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聖書通読

1福音伝道:2023/03/14(火) 05:40:03 ID:0BUKU4Ck
聖書通読のスレッドです。

manna通読表に従って読んでいきましょう
https://wlpm.or.jp/manna/my-calendar/

887福音伝道:2024/03/26(火) 06:20:49 ID:8zhBGqb2
>>886
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト24章です。

18c英国で資本によりコムギ→カブ→オオムギ→クローバーを輪作する
ノーフォーク農法が始まると、安く大量に小麦が生産できるようになり
対抗できない小作農家は離農あるいは牧畜に移行し、大地主に土地が
集積されたそうです。結果人口爆発したとか。
単作より連作が生産性をあげますし、麦は肥料の量で生産をあげれます。

またイスラエルの2万年前の狩猟時代の遺跡から野生種の小麦が発見されています。
外皮を剥くのがやっかいなエンマ-小麦ですが、外皮が剥きやすい突然変異を選抜
していき、現代のデュラム小麦となったそうです。
六年連作は疲弊すると思います。私でいえば、土の疲弊を防ぐために
牛糞と腐葉土を10年間は春と秋に1万円づつほど投下しています。
現在は土ができたので、豚糞を春と秋に2000円づつ投下しています

ここでは、休耕ではなくて、7年目の農地は、貧しい人用に開放しなさい
ということのようですね。セーフティーネットのようです。

フランシスコ会訳註によると、
仔山羊を母の乳で煮るなは、異教徒カナンの宗教儀式だったので禁止したそうです。

後半部は、E資料的な形式に沿っているが、実は申命記記者の挿入であると
ハーパーは分析しています。

888暇人 A:2024/03/26(火) 10:08:53 ID:hdgBNB2g
国土面積 20,770k㎡ のうち、耕作可能面積 437,000 ha(国土の 20%)、
灌漑面積162,000 ha、非灌漑面積 138,000 ha(主に麦が栽培される)。
人口の2%の農業者で90%の自給率だそうです。
年間降雨量のほとんどが12-2月に降り、年間500mmほどだそうです
年間1,000mm超える日本の反収の約半分の収量だそうです。

古代では1粒から10粒ほどの収量だったそうです。
現代日本では20倍の収量なので約半分ほど。うまく作れば30倍も。
降雨1000mm必要な水田の米作は2000粒なので、米は圧倒的

889暇人 A:2024/03/26(火) 11:43:03 ID:hdgBNB2g
失礼。
1反当たり、現代ヨーロッパでは反収1トンの技術革新があるそうです。
北海道でも反収634kg 10俵超えです。
米作が8-12俵なので、米作とそん色ないですね

令和4年の小麦反収全国平均は447kgなので米の536kgよりは
少ないですが、1粒からぶんけつするので1穂から20粒でもぶんけつした分
増えるようです。

890atheist:2024/03/27(水) 00:12:40 ID:???
>>887-889
当時のイスラエルがどのような農法をとっていたのかは
わたしには分かりませんが、少なくともここでは輪作や休耕といったことが
書かれているのではなくて、単純に7年目の農地は貧者用に開放せよ、ということですね

後半部は一応E資料に準拠しているうようでも
実際は申命記記者の挿入の可能性がある、と

> 人口の2%の農業者で90%の自給率

現代のことであったとしても、凄まじい生産力ですね
そりゃ農耕牧畜が「発明」されて以降、人がワラワラ増えるはずですw


さて24章はモーセがシナイ山に登り、神に十戒(律法)の石版をもらいに行く箇所ですね

ここで気になった箇所はまず8節の「あなたがたと結ばれる契約の血である」という部分です
これはのちにイエスが最後の晩餐でワインに対して述べたことばを彷彿とさせます

それから10-11節ではモーセだけでなく長老たちも神の姿を見てますね
しかも神は姿を見た彼らに手をかけなかったので、彼らは神を見ながらちゃっかり飲み食いしてますw
「いまだかつて神を見たものはいない」というヨハネ?のことばはなんだったのでしょう

891福音伝道:2024/03/27(水) 06:40:59 ID:8zhBGqb2
>>890
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト25章です。

ご指摘通り、「契約の血」は
マルコ14:24イエスはまた言われた、
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
マタイ26:28これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す
わたしの契約の血である。
ルカ22:20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために
流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
1コリ11:25食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血に
よる新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

マルコ・マタイはそのまま「契約の血」と引用し
パウロとパウロ派のルカはイエースースの流す血を象徴するワインを「新しい契約」
としています。モシェが注いだ「血」が「古い契約」ですね

10,11節
そして彼らはイスラエルのエロヒームを見た。
そして彼の両脚の下には、業のようにサフィアのれんががあり
天のように澄んでいた。
そしてイスラエルの息子たち、代表者たちに、彼は彼の手を伸ばさなかった。
そして彼らはハ・エロヒームを見た。
そして食べた。そして飲んだ。

出エジプト33:20また言われた、
「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。
わたしを見て、なお生きている人はないからである」。
であるのに、ここでは神は民の代表者たちに手を伸ばさなかったので
民は、神々を見て、神々の前で余裕で飲み食いまでしていますねw
それであるのにモシェは従者ヨシュアを連れて、神に会うために
更に山を登りますね。
 
ハーパーはこの矛盾を資料説で読み解いています。
1aと9-11節はJ資料あるいは古い独立資料に由来 2-8節はE資料だそうです。
「民の代表たちが神を見て食べ飲んだ」のは「契約の食事」だそうです。
ヤハウェとイスラエルの特別な結びつきを表しているとのこと。
で、E資料の方は、「契約の血」だそうです。
この出エジプトの「契約の食事」と「契約の血」という二つのスタイルを
新約はうまく「最後の晩餐」の場面で統合し、後の神学で「新契約」という
神学を育んでいったようですね

犠牲獣の血というおぞましい契約より古い契約は
神を見て、食べ飲むという「契約の食事」だったようです。
こちらは古代的で穏健であると思います。

892atheist:2024/03/28(木) 00:40:35 ID:???
>>891
なるほどマルコ・マタイでは「契約の血」ということでヘブライ語聖書を引き継いでいるのに対し
パウロ・ルカは「新しい血」ということで新約であることを強調しているわけですね

「契約の血」がE資料で「契約の食事」がJまたは古い独資料なんですね
新約の最後の晩餐はこのふたつのことなった資料に由来するテーマを
統合して新しい契約という神学を作り出したというわけですね

こうしてみると新約の各著者がいかにヘブライ語聖書をよく読んでいるのか分かります


さて25章はヤハウェがモーセに捧げ物や幕屋、器について極めて詳細に指示する箇所です

にしても素材から寸法に至るまで、よくもまあこんなに細かく指示したものです
実際は祭司が祭儀のための詳細な指示をヤハウェの口を借りて語っているといった感じです
こういった事細かな祭儀もキリスト教では廃棄されましたが
カトリックや東方正教会などでは伝統が積み重なるにつれ、新たな祭儀の細目が
再び作られていったように思います
まあ宗教ではこういった形式というのがけっこう重要になりますから
ユダヤ教が特別というわけではないのでしょうが、こういった祭儀的細目を
神の口を通じて語る形になっているところがユダヤ教の特徴なのかもしれませんね

893福音伝道:2024/03/28(木) 05:34:44 ID:8zhBGqb2
>>892
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト26章です。

ハーパーによると、原型は近東の古代遊牧民の宗教的設備だそうです。
クッバqubbaは、小さなドーム型の天幕で、赤く染めた覆いとアカシヤ材で
構成され、真ん中に偶像を安置していたそうです。
幕屋はこれの影響をうけたうえで、精巧に描かれる宮の一部なので
宮自体は、フェニキア神殿建築の影響を受けた上で祭司資料の編集があるそうです。
10-22節の契約の箱は、ハーパーは言及してませんが、偶像の代わりに置かれた
のでしょう。
机には、「神のみ前のパン」が置かれ、燭台は植物用語が多用されて、
「聖なる木」に起源を持っているとハーパーは解説しています。
フランシスコ会訳註は、絵を添えてます。わかりやすいです

894atheist:2024/03/29(金) 05:48:10 ID:???
>>893
すみません、例によって寝落ちですw

こういった宗教設備も他の民族の影響を受けているんですね
宗教も文化の一部で、文化が他の文化の影響を受けるのは
むしろごく当たり前のことなのに、聖書はヤハウェとイスラエルの間の物語として
進行しますから、ついついそういった当たり前のことを忘れがちです


さて26章はもう完全に幕屋の作り方に絞って書いてありますね

こうやって文字で説明されても分かりにくいことこの上ないですが
絵を見れば一発でどんなものなのかが分かります
わたしが使ってるLogosという聖書ソフトでも
tabernacleで検索すると想像図がたくさん出てきます
というか普通にネットで画像検索してもたくさん出てきますねw

聖書を初めて通読し始めたときに、最初に挫折しかかったのは
この出エジプト記の詳細な宗教施設・儀式の記述部分でした
まあユダヤ教徒でもないので、こういったところは適当に流して読めばいいんだと
思い直して、通読を続けたことを思い出します

895福音伝道:2024/03/29(金) 06:07:23 ID:8zhBGqb2
>>894
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト27章です。
お疲れのご様子、睡眠を優先されて下さい。

有名な幕屋は、原文直訳では「住まい」ですね。
ハーパーは、幕屋は聖所と至聖所を含む構造物でアカシヤ材で囲われ
天幕で覆われ、更に毛皮で覆われていたと解説しています。
更に至聖所は四本のアカシヤ材に架けたベールで覆われているそうです。

面白いのは幕屋の天幕にケルビムの装飾が施されていることと
毛皮は赤く染めた雄羊の毛側とじゅごんの毛皮からなっていたそうです。
羊は飼育していたからよいでしょうが、じゅごんをどうやって入手したのでしょ
海の民ペリシテとは、敵対関係にあったはずですが。

896atheist:2024/03/30(土) 01:43:54 ID:???
>>895
ありがとうございます
疲れてるというか、聖書読む前にちょっと休憩のつもりで横になると
気づいたら朝、みたいな感じですw

原文ではただの「住まい」なんですね
英語のtabernacleからの印象ではもっとなにか意味があるのかと思ってました
そう言えば至聖所はthe Holy of Holies(聖の中の聖)のように英語では訳されていたと思います

たしかにじゅごんはどこから手に入れたんでしょうね
物語上では荒野で40年間彷徨っていたことになってますが
そのときには手に入りそうもありませんから
実際はカナンの地でペリシテ人と交易関係があった時代の装飾なのかもしれませんね


さて27章はさらに続いて祭壇の制作法、及び幕屋の庭とそれを囲う柱の設定などについて
書かれています

ということでユダヤ人ならぬわたしには特に書くこともありませんが
21節を見る限り、アロンの家系の者はどうやら寝ずに灯火の番をしなければならないようですから
交代制の夜勤といった感じでその責務を果たしていたんでしょうね

897福音伝道:2024/03/30(土) 10:25:56 ID:8zhBGqb2
>>896
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト28章です。

原文 アカシアの木で祭壇を作りなさい。

この祭壇は、天幕の外にあった燔祭用の祭壇だそうですが、アカシアは、10年で
材木利用可能な成長の極めて速いマメ科の植物で、堅いそうです。
アメリカに移植されて、電柱材とか枕木として利用されていて
我々日本では丈夫なのでフローリング材として使われているそうです。
丈夫で硬く、成長が早いので価格が安価でよいことづくめですが、
イスラエルでは利用されまくって砂漠化して残ってないそうです。

杉材は最低30年だそうで、熟成するほど硬く良い木になるそうで
30-50年ものが良く使われるそうです。ただ100年熟成はそれなりの価値が
あるそうです。
マツ科のレバノン杉もほぼ絶滅したそうだが、樹齢6500年のものが残存している
そうです。
縄文杉の科学推定が4000-5000年前なので、レバノン杉が世界最古ですね
こちらは船の木材として利用されたそうです。

移動祭壇が元々なので、安価で丈夫で当時、入手しやすかったアカシヤ材が
選ばれたのかもですね。

長さ五キュビト 幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである
原文は、長さは五アモット、幅は五アモットの正方形であれ、
    そして祭壇は、それの高さは三アモット。

アモットはアンマという単位のことだが、「肘の長さ」で約50cm程度らしいが
個々人で肘の長さは差があるので、かなりアバウトな単位なのかもです。
でも古代にあっては神官とか長(おさ)の肘の長さが身近でわかりやすい単位だった
のかもですね。

その四すみの上にその一部としてそれの角を造り
原文のこだわり
それの四つの隅から、それから角があるように、それの上に角を造れ。

つまり、後から角をつけるのではなく、木自体から角が生えているように
作れということですね。角は力の象徴なので、最も神聖な部分として、
ここに償いの血が塗られたそうです(レビ17:11)
ただイラストをみると、後からくっつけているようですが。

人類が最初に作った合金が青銅ですが、青銅がふんだんに作られていますね。
木炭程度の火力で加工でき、るつぼから、型枠で流し込めば簡単に制作できる
ので重宝されたのかもです。
そもそも銅鉱石に自然状態で、銅と同時に錫が含有されていたそうです。
なので自然に合金の青銅が鋳造されたそうです。
錫の含有量を減らせば、金ぴかになり、増すと、銀色に輝くそうです。
銀色に輝き硬くもろくなるそうです。で参加して青銅色となるそうです。

葬儀の際、灯火を絶やしたらいけないということで一晩だけですが
寝ずの番をしたことがあります。蝋燭が短くなると、次の蝋燭に引き継ぐのですね
最近では24時間蝋燭や、LED蝋燭があるそうですが、
古代の灯火守は大変だったでしょう。

898atheist:2024/03/31(日) 01:55:00 ID:???
>>897
木材としてずっとアカシアが出てきてましたが、なんでだろうと思ってました
ちゃんと理由があったんですね
成長が早く安価で硬質ということで使われまくったわけですね
レバノン杉が乱伐でほとんどなくなってしまったことは歴史上有名な出来事ですが
イスラエルのアカシアも同様の運命を辿ったというのは知りませんでした

度量衡は古代においてはそれほど厳密ではなかったのでしょうね
日本(中国)でも尺などの単位は身体基準ですから、古代ではどこでも
おおよその単位だったんだろうと思います
それにしてはよく建築物の長さの辻褄があったものだと思います

角については黙示録でしたっけ、やはり角は力の象徴だということを
先生がおっしゃっていたのを思い出しました

青銅は単に試行錯誤の末に銅と錫の合金になったんだろうと思ってましたが
元の銅鉱石にそもそもズズが含有されてたんですね
だから文明の東西にかかわらず、最初の金属器として青銅器が発生するわけですね
「青」銅と言われるのはいわゆる緑青ですよね
本来の光沢を再現した青銅器の映像を見たことがありますが
ずいぶん印象が違いました
この光沢ならたしかに権力の象徴になるだろうなあと思えるものでした

LED蝋燭なんてものがあるんですねw
考えてみれば古代では夜になれば真っ暗ですから
聖所で火を灯し続けるというのはむしろ当たり前だったのかもしれません


さて28章はアロンとその子孫が祭司として指名される箇所ですね
レビ族が十二支族のなかで特異な存在となっていく起源のようなものですね
といってもここもまたその聖職服の詳細な製造法がメインです

エポデの肩紐のところにイスラエルの子、つまりは十二支族の祖の名を刻め、とありますが
これはイスラエル民族をひとつの民族として束ねるための重要な象徴だったのでしょうね

899福音伝道:2024/03/31(日) 07:50:05 ID:8zhBGqb2
>>898
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト29章です。

28:30あなたはさばきの胸当にウリムとトンミムを入れて

ハーパーによると「ウリムとトンミム」は『占いの道具』らしい。
これで占って神託を得て、裁きの結論を出したそうです。

ハ・ウリームは、「光」
ハ・トゥミームは、「完全な、純な」という意味ですが、
おそらくは、ウリムと呼ばれる透明の石と
トンミムと呼ばれる色付きの石を道具に可否を占ったのでしょう。

占い禁止のはずですが大祭司は神託を得るために、日本の古代巫女とおなじく
占って結果を得たようです。さすが古代人です。

十二支族の祖の名とありますが、族名がありません。
諸伝承で名前が異なりますので、ここで何を12とししたか知りたいところです。

しかし大祭司の衣装が豪華絢爛過ぎます。
放浪生活なのに、これは飾りすぎだと思います

900atheist:2024/04/01(月) 02:25:48 ID:???
>>899
占いの禁止は祭司制度が確立したあとに生じたものかもしれませんね

たしかに十二支族は何を十二とするか部分的に異なることがあるので
出エジプト記で名前を書いておいてくれたら混乱がなかったですね
というか、これだけ詳細に幕屋や服装について書いてあるのだから
肝心の名前くらい書いておけばいいのにと思います

祭司の衣装も含め出エジプト記に書かれた祭儀や建造物、衣装の詳細は
実際はカナン定着後、十分にユダヤ教が確立したあとのことを
荒野での放浪時に遡って挿入したものなんでしょうね

901福音伝道:2024/04/01(月) 05:09:56 ID:BX/SFP8o
>>900
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト29章です。

元々はいろんな部族を統合するために、大昔に兄弟であったという神話を
作ったようですが、そのご先祖様もそれぞれの部族で違いがあったものを
ひとつの父系にまとめたようですね。
とはいえ、実際は北のエフライム族と南のユダ族が二大勢力で他は影が薄いですね
エフライムにはシロとベテルに聖所がありましたし、ヨシュアはエフライムの山に
葬られました。北イスラエルの王もエフライムから出ました。
こちらが本来のイスラエルぽいのですが、北王国が滅ぶと、中心がサマリアとなつた
ため、逆にユダから差別されるようになったようです。
ユダ族のダビデが本家と考えるユダ王国からすると、北はその他10支族なのでしょう

902atheist:2024/04/01(月) 23:38:15 ID:???
>>901
> 元々はいろんな部族を統合するために、大昔に兄弟であったという神話を
> 作ったようですが

わたしもそう考えています
基本的にはカナンの平野部に住んでいた人たちが前1200年前後に
カナンの丘陵地帯に移り住んだのがイスラエルの原型であろうと推測しています
ただヤハウェの由来や出エジプト神話などを考慮すると、単純に元カナン人が
丘陵地帯に移動しただけとは考えにくく、おそらくは実際にミディアン地方、場合によっては
エジプトにいたカナン人ないしはそれに近い民族の人達がカナン地方に移り住んだ元カナン人たちと
合流したのだろうと思います

ひとつのイスラエル民族というアイデンティティを作り上げるために
神話の形を使って部族連合を統一の祖先から由来したものだと説明したのでしょうね

北のエフライム族と南のユダ族が二大勢力でサマリアは北が滅んだあとに中心となったとのことですが
わたしは北王国時代からサマリアは王国の中心であると思っていました
北王国の滅亡後、異民族との混合が進み、聖所が移動して、宗教的にもサマリアが北の中心になると
「純血」ではなくなった北に対する蔑視がユダの人たちに生じた、ということなのでしょうね


さて29章では、アロンとその子孫の聖別、およびその際の儀式について詳細に書かれています

わたしにはこの記述は、祭司を司るようになった一族が自分たちの宗教的権威を独占するために
作り出した儀式であり、神話であるように思われます
またその詳細は幕屋の作り方同様、慣習的に行われていた儀式を整理し統合したもののように
思われます

ここで気になったのはまず7節で油注ぎが出てくるところです
これは油注ぎの最も古い記述なのでしょうか?

それから聖別に雄牛や雄羊の血が使われていることです
非常に基本的なことになってしまいますが、なぜ聖別に犠牲獣の血が使われたのでしょうか?

903福音伝道:2024/04/02(火) 06:25:40 ID:BX/SFP8o
>>902
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト30章です。

ヘブライ語聖書を読むと、聖書はエルサレム以外にも、
べテル、ダン、シロ、シケム、ベエルシバ、ギべオン、ギルガルらがあります。
その他にも屋外の礼拝所、高き所(バモース)と呼ばれる礼拝所もあります。

二列王記23章あたりを読みますと、BC7Cのヨシヤ王が、異教礼拝の「高きところ」を
破却して、聖所をエルサレム一か所に収斂されたように読めます。
アッシリア従属からの独立後の民族自立運動の一環と読めますが、
雑多な聖所が廃止されていく祭司たちの動きがもっとのちの時代に実際にあった
ように思います。バビロン捕囚からの帰還後とか。
一方サマリアは、捕囚を受けてないので、純粋に伝統的な信仰のままだったのかもです
純化された捕囚帰還組と、穏健で伝統的な現地定着組みたいなイメージです

聖書で最初に油注ぎをしたのは、ヤコブです。べテルの神の命令が古いですね
創世記28:18
ヤコブは朝早く起きて、頭の下に置いていた石を取り、それを柱として据え、
その上に油を注いだ。
31:13
あなたはベテルで柱に油を注ぎ、私に誓いを立てた。私はベテルの神である。
今すぐこの地を出て、生まれ故郷に帰りなさい。』」

人に対する塗油の最初は、祭司で、ここです。
油注がれた者の第一は「大祭司」
第二が王たち(サム上10:11)、第三が預言者ら(列王上19:16)です。

ハーパーによると、血は「祭儀的な汚れ」を取り除くためだそうです。
第一段階…牡牛の血を「祭壇の角」に塗って、祭壇の汚れをぬぐうことで
祭壇が、次の犠牲を受けるのにふさわしい場所として浄化される
第二段階…罪の償いのために雄羊が焼き尽くす犠牲として捧げられる
これによって、次の犠牲を受ける準備が整い
第三段階…別の雄羊、「任職のお羊」として、その血を任職者の右の耳たぶ・
右手の親指、右足の親指に塗られて、血で汚れをぬぐい、新しい祭司が聖別
されるそうです。

904atheist:2024/04/02(火) 23:46:29 ID:???
>>903
捕囚を経験して純化(先鋭化)した信仰をもつエルサレム(ユダ)と
伝統的な信仰スタイルを温存したサマリアという対比ですね

人への塗油はここで語られる祭司への油注ぎが最初だが
油注ぎそのものの初出は創世記のヤコブのところ、ということですね
祭司の聖別がそのまま王の聖別へと移行した感じですね

血は犠牲と結びつき、犠牲は浄化と結びついているため
血が聖別に使われたということでしょうか
聖俗を分け隔てるには命というコストが必要という感じですね
生贄は古代人のそういった宗教感覚から来ているものなんでしょうね


さて30章もさらに儀式やそれにまつわる細則の記述になっています

ここでは12節で出てくる「命のあがない」というのが気になりました
人の数を数える際に命のあがないが必要というのはどういうことでしょうか?
一応災いの起こらないように、とは書いてありますから、要は人数分の加護費用ということでしょうか?

ここでも聖なるものを俗人や俗の使用に使ってはならないといったように
聖俗を明確に分け隔てることが強調されてますね

905福音伝道:2024/04/03(水) 05:39:25 ID:BX/SFP8o
>>904
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト31章です。

なぜ、獣の血が罪の浄化と結合したのか不明ですが、
レビ人が祭儀を定式化する時にはあった観念ですね。
その前は、遊牧民が、神に犠牲獣を捧げてましたが
初子を神に捧げるという点と、血=いのちという点は
初期からあったように思います。

「命のあがない」の原文直訳は「いのちの身代金」ですね
「登録することによって彼らの中に災いがないように」するとたの
「いのちの身代金」とありますね。

なぜ「登録」すると「災い」かが登録者に生じるかというと
ハーパーによると、登録の主要目的が軍務における動員可能人数の調査に
あるとのことですで、登録者は軍務につくことで災いが生ずる率が高まる
ので、無事を祈願しての賠償金だったのかもですね。
後にこれは神殿税として、毎年奉納させられることになるのですが、
ここでは、聖所建造費用を民に分担させたみたいですね。

祭司は二段階の洗浄をしていますね 聖別観点からは三段階です
1.青銅の洗盤の水で清める
2.ハープ入りの聖別の油で清める
3二段階の聖別をしたあと、更に.特別に調香した香料を焚いて、
神の面前に立つ祭司との間に煙で煙幕効果を醸して「境界」を
作り出しています。

つまり神の神聖さの演出ですね。

906atheist:2024/04/04(木) 01:40:12 ID:???
>>904
初子や血を特別視するのは直感的には分かりやすいですね
ですから何か特別な文化的理由がなくても極めて原初的な感覚から始まったものかもしれません

原文ではもろに「いのちの身代金」なんですねw
なるほど登録=軍務ということで軍務における無事の祈願と考えれば
納得しやすいです
これがのちに神殿税へと変化していくんですね

水と聖油で清めたあと香を炊いて聖的な空間を演出したってことですね
神様が来臨するんですからそれなりの手順や荘厳さというものが必要になりますね


さて31章はベザレル、ホリアブというふたりの「職人」の召命に続いて
安息日が再度強調されています

安息日に仕事したら殺される、というのはかなり強烈です
逆にイエスの安息日に関する発言は、こういった律法を背景に考えると
いかに革新的、革命的であったかが分かりますね

907福音伝道:2024/04/04(木) 06:02:12 ID:BX/SFP8o
>>906
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト32章です。

31:14それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。
これはあなたがたに聖なる日である。
すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、
民のうちから断たれるであろう。

割と正確だが、なぜか「その魂は」が抜けている。
原文直訳
そしてあなたがたは安息日を守れ。
なぜなら、あなたがたにとって、それは聖。
それを冒とくする者は、必ず殺される。なぜなら、そのうちに仕事を行う者は
それの民の中から、「その魂が」絶たれる。

ハーパーは13節と17節で安息日をヤハウェとイスラエルの「しるし」と
呼んでいることに注目して言います。
「祭司記者の神学では、一つ一つの歴史的契約は、
目に見える記念、あるいはしるしなのである。
虹はノアとの間に立てた万物との契約のしるしであり、
割礼はアブラハムとのに立てた族長との契約のしるしであった。
安息日は、ここでシナイ契約のしるしとして宣言される」

フランシスコ会訳註は、民数記15:32-36で
安息日で「たきぎ集め」した者がモシェの前に連れて来られて、
ヤハウェが「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、
彼を石で撃ち殺さなければならない」とモシェに言い、
実際に石打で虐殺されたとありますね。

ひどっ。

908atheist:2024/04/05(金) 05:52:17 ID:???
>>907
…すみません、また寝落ちです…

「魂が絶たれる」というのはヘブライ語聖書ではあまり聞いたことのない表現です
一応ユダヤ教では神が息(霊)を吹き込み土塊を生きたものとする、といった生命観だと思いますが
霊が肉と結びついて魂という自我に当たるものができる、といった感じなのでしょうか?
そしてその魂を断つことで生命が失われるということでしょうか?

この安息日遵守というのがシナイ契約になるわけですね
要はヤハウェ信仰を遵守するか否かで、生か死かが決まるということで
実際にこれが遂行されていたとすれば、ウルトラカルトですね


さて32章はモーセがシナイ山から下ってくるのが遅いことに業を煮やした民が
アロンに迫って金の牛を彼らの神として鋳造する、というお話ですね

これは思いっきり嘘っぽいお話ですが、ヤハウェに代えて偶像を崇拝することを戒めるために
こしらえたお話なんだろうと思います

民がなんで民がテキトーに造った牛の像を、彼らをエジプトから連れ出した「生きた」神に
代わるものと信じられたのかが不明です
一応お話的には少なくともヤハウェは実際に奇跡を起こして民を連れ出しているわけですから
そんなすごい神に牛の像が取って代われるわけがないと思うのが普通だと思います

それにモーセとともにヤハウェの力とことばを体験しているアロンがそんな民に押し切られるのも
おかしな話です
ともかくもアロンは民に押し切られて牛の像を造ります
ヤハウェは怒って民を滅ぼそうとしますがモーセが説得して収めます
このへんは様々な神話に見られるようなごく人間的な性質をもった神ですね

結局モーセはレビの子たちに命じて民を三千人ほど虐殺します

909福音伝道:2024/04/05(金) 06:58:52 ID:BX/SFP8o
>>908
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト33章です。
私も今起きたところなので、ちょうどよかったです。

創世記2:7 直訳
そしてエロヒームであるヤハウェは、
ハ・アダム(人)を、ハ・アダマ(土)の塵から、形造った。
そして彼の鼻の中に命(ハイーム)の息吹(ニシュマット)を吹き込んだ
そしてハ・アダム(人)は、生けるレ・ネフェシュ(前置詞+魂)となった。

「命の息吹」を「土人形」にヤハウェが吹き込むと
「生けるネフェシュ」となったという発想です。
新約ではさらに進んで
ネフェシュは、人格主体なので、絶たれて死んでも、
肉体から離脱したネフェシュは死後にも活動主体のままです。
そのネフェシュが地獄に落ちるのか、神の国へとどちらに行くのかが問題と
なりますが、出エジプトの段階では、絶たれて終わりのようですね

フランシスコ会訳註は、BC931-910のヤロブアムを王上12:28で挙げて
12:28そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、
「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。
イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」
似ていると指摘。
つまり、後代の事象の挿入と考えるようだ。

ハーパーは、古い物語資料(JE)から書かれており、全体のテーマとしては、
民の不平・離反による契約の破棄と、モシェの執り成しによる契約更新。
具体的には北王国では、ヤハウェ信仰が「金の若い牡牛像」と結びついており
ヤロブアムはダンとべテルの聖所で「牡牛の像を用いるヤハウェ信仰」をしていたし
後の首都サマリアでも「子牛像」が首都聖所の最高の聖像であった。
アロンも金の牡牛像を鋳造した上で「明日はヤハウェ祭り」としており
民も異教の神を造れと言ったのではなく
「さあ、わたしたちに先立って行くエロヒームを、わたしたちのために造ってください。」
と言っています。

目に見えない神の像を造ったことが問題となるわけですが、
「鋳造の子牛」は、ヤハウェの像として、アロンは鋳造しています。
ハーパーは、アロンがヤハウェの像としたか、台座としたか、なお不明としています。
そして全体を「幕屋建設のパロディ」と分析しています。
そしてヤハウェ信仰は元々「強力で雄々しい若牛の形で崇拝された」が、
「幕屋と契約の箱」神学一派により「子牛像」が拒絶されて廃棄された、と。

また、祭司といえばアロンの系譜だが、レビ人の中にアロンの末裔に対する
不満があり、アロンの血筋に敵意を持ったサークルが、アロンに金の子牛像を
造らせて、その権威を落としているという説も紹介しています。

また金の子牛像をモシェが粉々に砕き、水に溶かして民に飲ませたという記述は
神明裁判であり、具合が悪くなったものが有罪とされたそうです。
金を飲ませるとか、まじかと思いますが、なにせ古代。。。

910atheist:2024/04/06(土) 01:25:34 ID:???
>>909
ヘブライ語聖書では死後についてはあまり語られることが多くはありませんね
おそらくゾロアスター教の影響で善悪が明確に分離しだし、キリスト教の死後の天国と地獄という発想に
つながっていったのかもしれません
この段階になると死後も魂は生き続けることになりますね

わたしは金の牛はヤハウェに代わる神として読んでいましたが
ここはヤハウェの像なんですね
それであれば民が像を作れと迫ったのも、アロンがそれに押されたのも合点がいきます

このエピソードの背景にはおそらくヤハウェ信仰本来の雄牛像信仰と幕屋と契約の箱神学との
闘争があったというのは面白いですね
こういったところにもヤハウェ信仰の変遷が見て取れるのかもしれません

虐殺の背景には神明裁判があったというのはちょっと意外です
これもまたヘブライ語聖書、というか聖所全般であまり出てこないような気がします
日本神話の「うけい」みたいな感じですね


さて33章はカナンへと向かう道程についてモーセと神が対話をする場面です

この章はいろいろと変というかよく分からないところが多いです

まずヤハウェは民が頑なであることを理由に一緒に行ったら滅ぼしてしまうから行かないと言います
そんな堪え性のない神なのかと思いますが、結局モーセに説得されて一緒に行くことになります
またその際に「飾り」が重要な意味を持つようですが、なんの意味を持つのかさっぱり分かりません
特に6節のヤハウェのセリフの意味が分かりません

それから11節ではヤハウェはモーセと「顔を合わせて語られた」と書いてあるのに
20節ではヤハウェはモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない」と言っています
これもまたどういうことなんでしょうか?

911福音伝道:2024/04/06(土) 09:22:11 ID:BX/SFP8o
>>910
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句は出エジプト34章です。

33章では、まだヤハウェは「金の子牛像」を造った民に対して怒っています。
なので、お前たちは行け。下準備はしてやる。でも俺は行かないと拗ねています。
そこで、民は反省を示すために「飾り」をつけるのをやめて
つまりチャラチャラせず、ヤハウェに反省していますという態度を示しています。

5節は、装身具をつけている民を見ると、ヤハウェが「金の子牛像」を
思い出して民を怒りのままに殺してしまうので、はずせと命じ
6節で、民がその命令に従ったという流れですね

ハーバーによると、7-11節は、古い物語の断片が混入している。
これはモシェとヤハウェの親密さを際立させることになっているとのこと。
「会見のための天幕」はP資料の幕屋のような精巧に造られていない宿営の
外に置かれた「単純な宮」であり、ヨシュアが伴われていた。
「モシェとヤハウェが友のように、顔と顔を合わせて、ヤハウェが語った」
ことが強調されているそうです。
この特別な親密さを梃子にしてモシェはヤハウェに同行を祈願します。
12-17節 17節でヤハウェは同意します。
そこで18節でモシェはヤハウェに「あなたの栄光」をお見せくださいと
更にお願いすると、19節で、善、恵み、憐みを保証した上で
20節、「顔を見ることは出来ない」と拒絶した上で
21-23節で「後ろ姿」だけを特別にお見せになります。

単純に言うと11節は古い資料。20節は新しい祭司資料なだけですが
11節の顔はパニーム。20節の顔はパナイ。「私の顔」です。
強引に、矛盾を敢えて会通しますと、
11節ではパニームとパニームとを合わせて友のように語ったとありますが
ヤハウェとモシェとの特別に親密な関係の比喩的表現であり、実際に
顔をつき合わせたわけではない。20節で、モシェは親密さを根拠として
ヤハウェの栄光を直接見ることを望んだが、ヤハウェは、「私の顔」を直接見せると
モシェが死ぬので拒絶した上で、温情で、特別に「後ろ姿」を見せた
と解釈できるかもです

912atheist:2024/04/07(日) 01:55:08 ID:???
>>911
「飾り」は「金の子牛像」を造ったときのチャラチャラした態度を表しているわけですね
ヤハウェはそれに拗ねて民を殺しちゃうかもしれないから、はずせと命じたんですね

ヤハウェとモーセの「顔合わせ」は古い資料で、後半はのちの編集ということですね
無理やり筋を通すとすれば、11節は親密さの比喩表現で、後半のほうがスタンダードな(後の)
ユダヤ教のパターンって感じですね


さて34章はモーセが砕いてしまった石版を再び作り、またシナイ山に登って
ヤハウェの戒めを石版に刻まれる場面です

ここはユダヤ教保守派の典型的な考えが述べられている箇所だと思います
異民族の排除や偶像禁止、その他の細かい戒めが書かれています

7節では信賞必罰が語られ罰すべき者は三、四代に渡って罰するとあります
古代らしい思考法ですね

中盤にある、民が異教になびく箇所などは、実際にそのようなことがあった後代の経験を
ここに挿入して語られているようです

これまたかなり基本的な質問になりますが、14節でヤハウェは自らその名を「ねたみ」と
述べています

この「ねたみ」というのは要は民が異教に浮気することに対する嫉妬ということでしょうか?
それとも原語的にはもっと他の意味があるのでしょうか?

913福音伝道:2024/04/07(日) 07:53:25 ID:BX/SFP8o
>>912
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句は出エジプト35章です。

スィナイ山にモシェが二枚の石板を持って上ると、ヤハウェは
雲の中に居ながら、下って、モシェと共に立ち、「ヤハウェ」という名を宣言され
「悪と、とがと、罪とをゆるす者」と仰せなので、モシェは、
「わたしたちの悪と罪とをゆるして、一緒に行って下さい」とお願いする。
するとヤハウェは民と契約を結ぶとして、28節「十の言葉」を書き記したとあります。

所謂、「十戒」は、民が裏切った後で、もう信用できないと民を、
モシェとの特別な関係にあって、自分を「悪と、とがと、罪とをゆるす者」を
規定してしまったがために、赦す代わりに「契約」を結び、これだけは守れよ
と締結したものですね。赦す者だが同時に「罰すべき者をば決してゆるさず、
父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」とも言って、
甘いだけではないからね。本当に怒らせてたら、子々孫々まで赦さないんだから、と。

14節原文。なぜなら他のエルにひれ伏すな。
なぜならヤハウェはカナーである。彼の名は、エル・カナーである。

これは20:5でも出てきてまして
「エル・カナーは「妬みの神」ですね。
他の神々に浮気をするな 嫉妬しちゃうからね。
私だけを愛したら、慈愛を注ぎますよ 裏切ったら四代目の子孫まで
ストーカーしちゃうよん という怖い神ですね
多神の中で私だけを愛してという拝一神教ですね」
と申しましたが、
「熱烈な、情熱的な、妬み深い」という男性・形容詞です。
愛が深い故に嫉妬も深いという感じの語ですね

ハーバーもフランシスコ会訳註も、ここを「祭儀的十戒」と呼び
「道徳的十戒」と区別しています。
またハーパーは、二回目の契約だが、20章のEとPに先行するJ資料にあった
最初の契約締結記事が繁栄されていると分析しています。
さらに「十の言葉」として語られているが「十の言葉」がないと指摘しています。

914atheist:2024/04/08(月) 00:43:28 ID:???
>>913
なるほど、赦すと罰するの二律背反をうまく整合させるための契約ということですね

「妬み」はそう言えば以前説明していただいてましたね、完全に忘れてましたw
結局そのまま嫉妬ということでよさそうですね
たしかに嫉妬であれば、他の神を前提とした表現ですから
この段階では完全に拝一神教ですね

28節の十戒はそのまま以前出てきた十戒だと想ってましたが
ここでは「祭儀的十戒」であって以前の「道徳的十戒」とは別なんですね


さて35章はその祭儀的十戒の内容に当たるものでしょうか

ともかく捧げ物や作業、奉仕に関する命令になってますね
命令とは言え、ここでは「心から喜んで」なされたことが強調されているようです

様々な捧げ物や装飾品などが事細かに書かれていますから
やはり祭儀に関する規定が物語の中に挿入されたもののように思えます

915福音伝道:2024/04/08(月) 05:35:33 ID:BX/SFP8o
>>914
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト35章でしたが
既にされておられますね。

さて、ハーパーによると、24:12-31:18で権威付けられた様々な仕事が
以下で実行に移されるそうですが、権威づけの時と順番が異なっており、
実際の手順に従っているそうです
1.まず安息日が設定され、「幕屋建設」作業を休日で制限することができた
2.作業の始まる前に献納物の記事が置かれた。献納物という材料がないと作業できませんので。
3.作業開始前に職人の任命がなされた。
で、36-38章で、幕屋建設が始まります。

916atheist:2024/04/09(火) 00:37:35 ID:???
>>915
あれ?今日の分だったんですねw
土曜はたまたま出勤していたので、土日分を金曜分、月曜分を土日分と勘違いしてしまったようです
すみませんでした

幕屋建設の前振りみたいなもんですね
安息日の設定→献納物の収集→職人の任命と進んで
次章から幕屋建設に入るわけですね

917福音伝道:2024/04/09(火) 05:43:24 ID:BX/SFP8o
>>916
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト36章です。

土曜日に仕事、お疲れ様です。

918atheist:2024/04/10(水) 00:30:09 ID:???
>>917
36章は聖所、幕屋の設営、建築ですね

ここは例によって事細かにその設営・建設の材料や寸法を書き出しているだけなので
特に言うことはありません

強いて言えば、民が進んで捧げ物を持ってくるため、必要以上の捧げ物で溢れてしまった様が
描かれているところです

最初は無駄な記述のように思われましたが、これはイスラエルの民が心を合わせて積極的に
設営・建設に、つまりはヤハウェ崇拝に関わった様を描写するための記述なんだろうと思いました
3節の「自発のささげ物」という言い回しでもそのことが伺えます

919福音伝道:2024/04/10(水) 06:32:37 ID:BX/SFP8o
>>918
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト37章です。

3節の「自発のささげ物」は、ネダヴァーの訳ですね。
これは「ナーダヴ」という動詞から派生した名詞で、
動詞が「喜んで、進んで、気前よく・・する」という意味なので
「喜んで、進んで、気前よく「捧げられたもの」という意味で
「任意の捧げもの」「自発のささげ物」「随意の捧げ物」と訳されているようです。

偶像崇拝禁止のはずが、「ケルビム」の刺繍はなぜかセーフで、為されます。
エデンと共に元々は、メソポタミアに起源を持つケルビムですが、聖書では
創世記3:24で、ケルビムと回る炎のつるぎを置いて、人が命の木に近づけないように
したとあることから、「汚れた人間が神に近づくことができないことのしるし」とし
て刺繍されたようです。
贖罪所の一部として「二対の金のケルビム像」安置が命じられています。25章。

ソロモンの神殿には大きなケルビム像があったそうです。
これ、偶像やんと思いますが、ユダヤ教的には偶像ではなかつたのでしょう
論理構成が不明ですが。

920atheist:2024/04/11(木) 01:05:16 ID:???
>>919
宗教的義務感からのささげ物ではなく、自ら喜んでするささげ物というような意味ですね

なるほどケルビムが刺繍や像として配されたのは、汚れた人を近づけないためということですね
ケルビムは一応天使であって神の被造物であり、かつ神の配下に属するものなので
偶像崇拝にも異教崇拝にも当たらない、と考えたのでしょうか
偶像禁止の背景には神を被造物の像で表すことの禁忌と異教の神の崇拝の排除が
あったのでしょうから、ケルビムはそのどちらにも抵触しないと考えたのかもしれませんね


さて37章は前章の続きで、ここは箱、机、燭台、祭壇などの材料、寸法、装飾についての記述ですね

それにしてもこのような材料を荒れ地で放浪しているイスラエルの民がどのように調達したことに
なっているのでしょうか
もちろん、これはカナンの地に定着して以降の宗教儀礼を放浪時代に神によってモーセに与えられた戒
の形で記述したものなんでしょうが、物語の辻褄としてはどのように説明しようとしたのでしょう
書かれてはいなくても、放浪時代には他民族や隊商との交易があったという設定なのでしょうか

921福音伝道:2024/04/11(木) 06:51:52 ID:BX/SFP8o
>>920
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト38章です。

材料は、物語的には、エジプトを脱出するときに強奪しています。
3:21わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。
あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。
3:22女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、
銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。
そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。
このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。

ただ燭台ひとつにしても1キカル(34kg)の純金なので、時価4億3千万円の純金製
ですね。

ただとうてい史実として、これらの多量の物資を持って移動したとは
思えないですね。

922atheist:2024/04/12(金) 00:26:27 ID:???
>>921
なるほどたしかにエジプトを出るときにエジプト人の財宝や衣服を強奪してましたね
物語的にはそれが祭壇等の材料に使われたと考えれば、一応筋は通りそうです
もちろんエジプト側にもそういった史実を指し示すような史料はありませんし
そもそも出エジプト自体証拠はありませんから、史実としてはこれらの略奪物が
材料になっていることを傍証するものではありませんね


さて38章は祭壇、庭についての材料や寸法に関する記述のあとに
使われた(捧げられた)金銀青銅の総計が記されています

金は二十九タラント七百三十シケル、銀は百タラント千七百七十五シケル
及び百タラント、青銅は七十タラント二千四百シケルなどなど…

これは大雑把に言えばどれほどの額になるんでしょうか
ちょっと検討もつきませんが

923福音伝道:2024/04/12(金) 05:45:42 ID:BX/SFP8o
>>922
atheistさん、おはようございます。本日の聖句は出エジプト39章です。

金は二十九タラント七百三十シケル、銀は百タラント千七百七十五シケル
及び百タラント、青銅は七十タラント二千四百シケル

原文では
金は九と二十キカル、七・百と三十シェケル
キカルは約34kg シェケルは約10グラム 986kg+7.3kg=993.3kg 約1トンですね

銀は3400+17.750=3,417.75kg 3.4トンですね 
青銅は2,380+24.000=2,404kg 2.4トンです。

金銀青銅6800kg÷約60万人=約11g 一人あたりにするとわづかです。

924atheist:2024/04/13(土) 00:56:35 ID:???
>>923
金銀をトンの単位で持ち運ぶというのはとんでもないことですが
60万人(家族などを含めると数百万人)で割ればそれほどでもないですね
まあ60万というのは明らかに誇張ですが、それを言ってしまえば金銀の量も誇張ということになって
しまうので、物語的には一人当たりにすれば常識の範囲内ということでしょうか


さて39章は衣服についての詳細ですが、32節以下はこれまでのまとめになってますね
衣服については前の方の章で同様の内容が出てきたように思います

ともかくも「まとめ」にあるように、民はヤハウェがモーセに命じたことを忠実に成し遂げたわけですね

いよいよ出エジプト記も残り1章です

925福音伝道:2024/04/13(土) 09:28:09 ID:BX/SFP8o
>>924
atheistさん、おはようございます。土日の聖句は出エジプト40章です。

ハーパーの39:1-31の解説は、たったの四行で「祭服の準備」について、
ヘブライ語伝承本文では最後に作られているが、ギリシア語テキストでは
最初に作られているという指摘だけです。
ここを深掘りすると面白いかもです。

32節以下のまとめでは
「主がモーセに命じられたようにおこなった」が、32,42,43節で三度、繰り返されて
いますが、ハーパーは「最後の命令と実行の図式」を補強すると解説していますが
単なる補強なのでしょうか。なぜくどいのか。

物語では、80歳から120歳まで荒野を彷徨ったことになっています。
この聖所建造は、40年の前半だと思われますが、そうすると、この移動聖所が
40年持ったことになりますが、うちの畑で最初、雌竹を支柱にしていました。
15年ほど前ですと10本で1,000円ほどで安くて便利だったからです。エコですし。
ただ長持ちせず5年程度で朽ちていきました。今は鉄パイプをもっぱら支柱と
しています。
アカシヤ材は枕木にされるほどなので丈夫なのでけれども、ぐぐりますと
に庭に枕木を敷く場合の耐久は15-20年だそうです。雨よけをしていれば
40年持つものなのでしょうか。
10年ごとにぐらいに補強や作り替えしていたという設定なのでしょうか

926暇人 A:2024/04/13(土) 15:10:59 ID:LWkIAPkQ
ワシ 宗教団体を立ち上げる事にした 凄く儲かるらしい 日本バカ多いからカネ巻き上げ放題 多額の献金が期待できる
教 団 名    【 吉 川 流  法 茎 経 学 会 】別名 吉川カスユキ チンカス献金教
教  主     教主をネット掲示板で有名な 吉川 和征(ヨシカワ カスユキ・チンカスユキ)とする(カツグミコシハカルクテ クスノチンカスヤローに限る)
教団住所    吉川 和征 尊師 がネット電話帳に載せてる 【 千葉県船橋市旭町2丁目24-1-113 】を教団住所とする
お 題 目    【ヨシカワカスユキ チンカスホーケー ニタリチンカス クサレチンカス ヨシカワカスユキ ダップン ダップンヘドガデルホドムナクソワルスギクソヤロー
         ケンキンケンキンアリガネノコラズサシダセケンキンケンキン ヨシカワカスユキ チンカスホーケー
         シャッキン シャッキン シャッキンシロヨ ソノカネマルゴトコッチニヨコセ アトハハサンハサンジコハサン 
         ヨシカワカスユキ チンカスホーケー ニタリチンカス クサレチンカス ヨシカワカスユキ ダップン ダップンヘドガデルホドムナクソワルスギクソヤロー】
入信しタップリ献金しないと必ず地獄行き ご先祖様も地獄に真っ逆さまでのたうち回る  朝・昼・夕に3回ずつお題目唱えて 尊師吉川カスユキ を崇め 讃え祝福しやれヨ

927atheist:2024/04/14(日) 05:57:40 ID:???
>>925
昨日は仕事じゃなかったんですが出かけてて例によって寝落ちですw

ギリシャ語テキストでは最初というのは七十人訳のことですか?

木材の強度についてはわたしはよく分かりませんが
乾燥地帯だったので、その分持ちも良かったということですかね


さてついに出エジプト記も最終章ですね
ここは元日の幕屋建設について書いてあるようです

ここでも「主が彼に命じられたように行った。」が繰り返されてますね
主の命じた祭式を確実に守れという強調表現なんでしょうかね

出エジプト記の後半は祭儀にまつわる詳細がほとんどで
前半の物語形式とは対照的で、出エジプト物語に
祭儀関連の史料をくっつけたような印象でした
後半はレビ記につながって、前半の物語は民数記につながる、という構成なのかもしれません

928福音伝道:2024/04/14(日) 09:25:30 ID:BX/SFP8o
>>927
atheistさん、おはようございます。お疲れさまでした。1日お休み頂いて
明日の月曜日の聖句はレビ1章です。

2節「あかしの箱」。
ぐぐりますと、wikiに、出エジプト後1年で完成。荒野時代は祭司が担いで移動。
ヨシュア時代以降はシロのの幕屋の至聖所に安置。
BC11C大祭司エリの時代に、ペリシテ人に奪われる。
その後、ペリシテ人に災厄があったので、送り返される。
BC10Cのソロモン王はエルサレム神殿に安置。
BC6Cのバビロン捕囚で行方不明に。

フランシスコ会訳註によると、出エジプトは、バビロンから帰還後、編集となって
います。
すると、えんえんと幕屋や「あかしの箱」について、制作方法を記しているが
「ブツ」が失われている状態で書いているということになります。

なぜ所謂「失われた聖櫃」をこんなに鮮明に記述したのでしょうか。
或る意味、「聖櫃」とその中の「石板」自体を偶像崇拝しているように
見えるのですが、偶像そのものが失われているわけです。

最後は「顕現の雲」が出てきます。
雲、原語でアナン。このアナンが神の臨在の象徴となっています。
現在、このような「雲」がみられることはないです。

さてレビ記は、一般的に律法五書の中心と呼ばれています。
ハーパーによると、出エジプトで、モーセは神の臨在する幕屋を建設し
イスラエルの民が神と共に生活するをことを可能にしました。
そこでレビ記では、これに続けて神の臨在が永続するために、神が民に要求した
「生活と礼拝の仕方」を詳述しているそうです。

フランシスコ会訳註によると、
1.まず8-10章 祭司叙任式を中心として
2.「献げ物の規定」1-7章、「贖罪の日」16章が第一段階
3.更に「律法上の清浄」に関する規定 11-16章
4.最後に「神聖法典」17-26章が追加。
という成立段階を経ていると分析されるそうです

929atheist:2024/04/15(月) 01:51:08 ID:???
>>928
あくまでも聖櫃伝承ということで、聖櫃の詳細は第二神殿時代に祭司たちによって作られたもの
ということではないでしょうか
聖櫃でも石版でも神殿でも、宗教的には崇拝の象徴となるものでしょうから
これほどまでに詳細に記述されたのかもしれませんね

夜の火と昼の雲が放浪時代のヤハウェの印として描かれてますね

明日からはレビ記ですね
レビ記はそれこそ祭司たちがもっとも書きたかった書物なのかもしれません
「生活と礼拝の仕方」を詳述しているということですが
これはまさに俗と聖の両面を祭司たちが統制しようとしていることの現れであるように思います

律法の詳細となると、また砂を噛むような文章が続くように思われますが
以前読んだときにはユダヤ人の考え方の一端に触れられて、意外と面白かった記憶があります

930福音伝道:2024/04/15(月) 06:23:21 ID:BX/SFP8o
>>929
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記1章です。

出エジプト39章では
金 約1トン 銀は3.4トン 青銅かー2.4トンですが
wikiによると、エズラ2:69によると「神の宮」再建のために、つまり第二神殿再建時に
すなわち、その力に従って工事のために倉に納めたものは、
金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の衣服百かさねであった。
とあります。
ざっと 金518.5kg 銀2.875トンと、祭服100着です。
移動時の祭壇の半分の量の金と、80%の銀で、再建したことになりますが
第二神殿時代に祭司たちが、古への聖櫃について在りし日の栄光を美化し
て書いたのかもですね

931atheist:2024/04/16(火) 02:03:52 ID:???
>>930
第二神殿時代は捕囚からの解放後の民族国家再建の時代ですから
端的に金がなかったとは言えるかもしれませんが、それでも荒野放浪時よりも
安定していたでしょうから、やはり古の聖櫃に願望を投影していたのかもしれませんね


さて今日からはレビ記です
まずは第1章ですが、ここは家畜の供え物について書かれてますね

牛も羊も古代イスラエル人にとっては重要な家畜だったのでしょうから
これを供え物にするのはごく自然なことだと思います

だとは思いますが、それを焼いて香ばしい香りをヤハウェに捧げる、というのは
いったいどういった発想なのでしょうか?

この当時はまだヤハウェは霊的実体としてイメージされるよりも
より具体的な物理的実体を持った神と考えられていたということでしょうか

932福音伝道:2024/04/16(火) 06:08:20 ID:BX/SFP8o
>>931
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記2章です。

フランシスコ会訳注によると、3-9節はモーセ時代に由来し、
10-13節は更に古く、原始的な焼き尽くす儀式が反映されているそうです。
14節の鳥は、更に後代に付加されたそうです。

祭壇の上では、火を絶やしてはいけないと後に規定されますが、本章7節では
まだ、その規定がないのと、また、祭司であるレビ人が犠牲を切り分けると
規定されますが、ここでは、奉献者自身が犠牲獣を屠り、皮を剥ぎ、切り分けて
いますので。

口語訳9節 これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
聖書協会共同訳 これは焼き尽くすいけにえである。
すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。
新改訳2017 これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。
原文 オラー イシュー レアーハ 二ホアハ ヤハウェへの

オラー・・・原意は「上る」で、「焼き尽くす捧げもの」の意味。煙が上るから。
イシュー・・・意味不明語。「火(エシュ)」との類似から「火によるささげもの」
      「火祭」「火納物」と訳される。新改訳はウリガット語「レヘム(パン)イシュー」
      の短縮形と類推して「贈り物」と解釈した上で「食物の献げ物」と
レアーハ・・・香りの 
二ホアハ ・・・芳香の
直訳 焼き尽くす捧げもの、ヤハウェへの芳香の香りのイシュー。
と、意味不明な訳となります。

ちなみに、古いとされる13節では
オラー フー イシュー レアーハ 二ホアハ ヤハウェへの
フー・・・「それは」という代名詞がある。9節には「フー」はないが、
  各訳は「これが」を補って訳している。

ハーパーによると、1-2節でモーセが幕屋を建設した出エジプト40章を受けて
モーセに対してヤハウェが幕屋に臨在し、作法を教えはじめる。

古代において「献げ物」は共通現象で、最初は「神への食物供給」の必要性を
認識したことが起源だそうです。
この見方は21:8彼はあなたの神の食物をささげる者だからである
にあるが、一方で詩編50:7-15では非難されます。
その上で古代イスラエルでは、献げ物は、神によって創造された秩序を維持、復興
するための一手段として理解されたそうです。
神と接触し親交を結ぶ手段だったそうです。罪を犯したとき、香りを上らせて
神の怒りを宥めて、関係を正常化しようとしたわけですね。

ハーパーは「オーラ―」を解説して「(煙になって)上っていくもの」とし、
祭壇の上で完全に焼き尽くされるが、皮は祭司に与えられたと解説しています。
皮を焼くのが面倒だったと説明されていますが、私は皮を祭司がゲットしたと聞いて
納得しました。
煙にするということは、神を霊と考えていたからではないかと私は思います。

933atheist:2024/04/17(水) 00:07:05 ID:???
>>932
けっこう細かいところで時代推定ができるんですね

捧げ物は、もともとは「神への食物供給」だったものが神との接触・親交の手段となっていった
という感じでしょうか
「香ばしい香り」の部分はどちらかというと香りそのものよりも
「(煙になって)上っていくもの」のほうに重点があるようですね
肉を煙に変えるわけですから物質的な食物供給から、目に見えない霊的な存在への
捧げ物という観念へ変わっていった、と考えることができるということですね


さて2章は麦粉の供え物ということで、1章が牧畜の成果だったのに対し
2章は農耕の成果の供え物についての規定という感じでしょうか

ここでも出エジプト記同様、「種入れぬ」ものでなければならないとされていますね
やはり獣肉と同じように火で焼くことになっているようです

しばらくは祭儀に関する規定が続きそうです

934福音伝道:2024/04/17(水) 07:01:08 ID:BX/SFP8o
>>933
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記3章です。

前章ではオーラ―(上る)という全焼して香りを上らせる献物コルバンでしたが
今回はミンハー(献物)という意味で、「穀物の献物」でも「犠牲獣の献物」の場合も
ありますが、コルバン ミンハーで、口語訳は「素祭の供え物」と訳しています。
聖書協会共同訳「穀物の供え物」新改訳2017「穀物のささげ物」です。
直訳だと「献物の供え物」です。

口語訳 その供え物は麦粉でなければならない
聖書協会共同訳 その献げ物は上質の小麦粉でなければならない。
新改訳2017 そのささげ物は小麦粉でなければならない。
原文直訳 ソレットであるように。

「なければならない」という義務・必要ではなく、原文は「であるように」と
少し柔らかいです。
またソレットとは全粒粉ではなくて、表皮と胚芽を除いた小麦粉のことで
古代イスラエルにあっては手間がかかる高級小麦粉でしたが、現代日本では
ごく普通の色の白い小麦粉ですね。現代では黄色の全粒粉の方が、食物繊維や
マグネシウム、鉄分、亜鉛というミネラルが豊富で高級感があります。

2節 記念の分として 原語アズカラタハ フランシスコ会訳註によると、意味不明語です。
「想起する」という単語との関連で記念とか、覚えの分としてなどと訳されるそうです。

ハーパーによると「発酵」は、「腐敗」と通じ、死を想起させたので、聖なるものから
排除されたそうです。まあ確かに物理現象としての「発酵」と「腐敗」は同一現象です。
人間に有用な場合が区別されて「発酵」とされているだけですものね。

あと塩、フランシスコ会訳註は、防腐の機能から浄化や保存機能があるとされ
会食に用いられる塩は友情のしるし、民18:19では神とイスラエルの契約を
「塩の契約」と呼んでいると解説しています。

935atheist:2024/04/18(木) 01:21:22 ID:???
>>934
「〜でなければならない」という言い方と「〜であるように」という言い方では
内容的には同じでも、ずいぶんと印象が違ってきますね
前者では厳格な神のイメージがありますが、後者ではもっと近しい存在のように感じられます

古代においても表皮や胚芽を取り除いた穀物があったんですね
日本でいうと白米のようなものでしょうか
栄養より見た目や味に拘った高級食材だったわけですね

酒類も含めれば、古来より人間は発酵食品を飲食してきましたから
むしろ発酵が腐敗に通じて死を想起させるという理由で「種無し」パンが聖なるものとされた
というのにはちょっと意外な感じを受けました

日本でも清めのときに塩を使ったりしますから
これもまた元来の防腐機能に由来してるのかもしれませんね


さて3章は酬恩祭というのが出てきます
今までも燔祭だの火祭だのということばが出てきてますが
こう書かれても、だいたいどれも牛やら羊やらを火で焼いてね?という感じで
なかなか区別がつきません

こういった「〜祭」というのは簡単に言うと、どんな分類になっているのでしょうか?

936福音伝道:2024/04/18(木) 06:38:37 ID:BX/SFP8o
>>935
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記4章です。

ぐぐりますとwikiが「まつり」について、古来日本では
・祭り…命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)
・祀り…神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指す
・政り…政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ
・奉り…その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦
にあるように釣針(古くは銛も釣針も一つの概念であった)や弓矢は、幸(さち)と
いい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の
得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。古くから漁師や猟師は、獲物(えもの)
を獲る(える)と神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。
このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なり
わい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にも
あり、地鎮祭や上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。

レビ記口語訳の燔祭、火祭、素祭、酬恩祭も上記の区分で言うと「奉り」に
属するのではないかと思われますが、宗教的儀式という意味で「祭」が付与
されて訳されたのかもですね。

燔祭、オーラ― 原意は「上る」です。「焼き尽くして煙を上らせる」
火祭、イシュー 意味不明語 「火(エシュ)」による捧げもの 「食物の献げ物」の二説
素祭、ミンハー 献物という意味だが、「穀物の献げ物」と解釈されている
酬恩祭シェラミーム これはシャローム(平和)と同族の語で「和解」という意味

すべての共通点は、火で燃やされることにあります。
オーラ―は、皮だけが祭司の取り分で、他はすべて燃やされるので「全焼」と訳され
イシューは意味不明語ながら「火」と関連づけられたり、「食物」と解されたりします
ミンハーは、そもそもは、ただの供物ですが、カインは農作物をミンハーにし、
  アベルは犠牲獣をミンハーにしましたが、レビのここでは穀物の供物で焼かれます
シェラミームは神との和解のために「脂肪と内臓」だけが焼かれ、肉と皮は祭司の
取り分を取りわけた後、奉献者に返され、奉献者は家族親族友人と聖なる宴をして
食べたそうです。時にはこの宴にレビ人、寡婦、孤児、貧者が招かれたそうです。

フランシスコ会訳註によると、シェラミームは、ギリシア語訳では「救い」と訳され
ラテン語訳では「平和的」と訳されている。原語は「終了」または「達成」の意味が
あり、箴言7:14,民6:14では誓願達成のための奉献の意味で用いられているとのこと。
フランシスコ会訳註は「和解の献げ物」と訳しています。
ハーパーは、「安寧の献げ物」(ゼバハ・シェラミーム)は、
焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物と別の第三番目の献げ物であるとしたうえで
新共同訳の「和解の献げ物」とシェラミームの理解が異なると断じ、そもそもは
祝祭の食事において、献呈者によって食されたものであったとしています。
「平和の献げ物」「親交の献げ物」「酬恩祭の犠牲」「共同の献げ物」と多用に
訳されるが、性質と働きを考察すべきと論じ、この献げ物は本来、満願のためとか
特定の意志を持たない自由意思の献げ物として神への感謝を表して捧げられた。
かつてのイスラエルでは動物の屠りがすべて献げ物とみなされていた可能性があり
それゆえ、屠りはすべて聖所内で行われたのだから、食料のための屠りがすべて
安寧の献げ物の範疇に入るものであったのであろう。とのこと。

937atheist:2024/04/19(金) 02:00:13 ID:???
>>936
なるほど、日本でも古代ユダヤでも「神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還」すことが
こういった捧げ物の基底にあるようですね
自然の恵みは神(々)からの恵み、といった観念がこのような捧げ物につながっていったんでしょうね

火祭が意味不明ですが、燔祭は肉を全焼させて煙を上らせることが重要、
素祭は少なくともレビ記では穀物の捧げ物
酬恩祭は神との和解が主眼で、その方途として脂肪と内臓のみを焼くもの(ハーパーの理解は違うようですが)、
といった区別ですね


さて4章は罪祭についてですね

罪祭は記述内容から和解が主眼であった酬恩祭に近いもののようですが
役割ははっきりと「罪の贖い」であることが記されています

この罪祭がキリスト教にまで通じる贖罪の基本形であったように思われます
罪を犯した本人の代理贖罪として、ここでは仔牛や雄山羊などが屠られます
キリスト教では十字架で「屠られた」イエスをこの罪祭の最終かつ最高の形態として
解釈しているように思われます

938福音伝道:2024/04/19(金) 06:47:22 ID:BX/SFP8o
>>937
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記5章です。

罪祭の原語は、ハッタートですが、「罪」という意味です。
3節直訳
もし油注がれた司祭が罪を犯したために、民の責めになった場合、
そして彼は、彼が罪を犯した(ハタ―)ところのその罪(ハタトー)の故に、
完全な牛の子の若い牡牛を、ヤハウェへの罪(ハッタート)として近づける。

近づけると言う語は、神へ近づける すなわち「捧げる」と訳されます。

「罪」の意味しかありませんが「罪祭」だの「贖罪のささげもの」だのと訳され
ています。

論理構造としては、司祭が自分の犯した罪で、民に迷惑をかけたら、
民に謝罪するのではなくて、なぜかヤハウェに罪を犯したことになり、
つまり罪の対象がすり替わり、犠牲獣をヤハウェに捧げたら赦される
となるようです。
マフィアが人を機関銃で撃ち殺し、教会で贖罪して贖うという映画を
思い起こさせます。

ハーパーは、まず宗教的最高指導者である大司祭の罪について言及されると指摘する。
大司祭の不注意は罪を全会衆に及ぼす。大司祭の罪は不浄のうちの際たるもので
罪が聖所の神聖な場所へと浸透すると考えられたそうで、不浄を清める血の儀式が
狭義の聖所の内側で行われ、至聖所の垂れ幕に七度血が撒かれたとのこと。
この血が聖所内で祭壇を汚していた不浄なものを吸収して浄化した。とのこと。

現代人がアルコール消毒するのと似た感覚だったのかもです

939atheist:2024/04/20(土) 02:22:07 ID:???
>>938
そう言えば英語ではsin offeringとか言ってたような

単純化して言えば、罪を犯せば、それはすなわち神への罪とみなされたという感じですかね
だからヤハウェに贖罪の犠牲獣を捧げて赦してもらう、と

大祭司といえばユダヤ教徒にとっては神の神聖性を維持する最も重要な役職なんでしょうから
その大祭司が罪を犯せば聖所内が罪で穢れると考えたのかもしれませんね
で、血で「消毒」しよう、と


さて5章は諸々の罪について語られていますが
特徴的なのは「それに気づかなくても」とある部分です

これは近代的な法体系で言えば過失に当たるものでしょうが
ここでは気づいていようがいまいが同じ扱いを受けるようですね

あと後半で新しい愆祭というのが出てきました
そもそも漢字が読めませんw
これは罪祭とは異なるのでしょうか?

940福音伝道:2024/04/20(土) 13:00:51 ID:BX/SFP8o
>>939
atheistさん、こんにちは。本日と明日の聖句はレビ記6章です。

そのことに気づかなくても の原文は「そしてそれが見えなくなる」です
仰せの通り、過失のことで、訳としては「気づかずに」という意味なのですが
フランシスコ会訳註は「そのことがその人の目から隠されていても」と安易に意訳せず
より正確に訳しています。

愆祭…けんさい 変換候補で出て来んですw 愆(あやま)つ、という単語だそうです。
原語はアシャム。フランシスコ会訳註によると「咎または責任を負う」の意。
本章では、「聖なるもの」または、隣人の所有物に及ぼした損害に対する
「賠償の献げ物」を指す特殊用語として使用される、とのこと。

20%上乗せして賠償したということのようで、
最近では「賠償の献げ物」系で訳されています。
聖書協会共同訳「償いのいけにえ」新改訳2017「代償のささげ物」
新改訳2017「罪過のためのいけにえ」を新共同訳は「賠償の献げ物」

941atheist:2024/04/21(日) 01:16:06 ID:???
>>940
ちょっと違うかもしれませんが、先生の説明を読んで、たとえ人が見ていなくても
神は見ているという考えが根底にあるのかもしれないと思いました

愆祭は「けんさい」と読むんですね
こんな漢字、たぶん生まれて初めて見ましたw
「あやまつ」ということは、あやまちに対する咎または責任を負うということで
やはり罪祭あるいは罪に近いものっぽいですね
単に「聖なるものや隣人の所有物に対する損害」に意味範囲が限定されている
という感じでしょうか


さて6章は前半は愆祭の続きですが、そのあとは燔祭、素祭、罪祭のおきてについて書いてありますね

それにしてもやはり細かく書かれています
21節の「それは油をよく混ぜて平鍋で焼き」などは使用する鍋まで指定していますw

もうちょっと身近な律法については、もっと後の方で出てくるのでしょうか

942福音伝道:2024/04/21(日) 09:02:49 ID:BX/SFP8o
>>941
atheistさん、おはようございます。明日の月曜日の聖句はレビ記7章です。

21節の「それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて」
原文直訳「平鍋の上に油で、それは作られる、よく混ぜて、あなたそれを持ってくる」
聖書協会共同訳「すなわち、油をひいた平鍋で、良くこね、調理して持って行き」
新改訳2017「それを油でよくこねて平鍋の上で作り、粉々にして焼いた穀物の
ささげ物として携えて行き、主への芳ばしい香りとして献げる。」

たぶん、新改訳の訳しているように、平鍋で、まず油を混ぜて練る。
それを更に焼いて、粉々にして「献げ物」として聖所に持参し燃やす
という手順のようだが、口語訳だと油を混ぜて平鍋でこねるということが
伝わらない。原文にこねるはなく「作る」の意訳ではあるが。
口語訳だと、油で焼くというニュアンスしか伝わらいように思う。
最近の訳はだから「こねる」と訳している

身近な律法はあまりないですね。しいて申せば19章あたりでしょうか。
まあ古代イスラエルの戒めですので

943atheist:2024/04/22(月) 00:45:45 ID:???
>>942
たしかに口語訳だと単に油を混ぜてから焼く、という意味になっちゃいますね
原文の調理の過程が違ってきてしまいます

19章あたりですか…
先は長そうですw

944福音伝道:2024/04/22(月) 05:32:02 ID:BX/SFP8o
>>943
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記7章です。

フランシスコ会訳の小見出しです
7章は、特になく、6章 祭司の守るべき献げ物の規定 の続きです
8章-10章 第二部 アロンとその子らの祭司叙任式
8章 準備 塗油の儀 献げ物の儀 
9章 アロンの初祭儀 
10章 ナダブとアビブの罪と死 祭司に課せられた禁令 会食と祭司の取り分
    贖罪の献げ物の事件
11-16章 第三部 律法上の清浄
11章 一、清い動物と清くない動物 死骸による汚れ 昆虫と爬虫類 結び
12章 二、出産に伴う穢れ
13章 三、皮膚病 四、衣服のかび
14章 五、思い皮膚病患者の清め 六、家屋のかび 結び
15章 七、露出による汚れ 結び
16章 八、贖罪の日 補足・贖罪の日の断食と安息 結び
17-26章 第四部 神聖法典
17章 奉献の場所 血についての禁令 
18章 禁じられた性関係
19章 日常生活の倫理
20章 刑罰 21章 祭司の聖性 22章 奉献の聖性 23章 祝祭歴
24章 幕屋の調度 冒涜に対する罰 25章 安息の年 ヨベルの年
26章 神聖法典の根本原理 従順に対する祝福 違反に対する呪い
   イスラエル民族再興の保証 結び
27章 補遺 奉献物の買い戻し 買戻しの特別条例

945atheist:2024/04/23(火) 00:37:51 ID:???
>>944
小見出し、ありがとうございます

11章くらいからはダイレクトにユダヤ教の清浄観が語られているようなので
そこまでの我慢ですねw

さて7章は37節に「燔祭、素祭、罪祭、愆祭、任職祭、酬恩祭の犠牲のおきて」と書かれているように
各供え物の犠牲に関する詳細になってますね

それにしても23節で脂肪を食べてはならない、と言われているのは
どういう理由なんでしょうか?
血は命を表すのでなんとなく分かりますが、
脂肪はどうして食べてはいけないことになってるんでしょうか

946福音伝道:2024/04/23(火) 06:12:05 ID:BX/SFP8o
>>945
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記8章です。

脂肪を食べてはいけないのは
3:16脂肪はみな主に帰すべきものである。
と規定されているように、古代イスラエルにあって最上のものである脂肪は
ヤハウェのものとして焼かれたからです。

とはいえ、実際は
フランシスコ会訳註では、肉についている脂肪や、奉献用ではない脂肪は食べたそうです。
ハーパーでは、いかなる動物の脂肪も食べることを禁じられたが、通常の動物の脂肪と
鳥の脂肪は食べてよかったとあります。また死んだ動物の脂肪は石鹸づくりに利用された
そうです。

漫画的にイメージ化しますと、ヤハウェに捧げる犠牲獣のうち、脂肪は
良く燃えますので、最上のものとして、炎があがるさまを、ヤハウェが
舐めまわしているとみて、奉献者たちは喜んだようです。
それで脂肪はヤハウェのものだから、食べては駄目 食べたら一族から絶つ
からね。と怖い禁止となったようです。
でも、それはあくまで奉献した犠牲獣の脂肪ですので、自分たちで食べる分の動物の
脂肪は食べたみたいです。

聖書協会共同訳9:24
主の前から炎が出て、祭壇にある焼き尽くすいけにえと脂肪をなめ尽くした。
これを見て、民は喜びの叫びを上げ、ひれ伏した。

947atheist:2024/04/24(水) 00:02:50 ID:???
>>946
なるほど、脂肪はよく燃えるので炎が上がる様を見てヤハウェがそれを食していると考え
ヤハウェへの供え物として最上と認識してきたため、犠牲獣の脂肪は民には禁止されたんですね
その他の脂肪であれば実際は民も利用したり食べたりしてきたってわけですね


さて8章はアロンとその子たちの聖別について書いてある章ですね

祭司の聖別についてはこれまでも何度か書かれていましたが
殊更強調されているところを見ると、やはりレビ記は祭司職の手になる書であり
祭司職(レビ族)の権威を一般の民とは区別し強調する意図が記述の動機としてあるように感じられます

のちに政治的権威となっていくユダ族(ダビデの家系)とレビ族との関係は
どのようなものだったのでしょうか
それぞれ政治的権威と宗教的権威が分権的に機能していたのか
相互補完の関係にあったのか、敵対的関係にあったのか…
時代によっても異なるでしょうが、基本線としてはどのような関係にあったのか気になります

948福音伝道:2024/04/24(水) 06:25:30 ID:BX/SFP8o
>>947
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記9章です。

モーセと、アロンとその子らの関係は、モーセの祭司的補助をアロンとその子らが
しましたが、ダビデ時代では、アロンの子孫らは、祭司という特別職のままでしたが
ダビデは新しい賛美スタイルを確立し、モーセの幕屋をキブオンに置いたのですが
そこにはダビデ自身は参らず、シオンにダビデの幕屋を新設しました。
そして犠牲獣の屠りは従来通りささげたものの、精神的な賛美を新たに導入し、
精神的な賛美である「音楽奉納」のリーダーをアロンの子孫以外のレビ族から
選び、ギブオンのモーセの幕屋にはケハテ族ヘマンとメラリ族エタンを派遣し
ダビデの幕屋にはゲルション族のアサフに担当させました。

息子のソロモンの時代には、この二つの幕屋が統合されてソロモン神殿となります
そして音楽奉納は継続されました。もちろん、レビ族が担当しています。

この意味でダビデ、ソロモン代には相互補完関係であったように思います。

949atheist:2024/04/25(木) 01:01:49 ID:???
>>948
そうするとダビデは音楽奉納という新たな賛美スタイルを導入して
アロンの子孫以外のレビ族にそれを任せたものの
アロンを含むレビ族とは対立関係にあったのではなく
相互補完的に祭儀を発展させた、という感じになるんですね
政治と宗教が互いに支え合う関係、といったところでしょうか


さて9章は全焼の続きで、アロンたちによる捧げ物の詳細ですね
例によって〜祭と名付けられた各種捧げ物をアロンたちが行う様子が描かれています
最終的には24節にあるようにヤハウェがこれら捧げ物に火でもって応える形で終わっています
この「主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした」というところが
前に説明していただいた脂肪の重要性を表してますね

前に示していただいた小見出しだと、明日が祭儀系の最終章っぽいですね
ようやく儀式から解放されますw

950福音伝道:2024/04/25(木) 06:08:14 ID:BX/SFP8o
>>949
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記10章です。

8:35あなたがたは会見の幕屋の入口に七日の間、日夜とどまり、
9:1八日目になって、

俗から聖別されて、聖となるための期間が、つまり任職祭が七日間もあったことに
驚かされます。注ぎ油と祭壇の上の血で聖別されても、ただちにOKではなく
移行準備期間として七日もかかったのです。そうしてはじめて祭司として
神の領域に奉仕できるようになったわけですね

9:24原文直訳
そしてヤハウェの面前から火が出た。
そして祭壇の上で全焼の献げ物と脂肪とを食べた。
そしてすべての民は見た。
そして彼らは叫んだ。
そして彼らは彼らの顔の上に倒れた。(ひれ伏した、との意味)

原文では、燃えるさまを見て、ヤハウェが食べたとイメージしている情景が
浮かびます。
しかも興奮して叫び、そしてひれ伏しているわけで
炎と煙を見て感動的しているのです

951atheist:2024/04/26(金) 02:42:31 ID:???
>>950
さらっと流してましたが、たしかに聖別に7日間必要というのは
それだけ聖別がたいへんなことだということですね

原文だとはっきり「食べた」と言ってるんですね
かなりリアルなイメージです
逆に火が燃え盛ったり雷が轟いたりする様を見聞きして
古代の人はリアルに神を感じたのでしょうね


さて10章はアロンの子ナダブとアビフがヤハウェお命令を守らなかったことで
焼き滅ぼされたという話です

ヤハウェの聖性と絶対性を強調する話として語られているのでしょうが
なにも殺すことはあるまいに、と思ってしまいますw
火を扱っていますから、おそらくはこういった事故が実際にあって
それにこのような教訓話を添えたのだと思います

16節以下のモーセとアロンの会話がよく分かりません
モーセはエレアザルとイタマルが命令どおりにしなかったことに怒っていますが
アロンの言を聞いて、良しとしています
これはどうしてでしょうか?

952福音伝道:2024/04/26(金) 06:07:32 ID:BX/SFP8o
>>951
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記11章です。

異火 原文は「他の火を」 彼が命じなかったところの他の火が何を指すか不明と
フランシスコ会訳註。執行時間が違ったとか、方法が違ったとかいろいろ推論され
ているとか。いずれにせよ、規定に反した火であったため、原文では
そしてヤハウェの前面から火が出た
そして彼らを食べた
そしてヤハウェの前面に彼らは死んだ。
この感じから受ける印象は、推察通り「火の事故」があった感じですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」
普通に読めば、ここは悲しみの表現であるが
「あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」
と、結び付けて想像すると、祭司は聖性のために油を注がれ、長い服を着て
髪もあった上で、祭壇で火を扱っていたとすれば、燃えやすかったという
条件が揃ってますね。

10:16以下をフランシスコ会訳註もハーパーも福音派も解説していないので
私の感想を書いておきます。
まず、フランシスコ会訳註は、アロンのミスだが、アロンの子に対してモーセが
怒ったのはアロンの顔をつぶさないためとだけ解説しています。
司祭らが食べることで、会衆の罪を贖うための犠牲獣を焼いてしまっていたの
ですから、モーセが怒ってしかるべきなのですが、アロンは、今日、異火を
使ってヤハウェを怒らしたわれわれ祭司が食べていたら、ヤハウェは果たして
喜ばれただろうかとモーセに答えます。そこでモーセは、あっ食べずに燃やした
ほうがましかと納得したのかもですね

953暇人 A:2024/04/26(金) 09:57:10 ID:???
https://talk.jp/boards/psy/1713677840/714
714 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2024/04/26(金) 09:52:09.76 ID:OROAS [2/3] 0
ほーかいくん〜の
最大の天敵の
福音伝道があらわれた〜〜〜
福音伝道の獅子奮迅のレスが楽しみだ〜〜

954atheist:2024/04/27(土) 02:58:03 ID:???
>>952
わたしは「異火」と書いてあるところから、単に命じられていない火を使って
それがヤハウェの逆鱗に触れた、と解釈していました
なんにせよ、相当厳しい処分ですね

「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。」というのは
ヘブライ語聖書でよく出てくる悲嘆の表現ですよね
わたしはナダブとアビフが死んだことを同じ祭司は悼んではいけないと言っているのかと思いました

なるほどモーセが納得した理由は、アロンの「一度ヤハウェを怒らせてしまったのだから
そのまま何もなかったように祭司が食べていたらヤハウェは快く思わないだろう」という主張に
納得したと考えられる、ってことですね
これだと筋が通ってそうです


さて11章は食物規定ですね
食べていいものといけないものを細かく指示しています

一貫して出てくる死体に対する忌避は通常感覚でもよく分かるのですが
ひずめと反芻に拘っているのはなぜでしょうか?

また虫やトカゲ類などを食べてはいけないというのも感覚的には理解できますが
鳥類の区分けはどうなっているんでしょう?
たしかに挙げられた鳥は普通あまり食べないなというものが多いように思います
単にまずいということでしょうか?
ちなみに鳥類になぜかこうもりまで入っていますw

955福音伝道:2024/04/27(土) 14:57:48 ID:BX/SFP8o
>>954
atheistさん、こんにちは。土曜と日曜の聖句はレビ記12章です。

ハーパーによると、祭司制度が世界を三分したそうです
1.コーデシュ(神聖)
2.タホル(標準)
3.ターメー(異常)
神聖と異常の領域には、様々な度合いがあり、最高に神聖な聖所の最奥が、
力の頂点だったそうです。
異常の領域は神からかけ離れた「死と混沌と不規則」な領域で
人々は各領域間の境界を前進したり後退したりしていたそうです。
ターメーとされたものと接触すると、通常住んでいるタホルの境界の外へと
追いやられることになり、タホルに連れ戻すためには一定期間と儀式が必要に
なったそうです。また一般人はタホルからコーデシュにも行けたそうです。

なぜ、「ひずめ」と「反芻」にこだわったのは不明ですが、フランシスコ会訳註は、
豚などは異教徒が用いたので、反発されて禁止されたのではと推測していますし、
岩狸とうさぎは反芻にしないので誤認と指摘した上で、頭を動かして食べるので
反芻と思ったのだろうと推定しています。
福音派は語義から「原文直訳 食べ戻しをあげるもの」の「あげるもの」から
テキトーなことを主張しています、
また「原文直訳 ひづめを割るもの」についてもテキトーで強引な解釈をしています

鳥の区分について、フランシスコ会訳註は、
廃墟に住むものや、死肉を食べる鳥が禁忌とされたとした上で、
挙げられている鳥名は不明なものもあると指摘しています。

ちなみに、11章の規定をキリスト教は廃棄したそうです。
ユダヤ教の一部は守っているそうです

956atheist:2024/04/28(日) 02:33:07 ID:???
>>955
三分は聖・俗・穢れ、といった感じでしょうかね

蹄と反芻については、よく分かっていないのですね
一応異教で用いられる動物を忌避するところからはじまって
のちに総体的に分類する際に、理由付けとして蹄と反芻を理由として用いたのかもしれませんね

鳥については廃墟に住まうものや死肉を食べるものということで
こちらは納得しやすいです

キリスト教は基本的に食事規定ってないですからね
これは福音書の中の「口から入るものが人を汚すのではない」というイエスの言が
根拠になっているんでしょうか?


さて12章は出産にまつわるおきてです

出産に際して母子ともに清めの期間が置かれるのは分かりますが
なぜか女の子の出産は男の子の出産の倍の清め期間が必要になっています
これはどうしてでしょうか?

957福音伝道:2024/04/28(日) 08:41:23 ID:BX/SFP8o
>>956
atheistさん、おはようございます。今日はお休みで明日の聖句はレビ記13章です。

キリスト教にユダヤ教のような食事規定がない理由をAIのCopilotに尋ねましたら、
宗教的背景:
ユダヤ教は旧約聖書に基づいて食事の制約を明確に定めています。これに対して、
キリスト教は新約聖書を中心に信仰されており、食事に関する規定は比較的緩やかです。
イエス・キリストは、律法を完全に守ることよりも、愛と慈悲を重視しました。そのため、食事規定に厳格な制約を課す必要性は低くなりました。
新約聖書の教え:
新約聖書では、イエスが「何でも食べてよい」と宣言したことが記されています(マルコによる福音書7:18-23)。
イエスは、食べ物そのものよりも、人々の心の清浄さを重視しました。
異文化との接触:
キリスト教はユダヤ教から発展した宗教であり、異なる文化や民族との接触が
増えました。これにより、食事規定を柔軟に適用する必要が生じました。
使徒会議の決定:
使徒会議(紀元50年ごろ)において、ユダヤ教からキリスト教への改宗者に対して、
ユダヤ教の食事規定を厳格に守る必要はないとの判断が下されました(使徒行伝15:28-29)。
この決定により、キリスト教徒はユダヤ教の食事規定を必ずしも守る必要はなくなりました。

マルコ7:19それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、
そして、外に出て行くだけである」。
イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
使徒15:28すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、
どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。
15:29それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、
避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。
以上」。

マルコは説得力ありますね。「どんな食物でもきよい」と仰せですので。

ハーパー曰く、出産は母親の日常生活からの脱退の時と、三段階の再入過程によって
特徴づけられているそうです。一つの過渡期だそうです。
1.7日間の汚れの期間(男児の場合、女児は倍)…家庭と家族からの隔離
2.8日目に儀礼的な入浴と割礼…通常の家庭生活を回復するも、宗教儀式は除外
3.33日間隔離(男児の場合、女児は倍)を経て、宗教儀式に参加可能

女児出産の場合、期間が倍なのは、ハーパーの推測では、
女児を生むことで、将来、母親がまた血によって穢れる子供を持つからであろう
とのこと。ただし、原文では期間完了後、「罪が赦される」とはなく、
「清くなる」とあることから、罪とは考えてられていないことを強調しています

7日間、隔離されて、ゆっくり休み、
33日間、公的行事を免除されて家庭でゆっくりできたと
考えていると休養ボーナスだったかもです。女児の場合はボーナスが倍。

958atheist:2024/04/29(月) 02:44:07 ID:???
>>957
生成AIの回答は一般的に言われていることを総覧的に要約するのに優れてますね
人間の場合はなかなかすぐに総覧的な知識は出てこないので、こういうときには便利ですね

マルコ7:19のイエスの言も、考えてみればこれまでのユダヤ教の律法(この場合は食事規定)に対して
完全に否を突きつけていることになるので、かなり革命的なことだったと思います
それに対し使徒15:28で書かれている使徒たちの決定はユダヤ教の伝統を重視する派閥と
異教からの改宗者の間をうまく取り持つように配慮された妥協案で、イエスの過激さを薄めているようです

女児出産が男児の場合に比べて倍になっているのは
その女児が将来また子を生むことになるのを勘案している、ということですね
さすがに出産が「罪」とは言えず、単に穢れと清めという枠で考えられているわけですね

たしかに清めの期間は休養ボーナスと言えそうですw
そうすると女児の場合のほうがかえってお得ということになりそうですw

959福音伝道:2024/04/29(月) 08:37:03 ID:BX/SFP8o
>>958
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記13章です。

生成AIの回答は、間違っている場合もありますが、なかなかのものですね。

女性は産褥のために、社会から排除されたとも見えますが
古代にあって、休養期間とみると、また違った側面が浮かび上がるかもです。
殊に出産は母体にいのちの危険が伴う大行事です。釈尊の母親も産後に亡くなって
います。古代にあっては「命懸け」であったろうと思われます。
ただ一般的に女児より男児のほうが身体が弱く手がかかったはずなのですが
女児が倍になっているのは宗教的な意味付けで、合理的ではなかったのかもです。

960atheist:2024/04/30(火) 02:48:41 ID:???
>>959
特に古代では衛生環境がそれほど整っているわけではなかったでしょうから
産後は母子ともに感染症などの危険にさらされることがありますよね
そういったことも含めて、母子を守るという側面もあったのでしょうね


さて13章は皮膚病についてです

これまた事細かに皮膚病について書いてありますが
診断は祭司に任されています
古代ユダヤ社会では、現代で言う医者はいなかったのでしょうか?
それとも皮膚病の場合はなにかしらの罪の結果というような観念があって
祭司にその判断を任されたのでしょうか?

書いてある内容の詳細さから言って、コミュニティに感染を拡大するおそれがある皮膚病を
隔離して抑止する意図が伺えるので、ここでの祭司は医者の代替であったように感じられます

961福音伝道:2024/04/30(火) 06:18:55 ID:BX/SFP8o
>>960
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記14章です。

13:2原文直訳
アダム(人間)が、もし彼の肉の皮に、隆起したもの、または結ぶもの、
または光るものがあるならば、そして彼の肉の皮にツァラアットの打撃があるならば
すると彼はアロンに、または祭司に、彼の息子たちの祭司蓮の一人に連れて来られる。

つまり、この時代、祭司という宗教者が皮膚病かどうかを判断していたのです。
そもそもはレビびとのみが祭司として医療行為をしていたわげてすが、預言者らも
聖書では医療行為をしていますので「宗教」=「医療」であったのかもですね。
新約では主イエースースや弟子も悪魔追い出しや病癒しをしています。

962atheist:2024/05/01(水) 01:26:10 ID:???
>>961
やはりユダヤ教は病気に対して宗教的な意味を持たせていたから
医療行為は祭司(のちには預言者)が行うようになった、ということですね
実際には単に祈祷や奇跡で治したというよりも、レビ記の記述に見られるように
かなり細かく観察をしているので、それなりに現実的なところもあったように感じられます


さて14章は引き続き皮膚病についてですが、ここでは特にらい病(ハンセン病)に対する対処が
語られているようです

と言っても、訳語や「らい病」となっているだけで、要はツァーラアトですよね?

一応毛を剃ったり水で清めたりといった感染予防措置的なことはされるようですが
それよりも宗教的儀式の意味合いが強いようです

それにしても他にも様々な病気、特にマラリア等の感染症もあったでしょうに
なぜここまで皮膚病に対して強い警戒を示しているのでしょうか?

963福音伝道:2024/05/01(水) 05:49:28 ID:BX/SFP8o
>>962
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記15章です。

ツァラアットです。
ハーパーによると、
第一に病に冒されている者の「清め」の儀式
第二に、通常の人々の生活の中で、その人の地位を回復するための儀式
が描かれているとします。

フランシスコ会訳註は、5-7節の儀式は死人状態から復帰の儀式と同じと
解説しています。

重い皮膚病や家屋のカビは伝染したことから、社会から嫌われ疎外され排斥された
ということがあって、「清め」と「社会復帰」への儀式が整備されたのかもですね

ちなみに14:34a
口語訳 家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、
聖書協会共同訳 私がその地の家に規定の病の患部を生じさせたなら、
新共同訳 あなたたちの所有地で家屋にかびが生じるならば、
新改訳2017 わたしがその所有地にある家に、ツァラアトに冒された箇所を生じさせたとき、

「かび」と訳されたりもしますし「かび」のことですが、原文は家屋の場合も
「ツァラアットの打撃」です。

964おともだち2:2024/05/01(水) 11:05:29 ID:KNQNXxY2
順天堂大学老人性疾患病態・治療研究センターのある人物は、かなり以前から、他社(製薬企業)の大規模な新薬開発プロジェクトの詳細な進捗状況を(株)日本セルヴィエという外資系の企業に秘密裏に情報提供している。やがて大きな問題になるだろう。

965atheist:2024/05/02(木) 01:31:25 ID:???
>>963
やっぱりツァラアットなんですね
単に社会からの排除でおしまいではなく、ちゃんと社会復帰まで視野に入れたうえでの
儀式になってるところが重要ですね
皮膚病でもカビでも、いつ誰が被害を被るか分かりませんから、単に社会から隔離してしまえば
いいという訳にはいかないですからね

皮膚病もカビも同じツァラアットで表現されるということは
ものの表面に生じた変質をツァラアットと言ったのもしれません


さて15章は身体からの液体の漏出についてです

15節までは怪我や病気による体液の漏出に関してだと思われますが
それ以降は男は射精、女は生理についてということになりそうです

16節は女性と同床した場合ではないので、これは自慰あるいは夢精ということになるのでしょうか?

宗教書でこういったことについて事細かに書かれるというのは、非常に珍しいことなんじゃないかと
思われます
逆に聖書でこういったことまで書かれているということは
聖書が単に宗教書であるだけでなく社会的な法規まで含んだ書だということになりますね
まあすべてが神の配下にあるというのがユダヤ教ですから、当然といえば当然なのかもしれません

966福音伝道:2024/05/02(木) 05:56:43 ID:BX/SFP8o
>>965
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記16章です。

16節は、一人でした場合ですね。無精と自慰ですね。
またフランシスコ会訳註によると16-18節は祭司ではない者には適用されなかったと
ラビ伝承が伝えているそうです。
逆に聖所に入る時のみならず、戦争に行く場合も(主のために戦う場合)、性関係が
禁じられたそうです。

女性の出産の場合は、40日か80日律法上不浄とされ、その後清いものとされた
わけですが、男性の精の露出も「精の露出」(原文・ザーラの層が出る時)、によって
命の一部が消耗するとみなされ、体力が回復するまでは律法上不浄とみなされたそうです。
また、聖所には入らないイスラエル人以外の者には、この規定は適用されなかった
そうです。

ハーパーは、いきなり
2-15節を「淋病」の結果としての「病的な露出」と断定しています。
16-18節 正常な精の露出
19-24節 正常な生理
25-30節 女性の病的な出血

淋病の人は、一時的には接触や唾液を通して、
二次的には、触れたモノをとおして他人様に悪影響を及ぼしたそうです。

31節では、汚れに対する法体系の背後にある思想が語られているそうです
つまり、聖所を汚す不浄を警戒しているわけですが、なぜかというと
「死をもたらす神の怒りを被ることがないように、規則や布告が啓示された」
そうです

967atheist:2024/05/03(金) 01:46:38 ID:???
>>966
ということは一般人に関しては自慰等は「お咎めなし」ということなんですね
聖所に入ったり「聖戦」をしたりするときには、神のみ前に出るということで
穢れが伴うと考えられた性関係はご法度だったということですね

「精の露出」が「命の一部の消耗」とみなされたというのは
科学的には文字通りに正しいことになりますが
当時はもう少しマンガ的にというかゲーム的にというか、HPの消耗くらいの感覚だったのかもしれません

前半部分は淋病と断定していいんでしょうか
これも当時性病と言えば、淋病だったのかもしれませんね


さて16章はスケープゴートに関する章だと思いますが
ここでは説明なく「アザゼル」ということばが出てきます
このアザゼルというのは原語的にはどのような意味なのでしょうか?

ヤハウェのための犠牲とアザゼルのための雄羊があり
アザゼルのための雄羊は荒野に放たれるということは
アザゼルなるものが荒野におり、それに少なくともここでは
ヤハウェのための罪祭と同等の価値を認めているように見えます

英語的なスケープゴートという解釈では罪を他者に負わせて贖うという側面が強調され、
アザゼル自体は無視されますが、わたしは「アザゼルのために」という部分が気になります

968福音伝道:2024/05/03(金) 08:56:31 ID:BX/SFP8o
>>967
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記17章です。

アザゼルは原語的には解明されていず、ハーパー、フランシスコ会訳註、ミルトスは
諸説あるとしつつも、諸説について紹介していません。
ネットでは諸説の一つが恰も確かなように紹介されています。
1.wiki…「強い、ごつごつした」を意味するアズ と「強大」を意味するエルの合成語
     タルムード釈義では荒野の峻嶮な岩山か断崖を指すとされる
2.福音派…「やぎ」(エーズ)と「立ち去る、消え失せる」(アーザル)の複合語
 scapegoat (初出16世紀)は scape (escape, 逃げる)と goat (山羊)の合成語

フランシスコ会訳註によると、初期にはヤギは「不毛の地」に逃がされていた。
衰弱して死ぬか、野獣に食い殺されたそうです。後代ではエルサレムの東12kmの
ところにある岩の崖に連れて行かれ、そこから後ろ向きに突き落とされたそうです。
で、その場所を「アゼザル」と呼んでいたらしいのですが、この儀式がユダヤ人に
よって言い伝えられていくうちに、地名が人格化されて、「荒れ野の鬼神」を意味
するようになったそうです。
『エチオピア語エノク書』には、悪魔の頭目として現れるらしいです。

ハーパーは、アゼザルが場所か、悪魔であるか、「汚れた」荒れ野の擬人化であるか
は断言できないという慎重な立場です。

新共同訳聖書辞典は、贖罪の日に用いられる二頭のヤギの内、全国民の罪を背負わせて
荒れ野に放たれた1頭のヤギを受け取ると考えられた超自然的存在。
すなわち荒れ野に住む鬼神の名と考えられる。罪を清めるために、罪の源であるところの
鬼神に、それを送り返すという思想の表れである。

「アザゼルのために」、原文では、前置詞+固有名詞 ラ・アゼザルです。
レビ16章にだけアゼザルが四回出てきますが、すべてラ・アゼザルです。

ヤハウェに一頭、アゼザルに一頭を捧げたわけですので、そもそもは
ヤハウェとアゼザルが同格の感がありますね。
全体としては、アロンの息子二人が聖所を汚したので、彼らは死に、死後、二人の
罪を贖うために、二頭のヤギが捧げられたのですが、二人なので二頭は説得力ある
として、なぜアゼザル?という感じはありますね

969atheist:2024/05/04(土) 01:27:04 ID:???
>>968
どうやら諸説あっても確定的なことは言えないということのようですね
一応元々地名ないしは地形名であったものが人格化あるいは擬人化されて
ある種の悪魔のように考えられていた、というのがもっともそれらしい説という感じでしょうか

実際上、放逐されたヤギは餓死するなり野獣に食い殺されるなりして死ぬということは
ヤハウェに捧げる場合と同様、犠牲にすると言っていいようですね

新共同訳聖書辞典の場合は、さすがに悪魔に犠牲を捧げると言うわけにはいかず
罪の源である超自然的存在に罪を送り返す、と解釈しているわけですね

レビ16章にだけにだけ登場するということを鑑みても
ここは早計な断定を避けて、もう少し考えてみたほうがよさそうですね


さて17章は主に動物の血について書かれているようです

血は命であるから、血は食べてはならず、また命でもって命を贖うために使用されなければ
ならない、と説いているようです
そのため血は祭壇に注ぎかけるものとされていますね
この血(命)の贖いというのが、キリスト教の十字架解釈にまで
脈々と続いているように感じられます

7節は時代的にはどう考えても荒野放浪時代ではなく
カナンの地に定着して以降の話のように思われます

エホバの証人が輸血を拒否していた根拠の聖句はやはりここなんでしょうか?

970福音伝道:2024/05/04(土) 07:50:40 ID:BX/SFP8o
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ記18章です。

口語訳17:7a
彼らが慕って姦淫をおこなったみだらな神に、再び犠牲をささげてはならない。
聖書協会共同訳
彼らが慕って淫らなことをしてきた山羊の魔神に、二度といけにえを献げてはならない。
新改訳2017
また、彼らが慕って淫行をしていた雄やぎの偶像に、もういけにえを献げなくするためである。
原文直訳
そして、彼らが淫行していたところの雄山羊たちに、彼らのいけにえたちを再び屠らない。

「みだらな神」「山羊の魔神」「やぎの偶像」の原語は「雄山羊たち」です。
つまり、元々は、家畜を飼うものたちは、その家畜を屠る時、荒野の「雄山羊たち」
という名の超自然的存在に犠牲を捧げていたそうなのですが、その儀式が
みだらであったそうです。しかも大地に殺した獣の血をどぼどぼと流していた
そうです。
これに対して、ヘブライ語聖書は野蛮として否定して、「血」は「いのち」そのもの
であるから、「血」を流して食料にしたり、ヤハウェに捧げる時は、規定の儀式を
聖所でしなさいと定めたようです。そして「血」は食べるものではなく、聖所に
注ぐものと決められたみたいですね。

エホバの証人のサイトでは、
(創世記 9:4。レビ記 17:10,14。申命記 12:23。使徒 15:28,29)を根拠聖句
として「血を避けるものとしている」と主張しています。
そこは、「血を食べるな」であって、「輸血するな」ではありませんが

971atheist:2024/05/05(日) 02:27:53 ID:???
>>970
原語はただの「雄山羊たち」なんですね
そうするとヘブライ語聖書でよく出てくる異教の神々、特にカナン地方の神々とは別っぽいですね
もともと家畜を飼う人たちが荒野の超自然的存在に対して犠牲を捧げていた対象を指していて
その犠牲のやり方が「みだら」であった、ということで、のちに言われるような異教への傾倒を指して
「姦淫」と言っていたわけではないようですね

また血を命とするユダヤ教から見れば、犠牲獣の血はそのまま大地に垂れ流していた状態だったので
それを否定して聖所に注ぐようになった、と

エホバの証人の根拠聖句はレビ記のここ以外にもあるんですね


さて18章は性交に関する禁忌を述べた章ですね

ともかく18節までは、これまた事細かに近親相姦の禁止について書いてあります
端的に「親族を犯してはならない」と一言言えば済みそうなのに
まるで近代の罪刑法定主義のように具体的にひとつひとつ書き出しています

そのあとは不倫や獣姦、同性愛の禁止などがさらっと書かれています

気になったのは15節です
ここはなんで「あなたの息子の嫁を犯してはならない」ではなく「あなたの嫁を犯してはならない」
なんでしょうか?これは昔の日本でよくあった、舅が息子の嫁のことを「うちの嫁は…」と表現するのと
同じなんでしょうか?

972福音伝道:2024/05/05(日) 21:52:42 ID:BX/SFP8o
>>971
atheistさん、こんばんは。本日はお休みです。明日の聖句はレビ記19章です。

一応、6節で原則を述べて、18節までは具体例が列挙されています。

18:6あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。
わたしは主である。
原文直訳 誰でも彼の肉のすべての肉親に、裸を暴くために あなた方は近づかないように。
私は主である。

「犯す」の原文は「裸を暴く」です。和姦というよりレイプぽい感じですね。

嫁は「カラ」ですが、日本語の「嫁」と同じく「息子の妻」のことのようです。

ハーパーによると男性と特定の女性たちの「裸体を暴露すること」(性関係)は、
異常なものとされ結婚を禁止されたそうですが、ここでは
実の娘と姪との関係は禁止されてないそうです。
勿論、実の娘とは(出21:9)で禁止されそうですが、姪はOKだったそうです。

エジプトの王族は兄弟姉妹で結婚したり、ラムセス2世は父娘婚をしているので
エジプトとカナンでは。禁止結婚があったのかもですね

973atheist:2024/05/06(月) 02:13:11 ID:???
>>972
「裸を暴く」というのは一種の慣用表現なんでしょうね
ちょっと露骨な感じがしますが

やはりこの「嫁」は「息子の嫁」ということですか
日本語の嫁もそうですが、「他家から嫁いで来た女」というような意味でしょうから
自分の嫁はすでに嫁いでから数十年経って十分に自分の家に同化してしまっているため、
嫁と呼ぶ意義が希薄になってしまって、嫁と言えば息子の嫁と考えられるようになったのかもしれません
それに息子の嫁の場合は自分の嫁とは違い、他家の者という感覚も強いでしょうしね

姪はOKというのはどういう感覚なんでしょうね
甥-叔母関係だと、男は一世代上の尊属に当たる女性と性関係を結ぶことになるので忌避されたのに対し
姪-叔父関係だと、男は一世代下の卑属にあたる女性と性関係を結ぶことになり、これは男性優位社会では
許容範囲だったのかもしれませんね

974福音伝道:2024/05/06(月) 11:23:52 ID:BX/SFP8o
>>973
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記19章です。

叔父姪の結婚は、wikiによると「スペイン・ポルトガルの王族やドイツ諸侯の間では
叔姪婚がしばしば行われた。」そうですが、日本の民法では禁止されているとはいえ
1980年代の調査では、農業後継者の確保等の要請から親族間の結婚が少なからず
行われ、地域的特性から親族間の結婚が比較的多く行われるとともに、
おじと姪との間の内縁も散見されているそうです。

古代中世では、同レベルの相手ということで、結果的に「いとこ婚」が増え
結果的に「叔父姪」の結婚もあったようです。内縁関係に広げれば日本農村でも
見られるそうです。
これは、結婚相手を同族に求める結果、血が濃くなった結果なのかもですね
殊にユダヤ人の場合は、宗教的同一性を求めると同族結婚が増えていったので
それを律法で禁止しタブーにしていったのかもです。

でもなぜか姪は見逃されたのは、同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなった
ためなのかもです。

975atheist:2024/05/07(火) 01:54:58 ID:???
>>974
やはり実際にも叔父姪間の結婚はそれなりに多くあったみたいですね

同信仰かつ同一ランクの相手が少なくなったのだとすれば
叔母甥間の結婚も叔父姪間の結婚と同じくらいの頻度で起こりそうですが
それが一般に少ないとすれば、やはり男が卑俗の女を娶ることはよしとされていても
男が尊属の女を娶るのは抵抗があったようにも思われます
ただ現実的には男が尊属の女を娶るというのは、女性の高齢婚ということになってしまうので
妊娠・出産的な観点から忌避されたと考えたほうがいいのかもしれません

こういうのも実態を調べてみると面白い発見があるかもしれませんね


さて19章は十戒の拡大バージョンのような感じですね
特定の分野の戒律というよりも様々な分野の戒律を集めたもののようです

9-10節は今で言う生活保護の制度に似て、古代においてこういった戒律があったことは
驚きですね

13節なども今で言う労働基準法のようなもので、ユダヤ教が社会的弱者の保護を
戒律化していたことが伺われます

感銘を受けたのは15節の「貧しい者を片寄ってかばってはならない」という箇所です
社会的弱者の保護を強く打ち出しているにも関わらず、法の正義については
弱者への同情から正義を曲げて裁いてしまうことを戒めています
このへんは当時のユダヤ人が極めて発達した正義の観念をもっていた証拠のように
思われます

18節はイエスの説法でも使われていた部分ですよね

19節はユダヤ教の「潔癖主義」の表れなんでしょうか
特に「家畜に異なった種をかけてはならない」というのは
品種改良を禁止することにもつながっていきそうです
もちろん同一種の間での優生個体同士の掛け合わせなどはあったのでしょうが

26節では、はっきりと占い・魔法の禁止が書かれていますね

27節は、あのユダヤ人保守派の独特の風貌の元になている戒律でしょうか

この章はユダヤ人の考え方や風習を規定している戒律が多く書かれていて
とても興味深い章でした

976福音伝道:2024/05/07(火) 05:37:12 ID:BX/SFP8o
>>975
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記20章です。

フランシスコ会訳註によると、
ユダヤ人の間では本章をレビ記の中心、モーセ五書の中心、律法の神髄と伝えられた
そうです。十戒のあらましのようなもので、「隣人をおのれのように愛せよ」という
最高の社会的道徳基準を示しているそうです。1-18節と19-37節に二分しています。

一方、ハーパーは、1-2節序説 3-8節神に対する聖性 9-36節 人間の事柄における聖性
に分けた上で、混乱し、折衷的であるが、十戒に並行した祭司的命令であるとします。
まず、神が聖なるものだから、人間も聖なるものであるようにしなければならないと
序説で論じられた上で、3-8節では神との関係における聖性。以下は個人的な人間関係の
中で生き抜かれる生活に関することが命じられているとみています。

具体的には、両親への敬意が神への務めの第一に置かれ、次に安息日、
第三に偶像礼拝禁止、第四で祭儀規定遵守となっていて、両親の敬意が中心に
なっている点が十戒の前半部と類似していると指摘しています。

人間については、まず社会階層の中心から最もかけ離れた「貧しい者と寄留者」の
ことから始められ、落穂拾いの保証が律法化されていると指摘しています。
次の11-12節は商売仲間との関係で「盗むな、騙すな、嘘をつくな、神の名で誓うな」
と命じられ、13-15節では簡単に雇用できる人々のとの関係において、虐げたり、
盗んだり、その日のうちに労賃を支払わなかったりしては駄目と規定され
目や耳の不自由な人の弱みに付け込んだりするなということで、そのようにするのは
神を畏れることであったそうです。
18節は有名な箇所ですね。主イエースースの中心でもあります。

ハーパーも19節から資料が新たになっていると指摘します。
19節は「神の創設した自然境界を重んじる」ことが説かれていると解説しています。
口語訳 あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。
原文直訳 あなたの家畜を二種類、あなたは交尾させないように。
これは、豚と牛とを交尾させるな 種を超えてキメラを作るなという意味ですね

口語訳 あなたの畑に二種の種をまいてはならない
これはほぼ原文通りです。 大根と小松菜を蒔くなということですね
私は小規模多品種栽培の家庭菜園ですので150㎡の畑で年間30種以上栽培します
ので、5㎡の一つの畝に、ほうれん草・コカブ・小松菜の種を蒔いたりしていますが
アブラナ科同士のコカブと小松菜の種採りをするならば、交雑して雑種になります。
確かに品種改良ができませんね

27節は、フランシスコ会訳註によると、ベドウィンの弔いの習慣とし現在でも
用いられているそうで、ユダヤ人も、もみあげを切ったり剃ったりせず、
巻き毛にする習慣が残っているとあるので、元々は遊牧民の習慣だったのかもです

個人的に印象深いのは23-25節です。
果実に関して3年は未熟のままもいで、着果による負担を軽減させ、
むしろ木の成長を促進し、四年目の果実は神に捧げ、五年目から自分の収穫に
という箇所です。とても合理的で現代にも通ずる栽培法です

977atheist:2024/05/08(水) 01:15:49 ID:???
>>976
フランシスコ会訳註では「律法の神髄」、ハーパーでは「混乱し、折衷的」と
評価はずいぶん分かれてますね
わたし自身はどちらかと言うとフランシスコ会訳註の印象に近いです

たしかに19節から唐突に話題が転換してますね

「あなたの畑に二種の種をまいてはならない」の部分は書いてあることは極めて単純ですが
異なった種を近接して蒔くと、自然に交雑してしまうこともこともあるんでしょうか?

ユダヤ人のあの独特の風貌は元はベドウィンの弔いの習慣なんですね
ユダヤ人固有の習慣だと思ってました

23-25節も単純に儀式的なものと思ってましたが
栽培法上も合理的なんですね


さて20章はやはり前章の続きといった感じで、拡大版十戒といった趣です

最初の方はモレクに対する子どもの生贄や占いの禁止などですが
すぐにまた性行為に関する禁止事項に入っていって、これがこの章の大部分を占めます
前章でもかなり詳しく述べられているので、なんか重複する感じがするのですが
23節でこれらの「異常な性行為」はカナン人の習慣であると書いてあるところから
この章は基本的に、これから入っていく土地の異教の汚れた風習を断って
聖なる民としての聖性を堅持せよ、という神の命とまとめることができるように思います
やはりユダヤ教の潔癖主義、純血主義といったものを表しているように感じました

978福音伝道:2024/05/08(水) 07:06:31 ID:BX/SFP8o
>>977
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記21章です。

ぐぐりますと、小麦自体、いくつかの野生コムギが自然に自然交雑したそうです。
具体的にはヒトツブコムギとクサビコムギととが交雑してフタツブコムギとなり、
これが現代のマカロニ小麦の祖先になったそうです。デュラム小麦ですね。
フタツブコムギは更にタルホコムギと交雑して普通小麦になり、これがバスタの小麦の
祖先になったそうです。8000年前のことだそうです。
小麦で4m以内、ライムギで8m以内で交雑するようです。
自然交雑したものの中から有利な性質を持つものを代々選抜して育種して、今の栽培種と
なったわけですが、雑種強勢がありつつも、むしろ交雑すると100のバリエーションが
生まれ、人に有利なのは1つ。99は不利みたいな感じとなります。
例えば交雑しやすいアブラナ科。大根の種を採取しようと素人がしても自然交雑して
採取した種は大根にならないです。
白菜などは交雑しやすいので明治期に育種に失敗し続け、無人島で育種してやっと
成功したほどです。これが松島湾の浦戸諸島の馬放島で育種された「松島白菜」です。
家庭菜園で問題になるのがスイートコーンです。交雑しやすく100m離せ、
授粉期間を2週間ずらせと言われています。交雑すると、キセニア現象により、
甘くならなかったり、白色種がバイカラーになったりするそうです。

フランシスコ会訳は20章を刑罰と題しています。
ハーバーは様々な違反行為の罰則です。

さて、ハーパーはモレクについて恐るべきことを語ります。
原文「ハ・モレク」は「ハ・メレク」(冠詞+王)の訛ったものである
イザヤ6:5に「ハ・メレク・ヤハウェ・ツェバオート」(王なる万軍のヤハウェ)と
あるように、元々、王なるヤハウェがイスラエルの国家の神で、神の称号である
「ハ・モレク」の名の元、子供を捧げていたのであるが、この20:2-5で国家祭儀
であった一つの要素を祭司資料が禁止したのであると。

元々ヘブライの起源のイブリは、アーバル(捧げる)という動詞から派生した語である。
イスラエルでは初物は、人間であれ動物であれすべて神殿にアーバルされたのである。
まあ実際は買い戻されたのですがBC8Cのアハズ王の時代は、神へ子供を捧げる儀式が
実際に行われ、王の献げ物として焼かれたそうです。
フェニキア文化の影響と解釈されていたが、禁止されたのはヒゼキヤ王の時代だ
そうです。

エゼキエル20:26そして、彼らのういごに火の中を通らせるその供え物によって、
彼らを汚し、彼らを恐れさせた。わたしがこれを行ったのは、
わたしが主であることを、彼らに知らせるためである。

ここでは確かにヤハウェが命じています。

エレミヤでは逆にヤハウェは否定します
32:35またベンヒンノムの谷にバアルの高き所を築いて、むすこ娘をモレクにささげた。
わたしは彼らにこのようなことを命じたことはなく、また彼らがこの憎むべきことを
行って、ユダに罪を犯させようとは考えもしなかった。

979atheist:2024/05/09(木) 01:32:25 ID:???
>>978
現在有名な小麦も元は自然交雑のものがけっこうあったんですね
数メートルの近さで交雑してしまうとなると、やはりきちんと管理しない限り
どんどん雑種化してしまいますね

大根や白菜といった、われわれが日常口にする野菜はもっと交雑しやすいとしたら
さらに管理が大変ですね
白菜の育種が無人島で行われたというのは初めて聞きました
すごいですね、それほど育種が難しいなんて

モレクについてのハーパーの解説はこれまた驚きです
ただ冷静に考えると、ヘブライ語聖書では、初物はヤハウェに捧げるということが
よく語られていますから、人間の「初物」つまりは初子を捧げるというのは
ヤハウェ信仰において自然につながってきます
イスラエルが独立した民族になる過程ではカナンの宗教に当然極めて強い影響を受けていたはず、
というよりもカナンの宗教からユダヤ教は出てきたものでしょうから、古代における犠牲(生贄)を
引き継いでいたとしても、殊更おかしなことではなさそうです
途中でカナンの周辺他民族との差別化として、こういった儀式・風習も禁止されていったのかも
しれませんね


さて21章は祭司についての規則になってますね

1節の「死人のために、身を汚す者があってはならない」というのは
具体的には死者に触れたり近づいたりすることでしょうか?

祭司は聖なる者でなければならないので、ここに書かれている諸規定は
理解はできるのですが、17節以下の「身に傷のある者」が聖所に近づいてはならないというのは
やはりそういった人たちを汚れた者と見ることになりますから根深い差別を助長してしまいますね

この点でも、こういった人たちに触れ癒していったイエスは革命的であったと言えると思います

980福音伝道:2024/05/09(木) 05:43:14 ID:BX/SFP8o
>>979
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記22章です。

考えてみればアブラハムも初子のイサクを神に捧げようとしました。
実際に初子を捧げる民族だったのかもです。それが祭司により廃止され
お金を祭司に払って買い戻すと変更されたように思います。

21:1b
口語訳 民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。
聖書協会共同訳 一族の死者のことで汚れてはならない。
新改訳2017 親族のうちの死人によって自分の身を汚してはならない。
原文直訳 彼の民によって 魂のために 彼は身を汚さない様に

具体的に死穢という「穢れ」に近づくな。直系親族のみ除くということですが、
原文は「親族」ではなく「彼の民」ですので、口語訳が直訳的です。
一般に「彼の民」を「親族」と解釈する人たちもいます。新改訳などですね。
また、「魂」(ネフェシュ)がここでは「死人、死者」と意訳されます。
肉体から離れた魂というイメージなのかもです。

17節以下の「身に傷のある者」
原文はムム(欠陥)です。
具体的には以下の
目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者、 足の折れた者、
手の折れた者、 せむし、こびと、目にきずのある者、かいせんの者、
かさぶたのある者、こうがんのつぶれた者
です。

これらの諸欠陥があるものは、祭司としては聖性がないとして儀式に加われません
でしたが、救済措置もあり、
21:22彼は神の食物の聖なる物も、最も聖なる物も食べることができる。
とされています。

古代社会は差別をしますが、同時にそれなりの救済措置もセットされていたのかも
です。

981atheist:2024/05/10(金) 00:50:20 ID:???
>>980
そういえば日本でも一般的には死を穢れと考えますから
なにか具体的な行為ということではなくて、死者に触れたり
長く近くにいたりといった漠然とした死者への接近ということなのかもしれませんね

「身に傷のある者」を忌避するのもまた死に対する忌避と同様、比較的一般的なことなのでしょう
ましてや祭司職ともなればそういった穢れがあってはならないとされるのはむしろ自然なのだと思います

そういったことが差別であるという感覚は近代になってからの人権思想の発達によって
もたらされたものなのでしょうね


さて22章は聖なる食物についての記述になっているますね

これもまた徹底して穢れを避けるように命じられています

ちょっとよく分からないのが11節で際しが金をもって人を買ったときには、その人は聖なる物を
食べることができるとされていることです
同居人や雇人はだめなのに、なぜ買われた人はいいんでしょうか?

982福音伝道:2024/05/10(金) 06:19:11 ID:BX/SFP8o
>>981
atheistさん、おはようございます。本日の聖句はレビ記23章です。

口語訳レビ22:11a
しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。
聖書協会共同訳レビ22:11a
しかし祭司が財産として銀で買い取った者であれば、その者は食べることができる。
新改訳2017レビ22:11a
しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。
原文直訳
そして祭司が彼の銀の財産で魂を買う時、彼はそのうちで食べる

原文は「銀で買われたネフェシュ」です。直訳すれば「人」ではなく「魂」。
先日は諸訳が「死体」と訳していた「ネフェシュ」です。
この金で買われたネフェシュとは、新改訳が意訳している通り「奴隷」のこと
ですが、「奴隷」と「祭司の家族」は「祭司自身に属する財産のようなもの」
なので一般特別されて「祭司の聖性の下に属する」とされたので、食べてOKだった
のです。
しかし「祭司の子」でも「女性」が結婚すれば、その所属は夫のものとなりますので
彼女は「聖なるもの」を食べては駄目となります。
ですが離縁されて、父の家、つまり祭司の家に戻れば彼女は
「聖なるもの」を食べれるようになりました。

一方、雇用者や寄留者は、一時的に祭司の家に身を寄せていると言っても
独立した人格主体なので、祭司の支配下にないので、祭司の聖性の下に属さない
とされ、聖なるものをたべてはいけなかったようです。

ハーパーは、買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷も含めた家族全体が
安寧の献げ物を食べることができたと解説しています。
「買い取られたり、その家で生まれた終身奴隷」は「家族扱い」ということのようです。

22章でハーパーが注目しているのが8節。
死んだり殺されたりした動物の肉を食べないという規定は元々、祭司限定だった
と指摘。その後、一般に拡大されたことがわかると解説しています。

983atheist:2024/05/11(土) 01:04:48 ID:???
>>982
なるほど祭司(父)の所有物と判断される場合はその祭司の聖性の下に属することになるので
OKということですね
これなら祭司からは独立した人格主体である雇用者や寄留者がダメな理由も説明できますね

8節の記述からだけでは祭司限定だったのかどうか判断はできませんが
祭司の規定が一般に拡大されたとすれば、聖性という点から容易に説明がつくので
合理的ではあるように思います


さて23章は「聖会とすべき主の定めの祭」についての章となっていますが
そもそも「聖会」とはなんでしょうか?そのまま読めば「聖なる会合」くらいの意味合いに取れます

ともかく聖会では労働をしてはならないということが強調されてますね
安息日であれば創世記の記述にその理由を求めることができますが
たとえば贖罪の日の聖会においても労働が禁止されています
これは聖俗を峻別するユダヤ教の性格から来ているようにも思えます

また27節などで「身を悩まし」というフレーズが出てきますが
これは具体的にはどういうことを意味するのでしょうか?
「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。」(29節)と
言われているくらいですから、「身を悩ます」ことは相当重要なことであったと思われます

984福音伝道:2024/05/11(土) 06:12:00 ID:BX/SFP8o
>>983
atheistさん、おはようございます。本日と明日の聖句はレビ24章です。

「聖会」・・・原文「ミクラエー コデシュ」(会 聖の)
具体的には俗な生活から切り離されて、神聖なる神のためのお祭りが年に7回。
春四回 秋三回あったということですね。
ペサハ(過越)  マツォト(除酵祭) オメル・レシート(初穂)シャヴォート(七週の祭り)
ローシュ・ハシャナー(角笛吹きの日) ヨム・キブル(贖罪の日) スッコート(仮庵祭り)

27節などで「身を悩まし」…原文直訳 「そしてあなた達は、あなた達の魂を苦しめる」
これはヨム・キブルの規定ですが、どう苦しめるかというと、断食です。
1年に1回 俺は罪深いと罪を悔い改め、反省し、おとなしくしている日ですね
反省しているのだから、改悛姿勢を「断食」「入浴しない」「香水をつけない」などで
示すことが「自分を苦しめる」ことだそうです。

断食して改悛姿勢を示さないような不届き者は、民から絶たれる
ということですね 怖すぎですが、まあ断食ですし、たいしたことはないです

985atheist:2024/05/12(日) 01:47:32 ID:???
>>984
聖会というのは、要は年七回のお祭りのことですね
過越、除酵祭、七週の祭り、贖罪の日、仮庵の祭りはよく出てくるので
ある程度の認識はありますが、初穂と角笛吹きの日はあまり馴染みがありません

「身を悩ます」というのは、断食や入浴・香水を断つことを通じで改悛姿勢を示すことということですね
これは言われてみればなるほどという感じです


さて24章は祭儀の灯火と菓子についてですが、10節から唐突にヤハウェの名を怪我した者の
話になっています

さらにその話の途中でこれまた17節から唐突に同害復讐の掟が挿入されています

非常に構成の悪い章ですが、メインのテーマは主の名を汚すな、ということのようです

この章の構成はのちに編集が加えられたとかそういった事情によるのでしょうか?

986福音伝道:2024/05/12(日) 06:21:40 ID:BX/SFP8o
>>985
atheistさん、おはようございます。本日はお休みで、明日の月曜日の聖句はレビ25章です。

ハーパーによると、本章全体が、「この章の内容が、なぜこのように配列されているか
についての理論的根拠は明らかではない」としたうえで、
17-22節は、「本来はその状況に関連していないにもかかわらず、この資料の
最終編集で一つにまとめられたものである」と断定していますね。

口語訳-原文直訳対比
オリブを砕いて採った純粋の油…オリーブの純粋なすり潰した油
純金の燭台…純粋な燭台 フランシスコ会訳の解説…原文に金はない。清い燭台と訳せる
十二個の菓子…十二の輪型のパン 十二支族をイメージ 原文ハロットは、菓子というよりパン
ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして…一列に六個、二列にして 重さねてません、並べてます。

24:10以下、ハーパーによると、外人に対する規定とのこと。
つまりヤハウェの名を冒とくすれば、その冒涜の声を聴いた者は
冒涜した者の頭の上に手を置いて、罪を冒とくした者に返したうえで
石打で殺すという。。。なんとも古代的な野蛮さです。

この箇所とあと三か所、いづれも民数記に
何か問題が起こってモシェが判断を求められ、モシェ自身が決断できずに
ヤハウェにお伺いを立て、ヤハウェが命じたことで律法化されているそうです




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