したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日本で現代美術がマイナーな理由

1hiroto:2004/05/15(土) 14:55
なぜ日本では、現代美術が、かくもマイナーな
存在なのかを考えるスレッド。

2hiroto:2004/05/15(土) 15:10
そもそも、僕が現代美術掲示板を作るにいたった理由は、2chの
美術掲示板における、現代美術の話題に対しての低レベルな誹謗投稿が、
いかに多いかに驚いたことです。特に村上隆、森万里子、森村泰昌らの
成功に対するやっかみから生じる反感が非常に多い。そういうわけで、
現代美術の独立した掲示板が必要(僕にとって)だと思いました。

そういう幼稚な見解を表明している連中は、美大の学生、美大出身者が、
かなりの部分を占めているように見受けられます。僕はヨーロッパの
某国の美術アカデミーの学生をしてますが、日本の美大(芸大も含め)
を出て、同じ学校に通ってる人たちの大半は、現代美術音痴です。
要するに、日本の美術教育の中では、現代美術の歴史と展望を
教えることができる人材が、きわめて少ないように思われます。

3hiroto:2004/05/15(土) 15:24
近代美術も現代美術も西洋文化に起源を持ちます。
近代美術が現在の日本で、それなりの市民権を得て、
毎年のように「印象派展」のたぐいが日本各地で
開催されますが、現代美術の展示は、採算が合わない
せいか、比較的まれです。市場もゼロに近い。

近代美術は、近代的市民社会の欲望、快楽の充足装置で
した。現在の私たちは、ポストモダン社会に生きていて、
自ずから近代とは異なる、自己意識を持ち、様々な
メディアへの好奇心に動かされる存在です。普通に考えれば、
現代美術が今の我々の感性に最もマッチする、唯一のアート
であってしかるべきなのに。

4Hiroto:2004/05/15(土) 15:59
ちなみに、ポスト・モダンという言葉について、1980年代の
バブル経済と結びついた流行語で、今は口にするのをはばかる
という態度は、日本でだけ流布している誤った認識だと思います。
イリヤ・カバコフのオープニング・レクチャー(1999年8月7日
水戸芸術館現代美術ギャラリー・ワークショップ)が、
ポスト・モダンと現代美術を理解する上で参考になると思います。
http://www.arttowermito.or.jp/art/kabakovlecj.html

「現代美術用語集」(artscape)のポスト・モダニズムの項
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/post_modernism.html

5匿名:2004/07/26(月) 20:31
さあ、何について語ろうか?
まず、君、人を集めてこいよ!誰もいないじゃん。

6匿名さん:2004/08/18(水) 04:27
村上も言ってたけど、所詮、現代美術は日本人には関係のないことなんですかね。
日本には、ブルジョワが存在しないから。

7匿名さん:2004/08/18(水) 04:57
(´−`).。oO (ここでボケて!!)

8匿名さん:2004/08/18(水) 05:56
>>5
税制も関係してるのかも。
日本ではアーティストが美術館に作品を寄贈しても、
贈与税をとられちゃうらしい。アメリカでは、寄贈によって税金が
控除される制度があるらしい。

98:2004/08/18(水) 06:04
上の投稿は、5でなく6に対して。
それから、日本では○山○夫みたいに、保守政治家や中国要人に
取り入って、アート以外の手段でステイタスを吊り上げてる人がいて、
そういう奴の作品は、暴落しないだろうとの予測の元に、日本の
ブルジョアたちやら保険金融機関が、海外では相手にされないような
絵を買ってる。でも竹下元首相も死んじゃったし、暴落しない保証が
どこにあるのか不思議だけど。

10匿名さん:2004/08/19(木) 06:41
いや、日本国民が、現代アートを求めていないんじゃないかって思ったの。

11匿名さん:2004/08/19(木) 07:47
そりゃどこの国の国民だって、その大多数は現代美術も、現代音楽も、
純文学も求めてないでしょ。
もともとこれらのアートは、ごく一部の鑑賞者によって支えられて
きたわけで、それが文化を形成してたわけだが、そういうわかりにくいものは
大衆蔑視でイカンというのが、昨今の日本の風潮なんじゃないかな?

12匿名さん:2004/08/21(土) 10:08
(`・J・´)ヾ
(ミライ)-○≪ パトロールチュウ!
 ‖ ‖
朝のパトロールにやって参りました

13匿名さん:2004/08/22(日) 22:42
日本のお宝って、茶道の茶碗とか、掛け軸とか、
箱にしまって、他人にはめったに見せないっていう考え方が、
あったでしょ。そんなことも現代アートの流行らないのと関係あるのかもね。
美術館で大勢の目にさらされた絵に、所有欲が湧かないとか。

一方で、グッチやプラダのバックには、日本人は所有欲ありまくり。W
使い心地がよい、長持ちする、見た目が美しいということで
ブランドバックは買われるのだろうけど。
利用価値のあるものは、やっぱり売れるのですよ。

14匿名さん:2004/08/23(月) 10:08
もともとアートってグッチやプラダのバッグみたいな安っぽい代物じゃ
ないわけですよね?商品価値を云々するのはアートマーケットの
仕事で、アーティストはマーケットとは切り離されて、美術史の中で
革新的な制作をしようと努力してる存在だと思うんです。そうじゃない
人も多いには違いないけど。
村上隆がバッグのデザインをしたり食玩を出したりしてるけど、
それもメタ・アート的な視点からの戦略性を考慮してると思うんです。
良い悪いは別として。
最大の問題は、日本の美術教育が未熟で不毛だということだろうと思います。
文学も音楽も同様に教育に問題があるのだと思います。

15匿名さん:2004/08/26(木) 18:03
>>14
>もともとアートってグッチやプラダのバッグみたいな安っぽい代物じゃ
ないわけですよね?

ほんとうにそう断言できる?
プラダやグッチのバッグを他の有象無象のバッグと区別する価値観は、
「芸術作品」だけを人間が作った諸々の生産物から区別する価値観と
まったく無関係だと思う?

現代美術は、そうした価値観を疑うところから出発してるんじゃなかったの?

1614:2004/08/27(金) 08:56
>>15
>ほんとうにそう断言できる?
僕には自明なことです。
>プラダやグッチのバッグを他の有象無象のバッグと区別する価値観は、
>「芸術作品」だけを人間が作った諸々の生産物から区別する価値観と
>まったく無関係だと思う?
僕にはプラダやグッチのバッグは、他の有象無象のバッグと区別される
べき特性があるとは思いません。単なるブランド的価値が付加されて
いるに過ぎない。日本の米が世界一美味いみたいな、捏造された神話を
まとっているから、一部の消費者から過大評価されているだけのこと。
他方で芸術は消費の対象ではありません。
アートのマーケットは2次的存在です。

>現代美術は、そうした価値観を疑うところから出発してるんじゃなかったの?
もしそう思われるなら、その主張を説得力のある形で投稿してみてください。

1715:2004/08/27(金) 15:10
モノの価格は、その値段を出して買う人がいれば、
どんなに高くても、それが正当な価格となる。
これは市場主義経済の原則。
プラダのバッグも高級米も「不当に」高価なわけではない。

プラダのバッグと有象無象のバッグの価格差を形成しているのは
品質の差ではなく、ブランドという差異性の記号そのもの。
従ってそのブランドに価値を見いださない人間には、その値段だけの価値はない。
つまりブランドはそれ自体が人為的に作られた価値観のシステム(体系)といえる。

いっぽうで「芸術」というものを考えてみると、
これもまた人為的に作られた「ひとつの文化的な価値観のシステム(体系)」ではないのか。
そのシステムの起源は西欧近代であり、そこで形成された価値の体系は
その外部の人(つまりバッグで言えばブランドを認めない人)には意味を持たない。
なお西欧近代で「芸術という価値の体系」がどのように成立したかについては、
王侯貴族のコレクション(例えばクンストカンマーと呼ばれるもの)から
近代的なミュージアム(美術館/博物館)への移行に関する分析からも
多くのことを知ることができる。

>>アーティストはマーケットとは切り離されて、美術史の中で
革新的な制作をしようと努力してる存在

アーティストだけがマーケット(市場原理)から切り離されるべき特別な「存在」、
という脳天気な思い込みの根拠はいったい何なの?

美術史はマーケットと隔絶した価値観なの? 過去のパトロンやコレクター、画商は
アーティストに比べればどうでもいい人間なのか?

とりあえず、こんなとこかな(W)

18利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 06:50
14改め、利毛Tと改名します。
>>17
>プラダのバッグと有象無象のバッグの価格差を形成しているのは
>品質の差ではなく、ブランドという差異性の記号そのもの。
>従ってそのブランドに価値を見いださない人間には、その値段だけの価値はない。
>つまりブランドはそれ自体が人為的に作られた価値観のシステム(体系)と
>いえる。いっぽうで「芸術」というものを考えてみると、これもまた人為的に
>作られた「ひとつの文化的な価値観のシステム(体系)」ではないのか。
その通りだと思います。多くのブランド商品は100年ほどの歴史しか持たず、
そのため誰がどういう戦略でブランド価値を作ったか、だいたい分かってしまう
のに対し、芸術という文化的な価値観のシステムは、人類の歴史と共に
発展してきた、複雑なシステムであり、文化そのものの根幹ゆえに、今日でも
人文諸科学の研究対象となっています。
15氏がいみじくも認められているように、芸術=「文化的な価値観のシステム」は、
その他の嗜好品=「人為的に作られた価値観のシステム」とは、似てはいるけど、
同列に扱うのはナンセンスなのです。

19利毛Т </b><font color=#FF0000>(9ZjLM/uE)</font><b>:2004/08/28(土) 06:51
>>17
>そのシステムの起源は西欧近代であり、そこで形成された価値の体系は
>その外部の人(つまりバッグで言えばブランドを認めない人)には意味を
>持たない。
西洋近代の価値体系を受容したがゆえに、日本をはじめ、非欧米文化圏に
おいても、芸術や美術という概念が普及し、自分たちの非西洋的歴史においても、
芸術的活動が行われていたという認識が、近代において一般化しているわけです。
西洋の芸術と、それを支える理論の影響力は、単なるブランド商品などとは、比較に
ならない、強力な外部への浸透力を持っていました。その浸透力の理由は、
当時の西洋の科学技術や産業が優れていたから、芸術までもが優れているかの
ように思われたのだ、等の短絡的な理屈では説明できません。やはり、東洋とは
異なる西洋の文化、その真髄である芸術作品にふれて、圧倒される経験を、
当時の日本人は体験したのでしょう。
例えば、国粋主義的な日本美術擁護者であった岡倉天心でさえ、あるコンサートで、
ベートーヴェンの交響曲を聞いたのち、
「ああ、この音楽だけだよ、西洋が東洋より優れているのは。」
と友人のビゲローに語ったそうです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板