一時期を同地で過ごした懐かしさと、習近平主席が「南京大虐殺記念館」の内容を大幅に入れ替えたと知り同館を訪問する気になったという。

 著書は1年余後に早くも文庫本となり、その「あとがき」では産経新聞(平成28年10月16日付)や一部の人からもの言いがついたが、調査報道の真髄に迫るのが評価されていることが分かる。 多くの捕虜を抱えた103旅団(13師団)の捕虜対処では、飯沼守上海派遣軍参謀長の日記でも記述が曖昧で、肝心なところは「噂アリ」の記述でしかなかった。 すなわち、歩兵第66連隊と山砲兵第19連隊の約2万に上る捕虜対処には不明なところが多かったのである。 この点を1次資料発掘で解明した労を多とし、善悪はともかくとして、戦争の悲惨さや軍人の生き様などに視聴者を向きあわせた功績は大きいとみる。 ただこの一文を草するのは、次に述べる2つの危惧からである。

80NAME:2019/04/10(水) 22:01:12
南京事件の本質は「捕虜」問題に非ず

 一つは、放映と著書に「南京事件」と冠しながら、主たる部分が「兵士たちの日誌とその検証」による“捕虜問題”であり、「南京事件」=「捕虜問題」と勘違いさせる危惧である。 そもそも、「南京事件」の主たる争点は、中国が高校で使用する教科書『世界近代現代史』にある「1937年12月〜1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器を持たない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺に苛まれた」とする内容の真偽である。 すなわち「約6〜7週間」に「南京一都市」で「30万人」もの「武器を持たない中国人=一般市民」の「大虐殺」があったか否かである。

 中国がその事実を示すものとして開設している展示館は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」と表示され、日本では分かりやすく、約(つづ)めて「南京大虐殺」と称することが多い。 同館の至る所に「30万人」とあり、期間は「1937.12.13-1938.1」と明記されている。 中国共産党の決定と言われるこの内容は、南京攻略戦で南京が陥落して以降の約40日間で、捕虜や城内の市民30万人を日本軍が殺害したというものである。 この視点に立つと、「南京事件 兵士たちの遺言」や『「南京事件」を調査せよ』の「主たる部分」は幕府山周辺での数万の捕虜の捕獲から殺害に至る数日間の状況でしかいないので、南京事件イコール捕虜殺害という誤解を与えるのではないだろうか。 「南京事件」とは何かを曖昧にしたままの議論は、ことの本質を矮小化しかねない。

 放映と著書の内容からは「南京事件」の冠でなく、「南京攻略戦における捕虜処刑 兵士たちの遺言」などが適切ではなかっただろうか。 以上からも分かるように、日中の歴史戦における「南京事件」の本質は、教科書で記述している通り、「市民30万人の虐殺」があったかなかったかである。

 「南京事件」の国内論争では便宜上「大虐殺派」「中間派」「まぼろし派」と三分される。これは捕虜の処刑ではなく、市民虐殺を「10万〜30万人(ここでは捕虜も含む?)」、「数千人〜2万人前後」、「ほぼゼロ」とみることからの区分けである。 戦争(や事変)で戦死者や捕虜が出ることはもとより承知で、「遇難同胞」とは呼ばないであろう。教科書が記述するように、記念館の「大屠殺遇難同胞」は「武器を持たない中国人」、すなわち「一般市民」の意であると理解できよう。

 中国が「南京大虐殺」をユネスコの「記憶遺産」に登録する行為に日本が反発したのは、捕虜数万人の問題というよりも、「一般市民」数十万の「大虐殺」などの人道に悖ることはしていないとみているからである。 一般市民の大虐殺があれば「犯罪国家」の誹りは免れない。それゆえに、市民の大虐殺の有無は国家と軍人の名誉にかかわる大事である。 南京事件の争点は一にこの市民大虐殺であり、「南京事件」と銘打ちながら「主たる部分」を捕虜問題、しかも虐殺問題として扱うことは、羊頭狗肉とさえ言えるのではないだろうか。 清水氏は放映後に残った疑問として、「南京事件が否定され続け、闇へ封じ込まれようとするのか」と語っている。 日本は闇へ封じるどころか、河村たかし名古屋市長が「姉妹都市の友好を高めるために真実を突き止めたい」と発言したのに、少年たちの相互訪問を含む多くの友好記念行事を取りやめたのは中国側であったのだ。

81NAME:2019/04/10(水) 22:01:31
捕虜殺害は違法だったか

 もう一つは捕虜の処遇である。これは戦時国際法に則った処置か否かであり、日本側は一部違法の面もあろうが、基本的に適法であったとみていた。 蒋介石やその後の中国を率いた毛沢東は、日本軍の掠奪・暴行・放火などに言及するが、捕虜問題には言及していない。 ましてや虐殺に触れていないということは、取り立てて非難するほどの市民虐殺(戦闘に巻き込まれての死亡は虐殺ではない)はなかったし、捕虜の殺戮も戦時国際法から逸脱するものではなかったと認識していたからではないだろうか。 兵士の陣中日記などでは殺戮の詳細な状況を書き残しているが、「(敗)残兵掃蕩」を行なっているのであり、「虐殺」という認識はないのでその用語も使用していない。 殺戮の命令を下した指揮官たちは、戦いは続いており、自軍の糧食にも窮するところに数十倍の捕虜をかかえて困惑した。 収容棟では火災が起き逃亡兵が出る、解放のため移動中には反乱が起きるなどから最終的に処刑する。簡単な裁判すら開いていない不備もあるが、「虐殺」どころか、適法の意識で行ったわけである。 

 捕虜処刑は戦時国際法に関わる違法性の問題で、人道に悖る処刑、すなわち犯罪云々ではない。ここで、戦時国際法の専門家たちの見解を見てみよう。 外交史家で国際法学者の信夫淳夫博士は、「俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの已むを得ざる場合あることも肯定すべきである」(『戦時国際法講義』)として、下記のハレックの説を示している。

 「極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼ら能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。・・・軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。仮に軍の安全が敵―たとひ我軍に降伏したものにせよ―のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか」

 「俘虜を殺害することの風習は今日文明国間に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。・・・ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判断すべく、軽々しくその当否を断ずべきでない」

 国際法学者の田岡良一博士(『増補・国際法学大綱下巻』)は、「敵兵にして降を乞ふ者の生命を害する事は、慣習法上禁止せられ、ヘーグ陸戦条規23条(ハ)号も亦之を規定する。然し乍ら戦闘の進行中に敵軍の一部が投降の意を示しても、我が軍が之を収容して後方に送る為には我部隊の進撃を一時中止する必要を生じ、其事が我勝利を危くする惧ある場合には、敵の降伏信号を黙殺して攻撃を継続することを許される」

 「陸戦条規23条(二)号の〈助命せざることを宣言すること〉の禁止は、敵兵の投降を認めない事を戦闘の開始に先立って予め宣言することを禁止するのみであって、戦闘の進行中に臨時に生ずる軍事上の必要に基づいて投降を拒否する事は之を禁止するものでないと解すべきである」としている。 外国人記者が殺害の状況を報道し、また宣教師らが日本軍の悪行を報告しているが、「虐殺」か否かを批判しなかったのは、彼らには戦時国際法が念頭にあったからだと見ることができよう。

 そもそも虐殺云々は、戦後8年も経って南京と東京で行われた裁判で初めて出てきたことである。 しかも、捕虜などの殺害は多くても2万〜3万人であるが、裁判前後からの中国の口吻は「12月13日から6、7週間」「30万人」の殺害などであり、これが「南京大虐殺」(または掠奪・暴行・放火なども含めて「南京事件」)と称されてきたのである。 繰り返すが、安全区内で摘出された敗残兵や便衣兵、並びに城外の揚子江南岸一帯(主として幕府山周辺)で捕獲された捕虜の殺戮やその方法だけが問題にされてきたものではない。

82NAME:2019/04/10(水) 22:01:48
戦争にも国際ルールがある

 戦争といえどもルールがあり、それはハーグ陸戦法規などの戦時国際法で規定されている。この中で、捕虜や敗残兵、便衣兵などについての考え方も記されている。 著書では、日本軍は中国人兵士の捕虜を残酷に扱ったという流れで貫かれている。日清戦争時の旅順虐殺事件なども引き合いに出して、日本軍がしばしばやってきたことで、南京事件だけが特異ではないということを示したかったようだ。 しかし、そうした事例は事案が起った経緯を省いて日本側の行為のみを一面的に記しており、多分に誤解を与える。本論の焦点ではないが誤解があるようなので、まず旅順虐殺問題から取り上げる。 近代化による文明国家を意識していた日本は、日清戦争以後の戦争にも国際法の専門家を同道した。

 戦争や事変は国家の名誉を懸けた戦いであり、戦死者が出るのは覚悟の上である。しかし、国家を背負って戦った戦死者には相互に尊崇の念が払われて然るべきである。 米人記者は「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊るされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった」とワールド紙に記し、「その後、大規模な殺戮が起った、激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と報道したのである。 実際、清国兵は日本兵士の死体や負傷者の首を刎ね、切り裂いた腹部には石を詰め、腕や睾丸までも切り取って路傍に放置する状況で、戦死者の扱いどころか、猟奇事件もどきに扱ったのである。

 この状況に激昂した日本兵は、便衣兵や武器を隠し持っていた市民などまで殺害したのである。米人記者は事実を報道しているが、「虐殺」として批判していないことが肝心である。 日露戦争の第2軍司令官大山巌大将は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。東鶏冠山では日露軍が150メートルの距離で対戦した。 しかし、一端休戦が宣せられると戦死者を収容し、その後双方が酒やウォッカを持ち寄り、しばし歓談し芸を披露して過ごす。その後、再び死闘を繰り広げたのである。

 南京攻略戦の途上において、掠奪、暴行、放火(これらも、米人記者によると9割以上は撤退する中国軍の常習的な焦土・清野作戦による)があり、また徴発などで一般市民を巻き込んだこともあるであろう。 また、捕虜の取り扱いについては軍の上層部が戦時国際法に疎かったという批判もあるが、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」に旅団長や連隊長が苦悩するが解放の方向で動くなど、文明国としての基本が機能していたことは確かである。

83NAME:2019/04/10(水) 22:02:04
武勇談から一転「加害者」への危惧

 先述のように、捕虜の数は多かったが、戦時国際法で見たように処分は正当で犯罪視されることはないと思っていたに違いない。そして、堂々と陣中日記などに書き綴っていった。ある意味「武勇談」として・・・。 実際のところ、当人たちがどういう気持ちで書いたか判然としない。しかし、当時の日本社会は万雷の拍手を以て彼らの武勇を歓迎していた。 捕虜の捕獲は戦勝の証であった。しかし、捕虜が捕獲部隊の数十倍で処遇に窮する。そして、日本軍に危害を及ぼさない安全な場所まで連行して解放することにした。 しかし、収容場所で火災が起きたり、解放場所へ移動中に反乱が起きるなど、意図しない状況に遭遇する。この間に逃走したものも多い。残りは最終的に処刑される。 捕虜殺戮の陣中日記などを実行者たちはなぜ隠していたか。当人たちがいない現在、正確な答えは見出せない。 ただ、大隊長副官や砲兵小隊長で白兵戦をする立場になかった2人の将校が、戦場を移動する合間に練り上げた仮想の武勇談としか思えない「百人斬り競争」を新聞記者に語ったばかりに、南京における裁判で死刑を宣された。

 この時点から、捕虜処刑を実行した兵士たちは、自分の所属が特定される可能性、危険性を感じ、それは恐怖と沈黙に代わっていったのではないだろうか。 城内の安全区での便衣兵や敗残兵の摘出と処刑は計画的であったが、城外(幕府山周辺)の捕虜問題は偶発的であったと言えよう。 兵士たちの日記からは幕府山周辺の捕虜殺戮が計画的に行われたかのように読み取れるが、上級指揮官たちは、これほど多くの捕虜が出ること自体を想定していなかった故に慌てふためいたのである。

 兵士たちが残した殺害状況は、隔離・解放のための移動間の叛乱が一段落し、処刑を決意した後の最終段階で、ここでは「計画的」のように実行されたであろうが、これをもって、「(当初から)計画的」であったとは言えない。 当初の計画は安全な場所での解放であったが、叛乱などから処刑に決し、その処刑は何人かずつという具合に整然と、清水氏流に言えば「計画的」に行ったということである。 また、都合の悪い記録は焼却され残っていないかのように述べるが、程度の差こそあれ、各級の指揮官は書き残している。 捕虜の殺害と資料の焼却については、阿羅健一氏が「南京大虐殺記念館を訪れた 福田康夫元首相の過ち」(『Hanada』2018年9月号所収)に書くように、計画的な虐殺も焼却による封印もない。

84NAME:2019/04/10(水) 22:02:21
揺らぎ始めた中国側の言説

 大切な論点なので繰り返すが、日中の歴史戦は「南京で日本軍が中国の一般市民(と捕虜等)30万人を殺したか否か」で、捕虜の殺戮やその計画性などではない。 日本の研究が進んだゆえであろうか、「南京事件」についての中国の見解が当初の言い分(教科書記述)から変化している。 2005年6月、櫻井よしこ氏らと議論した中国社会科学院近代史研究所の歩平所長は、「30万人という数字について、・・・これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要」があると述べ、ヒロシマの被害者が「±1万人」とされるのと同様だとした。 一人ひとりを足したのではないというのも驚きだが、±1万人は傍証はあるが最終的に確認できないもので、「感情」でプラスマイナスされているのではない。「科学院」でありながら、少しも科学的でない説明だ。

 極めつけは習近平国家主席が国賓として英国を訪問した時のエリザベス女王主催の晩餐会における挨拶(2015年10月)であった。 虐殺場面を撮影しようとした英国人記者が日本軍に捕まり、殺されるところを中国共産党の兵士が助けたとの美談を英中友情の物語として披露したのである。 ところが、記者が上海に入国したのは南京事件の終わる時期で、しかも南京に行かずに漢口へ行っており、事件の撮影も共産党兵士の救助もあり得ず、中独などの合作映画用に脚色したことを評伝作家が認めたのである。 何としても南京事件を歴史戦として継続させたい一心がもたらした勇み足というにはあまりにお粗末ではないか。 それがあってかどうかは分からないが、「南京大虐殺記念館」の第1回目のリニューアルは20年後であったが、今回の第2回目は8年後の2016年末から約1年間で、2017年12月にオープンした。

 ところが驚くなかれ、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された本多勝一記者の顔写真や著書『南京への道』『裁かれた南京大虐殺』、そして中国取材に使用したペンやノート類などの資料、並びに全世界に衝撃を与えた中国系アメリカ女性のアイリス・チャン執筆の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』などが撤去されたというのである。 「史実の新たな証拠を集めた」と評してオープンした結果は、「大虐殺」に関連した写真と物品類それぞれ3000点が、写真は2000点に、物品類は1000点に削減され、新たに習近平主席の写真と慰安婦コーナーの新設となったというのだ。

 南京大虐殺の「動かぬ証拠」であった写真や資料などの物品類が、習主席の「偽美談」を後追いするような形で撤去されていったのを、どう解釈すればいいのだろうか。 そうした状況の中で昨(2018)年6月、同記念館を福田康夫元首相が訪問し、献花までして批判された。 案内した張建軍館長は、「30万人というのは南京城内の人だけでなく、南京に至るまで日本軍が殺害した人も含む」と説明したという。 清水氏は調べれば調べるほど厄介な南京事件であることが分かり、報道局長と同席の車で「これは相当に難しい」と、「危険な企画は消滅する」ように本音を呟いたという。

 ところが次の会議で局長は「清水さんが・・・やる気を出しているので担当してもらおうと思います」と説明した。清水氏自身が「史実というものはこうして修正されていくらしい」と書いている。 中国の「南京事件」に対する言説は、架空物語をも導入しなければ成立し難くなりつつあるようだ。

85NAME:2019/04/10(水) 22:02:35
おわりに

 支那事変、そして南京事件における日本の加害を筆者は完全否定するものではない。 しかし、発端である盧溝橋事件は、正当に駐屯していた日本軍の訓練を中国共産党が混乱させるために射撃してきたものであった。それでも不拡大方針の日本側は停戦協定を結ぶ。しかし、その後も協定は破られ拡大していった。

 英米なども日本同様に租界や居留地を有し、軍隊も駐留していた。外国人排斥の意図で行う中国の攻撃に対する英米の反撃は強力で、損失が大きすぎた。 しかし、日本は幣原軟弱外交と称されたように、非合法の攻撃を受けても隠忍自重し反撃しなかった。そうした対応を中国側は日本側の「弱み」とみて益々増長していった。

 南京への飛び火も、ドイツから軍事顧問団を迎えて従来にない強固な防御陣地を構築していた蒋介石軍の使嗾からスタートしている。 そして上海の堅陣を突破されると、直後の1937年11月、国民党直属の国際宣伝処を新設し、「兵士の戦い」から「プリンターインクの戦い」(フレデリック・ウイリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕』)、すなわち「宣伝戦」に戦術を変更する。

 ここでは蒋介石夫人宋美齢の人脈で、南京在の米人宣教師らが活躍し、南京で起きた掠奪・暴行・放火など、ほとんどは中国側がやったにもかかわらずすべて日本軍の仕業として世界に喧伝されるようになっていく。 そうした流れが生み出した「南京事件」であると筆者は見ているが、いかがであろうか。

86NAME:2019/07/18(木) 22:40:55
南京大虐殺の嘘:事件後、日本人は歓迎されていた!
2019/03/26 06:00JBpress
https://news.nicovideo.jp/watch/nw5049110

易姓革命を繰り返す中国は、前王朝の歴史を否定することによって自己を正当化できた。白を黒に塗り替えることで権力を維持することができたのだ。

 国民の支持を問うこともなく権力者になった者は、誰かを悪者とする敵に見立てる必要がある。 悪者にされているのは華夷秩序に従順でない日本である。その仕かけが歴史戦であり、「南京大虐殺」である。 独裁政権(あるいは絶対君主)下の国民は自由を制約され、真実を知る権利も語る権利も剥奪され、権力者が「強いること」を語らなければ生きられないように運命づけられている。

 強いられることが嘘と分かっていても否定できないし、むしろ拡大することが歓迎されるという悪循環を生み出すこととなる。 南京大虐殺が正しく格好の題材である。地道な歴史研究で白の証明をすることが論理的であるが、統治の手段として敢えて白を黒とする相手に論理は通用しない。 以下に、「南京大虐殺」はなかったことを証明し、統治の手段として利用している現実を確認する。

朝日新聞社が戦場に送った慰問団

 支那事変が始まって約半年後の昭和13年1月、朝日新聞社は吉本興業の協力を得て、華北と華中に慰問団を派遣した。 華北の慰問先は大連・天津・石家庄・太原・通州などであり、華中は上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州などであった。 昭和13年1月5日付「東京朝日新聞」は「戦線へ初春の慰問団」の見出しで、誇らしげに次のように社告を掲載した(早坂隆著『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録』、以下同)。

 「本社が全国国民より出征皇軍慰問のため寄託された資金は目下約32万円の巨額に達してゐるが、(略)今回右皇軍慰問資金の一部をもって更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線に左の通り慰問映写班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定」

 「慰問演芸班 陣中への新春笑ひの慰問として吉本興業部の協力により、漫才に落語に講談に浪花節に全員第一流のメンバーをすぐり」という通り、「わらわし隊」と呼ばれた慰問団には柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツ、ミスワカナなどが入っており、東京を昭和13年1月15日に出発する。 当時の朝日新聞は「軍用機献納運動」を展開して多額の寄付金を募り、昭和12年の下半期だけで611.5万円を集めた。 この資金で戦闘機20機、爆撃機10機、偵察機10機など90機を献納している。これから類推すると、32万円は軍用機5〜7機に相当する数百億円であろう。

 上海の激戦は終わっていたが南京戦は続いており、公演先では無数の支那兵の死体がごろごろ転がり、時には弾が飛び、また空襲を受けるなどの小競り合いもあったという。そうしたところへ列車や自動車、馬車、或いは輸送機・戦闘機で乗り込んで慰問している。 20キロも離れた場所から歩いて劇場に来た兵隊もいたが、劇場が小さく入り切れず、外までずっと行列が伸びていたという。 劇場のない所では野外の芝生の上で、あるいは軍艦上で公演し、時には遅れてきた兵士のためにと頼まれて再度の公演も行っている。 金語楼やアチャコら7人は北支慰問団で、中支慰問団はミスワカナ(紅一点)、横山エンタツ、杉浦エノスケ、石田一松、玉松一郎、神田ろ山および林正之助(吉本創業者の実弟で社長)の7人であった。

 上海戦が終わって2か月後の1月17日、上海に到着した。小休止の後、さっそく午後は病院慰問をやり、夜は松井石根最高指揮官をはじめとする軍上層部列席の下で公演するなど精力的である。 上海に1週間滞在して21カ所で慰問を行い、23日に南京へ向かう。南京を陥落させて1か月後余であるが、東京裁判の判決ではいまだ戦闘が続行している時期である。

87NAME:2019/07/18(木) 22:41:15
戦闘機で南京入りした慰問団

 ミスワカナ・玉松一郎夫妻と神田ろ山の3人は列車で南京入りする。他の4人は戦闘服に身を包み、パラシュートを背負って、上半身を外部に晒したままの戦闘機で移動し、飛行中はかなりの寒さに襲われたという。 「もしもの時は、こめかみに一発」と説明され、ピストルを渡されたそうである。 南京では27日まで公演をやっている。人気の高かったミスワカナは軍の病院を積極的に慰問し芸を披露した。

 南京到着時の模様を石田一松は、子供たちが「先生(シーシャン)、先生」と声を出しながら道を開けて歓迎してくれた。「自分の国にいて他国の人におべっかを使わねばならぬ彼らは手に手に日の丸の旗を打ち振っているのだ」と、同情の気持ちをもって書いている。 しかし、これは演芸団だから特別の歓迎を受けたのではない。

 「東京朝日新聞」は激しかった南京戦が終わった数日後の1937年12月21日付で、「初めのうちは彼らも日本人を見るとこそこそと壁の陰に隠れたものだがこの頃はすっかり日本の兵隊さんと仲良くなり兵隊さんが通りかかると『先生々々』とニコニコ顔で何か用事を言付けて呉と寄って来る程である」と書いている。 ところが、昭和23年11月13日付「朝日新聞」は、「(松井石根は)1937年12月13日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした」と書くのだ。

 米国人宣教師でYMCA書記長のジョージ・フィッチは「昼も夜も日本軍の暴行は続いた。特に最初の2週間がひどかった。恐怖の9週間が過ぎた2月17日、それまで街頭に出るのをためらっていた14台の人力車が初めて現れた」「強姦は12月15日頃から1日1000件の割で続発」「被害者の年齢は10歳から70歳」などと証言している。

 フィッチは病院の患者らを撮影したマギー・フィルムを持って1938年2月25日に上海を発ち香港、広州経由でハワイを手始めに全米で日本軍の悪行を宣伝して回り、11月に中国への帰国の途に就いた人物である。 慰問団が来たときは16師団の佐々木到一少将率いる第30旅団(33連隊と38連隊の各2000人)が警備している時期である。公演は2500人収容の国民大会堂で行われ、約4000人中の実に62.5%が演芸を観て腹をよじって笑っていたのだ。 兵民分離の市民登録を12月24日から開始して、市民には「安居ノ證」を付与し、新年からは中国人による自治委員会もできて治安を維持していた。こうした中で1日1000件の割で強姦が続発していたというのである。

 早坂氏は2007年に人民大会堂(共産党政権で名称変更)を訪ね、その後、南京市民に聞き取りを行う。 多くの市民が「日本人は歴史の真実を知らない。もっと歴史を学ぶべきだ」と判で押したように言ったという。 そして「共産党一党独裁下において高度な情報統制下にある国の人々が、『真実』という言葉を口にする時、私は寂しい気持ちになる。・・・彼らのもっている歴史観こそ、共産党に都合の良い『自尊史観』でしかない」と述べる。

 そして、田中上奏文(満州を皮切りに日本が世界を征服するという偽書)を偽書としないで教え、通州事件を「正義の叛乱」とし、原爆投下やヒロシマ・ナガサキは殆んど教えず、天安門事件やチベットでの虐殺には一切触れないため知らないにもかかわらず、「日本人はなぜ歴史から学ぼうとしないのか」と口を揃える中国の現実に思いをはせる。

 約10か月後には第2次「わらわし隊」が送り出され、(昭和13年)12月3日に再度南京を慰問する。 その様子をミスワカナは、「南京の町はとても活気があって、兵隊さんと支那人で雑閙(ママ)してゐます。日本軍の使役につかはれて働いてゐる俘虜がトラックで通ります。支那人のカフェなんかも出来てゐて、姑娘が『いらつしやい』なんて日本語で呼んでゐます」と情景描写している。

88NAME:2019/07/18(木) 22:41:40
元軍人も喜んで受け入れた南京市民

 南京戦に関わらなかった人物はもちろん、直接・間接に関係した軍人も戦争終了直後から南京市民は快く受け入れている。一人は「大虐殺」の最高責任者とされた松井大将の秘書であった田中正明氏である。 パール判事の全員無罪論を翻訳した田中正明氏は興亜学塾に学び、講師であった下中弥三郎氏の紹介で松井大将の知遇を得、大将が会長であった「大アジア協会」に勤務して機関紙「大アジア主義」の編集に携わる。 大将は戦傷した部下を見舞うため、田中氏を同道して大阪、名古屋、金沢、仙台などの陸軍病院を訪ねている。

 そうした折に、「その後の南京の治安状況が心配だ、視察に行ってくれないか」と頼まれ、陸軍省から「従軍記者」の認可を得て、昭和13年6月末、即ち南京事件が終わったとされる4カ月後に南京を訪ねる。 のちに大虐殺の張本人とされる松井中支那方面派遣軍司令官が南京を去って半年も経っていないときである。 しかも、田中氏は松井氏が会長を務める組織の秘書役である。その人物が松井氏の紹介とあって、「安全区はもとより、雨花台、下関、新河鎮、草鞋峡、紫金山などあらゆる古戦場や捕虜収容所等案内して頂いた」(『諸君!』(2001.2)所収の「三派合同 大アンケート」)というのである。 田中氏が尋ねたところは、「大虐殺」があったとされる場所ばかりだ。それにもかかわらず、恨みごとの一つも言わずに、案内している。

 2例目は、河村たかし名古屋市長の父君たちが、事件から約8年後に南京に駐屯したことである。 父君は歩兵伍長で250人の部隊の一員として、敗戦翌日の1945年8月16日に南京に入る。翌年1月まで約5か月間、郊外の寺に滞在するが、市民にとても親切にされ温かいもてなしを受けたという。 感謝の念に堪えがたく戦後50年目に「お礼というか感謝の気持ち」として、父君が中心になって戦友たちと桜1000本を寄贈する。植樹祭には体調を壊した夫に代わり、ご母堂が参加されている。

 寄贈した戦友たちの誘いで市長は植樹から10年目に南京に行き、南京大虐殺記念館にも足を運ぶ。 そこでの展示内容や説明と父君たちへの親切のギャップが大きいことに驚き、姉妹都市であればこそ「父たちが親切なもてなしを受けた南京で、いったい何が起こっていたのか真実を明らかにし、友好増進につなげたい。そのために真剣な議論で真実を明らかにしたい」と提案する。 一地方自治体の首長といえども国会議員も務めた政治家の発言だけに、中国は猛反発し、準備していた友好行事の大部を一方的にキャンセルする暴挙に出たのであった。

 第3の例は「日中友好軍人の会」が9年後に南京を訪れた時のことである。 遠藤三郎元中将ほか18人は何と「国賓」として招待され、北京では周恩来首相、彭徳懐国防相、粟裕参謀長と会談している。 その後、南京に入るが、ここでは人民解放軍の歩兵高級学校の張日校長(中将)や姚喆(ようてつ)副校長(中将)と会談する。 このとき、南京攻略時の第10軍参謀であった谷田勇元中将が、雑談のように、南京占領後数件起きたレイプに触れ、「南京ではいろいろありまして、ご迷惑をおかけしました」と述べて、「事件を起こした者は軍法会議にかけました」と伝えたところ、張校長は事件に対する日本軍の扱いは「公正」だったと応じ、和やかに会談は推移したと述懐している(「産経新聞」平15年7月24日付)。

89NAME:2019/07/18(木) 22:42:21
福田元首相に郷愁を抱かせた南京

 2018年6月、福田康夫元首相が南京大虐殺記念館を訪問して「献花」までしたことが騒がれた。中国が政治的な「歴史戦」を仕かけている真最中であり、思慮のなさが批判を受けたのは当然であろう。 しかし、元首相に南京訪問を思い立たせたのは、父親の赳夫氏(のちに首相)が当時大蔵官僚で、汪兆銘政権の財政顧問(1941〜43年)になっていた関係で南京に在住して、小学校進学前の「3か月間だけの生活だった」が、「現地の中国人は非常に親切にしてくれたんだな。あの時の南京に対するあこがれというか望郷というか、そうした思いが以前からあったんです」(「産経新聞」平成30年7月4日付、「単刀直言 福田康夫元首相」)と語るように、いい思い出が残っていたからにほかならない。

 インタビューの間などで康夫氏が(大虐殺)事件について一切語っていないことは、父君から大虐殺どころか、事件があったこと自体を聞いていないからであろう。 さらに敷衍すると、父は事件を「知っていて語らなかった」のではなく、そもそも「語ることができなかった」ということではないだろうか。

中国側の被害者数は謎だらけ

 以上は日本側への対応の指摘であるが、中国側の常識を疑わせる発言なども多々存在する。ここでは4例を示しておきたい。

(1)東京裁判で、魯甦は「日本兵が5万7418人を殺すのを見た」と述べ、検察側書証では「5万7400余」と記載されて東京裁判の法廷に提出された。しかし、法廷では朗読されることはなかった。

(2)遺体処理の慈善団体としては「紅卍会」が知られており、4万3071体を処理した記録も残されている。

 昭和13年4月16日付「大阪朝日新聞」は、「戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは・・・濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。・・・そこで、紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた」とし、続けて運搬手段や費用、人力などについて書いている。 死体処理に当っては慈善団体と雖も中国人の自治委員会と調整が必要であろうから、「紅卍会と自治委員会・・・が手を握っ」たというのは当然であろう。 ところが、東京裁判で突然、「南京市崇善堂」という慈善団体が出現し、11万2266体を埋葬したというのである。

 南京戦に上海派遣軍参謀として参加し、南京戦終了後の1938年2月からは南京特務機関長として1年間、南京(城内と城外の行政県)住民と関係してきた大西一大尉は、崇善堂の名は聞いたことも見たこともないという。 その後の調査でも崇善堂はトラックは1台しか持っていなかったと言われる。費用の請求や人員の支援依頼なども出ていないようで、正しく幽霊団体ではないだろうか。

(3)中国は高校で使用している教科書『世界近代現代史』の中では、「1937年12月〜1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器をもたない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺の被害に苛まれた」と記述している。 ところが、南京大虐殺記念館の張建軍館長は、同館を訪問した福田元首相に対し、「南京の城内の人だけでなく、そこに至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人も30万人に入っている」と説明している。教科書記述の「南京一都市」ではなく、「そこに至るまで」と地域を拡大している。

(4)歩平・中国社会科学院近代史研究所所長は櫻井よしこ氏らとの座談会(2005年6月、『日中韓 歴史大論争』所収)で、「南京大虐殺の30万人という数字について、当然、根拠はありますが、これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要もあります。日本でも広島の原爆記念館に行くと、犠牲者の数は14万プラスマイナス1万人と表記しています。・・・一定の変動幅を持たせることはお互いに必要なことだと考えている」と語っている。 死者数は死体の積み上げでなく、「感情」を加えたものだというのだ。そして、広島の焼死体や行方不明などでどうしてもはじき出せないプラスマイナスを引き合いに出す。これは議論以前の暴論ではないだろうか。

90NAME:2019/07/18(木) 22:42:33
おわりに

 「あったこと」の確認は「たった一事」で可能となるが、「なかったこと」には「無限の証明」が求められる。「悪魔の証明」と言われるゆえんである。 「なかったこと」は噂の段階で否定することが大切であるが、「南京大虐殺」のように、国家が確信的に公言するに至っては容易ではない。 しかし、中国側の発言に矛盾が目立つようになってきた。

 河村名古屋市長の発言に対する中国側の反応(暴挙)は、「真実」が究明されれば「歴史戦」の敗北につながり、さらには共産党一党独裁の「ウソ」体質の暴露となり、政権の正当性に赤ランプが点きかねない。 そうした危惧からであろうか、「大虐殺」から「性暴力」への方向転換を始めたのではないだろうか。

 リ・リニューアルした南京の記念館では、南京大虐殺の広告塔にも見立てられてきた本多勝一記者やアイリス・チャンの関係物品が撤去され、「性暴力」コーナーが新設されて「南京占領で1か月に2万件近い強姦事件が発生した」と表記し、写真、映像、さらには避妊具・避妊薬などが展示されているからである。 これ以上の宣伝は馬脚を現わし、共産党指導部にとっては益なしとみはじめたと思われる。また習近平主席の「一帯一路」は苦境に立たされ、「信用」面で日本の協力を必要としている。 今こそ、南京問題を政治決着するチャンスではないだろうか。

91NAME:2019/07/18(木) 22:53:54
南京大虐殺の「嘘」はどう作られ世界に広まったか
タウンゼントやホワイトが見抜いた蒋介石や米国人宣教師の虚言
2019.3.11(月)
森 清勇
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55687

1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。 しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。

 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。

 国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。 特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。 国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。

 宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。 この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。

蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。

 中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。 また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。 いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。

92NAME:2019/07/18(木) 22:54:40
蒋介石の米国世論操縦策

 日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。 米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。 そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。

 そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。 顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。 また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。

 ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。 上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。 英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。 いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。 自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。

 米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。 立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。 ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。 それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。 当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。

93NAME:2019/07/18(木) 22:55:50
報道の真実性

 ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。 一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。 ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。 すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。

 そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。 通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。 リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。 もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。

 ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。 数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。 実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。 誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。

94NAME:2019/07/18(木) 22:56:08
中国における米国人宣教師たち

 1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。 そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。 中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。 3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。

 全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。 事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。 他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。

 カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。 宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。 こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。

 タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。 だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。

95NAME:2019/07/18(木) 22:56:26
宣教師による米国内の宣伝行脚

 国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。 日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。 南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。

 ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。 「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。

 実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。 1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。 このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。

 上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。 フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。 2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。

 さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。 その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。

 このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。 フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。 「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。

96NAME:2019/07/18(木) 22:56:39
当時の日本側の見方

 『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。

 吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。

 その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。

 また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。 殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。

 ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。

 「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。

おわりに

 当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。 すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。

 日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。 中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。 日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。

97NAME:2020/03/29(日) 01:43:30
南京虐殺はあったのか
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/c/4b57f4088f6d4becf2823e896eeab9a2
徳川義親の伝記にも、こう書かれていた。
張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。
南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。
長中佐は藤田君にこう語ったという。
前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、「あれを撃て」と命令した。

98NAME:2021/05/05(水) 22:00:05
>「日本軍の命令と服従について」
決定版【南京大虐殺】洞 富雄 徳間書店の中に以下の文章(p297)があります。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/024539.html

・・・・以下引用・・・・・
長中佐は藤田くん(藤田勇)にこう語ったという。
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に、長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。そこで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
>・・・・以下引用終わり・・・・(ヒデ)

99NAME:2021/05/05(水) 22:05:48
南京虐殺はあった!
2020-08-12 22:56:18 | 太平洋戦争
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/f816c93ad741f78e5b484818e3b36734

https://youtu.be/yrLPTGCXPr0

100NAME:2021/05/05(水) 22:06:14
衝撃。「南京虐殺は無かった」という誤魔化しを覆す記録映像が、日本で公開されていた。 テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。民放の社会派ディレクターが退社前に全身全霊をかけて制作した入魂のドキュメント。NHKですらこれほど南京の真実に迫ったものを作ったことはない。日本軍は補給軽視の作戦の結果、数万の捕虜を養えず暴動が起きる前に皆殺しにした。虐殺否定派に問いたい。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することが、虐殺でなく何なのかと。投降した兵士であろうと便衣兵(ゲリラ※実際は南京城内にはいなかった)であろうと、白旗をあげた人間を殺してはいけない。
※推薦動画【永久保存版】南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言(32分)https://youtu.be/uyVeMusrS-k
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南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。ネット上では多数のデマが流れているため、よくあ­る質問と答えを以下にまとめる→

・日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない。→­ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
・虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京­戦に投入された部隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
・捕虜虐殺を見ていない海外ジャーナリストがいる。→虐殺現場は街から4キロ離れた揚子江­の川岸。中心街で殺害したのではない。
・南京入りした後発補充部隊は「虐殺はなかったと聞いている」と証言している。→「な­かった」と証言する元兵士は全員が事件後に南京市入りしている。しかも伝聞の証言であ­り説得力なし。何より、軍の公式記録である第66連隊の部隊記録に捕虜殺害の数が記録­されており、その数は加害兵士の陣中日記や証言と一致している。
・捕虜の暴動が起きたので仕方なく殺した→この話は戦後に現場指揮官の1人が戦犯指定を逃れるためにでっち上げたものと2018年に判明。暴動説はデマが確定。

〔まとめ〕南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処­理に困って殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。便衣兵が「ハーグ陸戦協定違反」であろうとなかろうと、丸腰­の人間を裁判抜きで殺害するのは戦争犯罪。“南京事件否定派”の意見は国際社会で通用­しない。
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101NAME:2021/05/05(水) 22:06:51
〔補足・通州事件〕【通州事件…ネット右翼が知らない3つの事実】
(1)通州事件は、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。朝鮮人の死者の方が多いが、当時の朝鮮は日韓併合下にあったため「邦人200人以上」としている。
(2)通州事件は日本軍の誤爆事件が先にあった。襲ってきた中国人部隊は元々親日派で、日本軍が育てた子飼いの部隊。誤爆事件で飼い犬に手を咬まれた。
(3)日本軍は通州からヘロインなど大量の麻薬を大陸に流していた(毒化政策)。その悪行が中国人から反発を買った。
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〔補足2・便衣兵のせいというデマ〕
第一次上海戦では便衣兵(ゲリラ)の攻撃を受けたが、第二次上海戦では便衣兵からの攻撃はないに等しかった。特に南京城内では報告皆無。南京戦では「国際法を違反した便衣兵」は存在せず、虐殺を正当化する理由にはならない。仮に便衣兵がいたとして、日本が他国を武装して占領するから装備に劣る相手側が「祖国を守るため」にゲリラ戦を選んだのであり、加害者がそれを虐殺の理由にするのは酷い話。侵略していなければそもそも便衣兵になる必要もなかった。
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〔補足3・人口のデマ〕
否定派は「南京の人口が占領後に10万人増えているのがいい証拠」という。これは簡単に説明できる。南京一帯で戦闘が行われているわけで、南京市の国際安全区に避難民がなだれ込んでいるだけ。
参考までに以下のやり取りも紹介。
KAZUYA氏「人口20万人の南京で、30万人殺したという。ファンタジー的だ」
記者「20万人というのは南京市の特定地域(国際安全区)の人口の推計で、市全体のものではない」
KAZUYA氏「知っています。耳を引くためにオーバーな言い方をしています」
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〔補足4・犠牲者30万人に根拠はあるか〕
1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は市内の常住人口について統計資料を保存している。1935年に100万人の大台を突破し、虐殺9カ月前の1937年3月の調査では101万9667人で、戸数は20万810戸(南京の首都警察庁調べ)。この3月時点の100万人は、虐殺肯定派、否定派とも見解が一致している。その後、日本軍の連日の空襲で人口が減り始め、11月20日に国民政府が重慶への首都遷都を宣布、さらに日本軍の接近が伝えられたことで住民が激減、11月23日に南京市政府(馬超俊市長)は「現時点で人口は約50万」「ただし今後20万人の周辺難民の流入を予測」と国民政府軍事委員会に報告している。実際、膨大な数の農民が難民となって城内に避難した。南京守備部隊、常住人口、流動人口の合計が約60万人、そして虐殺後の人口が30万人強であることから、中国側が主張する犠牲者30万人は、「最大値としては」あり得る数字だ。
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102NAME:2021/05/05(水) 22:07:12
〔補足5・消えた遺体について〕
南京守備隊(5万人以上)の処刑は揚子江の河岸で行われ、遺体は大河に流されたことが日本軍の記録で明らかになっている。いったい何万人が揚子江に投げ込まれたのか不明ではあるが、墓がない大きな理由のひとつ。次が重要な点。日本側が考える南京事件は、期間が「1937年12月13日の南京陥落から17日の入城式まで」、場所は「南京城内で行われた掃討戦」としているケースが多いのに対し、中国側は期間が「南京戦から3カ月」、場所は「南京周辺の農村を含んだ広大な地域」であり、この時点で両者が主張する数字が合致するはずがない。中国が嘘をついているのではなく、単に期間と場所が異なるだけ。それゆえ、一般市民の墓は点在しており、ここを掘れば数万人の遺体があるといった場所がない。ちなみに埋葬隊記録では155,000体。これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に「入れていない」。
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〔補足6・パール判事について〕
「パール判事が日本の戦争行為に理解を示した」というのは保守派のデマ。パール判事は日本軍の残虐行為に激怒している。東京裁判は、新しく作った法律で過去の行為を処罰できないという法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」とは言ってない。南京大虐殺では「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。パール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明(勝手に松井石根大将の文章を改変し、日本に「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした張本人)に抗議している。
パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」「殺人と言う卑怯な行為」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰ことですら)「正当である」と述べている。
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この問題を語るとき、もう少し相手の立場になって考えてみませんか。終戦時に中国にいた日本軍は105万5700人。そして日本軍には補給がまともになく、基本は現地調達。農村から命綱の牛馬鶏を奪い、穀物を奪いながらの行軍、占領です。そして少なくない部隊で強姦が起きています。抵抗すれば殺害。
この歴然たる事実を正面から見つめ、どうかネットにデマを広めないよう、同じ日本人として心からお願いします。
★その他、南京大虐殺否定派の疑問は以下の3つのリンク先で100%解決されると思います。
「南京事件FAQ」 https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
「南京事件資料集」 http://kk-nanking.main.jp/index.html
「南京事件ー日中戦争 小さな資料集」http://yu77799.g1.xrea.com/

大事なことなのでもう一度。「人口20万の都市で30万は殺せない」デマにはくれぐれも注意を。20万人は南京特別市の一部である南京城の中のさらに一部である安全区の人口に過ぎず、犠牲者30万人が発生したという地域は南京城の外、南京特別市の広い範囲を対象にしたものです。

「1万人以上銃殺した」と証言したのは、会津若松第65歩兵連隊の兵士。「白虎隊」に因んで「白虎部隊」として尽忠報国、上官の命令には絶対服従だった。実は私の父も、会津若松出身なので、昭和16年8月に「会津若松第65歩兵連隊」に入営した。南京攻略はその3年前のことであり、「南京攻略時の虐殺」については全く知らされていなかったようだ。箝口令でも敷かれていたか。

103NAME:2021/05/05(水) 22:07:32
最大の疑問点は、毛沢東がこの話題に関して一度も口にしたことのないということ。
https://www.multilingirl.com/2017/03/nanjing.html

104NAME:2022/02/25(金) 18:18:01
1990年10月1日、石原慎太郎 「南京大虐殺について「中国側の作り話」「うそ」と主張
https://antiracism-info.com/database/123876/

石原慎太郎代議士が、雑誌『文芸春秋』2月号で、真意を詳しく説明している。そこで石原氏は、「(虐殺の)数がいわれているものの1000分の1だろうと100分の1だろうと、不法な殺人はもとより人道にもとるし、虐殺は虐殺でしかない。私は日本軍が当時大陸で残虐な行為をまったく行わなかったなどというつもりもない」「日本軍の不法な殺りくが、かなりの数であったことも間違いないが、30万という異常な数ではあり得なかったことも確かだと思う。われわれは今、改めて自らの歴史を検証する権利と、子孫に対する責任があるはずだ」「それは、アメリカや中国との友情をないがしろにし、損なってもいいということではない。自分たちの未来、運命を切り開いていくために必要な情報を自分で摂取し、自らの情報空間を構築していく必要がある」などと述べた。

105NAME:2022/02/25(金) 21:10:47
河村たかし氏や石原慎太郎氏に
https://suyiryutei.exblog.jp/17870588/

河村たかし名古屋市長が「南京事件というのはなかったのではないか」と発言したのは20日のこと。相手は中国共産党南京市委員会の訪日代表団なのだから、なるほど度胸はある。最近の嫌中ムードに乗って、その“度胸”を売りにするのが狙いだったのだろうか。

南京事件というのは、日中戦争さなかの1937年に起きた、日本軍による住民虐殺事件。酔流亭もつい最近、TVドラマ『カーネーション』のことを書いた一文でこの事件にふれた。黙っているわけにはいかない。
それにしても市長の挙げた理由というのが「終戦を南京で迎えた父親が現地で優しくされた」ことだとは。ならば逆の認識も可能であったのに。しかるに、中国人というのは何かあればそこにつけ込んでくる連中だという、他ならぬ河村氏のような人たちがまき散らす中国人イメージに氏自身がとらわれているのだろう。そういう民族が、虐殺が事実なら相手に寛大であるはずはない、と思い込んでいるのだ。
だが、与那覇潤氏(『中国化する日本』の著者)が述べているように、「南京事件そのものがなかったとの考えを支持するプロの歴史学者はいない」(朝日2/24朝刊)のである。ならば、にもかかわらず河村氏の父が南京で「優しくされた」のであるなら、それは中国の人々の度量の広さをこそ意味するだろう。恩を仇で返す日本のポピュリスト政治家とは反対に。

もちろん戦後の中国は理想の社会とは遠いだろうし、そこに住む人々も様々だ。しかし、あの戦争に対して、日本によってあれだけの被害を受けながらも、悪いのは当時の政府であって人民ではないという立場を中国政府が基本としてきたことには、私たちはやはり頭が下がるのである。石橋湛山が1960年に述べた以下の言葉を思い出さないわけにはいかない。
「・・・しかも相手は暴虐の限りをつくした日本に対して、仇を恩で返すことを国是とし、いっさいの報復主義を排して逆に手を差し伸ばして来ている。それが容易なことではないことは、立場をかえてみれば自明である・・・」(『池田外交路線へ望む』岩波文庫『石橋湛山評論集』276ページ)。

さて、河村氏を「正しい」と弁護に立ったのが石原慎太郎・東京都知事である。24日の会見で言うことに、
「・・・あれだけの(旧日本軍の)装備、期間で40万の人を物理的に絶対殺せっこない」。
40万人が犠牲になったと、誰が言っているのだろうか。事件そのものを否定する歴史学者はいないが、犠牲者数については諸説あり、論争も繰り返されてきた。中国政府の主張は30万人である。これに対して、主に日本側から、もっと少ない数字も出されている。
石原氏は耄碌して言い間違えたというより、過大な数字を持ち出すことで「そんなに殺せっこない」という自説を際立たせたかったのだろう。被害をもたらした側の国の政治家が、こういう問題でこんなデタラメな数字の操作をやってはいけない。世界に対して恥ずかしいことである。


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