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南 京

1NAME:2012/08/23(木) 21:49:19
南 京

79NAME:2019/04/10(水) 22:00:55
南京大虐殺の嘘:あり得なかった「市民の大虐殺」
森 清勇 2019/04/09 06:00
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E5%98%98%E3%81%82%E3%82%8A%E5%BE%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D/ar-BBVK0b5#page=2

NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ・2015年10月4日放映)は、「ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞」をはじめ、1つの番組で7本受賞した。 番組製作者の清水潔氏は「事実の証明に苦労した放送だったので、・・・それを後押しして頂けたようで嬉しく思う」と、著書『「南京事件」を調査せよ』(2016年8月刊)で述べている。 日本テレビは2018年5月14日に「南京事件Ⅱ」を放映。これを観た福田康夫元首相は、「日本軍が中国人を殺したのは事実なんだ」と思い、また幼少の一時期を同地で過ごした懐かしさと、習近平主席が「南京大虐殺記念館」の内容を大幅に入れ替えたと知り同館を訪問する気になったという。

 著書は1年余後に早くも文庫本となり、その「あとがき」では産経新聞(平成28年10月16日付)や一部の人からもの言いがついたが、調査報道の真髄に迫るのが評価されていることが分かる。 多くの捕虜を抱えた103旅団(13師団)の捕虜対処では、飯沼守上海派遣軍参謀長の日記でも記述が曖昧で、肝心なところは「噂アリ」の記述でしかなかった。 すなわち、歩兵第66連隊と山砲兵第19連隊の約2万に上る捕虜対処には不明なところが多かったのである。 この点を1次資料発掘で解明した労を多とし、善悪はともかくとして、戦争の悲惨さや軍人の生き様などに視聴者を向きあわせた功績は大きいとみる。 ただこの一文を草するのは、次に述べる2つの危惧からである。

80NAME:2019/04/10(水) 22:01:12
南京事件の本質は「捕虜」問題に非ず

 一つは、放映と著書に「南京事件」と冠しながら、主たる部分が「兵士たちの日誌とその検証」による“捕虜問題”であり、「南京事件」=「捕虜問題」と勘違いさせる危惧である。 そもそも、「南京事件」の主たる争点は、中国が高校で使用する教科書『世界近代現代史』にある「1937年12月〜1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器を持たない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺に苛まれた」とする内容の真偽である。 すなわち「約6〜7週間」に「南京一都市」で「30万人」もの「武器を持たない中国人=一般市民」の「大虐殺」があったか否かである。

 中国がその事実を示すものとして開設している展示館は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」と表示され、日本では分かりやすく、約(つづ)めて「南京大虐殺」と称することが多い。 同館の至る所に「30万人」とあり、期間は「1937.12.13-1938.1」と明記されている。 中国共産党の決定と言われるこの内容は、南京攻略戦で南京が陥落して以降の約40日間で、捕虜や城内の市民30万人を日本軍が殺害したというものである。 この視点に立つと、「南京事件 兵士たちの遺言」や『「南京事件」を調査せよ』の「主たる部分」は幕府山周辺での数万の捕虜の捕獲から殺害に至る数日間の状況でしかいないので、南京事件イコール捕虜殺害という誤解を与えるのではないだろうか。 「南京事件」とは何かを曖昧にしたままの議論は、ことの本質を矮小化しかねない。

 放映と著書の内容からは「南京事件」の冠でなく、「南京攻略戦における捕虜処刑 兵士たちの遺言」などが適切ではなかっただろうか。 以上からも分かるように、日中の歴史戦における「南京事件」の本質は、教科書で記述している通り、「市民30万人の虐殺」があったかなかったかである。

 「南京事件」の国内論争では便宜上「大虐殺派」「中間派」「まぼろし派」と三分される。これは捕虜の処刑ではなく、市民虐殺を「10万〜30万人(ここでは捕虜も含む?)」、「数千人〜2万人前後」、「ほぼゼロ」とみることからの区分けである。 戦争(や事変)で戦死者や捕虜が出ることはもとより承知で、「遇難同胞」とは呼ばないであろう。教科書が記述するように、記念館の「大屠殺遇難同胞」は「武器を持たない中国人」、すなわち「一般市民」の意であると理解できよう。

 中国が「南京大虐殺」をユネスコの「記憶遺産」に登録する行為に日本が反発したのは、捕虜数万人の問題というよりも、「一般市民」数十万の「大虐殺」などの人道に悖ることはしていないとみているからである。 一般市民の大虐殺があれば「犯罪国家」の誹りは免れない。それゆえに、市民の大虐殺の有無は国家と軍人の名誉にかかわる大事である。 南京事件の争点は一にこの市民大虐殺であり、「南京事件」と銘打ちながら「主たる部分」を捕虜問題、しかも虐殺問題として扱うことは、羊頭狗肉とさえ言えるのではないだろうか。 清水氏は放映後に残った疑問として、「南京事件が否定され続け、闇へ封じ込まれようとするのか」と語っている。 日本は闇へ封じるどころか、河村たかし名古屋市長が「姉妹都市の友好を高めるために真実を突き止めたい」と発言したのに、少年たちの相互訪問を含む多くの友好記念行事を取りやめたのは中国側であったのだ。

81NAME:2019/04/10(水) 22:01:31
捕虜殺害は違法だったか

 もう一つは捕虜の処遇である。これは戦時国際法に則った処置か否かであり、日本側は一部違法の面もあろうが、基本的に適法であったとみていた。 蒋介石やその後の中国を率いた毛沢東は、日本軍の掠奪・暴行・放火などに言及するが、捕虜問題には言及していない。 ましてや虐殺に触れていないということは、取り立てて非難するほどの市民虐殺(戦闘に巻き込まれての死亡は虐殺ではない)はなかったし、捕虜の殺戮も戦時国際法から逸脱するものではなかったと認識していたからではないだろうか。 兵士の陣中日記などでは殺戮の詳細な状況を書き残しているが、「(敗)残兵掃蕩」を行なっているのであり、「虐殺」という認識はないのでその用語も使用していない。 殺戮の命令を下した指揮官たちは、戦いは続いており、自軍の糧食にも窮するところに数十倍の捕虜をかかえて困惑した。 収容棟では火災が起き逃亡兵が出る、解放のため移動中には反乱が起きるなどから最終的に処刑する。簡単な裁判すら開いていない不備もあるが、「虐殺」どころか、適法の意識で行ったわけである。 

 捕虜処刑は戦時国際法に関わる違法性の問題で、人道に悖る処刑、すなわち犯罪云々ではない。ここで、戦時国際法の専門家たちの見解を見てみよう。 外交史家で国際法学者の信夫淳夫博士は、「俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの已むを得ざる場合あることも肯定すべきである」(『戦時国際法講義』)として、下記のハレックの説を示している。

 「極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼ら能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。・・・軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。仮に軍の安全が敵―たとひ我軍に降伏したものにせよ―のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか」

 「俘虜を殺害することの風習は今日文明国間に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。・・・ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判断すべく、軽々しくその当否を断ずべきでない」

 国際法学者の田岡良一博士(『増補・国際法学大綱下巻』)は、「敵兵にして降を乞ふ者の生命を害する事は、慣習法上禁止せられ、ヘーグ陸戦条規23条(ハ)号も亦之を規定する。然し乍ら戦闘の進行中に敵軍の一部が投降の意を示しても、我が軍が之を収容して後方に送る為には我部隊の進撃を一時中止する必要を生じ、其事が我勝利を危くする惧ある場合には、敵の降伏信号を黙殺して攻撃を継続することを許される」

 「陸戦条規23条(二)号の〈助命せざることを宣言すること〉の禁止は、敵兵の投降を認めない事を戦闘の開始に先立って予め宣言することを禁止するのみであって、戦闘の進行中に臨時に生ずる軍事上の必要に基づいて投降を拒否する事は之を禁止するものでないと解すべきである」としている。 外国人記者が殺害の状況を報道し、また宣教師らが日本軍の悪行を報告しているが、「虐殺」か否かを批判しなかったのは、彼らには戦時国際法が念頭にあったからだと見ることができよう。

 そもそも虐殺云々は、戦後8年も経って南京と東京で行われた裁判で初めて出てきたことである。 しかも、捕虜などの殺害は多くても2万〜3万人であるが、裁判前後からの中国の口吻は「12月13日から6、7週間」「30万人」の殺害などであり、これが「南京大虐殺」(または掠奪・暴行・放火なども含めて「南京事件」)と称されてきたのである。 繰り返すが、安全区内で摘出された敗残兵や便衣兵、並びに城外の揚子江南岸一帯(主として幕府山周辺)で捕獲された捕虜の殺戮やその方法だけが問題にされてきたものではない。

82NAME:2019/04/10(水) 22:01:48
戦争にも国際ルールがある

 戦争といえどもルールがあり、それはハーグ陸戦法規などの戦時国際法で規定されている。この中で、捕虜や敗残兵、便衣兵などについての考え方も記されている。 著書では、日本軍は中国人兵士の捕虜を残酷に扱ったという流れで貫かれている。日清戦争時の旅順虐殺事件なども引き合いに出して、日本軍がしばしばやってきたことで、南京事件だけが特異ではないということを示したかったようだ。 しかし、そうした事例は事案が起った経緯を省いて日本側の行為のみを一面的に記しており、多分に誤解を与える。本論の焦点ではないが誤解があるようなので、まず旅順虐殺問題から取り上げる。 近代化による文明国家を意識していた日本は、日清戦争以後の戦争にも国際法の専門家を同道した。

 戦争や事変は国家の名誉を懸けた戦いであり、戦死者が出るのは覚悟の上である。しかし、国家を背負って戦った戦死者には相互に尊崇の念が払われて然るべきである。 米人記者は「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊るされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった」とワールド紙に記し、「その後、大規模な殺戮が起った、激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と報道したのである。 実際、清国兵は日本兵士の死体や負傷者の首を刎ね、切り裂いた腹部には石を詰め、腕や睾丸までも切り取って路傍に放置する状況で、戦死者の扱いどころか、猟奇事件もどきに扱ったのである。

 この状況に激昂した日本兵は、便衣兵や武器を隠し持っていた市民などまで殺害したのである。米人記者は事実を報道しているが、「虐殺」として批判していないことが肝心である。 日露戦争の第2軍司令官大山巌大将は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。東鶏冠山では日露軍が150メートルの距離で対戦した。 しかし、一端休戦が宣せられると戦死者を収容し、その後双方が酒やウォッカを持ち寄り、しばし歓談し芸を披露して過ごす。その後、再び死闘を繰り広げたのである。

 南京攻略戦の途上において、掠奪、暴行、放火(これらも、米人記者によると9割以上は撤退する中国軍の常習的な焦土・清野作戦による)があり、また徴発などで一般市民を巻き込んだこともあるであろう。 また、捕虜の取り扱いについては軍の上層部が戦時国際法に疎かったという批判もあるが、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」に旅団長や連隊長が苦悩するが解放の方向で動くなど、文明国としての基本が機能していたことは確かである。

83NAME:2019/04/10(水) 22:02:04
武勇談から一転「加害者」への危惧

 先述のように、捕虜の数は多かったが、戦時国際法で見たように処分は正当で犯罪視されることはないと思っていたに違いない。そして、堂々と陣中日記などに書き綴っていった。ある意味「武勇談」として・・・。 実際のところ、当人たちがどういう気持ちで書いたか判然としない。しかし、当時の日本社会は万雷の拍手を以て彼らの武勇を歓迎していた。 捕虜の捕獲は戦勝の証であった。しかし、捕虜が捕獲部隊の数十倍で処遇に窮する。そして、日本軍に危害を及ぼさない安全な場所まで連行して解放することにした。 しかし、収容場所で火災が起きたり、解放場所へ移動中に反乱が起きるなど、意図しない状況に遭遇する。この間に逃走したものも多い。残りは最終的に処刑される。 捕虜殺戮の陣中日記などを実行者たちはなぜ隠していたか。当人たちがいない現在、正確な答えは見出せない。 ただ、大隊長副官や砲兵小隊長で白兵戦をする立場になかった2人の将校が、戦場を移動する合間に練り上げた仮想の武勇談としか思えない「百人斬り競争」を新聞記者に語ったばかりに、南京における裁判で死刑を宣された。

 この時点から、捕虜処刑を実行した兵士たちは、自分の所属が特定される可能性、危険性を感じ、それは恐怖と沈黙に代わっていったのではないだろうか。 城内の安全区での便衣兵や敗残兵の摘出と処刑は計画的であったが、城外(幕府山周辺)の捕虜問題は偶発的であったと言えよう。 兵士たちの日記からは幕府山周辺の捕虜殺戮が計画的に行われたかのように読み取れるが、上級指揮官たちは、これほど多くの捕虜が出ること自体を想定していなかった故に慌てふためいたのである。

 兵士たちが残した殺害状況は、隔離・解放のための移動間の叛乱が一段落し、処刑を決意した後の最終段階で、ここでは「計画的」のように実行されたであろうが、これをもって、「(当初から)計画的」であったとは言えない。 当初の計画は安全な場所での解放であったが、叛乱などから処刑に決し、その処刑は何人かずつという具合に整然と、清水氏流に言えば「計画的」に行ったということである。 また、都合の悪い記録は焼却され残っていないかのように述べるが、程度の差こそあれ、各級の指揮官は書き残している。 捕虜の殺害と資料の焼却については、阿羅健一氏が「南京大虐殺記念館を訪れた 福田康夫元首相の過ち」(『Hanada』2018年9月号所収)に書くように、計画的な虐殺も焼却による封印もない。

84NAME:2019/04/10(水) 22:02:21
揺らぎ始めた中国側の言説

 大切な論点なので繰り返すが、日中の歴史戦は「南京で日本軍が中国の一般市民(と捕虜等)30万人を殺したか否か」で、捕虜の殺戮やその計画性などではない。 日本の研究が進んだゆえであろうか、「南京事件」についての中国の見解が当初の言い分(教科書記述)から変化している。 2005年6月、櫻井よしこ氏らと議論した中国社会科学院近代史研究所の歩平所長は、「30万人という数字について、・・・これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要」があると述べ、ヒロシマの被害者が「±1万人」とされるのと同様だとした。 一人ひとりを足したのではないというのも驚きだが、±1万人は傍証はあるが最終的に確認できないもので、「感情」でプラスマイナスされているのではない。「科学院」でありながら、少しも科学的でない説明だ。

 極めつけは習近平国家主席が国賓として英国を訪問した時のエリザベス女王主催の晩餐会における挨拶(2015年10月)であった。 虐殺場面を撮影しようとした英国人記者が日本軍に捕まり、殺されるところを中国共産党の兵士が助けたとの美談を英中友情の物語として披露したのである。 ところが、記者が上海に入国したのは南京事件の終わる時期で、しかも南京に行かずに漢口へ行っており、事件の撮影も共産党兵士の救助もあり得ず、中独などの合作映画用に脚色したことを評伝作家が認めたのである。 何としても南京事件を歴史戦として継続させたい一心がもたらした勇み足というにはあまりにお粗末ではないか。 それがあってかどうかは分からないが、「南京大虐殺記念館」の第1回目のリニューアルは20年後であったが、今回の第2回目は8年後の2016年末から約1年間で、2017年12月にオープンした。

 ところが驚くなかれ、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された本多勝一記者の顔写真や著書『南京への道』『裁かれた南京大虐殺』、そして中国取材に使用したペンやノート類などの資料、並びに全世界に衝撃を与えた中国系アメリカ女性のアイリス・チャン執筆の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』などが撤去されたというのである。 「史実の新たな証拠を集めた」と評してオープンした結果は、「大虐殺」に関連した写真と物品類それぞれ3000点が、写真は2000点に、物品類は1000点に削減され、新たに習近平主席の写真と慰安婦コーナーの新設となったというのだ。

 南京大虐殺の「動かぬ証拠」であった写真や資料などの物品類が、習主席の「偽美談」を後追いするような形で撤去されていったのを、どう解釈すればいいのだろうか。 そうした状況の中で昨(2018)年6月、同記念館を福田康夫元首相が訪問し、献花までして批判された。 案内した張建軍館長は、「30万人というのは南京城内の人だけでなく、南京に至るまで日本軍が殺害した人も含む」と説明したという。 清水氏は調べれば調べるほど厄介な南京事件であることが分かり、報道局長と同席の車で「これは相当に難しい」と、「危険な企画は消滅する」ように本音を呟いたという。

 ところが次の会議で局長は「清水さんが・・・やる気を出しているので担当してもらおうと思います」と説明した。清水氏自身が「史実というものはこうして修正されていくらしい」と書いている。 中国の「南京事件」に対する言説は、架空物語をも導入しなければ成立し難くなりつつあるようだ。

85NAME:2019/04/10(水) 22:02:35
おわりに

 支那事変、そして南京事件における日本の加害を筆者は完全否定するものではない。 しかし、発端である盧溝橋事件は、正当に駐屯していた日本軍の訓練を中国共産党が混乱させるために射撃してきたものであった。それでも不拡大方針の日本側は停戦協定を結ぶ。しかし、その後も協定は破られ拡大していった。

 英米なども日本同様に租界や居留地を有し、軍隊も駐留していた。外国人排斥の意図で行う中国の攻撃に対する英米の反撃は強力で、損失が大きすぎた。 しかし、日本は幣原軟弱外交と称されたように、非合法の攻撃を受けても隠忍自重し反撃しなかった。そうした対応を中国側は日本側の「弱み」とみて益々増長していった。

 南京への飛び火も、ドイツから軍事顧問団を迎えて従来にない強固な防御陣地を構築していた蒋介石軍の使嗾からスタートしている。 そして上海の堅陣を突破されると、直後の1937年11月、国民党直属の国際宣伝処を新設し、「兵士の戦い」から「プリンターインクの戦い」(フレデリック・ウイリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕』)、すなわち「宣伝戦」に戦術を変更する。

 ここでは蒋介石夫人宋美齢の人脈で、南京在の米人宣教師らが活躍し、南京で起きた掠奪・暴行・放火など、ほとんどは中国側がやったにもかかわらずすべて日本軍の仕業として世界に喧伝されるようになっていく。 そうした流れが生み出した「南京事件」であると筆者は見ているが、いかがであろうか。

86NAME:2019/07/18(木) 22:40:55
南京大虐殺の嘘:事件後、日本人は歓迎されていた!
2019/03/26 06:00JBpress
https://news.nicovideo.jp/watch/nw5049110

易姓革命を繰り返す中国は、前王朝の歴史を否定することによって自己を正当化できた。白を黒に塗り替えることで権力を維持することができたのだ。

 国民の支持を問うこともなく権力者になった者は、誰かを悪者とする敵に見立てる必要がある。 悪者にされているのは華夷秩序に従順でない日本である。その仕かけが歴史戦であり、「南京大虐殺」である。 独裁政権(あるいは絶対君主)下の国民は自由を制約され、真実を知る権利も語る権利も剥奪され、権力者が「強いること」を語らなければ生きられないように運命づけられている。

 強いられることが嘘と分かっていても否定できないし、むしろ拡大することが歓迎されるという悪循環を生み出すこととなる。 南京大虐殺が正しく格好の題材である。地道な歴史研究で白の証明をすることが論理的であるが、統治の手段として敢えて白を黒とする相手に論理は通用しない。 以下に、「南京大虐殺」はなかったことを証明し、統治の手段として利用している現実を確認する。

朝日新聞社が戦場に送った慰問団

 支那事変が始まって約半年後の昭和13年1月、朝日新聞社は吉本興業の協力を得て、華北と華中に慰問団を派遣した。 華北の慰問先は大連・天津・石家庄・太原・通州などであり、華中は上海・南京・蕪湖・蘇州・杭州などであった。 昭和13年1月5日付「東京朝日新聞」は「戦線へ初春の慰問団」の見出しで、誇らしげに次のように社告を掲載した(早坂隆著『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録』、以下同)。

 「本社が全国国民より出征皇軍慰問のため寄託された資金は目下約32万円の巨額に達してゐるが、(略)今回右皇軍慰問資金の一部をもって更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線に左の通り慰問映写班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定」

 「慰問演芸班 陣中への新春笑ひの慰問として吉本興業部の協力により、漫才に落語に講談に浪花節に全員第一流のメンバーをすぐり」という通り、「わらわし隊」と呼ばれた慰問団には柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツ、ミスワカナなどが入っており、東京を昭和13年1月15日に出発する。 当時の朝日新聞は「軍用機献納運動」を展開して多額の寄付金を募り、昭和12年の下半期だけで611.5万円を集めた。 この資金で戦闘機20機、爆撃機10機、偵察機10機など90機を献納している。これから類推すると、32万円は軍用機5〜7機に相当する数百億円であろう。

 上海の激戦は終わっていたが南京戦は続いており、公演先では無数の支那兵の死体がごろごろ転がり、時には弾が飛び、また空襲を受けるなどの小競り合いもあったという。そうしたところへ列車や自動車、馬車、或いは輸送機・戦闘機で乗り込んで慰問している。 20キロも離れた場所から歩いて劇場に来た兵隊もいたが、劇場が小さく入り切れず、外までずっと行列が伸びていたという。 劇場のない所では野外の芝生の上で、あるいは軍艦上で公演し、時には遅れてきた兵士のためにと頼まれて再度の公演も行っている。 金語楼やアチャコら7人は北支慰問団で、中支慰問団はミスワカナ(紅一点)、横山エンタツ、杉浦エノスケ、石田一松、玉松一郎、神田ろ山および林正之助(吉本創業者の実弟で社長)の7人であった。

 上海戦が終わって2か月後の1月17日、上海に到着した。小休止の後、さっそく午後は病院慰問をやり、夜は松井石根最高指揮官をはじめとする軍上層部列席の下で公演するなど精力的である。 上海に1週間滞在して21カ所で慰問を行い、23日に南京へ向かう。南京を陥落させて1か月後余であるが、東京裁判の判決ではいまだ戦闘が続行している時期である。

87NAME:2019/07/18(木) 22:41:15
戦闘機で南京入りした慰問団

 ミスワカナ・玉松一郎夫妻と神田ろ山の3人は列車で南京入りする。他の4人は戦闘服に身を包み、パラシュートを背負って、上半身を外部に晒したままの戦闘機で移動し、飛行中はかなりの寒さに襲われたという。 「もしもの時は、こめかみに一発」と説明され、ピストルを渡されたそうである。 南京では27日まで公演をやっている。人気の高かったミスワカナは軍の病院を積極的に慰問し芸を披露した。

 南京到着時の模様を石田一松は、子供たちが「先生(シーシャン)、先生」と声を出しながら道を開けて歓迎してくれた。「自分の国にいて他国の人におべっかを使わねばならぬ彼らは手に手に日の丸の旗を打ち振っているのだ」と、同情の気持ちをもって書いている。 しかし、これは演芸団だから特別の歓迎を受けたのではない。

 「東京朝日新聞」は激しかった南京戦が終わった数日後の1937年12月21日付で、「初めのうちは彼らも日本人を見るとこそこそと壁の陰に隠れたものだがこの頃はすっかり日本の兵隊さんと仲良くなり兵隊さんが通りかかると『先生々々』とニコニコ顔で何か用事を言付けて呉と寄って来る程である」と書いている。 ところが、昭和23年11月13日付「朝日新聞」は、「(松井石根は)1937年12月13日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした」と書くのだ。

 米国人宣教師でYMCA書記長のジョージ・フィッチは「昼も夜も日本軍の暴行は続いた。特に最初の2週間がひどかった。恐怖の9週間が過ぎた2月17日、それまで街頭に出るのをためらっていた14台の人力車が初めて現れた」「強姦は12月15日頃から1日1000件の割で続発」「被害者の年齢は10歳から70歳」などと証言している。

 フィッチは病院の患者らを撮影したマギー・フィルムを持って1938年2月25日に上海を発ち香港、広州経由でハワイを手始めに全米で日本軍の悪行を宣伝して回り、11月に中国への帰国の途に就いた人物である。 慰問団が来たときは16師団の佐々木到一少将率いる第30旅団(33連隊と38連隊の各2000人)が警備している時期である。公演は2500人収容の国民大会堂で行われ、約4000人中の実に62.5%が演芸を観て腹をよじって笑っていたのだ。 兵民分離の市民登録を12月24日から開始して、市民には「安居ノ證」を付与し、新年からは中国人による自治委員会もできて治安を維持していた。こうした中で1日1000件の割で強姦が続発していたというのである。

 早坂氏は2007年に人民大会堂(共産党政権で名称変更)を訪ね、その後、南京市民に聞き取りを行う。 多くの市民が「日本人は歴史の真実を知らない。もっと歴史を学ぶべきだ」と判で押したように言ったという。 そして「共産党一党独裁下において高度な情報統制下にある国の人々が、『真実』という言葉を口にする時、私は寂しい気持ちになる。・・・彼らのもっている歴史観こそ、共産党に都合の良い『自尊史観』でしかない」と述べる。

 そして、田中上奏文(満州を皮切りに日本が世界を征服するという偽書)を偽書としないで教え、通州事件を「正義の叛乱」とし、原爆投下やヒロシマ・ナガサキは殆んど教えず、天安門事件やチベットでの虐殺には一切触れないため知らないにもかかわらず、「日本人はなぜ歴史から学ぼうとしないのか」と口を揃える中国の現実に思いをはせる。

 約10か月後には第2次「わらわし隊」が送り出され、(昭和13年)12月3日に再度南京を慰問する。 その様子をミスワカナは、「南京の町はとても活気があって、兵隊さんと支那人で雑閙(ママ)してゐます。日本軍の使役につかはれて働いてゐる俘虜がトラックで通ります。支那人のカフェなんかも出来てゐて、姑娘が『いらつしやい』なんて日本語で呼んでゐます」と情景描写している。

88NAME:2019/07/18(木) 22:41:40
元軍人も喜んで受け入れた南京市民

 南京戦に関わらなかった人物はもちろん、直接・間接に関係した軍人も戦争終了直後から南京市民は快く受け入れている。一人は「大虐殺」の最高責任者とされた松井大将の秘書であった田中正明氏である。 パール判事の全員無罪論を翻訳した田中正明氏は興亜学塾に学び、講師であった下中弥三郎氏の紹介で松井大将の知遇を得、大将が会長であった「大アジア協会」に勤務して機関紙「大アジア主義」の編集に携わる。 大将は戦傷した部下を見舞うため、田中氏を同道して大阪、名古屋、金沢、仙台などの陸軍病院を訪ねている。

 そうした折に、「その後の南京の治安状況が心配だ、視察に行ってくれないか」と頼まれ、陸軍省から「従軍記者」の認可を得て、昭和13年6月末、即ち南京事件が終わったとされる4カ月後に南京を訪ねる。 のちに大虐殺の張本人とされる松井中支那方面派遣軍司令官が南京を去って半年も経っていないときである。 しかも、田中氏は松井氏が会長を務める組織の秘書役である。その人物が松井氏の紹介とあって、「安全区はもとより、雨花台、下関、新河鎮、草鞋峡、紫金山などあらゆる古戦場や捕虜収容所等案内して頂いた」(『諸君!』(2001.2)所収の「三派合同 大アンケート」)というのである。 田中氏が尋ねたところは、「大虐殺」があったとされる場所ばかりだ。それにもかかわらず、恨みごとの一つも言わずに、案内している。

 2例目は、河村たかし名古屋市長の父君たちが、事件から約8年後に南京に駐屯したことである。 父君は歩兵伍長で250人の部隊の一員として、敗戦翌日の1945年8月16日に南京に入る。翌年1月まで約5か月間、郊外の寺に滞在するが、市民にとても親切にされ温かいもてなしを受けたという。 感謝の念に堪えがたく戦後50年目に「お礼というか感謝の気持ち」として、父君が中心になって戦友たちと桜1000本を寄贈する。植樹祭には体調を壊した夫に代わり、ご母堂が参加されている。

 寄贈した戦友たちの誘いで市長は植樹から10年目に南京に行き、南京大虐殺記念館にも足を運ぶ。 そこでの展示内容や説明と父君たちへの親切のギャップが大きいことに驚き、姉妹都市であればこそ「父たちが親切なもてなしを受けた南京で、いったい何が起こっていたのか真実を明らかにし、友好増進につなげたい。そのために真剣な議論で真実を明らかにしたい」と提案する。 一地方自治体の首長といえども国会議員も務めた政治家の発言だけに、中国は猛反発し、準備していた友好行事の大部を一方的にキャンセルする暴挙に出たのであった。

 第3の例は「日中友好軍人の会」が9年後に南京を訪れた時のことである。 遠藤三郎元中将ほか18人は何と「国賓」として招待され、北京では周恩来首相、彭徳懐国防相、粟裕参謀長と会談している。 その後、南京に入るが、ここでは人民解放軍の歩兵高級学校の張日校長(中将)や姚喆(ようてつ)副校長(中将)と会談する。 このとき、南京攻略時の第10軍参謀であった谷田勇元中将が、雑談のように、南京占領後数件起きたレイプに触れ、「南京ではいろいろありまして、ご迷惑をおかけしました」と述べて、「事件を起こした者は軍法会議にかけました」と伝えたところ、張校長は事件に対する日本軍の扱いは「公正」だったと応じ、和やかに会談は推移したと述懐している(「産経新聞」平15年7月24日付)。

89NAME:2019/07/18(木) 22:42:21
福田元首相に郷愁を抱かせた南京

 2018年6月、福田康夫元首相が南京大虐殺記念館を訪問して「献花」までしたことが騒がれた。中国が政治的な「歴史戦」を仕かけている真最中であり、思慮のなさが批判を受けたのは当然であろう。 しかし、元首相に南京訪問を思い立たせたのは、父親の赳夫氏(のちに首相)が当時大蔵官僚で、汪兆銘政権の財政顧問(1941〜43年)になっていた関係で南京に在住して、小学校進学前の「3か月間だけの生活だった」が、「現地の中国人は非常に親切にしてくれたんだな。あの時の南京に対するあこがれというか望郷というか、そうした思いが以前からあったんです」(「産経新聞」平成30年7月4日付、「単刀直言 福田康夫元首相」)と語るように、いい思い出が残っていたからにほかならない。

 インタビューの間などで康夫氏が(大虐殺)事件について一切語っていないことは、父君から大虐殺どころか、事件があったこと自体を聞いていないからであろう。 さらに敷衍すると、父は事件を「知っていて語らなかった」のではなく、そもそも「語ることができなかった」ということではないだろうか。

中国側の被害者数は謎だらけ

 以上は日本側への対応の指摘であるが、中国側の常識を疑わせる発言なども多々存在する。ここでは4例を示しておきたい。

(1)東京裁判で、魯甦は「日本兵が5万7418人を殺すのを見た」と述べ、検察側書証では「5万7400余」と記載されて東京裁判の法廷に提出された。しかし、法廷では朗読されることはなかった。

(2)遺体処理の慈善団体としては「紅卍会」が知られており、4万3071体を処理した記録も残されている。

 昭和13年4月16日付「大阪朝日新聞」は、「戦ひのあとの南京でまず整理しなければならないものは・・・濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。・・・そこで、紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた」とし、続けて運搬手段や費用、人力などについて書いている。 死体処理に当っては慈善団体と雖も中国人の自治委員会と調整が必要であろうから、「紅卍会と自治委員会・・・が手を握っ」たというのは当然であろう。 ところが、東京裁判で突然、「南京市崇善堂」という慈善団体が出現し、11万2266体を埋葬したというのである。

 南京戦に上海派遣軍参謀として参加し、南京戦終了後の1938年2月からは南京特務機関長として1年間、南京(城内と城外の行政県)住民と関係してきた大西一大尉は、崇善堂の名は聞いたことも見たこともないという。 その後の調査でも崇善堂はトラックは1台しか持っていなかったと言われる。費用の請求や人員の支援依頼なども出ていないようで、正しく幽霊団体ではないだろうか。

(3)中国は高校で使用している教科書『世界近代現代史』の中では、「1937年12月〜1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器をもたない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺の被害に苛まれた」と記述している。 ところが、南京大虐殺記念館の張建軍館長は、同館を訪問した福田元首相に対し、「南京の城内の人だけでなく、そこに至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人も30万人に入っている」と説明している。教科書記述の「南京一都市」ではなく、「そこに至るまで」と地域を拡大している。

(4)歩平・中国社会科学院近代史研究所所長は櫻井よしこ氏らとの座談会(2005年6月、『日中韓 歴史大論争』所収)で、「南京大虐殺の30万人という数字について、当然、根拠はありますが、これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要もあります。日本でも広島の原爆記念館に行くと、犠牲者の数は14万プラスマイナス1万人と表記しています。・・・一定の変動幅を持たせることはお互いに必要なことだと考えている」と語っている。 死者数は死体の積み上げでなく、「感情」を加えたものだというのだ。そして、広島の焼死体や行方不明などでどうしてもはじき出せないプラスマイナスを引き合いに出す。これは議論以前の暴論ではないだろうか。

90NAME:2019/07/18(木) 22:42:33
おわりに

 「あったこと」の確認は「たった一事」で可能となるが、「なかったこと」には「無限の証明」が求められる。「悪魔の証明」と言われるゆえんである。 「なかったこと」は噂の段階で否定することが大切であるが、「南京大虐殺」のように、国家が確信的に公言するに至っては容易ではない。 しかし、中国側の発言に矛盾が目立つようになってきた。

 河村名古屋市長の発言に対する中国側の反応(暴挙)は、「真実」が究明されれば「歴史戦」の敗北につながり、さらには共産党一党独裁の「ウソ」体質の暴露となり、政権の正当性に赤ランプが点きかねない。 そうした危惧からであろうか、「大虐殺」から「性暴力」への方向転換を始めたのではないだろうか。

 リ・リニューアルした南京の記念館では、南京大虐殺の広告塔にも見立てられてきた本多勝一記者やアイリス・チャンの関係物品が撤去され、「性暴力」コーナーが新設されて「南京占領で1か月に2万件近い強姦事件が発生した」と表記し、写真、映像、さらには避妊具・避妊薬などが展示されているからである。 これ以上の宣伝は馬脚を現わし、共産党指導部にとっては益なしとみはじめたと思われる。また習近平主席の「一帯一路」は苦境に立たされ、「信用」面で日本の協力を必要としている。 今こそ、南京問題を政治決着するチャンスではないだろうか。

91NAME:2019/07/18(木) 22:53:54
南京大虐殺の「嘘」はどう作られ世界に広まったか
タウンゼントやホワイトが見抜いた蒋介石や米国人宣教師の虚言
2019.3.11(月)
森 清勇
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55687

1927年に権力者になった蒋介石は宣教師たちを蔑んでいた。 しかし、ある時から自身が洗礼を受け、宣教師たちを擁護するようになる。それは自身の保身のための策略であった。 ドイツの将軍を軍事顧問に迎えて万全の防御態勢を固めた上海戦で敗北すると、「宣伝戦」に切り替える戦略を採用する。孫子の兵法で称揚されているもので、自国の立場を有利にするプロパガンダ作戦である。 蒋介石はそのための組織を1937年11月に整えるため、国民党中央党部と国民政府軍事委員会を改組して中央宣伝部を組織する。

 これは、上海戦で敗北し、南京への追撃戦が展開されている時であり、軍事力に代えて、「タイプライターで闘う」戦術への転換である。 宣伝部副部長には米国の大学を卒業し、新聞編集にも長じた董顕光を当てる。留学以前にはわずかな期間ながら、蒋介石の英語教師をしたこともあり、戦後は台湾の駐日大使となる。 また、宣伝部の下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処を設け、その処長には大学教授で文学者の曾虚白をあてる。

 国際宣伝処の本部は重慶(南京後の国民政府の首都)に置くが、上海と香港に支部を開設、昆明や米英加豪墨印星(シンガポール)の首都か大都市に事務所を設ける。 特に米国ではワシントンのほかにニューヨークとシカゴにも事務所を構えた(北村稔著『「南京事件」の探求』、以下同)。 国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動する。本部、支部、事務所がそれぞれに刊行物を出し、通信社も設立する。

 宣伝に信憑性をもたせるために処長が採用した方策は、「中国人は顔を出さずに手当てを支払うなどの方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的手法」である。 この国際友人として働く中心的な人物が、オーストラリア人の元ロイター通信記者で、当時は英国のマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員のティンパーリー(中国名・田伯烈)である。

蒋介石の国民党・国民政府の顧問になり、「百人斬り競争」の武勇伝や「怒濤のごとく南京城内に殺到した」などと日本の新聞が報じると、これらを取り込み「日本軍の悪行」に歪めて『WHAT WAR MEANS』(戦争とは何か)をロンドンで上梓する。

 中国語版の『日軍暴行紀実』が同時並行して出る手際の良さは宣伝網が有効に機能していたことを示している。 また、ティンパーリーからの話を受けて、金陵大学教授で安全地帯国際委員会委員でもあったスマイス(中国名・史邁士)が南京戦で日本軍が与えたとする被害状況『南京戦禍写実』(通称「スマイス報告」)を著述する。 いずれも1940年のことで、「両書は一躍有名になった」というが、蒋介石政権の威信をかけた宣伝戦であり、当然であろう。

92NAME:2019/07/18(木) 22:54:40
蒋介石の米国世論操縦策

 日中戦争時の1939年4月から12月まで重慶の国民党国際宣伝処で働き、のちにピュリッツアー賞も受賞するセオドア・ホワイト(中国名・白修徳)は回想録『歴史の探求』で、蒋介石の米世論操縦について明かしている。 米国への接近は米国で教育を受けた蒋介石夫人の宋美齢が、夫を説き伏せてメソジストに改宗させたことから始まるという。 そして主要な部長(閣僚)、たとえば財務部長(オバーリン大・エール大卒)、外交部長(エール大卒)、教育部長(ピッツバーグ大卒)、情報部長(ミズーリ新聞学校卒)は米国の大学卒で、政府内の米大学出身者を数え上げたらきりがなかったという。

 そうした中でも、各国に派遣された大使の面々は、圧倒的に米国の名門大学卒業生で、ワシントンにはコーネル大・コロンビア大卒、ロンドンにはペンシルバニア大卒、そしてパリにはコロンビア大で3つの学位を取得した顧維鈞を任命していた。 顧維鈞は国際聯盟で日本非難の演説を行った人物で、息子もハーバード大に在籍しているのを自慢にしていたという。 また、中国銀行頭取(ハーバード大卒)、司法院長(コロンビア大・カリフォルニア大卒)、国家保健監督官、海外貿易委員会、塩務署など中央機関のトップも多くが米国の大学出身者が占めていた。

 ハーバード大学を1938年秋に最高学位で卒業したホワイトは、世界旅行の給費を受け、ロンドンを皮切りに、パリからスーダンやパレスチナ、インド、シンガポールなどを旅して、39年初めの数カ月間を上海で過ごす。 上海を根城に北京にも出かけ、また日本軍のスポークスマンに取り入り、満州も旅行する。 英米人などに牛耳られた上海では工場労働者の少女たちが日に何人もごみの山に捨てられている状況も見てショックを受ける。 いままでに見たこともない不条理が記者になる決意をさせ、4月から重慶の蒋介石政権の宣伝員に繋がる。 自身のハーバード大の学位はボストンよりも中国でずっと意味があり、「中国ハーバード・クラブを結成したが、会員にはジョン・F・ケネディ(大統領)がワシントンでハーバード・クラブを作ってもこうはなるまいと思えるほど、蒋介石政府高官の割合は大きかった」と述懐している。

 米国の学歴を持つ中国高官が多かったのは、ホワイトには「好都合な人脈であったが、中国国民にとっては大いなる悲劇であった」と冷静である。 立派な英語を話す政府高官たちではあったが、「自国の民衆とは異質の存在で、民衆に対する理解を―重慶という古都についての理解さえも―欠いている」ので、「中国で何が起きているのか」さえ知らないと手厳しい。 ホワイトは蒋介石に最初は尊敬と称賛の念をもっていたが、「次第に憐れみを感じ始め、最後は軽蔑するようになった」という。 それでも「私はアメリカの世論を操るために雇われたのだ。日本に敵対するアメリカの支援は、政府が生存を賭ける唯一の希望だった。アメリカの言論を動かすことは決定的(に)必要なのだ」と述べる。 当時のホワイトは、軍国主義日本に対する中国政府は正義という認識に立っており、「アメリカの言論界に対して嘘をつくこと、騙すこと、中国と合衆国は共に日本に対抗していくのだということをアメリカに納得させるためなら、どんなことをしてもいい、それは必要なことだと考えられていた」と明言している。

93NAME:2019/07/18(木) 22:55:50
報道の真実性

 ホワイトは国際宣伝処で「自身が脚色した」戦時報道の実例を2つ挙げている。 一つは、日本軍に占領されていた浙江省のある所の劇場で、日本軍兵士が観劇中に蔡黄華(ツアイ・フアン・フー)という中国人女性が手榴弾を投げ込んで数人を殺し、無事に逃げおおせたという中国語の記事を目にしたことである。 ホワイトは文字から忠実に「ミス・ゴールデン・フラワー・ツアイ」とし、「ゲリラの首領、中国抵抗戦士団の巴御前」と英語に翻訳し、少しだけ脚色したというのだ。 すると、ニューヨーク・タイムズ特派員のダ―ディン記者を除き、通信員たちは飛びつき、各通信員の本社からは写真を要求してきたという。

 そこで情報部の同僚が、腰に二挺拳銃を下げた若い中国人女性の写真を提供すると、彼女は「二挺拳銃のゴールデン・フラワー嬢」となる。 通信員たちはますます情報を欲しがり、情報部は気前よく彼らの要求に応じ、数カ月のうちに「ゴールデン・フラワー」ツアイは、蒋介石夫人に次ぐ抵抗運動のヒロインになったというのである。 リライトマンの手にかかった彼女の偉業は、米国で伝説となり、ホワイトがタイム誌の極東部長になっていた3年後には、タイム誌で取り上げたらどうかとの提案が持ち上がり、作り話の張本人であったことを白状しなければならなくなったというのである。 もう一つは難民と彼らの苦難についての記事で、1937年から38年の漢口陥落までの14か月間に、国民救済委員会は難民キャンプに2500万食配ったというものである。

 ところが「どうしてか間違って」、記事では「統計によると中国が抵抗を始めた最初の数年間に日本軍侵略者の手を逃れてきた人々の数は、2500万人にのぼる」となってしまったという。 数字は海外に伝送され、新聞社の資料に残り、雑誌の記事に使われ、日中戦争の学術的数値となって何度も現われ、「すでに歴史の一部となってしまった」と述べる。 実際は「二百万あるいは五百万だったかもしれない」が、「二千五百万という数字がほとんど全ての歴史書にしっかり残っている」ので、「日本軍による混乱を(正しくは)誰一人知ることはないだろうと悟った」と自省している。 誰も否定できない「嘘」の独り歩きは、「南京大虐殺」の構図を想起させる。

94NAME:2019/07/18(木) 22:56:08
中国における米国人宣教師たち

 1931年に上海副領事として赴任し、第1次上海事変を体験した米外交官のラルフ・タウンゼントは、その後福建省副領事となるが33年に帰国すると外交官を辞する。 そして、中国の真実が外部世界に伝わっていないとして著述したのが『暗黒大陸 中国の真実』である。 中国に住んでいる外国人で中国の国情を把握しているのは宣教師、民間事業家、そして領事館員や外交官等の政府役人であるが、宣教師は事実が知られると援助が打ち切られる危惧を持ち、事業家は不買運動を恐れ、政府役人は外交辞令的なことしか言えないわけで、一種の「箝口令ともいうべきものが敷かれる」結果だという。 3年の外交官生活でしかなかったが、新聞記者と大学教授をそれぞれ3年づつ経ての外交官であり、他方で書籍を通しての中国しか知らないで赴任したことや好奇心が旺盛であったことなどから、「中国の真実」が全く伝わっていないことを痛感し、その現実を宣教師と事業家と政府役人の在り様に見つけたのだ。

 全10章のうち大部は中国人と中国の実情、そして阿片に費やし、日本(人)と中国の関係などもあるが、中でも宣教師と布教については2つの章を割いて実例を挙げて「糾弾」ともいえる記述をしている。 事業家や政府役人は概ね都市部に所在するが、宣教師は啓蒙などの使命から、辺鄙なところに所在し、危険なところなどにも出かけたりして、中国の実体を事業家や政府役人より詳しく知っているからである。 他方で、米国では富める人も貧乏な人も分に応じた寄付をすすんで行うのは、それが有効に使われているという認識に立っているからであるが、中国での布教は不毛の歴史であったし、いま(当時)の布教活動の実態は国民の期待に沿うようなものではないとバッサリ切り捨てる。

 カトリックやプロテスタントを問わず、ミッション・スクールには米国から多大の金が投入されているが、聖職者になるのはほんのわずかでしかない。宣教師が中国人の孤児を育てても、成人して泥棒の親玉になって育てた宣教師を狙う話なども書かれている。 宣教師の敷地を貸したら、ついには住みついて、返却を要求しても逆に損害賠償を請求される状況であるという。 こうした事例をいくつも挙げ、他にも理解できないようなこと、理不尽なことが数え切れないほどあるが、ともかくこうした実態は何一つ本国、なかでも支援者たちに全然伝わっていないし、事実は全く逆のことになっているという。

 タウンゼントは上海や福建省で見た宣教師を主体に論述しているが、南京の宣教師たちも日本軍を悪者にする嘘を捏造してでも報告するのが中国(蒋介石政権)を助ける道という意識が通底していたと思われる。 だからこそ、南京の宣教師たちは、日本軍兵士が行ったとする掠奪、強姦、放火(これらも中国敗残兵によるものが多いとみられるが)などを大虐殺に仕立てる蒋介石のプロパガンダ作戦に進んで協力したのだ。

95NAME:2019/07/18(木) 22:56:26
宣教師による米国内の宣伝行脚

 国民党・政府の意を受けて大活躍するのはティンパーリーである。 日本の罪行を告発する『WHAT WAR MEANS』を著述する前から、国民党外交の主目的である米国への工作を推進する。 南京安全区国際委員会委員で国際赤十字委員会委員長でもあったアメリカ人のジョン・マギー牧師が撮影した金陵大学病院で治療中の民間人負傷者を示す16ミリ・フィルムが宣伝に活躍されることになる。

 ティンパーリーは米国人のジョージ・フィッチが持参したこのフィルムを見て、一計を案じる。フィッチはYMCA理事で、教会の関係者として、またロータリー・クラブの会員など交友範囲が絶大なことから、全米の宣伝マンにする発想である。 「ハル(国務長官)からはきっと会見を申し込まれるだろうし、もしかすると、大統領(ルーズヴェルト)とも会うようなことになるかもしれません。彼のワシントン行きは、将来アメリカの中国政策にとって重大な意義をもつようになるでしょう」(北村著)とまで述べている。

 実際にマギーのフィルムをもって渡米したフィッチがたどった道を眺めてみよう。 1938年1月19日、日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに南京から上海へ行く。 このとき、虐殺場面を撮ったとされるネガ・フィルム、8リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)をオーバーの裏地に縫い込んでいたため、「少し気を遣った」という。

 上海では直ちに複写するためにコダックの営業所に行き、4セットを作成する。 フィッチは約5週間滞留しており、ティンパーリーに会い、米国での面会者などの根回しをしたに違いないが、ティンパーリーのことも、滞在間に何をしたかについても一切言及していないとされる。 2月25日に上海を立ち、香港を経て広州からハワイに飛ぶ。ホノルルでは「ある中国人グループと食事をし」、次のサンフランシスコでは中国総領事に会い、「中国人の友人」も交えてチャイナタウンで会食する。

 さらに「ロサンジェルスなどで持参のフィルムを交えた2、3の講演会を行った」という。4月18日、ワシントン着。国務長官や大統領には会えなかったが、国民政府の米国大使・王正廷に会い、また旧知のホーンベック国務省次官(彼は反日親中の中心人物)の斡旋で中国に関係の深い米国人の要人たちに面会し、下院の外交委員会、戦時情報局、新聞記者団に件のフィルムを見せている。 その後、ニューヨークに赴き、6月に中西部を経由して7月に再び西海岸に戻り、サンフランシスコで講演する。

 このとき、会場にいた唯一の日本人から「脅迫に近い抗議を受けた」とされる。北村氏は、この頃に日本側もフィッチの反日的言動をマークし始めていたとみる。 フィッチはこのあと再びニューヨークに戻るが、やがて体調を崩して入院。11月10日に西海岸のロングビーチから中国への帰途に就く。 「フィッチのアメリカでの活動は文字通りの大旅行であり、多額の資金と周到な計画を必要としていた。これら全てが、国民党国際宣伝処によりアレンジされたことは容易に想像がつく」と北村教授は述べる。

96NAME:2019/07/18(木) 22:56:39
当時の日本側の見方

 『スマイス報告』は、昭和15年、興亜院(1938年に設置され、42年に大東亜省に吸収)に勤務していた吉田三郎氏が上海に調査に行き、同所でアメリカ長老教会のミリカン夫人を知り、同夫人から紹介された金陵大学のベイツ教授から説明を受けた時に入手する。北村教授の前掲書中の「『スマイス報告』の徹底的検証」から、当時の日本がどのように見ていたかが分かる。

 吉田氏は「こういうものを世界中に配って基金を集めているのです。その中には南京地方に於ける農産物の調査、南京地方の人口調査等、いわゆる科学的調査を標榜しつつ、そのことによって日本が飛んでもないひどいことをやっているような印象を世界中に統計を通して与えている。しかしよく見ると科学的な研究という面を被った排日宣伝文書であります」と報告を見抜く。

 その理由として、「南京地方における損害の統計を作る場合に、(中略)火災の場合についていえば、支那軍が逃げる時に放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある。・・・これで見ると皆日本軍がやったことのように見えるのです。斯様に巧妙なる科学戦争というものが世界中に、この機関を通してまかれている事実を見た」というように、的確に指摘している。

 また、ベイツ教授は「今度の戦争による被害が支那全体でどの位あるかということを書いたものですが、それを是非読んで貰う必要ある」として「WHAT WAR MEANS」を紹介する。吉田氏は上海の書店で入手する。 殺人競争の章を見て、「材料は日本の新聞から取ってありました。何々少尉武勇伝という記事がそのまま載せてあったのであります。そういうように新聞記者が日本の文献その他日本側に不利な情報を編集してできているのがこの本でありまして、かような排日的な宣伝文書は外国人の間に多く読まれている」として危惧する。

 ミリカン夫人にこのことを話すと、「ぎょっとして『あれはあまりよい本ではない。あの書物は熱を以て書かれているのだから、歴史家があれをそのまま談じては困る。あなた方は歴史家であるから、もっと客観的にものをみなければならない。・・・ああいうものが全部であると思われては困る』と言って居りました」と、外国人でも疑問視していたことを指摘している。

 「その書物を見ますと、日本の官憲の或る部分はこの書物を出すことを支持していると書いてある。・・・恐らくそれは嘘だろうと思います。この書物による利益は皆赤十字社に寄贈すると書いてある。なかなか上手に出来ています。かような種類の本がどんどん売れているのですから全く困ったことです。日本の左翼の人がそれを訳すことを許可してくれといって盛んにミリカンのところへ来る」と聞いたと述べる。

おわりに

 当時の日本人の方が賢明ではなかっただろうか。世間の信用をバックに、戦争に伴う「通常の犯罪」(もちろんないに越したことはない)を「大虐殺」に衣替えさせるのに米国人宣教師たちが大いに関係していたのだ。 すべては全世界に巧妙に張り巡らせていた国際宣伝処の仕業であったことが今や明確になってきたのではないだろうか。

 日本軍も犯罪は犯した。しかし、それは中国が主張するような人道に悖る何十万人の市民を虐殺するなどではなかった。 中国は依然として「南京大虐殺」を主張し、拡大流布さえしようとしているが、論点のすり替えや証拠資料としていたものの撤去など、綻びも見えてきた。 日本は決然と否定することが大切ではないだろうか。

97NAME:2020/03/29(日) 01:43:30
南京虐殺はあったのか
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/c/4b57f4088f6d4becf2823e896eeab9a2
徳川義親の伝記にも、こう書かれていた。
張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。
南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。
長中佐は藤田君にこう語ったという。
前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、「あれを撃て」と命令した。

98NAME:2021/05/05(水) 22:00:05
>「日本軍の命令と服従について」
決定版【南京大虐殺】洞 富雄 徳間書店の中に以下の文章(p297)があります。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/024539.html

・・・・以下引用・・・・・
長中佐は藤田くん(藤田勇)にこう語ったという。
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に、長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。そこで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
>・・・・以下引用終わり・・・・(ヒデ)

99NAME:2021/05/05(水) 22:05:48
南京虐殺はあった!
2020-08-12 22:56:18 | 太平洋戦争
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/f816c93ad741f78e5b484818e3b36734

https://youtu.be/yrLPTGCXPr0

100NAME:2021/05/05(水) 22:06:14
衝撃。「南京虐殺は無かった」という誤魔化しを覆す記録映像が、日本で公開されていた。 テレビ史上、初めてCG化された南京大虐殺。民放の社会派ディレクターが退社前に全身全霊をかけて制作した入魂のドキュメント。NHKですらこれほど南京の真実に迫ったものを作ったことはない。日本軍は補給軽視の作戦の結果、数万の捕虜を養えず暴動が起きる前に皆殺しにした。虐殺否定派に問いたい。後ろ手に縛られ、戦闘する意思も手段も放棄した人間を背後から殺害することが、虐殺でなく何なのかと。投降した兵士であろうと便衣兵(ゲリラ※実際は南京城内にはいなかった)であろうと、白旗をあげた人間を殺してはいけない。
※推薦動画【永久保存版】南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言(32分)https://youtu.be/uyVeMusrS-k
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南京占領軍への当初の命令は「青壮年はすべて敗残兵、又は便衣隊(ゲリラ)と見なし、­すべて逮捕監禁すべし」。つまり、老人と子ども以外の中国人男子は全員逮捕監禁せよと­いう厳命。だが、捕虜10万人の食料も収容する施設もない。やがて命令は「捕虜を処分­(処刑)、殲滅(せんめつ)せよ」に変わった。『ハーグ陸戦協定』では「武装解除した­捕虜の虐殺」を戦争犯罪としている。ネット上では多数のデマが流れているため、よくあ­る質問と答えを以下にまとめる→

・日支事変は国際法上の“戦争”ではないため『ハーグ陸戦協定』は当てはまらない。→­ならば平時の殺人であり戦犯以前に殺人罪。
・虐殺証言で登場する元日本兵は中国共産党に洗脳された中国帰国者(中帰連)。→南京­戦に投入された部隊は捕虜にならず帰国しており、中国共産党は無関係。
・捕虜虐殺を見ていない海外ジャーナリストがいる。→虐殺現場は街から4キロ離れた揚子江­の川岸。中心街で殺害したのではない。
・南京入りした後発補充部隊は「虐殺はなかったと聞いている」と証言している。→「な­かった」と証言する元兵士は全員が事件後に南京市入りしている。しかも伝聞の証言であ­り説得力なし。何より、軍の公式記録である第66連隊の部隊記録に捕虜殺害の数が記録­されており、その数は加害兵士の陣中日記や証言と一致している。
・捕虜の暴動が起きたので仕方なく殺した→この話は戦後に現場指揮官の1人が戦犯指定を逃れるためにでっち上げたものと2018年に判明。暴動説はデマが確定。

〔まとめ〕南京を占領した日本軍は、各部隊とも自軍の10倍近くの捕虜を得て、その処­理に困って殺害に至った(例えば山田支隊1500人に対して15000人の捕虜が発生­し幕府山事件が起きた)。本来、捕虜ならば軍法会議、捕虜以外は軍律会議の判­決で処断せねばならない。便衣兵が「ハーグ陸戦協定違反」であろうとなかろうと、丸腰­の人間を裁判抜きで殺害するのは戦争犯罪。“南京事件否定派”の意見は国際社会で通用­しない。
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101NAME:2021/05/05(水) 22:06:51
〔補足・通州事件〕【通州事件…ネット右翼が知らない3つの事実】
(1)通州事件は、日本人104名と朝鮮人108名、計212人が殺害された。朝鮮人の死者の方が多いが、当時の朝鮮は日韓併合下にあったため「邦人200人以上」としている。
(2)通州事件は日本軍の誤爆事件が先にあった。襲ってきた中国人部隊は元々親日派で、日本軍が育てた子飼いの部隊。誤爆事件で飼い犬に手を咬まれた。
(3)日本軍は通州からヘロインなど大量の麻薬を大陸に流していた(毒化政策)。その悪行が中国人から反発を買った。
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〔補足2・便衣兵のせいというデマ〕
第一次上海戦では便衣兵(ゲリラ)の攻撃を受けたが、第二次上海戦では便衣兵からの攻撃はないに等しかった。特に南京城内では報告皆無。南京戦では「国際法を違反した便衣兵」は存在せず、虐殺を正当化する理由にはならない。仮に便衣兵がいたとして、日本が他国を武装して占領するから装備に劣る相手側が「祖国を守るため」にゲリラ戦を選んだのであり、加害者がそれを虐殺の理由にするのは酷い話。侵略していなければそもそも便衣兵になる必要もなかった。
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〔補足3・人口のデマ〕
否定派は「南京の人口が占領後に10万人増えているのがいい証拠」という。これは簡単に説明できる。南京一帯で戦闘が行われているわけで、南京市の国際安全区に避難民がなだれ込んでいるだけ。
参考までに以下のやり取りも紹介。
KAZUYA氏「人口20万人の南京で、30万人殺したという。ファンタジー的だ」
記者「20万人というのは南京市の特定地域(国際安全区)の人口の推計で、市全体のものではない」
KAZUYA氏「知っています。耳を引くためにオーバーな言い方をしています」
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〔補足4・犠牲者30万人に根拠はあるか〕
1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は市内の常住人口について統計資料を保存している。1935年に100万人の大台を突破し、虐殺9カ月前の1937年3月の調査では101万9667人で、戸数は20万810戸(南京の首都警察庁調べ)。この3月時点の100万人は、虐殺肯定派、否定派とも見解が一致している。その後、日本軍の連日の空襲で人口が減り始め、11月20日に国民政府が重慶への首都遷都を宣布、さらに日本軍の接近が伝えられたことで住民が激減、11月23日に南京市政府(馬超俊市長)は「現時点で人口は約50万」「ただし今後20万人の周辺難民の流入を予測」と国民政府軍事委員会に報告している。実際、膨大な数の農民が難民となって城内に避難した。南京守備部隊、常住人口、流動人口の合計が約60万人、そして虐殺後の人口が30万人強であることから、中国側が主張する犠牲者30万人は、「最大値としては」あり得る数字だ。
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102NAME:2021/05/05(水) 22:07:12
〔補足5・消えた遺体について〕
南京守備隊(5万人以上)の処刑は揚子江の河岸で行われ、遺体は大河に流されたことが日本軍の記録で明らかになっている。いったい何万人が揚子江に投げ込まれたのか不明ではあるが、墓がない大きな理由のひとつ。次が重要な点。日本側が考える南京事件は、期間が「1937年12月13日の南京陥落から17日の入城式まで」、場所は「南京城内で行われた掃討戦」としているケースが多いのに対し、中国側は期間が「南京戦から3カ月」、場所は「南京周辺の農村を含んだ広大な地域」であり、この時点で両者が主張する数字が合致するはずがない。中国が嘘をついているのではなく、単に期間と場所が異なるだけ。それゆえ、一般市民の墓は点在しており、ここを掘れば数万人の遺体があるといった場所がない。ちなみに埋葬隊記録では155,000体。これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に「入れていない」。
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〔補足6・パール判事について〕
「パール判事が日本の戦争行為に理解を示した」というのは保守派のデマ。パール判事は日本軍の残虐行為に激怒している。東京裁判は、新しく作った法律で過去の行為を処罰できないという法学者の信念から「無罪」としたのであって、「日本は悪くない」とは言ってない。南京大虐殺では「宣伝と誇張を出来る限り考慮しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、また、戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」と虐殺を認め断罪している。パール判事の息子は、東條英機の伝記映画『プライド』が東條を美化するため自分の父を利用していると憤慨し、田中正明(勝手に松井石根大将の文章を改変し、日本に「南京事件はなかった」と嘘をまき散らした張本人)に抗議している。
パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」「殺人と言う卑怯な行為」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判。南京大虐殺について20箇所以上の残虐行為を指摘したうえで「鬼畜の性格を持っている」と断じ、戦争指導者は無罪であっても、殺人・強姦など通例の戦争犯罪の実行者に対する処罰は(新法で後から処罰ことですら)「正当である」と述べている。
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この問題を語るとき、もう少し相手の立場になって考えてみませんか。終戦時に中国にいた日本軍は105万5700人。そして日本軍には補給がまともになく、基本は現地調達。農村から命綱の牛馬鶏を奪い、穀物を奪いながらの行軍、占領です。そして少なくない部隊で強姦が起きています。抵抗すれば殺害。
この歴然たる事実を正面から見つめ、どうかネットにデマを広めないよう、同じ日本人として心からお願いします。
★その他、南京大虐殺否定派の疑問は以下の3つのリンク先で100%解決されると思います。
「南京事件FAQ」 https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
「南京事件資料集」 http://kk-nanking.main.jp/index.html
「南京事件ー日中戦争 小さな資料集」http://yu77799.g1.xrea.com/

大事なことなのでもう一度。「人口20万の都市で30万は殺せない」デマにはくれぐれも注意を。20万人は南京特別市の一部である南京城の中のさらに一部である安全区の人口に過ぎず、犠牲者30万人が発生したという地域は南京城の外、南京特別市の広い範囲を対象にしたものです。

「1万人以上銃殺した」と証言したのは、会津若松第65歩兵連隊の兵士。「白虎隊」に因んで「白虎部隊」として尽忠報国、上官の命令には絶対服従だった。実は私の父も、会津若松出身なので、昭和16年8月に「会津若松第65歩兵連隊」に入営した。南京攻略はその3年前のことであり、「南京攻略時の虐殺」については全く知らされていなかったようだ。箝口令でも敷かれていたか。

103NAME:2021/05/05(水) 22:07:32
最大の疑問点は、毛沢東がこの話題に関して一度も口にしたことのないということ。
https://www.multilingirl.com/2017/03/nanjing.html

104NAME:2022/02/25(金) 18:18:01
1990年10月1日、石原慎太郎 「南京大虐殺について「中国側の作り話」「うそ」と主張
https://antiracism-info.com/database/123876/

石原慎太郎代議士が、雑誌『文芸春秋』2月号で、真意を詳しく説明している。そこで石原氏は、「(虐殺の)数がいわれているものの1000分の1だろうと100分の1だろうと、不法な殺人はもとより人道にもとるし、虐殺は虐殺でしかない。私は日本軍が当時大陸で残虐な行為をまったく行わなかったなどというつもりもない」「日本軍の不法な殺りくが、かなりの数であったことも間違いないが、30万という異常な数ではあり得なかったことも確かだと思う。われわれは今、改めて自らの歴史を検証する権利と、子孫に対する責任があるはずだ」「それは、アメリカや中国との友情をないがしろにし、損なってもいいということではない。自分たちの未来、運命を切り開いていくために必要な情報を自分で摂取し、自らの情報空間を構築していく必要がある」などと述べた。

105NAME:2022/02/25(金) 21:10:47
河村たかし氏や石原慎太郎氏に
https://suyiryutei.exblog.jp/17870588/

河村たかし名古屋市長が「南京事件というのはなかったのではないか」と発言したのは20日のこと。相手は中国共産党南京市委員会の訪日代表団なのだから、なるほど度胸はある。最近の嫌中ムードに乗って、その“度胸”を売りにするのが狙いだったのだろうか。

南京事件というのは、日中戦争さなかの1937年に起きた、日本軍による住民虐殺事件。酔流亭もつい最近、TVドラマ『カーネーション』のことを書いた一文でこの事件にふれた。黙っているわけにはいかない。
それにしても市長の挙げた理由というのが「終戦を南京で迎えた父親が現地で優しくされた」ことだとは。ならば逆の認識も可能であったのに。しかるに、中国人というのは何かあればそこにつけ込んでくる連中だという、他ならぬ河村氏のような人たちがまき散らす中国人イメージに氏自身がとらわれているのだろう。そういう民族が、虐殺が事実なら相手に寛大であるはずはない、と思い込んでいるのだ。
だが、与那覇潤氏(『中国化する日本』の著者)が述べているように、「南京事件そのものがなかったとの考えを支持するプロの歴史学者はいない」(朝日2/24朝刊)のである。ならば、にもかかわらず河村氏の父が南京で「優しくされた」のであるなら、それは中国の人々の度量の広さをこそ意味するだろう。恩を仇で返す日本のポピュリスト政治家とは反対に。

もちろん戦後の中国は理想の社会とは遠いだろうし、そこに住む人々も様々だ。しかし、あの戦争に対して、日本によってあれだけの被害を受けながらも、悪いのは当時の政府であって人民ではないという立場を中国政府が基本としてきたことには、私たちはやはり頭が下がるのである。石橋湛山が1960年に述べた以下の言葉を思い出さないわけにはいかない。
「・・・しかも相手は暴虐の限りをつくした日本に対して、仇を恩で返すことを国是とし、いっさいの報復主義を排して逆に手を差し伸ばして来ている。それが容易なことではないことは、立場をかえてみれば自明である・・・」(『池田外交路線へ望む』岩波文庫『石橋湛山評論集』276ページ)。

さて、河村氏を「正しい」と弁護に立ったのが石原慎太郎・東京都知事である。24日の会見で言うことに、
「・・・あれだけの(旧日本軍の)装備、期間で40万の人を物理的に絶対殺せっこない」。
40万人が犠牲になったと、誰が言っているのだろうか。事件そのものを否定する歴史学者はいないが、犠牲者数については諸説あり、論争も繰り返されてきた。中国政府の主張は30万人である。これに対して、主に日本側から、もっと少ない数字も出されている。
石原氏は耄碌して言い間違えたというより、過大な数字を持ち出すことで「そんなに殺せっこない」という自説を際立たせたかったのだろう。被害をもたらした側の国の政治家が、こういう問題でこんなデタラメな数字の操作をやってはいけない。世界に対して恥ずかしいことである。


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