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賎のおだまき・武家の時代の男色

115名無しさん:2011/07/16(土) 12:09:12
江戸時代でも薩摩の稚児趣味というのは有名だったようで、男色趣味を薩摩趣味と言い替えた事もあったとか。
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。

薩摩では社会的な身分関係が
1)男、2)馬、3)女
という順番で、女性と触れ合うこと(話しかけるというライトな関係を含めて)を極端に忌避したといいますので、そういったこともあったかもしれません。
女性と目が合っただけで切腹した人もいたそうです。怖い。

余談ですが、幕末に坂本龍馬がお龍さんを連れて鹿児島に向かっています。
日本初の新婚旅行とも言われ、霧島の鉾を抜いたという有名な絵入りの龍馬の手紙も残っているので、ご存知の方も多いかと。
この坂本夫婦の行動、薩摩では物凄く驚かれたんではないですかね〜(笑)
多分ありうべからざる行動だったんではないですか。
しかしながら女性忌避とはいえ、やはり家の中(プライベート)と外(オフィシャル)では態度に差はあったと思うのですが。
まあ、私もあまり詳しいことは知らないので、間違っていたら突っ込みプリーズです。教えて下さい。
しかしながら今のN○Kのドラマなんかを見ていると非常に違和感を感じます…
話が進まないからというのは分かるんですが、当時の社会通念から考えるとちょっとやり過ぎじゃないかな〜…
N○Kだと本当にあったことだと信じる人がいるから怖いんだ。

それはとにかく、薩摩であると尚武の風が特に強く、それだけに戦場を想定した集団の連帯感や結束が求められたというのも男色がさかんであったひとつではないですかね。
出水だったかと思いますが、稚児の中でも特別に美しい少年を「稚児様」とか「○○様(名前の様付け)」と呼び、薄化粧をさせて周囲の人間が日の掛からないように傘をさし、他郷の人間に攫われないように集団で護衛して歩いたという話も残っています。
ここには男色という一言で終わらない何かがあるような気がします。
上記した集団の結束というのも当たるでしょうし…
ここまで来ると、色恋よりももっと深いものがあるような感じで受け取れます。
しかしながら、つらつらと思うに勝海舟が「長州人は金に弱く、薩摩人は女にだらしない」という事を言っていますが、その辺りはどうなんでしょう。
矛盾を感じますが、郷中教育期間を脱してしまうと、そういった規範からは抜け出てしまうという事なのでしょうか。

地方では盛んであった男色も、幕末ごろには、江戸ではすっかり廃れていたわけですが、それがどういう訳か明治維新とともに復活します。
さて?


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