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東日本大震災

1NAME:2012/03/17(土) 15:52:09
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm
 屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。

 いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。

 11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。

 海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」

 引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。

 佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。

 「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。

 波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」

 1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。

120NAME:2016/03/12(土) 01:04:08
津波で亡くなった母、伏せた父 思い受け止めた17歳は
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b4%a5%e6%b3%a2%e3%81%a7%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%af%8d%e3%80%81%e4%bc%8f%e3%81%9b%e3%81%9f%e7%88%b6-%e6%80%9d%e3%81%84%e5%8f%97%e3%81%91%e6%ad%a2%e3%82%81%e3%81%9f%ef%bc%91%ef%bc%97%e6%ad%b3%e3%81%af/ar-AAgD5LQ#page=2

母はかすみ草が好きだった。どうしてだろう。 「花言葉か何かかな」。今月6日の食卓。戸羽太河(たいが)さん(17)が口にすると、父の太(ふとし)さん(51)は「ちっちゃい花の雰囲気じゃないかな」とほおを緩めた。 震災からしばらくは、母・久美さん(当時38)のことを家族で話すこともできなかった。

 津波に襲われた岩手県陸前高田市の街中に、自宅はあった。家は流され、小学6年生だった太河さんは、2歳下の弟と親戚の家で避難暮らしを始めた。 市長である父は、指揮をとる災害対策本部に泊まり込み、帰ってこない。母の安否はわからないまま。弟はずっと泣いていた。 自分は2階の部屋で、昼寝ばかりしていた。「大丈夫。お母さん見つかるから」。周りの人から声をかけられると、また苦しくなり、布団にもぐって泣いた。 10日ほどして、親戚が父のところへ連れて行ってくれた。久しぶりの父は無精ひげで作業服姿。胸に飛び込み、抱きしめられると、涙が止まらなくなった。 父も泣いていた。そして笑顔で言った。「泣いたってどうにもならないことがあるんだよ。お兄ちゃんなんだから、頼む」 小さい頃から、いつも父や母にくっつき、甘えるのが大好きだった。でも、泣いても母が帰ってくるわけじゃない。 いま父は一番大変な場所にいる。弟はつらそうだ。せめて自分はしっかりしよう。そう決めた。 4月。母が遺体で見つかり、父が対面したことを新聞の記事で知った。

 中学に進学しても親戚宅に身を寄せた。父は多忙ながらも帰ってくるようになった。けれど、母のことはだれも口にしない。たまに家族で出かけると、車の助手席やレストランの座席が空いていた。 5月の連休明けから学校を休みがちになった。「頭が痛い」。うそをついた。勉強や部活も面倒に思えた。 放課後、担任の野口貴弘先生(44)が家を訪ねてきた。休む理由は聞かず、学校に来いとも言わない。「メシ食ってっか?」と、ときどき栄養補給のゼリーを持ってきてくれた。

 夏休み明け。車で送ってもらったときに父の話題になった。「お父さん、がんばってるなあ」。先生はそう言った後、亡くなった自分の父の話をした。 「俺は悩んだとき、おやじならどうするかって心の中で会話するんだ。目の前にはいないけれど、いつも支えられてる気がする」 このころ、父が震災の体験を記した本を出した。親戚宅にも何冊か届いていた。手にとった。 父は母の死を1カ月半伏せていたが、本にはその理由が書かれていた。 《肌の色が黒く変わってしまっていた。子どもたちは「お母さんに会いたい」と言うはず。でも絶対に見せてはいけない。きれいなままのお母さんのイメージだけを子どもの一生の宝物にしてやりたい》 父の思いを初めて知った。

121NAME:2016/03/12(土) 01:11:01
東日本大震災から5年、津波に引き裂かれる被災地の思い
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%8B%E3%82%895%E5%B9%B4%E3%80%81%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E3%81%AB%E5%BC%95%E3%81%8D%E8%A3%82%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84/ar-AAgDTUy#page=2

[陸前高田市(岩手) 11日 ロイター] - 2011年3月11日に発生した東日本大震災からきょうで丸5年。マグニチュード(M)9.0の未曾有の地震が引き起こした大津波は街を飲み込み、1986年のチェルノブイリ事故以来最悪の原発事故を招いた。 震災による死者・行方不明者は約1万8500人、関連死を含めると犠牲者は2万1000人を超える。16万人が住居と生計の手段を失った。

津波により東京電力(9501.T)福島第1原子力発電所の原子炉3基がメルトダウンし、放射能汚染が広がった。原発付近に住む16万人以上が避難を余儀なくされ、その約10%が福島県内の仮設住宅で今でも生活している。 避難した住民の大半は故郷を離れ、新たな生活を始めた。一部の地域は、高い放射線量のため帰還が今なお困難な状況にある。

約17メートルの津波に見舞われ、市街地全体が飲み込まれた岩手県陸前高田市は人口の7%を失った。深い悲しみが今でも住民の心を苦しめている。 消防団員の男性は、同僚51人を失った。ほとんどが救援活動中に命を落としたという。「インフラは回復しつつあるが、心は違う」とこの男性は語る。「亡くなった人たちの顔がいまだに目の前に現れる」。

都内では11日、東日本大震災5周年追悼式が開催され、地震が発生した午後2時46分には犠牲者を悼み、黙とうが行われる。都内の地下鉄もその時間は運転を停止する。 政府はばく大な予算を投じ、津波対策や除染作業などを含む被災地の復興を進めているが、仮設住宅での暮らしを強いられている多くの被災者への支援対策においてはまだ多くのことが残されている。 漁師だったという陸前高田の男性は「何をしたらいいのか分からないという人が増えている気がする。心はずたずたに引き裂かれている」と語る。

政府の復興予算は2016年度から大幅に引き下げられるが、安倍晋三首相は10日、会見を行い、今後5年間を「復興・創生期間」と位置付け、十分な財源を確保したうえで、被災地の自立につながる支援を行う考えを表明した。 「今なお仮設住宅で暮らす方々、まだまだ厳しい状況に置かれている皆さんが、たくさんいる。被災地の皆さんの不安な気持ちに寄り添いながら、地域ごとの多様なニーズに応えた支援を、しっかりと行う」と首相は語った。

122NAME:2016/03/12(土) 01:31:20
東日本大震災から5年、被災地の「復興の歩み」を写真で振り返る
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%8B%E3%82%895%E5%B9%B4%E3%80%81%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%BE%A9%E8%88%88%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%8D%E3%82%92%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%A7%E6%8C%AF%E3%82%8A%E8%BF%94%E3%82%8B/ss-AAgyMtg#image=26

123NAME:2016/03/12(土) 01:37:13
中国人研修生を救おうとした日本人
大震災5年:程永華・駐日中国大使寄稿の全文
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%a4%a7%e9%9c%87%e7%81%bd%ef%bc%95%e5%b9%b4%e7%a8%8b%e6%b0%b8%e8%8f%af%e3%83%bb%e9%a7%90%e6%97%a5%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%a4%a7%e4%bd%bf%e5%af%84%e7%a8%bf%e3%81%ae%e5%85%a8%e6%96%87/ar-AAgBGFI#page=2

東日本大震災5年に合わせ、中国の程永華(てい・えいか)駐日大使が毎日新聞に寄稿し、日中両国が防災や被災地支援での協力を強化する必要性を訴えた。全文は次の通り。

2011年3月11日、午後の東京にはもう早春の暖かさがあった。私は山東省投資説明会に出席するため、在日中国大使館を出ようとしているところだった。突然、強い揺れに襲われ、歩みを止められた。私は外交官として日本に長年勤務しており、1995年に大阪市で阪神淡路大震災を経験したのを含めて、大小の地震をどれほど経験したか知れないが、このように強い揺れを感じたのは初めてだった。すぐに投資説明会への出席を取りやめ、執務室に戻って地震対応の手配に臨んだ。床に落ちた掛け時計は午後2時46分を指したまま。マグニチュード9.0という、世界の地震観測史上第4位に入る東日本大震災の起きた時刻だ。

 5年の歳月が過ぎ、仕事と生活の日々が続いてきたが、当時の状況が記憶から消えたことはない。当時は地震、津波と原発事故の三つの災難が重なり、被災状況に対する未知の不安と恐怖によって、普段はにぎわう六本木の街頭もひっそりとしていた。しかし、在日中国大使館は24時間の緊急態勢に入った。被災地に3万人もの中国国民が滞在しており、早急にその安否を確認し、しかるべき措置を取ることが急務となったからだ。

 震災発生当日からの10日間に、大使館は六つの作業グループを被災地に派遣し、中国国民の救助にあたった。その中で日本各地の自治体と市民の皆様から多大な援助を受けた。日本の方々と中国大使館、総領事館は協力しながら被災地の中国国民が危険な状況から脱するのを助けた。

 日本で働く研修生は最も救援を必要としており、日本の市民の皆様から最も多くの助けを受けていた。宮城県女川町の佐藤充さんは、津波が押し寄せる直前に20人の中国人研修生を救ったが、自らはより多くの人を救出しようとして津波に巻き込まれ、尊い命を失ってしまった。 このほかにも、身の危険を顧みず、自分の家族の安否も確認していない中で中国人の救助に当たり、なかには福島第1原発の近くまで中国人研修生を捜しに行った人もいたという多くの感動的な話を聞いた。このようなことがあるゆえに、多くの中国人研修生が震災後まもなく日本に戻って仕事につき、被災地の復興に身を投じた。

124NAME:2016/03/12(土) 01:38:01
 自然災害の前で個々の人間は弱いものだ。一方、人間の善意と友情と助け合いは絶大な力を示している。中国は日本の隣国として、同じく地震の被害に見舞われてきた。08年に中国四川省で?川大地震が起きた後、日本の各界が援助の手を差し伸べ、日本の救援隊と医療チームが被災地で救出・治療活動に当たったことは、中国の人々にとって記憶に新しく、またその時のことがあるだけに、日本の皆さんの苦しみを我がことのように感じた。中国政府、民間および在日華僑、中国系企業と留学生が次々に立ち上がり、日本の被災地に義援金や物資を届け、見舞いの言葉と声援を送った。

 中国からの最初の支援物資は震災の3日後に届いた。中国国際救援隊は3月13日に日本に入り、津波の被害が大きかった岩手県大船渡市で救援活動を始めた。最も早く被災地に入り、最も長く捜索・救援活動を行った国際救援隊の一つだった。当時の国土交通相が被災地に救援物資を運ぶために燃料油が必要だとして中国に支援を求めた際、中国政府はすぐにガソリン1万トンとディーゼル油1万トンを無償で提供することを決定した。東京電力が福島第1原発の冷却作業のため中国の建機大手「三一重工」の大型ポンプ車を購入したいというと、三一重工は他国に輸出する契約の違反となることもいとわず、売値100万ドルで62メートルのアームを持つポンプ車を無償で提供した。このポンプ車はその後、日本の皆さんに「大キリン」と呼ばれるようになった。

 空前の災難を経験し、我々は自然の怖さを一層深く認識し、また日々の生活をより大切にするようにもなった。東日本大震災発生の年、私は5回にわたって被災地を訪れ、被害の状況をこの目で見た。その後も福島や宮城などを何度も訪れた。この5年間、被災地復興の進展ぶりを目にするとともに、現地の方々の驚くべき意志の強さに深く感銘を受けた。

 この5年間、私は常に考えてきた。中日両国は隣国として、自然災害が発生した時、支援国はいかにしてより的確に必要な物資と援助を提供するか、支援される国はいかにしてこれを有効に活用するか、双方が普段から意思疎通を図り、共通の行動基準を作り上げることが必要だろう。

 命の安全が重大な脅威にさらされた時、両国の間で見過ごせない意見の相違や矛盾はなく、防災や緊急援助にせよ、被災地の再建にせよ、双方がともに協力すべき重要な課題であり、中日両国にとって戦略的互恵関係の重要な中身でもある。中日関係の更なる改善と発展を図るには、この分野から始めてもいいのではないか。 最後に、東日本大震災の被災地の方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、被災地の早期復興を心から祈りたい。

125NAME:2016/03/13(日) 00:23:57
【東日本大震災5年】
台湾で大震災の追悼・感謝式典 日本側、「真の友人」と謝意
2016.3.11 18:32更新
http://www.sankei.com/world/news/160311/wor1603110019-n1.html

【台北=田中靖人】東日本大震災から5年となった11日、台北市内で、台湾日本人会などが主催する「追悼・感謝会」が開かれた。式典には日台の関係者約150人が出席し、台湾側から蘇嘉全立法院長(国会議長に相当)らが献花に訪れた。

 台湾の対日窓口機関、亜東関係協会の李嘉進会長は「台湾は5年前に日本を支援した初心を忘れていない。その気持ちを元に、台湾と日本の関係がますます発展するよう期待する」とあいさつ。対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使)は、台湾から200億円を超す義援金が送られたことを念頭に、「日本人に台湾という真の友人がいることを強く思い起こさせた」と改めて謝意を表明した。

 式典ではこのほか、台湾の赤十字からの義援金22億円を充当して昨年末、病院を再建した宮城県南三陸町の佐藤仁町長のビデオメッセージや、台湾のロックバンド「滅火器」が被災地で撮影した復興応援ビデオが放映された。

126NAME:2016/03/19(土) 17:27:59
【東日本大震災5年】トモダチ作戦は「義務ではなく、愛によるものだった」 元在日米軍司令官
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%90%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%80%91%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E4%BD%9C%E6%88%A6%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%BE%A9%E5%8B%99%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D-%E5%85%83%E5%9C%A8%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98/ar-AAgEw0w#page=2

2011年3月11日午後2時46分、横田基地にある在日米軍司令部。バートン・フィールド司令官は、第5空軍の面々と会議を開いていた。「いつもとは違う大きな揺れ」に、建物から外へ飛び出した。 揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。

 慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。 福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。

 頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか。(日本政府などから)要請された場合、米国人と他の外国人、日本人をいかに避難させるか」… 自衛隊の依頼を受け米軍が担ったのは、小学校などの清掃と、救援物資を空輸できるよう、使用不能状態にあった仙台空港を再開させることだった。

   ×    ×

 フィールド司令官は仙台へ飛んだ。だが空港には降りられなかった。上空から見た空港は水浸し。「車も家もすべて破壊されているようだ。空港も何カ月も使えないだろう」と思った。 その日の夜、横田へ戻ると、嘉手納基地(沖縄県)に駐留する空軍第353特殊作戦群のロバート・トス大佐が、こう言った。

 「われわれが仙台空港を、できるだけ早く復旧するようにします」 大佐らは宮城県知事、仙台市長と会い、海兵隊などと協力し、がれきなどに覆われた滑走路を整備して、復旧に全力を挙げる。C130輸送機が最初に仙台空港に着陸したのは、16日のことである。 フィールド司令官は「友人、同盟国としてやるべきことをした。それはただ義務ということではなく、愛によるものだった。われわれは手助けをしただけで、真のヒーローは自衛隊だ」と話す。(ワシントン 青木伸行)

127NAME:2016/09/04(日) 22:29:11
【東日本大震災】
津波で亡くなった子供の幽霊が自宅跡地に戻ってきてくれた…遺族の心を癒す「震災怪談」が次々と寄せられ
2016.9.4 18:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/160904/prm1609040017-n1.html

東日本大震災後、津波の被災地では心霊体験が多く語られるようになった。そんな体験談を東北地方の作家らが取材し、「震災怪談」として作品化した。30日で発生から2000日。作品は単なる娯楽ではなく、死者への供養や鎮魂とともに、遺族の心を癒やす効果もあるとして注目を集めている。(大渡美咲、写真も)

 震災怪談集「渚にて あの日からの〈みちのく怪談〉」を出版したのは仙台市の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」。実話を基にした10人の作家による45編が収録されている。 荒蝦夷の土方正志代表は「震災怪談は泣ける話ではなく、リアルな死が背景にある。5年たってまだ語れない人も立ち直れない人もいる。怪談が表現のツールになれば」と話す。

 《帰ろうと下駄箱のカギを外して中からブーツを取り出し、脚を入れた瞬間。白い花弁が一房、靴の中にあった。(中略)二週間後、木棺に入れられて、父が帰ってきた。胸の上に、白い花が添えられていた。靴の中に入っていた、あの白い花と同じものだった》 震災で父の勉さん=当時(53)=を亡くした須藤文音(あやね)さん(28)は体験した出来事を怪談「白い花弁」としてつづった。勉さんは宮城県気仙沼市で津波に巻き込まれ、2週間後に遺体で見つかった。その2週間、文音さんの身近で不思議な出来事があった。 「父の亡くなった状況は今でも分からない。でも書いているうちに、成仏してほしいという思いとともに、父の最期が痛くなかったらいいな、苦しくなかったらいいな、と思えるようになった」

文音さんは書くことや話すことで徐々に勉さんの死を受け入れられるようになったといい、「怪談は父と私をつなぐツール。生きている人と亡くなっている人をつないでいる」と語る。 文芸評論家の東雅夫さんによると、関東大震災(大正12年)後もこうした実話を基にした震災怪談が作品になったといい、「怪談は死者の話を生きている人が書いて生きている人が読む。亡くなった人の物語を生者が言葉にし、語り、共有することで鎮魂や供養になっている」と解説する。

 一方、平成7年の阪神大震災後にこうした動きがなかったのは、津波と火災による被害の違いや、「遠野物語」の舞台でもある東北地方ならではの文化に由来するのではないかとも分析する。 《知り合った人から“某所に出る子供の幽霊”の話を聞いた。絶句した。なぜならその子供を知っていたからだ。目撃されたのは、確かにその子の家の跡地。語られた背格好も、その子と一致する》

 被災地出身で怪談作家の小田イ輔さんは知人や顔見知りの人の死を体験した。「自分の身内が流されて5年たって落ち着いたとはいえない。津波で亡くなった、新聞に名前が載った、で終わりじゃない。その人が生きていた証しを拾い上げて残す。誰にも訪れる『死』を突き詰めたのが怪談だ」と話している。

128NAME:2017/03/06(月) 02:53:22
遺族が経験した「3.11後の霊体験」とは何か 亡くなった時間に、お別れのあいさつに
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e9%81%ba%e6%97%8f%e3%81%8c%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bd%a2311%e5%be%8c%e3%81%ae%e9%9c%8a%e4%bd%93%e9%a8%93%ef%bd%a3%e3%81%a8%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%8b-%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%99%82%e9%96%93%e3%81%ab%ef%bd%a4%e3%81%8a%e5%88%a5%e3%82%8c%e3%81%ae%e3%81%82%e3%81%84%e3%81%95%e3%81%a4%e3%81%ab/ar-AAnM7V6?ocid=iehp#page=2

あの日から、もうすぐ6年の月日が経とうとしているが、今だに震災について語るべき言葉を持っていない。身の回りで大きな被害があったわけでもない。知人や親戚が被災地にいたわけでもない。ボランティア活動に参加したこともない。

 そんな自分が何を語ろうとしても、言葉が軽くなってしまう。同じようなためらいを感じている方は、案外多いのかもしれない。しかし本書『魂でもいいから、そばにいて』は、意外な切り口からそのような壁を取り払ってくれ、最も大切な姿勢が何かを教えてくれた。

 数年前から被災地で、まことしやかに囁かれてきた不思議な体験の数々。多くの人にとってかけがえのないものでありながら、「誰も信じてくれないから」と胸に秘められてきたのは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験談であった。偶然の一言では片付けられない話ばかりが、次々と飛び出してくる。

被災地で囁かれてきた不思議な体験の数々

 中でも圧倒的に多いのは、亡くなった家族が夢に現れるという現象である。夢とは思えないほどリアリティに溢れ、当人と言葉を交わすようなケースも多い。その次に多いのが、「お知らせ」というものだ。亡くなった時間に、お別れの挨拶に来たという証言する人は少なくない。また、携帯電話を通しての不思議な現象も散見された。

 このような霊的体験は、阪神・淡路大震災の時にはほとんど見られなかったという。オガミサマと呼ばれるイタコのような風習が古くから生活の一部になっていたように、東北には土着の宗教心が今も潜在意識の中でしっかり流れている。それが霊を見たり、感じさせたりということにつながっていくのだろうか。

 被災で亡くなった人と残された人。その差に、何か明白な原因があったわけではない。あまりにも理不尽な分断が、ある日突然起こった。だからこそ両者は、その分断を目には見えない何かで埋めようとするのかもしれない。

 あの悲劇を一刻も早く忘れたい、でも大切な人のことを忘れたくない。そんな忘却へのジレンマが、その人固有の物語を生み出していく。本書は、そんな人々の物語だ。

129NAME:2017/03/06(月) 02:54:58
 “私は眠ったら妻や娘に逢えると思うから、自分自身が死んだつもりになって寝るんです。(亀井繁さん)”

 妻と娘を喪った、亀井繁さん。遺体が見つかり、火葬を終えた日の夜中のこと、二人が自分に向かって手を振っている姿を目の当たりにする。「ああ逢いに来てくれたんだ」と手を伸ばしたその時、目が醒めたという。繁さんはその後も何度か同じような経験をし、こうした出来事を大学ノートに記録するようになった。

 夢のようなひと時を、夢の中で過ごす。ある時は「私がいないとつまんない?」と妻から尋ねられ、ある時は「どこにも行かないよ」と声を掛けられた。むろん夢から醒めてしまえば、想像を絶する地獄が待っている。だが、夢の中だけでもあの頃に戻れるのであれば、たしかな希望を感じることができるそうだ。

その霊も誰かの大切な家族だった

 “他人の霊を見たら怖いでしょうね。でも私は見方が変わりました。その霊も誰かの大切な家族だったんだと思えば、ちっとも怖くないと思えるようになったんです(永沼恵子さん)”

 当時8歳だった息子の琴君を喪った、永沼恵子さん。何気なく携帯の写メで家の写真を撮ったら、なんと窓に琴君の顔が写っていたのだという。それを皮切りに、次々と不思議なことが起こっていく。風邪もなく窓も閉めきっているのに、ティッシュが激しく揺れたり、どたんと大きな音がしたり、天井や壁を走り回る音がしたり。

 琴くんの足音が聞こえてくるーーそう思えるだけでも亡くなった我が子の気遣いとして感じられ、頑張っている姿を見せなければと前を向けるのだという。子供を喪うことは、未来を奪われることにも等しい。それでも子供との思い出が、確かに未来を創っているのだ。

 “夢の中でお父さんにぐっと手を握られたりハグされたりするでしょ? お父さんの手は大きくて温かいんですよ(菅野佳代子さん)”

 市役所勤務の夫を喪った、菅野佳代子さん。仮設住宅に移った2013年くらいから夢に旦那さんが出てくるようになった。鮮明な映像で音も大きく、現実と錯覚するほどのリアリティであったという。

 生きている「死者」を抱きしめるような感覚が、生活を穏やかに包み込んでくれる。だから現実にはいないはずの仮設住宅でも、旦那さんと二人っきりで生活している気がするそうだ。

生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいる

 在りし日の思い出、亡くなった悲しみ、夢で再会できた喜び。それらがシームレスにつながり、一つの物語が形成されていく。その過程において、著者は同じ人に最低3回は話を聞いたそうだ。その物語も、決して不変なものばかりではなかった。他者に語ることで語り手が少しずつ変化を加えつつ、自らが納得できる物語として完成したのである。

 それは事実と言えるものなのか。そう指摘することは容易い。しかしその物語で、遺された人たちが生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいることは、紛れもない「事実」である。

 被災者たちを襲ったのは、津波だけではなかった。時を追うごとに、さまざまな困難が襲いかかってくる。一番キツいのは、「あの時もし、こうしていたら、家族は助かったのかもしれない」と、自分で自分を攻め続けてしまうことだ。その悩みは内省的なものであるがゆえに、表面化しづらく根も深い。だが、当人たちそれぞれの不思議な物語が、彼らを罪の意識から解放してくれるのだ。

 「生者が死者を記憶に刻み続けることで、死者は生き続ける。私は、その記憶を刻む器なのだ」と、著者は語る。それぞれの話が共鳴することによって生まれる、新たな共同体感覚。それがさらに、誰かを孤独から救い出すことへつながっていくのかもしれない。第三者に出来る唯一にして最大のことは、ただひたすら器に描かれた物語を記憶に刻んでいくことだけだろう。

 幸せと絶望があまりにも理不尽に分断されたことで、現実と虚構が入れ替わっていく。だが一体、何が現実で、何が虚構なのか。常識や思い込みといったものこそ、虚構に過ぎないのかもしれない。我々にそれを決めることなど、決して出来はしないはずだ。

130NAME:2017/03/07(火) 20:14:39
東日本大震災
津波の高さ、目で確かめて 銀座のビルに巨大垂れ幕
2017.3.7 18:20
http://www.sankei.com/photo/story/news/170307/sty1703070009-n1.html

東日本大震災の発生から6年を迎えるのを前に、IT大手ヤフーは東京・銀座のソニービル壁面に、岩手県大船渡市を襲った津波の高さを示す巨大な垂れ幕を設置した。防災意識を高めてもらうのが狙い。12日まで。

 垂れ幕は高さ28.5メートルの白地に、黒字で「あの日を忘れない。それが、一番の防災」などのメッセージをつづったシンプルなデザイン。大船渡市で観測された津波と同じ高さ16.7メートルの位置に横に赤い線を引いて、視覚に訴えている。

 ヤフーの広報担当者は「インターネットでも災害情報を伝えているが、ほかにも一人でも多くの方が防災への想像力を高められるきっかけを発信したい」と話している。.

ソニービルに掲出されたYAHOO!の広告。大船渡市で観測された津波の高さ16.7メートルが示されている=7日午後、東京・銀座(桐原正道撮影)

131NAME:2018/07/07(土) 23:48:01
長友、仙台で被災地子供から質問「なんで金髪に?」
2018/7/7(土) 19:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180707-00261069-nksports-socc

日本代表DF長友佑都(31=ガラタサライ)がワールドカップ(W杯)ロシア大会から帰国2日後の7日、仙台市内を訪れ、被災地の子どもたちを喜ばせるだけでなく、自身も活力を得た。

少年サッカー大会会場となっていた蒲町小を訪問。ワールドカップ応援の感謝と、夢を持って努力する強い気持ちを持つことを伝えた。質問タイムでは「日本代表で一番仲が良い選手は?」の問いに「香川真司。同じ時期に代表に入ってやってきたし、人間性も素晴らしい。人の見えないところで努力を重ねているからこそ10番を背負える。その裏の努力を僕は見ています」。

 「なんで金髪にしたの?」には「日本代表が6カ月間勝てなくて批判も受けた。『オジサン、オジサン』とも言われていた。自分の気持ちも変えたかったし、チームを明るい雰囲気にしたかった」と明かした。

 甚大な津波被害を受けた沿岸部にも足を運んだ。遺構として保存され、校舎内には写真や映像が展示されている荒浜小も見学した。同小近くにある荒浜慈聖観音の慰霊碑には献花し、合掌。14年W杯ブラジル大会直後にも仙台を訪問しており「4年前に力をもらった感謝もあるし、また元気をもらいたいと思った。このエネルギーで4年後(のワールドカップ)も狙いたい」と力強く話した。

132NAME:2018/07/17(火) 12:37:24
「支援金」と「義援金」、お金が届く相手が違います
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e6%94%af%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e7%be%a9%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%80%81%e3%81%8a%e9%87%91%e3%81%8c%e5%b1%8a%e3%81%8f%e7%9b%b8%e6%89%8b%e3%81%8c%e9%81%95%e3%81%84%e3%81%be%e3%81%99/ar-AAA7OFn#page=2
2018/07/16 07:37

支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。
義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられる

西日本豪雨災害の被災地に届ける「支援金」や「義援金」の募集が始まっている。「被災地の役に立ちたい」という気持ちがこもったお金だからこそ、使われ方を理解しておきたい。改めて、「支援金」と「義援金」の違いって――。

 被災地への支援金募集を始めた日本財団によると、支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。財団では、避難所へのトイレ設置、ボランティアセンターの運営などの使い道を想定している。

 一方、義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられるという。 「義援金と支援金の違い」は、日本財団のHP(https://www.nippon-foundation.or.jp/what/spotlight/tohoku_earthquake/infographics/)で、わかりやすく図解している。(小若理恵)

133NAME:2018/08/06(月) 22:49:13
水害、石碑の訴え届かず 明治に44人死亡の小屋浦地区
2018/08/05 05:03
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b0%b4%e5%ae%b3%e3%80%81%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%81%ae%e8%a8%b4%e3%81%88%e5%b1%8a%e3%81%8b%e3%81%9a-%e6%98%8e%e6%b2%bb%e3%81%ab%ef%bc%94%ef%bc%94%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1%e3%81%ae%e5%b0%8f%e5%b1%8b%e6%b5%a6%e5%9c%b0%e5%8c%ba/ar-BBLuJ6L?ocid=iehp#page=2

西日本豪雨で大きな被害が出た広島県坂町の小屋浦地区。海の近くまで山が迫り、天地(てんち)川沿いを中心に約800世帯が住む。被害が集中した地域には、100年以上前に44人が死亡した土砂災害を伝える石碑があったが、悲劇は繰り返された。 今回の豪雨で、天地川の河口から1300メートル上流の砂防ダムが崩壊し、土石流が集落を襲った。支流域も含め、地区全体で15人が死亡、1人が行方不明になった。うち上流の小屋浦4丁目の住民が10人、下流の2〜3丁目が6人。16人の平均年齢は78歳だった。

 この地区では1907(明治40)年7月にも大雨で土石流が発生し、甚大な被害が出たことがあった。町史などによると、その3〜4年後の10年と11年、2基の石碑が建立された。被災の生々しい状況が漢文で記され、死没者全員の名前が刻まれている。当初は河口付近にあったが、2004年にいずれも川沿いの公園に移設された。お年寄りがゲートボールを楽しむ一角だ。 4丁目の山あいに住む西山シマ子さん(87)は公園を散歩する時、石碑に手を合わせてきた。犠牲になった祖父母らの名前が刻まれているからだ。小さい頃から「この辺は100年に一度、大事(おおごと)がある」と聞いてきた。砂防ダムの完成は1950年。住民も材料の石を搬入する作業に加わり、「これで100年は持つ」と歓迎したという。

 天地川は堤防の幅が最大10メートルほどの小さな川で、流量も少ない。川の近くに住む女性(76)は泥だらけになった自宅の片付けに追われながら、「昔は泳いだり洗濯をしたりしていた。あんなに荒れた川は初めて見た」と話した。豪雨の後、石碑のことを思い出し、「前もこんなんじゃったんやろか」と初めて身をもって考えたという。 県によると、崩壊した砂防ダムは高さ11・5メートル、幅50メートルの石積み構造。15年2月の定期点検では「経過観察」とされ、補修の緊急性はさほど高くないとされた。県は今回の土石流で崩壊したのは、「せき止め可能な9千立方メートルを上回る土砂が押し寄せた」のが原因とみている。 一方、県は1基では万が一に対応できないとして、4倍の能力を持つ2基目を造る計画を10年以上前に策定していた。現在、工事用道路づくりに着手しているものの、本体着工の時期は決まっていない。その隙間を突くように、今回の水害は起きた。

© 朝日新聞 111年前の被害を伝える公園内の2基の石碑。その前のスペースは天地川をあふれさせた流木などの仮置き場になっている=2018年7月30日、広島県坂町小屋浦4丁目、遠山武撮影

坂町の坂郷土史会は明治の水害から100年が過ぎた08年7月、町内で「水害史料展」を開催し、「山や崖に囲まれた地形では、集中豪雨に遭遇すると被害は必至」と警鐘を鳴らしていた。ただ、同会副会長で地元に住む中屋敷康さん(78)は「実際に起きるとは予想もしなかった」と打ち明けた。 石碑を今の場所に移転させたのは住民組織の「小屋浦講(こう)連合会」。移転した後、お盆前に毎年、石碑周辺の清掃活動を続けてきたが、今年は見送る。会長の山下幸博さん(66)は言う。「川は長い間安全だったので大丈夫と思っていた。自然の恐ろしさを身をもって知った。災害はいつ起こるか分からない」(遠山武)

134NAME:2019/03/11(月) 19:11:11
【東日本大震災5年】
津波にのまれた父を思う…6歳の女の子は一度も髪を切ったことがない 「パパがなでた髪かもしれないから」
2016.3.11 10:30
https://www.sankei.com/affairs/news/160311/afr1603110017-n1.html

髪に宿るパパのぬくもり
宮城県塩釜市・高橋心陽(こはる)ちゃん(6)

 死者、行方不明者合わせて1万8千人を超えた東日本大震災は、発生から11日で5年となる。歳月は流れ、変わるものと変わらぬものが交錯する被災地。人々は胸にさまざまな思いを宿し、復興に向けて歩みを進める。

 「幼稚園で一番長いんだ」。お尻まで伸ばした髪をなびかせ、ほほ笑んだ。 宮城県塩釜市の高橋心陽(こはる)ちゃん(6)は、これまで一度も後ろ髪を切ったことがない。東日本大震災が起きたのは1歳の時。津波のことも、消防団員として避難を呼びかけながら亡くなった父、昌照(まさてる)さん=当時(37)=のことも、ほとんど覚えていない。

 仙台市の自宅にあった家族写真は津波で流された。「パパがなでた髪かもしれないと思うと、切れないんです」。母の陽香(はるか)さん(42)にとって、心陽ちゃんの髪は夫のぬくもりを残す大切な思い出だ。「ラプンツェルみたいに床につくまで伸ばしたい」。グリム童話に登場する少女に憧れる娘のため、冬は20分ほどかけて、ドライヤーで丁寧に髪を乾かす。

「こっちには来るな!」 「おむつが欲しいからそっちに行くね」「こっちには来るな!」。平成23年3月11日、仙台市宮城野区の消防団に所属していた昌照さんは、自宅に戻ろうとしていた陽香さんを電話で制止し、保育園に長男の真心(こころ)君(8)と心陽ちゃんを迎えに行くよう指示。これが最後の会話となった。

 昌照さんが乗っていたポンプ車は自宅から約150メートル離れた場所で大破して見つかったが、連絡はとれないまま。13日に避難先で知人と再会した陽香さんは、思わず泣き崩れた。「パパがいないの」。傍らでは子供たちが不安そうに見つめていた。「もう泣けない」。涙をこらえた。 夜、おぶっていた真心君がつぶやいた。「パパ、死んだんだよね」。思わず否定した。「パパ、生きてるから!」。自分に言い聞かせていたのかもしれない。息子は背中で泣いていた。

同月30日、自宅近くのがれきの中から遺体が見つかった。作業着の胸と肩には家族3人の名前をつなげた「真心陽香」の刺繍(ししゅう)。肌は土色になっていたが、確かに昌照さんだった。死因は頭部損傷。ヘルメットには亀裂が走っていた。

135NAME:2019/03/11(月) 19:11:29
 昌照さんは最後まで住民に「逃げて」と呼びかけ、消防団仲間に「家族を逃がせ」と促していた。夫らしい行動だったと思う。火葬を終え、骨壺に「心陽より軽いよ」と語りかけた。 宮城県塩釜市の実家に3人で身を寄せ、5月には事務職として務めていた仙台市の勤務先に復帰した。

 子供が泣いていても保育園に預け、会社へ向かった。他の子供が父親に迎えに来てもらう様子を見た真心君が、ぐっと何かを我慢するような表情を浮かべていたこともある。陽香さんも子供たちと離れるのはつらかったが、家計を支えるため懸命に働いた。 やがて、心陽ちゃんから一日に何度も「ねえ、ママ笑って?」と言われるようになっていた。笑顔が消えていたことに気付いた。「子供たちの成長を近くで見守りたい」。思い切って仕事を辞めた。

「なんでパパが死ななければならなかったんだ!」。今年1月、真心君が突然、布団で泣きじゃくり、枕をたたいた。震災後、自分から父の話をすることはなかった。父の記憶を封じようとしているのかは分からない。葛藤が垣間見えた瞬間だった。 髪を伸ばし続けてきた心陽ちゃんも時々、「切りたい」と言うようになった。「心陽に決めさせようと思いつつ、迷っている私がいる」と陽香さんは話す。

「今を生きるしかない」 子供の成長とともに訪れる変化を覚悟しながら、変わらないこともある。昌照さんが大切にしていた「556(こころ)」ナンバーの車を使い続け、両手には2つの結婚指輪。毎日、仏壇に「今日もこの子たちをよろしくね」と語りかける。

 今も、子供たちの進路などの重大な選択に向き合うとき「パパだったらどうするだろう」と昌照さんのことを考える。大人の男性にじゃれる子供たちを見ると「お父さんに甘えたいのかな」とも感じるが、周りには頑張っているシングルマザーがたくさんいる。自分の子供たちだけがかわいそうだとは思いたくない。 陽香さんは、避難所でのたった一度を除いて、人に涙を見せたことがない。「薄情だと思われるかもしれないけど泣いている暇はない。今を生きるしかないんです」(滝口亜希)

136NAME:2019/03/11(月) 20:30:04
唯一、手元に残されていた家族4人の写真。高橋昌照さん(右)の遺影になった =平成22年9月4日、仙台市(高橋陽香さん提供)

137NAME:2019/03/12(火) 00:56:10
引き渡した園児9人、津波で犠牲「自分がした判断は許されない」 震災8年、保育園長が語った後悔と教訓「保護者に園児は引き渡さないと決めた」
3/11(月) 6:42配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190311-00000017-asahi-soci
地図上で震災当日に避難した経路をたどりながらインタビューに答える大槌保育園の八木沢弓美子園長=岩手県大槌町

東日本大震災当日、保育園や幼稚園が保護者に引き渡した園児が、その後の避難中、津波にのまれて亡くなった例が相次ぎました。岩手県大槌町の認可保育園「大槌保育園」もそうでした。八木沢弓美子園長(53)は、8年を経て初めて朝日新聞の取材に応じ、胸に秘めていた後悔と問いかけを口にしました。そのわけとは――。

【写真】震災後、大槌保育園の仮設園舎で絵本の整理をする職員たち=2011年5月、葛谷晋吾撮影

 ――震災前から、熱心に避難訓練をしていたと聞きます。

 定期訓練とは別に、事前に職員にも知らせない抜き打ち訓練もしていました。一度はお昼寝中にいきなり始めました。 国の最低配置基準では保育士1人あたりでみる子どもの数は0歳児なら3人ですが、やってみると、1人で3人抱えるのは無理とわかった。そこで、給食の調理師や栄養士も含めてこの子をおんぶするのはこの職員、と担当を決めていました。

 町が一次避難場所として指定していた空き地は雨風もしのげず、子どもの足で歩いて15分はかかった。自治会と相談して、高台のコンビニを独自に津波避難場所と決め、5分で走って逃げる訓練を繰り返していました。

 ――震災当日は、そのコンビニにも津波が?

 当日は揺れを感じてすぐ、「地震です。先生のそばに集まって下さい。大丈夫、こわくないからね」と園内放送し、揺れが収まったらすぐ職員が園児に防災ずきんと上着を着せました。園庭に整列させ点呼をとる決まりになっていましたが、そんな時間はないと判断。職員20人で、110人ほどの子どもを準備できたクラスからすぐ避難させました。

 コンビニの駐車場にいると次々に保護者が迎えに来ました。約70人の子を引き渡した時点で、ふと水門の方を見ると、決壊し、電信柱がなぎ倒されていて津波と気づきました。 残った40人ほどの子どもと国道を駆け上がり、国道沿いの山の急斜面を四つんばいになって必死に登り、何とか助かりました。

 暗くなってきたころ火災が起こり、また内陸側へ避難しました。子どもたちは誰1人泣かず、しーんとして、街が津波にのみこまれ、火に巻かれる様子をじっと見ていました。歩いて迎えに来た保護者に全員を引き渡し終えたのは2日後のことです。

 ――一方で、当日、コンビニで引き渡した園児のうち9人が犠牲となりました。

 多くが保護者とともに亡くなりました。最後に引き渡した子は、遺体安置所で小さな右手を見たとき、すぐわかりました。保育士を辞めなければならないと思った。 今でも、その子が「こわい」と言って私の左足にしがみついていたあの日の感触がよみがえることがあります。ご遺族の気持ちを思えば、自分がした判断は許されないものです。

138NAME:2019/03/12(火) 00:56:32
 ――ほかの子どもたちに変化はありましたか。

 震災から半年後、親子遠足を計画した時、「行かない」という子がいて、子どもたちみんなで話し合うことになりました。その中で、初めて亡くなったお友達の名前が出ました。 ある年中の女の子が、「なんで津波が来たんだろう」と語り始め、「園長先生がさ、(犠牲になったTちゃんたちに)『おうちへ帰らないで!』って言えばよかったじゃん!」と言いました。初めてぶつけてきた本心でした。「Tちゃんに会いたい」と言って、私も含めたみんなで号泣しました。

 親族や家をなくした職員も多く、津波の話は避けていましたが、正直に向き合わない大人たちの心を見抜いていたのです。 子どもの代弁者は大人だけど、大人の代弁者も、子どもたちだと気づきました。言えないことを言ってくれた。以来、私たちも、悲しいときは保育中でも「あの子のこと思い出して泣いちゃったよ」と言って泣き、感情を出すことから逃げないようになりました。

 津波ごっこ、地震ごっこといった遊びも最初は多くて戸惑いましたが、喪失感に打ち勝とうとする子どもの自然な反応だったと思います。 さらに半年経つと、年長児が、クラス全員の写真を飾りたいと言ってきて、部屋の一角にその場所を設けました。子どもたちは、写真の前に給食やおやつをお皿にのせて一口ずつ出して、あげていました。

 ――震災後に園で決めた災害時への備えは?

 いつでも避難できるように昼寝時のパジャマへの着替えをなくし、入園式の時には、保護者の方たちに「引き渡しはしません」と明確に言って了解を得ています。何度も職員どうしで話し合って決めたことです。

 ――全国では、災害時を想定して保護者全員が迎えに来るのを待つ「引き渡し訓練」を実施している園も多いです。

 震災後、ある地域で講演で呼ばれた時に、そういった訓練があることを初めて知りました。なんで引き渡すんでしょう? 海から200メートルの園の園長に質問を受けた時、「立地的にうちの園で全員を守るのは難しいから、すぐ親に引き渡せばいいんですよね」とおっしゃっていて、危機感を感じました。

 津波などの災害時、安全な場所や避難経路は刻々と変わります。現場にいる私たちが、そのつど判断をし、行動をとらないと、子どもの命を守ることはできません。迎えに来る保護者が、途中で被災するリスクもあるうえ、前線で誰かを助けなければならない仕事の保護者もいるでしょう。保育園や幼稚園に子どもがいる間は、そこにいる大人は100%子どもを守るというスタンスに立たないといけない。

 ――ただ、施設側が誤った判断をした場合、引き渡さないと逆に命が守れない危険もあるのでは。教員と避難中に児童が犠牲になった大川小の例もあります。

 もちろん、津波などの水害と他の災害は違いますし、保護者の理解も必要です。全国全ての園で引き渡しが100%よいとは思っていませんが、うちの園では引き渡さないことが「ベスト」だと思う。 (犠牲になった)9人のことを思い返しながら、職員どうしで何度も話し合って決めました。 子どもの命を預かる施設で、どう対応するかを本気で議論するのは完全に大人の仕事で、大人の責任です。私は、自分の判断の責任を一生背負っていかなければならないと思っています。(聞き手・田渕紫織)

139NAME:2019/03/12(火) 02:59:59
「苦しかったろう」 7年9カ月後、帰ってきた妻の遺骨
志村英司 2019年3月11日18時00分
https://digital.asahi.com/articles/ASM3B4HSFM3BUNHB00C.html?_requesturl=articles%2FASM3B4HSFM3BUNHB00C.html&rm=584

 宮城県気仙沼市の佐藤信行さん(68)の元に昨年12月、7年9カ月を経て、妻の才子さん(当時60)の遺骨が帰ってきた。11日、市主催の追悼式で「家族とすべての財産を失いましたが、人とのつながりが財産になりました」と語った。

杉ノ下地区で才子さんと母親のしなをさん(同87)と暮らしていた。妻は家業のイチゴ作りを支え、子ども3人との旅行を楽しみにしていた。 あの日、家に残った2人は市の指定避難場所だった高台に逃げたらしい。だがさらに5メートル以上も高い津波が襲い、地区全体では住民の3割にあたる93人が犠牲になった。

 母はほどなく遺体で見つかった。佐藤さんは毎日のように海岸を歩き、才子さんを捜した。ため池の水を抜き、防潮堤の工事業者に頼み込んで海岸を重機で掘り返してもらった。青森の恐山では、才子さんを口寄せしたイタコが「何かに挟まれて身動きできない。捜さなくていい」と言った。諦めきれず「骨のかけらでも見つかれば区切りがつくから」と捜索を続けた。

 昨年秋、工事業者が、高台から500メートルほど離れた海岸の消波ブロックの陰から、ほぼ全身の骨を見つけた。DNA型や歯型などを照合し、才子さんと分かった。遺骨を警察署で受け取り、「苦しかったろう、つらかったろう、悔しかったろう」と声をかけた。その晩、1人で暮らす災害公営住宅で缶ビールを開け、遺影に向き合った。

 11日朝、冷たい雨に打たれながら、高台の慰霊碑に手を合わせた。 「これまでの3月11日とは違い、うれしいというか。妻も成仏できる。仕事に励むことができる」

 地区は災害危険区域に指定され、家は再建できなくなった。代表を務める農業法人のビニールハウスや農場は広がり、従業員は34人。イチゴは昨年から再び収穫が始まった。 骨が見つかり、身元が判明するケースは減っており、この1年では才子さんを含め2人。杉ノ下地区では十数人の行方が分かっていない。 「早く家族の元に帰れるといい。まだ前を向けない人が大勢いるのも、震災から8年の事実だ」(志村英司)

140NAME:2022/03/12(土) 00:38:58
ただ会いたい 大川小で次女亡くした鈴木典行さん 震災11年
2022/3/11 21:34
本江 希望
https://www.sankei.com/article/20220311-EM5NACF33BMCZMVFVW4MLUF2EA/

津波で教職員と児童84人が犠牲となった石巻市立大川小。6年生だった次女の真衣さん=当時(12)=を亡くした。 今年も3月11日がきた。時計の針が午後2時46分をさした。鈴木典行(のりゆき)さん(57)は遺族らの輪を離れ、近くの山裾まで駆けた。ピンク色のスイートピーの花束をそっと、置いた。サイレンが響いた。

「怖い思いをしたんだろうな。元気に帰ってきてほしかったな」 平成23年3月13日、震災から2日後。がれきが散乱する学び舎。山裾の土を手で少しずつ、かき分ける。たくさんの子供たちが土の中から見つかった。真衣さんの姿もあった。 「立っている状態で、眼鏡もかけたまま。眠っているだけで、起きるんじゃないかと思った」 「真衣!」典行さんは叫んだ。返事はなかった。

× × ×

「バスケやったらいい? バレーやったらいい?」 中学の入学を控え、部活の選択に迷っていた真衣さんは典行さんに尋ねた。 好きな方をやればいいと伝えると、「じゃあバスケ」と真衣さんは答えた。 典行さんはミニバスケットボールチームのコーチをしていた。練習場所は大川小の体育館。真衣さんもそのチームの選手で、背番号7番、フォワードだった。 「お父さんがコーチだったのは、嫌だっただろうな、みんなの前で叱られるのも嫌だったと思う」

震災前の2月に行われた試合で真衣さんは突き指をした。「痛いんだったら替えるぞ」。典行さんが厳しく言うと、「頑張る」と、泣きながらコートに戻った。試合に勝ち、真衣さんに笑顔が戻った。 仲が良かった、と思う。車で出かけるとき、真衣さんはいつも助手席に座った。こたつでテレビを見ていると、もたれかかってきた。いつも、そばにいたがった。

× × ×

震災遺構として、昨年7月から一般公開が始まった大川小の校舎だが、保存か、解体か。意見が割れたこともあった。 遺族会の会長だった典行さんは、すべてを残したいと思っていた。大川小で被災した卒業生からも保存を求める声が上がり、建物全体の保存が決まった。 親世代が担ってきた伝承を卒業生ら若い世代が受け継ぐことに期待している。 震災から11年。大川小を取り巻く環境も変わった。それでも変わらない思いがある。 「真衣に会いたい。ただ、抱きしめたい」(本江希望)

141NAME:2022/03/12(土) 02:25:47
「なぜ助けてくれなかったの」 津波に奪われた命…夫婦に亀裂 子供3人が犠牲に 遠藤綾子さん(48)
2017/3/10 13:50
https://www.sankei.com/article/20170310-WKHSFPMO55NJRETQJC5MU622KQ/?ownedutm_source=owned%20site&ownedutm_medium=referral&ownedutm_campaign=ranking&ownedutm_content=%E3%80%90%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%20%E9%81%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%88%B6%E6%AF%8D%E3%81%AE%EF%BC%96%E5%B9%B4%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89%E3%80%91%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%8A%A9%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%80%8D%20%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E3%81%AB%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%91%BD%E2%80%A6%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E3%81%AB%E4%BA%80%E8%A3%82%20%E5%AD%90%E4%BE%9B%EF%BC%93%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%20%E9%81%A0%E8%97%A4%E7%B6%BE%E5%AD%90%E3%81%95%E3%82%93%EF%BC%88%EF%BC%94%EF%BC%98%EF%BC%89

東日本大震災の発生から11日で6年となる。震災で最も多くの犠牲者を出した石巻市に暮らす遠藤さん一家は、津波で3人の子供すべてを亡くした。子に先立たれた父と母が生きてきた6年を追った。 「花ちゃんと奏(かな)ちゃんは助からなかった。侃太(かんた)君はまだ見つかっていない」

 宮城県石巻市渡波地区の遠藤綾子(りょうこ)さん(48)。JR石巻駅から数キロ離れた市内の病院に勤めながら、中1の長女、花さん=当時(13)=、小4の長男、侃太君=当時(10)=、小2の次女、奏ちゃん=当時(8)=を育てていた。 あの日、勤務先で激しい揺れに見舞われた。ロッカーに置いていた携帯電話を確認すると侃太君と奏ちゃんが通う市立渡波小から一斉メールが届いていた。 「侃太と奏は学校にいるなら大丈夫」「中学は午前中だけだから、花は家にいるはず」

 急いで自宅へ戻ろうとしたが、市役所の本庁舎にたどり着くのがやっとだった。交通機関はまひし、駅前一帯は冠水していた。身動きが取れず、庁舎内で二晩を過ごした。自家発電でテレビを見ることはできたが、自宅周辺の様子についての情報はまったくなかった。自宅へ向かおうとすると、市役所の渡波支所から本庁舎へ戻ってきたという人に声をかけられた。 「希望を捨てないで」

「皆、変な顔でこちらを見ているんです」 3日目の夕方、綾子さんは庁舎から10キロ弱離れた渡波小の体育館に到着し、侃太君と奏ちゃんを捜した。遠藤さん親子を知る避難者たちは、綾子さんの姿を捉えても、誰一人として声をかけようとしなかった。 しばらくすると、綾子さんの遠縁に当たる女性が歩み寄り、現実を告げた。 「何を言っているのか分からなかった…」

 娘2人が安置されているという自宅近くの渡波保育所へ、がれきをかき分けて歩いた。 保育所には近隣住民が数人避難していた。夫の伸一さん(48)と合流したのもつかの間、横たわる花さんと奏ちゃんが目に飛び込んできた。2人の変わり果てた姿に、ただ泣き崩れた。 「そのときの感情を覚えていない」。現実を受け入れられず、眠れない日々が続いた。口にしたカップ麺は紙のような味にしか感じられなかった。

 「子供たちと一緒に死んでいればよかった」 それから毎日、侃太君を捜して保育所と自宅跡地を往復し、がれきの山を歩き回った。1週間後、自宅のあった場所の近くで侃太君も見つかった。侃太君は左脇に年賀状を挟んでいた。自衛隊員が発見し、あて名を頼りに綾子さんの元にたどり着いた。

 津波が奪った子供たち全員の命。その後、左耳が聞こえなくなった。震災発生から約2カ月後、「突発性難聴」と診断された。 震災当日、市立渡波中1年生だった花さんは卒業式のため午前中だけ登校し、地震の直前は自宅横の別宅で伸一さんの母親と2人で一緒にいた。渡波小に通う侃太君と奏ちゃんは地震発生直後、学校で待機していた。

 学校には保護者が次々とわが子を引き取りに訪れた。市内で仕事中だった伸一さんも侃太君と奏ちゃんを迎えに行き、2人を母と花さんの元へ送り届けた。 伸一さんはその足で連絡の取れなくなった親戚の様子を見るために家を離れた。程なくして巨大津波が襲来した。3人の子供たちと母が身を寄せていた家は、家屋の土台ごと押し流された。 「なぜ助けてくれなかったの…」。最愛の子供たちを失った綾子さんの悔しさや悲しみは、強い感情となって伸一さんに向かった。 「このまま夫婦でいられるのか」

142NAME:2022/03/12(土) 02:30:13
生きていく 遺された父母の6年
(中)子供3人が犠牲に 遠藤伸一さん(48)
2017/3/10 07:04
https://www.sankei.com/article/20170310-XBKHPVK4HBK7DAGPJMJHK4IPMI/

■「守れなかった」自分を恨み 消えぬ後悔「生き地獄」 「父ちゃんなのに守ってやれなかった。生きていてもしようがない」

 津波の犠牲となった遠藤花さん=当時(13)、侃太(かんた)君=当時(10)、奏(かな)ちゃん=当時(8)=きょうだいの父、伸一さん(48)は宮城県石巻市の渡波地区出身の木工職人だ。震災のあった日は市内の漁港で改修工事をしていた。仕事が終わり現場を去った直後、大地震に遭った。

 帰宅しているはずの花さんが心配で、急ぎ自宅へ向かった。自宅横の別宅に伸一さんの母と一緒にいた花さんを確認すると、伸一さんはそこから侃太君と奏ちゃんがいた市立渡波小へ歩いて向かい、2人を花さんのいる母の家に連れ帰った。築30年超の母屋より、新しい別宅が安全と考えた。3人の子供を母に預けた後、連絡が取れなくなった親戚の様子を見にトラックで別宅を後にした。

 伸一さんは女川街道(国道398号)を西進中に津波に襲われた。トラックから飛び出し、流れてきた家屋につかまったまま濁流にのみ込まれた。掛けていた眼鏡はなくなり、周囲がはっきり見えなくなった。 がれきに押され、近くのコンビニの建物にぶつかって止まった。身動きが取れない中、海水は顔まで迫っていた。何時間たっただろう。水が引き始めると同時にがれきの重みが身体にのしかかった。身をよじりながら抜け出した。

 歩いているとたき火が見えた。自宅近くの渡波保育所だった。数人が避難していたが、「皆震えて無口だった」。子供たちを預けた別宅へ向かおうとするが、がれきの山と暗闇で一歩も動けない。後に分かったが、このとき右足首を骨折していた。くぎを踏み抜いて両足も血だらけだった。 「誰かいませんかー」

 翌朝、がれきの棒をつえ代わりにして子供たちを捜し歩いた。しばらくすると母の泣き声が聞こえた。 「奏ちゃん冷たいんだ、冷たいんだ…」。その腕には冷たくなった孫が抱かれていた。 「子供たちを家に戻さなければ、生きていたのに…何やってるんだ」。自分を恨んだ。別宅は土台ごと流されていた。同じ日に、花さんも別宅のがれきの中から見つかった。8人がかりで保育所へ運び入れた。 伸一さんは花さんと奏ちゃんのそばに毎日寄り添った。涙が止まらなかった。「何で守ってやれなかったのか。生き地獄だった」と振り返る。

 それでも、「侃太が見つかるまではくたばるわけにはいかない」と気力を振り絞った。複数の遺体安置所を回った。遺体の顔を覆う布を一枚一枚まくり、知らない人の死に顔もたくさん見た。1週間後、自衛隊員が自宅近くで侃太君を発見した。自分の人生などどうでもよいと絶望した。

 震災から1カ月半ほど、避難所に身を寄せた。「忙しくさせておかないとよからぬことを考えるだろう」。保育所に避難した人たちは伸一さんを気遣い、避難所運営のリーダー役を任せた。がれきから拾い集めた建材で風呂釜を作り、避難者同士で分け合う食料を捜し歩いた。 ある日、市役所から知らせがあった。「仮土葬が決まりました」。避難所を出て東松島市のみなし仮設住宅に夫妻そろって移った後には「火葬の日程が決まりました」と連絡があった。だが、どんなにせわしなく過ごしても、悲しみや無念さは薄れなかった。

 妻の綾子さん(48)が伸一さんに対し「子供たちといながら、なぜ助けられなかったのか」と思っていたことにも気付いていた。「俺を恨まなきゃ生きていけなかっただろう…」と妻を思いやる伸一さんだが、震災直後は一緒にいることすらつらかった。日付が変わるまで工房で仕事をし、妻が眠るころに帰宅する日々を過ごした。

143NAME:2022/03/12(土) 02:41:07
絶望の淵から希望つかむ 石巻市須江・遠藤伸一さん(52)
石巻Days 〜未来都市の生き方〜
2021年3月17日 16:12
https://note.com/hibishinbun/n/n73cdddf1f307

石巻市須江の復興公営住宅に夫婦で住む遠藤伸一さん(52)。震災の津波で3人の子どもたちを失い、自らも津波に飲まれて九死に一生を得た。深い悲しみの中でも渡波保育所に避難していた地域住民に支えられ、避難所代表として未曽有の大災害と向かい合った。「人とのつながりがこれまで生きてこられた糧」と話す。地域、支援者とのつながりは今も変わらず、遠藤さんは復興支援団体「チームわたほい」の代表も務める。【渡邊裕紀】

 遠藤さんは震災当時、石巻市長浜に在住。東松島市大塩の工場で木工を生業とし、あの日は石巻市内で水産会社の改修工事を終えた直後だった。家族の安否が気になり、車で家に戻ったところ母親恵子さん(当時68)、長女花さん(同13)がおり、2人を確認した後、長男侃太さん(同10)、次女奏ちゃん(同8)の通う渡波小学校に向かった。

 2人を車に乗せて家で降ろし、次は親せきの様子を見に出た途中、津波に遭遇した。車を捨てて流れてきた屋根につかまり、何とか水面に顔を出した。店の外壁とがれきの間で挟まれ、押しつぶされないように祈るしかなかった。右足を骨折するが、何とか生き延びることができた。

 「周りを見渡しても人の気配はなく、生きているのは自分だけかと思った」。がれきをかき分けて近くの渡波保育所まで歩き、他の避難者と共に一夜を過ごした。保育所は2階が無事で布団が使える状態だった。

「今を生きる子どもたちのためにできることはある」と話す遠藤さん

 翌朝、家に向かう途中のがれきの中から声が聞こえ、恵子さんを見つけた。一緒にいた奏ちゃんは息がなく、自宅の室内からは花さんの遺体も見つかった。民間病院に勤めていた妻綾子さん(52)とは3日後に再会し、無事が確認できたが、それから1週間後、遺体安置所で侃太さんと対面した。 子ども3人を全て失い、遠藤さんは絶望の中にいた。「そんな私を支えてくれたのは、臨時避難所になった渡波保育所にいた人たちだった」と振り返る。

 遠藤さんは避難所で代表となり、生きるために奔走。23年10月にここの避難所は解消されたが、ここで生まれた絆を絶やしたくないと、支援者や地域の人たちとで「チームわたほい(渡波保育所)」を発足。被災者の見守り活動やイベント開催など、震災で大きな傷を負った地域や人々を支え続けた。

 遠藤さんが代表を務める木工工房(株)木遊木は、テイラー文庫の本棚など、これまで被災地に多くの木工品を届けてきた。その中でも遊具である「虹の架け橋」には、特別な思いがある。「虹はつかめない。子どもたちと生きることをつかめなくなった自分に重ね、流した涙の後に出た虹が人とのつながりを作ってくれたという思いを込めている」と話す。 遠藤さんは震災で親を亡くすなど心に傷を負った子どもたちを支える「こころスマイルプロジェクト」にも力を注ぐ。

子どもの心のケアは 1段目

 震災復興を10段の階段で問うと「ハード面ではほぼ10段。でも子どもたちの心のケアはまだ1段目」。遠藤さん自身は「3人を亡くした事実があり、0段だと思う。ただ、そこから多くの人とつながり、助けられたことでこれまでとは違う階段を上っていると感じる」とした。 震災時に支援を受けた子どもたちは今、積極的に支援する側に回っているという。「思いを受け継ぐ若い世代がいる。石巻の未来は必ず良くなる」と期待を込めた。

144NAME:2022/03/13(日) 23:56:17
遠藤花さん(えんどう・はな/当時13歳) 侃太くん(かんた/当時10歳)奏ちゃん(かな/当時8歳)
宮城県石巻市

3人は、自宅の隣りの祖母の家に避難している時に津波に巻き込まれました。父親の伸一さんは木工作家で、3人とも伸一さんの仕事や作品が大好きでした。
https://www.nhk.or.jp/kokorophoto/photo/137.html

145NAME:2023/02/19(日) 15:50:24
略奪や強盗…被災地で治安悪化、救助活動中断も トルコ・シリア地震
毎日新聞 によるストーリー • 2月12日
https://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E7%95%A5%E5%A5%AA%E3%82%84%E5%BC%B7%E7%9B%97-%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E3%81%A7%E6%B2%BB%E5%AE%89%E6%82%AA%E5%8C%96-%E6%95%91%E5%8A%A9%E6%B4%BB%E5%8B%95%E4%B8%AD%E6%96%AD%E3%82%82-%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%9C%B0%E9%9C%87/ar-AA17o9pZ

トルコ南部を震源とするトルコ・シリア地震の被災地では一部で治安が悪化し、救助活動の妨げとなっている。トルコ治安当局は11日、略奪や強盗、詐欺などの容疑で少なくとも98人を逮捕。住民同士の衝突も発生している模様だ。ドイツやオーストリアの救助隊は、治安の悪化を理由に活動を一時中断した。

トルコ国営アナトリア通信によると、南部ハタイ県では損壊した建物から略奪をした疑いで少なくとも42人が捜査を受けた。治安当局は少なくとも40人を逮捕し、銃やライフル、宝石類、銀行カードなどを押収した。同県では支援者を装って被災者向けの食料を略奪しようとした疑いでも2人が逮捕された。 西部イスタンブールでは、南部ガジアンテプ県の被災者に電話をかけて金をだまし取ったとして少なくとも6人が逮捕された。他にも各地で強盗などの容疑による逮捕者が相次いだ。

 ドイツの公共放送ドイチェ・ウェレなどによると、ハタイ県でグループ同士の衝突が発生しているとして、ドイツの援助団体などは11日、同県での活動を一時停止した。団体はこの状況について「食料不足や水の供給問題に起因している」と述べた。オーストリア軍の報道官も治安状況の悪化で活動を一時中断したと明らかにした。その後、トルコ軍が治安維持に乗り出したため、救助活動は再開可能になったという。 トルコ・シリア地震では、これまでに2万8000人以上の死者が確認されている。【松岡大地】

146NAME:2023/07/16(日) 07:38:11
三陸鉄道、クウェートの復興支援に感謝示す列車運行
東日本大震災10年 2021年3月1日 18:40
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFB017KP0R00C21A3000000/

岩手県沿岸部を縦断して結ぶ三陸鉄道(同県宮古市)は1日、東日本大震災発生から10年を迎えるのを前に、被災した車両の新造などで復興を支援したクウェート政府に対し、新造した車両8両にヘッドマークを掲げるなどして感謝を示す列車の運行を始めた。3月末まで運行する予定。

三陸鉄道はハサン・モハメッド・ザマーン駐日クウェート大使(右から3人目)を出発式に招き、復興支援に感謝する列車の運行を始めた(1日、岩手県宮古市)

初日のこの日は駐日クウェート大使のハサン・モハメッド・ザマーン氏夫妻を招いて宮古駅で出発式を開催。中村一郎社長が「震災では壊滅的な被害を受けたが、クウェートからの力強い支援が大きく貢献して運行再開できた」と謝意を示すと、大使は「三陸鉄道が人々を再びつなげる役割を果たし、復興や未来への希望のメッセージを発信し続けることを願う」などと語った。

被災後、三鉄は同国の支援を受けてお座敷車両とレトロ調車両各1両を含む計8両を新造。この8両を復興支援への謝意を示す列車として同国への謝意を示す4種類のヘッドマークを掲げて今月末まで運行するほか、14日まで宮古駅の窓口担当など一部の社員が同国の民族衣装を着て執務するなどして利用客にクウェートの復興支援を知ってもらう。

また、大使夫妻はこの日午前、岩手県庁を表敬訪問。達増拓也知事は「三陸鉄道が震災からの復旧を果たす力強い姿が復興のシンボルとして被災地を勇気づけた」など、同国の支援に対する謝意を述べた。

2011年の震災では、クウェート政府は日本政府に原油500万バレルを寄贈。日本政府はこの支援をもとに日本赤十字社を通じて被災した各県に交付金を配分した。

岩手県には支援金として84億円が充てられ、三陸鉄道にはこのうち約20億円が配分された。三鉄は被災車両の新造のほか、津波で流された島越駅の再建や十府ケ浦海岸駅の建設などに活用した。

150NAME:2023/08/10(木) 08:31:50
ジェーン・バーキンさんは心のこもった親日家 忘れられないインタビュー中の涙 
[2023年7月17日5時1分]
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202307170000002.html

ジェーン・バーキンさんをインタビューしたのは6年前の夏だ。東日本大震災の支援公演以来6年ぶりの来日だった。 

宿舎は東京・神楽坂の知る人ぞ知る瀟洒(しょうしゃ)なホテルで、招待元のメールを頼りにようやくたどり着けたが、そこが彼女の定宿ということだった。半世紀近いという「親日家ぶり」がうかがえた。 白Tシャツにさりげなくロールアップしたジーンズ、紺のコンバースのスニーカー姿はイメージそのままだった。初対面にもかかわらず、喜怒哀楽を隠さない。時に声を上げて笑い、この4年前に長女の写真家ケイト・バリーさんが急死したことに話が及ぶと涙がほおを伝った。 開けっ広げな「カリスマ」に思わず引き込まれた。○○○○社の社長が、飛行機で隣り合わせただけで、その名を冠したバッグの製作を懇願した理由が分かった気がした。

東日本大震災の一報をフランスで聞いた時、バーキンさんは間を置かずに飛行機に飛び乗ったという。 「日本行きの便はガラガラでした。46年前に次女(シャルロット・ゲンズブール=映画監督)がおなかにいたときに来て以来、日本には特別な思いがありました。避難所ではものすごくつらいはずなのに、レジ袋ひとつ分の生活物資しかなくても、皆さん心穏やかに過ごされていました」

当時バーキンさんはがん治療のさ中だったこともあり、周囲の反対を押し切っての来日だった。行動力に驚くとともに、言葉の端々に日本への深い理解がうかがえて、感激したことを思い出す。

長女ケリーさんが亡くなったのは震災の2年後。「人生で一番のショックでした。その時、震災後の海岸で『孫を(津波に)さらわれた』と遠くを見ていた女性の姿を思い出したんです」 バーキンさんのほおを涙が伝ったのはこの話をした時だった。

亡夫がフランスの著名歌手セルジュ・ゲンズブールだったとはいえ、英ロンドン生まれの彼女がほとんど英語を聞き取れなくなっていることにも驚かされた。通訳を挟んで、インタビューはフランス語で行われ、終了後に英語で話しかけると、何度も聞き返された。こちらの発音の問題かと思ったら、本人が「今はフランス語オンリーなんですよ」と照れながら明かした。

あけすけな感情表現は確かにフランス的なのかもしれない。○○○○の代表的なバッグに名を冠され、仏文化省からその死が発表されたことになんら不自然さを感じないのはそのせいかもしれない。【相原斎】

151NAME:2024/01/17(水) 21:34:01
「岸田政権は鬼か」能登地震被災者への20万円「特例貸付」1週間後にスタートの“遅さ”に国民は猛反発
SmartFLASH によるストーリー • 1 日
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AF%E9%AC%BC%E3%81%8B-%E8%83%BD%E7%99%BB%E5%9C%B0%E9%9C%87%E8%A2%AB%E7%81%BD%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE20%E4%B8%87%E5%86%86-%E7%89%B9%E4%BE%8B%E8%B2%B8%E4%BB%98-1%E9%80%B1%E9%96%93%E5%BE%8C%E3%81%AB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE-%E9%81%85%E3%81%95-%E3%81%AB%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AF%E7%8C%9B%E5%8F%8D%E7%99%BA/ar-AA1n3kii

1月14日、避難所となっている石川県輪島市の中学校を訪れた岸田文雄首相(中央)(写真・時事通信) 能登半島地震の発生から、2週間が過ぎた。石川県は1月15日までに死亡者222人、安否不明者22人と発表している。

「救助活動をおこないながら、次のステップである復旧と復興を視野に入れる段階になりました。政府は被災地支援のため、予備費から47億4000万円を支出することを決め、第2弾として、1000億円を上回る規模の支援を表明、さらに『予備費を5000億円から1兆円に倍増する』とも明言しました」(政治担当記者)

とはいえ、発生からすでに2週間が経ち、実際に「いつ、支援が始まるのか」がわからない。ジャーナリストの池上彰氏も15日放送の『大下容子ワイド!スクランブル』(テレビ朝日系)で「スピード感を持ってほしいですね」と苦言を呈したように、岸田政権の対応の遅さは目にあまる。

その最たるものが、厚生労働省が都道府県知事に通達した「緊急小口資金の特例貸付」である。緊急を要して、一時的に生計の維持が困難になった低所得者世帯などに生活費を貸しつける制度を、特例として能登半島地震の被災世帯を加えることを決定したのが、発生から1週間以上経った1月9日のことだった。

この制度、貸付金額は原則10万円以内だが『世帯員の中に死亡者がいる』『世帯員に要介護者がいる』『世帯員が四人以上』『重傷者、妊産婦、学齢児童がいる』などの場合は20万円以内になり、所得要件などはない。ただし、貸付なので返済義務がある。据え置き期間1年の経過後2年以内なので、3年で返済しなければならない。

厚労省は「事情により猶予措置はあります」というが、これに世論が猛反発。SNSには《住むところも失い家族も失い20万貸付って岸田政権と厚生労働省は鬼か》《こんな酷い政府聞いたことないぞ》と、怨嗟のコメントが寄せられた。

さらに国民感情を逆なでしたのが、1月14日に被災地入りした岸田文雄首相が「被災世帯へ緊急小口資金の特例貸付を、1週間後をめどに速やかに受付を開始する」という発言である。

「地方自治体が受付窓口になるのですが、その自治体が被災して混乱しています。そのため、ある程度の準備期間が必要になるのはわかりますが、地震から3週間経っての『受付』というのは、いくらなんでも遅すぎます。このあと、支給されるまでどのくらいの日数が必要になるのでしょうか。生活資金がまったくない被災者がほとんどです。政府の対応は冷たすぎます」(週刊誌記者)

SNSにも《貸付けって悪魔》《厳しいなこれ。一年や二年で生活が安定するとは思えないんだが》と、岸田政権に対する怒りであふれていた。「被災者に寄り添う」という岸田首相の言葉を、みな信じることができない。

152NAME:2024/01/17(水) 22:34:29
岸田首相、地震の被災者に「最大20万円貸します」であふれる憤激「こんなひどい政府聞いたことない」
1/11(木) 18:04配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/49c73339a7e4bdc3dab125d2c197eb9274bedfae

能登半島地震が発生してから10日が過ぎた。石川県によると、1月10日午後2時の時点で、県内で206人の死亡が確認されたという。また、安否がわからない37人の氏名や年齢などを公表、情報の提供を求めている。

【写真あり】「ボクらのパパ」と一言が添えられた卒業アルバムに載る数少ない岸田氏の写真

 余震は続き、ライフラインの復旧も数カ月かかると言われるなかで、心配されるのが被災者の生活再建だ。そのためには生活資金の確保が欠かせない。 厚生労働省は10日までに、低所得者世帯などに生活費を貸し付ける「緊急小口資金」の対象に、特例として能登半島地震の被災世帯を加えることを決定した。

 厚労省のホームページによると、貸付金額は原則10万円以内だが、「世帯員の中に死亡者がいる」「世帯員に要介護者がいる」「世帯員が4人以上」「重傷者、妊産婦、学齢児童がいる」などの場合は20万円以内になるという。所得要件などはない。「返済は、据え置き期間1年の経過後2年以内なので最長3年となりますが、厚労省によると『猶予などにも柔軟に対応しますのでご相談ください。利子はつきません』とのことです。

 当面の生活費として助かるのは間違いありませんが、被災して避難する状況では手続きもままならないはずです。申込書を直接、市区町村社会福祉協議会に出すのですが、役所も混乱しているでしょうから、使い勝手がいいとも思えません」(経済担当記者)

 「X」には《住むところも失い家族も失い20万貸付って岸田政権と厚生労働省は鬼か》《被災地では仕事も無いし働く事も不可能 借金だなんて悪魔の所業だ》《こんな酷い政府聞いたことないぞ》 などのコメントが寄せられている。ニュースサイトのコメント欄にも、《返済しなければいけない貸し付けだから、生活の目途が立たない中で、安易には借りられないと躊躇する人もいるはず。この緊急小口資金は、大半の被災者に利用されない気がする》

《海外にあんなに義援金配ってるのに 国内にはたった20万のしかも貸付? この物価高に何を考えたらこの金額が出るのですか? もう少し検討してあげてください》 など、その少なすぎる金額に批判が集まっていた。 「被災地の現状や課題などを把握することが重要だ」と意気込んでいた岸田首相の姿勢のあらわれが「20万貸付」だとしたら、被災者にあまりにも冷たすぎる。

153NAME:2024/03/01(金) 14:17:42
85・2%「今後も同じ市町で」 被災者の住みたい場所 北國新聞社アンケート(上)
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6493298
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240301/k10014375261000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/special/saigai/select-news/20240205_01.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240301/k10014374881000.html


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