したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

日 本

1NAME:2012/03/15(木) 23:49:39
野田首相、がれき受け入れ自治体に財政支援の意向
2012/3/ 5 12:27
http://www.j-cast.com/2012/03/05124302.html

野田佳彦首相は2012年3月4日夜、日本テレビの番組に出演し、東日本大震災の被災地のがれきの処理について、「広域処理で応援してくれる自治体にも、国が全面に出て財政的に対応していく」と述べ、財政支援を行う意向を表明した。政府は14年3月末までにすべてのがれきを処理することを目標にしているが、現時点で処理が完了したがれきは全体の5%程度にとどまっている。

↑ 本来ならば、国が、率先して放射能検査を行い→受け入れを斡旋していくべきだがそんなことをこの政権がするわけがない。
民主党は、日本のために頑張らない、韓国の傀儡政権なので、震災復興を頑張らない。

983NAME:2019/12/16(月) 21:29:19
 半蔵門のところまで来ると、両側から銃剣の兵隊さん達が私の車をとりまき「これから先は行くことが出来ないから戻ってくれ」という。私はそのときはまだこの兵隊さん達が叛乱部隊の人達とは思わなかったのであって、実は、首相官邸等を襲撃した連中は、五・一五事件のときのように、襲撃後はすぐ引き上げて、その後を警備しておる正規の兵隊さん達だとばかり思い込んでいたのである。

 それで、私はこの人達に名刺を出して「これから検事局に登庁するのだから通してもらいたい」と頼んだが、中々承知してくれない。2、3押問答をしておるうちに、1人の下士官が「何だ何だ」といいながら出てきた。私が前に血盟団事件や五・一五事件(民間側)の主任検事であった関係で陸海軍部内でも多少私の名前が知られておったためか、その下士官も私の名前を知っておったらしく「木内検事殿ですか、それなら通ってもよろしい。しかし、車のままでは困るからこれから先は歩いていってもらいたい」というので、私は車をすてて三宅坂に向って歩いていった。
まかりまちがえば突き殺された

 三宅坂のところまで来ると、また銃剣の一隊にとりまかれ、これから先は通せないから戻れといって聞き入れてくれない。それで、私は「半蔵門のところで通してくれたのだし、桜田門は眼の前であるから」といって更に頼むとやっと承知してくれたので、どうやら無事に検事局に着くことができた。 三宅坂のところでは、参謀肩章をつけた陸軍の将校連中が大勢銃剣の一隊に阻止されて陸軍省や参謀本部に入ることが出来ずにウロウロしていた。

 検事局に着いてから警視庁に連絡して色々報告を聞いて見ると、これらの兵隊さん達は叛乱部隊であって、襲撃後もそのまま占拠しておるのだということが判り、私も知らぬが仏で、これらの兵隊さん達に力んで来たが、まかりまちがえば突き殺されたかも知れなかったと思い冷汗をかいた次第である。警視庁も叛乱部隊に占拠されておって小栗一雄警視総監以下警視庁の幹部は既に神田錦町警察署に移っていたのである。
機関銃の弾94発が命中していた渡辺大将

 これから、私は二・二六事件の民間側の主任検事としてこの事件の捜査に当ったのは勿論、戒厳令が布かれてからは、検事局側の代表として戒厳司令部参議員(参議院会議の構成メンバー)に任命され、又軍官捜査連絡会議にも検事局側の代表委員としてこれに参加し軍側の捜査に協力することになった。警視庁側の委員は、当時の特高部長の安倍源基氏及び特高課長の毛利基氏であり、陸軍側の委員中には、その後太平洋戦争当時の首脳幹部となった人が多く、当時の軍事課高級課員武藤章中佐、兵務課長田中新一中佐、軍事課々員有末精三少佐、同課々員真田穣一郎少佐などなど錚々たる人々がおった。

984NAME:2019/12/16(月) 21:29:43
 この日叛乱部隊に暗殺された主要な人物は斎藤実内大臣、岡田啓介内閣の高橋是清大蔵大臣、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将らであって、岡田首相は難をのがれ、侍従長鈴木貫太郎海軍大将は負傷したが生命はとりとめた。ただこれらの人々の死骸を見て最も眼を蔽わされたのは、渡辺大将と高橋蔵相であって、渡辺大将は、機関銃の弾94発が命中しており、又後頭部等に3ヵ所も致命的切創を受けておって、寝室の周囲等には無数の弾痕があった。高橋蔵相も拳銃の命中弾3ヵ所、大小切創5ヵ所という傷跡で残忍悽愴の感に打たれ、洵に遺憾に思った。

 次に「陸軍大臣告示」から討伐までの経緯について一言したい。二・二六事件の首謀者である青年将校連の間では、昭和11年2月22日に集団的一斉蜂起の最終的決定をなし、2月25日夜麻布第三連隊に叛乱部隊を集結し、翌26日午前5時を期して予定の計画を決行したのであるが、この事件が勃発するや、陸軍の最高首脳部は直ちに宮中に集り、これが鎮圧策を講ずるために陸軍々事参議官会議を開き鳩首協議の結果、軍事参議官一同の意向を文書にしてこれを叛軍に示して鎮撫せんとしたのである。

 ところが、朝香、東久邇の両大将宮も軍事参議官であってこの会議にも列席しておられたから、軍事参議官一同の意向として発表することは皇室に累を及ぼす虞があるという意見も出たので、同席の陸軍大臣の川島義之大将の承諾を得て、この意向を「陸軍大臣告示」という形で発表することになったのである。

985NAME:2019/12/16(月) 21:30:11
 この告示の案文は、軍事参議官の荒木貞夫大将がその席におった軍事調査部長の山下奉文少将に口授して筆記せしめたのである。

 その文言は 「陸軍大臣ヨリ

 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレタリ
 二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘス
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
 五、之レ以外ハ一ニ大御心ニ俟ツ」
 というのである。

(註) 右側傍線の部分は、次に述べるが、後になって訂正されたのである。

警備司令官の香椎浩平中将もその席におって山下少将の傍でこれを筆記したのである。 

引上げるように説得させる考え

 軍事参議官一同の意向としては、山下少将は平素から叛軍の幹部である青年将校連からも好感を持たれておったので、同少将にこの「陸軍大臣告示」を持たせて叛軍の占拠しておる陸軍官邸に赴かしめ、叛軍の幹部連にこの告示を示して、陸相や軍事参議官一同もこの通り汝らの蹶起の趣旨はよく了解しておるのであって、決して犬死させないから一応占拠地から原隊に引上げるように、といって説得させる考えであったのである。

 ところが、香椎警備司令官としては、職責上この告示を少しでも早く叛軍に伝えて之を鎮撫したいとの一念から直ちに警備司令部に電話して参謀長の安井藤治少将にこの告示を筆記させこれを隷下の師団長に通達し叛軍に伝達させようとしたのである。そこで、安井参謀長は部下に命じてこれを謄写に付し、近衛師団長の橋本虎之助中将と第一師団長の堀悌吉中将とに通達しこれを叛軍に伝達して鎮撫するよう命じたのである。
自分らに都合のよいように利用した

 橋本近衛師団長はこの告示を見て少しく疑義を抱いたのでこれを隷下に伝達せずに握り潰してしまったのである。

 掘第一師団長は忠実にこれを叛軍に伝達したのであるが、叛軍側はこれを以て奇貨措くべしとして、この告示を自分らに都合のよいように宣伝の具に使い彼等の蹶起を正当化する手段に利用したのである。 然るに、香椎警備司令官がこの告示を安井参謀長に電話した後で又々軍事参議官会議において「この告示の字句訂正」の議が起り、そのため前述の「告示」の文言の内の傍線を付しておいた部分が次の通りに訂正されたのである。

986NAME:2019/12/16(月) 21:30:38
 その文言は 「陸軍大臣ヨリ

  諸子蹶起ノ趣旨ハ天聴ニ達シアリ
  諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ヨリ出テタルモノト認ム
  国体ノ真姿顕現ノ現況ニ就テハ我々モ恐懼ニ堪ヘサルモノアリ
  軍事参議官一同ハ国体顕現ノ上ニ一層匪躬ノ誠ヲ致スヘク
  其以上ハ一ニ大御心ヲ本トスヘキモノナリ

一、 以上ハ宮中ニ於テ軍事参議官一同相会シ陸軍長老ノ意見トシテ確立シタルモノニシテ閣僚モ亦一致協力益々国体ノ真姿顕現ニ努力スヘク申し合ハセタリ」

 というのである。
飛行機からまかれた「今からでも遅くはない」の告示

 この告示が決定したのは、26日の午後2時過ぎ頃であるが、叛軍はこの告示や軍事参議官連の叛軍幹部と膝をつき合せての説得に対しても承服せず、彼等は真崎甚三郎大将を首班とする一種の軍事内閣の成立を熱望して一歩も譲らなかったのである。それで鎮撫の方法として叛軍を一応正規の部隊と認めることになり、同日午後4時過ぎ頃香椎警備司令官は叛軍を隷下の渋谷部隊(渋谷大佐の率いる歩兵第三連隊)に編入せんとしたが、叛軍の幹部連はこれに服せず、寧ろ小藤部隊(小藤恵大佐の率ゆる歩兵第一連隊)に編入されんことを要望したのでこれを許し一応小藤部隊に編入することになったのであるが、尚も彼等は陸軍上層部の弱腰を見すかしてなんと説得しても占拠地から引上げることを拒否しつづけたのである。

 そこでやむなく同日午後4時20分頃に至り戦時警備令を発動し、他面尚引続き説得に努めたのであるが、どうしてもこれに応じないので翌27日午前4時20分遂に戒厳令を宣布することとなり、香椎警備司令官が戒厳司令官に任命されたが、陸軍最高首脳部としては彼等の説得に最後の努力をしたのである。それにも拘らず少しもその効なく、一方、天皇陛下からはお叱りを受ける始末で、その翌28日には到頭次のような奉勅命令が発せられたのである。

「奉勅命令

 戒厳司令官ハ三宅坂附近ニ占拠シアル将校以下ヲシテ速カニ現姿勢ヲ撤シ各所属師団ノ隷下ニ復帰セシムヘシ

    昭和十一年二月二十八日
    奉勅 参謀総長 載仁親王」

 載仁親王とは閑院元帥宮のことである。

 この奉勅命令から推しても陛下がいかに御宸襟を悩まされたがが窺われる。 奉勅命令が出ても叛軍は尚もこれに応じないので、翌29日愈々討伐命令が発せられ彼等も漸く観念して同日午後2時に帰順することになったのである。その間、大久保大尉筆にするところのあの有名な「今からでも遅くはない」という名文句の「兵に告ぐ」という戒厳司令官の帰順勧告の告示が放送され又飛行機からこのビラがまかれたのである。
陸軍上層部の「事勿れ主義」が見過ごした“クーデターの兆候”

 然し、多少とも当時の陸軍部内の事情に通じておるものには、何れは二・二六事件のような事件が勃発するであろうということは予想されていたのである。

 殊に、昭和11年初頭に最も過激な国家革新の思想を抱懐し一斉蜂起の機を虎視眈々として覘っておった青年将校の一団の所属する歩兵第一連隊や第三連隊を隷下にしておる第一師団の満州移駐が発表されてからは、彼等は陸軍上層部が自分達を敬遠し遠島仰付ける意味でこの処置に出たものと深く思い込むに至ったから、事は一層面倒になり、彼等は必ずや渡満前に一斉蜂起を決行するだろうと考えられていたのであって、斯様な状勢にあることは陸軍上層部の人達は十分承知していた筈である。

 然るに、これに対して何等の対策を講ぜず唯々拱手傍観その日ぐらしの事勿れ主義の態度で終始していたため、二・二六事件が勃発するや、恰も天災地変が一時に突発したかのように周章狼狽、ただ鎮撫だ説得だと騒ぐのみで却って叛軍側に足許を見すかされて引き廻され、結局は、陛下の御一言でやっとフラフラ腰を立て直したのであって、陸軍上層部の無能というか、あのブザマな姿を見ては、洵になげかわしい次第である。

(元最高検察庁次長検事)(木内 曽益)

987NAME:2020/01/04(土) 14:24:44

ゴーン氏出国は「単なる刑事事件」の被告人逃亡ではない〜日本の刑事司法は、国際的な批判に耐えられるのか
郷原信郎 | 郷原総合コンプライアンス法律事務所 代表弁護士
1/1(水) 14:17
https://news.yahoo.co.jp/byline/goharanobuo/20200101-00157363/

988NAME:2020/09/01(火) 02:40:27
泣いてから、携帯電話を取り出し……昭恵夫人の“淋しさ”と「自分探し」が行き着いた先
urbansea
2020/08/31 18:00
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b3%a3%e3%81%84%e3%81%a6%e3%81%8b%e3%82%89-%e6%90%ba%e5%b8%af%e9%9b%bb%e8%a9%b1%e3%82%92%e5%8f%96%e3%82%8a%e5%87%ba%e3%81%97-%e6%98%ad%e6%81%b5%e5%a4%ab%e4%ba%ba%e3%81%ae-%e6%b7%8b%e3%81%97%e3%81%95-%e3%81%a8-%e8%87%aa%e5%88%86%e6%8e%a2%e3%81%97-%e3%81%8c%e8%a1%8c%e3%81%8d%e7%9d%80%e3%81%84%e3%81%9f%e5%85%88/ar-BB18xwQW

辞意を表明した安倍首相が最も長く在任した総理大臣なら、その妻は最も世を騒がせた首相夫人であった。 コロナ禍の春でいえば、夫の安倍晋三は「布マスクを配れば不安はパッと消えますよ」という佐伯(さいき)耕三首相秘書官を信頼するあまり、布マスクの配布に躍起になった。

 対して妻の安倍昭恵はどうか。「不安と恐怖が、ウィルスに対する愛と感謝に変わった途端、ウィルスは、目の前で、ブラックホールから、突然、喜んで、消え去ります」と説く“ドクタードルフィン“に傾倒。「神ドクター降臨 in Oita」なるツアーに参加し、大分県の宇佐神宮にお参りにいって、騒ぎを起こす。(注1)

かつてレーガン大統領の「ファーストレディ」ナンシー夫人が占星術師に入れ込んだことから、占星術が政策やスケジュールに影響を及ぼすようになり、問題となったことがある。 それをおもえば、ドクタードルフィンの主張が官邸のコロナ対策に影響することはなく布マスクで済んだのだから、安倍昭恵が「公人」ではなく、ただの「私人」で、ほんとうによかった。

昭恵氏の信条「『対話』をすればわかり合える」

 そんな安倍昭恵、「どんな人でも『対話』をすればわかり合える」(注2)を信条にしている。沖縄で政府が進めるヘリパッド建設現場にも出向いて、反対派と対話を試みたこともある。「対立、分離した世の中を『愛と調和』の世界にしていく」(注2)との思いからで、タカ派・保守派と目される夫と対立するひとたちのあいだに入っていこうというのだ。

 あるいは「脱原発」を訴えもしたし、LGBTの権利向上を訴えるパレードにも参加した。ときには大麻畑で微笑んで、日本古来の大麻文化を宣伝し、その流れで高樹沙耶と親交を深めもした。 これらを見ると、政治が目を向けないところに目を向けさせようと自らが行動しているようにも思える。しかしそれではドクタードルフィンと旅行にいったり、手越祐也と宴会したりすることには、つながっていかない。 では安倍昭恵の行動原理は一体なんなのか。よく言われるのは「自分探し」だ。

989NAME:2020/09/01(火) 02:40:54
レールを歩む人生が、夫が首相を辞めて一転

 祖父と父が森永製菓の社長となる家系に生まれ、聖心女子を小中高と進み、専門学校を経て電通に入り、やがて大物政治家・安倍晋太郎の子息と結婚する。いわゆる親にしかれたレールを歩む人生であったろう。 それが一転するのは、夫が最初に首相になってそれを辞めてからだ。首相夫人になって有名人になったことで、かえって何者でもない自分に気づいたのか、立教大学の大学院に通い、神社をめぐり、居酒屋の経営を始める。

 ノンフィクション作家・石井妙子の取材で、安倍昭恵は大学院生活をふり返り、「『自分の意見』が私にはなかった」ことに気づいたと述べている。そのいっぽうで、「読んだ本はみんな忘れてしまったし、論文もすごく手伝ってもらって書いた」「本を読んだりレポートを書くのは、正直なところ苦手でした」(注3)と漏らす。

 何かをきちんと学ぶのは苦手のようだ。だから学術とは違う土俵にある、理解しやすい疑似科学に傾倒するのだろう。 そうしてFacebookなどでオカルトめいた言葉を発信するようになる。森友事件の際、渦中の籠池泰典の妻に「神様はどこに導こうとしているのか。とにかく祈っています」とメールしたのが知られるが、神道にとどまらず、安倍昭恵の興味は「波動」や「EM菌」、「オーラ測定」などにまで及んでいった。

 ちなみに斎藤貴男『カルト資本主義』(文藝春秋・1997年)の「オカルトビジネスのドン『船井幸雄』」の章に、安倍昭恵の実父・松崎昭雄の名が出てくる。多くの企業が研修などでおこなう「超越瞑想(TM)」について、これをNECが取り入れたのは、同社の会長と「仲のよい森永製菓の松崎昭雄社長がTMを薦め」たからだとある。スピリチュアルの嗜好は親譲りなのかもしれない。

泣きながら携帯電話を取り出し……安倍昭恵が抱える“淋しさ”

 安倍昭恵が頼るのは、スピリチュアルの見えないチカラだけではない。安倍首相の威光というチカラ、つまりは政治権力にも頼った。 たとえば2016年の参院選に出馬し「脱原発」などを訴えた三宅洋平に、安倍昭恵はFacebookで「公邸でお待ちしてます!」と呼びかける。「公邸」に招くとは公人の振る舞いに思えるが、まだ私人か公人かの問題が起きる前であったので、当時は「上から目線」などとの批判がおきる。そうしたことから、ふたりは池袋の居酒屋で会うのだった。そこで安倍昭恵は随分と酔い、おまけに泣いたという。(注2)

 そのとき、安倍昭恵は突然、夫に電話をし、携帯電話を三宅洋平にわたして、安倍首相と会話させる。 ここに安倍昭恵の淋しさがある。場を盛り上げようとして総理大臣に電話するなど、このうえない酒席の余興だ。しかしそこにいるのは安倍昭恵という個人ではなく、安倍晋三の妻、首相夫人でしかない。いや、それを期待されていると本人もわかっているから、携帯電話を取り出して夫とつなぐ。「自分探し」の行く末は結局のところは、権力者の妻であった。 この「夫の威光」こそが安倍政権最大の問題を引き起こし、また自殺者を出すという悲劇を生む。森友事件だ。

 森友学園の籠池泰典は、もともと「安倍晋三記念小学校」と名付けようとして進められた小学校建設の用地取得に手こずっていた。その最中の2014年4月、くだんの国有地を安倍昭恵は訪れて、籠池夫妻と3人で写真を撮る。このとき、シャッターを押したのは、同行していた「夫人付き職員」谷査恵子であった。

 その写真には、3人の向こうに小学校の予定地が写っている。しかし官僚には安倍昭恵の向こうに安倍首相が見えたろう。安倍昭恵は国家を借景にしているのだから。

990NAME:2020/09/01(火) 02:41:10
「喜んでもらおうとしただけ」本当にそうなのか?

「スリーショット写真の提示以降、何もかもがスムーズに進むようになった。あまりにも近畿財務局の態度が変わったので、本当に驚いたものだ」。この写真を近畿財務局の職員に見せるとそれまで難航していた用地買収が一転したと、籠池泰典は著書『国策不捜査』(赤澤竜也共著・文藝春秋・2020年)に記している。

 一枚の写真が、官僚を動かし、不正を働かせ、その結果ひと一人が自殺することになる。記念写真を撮って喜んでもらおうとしたことが、知らないところで災いをもたらしたようにも見えるが果たしてそうか。権力に対する自制心のなさは安倍内閣だけではない。安倍昭恵もそうであった。 「どんな人でも『対話』をすればわかり合える」という安倍昭恵だが、自殺した職員の妻とは会うことを避けたままだ。

(注1)「週刊文春」2020年4月23日号 (注2)「週刊SPA!」2016年8月30日号 (注3)石井妙子「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」(「文藝春秋」2017年3月号) (urbansea)

991NAME:2020/09/06(日) 14:06:24
もう謝罪国家には戻らない 安倍首相の戦略的歴史観  八木秀次
2020.9.2
https://special.sankei.com/a/politics/article/20200902/0001.html

安倍晋三政権が、国内では疑惑を野党やメディアから追及されながらも、安定していた理由の一つに、安倍首相が国際社会の中で次第に大きな存在になったことがある。在任期間が長くなったこともあり、国際社会、特に自由主義陣営に不可欠のリーダーになっていた。それが国民に大きな安心感を与えていた。辞任の報を受けた外国首脳は概ね安倍首相を「いなくなると困る」と功績を高く評価した。外国メディアも国内とは対照的に高く評価するものが多かった。

韓国の言いがかりを振り払う

 第2次安倍政権発足からしばらくは、安倍首相は外国から警戒の目で見られていた。米国メディアは「国家主義」「歴史修正主義」のレッテルを貼り、中国の官製メディアはヒトラーと同一視した。第1次政権時に打ち出した「戦後レジームからの脱却」が誤解されたこともあり、戦後の国際秩序への挑戦者と思われていた。政権発足1年目の2013年12月に靖国神社に参拝した際、米国政府は「失望した」とのコメントを発表した。私も米国大使館の政務担当公使から参拝の理由について説明を求められた。

しかし、その批判の声は、今は消えている。安倍首相への警戒感がなくなり、逆に安倍首相は自由社会のリーダーと見られるようになった。それと同時に対日認識も変わった。日本自体への警戒感がなくなり、外交や安全保障でも日本の主張や政策は受け入れられるようになった。そこには安倍政権の対日歴史認識是正の戦略があった。

992NAME:2020/11/28(土) 05:01:07
感謝の絆 世代超え 蘇る人道国家・日本 ポーランド孤児救出100年 
2020.11.26
https://special.sankei.com/a/international/article/20201126/0001.html

今年(2020年)は、シベリアにいたポーランド人の孤児たち765人を日本が救出して100年。11月3日、孤児たちの日本の受け入れ窓口となった福井県敦賀市で、孤児たちの救出などを記念する「人道の港敦賀ムゼウム」館がリニューアルオープンするなど、今も欧州随一といわれるポーランドの親日感情を生んだ当時の日本の人道的行為に改めて光が当たっている。

一通の証書
 敦賀ムゼウムは、ポーランド人の孤児に加え、在リトアニア・カウナス領事代理だった杉原千畝の「命のビザ」によりナチス・ドイツの迫害から救われたユダヤ難民を敦賀港が受け入れたことを記念する施設。来館者の増加で旧施設が手狭になったことから、敦賀市が12億円をかけて移設、拡充した。港に面した当時の税関などの建物4棟を復元した館内では、救出を紹介するパネルや映像、孤児やユダヤ人たちゆかりの物品などの史料を展示している。

 11月3日のオープン時にはイスラエルやリトアニアなど関係各国の駐日大使らが参加して式典が行われ、ポーランドのパヴェウ・ミレフスキ大使から渕上隆信・敦賀市長に、一通の証書が手渡された。シベリアから救出されたポーランド人の孤児の一人、アントニナ・リロさん(故人)に、イスラエルのヤド・ヴァシム国立記念館から贈られた「諸国民の中の正義の人」称号の証書だ。「正義の人」の称号は、わが身の危険を冒してナチス・ドイツの迫害、虐殺からユダヤ人を救った外国人に贈られており、杉原千畝にも授与されている。

 リロさんは、ナチス・ドイツによって占領されたポーランドで、ユダヤ人少年1人を自宅にかくまった。ユダヤ人であることが発覚しないよう、少年にはキリスト教の祈祷(きとう)を覚えさせていたという。ナチス・ドイツは当時、ユダヤ人をかくまったポーランド人を家族ごと処刑していた。

993NAME:2021/08/23(月) 02:55:51
「正義中毒」の日本人が他人を許せない理由、今だからこそ考える
『人は、なぜ他人を許せないのか?』
https://diamond.jp/articles/-/237426?page=2

本書の要点

(1)他人を許せない「正義中毒」には、誰もが陥る可能性がある。人間は脳の構造上、自分の属している集団以外を受け入れられず、攻撃しやすい傾向にある。
(2)社会全体で「正義中毒」の方向へと突き進むと、多様性を狭めてしまうことになり、非常に危険だ。
(3)正義中毒から自分を解放させるには、普段から前頭前野を鍛え、メタ認知の力を身につけることが重要となる。

要約本文

◆誰もが陥りかねない「他人を許せない」状態
◇正義中毒とは?

「清純派キャラの女性タレントが不倫をしていた」。「大企業がCMで差別的な表現をした」。こうした状況は、自分や身近な人が直接不利益を受けたわけではない。だが、面識もない相手に攻撃的な言葉をあびせ、叩きのめさずにはいられない。そんな状態に陥っているとしたら、それは、正義におぼれ、「許せない」が暴走してしまっている状態だ。著者はこれを「正義中毒」と呼ぶ。

 正義中毒は誰しもが簡単に陥る可能性がある。とりわけ、ネットやSNSの世界では顕著だ。SNSの広がりが正義中毒を顕在化させ、より強めている。

 また、自らの正義をふりかざす快感を味わいつつも、同時にそんな自分を許せないと感じている人も多い。このような相反する感情に苦しめられていては、とても幸せな状態とはいえないだろう。

◇多様性を狭めた集団は滅亡に向かう

 正義中毒の人たちは、一見独自の理論、独自の正義をもっているように見える。だが実際は、自分がターゲットにされることを恐れて、多数派に流れているケースも多い。例えば、Aを「不謹慎だ!」と叩く論調が主流になると、異なる意見をいいにくくなってしまう。

994NAME:2021/09/02(木) 01:21:08
評論家・石平(59)(30)「覇気」失えば日本は生き残れない
2021/8/31 10:00
喜多 由浩
https://www.sankei.com/article/20210831-CRZYTGT5AZK33D5PWGJ7M7UGMY/

《日本生まれの日本人以上に、日本の精神や伝統を愛し、日本の将来を心配している》 いまの日本の若者たちがチャレンジ精神を失い、安定志向になっている、と聞くと、日本の将来が少し心配になります。

日本は四方を海に囲まれた島国として、長い歴史と独自の伝統、精神を守ってきました。常に大陸からの脅威に晒(さら)されています。こうした状況の中で今後、日本人が生きていくには、よほどがんばらないといけないと思う。大事なことは、覇気や気力を失ったら生き残れないということです。

《実は現在の中国人のなかにも〝横たわり主義〟と呼ぶ消極的な志向が、若者を中心に広がっている、という》 理由については日本と事情が違います。鄧小平(とう・しょうへい)以来の改革開放政策、市場経済の導入で拝金主義が広がりましたが、習近平政権下で「富の格差」も絶望的なほどになりました。そうした社会の格差が固定化してしまい、もはや、がんばってもしようがない、昇進もしたくないといった消極的な人たちが増えてきているのです。

反日感情ですか? これは常にあります。共産党政権による宣伝や学校教育によって、日本に対し、「負」のイメージを持つよう仕向けられるからです。習近平政権になって、その傾向はますます強い。〝南京大虐殺〟のセレモニーを国家行事にしたり、抗日戦争勝利記念日を設定したり、社会全体で「反日イメージ」を固定化しようとしてきているからです。

近年、日本を訪れる中国人観光客が急増しました。現在は、新型コロナウイルス禍によって中断していますが、日本に来て、本当の日本の姿や日本人のホスピタリティーに触れた中国人の多くは「良いイメージ」を持って帰国しました。リピーターも多い。中国人観光客のマナーには確かに問題がありますが、それでも僕は中国人観光客の増加は良かったと思います。

ところが、「何でもやれる」と勘違いしている習近平国家主席は今後、思想統制や自由な言論の排除をさらに強め、中国人の海外旅行を制限することまでやってくるかもしれません。 〝毛沢東以上〟の独裁的、強権的な手法を振りかざす習氏は極めて危ない存在です。「民族の復興」を掲げて中華帝国の復活を目指し、南シナ海、台湾、そして尖閣諸島を狙ってくる。ウイグル人やチベット人ら少数民族の弾圧を強め、民族浄化を進めていく…。 日本人は、こうした「習近平政権の正体」を見極めて、しっかりと対峙(たいじ)しなければなりません。覇気や気力を失ったら一巻の終わり。政治家が中国共産党創建100年に祝電を送っている場合ではないのです。

《来年1月に60歳になる。これからは日本人に日本人の精神を伝える著作をこれまで以上に書きたいと考えている》 僕が司馬遼太郎さんの小説によって日本人の精神を学んだように、次代を担う日本の若者たちに伝えたいのです。形は、小説でも、ノンフィクションでも構わない。帰化人の僕があこがれた日本人の姿を、もっともっと知ってほしいと思います。 「あなたたちの先人はこんなにすごかった」「国を守るために一身をなげうち、懸命にがんばったんだよ」って、ね。(聞き手 喜多由浩)=明日から台北駐日経済文化代表処代表、謝長廷さん

995NAME:2021/09/02(木) 11:28:49
デジタル庁発足 コロナで露呈 サイバーテロに有効な防御なく
2021/9/1 12:42
https://www.sankei.com/article/20210901-72RVNZ2VT5IGLFFWKODSMRO3NA/

官民のデジタル化を推進する司令塔、デジタル庁が1日発足した。コロナ禍で露呈した行政のデジタル化遅れの改善や、デジタルセキュリティー確保に向けた施策に取り組む。デジタル化の進展には何が必要か、増加するサイバーテロにどう対応すべきか。武蔵大教授の庄司昌彦氏と、大阪大教授の猪俣敦夫氏に聞いた。
「コロナ行政」で人員不足 人海戦術の効率化を 庄司昌彦氏

政府がデジタル庁の設立で行政のデジタル化を急ぐ理由として、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた昨年の特別定額給付金や雇用調整助成金の手続き遅れを挙げるが、これは一例にすぎない。行政のデジタル化遅れはあらゆる分野で見られる。

996NAME:2021/09/09(木) 15:30:29
高市氏の記者会見場で報道関係者怒鳴り声
2021/09/08 18:54
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e9%ab%98%e5%b8%82%e6%b0%8f%e3%81%ae%e8%a8%98%e8%80%85%e4%bc%9a%e8%a6%8b%e5%a0%b4%e3%81%a7%e5%a0%b1%e9%81%93%e9%96%a2%e4%bf%82%e8%80%85%e6%80%92%e9%b3%b4%e3%82%8a%e5%a3%b0/ar-AAOdvKS

自民党の高市早苗前総務相が8日午後に行った党総裁選(17日告示、29日投開票)への出馬表明記者会見で、会場にいた報道関係者が学校法人「森友学園」をめぐる問題について「再調査するのか」「話さないのか」と怒鳴り声を上げた。高市氏は「一人の公務員が大変追い詰められ、命を絶った気の毒な事件だ。こういった改竄(かいざん)が絶対に起こらない体制を作る」などと説明した。

この報道関係者はさらに「安倍晋三前首相への忖度(そんたく)か」「安倍氏の傀儡(かいらい)ではないか」と怒鳴り続けたため、別の報道関係者が「やめろよ」と制止に入った。高市氏は「そこまでやじり倒さないでください。本日はありがとうございました」と締めくくった。

997NAME:2021/09/23(木) 20:49:38
日本軍がトルコ兵千人を救った 「エルトゥールル号」に続く新史実をトルコ政府が本に
2021/9/23 07:00
https://www.sankei.com/article/20210923-RGEJWHJT5RJI5IT5HYLCRDM6M4/

第一次世界大戦後の1921(大正10)年、日本陸軍が、シベリアでロシアの捕虜となっていたトルコ軍将兵約1千人を本国に生還させたことがトルコ国内で脚光を浴び、同国政府が今月、経緯をつづった本を日本語で出版した。トルコ語のほか英語版も出版し、世界に発信するという。日本とトルコの間では、トルコ軍艦「エルトゥールル」号遭難事故の乗組員救助(1890・明治23年)、その「恩返し」とされるイラン・イラク戦争下の邦人救出(1985・昭和60年)に象徴される「人道の絆」が紡がれてきた。その歴史に新たな1ページが加わりそうだ。
日本軍将兵も一緒に抑留された

第一次世界大戦の東部戦線で帝政ロシア軍の捕虜となったトルコ兵たちの存在は、シベリア出兵中の日本軍が発見。同大戦で日本とトルコは、連合国、同盟国と対立する陣営に属していたが、日本軍は管理地域の捕虜たちを本国に送還することを決定。1921年2月23日、トルコ軍捕虜1032人(現地で結婚した妻や子供数人も含む)と、日本軍指揮官の津村諭吉陸軍中佐(出発時は少佐)以下28人の日本軍人を乗せた民間の貨物船「平明丸」がウラジオストクから出港した。

998NAME:2021/10/02(土) 01:02:02
「移住したい国」日本は2位 北米、東南アジアの人々から強い支持
Dec 10 2020
https://newsphere.jp/topics/most_popular_countries_for_moving_abroad_2/?utm_source=nativeocean&utm_medium=cpc_no_ob_msn&utm_campaign=most_popular_countries_2_cpc_no_ob_msn&zpbid=8664_676f3212-22d0-11ec-b72d-78a94e278214

昨今の状況により、海外との往来の機会は激減している。しかし、こんなときだからこそ、より良い生活を求めて海外移住を夢見る人々が増えているようだ。世界中で移住関係のグーグル検索件数は急増しており、その子細を分析すると、日本は移住先として世界で2番目の人気を集めていることがわかった。

◆理想の移住先ランキング・トップ10
 本ランキングは、モバイル国際送金サービスを提供する米レミトリー社がまとめたものだ。同社は世界101の国と地域で行われたグーグル検索の結果を分析し、海外移住に関連するキーワードと同時に検索された移住先を抽出した。最も多く検索された移住先を検索元の国別に集計したところ、30ヶ国から支持されたカナダが1位となった。ランキングのトップ10は以下の通り。カッコ内は何ヶ国から移住先1位として選ばれたかを示している。

 1位:カナダ(30)
 2位:日本(13)
 3位:スペイン(12)
 4位:ドイツ(8)
 5位:カタール(6)
 6位:オーストラリア(5)
 7位:スイス(4)
 8位:ポルトガル(3)
 9位:アメリカ(2)
 9位:イギリス(2)

レミトリー社によると、コロナ禍によって人々の検索傾向は大きく変化し、パンの焼き方や室内でできるエクササイズの方法など、ステイホーム生活を快適に過ごす方法が2020年に多く検索されたという。こうした巣ごもり関連のニーズが高まる一方で、海外移住という人生の一大決心を検討する人々も増えてきているようだ。移住方法の検索数は2020年1月から10月までの時点ですでに昨年の検索実績を29%上回っているという。

◆首位カナダ、治安良く移民にも寛容
 移住先として最も多くの国から人気を集めたのはカナダで、2位以下に倍以上の差をつけ堂々の首位となった。レミトリー社は要因について、治安が非常に良いこと、低い失業率を誇ること、そして移住制度の選択肢が多数あること、などが多くの人々を惹きつけていると分析している。さらに、フレンドリーな国民性と美しい景色もプラスになっているようだ。カナダを移住先ナンバーワンに挙げたのは、同じ北米に位置するメキシコのほか、ヨーロッパではイギリスとフランスなど、そして南アジアではインドとパキスタン、ほかアフリカの11ヶ国の計30ヶ国となっている。

◆2位日本は景観と治安で人気か
 このようにカナダに魅力を感じる国が最も多いようだが、では当のカナダの人々はどこへの移住を望んでいるのだろうか? カナダで最も多くの人が選んだ移住先は日本であった。日本はカナダを含めた13ヶ国から移住先候補ナンバーワンの支持を集め、移住したい国2位となっている。レミトリー社は「(移住先別に塗り分けた)北米の地図を見ると、アメリカ人とカナダ人たちは日本での新生活を体験したがっているようだ」と述べ、遠く離れた日本への興味が強いことを報じている。日本を移住先に選んだのはカナダ、アメリカ、オーストラリアのほか、ヨーロッパではジョージアとモンテネグロ、アジアでは8ヶ国でタイ、台湾、フィリピンなどとなっている。

日本が北米で強く支持されたことについては、驚きをもって受け止めたアメリカ人もいるようだ。旅行ライターのラウラ・ベグリー・ブルーム氏は米フォーブス誌(11月25日)に寄稿し、アメリカ人が最も希望している移住先はどこかと読者に問いかけたうえで、結果を知って驚くかもしれないと述べている。治安の良い隣国カナダがありながら、海を隔てた日本が支持されるという興味深い事態になっている。

レミトリー社は「とても魅力的な風景と安全性、そして無数の雇用機会」が人気の原動力なのではないかと分析する。私たち日本に住む者の実感としては景気が上向いているとは必ずしも言い切れないが、それでも海外から見ると比較的安定した雇用があるということだろうか。さらに同社は、カナダが日本を選択する理由として「非常に称賛を受けている人生の質」などが好まれていると推察している。日本は北米のほか、オーストラリアと東南アジア各国からも人気だ。

999NAME:2021/10/06(水) 00:11:59
日本軍がトルコ兵千人を救った 「エルトゥールル号」に続く新史実をトルコ政府が本に
2021/9/23 07:00 小島 新一
https://www.sankei.com/article/20210923-RGEJWHJT5RJI5IT5HYLCRDM6M4/

第一次世界大戦後の1921(大正10)年、日本陸軍が、シベリアでロシアの捕虜となっていたトルコ軍将兵約1千人を本国に生還させたことがトルコ国内で脚光を浴び、同国政府が今月、経緯をつづった本を日本語で出版した。トルコ語のほか英語版も出版し、世界に発信するという。日本とトルコの間では、トルコ軍艦「エルトゥールル」号遭難事故の乗組員救助(1890・明治23年)、その「恩返し」とされるイラン・イラク戦争下の邦人救出(1985・昭和60年)に象徴される「人道の絆」が紡がれてきた。その歴史に新たな1ページが加わりそうだ。
日本軍将兵も一緒に抑留された

第一次世界大戦の東部戦線で帝政ロシア軍の捕虜となったトルコ兵たちの存在は、シベリア出兵中の日本軍が発見。同大戦で日本とトルコは、連合国、同盟国と対立する陣営に属していたが、日本軍は管理地域の捕虜たちを本国に送還することを決定。1921年2月23日、トルコ軍捕虜1032人(現地で結婚した妻や子供数人も含む)と、日本軍指揮官の津村諭吉陸軍中佐(出発時は少佐)以下28人の日本軍人を乗せた民間の貨物船「平明丸」がウラジオストクから出港した。

1000NAME:2021/12/31(金) 00:18:03
日豪安保「新次元へ」 宣言改定、名実ともに準同盟へ
2021/12/29 19:28
半沢 尚久
https://www.sankei.com/article/20211229-SYKZTHTMP5LKBLCPCI4ZCHQS3E/

日本、オーストラリア両政府が日豪安全保障共同宣言の改定を検討していることが29日、明らかになった。改定による新共同宣言は安保協力を「新たな次元へと引き上げていく」(岸信夫防衛相)ための指針で、有事での米国も交えた共同対処能力の強化に主眼を置く。日豪関係を日米同盟に次ぐ、実を伴う準同盟に高める決意表明と位置づける。

「中国に厳しい姿勢で臨むのは党派を超えて一致した考えだ」「対中融和への揺り戻しはない」

豪州の日本担当者はそう伝えてきている。豪中蜜月時代を経て、中国が日本を抜いて豪州の最大の貿易パートナーとなったのは2007(平成19)年だ。日豪安保共同宣言が策定された年だが、それ以降、豪中関係は悪化した。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板