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この人に学ぼう

1まっちゃん:2005/09/08(木) 07:27:01
「極楽も 地獄も 先は 有明の 月ぞ心に 掛かる雲なき」

これは、14才の時から弓箭を手に36年に亘り北陸道、東山道、東海道の覇を
唱え、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛騨、上野の半国、陸奥二郡、出羽
五郡、常陸三郡の国々を従えた上杉謙信が時世の句です。

勇猛果敢にして無欲、清浄にして器量大。廉直にして裏表なく、明敏にしてよく察し、慈恵をもって部下を育て、諌言は好んで容れるなど、世にまたとはない名将で、謙信の人柄を十のうち八までは大賢人、二は大悪人というべき。つまり、怒りに乗じての行いによろしからざることも多くあるということが大悪人とされる所以であるといわれています。

謙信の家訓は、
 心に物なき時は心広く体泰(ゆたか)なり
 心に我慢なき時は、愛敬失わず
 心に欲なき時は、義理を行ふ
 心に私なき時は疑ふことなし
 心に驕りなき時は、人を敬ふ
 心に誤りなき時は、人を畏れず
 心に邪見なき時は、人を育つる
 心に貪りなき時は、人に諂ふことなし
 心に怒りなき時は、言葉和らかなり
 心に堪忍ある時は、事を調ふ
 心に曇りなき時は、心静なり
 心に勇ある時は、悔むことなし
 心賤しからざる時は、願い好まず
 心に孝行ある時は、忠節厚し
 心に自慢なき時は、人の善を知り
 心に迷ひなき時は、人を咎めず

「学ぶ」という言葉の語源は、「真似をする」、「まねる」から「まなぶ」のなったといわれています。日本人の勤勉さから、このまねぶ、学ぶが加味され力を発揮してきたことは歴史が語っていますが、独創性が加わればもっと素晴らしいものになるのではないでしょうか。

先人の教えに学び、「日新日進」。人として少しでも成長したいものです。

2まっちゃん:2005/11/03(木) 20:04:06
北条早雲として名を知られている早雲ですが、北條長氏というのが彼の名前です。
長氏は、伊勢新三郎行長(ゆきなが)の子で備中(岡山県)の生まれで、新九郎と称されていました。
北條氏を名乗って後に髪を下ろして早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)と号し、流離の身から起こり、ついには伊豆、相模を平定し、韮山城(にらやまじょう)に居住。初めは氏茂(うじしげ)と名乗り、後に長氏(ながうじ)とあらためました。
永正16年8月16日他界。享年88才。

◇二十一箇条の教え
長氏、若き人の為めにとて、二十一条の教を述ぶ。

 第一に、仏神を信じ申すべき事。
 第二に、朝に早く起き、
 第三に、夕には五つ以前に寝定まるべし、寅の刻に起き、行水拝み(行水と神仏拝み)し、身の行儀を整へ、その日の用所(用事)、妻子家来の者に申付け、さて六つ以前に出仕すべし。
 第四に、手水を使はぬ前に、厠(かわや)より厩(うまや)、庭、門外まで見廻り、まづ掃除すべき所を、似合の者に言付け、手水早く(手早く)遣ふべし。
 第五に、拝みをする事、身の行なり。(神仏を拝むのは身の修養である)
 第六に、刀、衣裳人の如く結構にあるべしと思ふべからず、見苦しくなくばと心得べし。(人と比べて、良いものを欲しがってはならない)
 第七に、出仕の時は、申に及ばず、宿所に在るべしと思ふとも(出仕しない日も)、髪をば早く結ぶべし。
 第八に、出仕の時むざと御前へ参るべからず。(むやみに御前に出ない)
 第九に、仰出さるゝ事あらば、遠くに伺候申たりとも、唯(いい)と御返事を申し、とみに御前へ参り御側へはひ寄り、謹みて承はるべし。
 第十に、御通にて物語ばかりする人の辺りに居るべからず、傍へ寄るべし。(控えの間などで、雑談ばかりする人のそばにいないように)
 第十一、数多(あまた)交はりて事勿れと云ふことあり、何事も人に任すべきなり。(大勢で考え、行えば過ちが起きにくいという。)
 第十二、少しの間あらば、物の本、文字あるものを懐に入れ、常に人目を忍び見るべし。
 第十三、宿老御縁に伺候の時、腰を少し折りて、手を突き通るべし。
 第十四、上下万民に対し、一言半句、虚言を申すべからず。
 第十五、歌道なき人は、無手に賤し、学ぶべし。(和歌などは嗜むこと)
 第十六、奉公の隙には、馬に乗り習ふべし。下地を達者に乗り習ひて、用の手綱以下は稽古すべきなり。
 第十七、良友を求むべきは、手習学問の友なり、悪友を除くべきは、碁、将棋、笛、尺八の友なり。
 第十八、宿に帰らば、厩、表より裏へ廻はり、四壁犬くぐりを塞ぎ拵ふ(こしらう)べし。(犬くぐりとは、犬が出入りする壁の穴)
 第十九、夕に六つ時に門をはたとたて(固く閉じ)、人の出入りに依て(よって)開閉すべし。
 第二十、台所中居の火の廻り、夕々我と見廻はり、堅く申付くべし。
 第二十一、文武、弓馬の道は常なり、記すに及ばず、文を左にし、武を右にするは古の法、兼ねて備へずんばあるべからず。

まず神仏尊崇のことを述べ、礼儀、躾、心掛け、屋敷の管理、文武の学び、稽古、読書や和歌を勧めています。この時代の武将の中には、神仏尊崇を訓令した人は結構いるのですが、何故かについて言い残している人はいないのが不思議だとされています。

日本古来よりの良い風習が失われていくことで社会が殺伐としているような気がしますが、あなたは家風や神仏を守ろうと思いますか。今の自分があるのは祖先や先人あってこそです。秋の夜長に一度じっくり瞑想に耽るのはいかかでしょう。

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5まっちゃん:2005/12/10(土) 23:34:03
「敵に塩を送る」という言葉がありますが、この言葉の由来をご存知でしょうか。
一説に過ぎないかもしれませんが、こういう説があります。

 今川氏真は北条氏康と相談して、武田信玄の領国に塩を売ることを禁じたことから、甲斐、信濃、上野の領民たちが苦境を迎えることになった。

 上杉謙信はこれを耳にして、信玄に書を送った。
 「近国の諸将 貴方へ塩を入るゝを留め候由(よし)、承はり候、近比(ちかごろ)卑怯の挙動と存(ぞんじ)候。弓箭(ゆみや、きゅうせん)を執て(とりて) 争ふこと能はざる故と存ずるなり。
 某(それがし)に於て(おいて)は、只(ただ)幾度も運を天に任せ、勝敗を一 戦の上に決せんとこそ存じ候へ、塩の儀は何程にても某が領国より相送り申べし。
 其御国より手形を以て入用(いりよう)次第に取らせらるべし、若し(もし) 高直(高値:たかね)に致すに於ては、重ねて仰せ聞けらるべし、急度(きっと)申付(もうしつけ)候はん。(もし高値をつけてくるようであれば知らせていただきたい、こちらで厳しく申しつけるようにします)

 この言葉を聞いて武田信玄をはじめとする武田の老臣たちは、謙信の武士道に感じ是非とも味方にすべき武将であると言ったそうです。
 謙信の領地である越後から莫大な量の塩が運ばれたことは言うまでもありません。

6まっちゃん:2006/01/03(火) 09:48:59
 北条氏康は、早雲の孫、左京太夫氏綱の子で、左京太夫に任ぜられ、後に髪を削り萬松軒(ばんしょうけん)と号し、小田原城に住まう。幼名は国王丸(くにおうまる)。
小田原北条氏の三代目として、父祖の業を継いで関東制覇を成し遂げ、元亀二年十月三日卒、五十七歳で没す。

氏康が退隠して国を子息氏政に譲り政令を任せて様子を見る。
のち氏康は氏政に「国を譲り受け、今、何をもって楽しみとするか」と問う。

氏政「家臣を能力により選んで適材適所に分けることを最も楽しみとします」

氏康「よし。しかし主将が家臣を選ぶのは普通のことだが、また、家臣が主将を選ぶということがある。隣国と戦いに及んだ際、日頃家臣を愛さず庶民に恵みを与えていなければ、彼らは国を去り他国に行って、よい主、よい将を求めてこれに仕えることとなる。故に良き臣を愛し、領民を慈しむということは、主将の職分であるから、必ず主将が自らこれを為し、老臣にもこれを任してはならない。富貴の家に生まれ、暖衣飽食に育って下情に通じず、部下が功を積んでもこれを取り立てず、労を尽くしてもこれを賞せず、皆が怨みを抱き人心既に離れている時に、変事が起こった際になって急に甘言を与えても、誰がよろこんでこれに従うだろうか。そうであるから、部下の功績は寸功といえどもこれを忘れずに時々褒賞して励ますようにしなければならない。これを部下の機嫌取りのように考えて嫌う者もあるが、これは大きな心得違いである。」

氏康は、決して部下の功を盗むことをしてはならないと常々教えていたという。

 吏士を愛し、庶民を恵むは主将の職分なれば、主将自ら為して、家の長臣にも必ず任すべからず
 寸功をも忘れず一労をも捨てず時々褒美していよいよ励まし進ましむるを事とせよ

部下を愛し領民を恵むことが領主の職分ということには深い意味があるのではないでしょうか。
組織論においてリーダーは人事、特に賞罰権を手放してはならないといわれています。
人間である以上、上司も部下を愛すといっても性格の不一致やフィーリングが合わないなど難しい点もたたあるでしょう。仕事をよくする者、できる者は可愛いが、仕事にミスが多いと見る目は自然と厳しくなるでしょう。
氏康は、愛とは別に功を賞するということを述べていますが、大なり小なりはともかく功績を賞することは公平に行うことができるのではないでしょうか。公平・公正は心掛けでできるものではないでしょうか。

7まっちゃん:2006/01/14(土) 13:24:54
議員、先生と呼ばれる職業の方は数多くあるが、本当に尊敬して先生と呼ばれる人はどのくらいいるのだろう?教壇に立つ教員が然り!いま尊敬して先生と呼ぶ人が果たして何人いるのだろう・・・・?

吉田俊雄著「日本海軍のこころ」文春文庫より
 諸君は、海軍将校として下級の人たちから敬礼を受け、かつこれからも受けるわけだが、その敬礼は、いったい諸君の軍服の肩章にたいしてなされたものか、その軍服を着ている中身にたいしてなされたものか、よく考えてもらいたい。願わくば、今後とも諸君の人格そのものが、部下から敬礼を受けるに値するものである将校になってもらいたい。

8読者:2006/02/24(金) 00:22:14
小林多喜二「蟹工船」
「学べる人」がいる人は、しあわせだね。

9日本男児:2006/03/18(土) 13:23:28
責任観念の薄き者くらい、男子として卑劣なるものはあらず。

 責任回避をこととする卑劣漢の常習として、善きことは自分に取り込み、少し不利となるときは、さようなことは「なさぬー知らぬー聞かぬー見ぬー」と来るものにして、男子もかくなりてはすでに一文も価値無し

 実松譲著 『海軍人造り教育』 光人社NF文庫 より

10読者:2006/04/01(土) 13:03:29
 『 下克上の時代を生き抜く即戦力の磨き方 』

            大前研一著  PHP研究所 840円

 PHP研究所の担当者の方にお願いして、特別に当メルマガに、その一部を掲載する許可をいただきました。
 本書より「はじめに」の部分をご紹介します。

-------『 下克上の時代を生き抜く即戦力の磨き方 』より抜粋-------
◆はじめに
 若い人たちの所得格差問題が、マスコミをはじめ政治の世界でも喧しい。
 いろいろな対策が検討されているが、これは時代の趨勢だから流れは変わらないだろう。
 成果主義の導入などで、収入格差は開きこそすれ、縮まることはないのではないか。
 私はその人の生み出す付加価値によって、これからは百倍の格差が当たり前になると考えている。

 詳しくは本文に譲るが、同じ大学を出ても、二十年経った四十五歳の年収では、五億円から五百万円の差がつくということだ。
 単純作業や業務処理をするだけの人は、世界標準で見ればせいぜい年収二百万円が相場で、フリーターなどアルバイト生活となれば、それ以下になるのは必至だろう。
 日本のビジネスパーソンも、いつまでも居心地のいい会社に勤めて、ぬるま湯に浸かってはいられない。
 あなたの会社が、定年まで面倒を見てくれる保障はないし、国が年金で老後の面倒を見てくれるかどうかも疑わしい。
 今後すべてのビジネスパーソンは、いまの会社や国がどうなろうと、自分の力で生きていける能力を身につけなければならない。
 そのトレーニングを一刻も早く始めることだ。それが「即戦力」「実戦力」を磨くということである。
 本書では、序章で一連のホリエモン騒動がこれからの時代に何を残したのか、これからどう変わっていくのかを、その功罪を織り交ぜて分析した。
 また、即戦力の「三種の神器」と名づけた「語学力」「財務力」「問題解決力」の磨き方を第一章から第三章で解説した。
 さらに、日本のビジネスパーソンに欠けている勉強法について第四章で紹介し、会議でのディスカッション能力の身につけ方について第五章でまとめた。
 最後の終章では、世代別にこれからでも取り組める人生設計の考え方について提案した。
 何歳からでも遅くないし、いまから始めれば、必ずあなた自身は変われる。
 みんなが変われば日本も変われることは間違いないのだ。
 私はこれまで政策市民集団「平成維新の会」を設立したり、人材発掘・育成の場として「一新塾」を起こした。
 また、起業家養成のための学校「アタッカーズ・ビジネススクール」や「ビジネス・ブレークスルー」を事業として拡大させてきた。
 最近では、「ビジネス・ブレークスルー大学院大学」を開講している。
 これらの活動のすべてが、この国をよくしたいとの思いと 若い人たちにこれからの厳しい時代を生き抜く力を身につけてもらいたいとの願いからきている。
 ぜひ、本書を参考に自分を磨いて、これからの時代を逞しく生き抜いてもらいたい。

 二〇〇六年三月 大前研一

11日本男児:2006/04/05(水) 14:47:32
 「五省」は、実松譲著『海軍人造り教育』で、昭和7年から江田島での教育に使われていたようです。
「五省」は、就寝前の自習時間の最後に、当番の生徒がこの五省を唱え、生徒の一日の反省の時間をつくっていたそうです。

 五省=海軍兵学校教育において使用されていた自省自戒の言葉。

一、至誠に悖(もと)るなかりしか
   至誠に逆らうような真似はしなかったか。

一、言行に恥ずるなかりしか
   自らの言行に恥ずるようなことはなかったか。

一、気力に欠くるなかりしか
   気力は欠けていなかったか。

一、努力に憾(うら)みなかりしか
   精一杯努力したか。
一、不精に亘るなかりしか
   不精に生きてしまったようなことはなかったか。

 歴史を振ると、満州某重大事件といわれる張作霖爆殺事件が昭和3年。昭和7年には満州事変が勃発。昭和7年に海軍青年将校が主体となった5.15事件。昭和11の2.26事件。昭和15年の日独伊三国同盟。16年に開戦ということからみて昭和7年は、大日本帝国最後の20年の中盤時代で、これより過去の時代を知る人たちが「古きよき」が失われつつあった時代と言うのが昭和一桁後半あたりではないでしょうか。

12大和魂:2006/04/22(土) 08:23:48
吉田満『戦艦大和ノ最期』より

 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ道義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ
 救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ
 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

 日露戦争時代は「大鑑巨砲主義」でした。
 航空戦力が主力となる時代の到来を予知しながら、日露戦争の大勝に酔いしれ、戦艦「大和」を開発することは
時代の流れに沿えず結果、大和と3333名の悲劇的な最期を迎えることにつながったのではないでしょうか。
 「進歩」とは、ある意味で現体制を打破することであり、柔軟性がなければ対応ができないと思います。日本海
軍の面子と日露戦争大勝の呪縛に囚われ、進歩することが出来なかったというのは結果論ですが「敗けて目覚める
」ことで今の日本の繁栄があるのかもしれません。
 「先導になる」と散って行った英霊たちは、祖国の盾となることを本望としていたと単純に考えていいのでしょ
うか。「戦艦大和の最期」の後半部分は、最期の戦闘が始まってからの凄惨な様子が描かれています。
 大和の教訓は、現在起きている様々な問題についても、今後、日本がどう進むのかを投げかけているように感じ
ます。

13管理人:管理人
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