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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人と法華経 】

9美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/01/09(土) 20:20:00

 つまり、大前提として仏教の経典というのは、一個の人間の内なる純粋生命を説き明かそうと、したものであるという事である。この大前提の明確なる表出は、
 かの「三世諸仏総勘文教相廃立」の「一代聖教とは此の事を説きたるなり此れを八万四千の法蔵とは云うなり是れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば
 八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」(P.563 ⑯)という御文であろう。一代聖教の、八万四千に及ぶ一切経が説き示そうとした当のものは、他ならぬ
 「我身一人の日記文書」である。換言すれば、一個の人間の内なる根源生命が奏でる音律を、日記風に記述したものであるとの意味がここに込められている。

 そして「蒙古使御書」では、この大前提に立って爾前経と法華経とを、截然と分かつ教相判釈が明快に示されている。端的にこの判釈を言えば、爾前の諸経が
 一個の人間の内なる根源生命における、部分部分の働きを記述したのに対し、法華経は全体として統一的に捉えたというものである。つまり、部分観と全体観の
 違いである。しかし、注意しなければならないのは、部分の集合即全体とはならないという点である。部分を集合しても、それだけでは意味がないのであって、
 これを有機的全体として統一、総合する根源的な力が根底に働いて、初めて全体を維持する事が出来るのである。いわば根源生命を支え、全体的に統一する力を
 説き明かしたのが法華経なのである。従って、爾前の諸経は法華経を根底として、初めてその所を得て自在の役割を担う事が出来る。それ故、爾前の各経典は
 それだけでは独立しても所を得ず、ちょうど大地からもぎ取られた木々の様に、生命力が枯渇して枯れて行くのみである。

 日蓮大聖人が立宗宣言の後、生命をかけて念仏、禅、律、真言の順で破折されていった根本の理由は、正にここにあると言ってよい。これらの各宗が依拠と
 する経典は、正に爾前の諸経であり、法華経に支えられて初めてその働きを十二分にする経典ばかりである。にもかかわらず、法華経から独立し部分を以て
 全体足らんとする倒錯が、これら諸宗派にあった。それどころか逆に、念仏、真言の如く法華経そのものを否定する形で、己が経典を立てんとする増上慢も
 見られ、権実雑乱の極限まで大聖人当時の日本仏教は至っていたのである。仏教の根本的な問題も知らずに幸福を求めて、これらの諸宗派を信じる衆生も
 同じく生命力が涸渇し、枯れるのを待つ様な状態に陥って行くのが、大聖人の眼には、はっきりと見えていたのである。


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