したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

日本語逍遥

1片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/04/12(火) 00:26:43
微妙に流行してますが

2片言丸 </b><font color=#AEFF35>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/04/20(水) 19:57:12
丹羽文雄さん死去 100歳
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050420-00000026-san-soci

「親鸞」「蓮如」 文化勲章受章
 「マダムもの」などの風俗小説から「親鸞」「蓮如」など仏教を背景とする作品まで幅広い作域をみせた昭和を代表する作家で文化勲章受章者の丹羽文雄(にわ・ふみお)氏が二十日午前零時二十五分、肺炎のため東京都武蔵野市内の自宅で死去した。百歳。三重県出身。葬儀・告別式は親族のみで密葬で行う。喪主は長男、直樹(なおき)氏。後日、日本文芸家協会葬を行う予定。
 早大文学部卒業。昭和七年、生母をモデルにした「鮎」を雑誌「文芸春秋」に発表し、作家生活に入った。以後、銀座のマダムを題材に戦前の退廃的な世相を描いた「海面」「甲羅(こうら)類」(ともに九年)など、旺盛に執筆。十一年の新聞連載小説「若い季節」で流行作家への糸口をつかんだ。
 戦後の二十二年には、わが国最初の老人問題小説といえる「厭(いや)がらせの年齢」を発表。二十八年、「蛇と鳩」で野間文芸賞を受賞した。
 その後、宗教的題材で愛欲と救済のテーマを追求し、四十年から四十四年にかけ産経新聞に連載した「親鸞」や、ライフワークとなった「蓮如」(野間文芸賞)の二大長編を完成させた。
 この間、二十年以上にわたって文芸誌「文学者」を刊行、後進の育成に当たり、その功績が評価されて四十九年に菊池寛賞を受賞した。五十二年、文化勲章受章。
 また三十一年、日本文芸家協会理事長に就任、四十一年からは会長を務めた。
 八十一歳のときアルツハイマー病を発症、長女で料理研究家の本田桂子さんの介護を受け、その様子が公表されて話題となった。桂子さんも平成十三年に没し、現代の老人問題を象徴する晩年となった。
≪処女作から縁≫
 ■作家、瀬戸内寂聴さんの話 「丹羽先生が自費で出していた同人誌『文学者』に初めて小説を載せていただきました。同人誌の発行は大変なのに同人からお金を一銭もとりませんでした。芸術家は師も弟子もない、一人である、ということを先生だけはちゃんと分かってくださっていました。実務的な能力があり、日本文芸家協会の理事長などとして、後進の小説家のためにいろいろ尽くし、みなが丹羽先生なら、とついていった。一時期、文壇の大御所として君臨されましたが、今その文壇はありません。そういう意味で歴史的な方です」
(産経新聞) - 4月20日15時32分更新

3片言丸 </b><font color=#00FFDF>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/04/24(日) 09:44:57
「買春」をかいしゅんと読むのに依然として違和感がある。

4片言丸 </b><font color=#00FFDF>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/04/29(金) 23:44:43
最近は「他人事」を”たにんごと”って読むのをよく聞きますね。
漢字からそう読んでしまいがちですが、いちおう、正しくは”ひとごと”ですね。

5片言丸 </b><font color=#00FFDF>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/04/30(土) 22:29:49
TBSのブロードキャスターで、列車事故の「犠牲者」を「被災者」とJRの人が言ったのを叩いていたが、語感的には犠牲者のほうがどうかと。

6片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/05/21(土) 19:22:07
「代議士」の使用が減っている気がする

7片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/05/22(日) 11:25:43
この前から、中国人名でも原語読みをつけている。

靖国参拝、改めて慎重な対応要求 中国の唐国務委2005年05月22日01時30分
http://www.asahi.com/politics/update/0522/002.html?t

 中国を訪問中の自民党の武部勤幹事長、公明党の冬柴鉄三幹事長らは21日夜、北京の釣魚台国賓館で、唐家●(タン・チアシュワン)国務委員(副首相級=外交担当)と会談した。武部氏や出席者によると、唐氏は、小泉首相の靖国神社参拝問題を念頭に「継続して参拝されるのはいかがなものか。信念や信仰、伝統、文化ではなく日本の将来にとって重大な問題だ」と述べ、改めて慎重な対応を求めた。両幹事長らは22日には胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席とも会い、日中関係改善の糸口を探る。

 唐氏との会談で両幹事長は、靖国問題や中国各地での反日デモなどで冷え込んだ日中関係などについて意見交換した。

 靖国問題に関する唐氏の発言に対し、武部氏は「戦没者の慰霊と不戦の誓いのためであって、直接、軍国主義の美化にはつながらない。(日本は)60年間、平和国家として歩んできた」と説明し、理解を求めた。

 また、唐氏は、台湾をめぐる問題について「一つの中国」の原則を守るよう日本側に求めた。

 この会談に先立つ中国共産党対外連絡部の王家瑞(ワン・チアロイ)部長との会談では、武部氏が反日デモについて「日本人の心を和らげるメッセージがあってしかるべきではないか」と述べたが、王氏からの反応はなかったという。冬柴氏は、過去の問題に関連し「過去に政策の誤りがあり、大変な損害や苦痛を与えたという事実はおわびしないといけない」と述べた。

 王氏は、日中の政党間交流について、すでに設置で合意している政策担当者レベルの協議会に加え、「毎年1回、定期的に幹事長レベルで会合を持ちたい」との考えを明らかにした。

 また、王氏は北朝鮮の核問題をめぐり、先にニューヨークで行われた米朝の接触について「評価する。米朝のさらなる歩みを期待する」と述べた。

※●は王へんに旋

8片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/05/25(水) 01:20:12
白川静氏の研究所開設 立命館、自ら5000万寄付
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050524-00000176-kyodo-soci

 立命館大は24日、、漢字研究で知られる白川静名誉教授(95)の文化勲章受章を記念し「白川静記念東洋文字文化研究所」を設立した。研究継続拠点を望んだ白川氏が著書の印税5000万円を寄付して実現。白川氏は名誉研究所長に就いた。
 立命館大によると、研究所は東洋の文字文化について内外の研究者との共同研究やシンポジウムを実施するほか、立命館の小中学校の教員を研究員に加え、文字文化教育の在り方をテーマにした研究も計画している。
 また「白川文字学賞」を設け、東洋文字文化の研究に貢献した研究者に奨励金を贈る。
 開所式で白川氏は「(1945年の)敗戦で日本の国語文化が否定された結果、思索が制限され、国語力が著しく低下した。漢字文化の回復が必要だ」とあいさつした。
(共同通信) - 5月24日19時7分更新

9無党派さん ◆MACDJ2.EXE:2005/06/18(土) 12:09:48
故角川源義さん宅、寄贈 杉並区
http://mytown.asahi.com/tokyo/news01.asp?kiji=3904

 角川書店創業者で俳人の故角川源義さんの自宅(杉並区荻窪3丁目)=写真=の土地や建物が先月、杉並区に寄贈された。遺族は「区民に開かれた施設にしてほしい」と希望している。多数の書籍や美術品も寄付され、区は今年度、専門家とチームをつくり事前調査を始める計画だ。

 源義さんの長男で、角川春樹事務所特別顧問の角川春樹さんら4人が寄贈した。春樹さんの生家でもある。

 04年8月、この家に暮らしていた春樹さんの母照子さんが死去。10月ごろ、春樹さんの代理人の弁護士から区へ寄贈の申し出があったという。遺族と区が調整を続け、先月30日ごろ手続きが終了した。6月から区が管理している。

 約1400平方メートルの土地に、木造一部鉄筋コンクリートの2階建て。1階は約210平方メートル、2階は約70平方メートル。区教委社会教育スポーツ課によると、1954年ごろに建てられ、その後建て増しもあったらしい。源義さんが主宰していた俳誌「河」の発行所も兼ね、「書籍は段ボール100箱ぐらいあるようだ」と同課職員。著名人との往復書簡や著名な画家の絵画も残されているという。

 区は今年度、区内の女子美術大や明治大などの研究者とチームをつくり事前調査をするため、6月議会に提案した一般会計補正予算案に805万円を計上。来年度に本格的な調査に入るという。
(6/12)

10片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/06/19(日) 14:46:40
活字文化振興、国と自治体に責務・超党派で法案提出へ
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20050619AT1E1800418062005.html

 国と地方自治体に文字・活字文化を振興する責務を持たせる「文字・活字文化振興法案」が近く国会に提出されることになった。超党派の活字文化議連が作ったもので、公立図書館の適切な配置、司書など人的体制の整備、図書館資料の充実などを国と自治体に求めるとともに、民間との連携強化も促している。

 法案作成は自民党の河村建夫氏、民主党の肥田美代子氏らが中心となった。近く衆院文部科学委員会の斉藤鉄夫委員長(公明)から提案する方向で調整しており、今国会成立をめざしている。 (07:01)

11片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/07/24(日) 17:27:52
ガッツポーズの語源
http://osaka.yomiuri.co.jp/kotoba/co50228a.htm

 巷(ちまた)に「ガッツポーズ」の語源は元ボクシング世界チャンピオンで、現在「OK牧場」で有名なガッツ石松氏が一九七四年の世界タイトル戦で勝った時にしたポーズが最初で、スポーツ紙が命名したと言われている。これは民間語源説で、本当は違う。正しくは以下の通りだ。

 「ガッツポーズ」はボウリングが流行していた一九七二年にボウリング界から出た言葉。週刊『ガッツボウル』(一九七二年十二月十四日号、学研)に「自分だけのガッツポーズつくろう」というページがある。「“ガッツポーズ”って知ってるかい? ストライクを出したとき スペアを取ったとき 難しいスプリットをカバーしたとき その自信と喜びを表現するスタイルが“ガッツポーズ”。ごく自然に出てくるものだが 個性あふれる自分だけの“ガッツポーズ”をつくろうではないか!! 参考にプロボウラーの“ガッツポーズ”を紹介しておこう。」とある。そこに「水洗トイレのひっぱり型」「円盤投げ型」など十一人のさまざまなガッツポーズが掲載されている。みなさんは何型かな?
梅花女子大学教授・米川明彦
(2005年03月01日 読売新聞)

12片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/10/06(木) 04:00:42
米辞書に新語登場、日本の言葉「zaibatsu」も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051004-00000514-yom-int

 【ニューヨーク=大塚隆一】米国のベストセラー英語辞書「メリアム・ウェブスターズ・カレッジエイト」が今年の改訂で約100の新しい単語や語義を採用した。目立つのは医療やIT(情報技術)の分野の新語だ。

 新入り組は「入院患者の治療を専門とする医師」を意味する「ホスピタリスト(hospitalist)」や「インターネットで情報を見つけたり、集めたり、管理したりする人」を示す「サイブラリアン(cybrarian)」など。後者は「図書館の司書」を指す「ライブラリアン(librarian)」にならった言葉だ。

 結婚と同様の権利を与えられた同性カップルの法的地位を示す「シビルユニオン(civil union)」も採用された。

 意味が変わったのは「ネオコンサーバティブ」。これまでは「リベラル派から保守主義支持に転じた人」と説明していたが、「軍事的措置を含む手段を通じ、他国の民主化と米国の国益追求を断固として進めるべきだと唱える保守主義者」が主要な語義になった。

 日本の言葉では「zaibatsu(財閥)」が採用された。今さらという感じだが、メリアム・ウェブスター社の広報担当者は「古くからある言葉でも、主流の英語で使われるようになった段階で採用する」と話している。
(読売新聞) - 10月4日22時45分更新

13片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2005/11/09(水) 22:06:56
桂吉朝さん死去 50歳 米朝落語の“継承者”
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051109-00000036-san-soci

 桂米朝門下の落語家、桂吉朝(かつら・きっちょう、本名・上田浩久=うえだ・ひろひさ)さんが八日午後十一時二十分、心不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で亡くなった。まだ五十歳の若さだった。米朝さんゆずりの端正な高座に定評があり、上方落語界を背負ってたつ実力派として活躍が期待されていた。大阪府堺市出身。葬儀は密葬で行い、後日おわかれの会を開く。
 吉朝さんは大阪府立今宮工業高を卒業し、昭和四十九年に米朝さんに入門。着実にうでを上げ、登場人物や情景を細かく分析、描写の確かさは米朝ゆずりといわれた。「蛸芝居」など芝居噺を得意にし、大ネタの「百年目」や「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」などでは独自の色合いを出した。また、狂言や文楽との共演や、芝居にも出演するなど多彩な活動を続けていた。
 テレビに出演する機会は少なかったが落語会はいつも満員。米朝さんの信頼は厚く、平成十三年から米朝さんとがっぷり組む二人会「米朝・吉朝の会」を大阪・国立文楽劇場で年に一回開催してきた。平成六年「国立演芸場花形演芸大賞」、十三年「芸術選奨文部科学大臣新人賞」など、受賞多数。
 体調を崩して昨年十一月から休養していたが、今年八月に復帰。しかし回復が思わしくなく、十月二十七日、恒例の「米朝・吉朝の会」で披露した珍しい噺「弱法師(よろぼし)」が最後の高座となった。
≪壮絶最後の高座 緞帳下りファン涙≫
 すべての体力を振り絞ったような四十分だった。最後の高座となった十月二十七日、大阪・国立文楽劇場「米朝・吉朝の会」の壮絶さは、長く心に残ることになろう。
 約十カ月間休養して臨んだ初めての本格的な落語会。じりじりしながらこの日を待っていたファンは、いつもよりゆっくりした足取りで登場する吉朝を万雷の拍手で迎えた。
 四角く青白い顔に闘病のあとが見え「体調に波があって、体重が増えてくれんことにはスタミナが…」と話しだすと、会場から励ましの「吉朝!!」の声。すかさず「こっちよりええ声、出さんといて」と返して笑いをとる。二席の予定を、ネタおろしの珍しい「弱法師(よろぼし)」一本に絞った。
 父親にしかられた気の弱い息子が家出してやがて一年。ある日、天王寺の境内で息子の姿を見つけた両親は…という笑いの少ない難しい噺。
 子を思う母と父のやり取り、情景描写なども的確で、春夏秋冬の時の移り行くさまを扇子で顔を隠して物売りの声で表していく。
 一度、湯でのどを湿らせ、半ばからは声も戻って終演。客席をふだんよりゆっくり隅々まで見回し、深々と頭を下げた。ずっと応援し励まし続けてくれたファンに感謝し、別れを告げたようにも思えた。
 緞帳(どんちょう)が下りても拍手がやまない。客席のたくさんの顔には涙があふれていた。「ありがとう、吉朝さん」という声が、あちこちから聞こえてきた。落語会でこうした光景は見たことがない。愛されていたのだ。
 米朝の胸をかりて四年前に始まった「米朝・吉朝の会」。その初回に演じた「不動坊」では、冬の寒空に雪が降ってくる確かな描写に客席で「ブルっ」ときた。人気ネタ「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」は九十分の大作に仕上げながら少しも飽きさせず、抜群のギャグセンスを発揮。大作「百年目」では、大旦那の貫禄(かんろく)を十分に出してみせた。
 数ある米朝一門のなかでも、端正で品格のある米朝落語を一番確かに受け継いでいた。吉朝を目標にしている仲間も多い。将来の上方落語界を託せる男が斃(たお)れてしまった。(金森三夫)
≪イベント夢に≫
 文楽人形遣い、桐竹勘十郎さんの話 「残念の一言しかありません。お互いの舞台をよく見に行きあって刺激を受けあっていました。芝居が好きで、『七段目』のような芝居噺がすごく良かったですねえ。じつは来年か再来年あたり、吉朝さんや僕や上方の古典芸能のいろんなジャンルの人間が集まって、昔の『上方風流(ぶり)』のようなイベントがでけへんかなあと計画していたところなんです。最後の高座を拝見しましたが、本当に鬼気迫るものがありました」
(産経新聞) - 11月9日16時15分更新

14片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/03/13(月) 19:51:19
これは読んでないけど、「遥かなるケンブリッジ」は読んだ記憶がある。貴族みたいな感じやね。

「国家の品格」:新書で最速、100万部突破
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060314k0000m040048000c.html

 数学者、藤原正彦さん(62)著の「国家の品格」(新潮新書)が13日、発行から124日目で100万部を突破した。新書で100万部突破最速と言われる解剖学者、養老孟司さん(68)の「バカの壁」(同)より8日早いミリオンセラー達成となった。

 「国家の品格」は市場原理最優先の風潮に警鐘を鳴らし、日本人が持っていた美徳を取り戻すよう主張したエッセー。昨年11月に初版2万5000部が刊行され、12月10日に10万部を突破。ライブドア事件が明るみに出た今年1月下旬以降、藤原さんがメディアで同事件についてコメントする機会が増えたことなどから売れ行きに拍車がかかった。藤原さんは「受け入れられなければ筆を折る覚悟でいたが、思いもかけず大きな反響を呼んで驚いている」とのコメントを出した。

毎日新聞 2006年3月13日 19時17分

15片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/05/14(日) 00:02:13
なぜかこれは中学生のときに読んだ・・・。

「点と線」被害者と犯人が下りた駅、最後の日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060513-00000115-yom-soci

 松本清張の代表作の一つ、「点と線」(1958年)に登場する西鉄香椎(かしい)駅(福岡市東区)の駅舎が高架化工事で取り壊されることになり、駅舎の最終営業日の13日、約80人が名残を惜しんだ。

 「点と線」は香椎の海岸で起きた男女の心中を、刑事が殺人事件と突きとめるストーリー。香椎駅は殺された女と犯人の男が降りた駅だった。

 この日は、清張の故郷、北九州市を拠点に活動する「清張の会」が「お別れ会」を企画。参加者は、作品が書かれた当時の姿を残す駅舎の前で記念写真を撮影するなどした後、登場人物と同じように、駅から海岸付近まで歩いた。

 参加した地元の学習塾経営島本清美さん(55)は「『点と線』の舞台がなくなるのはさみしい。でも、多くの人が駅のことを覚えていてくれて、地元住民としてうれしい気もする」と話していた。
(読売新聞) - 5月13日22時21分更新

16片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/05/29(月) 14:12:22
エエエエ

作家でロシア語通訳者の米原万里さんが死去
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060529-00000007-yom-soci

 作家で、ロシア語通訳の第一人者としても活躍した米原万里(よねはら・まり)さんが25日に死去していたことがわかった。56歳だった。

 がんで闘病中であることを自ら明かしていた。

 東京生まれ。日本共産党幹部だった父親とともにプラハで少女期を過ごし、現地のソビエト学校でロシア語を学んだ。東京外語大、東大大学院を卒業後、通訳を始め、ソ連崩壊時は同時通訳者として活躍した。

 その後、エッセーなどの執筆を手掛け、1995年「不実な美女か貞淑な醜女か」で読売文学賞(随筆・紀行部門)。ソビエト学校の思い出と歴史に翻弄された学友たちの運命を追った「嘘つきアーニャの真赤な真実」で2002年、大宅壮一ノンフィクション賞。翌年、続編の「オリガ・モリソヴナの反語法」でドゥマゴ文学賞を受賞した。
(読売新聞) - 5月29日14時4分更新

17小説吉田学校読者:2006/05/29(月) 23:43:32
「嘘つきアーニャの真赤な真実」は、虎の子を取られたとしても読むべき本であります。合掌。

18片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/06/02(金) 13:05:03
『必笑小咄のテクニック』っていう新刊本をこの前買ったばかりで、
たしかにご病気なのは書いてあったのですが、それにしても早いと思いました。

これまで、あまり多くは読んでなかったですが、
いろんなことに博識で、頭の回転も速く、センスにあふれた面白い人ですね。もったいない。

19片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/07/26(水) 20:08:47
お世話様でした、というべきなんだと思っていた。

目上に「ご苦労さま」15%=「お疲れさま」を侵食−文化庁の国語世論調査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060726-00000080-jij-pol

 仕事後、目上の人に「ご苦労さまでした」と言葉を掛ける人の割合が15%に達し、主流を占める「お疲れさまでした」を侵食していることが26日、文化庁の「国語に関する世論調査」で分かった。同庁は「慰労の言葉は、本来は目上の人から掛けるもの」と説明する一方、厳密な使い方は必ずしも定まっていないとしている。
 調査は2−3月、全国の16歳以上の男女計3652人に実施、57.7%の有効回答を得た。
 それによると、一緒に働いた人が自分より職階が上の人の場合、「お疲れさまでした」と言う割合は回答者の69.2%。「ありがとうございました」も11.0%いた。その一方、「ご苦労さまでした」と言う人が15.1%おり、「どうも」が0.9%、「何も言わない」も0.6%いた。 
(時事通信) - 7月26日18時0分更新

20片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/25(月) 21:52:55
怪盗アンデス?実は「回答案です」…変“漢”ミス大賞
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061225it12.htm

 財団法人「日本漢字能力検定協会」(京都市)は25日、第2回「漢検“変漢ミス”コンテスト」の結果を発表した。

 思わず笑ってしまうような漢字の変換ミスの年間最優秀作品は、「遅れてすいません。回答案です」を打ち間違った、「遅れてすいません。怪盗アンデス」。終電間際に会議資料を作り終えた男性が、あせってメールを送信した時の変換ミスで、同僚から「腰の低い怪盗だなあ」などと大笑いされたという。

 ほかに候補に挙がった作品には、ゴルフのスコアを友人に報告した女性が、「ラフにハマって大変だったよ〜」と書くつもりだったが、「裸婦にハマって大変だったよ〜」と、伝えてしまったもの。もちろん大爆笑されたという。

 新入社員教育について上司にメールで意見を書いた女性が、「常識力検定を導入してはいかがでしょうか」を「上司気力検定を導入してはいかがでしょうか」としてしまったものもあった。また、夫が出張のため1人で留守番中の友人から届いたメールには、「ドアは腐りかけてるから大丈夫」。「鎖かけてるから大丈夫」の間違いで、逆に心配することになったという。

(2006年12月25日20時41分 読売新聞)

21片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/25(月) 22:12:24
回答案です→怪盗アンデス 漢検が変換ミスコンテスト
2006年12月25日21時23分
http://www.asahi.com/life/update/1225/014.html

 日本漢字能力検定協会(京都市)は25日、コンピューターによる漢字変換ミスの面白さを競う漢字変換ミスコンテストの結果を発表した。最優秀賞の「年間変漢賞」に選ばれたのは「遅れてすいません。怪盗アンデス」。正しくは「遅れてすいません。回答案です」。応募者が付けたコメントには、「怪盗が遅刻しちゃだめだろう、と笑われました」とあった。

 昨年10月から1年間に計2079点の応募があり、各月の月間賞22作品の中から一般のオンライン投票で決めた。

 その他のベスト10作品は、「お客彷徨(さまよ)うトイレ」(正しくは「お客様用トイレ」)▽「それは会社の方針とのこと、但(ただ)し異様です」(同「それは会社の方針とのこと、正しいようです」)▽「ドアは腐りかけてるから大丈夫」(同「ドアは鎖(くさり)かけてるから大丈夫」)など。

 同協会は「パソコンを使い慣れている会社員からの応募が目立った。ミスを互いに笑ったり感心したりして、漢字に興味を抱いてもらっているようだ」と話す。

22片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/03/08(木) 11:12:00
サヨナラ「ほのぼの君」 佃公彦さん降板、連載漫画終了 2007/03/08 10:39
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&amp;m2=&amp;NB=CORENEWS&amp;GI=Kennai&amp;G=&amp;ns=news_117331809018&amp;v=&amp;vm=1

 徳島新聞などに長年にわたって漫画「ほのぼの君」を書いてきた佃公彦さん(77)=東京都中央区佃が、降板することになった。昨年暮れから体調を崩して、パーキンソン病と診断され、絵筆が握りにくくなったためで、八日付社会面の漫画が最後となる。

 佃さんは、一九七○(昭和四十五)年元旦から東京新聞に「ちびっこ紳士」の連載をスタート。五千回に達した翌日の八四年二月六日からは「ほのぼの君」に改題し以後、本日付まで一万二千九百九十七回にわたって書き続けた。

 この間、「ほのぼの君」の掲載紙は全国各地に広がり、徳島新聞も九三年一月一日に掲載を始めた。

 また、「ちびっこ紳士」以前に東京新聞では「ほのぼの君」を五六年から二千四百五十四回連載しており、合計すると一万五千四百五十一回に上る。これは日本の新聞史上の最長不倒記録で、世界を見ても一九五○年から五○年間描いた米国のチャールズ・シュルツ氏(スヌーピーで有名)ぐらいしか類例が見当たらない大記録となる。

 元気をもらった

 佃さんの話 毎朝楽しみにしてくださって本当に感謝しています。こういう機会がなければ、僕なんかの漫画でも人に希望や幸せを与えられるんだってことは多分一生分からなかった。連載で元気をもらっていたのは僕の方です。長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。

 復活してほしい

 日本漫画家協会会長・小島功さんの話 かつてドイツの漫画家が描いた家族漫画を彼なりに工夫して独自の世界に仕立てたのが「ほのぼの君」。勉強家で知られた佃さんならではの仕事です。新聞連載はとにかく毎日だから、休みがない。二日酔いもまずいし、夫婦げんかもできないしね(笑)。五十年、本当によくやったと思います。連載終了は残念としか言いようがないが、またぜひ復活してほしいですね。

 つくだ・きみひこ 1930年1月1日、東京生まれ。戦争中は父親の出身地・山川町(現吉野川市)に疎開。戦後は漫画ひと筋。著書に「ありがとう ほのぼの君」など。

◎「寂しくもホッとしたような」 喜寿まで半世紀描き続け

 連載漫画「ほのぼの君」で長年、徳島県内の読者を楽しませてきた佃公彦さん(77)。ここ数年、直腸がん、腹部大動脈瘤(りゅう)の手術で休載したこともあったが、そのたびに復帰を果たしてきた。だが、昨年暮れにパーキンソン病を発症。薬の副作用で手がしびれ、ペンが持ちにくくなったことから、ついに降板することになった。

 「最近は昔のようにアイデアが出てこなくて、毎日、剣が峰に立たされている心境。原稿を取りに来る担当者の靴音が聞こえると心臓がドキッとしちゃってね。一本描き終えると、鶴の恩返しのようにぐったりして。今はホッとしたような、寂しいような気持ちです」。ペンを置くことになった佃さんはこう話す。

 「ほのぼの君」の連載を始めた東京新聞と佃さんとの出会いは、半世紀も前。漫画雑誌に「ほのぼの君日記」を描いていた新進漫画家の佃さんに、朝刊発行を計画中の東京新聞が「こんな漫画を」と頼みにいった。

 当初は“無声漫画”だったが「セリフがないため表現が行き詰まって」七年目に中断。充電期間をおいた後、一九七○年(昭和四五)年からセリフ入りの「ちびっこ紳士」として再開。そして五千回に達した翌日から、また「ほのぼの君」に。

 その後、二○○一(平成十三)年には一万三千六百十六回に達し、故加藤芳郎氏(毎日新聞夕刊「まっぴら君」)が持つ最長不倒記録を突破。○四(同十六)年には第三十三回日本漫画家協会大賞を受けた。

 「まさか、ここまで続くとは思わなかった。この五十年間、長い旅行にも行ったことがない。連載開始当時は二十六歳だった僕も、もう喜寿。そろそろやめても許されるかな」と、連載の終了を決断した。

 最終的に到達した一万五千四百五十一回の記録は、現役の東海林さだお氏(毎日・朝刊)が今のペースで描き続けても到達するのに十二年以上かかるという金字塔だ。

 佃さん、本当にお疲れさまでした。

23片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/03/29(木) 16:50:43
島尾ミホさん死去:突然の死、残念 関係者から惜しむ声 /鹿児島
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kagoshima/news/20070329ddlk46040275000c.html

 作家の故島尾敏雄氏の妻ミホさん(87)=奄美市名瀬浦上町=が亡くなったことが分かった28日、自宅がある奄美市では親交のあった人たちから突然の死を惜しむ声があがった。

 ミホさんは生前、一人暮らしでも「寂しくない。(亡くなった)夫も娘も一緒にいるから」と話し、敏雄氏の死後は公式の場に喪服で出席するなど、自らの世界をかたくなに守った。長男伸三さん(58)=東京在住、写真家・作家=は突然の死に「自分のことをあまり言わず、父の話ばかりしていた。もっと聞きたかった」。愛犬と庭を走ったり、畑作業もしていたほど元気だったという。

 島尾夫婦と親交があった奄美市名瀬幸町の奄美・島尾敏雄研究会の越間誠会長は「驚いた。島尾氏が亡くなり、ミホ夫人まで。一つの時代の終わりを感じる」と肩を落とした。また、同市名瀬港町の詩人、仲川文子さんは「今でも信じられない」と死を惜しんだ。加計呂麻島の島尾敏雄文学碑を一緒に回り「作品にまつわるいろんな話を聞いた。神を感じさせる純粋な人だった」と声を詰まらせた。【神田和明】

毎日新聞 2007年3月29日

24片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/02(月) 22:11:39
直筆原稿:谷崎潤一郎、芥川龍之介ら…改造社関連の90人
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070403k0000m040090000c.html

 改造社の創業者、山本実彦の遺族が鹿児島県の川内まごころ文学館(川内市)に寄贈した文学者の直筆原稿(原稿用紙約7000枚)を調査していた紅野敏郎・早稲田大名誉教授ら研究チームが2日、早大で会見し、幸田露伴、谷崎潤一郎、芥川龍之介ら90人の原稿236点の詳細を明らかにした。【米本浩二】

 原稿は総合雑誌「改造」(1919〜55年)をはじめ、「文芸」「俳句研究」など同社関係の雑誌に掲載されたもので、遺族が99年、実彦の出身地である川内市(現薩摩川内市)に寄贈。紅野さんらが掲載誌の特定や直筆原稿と雑誌発表時との文章の相違の確認など調査・研究を進めていた。

 原稿は横光利一「上海」、幸田露伴「蒲生氏郷」などの長編、芥川龍之介「続西方の人」、織田作之助「続夫婦善哉(めおとぜんざい)」などの短編、佐藤春夫、菊池寛らのエッセー、三好達治や水原秋桜子らの詩歌など。ジャーナリズムをリードした改造社らしく当時の一流の執筆陣だ。

 「続夫婦善哉」は未発表作品。改造社側の自主判断で「お蔵入り」させた可能性があるという。また、芥川の「続西方の人」など2作は芥川の筆跡でなく、佐佐木茂索の妻ふさの字。「一体どういう事情か。きわめて興味深い」(紅野さん)という。

 紅野さんは「雑誌には伏せ字や加筆、削除が実に多い。直筆原稿を読むと、作家の息遣い、書く時の呼吸などがビビッドに胸に響く。直筆原稿が初出誌にどのように出て、単行本や全集の時はどう変わったか。きちんと突き止めたい」と話している。

 原稿の画像や雑誌該当ページを収録したDVDと、研究チームが寄稿した論文集が今年9月、雄松堂出版(東京)から発売予定。

毎日新聞 2007年4月2日 21時13分

25片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/04(水) 10:18:44
ほめ言葉にもお国柄
山大大学院・椙村さん調査 讀賣山口

 「まじめだね」は、ほめ言葉?――。中国の日本人学校で教師を務めた、山口大大学院東アジア研究科博士課程2年椙村知美さん(26)が、若者同士の「ほめ言葉」の使用頻度や、言われてうれしく感じた好感度について日中の違いを調査し、3月発刊の同大文学会志に発表した。中国で好感度が高い「まじめ」「誠実」が日本では好まれないという結果になり、「日本ではまじめの価値観は崩壊状態。軽さ志向の表れでは」と分析している。

 椙村さんは昨年4月から1年間、江蘇省の蘇州日本人学校で小中学生に国語と算数を教えた。

 調査では、同大大学院の中国人特別研究員の協力を得て、中国武漢市の華中農業大の男女各100人にアンケートを実施。「ほめる時によく使う言葉」「ほめられてうれしかった言葉」などを聞き取り、人気度を数値化した上で、2005年に日本の大学生を対象に調査した結果と比較した。

 この結果、「明るい」「かわいい」は両国共に上位になったが、中国の男子学生でよく使われ、言われて喜ばれる「落ち着いている」「誠実」、女子学生の「まじめ」は、日本では下位に低迷。逆に日本で人気の「楽しい(人)」は中国ではあまり好まれていなかった。

 また、椙村さんは、県内の中学生と日本人学校の中学生についても比較。蘇州は反日感情の強い土地柄で、治安上の問題から放課後に子供同士が遊び、触れ合う機会が少ないため、「思いやりがある」など、対人関係に起因するほめ言葉の比率が低くなった。

 共同研究した山口大人文学部の林伸一教授(日本語教育)は「中国人留学生が写真を撮る場合、日本人より硬い表情をすることが多い。これもまじめさが評価されるお国柄が背景にあり、親しみやすさ、話しやすさが好感を持たれる日本との違いが明確になって興味深い」としている。

(2007年4月4日 読売新聞)

26片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/04(水) 21:34:17
キヨスクをキオスクに変更
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070404-OHT1T00199.htm

 JR東日本は4日、駅売店の呼称を、長年親しまれてきた「キヨスク」から「キオスク」へ変更すると発表した。売店などを展開する子会社の「東日本キヨスク」が7月1日に「JR東日本リテールネット」へ社名変更するのを機に、国際的な発音に合わせるという。

 「キヨスク」は旧国鉄時代の1973年に駅売店の愛称になった。JR東によると、トルコ語を語源とし、あずまやなどを意味するKIOSKに、当時、「清らかな」や「気安く使ってもらいたい」との思いを込めて、「キヨスク」と表記を決めた。

 呼称を変えるのはJR東管内の駅売店だけで、他のJRの駅では変更の話は聞いていない、とJR東は説明している。

(2007年4月4日20時18分 スポーツ報知)

27片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/04/14(土) 10:19:45
山本健吉の絶筆?原稿を発見 県立図書館が公表 長崎
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070414/04.shtml

 日本を代表する文芸評論家、山本健吉(一九〇七−八八年)=長崎市出身=が死の直前に書いた直筆原稿が見つかり、遺族から寄贈された県立長崎図書館(同市立山一丁目)が公表した。

 遺稿の題は「句碑由来記」。健吉が亡くなる直前の八八年春、南島原市南有馬町の原城文化センターに健吉の句碑が建立されたいきさつを書いており、末尾に「昭和六十三年四月吉日」とある。健吉は同年五月七日に亡くなったため、原稿を調査した同図書館郷土課は「絶筆と思われる直筆原稿で、非常に貴重」としている。

 「句碑由来記」は原稿用紙一枚の短文。一九六〇年十月五日、島原の乱(一六三七−三八年)の舞台となった原城跡を訪れた健吉が、島原の旅館で調理人に所望され、原城にちなんだ俳句を即興で作り色紙にしたためた、という回想がつづられていた。

 「私は程よく酔が回った快さに乗じて、立ちどころに三句作ったから不思議である。感動の余韻の結果か」など、荒涼とした原城跡を見た際の感動と、句を生み出した情景が簡潔に描かれている。手直しの跡はほとんどなく、青インクの丁寧な筆跡も印象的。現在句碑の脇に立っている説明文の元原稿とみられる。

 東京の健吉の遺族は昨年末からことしにかけて、直筆原稿や川端康成、三島由紀夫の書簡など遺品計百二十二点を同図書館に寄贈した。同図書館は健吉の生誕百年を記念し、十日から四階郷土資料展示室で「山本健吉展」(五月二十七日まで)を開き、このうち六十八点を公開している。

28片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/06(日) 04:36:27
薄田泣菫生誕130年 広がる顕彰再評価の動き
http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2007/05/05/2007050511093243009.html

 倉敷市連島地区出身で、明治後期の詩壇を担った薄田泣菫(すすきだきゅうきん)(1877―1945年)の生誕から19日で130年を迎える。地元では顕彰会や小学校での学習活動などを通じ、後世に業績を伝える取り組みが進む。節目の年に新たな評伝が出版され、生誕日には倉敷市で記念の朗読会が開かれるなど再評価の動きがある一方、専門の研究者不足といった課題も抱える。

 「ああ大和(やまと)にしあらましかば…」

 教室に、泣菫の詩を情感たっぷりに朗読する子どもたちの声が響く。「泣菫教育」。母校・連島東小(同市連島町連島)が総合学習の時間などを活用して進める活動だ。

 児童は寸劇や映像を組み合わせて泣菫の生涯を発表したり、地元に残る生家や業績を紹介するホームページを作成。低学年向けに教員が作品を紙芝居にして教えるなど教材に積極的に取り入れている。

 古典調で一読しただけでは大人でも分かりにくい泣菫詩だが、高橋清志校長は「声に出して読むことで子どもらはそれぞれに独特の言葉の響きや美しさ、詩のイメージをつかみ、情操教育にも役立っている」と話す。


【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】

(2007年5月5日掲載)

29片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/08/27(月) 20:55:07
訃報:サイデンステッカーさん86歳=日本文学研究家
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070828k0000m060044000c.html

 「源氏物語」完訳や谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らの翻訳者として知られる日本文学研究家で米コロンビア大名誉教授のエドワード・ジョージ・サイデンステッカーさんが26日、外傷性頭蓋(ずがい)内損傷のため死去した。86歳。葬儀は近親者だけで行う。後日、お別れの会を開く予定。

 米コロラド州生まれ。コロラド大卒。第二次大戦中、海軍の日本語学校で学び、情報将校として硫黄島、佐世保などに赴任。1946年に帰国後、外交官として再来日。50年に退官し、東大大学院で平安朝文学を研究、「蜻蛉日記」を英訳した。62年に帰国し、コロンビア大などで日本文学の教授を務めた。

 谷崎潤一郎「細雪」、川端康成「雪国」、三島由紀夫「天人五衰」などを英訳。「源氏物語」全訳(75年)には15年を費やした。

 68年、川端康成のノーベル文学賞授賞式に同行し、受賞講演「美しい日本の私」を英訳・朗読した。文芸評論家、エッセイストとしても知られ、著書に「流れゆく日々」「東京 下町山の手」など。「源氏物語」翻訳などの功績で75年に勲三等旭日中綬章。77年、菊池寛賞を受けた。

 米国と日本を半年ずつ行き来して過ごしていたが、昨春から日本に永住を決め、東京・湯島で暮らしていた。4月下旬、散歩中に転倒。都内の病院に入院して頭のけがの治療を受けていた。

 ◇日本文学の恩人

 ▽作家、丸谷才一さんの話 日本文学にとって大事な恩人だった。第一に谷崎潤一郎、川端康成その他を英訳して現代小説の海外紹介の端緒を作った。第二に「源氏物語」の新しい英訳を完成して、日本古典に大長編小説があることを世界に再認識させた。第三に、志賀直哉が谷崎よりも上という戦前的文学観を逆転させた。どの一つをとっても偉業と呼ぶしかない。

毎日新聞 2007年8月27日 19時11分 (最終更新時間 8月27日 20時47分)

30片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/12/02(日) 16:11:19
訃報:デニス・キーンさん73歳=詩人、英文学者
http://mainichi.jp/select/person/news/20071202k0000m040026000c.html

 デニス・キーンさん73歳(詩人、英文学者)日本の関係者に入った連絡によると、30日、脳腫瘍(しゅよう)のため英国の病院で死去した。

 ロンドン生まれ。オックスフォード大卒。1961年に来日し、日本女子大教授などを務めた。現代日本文学の翻訳にも取り組み、北杜夫「楡家の人々」や丸谷才一「横しぐれ」などを英訳。92年に野間文芸翻訳賞を受賞した。著書に「モダニスト横光利一」など。妻は舞踊評論家のケイコ・キーンさん。

毎日新聞 2007年12月1日 19時04分

31片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2008/07/14(月) 16:53:17
大野晋さん死去:国語教育、鋭く批判 
 独創的な国語研究で知られた大野晋・学習院大名誉教授が14日、死去した。古典に関する著書だけでなく、大ベストセラー「日本語練習帳」などで、最も一般に知られた国語学者の一人だった。国語教育などでの発言も積極的で多彩な活躍をしたが、日本語の起源の研究は、学界に否定的な反応も少なくなかった。

 「日本語練習帳」は、誰もが知っている言葉について質問を出し、読者の理解が、いかに不確かなものかを気付かせる手法が、驚きを持って迎えられた。また、「読む力」が軽視されている、と近年の国語教育を鋭く批判した。

 一方、部落差別に基づく、えん罪事件として問題になった狭山事件では79年、脅迫状が石川一雄被告(当時)のものではないと鑑定し、被告の再審を訴えた。

 タミル語を日本語の起源の一つとする説は、週刊誌などで一般に広がったが、学界では「タミル語の音韻法則を無視している」などと批判を呼んだ。しかし、晩年も「100年くらい後に正しさが理解される」と、自信を持っていた。【鈴木英生】

毎日新聞 2008年7月14日 15時08分
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080714k0000e040074000c.html


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板