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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 日蓮大聖人と法華経 】
33
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/04/10(日) 20:54:54
九界即仏界を、真実の意味で“即”ならしめる、すなわち因果倶時にするには、どうしても時間の制約を破らなければならない。日常的な時間の制約を破って
はじめて、先ず因があって後に果が来るという、因果異時を破る事が出来る。ここに、日常時間を打破して永遠の視点を、導入する事が要請されるのである。
この要請に応えたのが、本門寿量品の久遠実成の説法といえる。五百塵点劫という久遠の過去に立つ時、時間の制約下に置かれていた先因後果の、動かす
べからざる関係を逆転して、先果後因の関係にも、因即果、果即因の因果倶時の関係にも自在に展開する事が出来る。つまり迹門で説いた十界互具を真実の
意味で、互具互融ならしめる為には始覚という時間軸を、無始本覚という超時間、永遠性により逆転しなければならない。
以上、三つの立場からの論を述べたが、そこで明らかになった様に、何れも説法の主体者たる仏の側の問題であると言う事である。その意味で当に“能化”
なのであって所化たる衆生は、全く受動的にならざるを得ない。当然と言えば当然であるが、意外にもこの一点が、本文の理解にとって不可欠の条件となる。
爾前権教に於ける九界と仏界との間に断絶を設ける思想も、又それを法華経迹門で十界平等と打ち破った思想も、共に能化たる仏の側から打ち出された、説法
内容の変化に過ぎない。更に今度は、始成正覚であった仏が、久遠実成を開顕して本覚を表わすのも、仏の側の一方的な宣言である。
先に述べた様に、迹門は仏の側から衆生に仏界を具足するという、九界即仏界を宣言したものであったが、説く仏自身が始成正覚であった為に、その一事の
故に「始覚の十界互具」と大聖人は断じられた。元来、断絶と差別のあった九界と仏界とが、迹門で始めて互いに具する事が明らかにされたわけであるから、
それ自体革命的な説法ではあるが、しかし如何に互具と言っても原理的、理論上の説に過ぎない。その意味では、まだまだ九界と仏界とが相対している、と
言って良いであろう。「本無今有の失」とは当に、何故に九界に仏界を具すのかという理由や根拠がないまま、偶然的に九界即仏界が宣せられているに過ぎない、
と言う欠点を有していると言う事である。
34
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/04/17(日) 20:52:19
ところが、本門の久遠実成の発迹顕本によって、その欠点が除去された、つまり「本覚の十界互具」となったというのである。言い換えれば、「無始の本仏」
「無始無終の義」「無始・色心常住の義」「本有の大乗菩薩界」と言った迹門には、欠けていた重要な思想が満足されたと言う事になる。この場合、一往“無始”を
久遠、過去常と言う事にしておこう。なぜなら、にちれんだいしょうにんは、わざわざ“無始”について「但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして
是過去常に非ざるなり」(P.421 ⑯)と述べられているからである。“無始”の意味する内容として、永遠、超時間という言葉を、これまで何度も使用してきた
が、未来常住か過去常かについては、それほど注意せずに用いてきた。しかし、ここに於いて大聖人は、はっきりと未来常住ではなく、過去常でなければならない
と断定されている。
永遠、つまり日常的時間を突破するという点では、既に方便品で、「是の法は法位に住して世間の相常住なり」との説法がある。だが、これは説く仏が始覚である
故に、未来の常住を説いたものに過ぎず、その意味では有始無終と言う事になる。涅槃経に於いても、仏性の常住を説くが、この場合も又未来常住に過ぎない。
更に、一見過去常を思わせる化城喩品の三千塵点劫の説法も、主眼は釈迦が声聞弟子を化導してきた、その始終の因縁を明かす所にあり、説く仏は始成正覚の
ままである。大聖人の言われる“無始”すなわち“過去常”は、あくまで釈迦自身の始成正覚を打ち破って、久遠の過去へと遡り、その上に立っての永遠性で
なければならない。過去常があって未来常住が言われねばならない。それであって、初めて無始無終と言えるのである。さて、「無始無終の義」は仏界常住の
義であり、「無始・色心常住の義」は九界の衆生が常住であると言うことである。
35
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/04/20(水) 22:13:13
結局、本門に入って仏界も九界も、すなわち十界が同時に常住となり、その上で十界互具を説いたので「本覚の本有の十界互具」と言われたのである。
ここにも、仏の発迹顕本、即ち過去常の開顕による仏界常住の義が宣せられて、その結果として九界の衆生も常住となり、更には国土世間も常住の寂光土と成る
と言う、大聖人独自の思想がはっきりと表われている。先程の第一の立場で明らかにした様に、寿量品は常住の仏界に常住の九界を具す、仏界即九界の側面
を明らかにしたものである。当に、日蓮大聖人の法華経を捉える視点は、一貫して本門で明かされる常住の生命に焦点が当てられている。
そう思って、「一代聖教大意」に於ける十界互具論を見直してみると。仏界に九界を具する仏界即九界の側面を、強調されていたことが分かる。本稿でも、幾度か
引用した爾前権教の“厭離断九の仏”を破する文証の中で、「【九界を仏界に】具せざるが故に」「【凡夫の身を仏に】具すと云わざるが故に」(【】は傍点の
代わり。傍点は筆者)「仏の身に九界が本よりありて」「実には九界を離れたる仏無き故に」等々と、仏界中心の論を展開されている。大聖人の首尾一貫した論の、
発展を思うべきであろう。それ故、妙法=十界互具=一念三千も、全て無始無終の十界互具の生命を、起点として展開されて行くのである。妙法も、寿量品に
開顕された常住の仏界の生命の、不可思議な力用を表わす言葉となり、十界互具論も常住の仏界の生命に、具足される常住の九界を意味し、一念三千も常住の
仏界の一念に具される三千、となる。
迹門を基軸に論を展開した天台教学は、妙法を哲学的に捉え、十界論は九界の衆生に仏界を具する側面に傾き、一念三千論も衆生の一念に具される三千を
強調する。総じて天台哲学は、九界の因より仏界の果を望む従因至果の法門となるのに対し、日蓮大聖人の仏法は、常住の仏界から逆に九界の因に働きかけ、
これを救い取って行く従果向因の法門となるのである。更に言えば、共に内在即超越、超越即内在を共通にしつつも、天台教学が九界の衆生の因に内在する
仏界の果を、止観行という禅定の修行によって内観し、仏果に到達した瞬間に九界を超越しようとする、内在から超越を志向するのに対し、日蓮大聖人の
仏法は、超越的な常住の仏界の果に具する九界という、仏界即九界の本源的な生命の力用を、九界の衆生の因の中に内在せんとして、超越から内在を志向する
のである。ここに、御本尊の建立が要請されてくる、必然性が存するのである。
36
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/04(水) 20:58:11
【文底の意味するもの】
これまで「十法界事」を中心としつつ、かなりのスペ-スを費やして、日蓮大聖人の十界互具論の本質に迫ってきたが、本抄で示された基本論調は、そのまま
以後の著述に、引き継がれていくのである。文永九年に著された人本尊開顕の重書「開目抄」では、「十法界事」のテ-マが一段と深化され、明瞭なる文底観心の
立場から、より鮮明に説かれていく。まず、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいだ
さず但我が天台智者のみこれをいだけり。一念三千は十界互具よりことはじまれり」(P.189 ②)と、文底観心の立場より、種脱相対を明かされる。すなわち
一念三千法門は、法華本門寿量文底の南無妙法蓮華経に、包み込まれているというのである。ここで“文の底にしづめたり”との表現に、重大な意義が込められて
いる。なぜ“文の底”と言われたか。
元来、一念三千の法門は天台大師が、法華迹門の諸法実相・十如是や二乗作仏の思想をもとに、天台観心の立場によって構築したものであるが故、迹門を表にした
法門である。その一念三千の法門が、法華本門寿量品の文底に秘沈されている、と言われたのは何故か。ここに於いて、先程「十法界事」で検討した、日蓮大聖人
独自の十界互具論即一念三千論が、重要な意味を持ってくるのである。すなわち、久遠を開顕した常住の仏界の生命に具す九界であり、久遠仏の一念に具足される
三千が、日蓮大聖人の十界互具、一念三千であるとすれば、当然、大聖人の捉えられる一念三千が、発迹顕本を説く本門寿量品に、求められて行くのは必然で
あろう。しかし、寿量品の発迹顕本そのものが、一念三千の法門を表わしていない為、教相にこれを求めるわけにはいかない。発迹顕本した久遠仏の、常住の
生命に具足されるものだからである。それ故に“文の底にしづめたり”と、言われたのである。
37
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/15(日) 22:17:12
更に日寛上人は、法華寿量の文底に南無妙法蓮華経が、秘沈されていると言う日蓮大聖人の元意を追究し、見事な論を展開された。日寛上人は寿量品に説き
明かされた本因、本果、本国土の三妙合論の文は、未だ真実の意味の十界互具、一念三千を成就していないとの観点に立たれている。すなわち久遠五百塵点劫に
於いて、長期間にわたる菩薩道を行じて仏果を得たというのが、寿量品の本因・本果である。言い換えれば九界の本因の後に、仏界の本果に到達した事になる。
確かに釈迦が仏果を得てからは、九界も仏界も共に釈迦の生命に具備されて常住を明かし、仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を明らかにしてはいる。
しかし、厳密に言えばこの場合の常住は、一種の“有始無終”となり、真実の無始無終ではない。なぜなら、釈迦が仏果を得る前に、長期間の菩薩道を行じた
事を述べ、九界から仏界に至るという始覚性を残しているからである。その意味では始成正覚の在り方を、五百塵点劫という久遠の昔に、移したに過ぎない
結果に陥っている。ただ久遠の開顕という超時間、永遠性は、釈迦が仏果を得てからの仏界即九界、九界即仏界の妙なる生命の実在を、明かす上での根拠に
なっている。問題は、始覚性を如何にして払拭するかである。そこに見出されたのが、久遠の釈迦を本因所住に於いて不退転に登らせ、成仏せしめた根源の法
=南無妙法蓮華経であった。
日寛上人は、その久遠仏を仏たらしめた能生の根源の法こそが、事の一念三千即南無妙法蓮華経であり、この法を久遠元初以来所持された末法の御本仏こそ、
日蓮大聖人であると断定された。ここに、日蓮大聖人が胸中深く抱かれた本意が、明らかとなったのである。日寛上人より開かれた、究極の思想によれば、
結局、寿量品開顕の久遠仏とは、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の御生命になる。従って久遠仏の一念に具された三千とは、久遠元初自受用報身如来
即日蓮大聖人の、一念の心法に具された三千となり、それはすなわち、妙法=南無妙法蓮華経と表わされる。ここに、自受用身(人)即事の一念三千(法)の
人法一箇の、久遠元初仏の生命が明々了々となるのである。日蓮大聖人が御図顕に成られた御本尊の相貌こそ、大聖人御内証の御生命たる一念三千の当体なのである。
38
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/20(金) 22:13:33
更に「開目抄」には、次の如き重要な一文がある。
「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を
開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の
心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千も
あらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮かべるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、
四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の
仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(P.197 ⑩)
かなり長くなったが、重大な思想内容が織り込まれているので、あえて引用させて頂いた。ほぼ「十法界事」に於けるテ-マと重なる内容であるが、本文の
後半部分の展開は、日蓮大聖人の末法独一本門の独創性を示して余す所がない。「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば
四教の因やぶれぬ」との文は、先の「十法界事」の“始覚の十界互具”であっては何故に、日蓮大聖人の所謂“真実の十界互具”にならないかという、
その理由を簡潔に述べられている。迹門の始成正覚の仏は、爾前の蔵・通・別・円の四教を説いた仏と同じ始成の仏果である。それ故、本門寿量品に於いて、
始覚を発って久遠の本果を開顕したと言う事は、四教の仏の果を打ち破り、否定した事になる。四教の仏果が否定された事は、同時にその仏果を得る為の、
九界の修行因(仏因)を破った事になる。それ故、次に「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり」
と述べられたのである。
九界を因とし、仏界を果とする十界の因果は、爾前・迹門に於いては、無常始覚の故に否定された。本門寿量品に於いては、無始常住の九界の因と無始常住の
仏界の果との因果を説き顕わしたのである。「十法界事」における「本有の十界互具」を、ここではこの様に表現されたのである。
また、“本因本果の法門”とは、始成の仏果と九界の仏因とは異なり、仏界も九界も共に本有常住の因果である事を示されている。先に述べた時間論の視点で
言えば、始覚の現在時間では因と果が異時にならざるを得ない所を、久遠本有常住の超時間によって、倶時ならしめるのが本因本果の法門といえよう。
この様にして超時間、永遠性によって成立する因果倶時とは、久遠仏の生命の不可思議性に他ならない。
40
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/22(日) 21:03:23
それ故に、更に「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べられたのである。無始本有の
因の九界は、無始本有の果の仏界に具わり、無始本有の仏界は無始本有の因の九界に備わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千になるとの仰せで
あり、正に久遠仏の十界互具の生命そのものなのである。ここを日寛上人の思想によって読む時、久遠元初の自受用報身如来の生命になり、同時に南無妙
法蓮華経の一法になる事は言うまでもない。「当体義抄」に於いて「至理は名無し聖人理に観じて万物に名を付けくる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り
之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(P.513 ④)
この中で、因果倶時・不思議の一法である南無妙法蓮華経を修行する者が、「仏因・仏果・同時に之を得る」と言われている点が、重要である様に思う。
仏因(九界)も仏果(仏界)も因果倶時で、法で言えば南無妙法蓮華経の妙法そのものであり、人で言えば久遠元初の自受用報身如来の生命そのものであるが
故に、その妙法を修行する、すなわち妙法を唱えれば唱うる主体の生命が妙法則久遠元初の生命となると言う事である。
ここで整理をかねて、今一度之までの論述を振り返ってみると、迹門では九界の衆生に始覚の仏界を具すと、理的に九界即仏界の十界互具が説かれた。
本門寿量品の発迹顕本、久遠実成開顕によって始覚の仏界が否定された事になり、その必然の結果として、能具の九界の衆生(因)も否定された。こうして、
迹門の九界即仏界を否定し去った後に、今度は本有常住の仏界に本有常住の九界を具足する、常住の仏界即九界が成り立ってくる。もちろん、常住の九界即
仏界も、成立するのは当然である。これすなわち、久遠仏の生命そのものの相貌である。更に文底観心から言えば、久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の
御生命そのものであり、同時に南無妙法蓮華経の一法となる。この人法一箇の当体を、日蓮大聖人は御本尊として図顕され、「末代幼稚の頸にかけさしめ給う」
たのである。この御本尊に妙法と唱うれば、唱うる者の生命に南無妙法蓮華経即久遠元初仏の、常住の仏界即九界、九界即仏界の大生命が感応妙で涌現して
くるのである。その時、無始の九界に仏界を具し、無始の仏界に九界を具す、真実の十界互具・百界千如・一念三千の当体として蘇生する。
さて、南無妙法蓮華経即久遠元初仏の生命こそ、宇宙と生命の根源であり、人間を含めた宇宙森羅万象を貫いて躍動する力用に他ならない。宇宙と生命の
根源についての最初の日蓮大聖人の悟りが、法華経と天台の一念三千説を媒介にしつつ、深化発展し法華経迹門を超えて遂に、法華本門寿量品の文底に南無妙
法蓮華経即久遠元初仏の大生命を樹立されるに及んで、その究極の境地に達せられたのである。そして、究極の悟りの境地を御本尊として図顕され、三大秘法
具足の一閻浮提の大仏法が、ここに打ち立てられた。
本稿は、ひとまずここで打ち切りたい。
残る今一つの重書“観心本尊抄”の検討、並びに妙法の題目についても、まだまだ考察すべき事柄が多いが、それらについては、後日を期したい。
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