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フェイク『男』のチラシの裏
241
:
フェイク『男』
:2010/04/10(土) 22:30:01 ID:.BaEitnU
743 名前: フェイク『男』 投稿日: 2010/04/10(土) 21:18:52 ID:8+BWPPBk
「人に対し何かをしてあげるということは……全て『見返り』を期待しての行為だ。
人に親切にするのは自分も親切にしてもらうためであり、無償の愛というものはない。
無償の愛とは……天国へ行くための『見返り』だからだ」(プッチ神父)
現代の心理学では、少なくとも人間の意識的な意味での「無償の愛」というものは存在することが明らかになっている。
例えば赤ん坊には、隣で寝ている別の赤ん坊が泣き出すと一緒になって泣き出す習性がある。
まさか赤ん坊が、自分も一緒になって泣いていた方が都合がいいなどと意識的に考えたりはしないだろう。
人間には、他人が喜んでいれば共に喜び、他人が悲しんでいれば共に悲しむ本能があるのだ。
そもそも、そのような感情は人間のみならず、類人猿などにも観察されるものだという。
かつて類人猿はその凶暴性ばかりが注目され、その残虐さが進化する人間の原動力になったのであり、
愛などは打算が形を変えたものに過ぎないという理論などもあったそうだが、今ではそのような学説も否定されている。
そのような本能は生存目的に根ざした、ある意味打算的なものであるということも言えるのだが、
(隣の赤ん坊が泣いているということは、それだけ何らかの危険が迫っているのであり、
自分も泣いた方が親に危険を知らせられるというように、他者に感情を合わせるのも本能レベルでは打算である)
だからといって本能的な反応が即刻、現実的な打算に結びつくわけでもないし、
現実的な打算をもって本能的な反応を全く消し去ることが出来るわけでもない。
そこのところを高度に両立させ、打算も本能も共に満足させることこそが人間の知性の見せどころであろう。
(とはいえ、そのような理想が現実にどれだけ実践されているかと考えれば、プッチ神父の言葉も判らないではない)
なお、以上のことはあくまで心理学的な話であり、キリスト教でいうところの無償の愛、
アガペーに当てはめていいものか、そもそもプッチ神父の言葉にそのような宗教的意図はあるのか、
そこら辺は私の知ったことじゃないが、およそ面白半分にそれらの意味も含まれると見なすことにする。
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