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寺小姓とは

1名無しさん:2008/07/13(日) 08:11:37
あまり資料がないので、たてて見ます。
江戸時代。まだ児童福祉法もない厳しい時代、子供はどうだったのでしょうか・
武家でも、家を継げるのは長男だけ、次三男となると、口減らしのため8歳ころになると
手習いの名目で寺にだされたのでした。
これが寺小姓といわれるものです。表向きは手習いだが、実際は女をもてない
坊主の性欲処理です。12,3になると・・。
そなた、貧しい商家やその他の男の子たち8歳ころ人身売買で売られて、厳しい訓練の後
12,3で客先に出された。これが陰間です。

寺小姓と上臈
 ttp://ch.kanagawa-museum.jp/dm/ukiyoe/esi/suzuki/d_suzuki06.html

2名無しさん:2008/07/13(日) 18:29:44
寺小姓とは小坊主ではない。姿も小姓や陰間と同じように、振袖姿です。
振袖火事とは、振袖姿の「寺小姓」を慕った娘が起こしたものという。
これと別だが、寺小姓を慕って16歳で火あぶりになった「八百屋お七」
の放火事件もこのようなものだった。

3名無しさん:2008/07/13(日) 18:40:31
江戸時代の少年風俗は、その後、「振袖」とか「柳腰」とか女の美にちおりいれられた。
陰間は完全な人身売買にとる少年(美童)売春、で、線香一本いくらで強制売春だった。
拒否すると、親方から、食事をさせないとか裸にして縛り上げられ、尻をハリでつつきまわすとか厳しい
制裁があった。

「寺小姓」は寺の中で坊主専用という点で、身分はいい。「小姓」は、普通なら手の届かぬ殿様専用の
寵童。殿様は一段高い御座の上で、そこには前髪姿の12,3の小姓が二人、必ず殿様の刀をささげ持つ。
その御座には、殿様以外、小姓しか上がれない。

最近の時代劇に、小姓の姿は見られない。

4名無しさん:2008/07/15(火) 22:11:42

お七は十六 壱
ttp://sakurabakaworu.fc2web.com/yuriyuri/novel/oshichi/oshichi1.htm

振袖火事
 ttp://page.freett.com/elirin/kaidan/furisodekaji.html
衆道辞典
 ttp://meimu2.sumomo.ne.jp/meimu2/page003.html

胎内往生 (寺小姓、男色)
 ttp://www.asiawave.co.jp/bungeishichoo/60tainai.pdf#search='

5名無しさん:2008/07/27(日) 07:41:58

稚児の男色(中世僧院)
 ttp://cosmetology.livedoor.biz/archives/50065733.html

6名無しさん:2009/11/17(火) 20:39:17
奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺に入り、僧の日常生活の手助けをすることが制度化されていました。寺院はもちろん女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児,垂髪,渇食(かっしき)などと呼びます。
 頭を丸めた殺風景な僧侶達のなかにあって、有髪の少年達は特別な存在であったようです。この僧と稚児の間に、同性愛的な恋愛感情が生まれる場合もありました。
 このような稚児を寵愛する風習は、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まっていました。さらに公家などの貴族の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まりました。
 鎌倉時代から室町時代にかけては、この僧侶と稚児,または公家と稚児の間の交情を描いた、一種の恋愛小説が流行しました。これを「児物語(ちごものがたり)」と呼びます。中でも最高傑作と呼ばれるのが「秋の夜の長物語」(作者不明)です。

一休さんも6歳で安国寺に童行(ずんなん)として預けられます。童行、喝食(かっしき)、稚児(ちご)は、夜伽の相手をさせられる童子のことです。水上勉も著書『一休』の中で、自分も相国寺に入れられ、先輩雲水の夜伽をさせられた経験を語っています。

 平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり,秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらにその中でも特別に寵愛を得た美少年の小姓は、閨で夜伽の相手もしました。これが「稚児小姓」です。



 平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり,秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらに寵愛を得た美童の小姓は、閨坊で夜伽(よとぎ)もした。

7名無しさん:2010/01/02(土) 17:51:54
自分が正しいためには、正しくない者が必要だから。

8名無しさん:2011/06/23(木) 08:22:19
いまの女の「振袖」とか「柳腰」とかは蔭間から来た言葉で、例えば振袖というのは江戸時代蔭間などという少年売色が起源。
振袖は女の衣装ではなく、12,3〜4の「美童」が夜、お客の前にでていく衣装です。

「柳腰」というのも、少年売色(蔭間)や小姓、手小姓など12,3−4の美童の細くてしなやかな腰付き(尻)から来た言葉です。
柳腰とは女の腰(尻)のことにあらずして、男色に於いて交わる男の子の細い尻のことです

9名無しさん:2011/06/23(木) 08:37:42
今でも同じだが、12,3〜4の男の子の細い腰つき(尻)、遠くから見ても
150センチ代のすんなりとした中学生くらいの男の子は魅力的。

男の子(美童・若衆)の柳のように細くしなやかな魅力的な腰つき、年上の男(念者)が裸のそこを組み敷いて 割れ目に突き立て
押込む「義兄弟の契り」を行うのが男色。

昔、男色といって男の子は性の対象だった。

《柳腰》とは、でかい女の尻のことではなく、美童の細くしなやかな尻のことだといえば、なるほどと
納得するでしょう。

10名無しさん:2014/05/20(火) 11:58:53
定本稚児 (1977年) [古書] [-]
今 東光 (著)

11名無しさん:2014/08/18(月) 10:02:55
木谷俊男「賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜」(国会図書館蔵000002727681)

12名無しさん:2017/10/13(金) 00:12:28
江戸時代,まだ児童福祉法もない厳しい時代、子供はどうだったのでしょうか・
武家でも、家を継げるのは長男だけ、次三男となると、口減らしのため8歳ころになると
手習いの名目で寺にだされたのでした。
これが寺小姓といわれるものです。表向きは手習いだが、実際は女をもてない
坊主の性欲処理です。12,3になると・・。
そなた、貧しい商家やその他の男の子たち8歳ころ人身売買で売られて、厳しい訓練の後
12,3で客先に出された。これが陰間です。


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