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地方選挙・地方政治
1738
:
片言丸
◆MACDJ2.EXE
:2007/07/28(土) 08:07:03
「一心不乱、努力してきた」
4期16年の歩み 讀賣群馬
初当選し初登庁する小寺知事(1991年8月1日)
小寺氏は1991年7月、清水一郎元知事の死去を受けて行われた知事選で初当選した。
尾瀬サミットに集まった群馬、福島、新潟の3県知事。小寺知事(中央)が管理財団の設立を提唱した(1992年8月4日、尾瀬沼畔で)
まず取り組んだのは、ゴルフ場開発の規制だ。当時はまだバブル景気の名残が残っていたが、山林を守る必要性を訴えた。92年には群馬、福島、新潟3県知事らによる尾瀬サミットを提唱。今年8月の「尾瀬国立公園」の誕生は、尾瀬保護財団を設立し、熱心に取り組んできた成果と言える。
2期目の映画「眠る男」の製作は、県人口200万人記念事業だったが、自治体が映画を製作するのは全国初で、議論を呼んだ。文化や教育といった「心」を重視する姿勢は、「ぐんま天文台」や「ぐんま昆虫の森」にも見て取れる。
小学1年の学級に2人目の教諭を配置する「さくらプラン」は99年にスタート。今年度には1〜3年生の全クラスに拡大し、今回の選挙戦でも「子どもを育てるなら群馬県」を県政目標に掲げた。
県職員のカラ出張問題で示した「返還せず、処分せず」の方針について、記者団の質問に答える小寺知事(1996年11月11日)
順調だった県政運営に危機が訪れたのは、96年に発覚した旅費の不正支出問題だった。カラ出張で生み出したお金を交際費や残業手当に充てていたが、小寺氏は当初、「それなりの原因や理由がある」として処分や職員による返還を行わない方針を示した。しかし、7億円を超える不正支出に対する県民の怒りを増幅させることとなり、当時の副知事らが任意団体を作って職員が自主的に返還する形をとることで事態を収拾した。
4期目はいばらの道だった。初当選当時、小寺氏は、最終的に自民党の推薦を得たが、小寺氏を推す中曽根系県議団に対し、福田系県議団は石原信雄官房副長官の擁立を画策し、対立した末の一本化だった。このことが、4期目以降の対立の底流にあった。
福田系県議団が2003年の県議選で過半数を握り、小寺氏が初当選時から抱えていた火種が表面化した。副知事人事案に始まり、英語特区校「ぐんま国際アカデミー」の私学助成金問題などで、県議会と対立を繰り返した。小寺氏も自民党が推す候補との知事選を予期してか、議会との対決姿勢を鮮明にしていった。
こうした中、「人事が偏っている」「職員や議員の声を聞かない」と批判されることもあった。小寺氏は落選後、「県庁内に『小寺依存症』というのがあったかもしれない」と漏らしている。県民にも「5期は長過ぎる」という気分があったことは確かだ。読売新聞社が今月14〜16日に実施した世論調査では、知事の不支持率は39・8%で支持率32・8%を上回っていた。
いわゆる「改革派知事」とは一線を画し、人気取りのパフォーマンスを嫌った。今月23日に行われた最後の記者会見で、16年間の県政の業績を問われ、「ゴルフ場の開発をやめるとか、農薬の空中散布をやめてみるとか、そういうやめることが結構多かった」とし、「みんな拍手喝采というような選択だけでは、本物の政治はできない」と指摘。地方自治の専門家を自任する小寺氏らしい物言いだった。
(小川聡)
(2007年7月26日 読売新聞)
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