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地方選挙・地方政治

1022片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/12/02(土) 01:50:06
旭川市長選 激戦制し逃げ切った西川
http://www.h-keizai.com/article-2006/2006-11-28-gekisen.html
基礎票の差で、きわどく逃げ切った西川

 知名度に勝る西川は終始リードを保ち、逃げ切った。31歳のときに日航のパイロットの職を投げ打って帰旭、その後5度にわたる国政選挙を経験し、「西川」の名前を旭川市民の間に浸透させた。しかし名前の浸透と同時に「負けてばかり」という負のイメージも付いて回った。

 それを払拭したのが04年の参院選道選挙区における55万票という驚きの得票であった。旭川市内だけでは並みいる有力候補を凌ぎ、実に5万8500票を獲得、一躍“旭川の顔”に躍り出た。そしてこの時点から西川は、佐々木秀典に代わる民主党の衆院候補、あるいは民主悲願の市長選独自候補として急浮上した。

 投票率がどうあれ、7万票を取れば勝利間違いなしと見られた今回の市長選で、2年前に5万8500人が「西川」と書いた事実は大きい。あくまでも国政を目指していた若者が急転、地方自治体の選挙に出るということが“腰砕け”と映る懸念はあったが、結果として市民はそれを許し、同情票へと転化した。

 5万8500票が西川の基礎票と見るには無理もあったが、加藤が道議時代にとっていた2万〜3万の票に比べると2倍以上のアドバンテージがある。どう割り引いてみても、西川は基礎票の部分で加藤に大きな差をつけてスタート点に立っていたのである。

 西川・加藤両選対ともそれは承知していた。10月22日の告示後も、西川選対には余裕の表情が見て取れ、一方の加藤選対には終始緊張感があふれていた。投票日の3日前、加藤選対の丸修本部長は朝礼で「まだ4000票負けている」と檄を飛ばしたが、それは掛け値なしの危機感の現れだった。

 それから投票日まで、必死に票の掘り起こしを行った加藤選対だったが、結局1758票差にまで追い上げたものの、ついに逆転はならず、西川はきわどいところで逃げ切った。

 
勝利の陰にあった五十嵐・青木の存在

 知名度に勝る西川だったが、何一つ政治実績、行政経験がないという弱点があった。財政再建、不況からの克服が急務の旭川市にとって、未知数の西川にマチを託すことには大きな不安を伴った。しかもまだ37歳(11月7日に38歳)という若さ。西川を担ぐ陣営内にさえ、経験豊富な加藤に対するハンディを実感する空気もあった。

 西川自身もそれを痛感していた。43年前に同じ37歳で市長になった五十嵐広三に助けを求めたのも、自分自身を鼓舞する意味があった。その五十嵐の協力が、加藤の追い上げを寸前のところで食い止める原動力となった。

 選挙期間中、西川の演説の中に何度も五十嵐の名前が登場した。まだまだ未熟な自分と、後に建設大臣、内閣官房長官にまでなった五十嵐を重ね合わせることには抵抗もあったが、鮮やかな引き際でさっそうと政界を去った五十嵐の衰えぬ人気にすがることは、勝負に勝つためには避けられない手段だった。

 その五十嵐は体力的なこともあり、選挙戦に直接的な関わりは持たなかったが、五十嵐がバックアップしてくれているという思いが西川に勇気を与え、また、かつて最強の後援会と言われた「五十嵐広三と歩む会」の“残党”と言われる人たちの目を、きっちりと西川に向けさせた。

 また、保守系を基盤とする西川後援会と、いまだ旧社会党系の色彩が強い民主党、連合、農連などの3軸体制を結びつけた元道議・青木延男の存在も、強力な基盤を持たない西川にとってありがたかった。

 当初は今回の選挙をさめた目で見ていた青木が、西川陣営の強い要請を受けて選対に入って以来、事務所内には緻密な戦略が浸透した。「いまでは55年体制の旧式の選挙は通用しない」という反感も一部にはあったが、かつて37歳の五十嵐を担ぎ上げ、保守の狭間をついて勝利した青木の鍛え抜かれた選挙戦術は、西川後援会と3軸の隙間を埋め、しっかりとした一丸体制を築き上げた。

 西川勝利の背景には、五十嵐・青木という民主党の貴重な“遺産”があったことを忘れてはならない。


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