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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人と法華経 】

15美髯公 ◆zkpDymnu/M:2016/01/24(日) 20:58:55

  しかし、日蓮大聖人が天台の諸々の釈の中から、十界互具論を妙法として採り出してこられた点に、大聖人の明確な視座を見る思いがするのである。それ故、
 本稿では日蓮大聖人と法華経の関わりを、特に十界互具論を中心の視座に据えつつ、追う事としたい。従って、又これからの展開が本稿の中心テ-マとなって
 ゆく。再び「一代聖教大意」に戻るならば、法華経の妙法たる所以を十界互具論に求められた大聖人は、十界互具論の卓越性を爾前の諸経との比較上から論じ
 られている。後の展開にとり、重要な二文が述べられている。

 一つは、「今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、されば今
 仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり」(P.403 ⑥)とある文である。
 これは、法華経が十界互具を説く故に、自力と他力とも一義的には決定出来ないとの、後の大聖人の仏法にとり注目すべき思想を語られている。仏道修行には
 大きく、自力と他力の二つがあるとされてきた。自力は主として禅宗、他力は主として浄土念仏宗の修行の形態である。それに対して、日蓮大聖人は自力と他力の
 中道を、説かれたのである。

 自力は禅宗の如く、自らの前に仏や経典を置かず、只ひたすら禅定の修行を自らに課する事により、仏性を徹見するのである。しかしながら、悟達の基準を計る
 手段を信じない為に、ともすれば暗証禅や野孤禅に堕す危険が生じた。“未だ得たりと謂い、我慢の心充満”して、増上慢に陥る傾向性を常にはらんでいる。
 建長七年作の「蓮盛抄」で、大聖人は「愚癡無懺の心を以て即心即仏と立つ豈未得謂得・未証謂証の人に非ずや」(P.152 ⑤)とも、また「禅宗は理性の仏を尊んで
 己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(P.152 ⑦)と打ち破られている。また他力は、絶対者たる仏(念仏宗の阿弥陀)や神を絶対憑依の
 対象として立てる為、衆生の主体性や人間性を結果的には軽視、蔑視する事になる。ちょうど自力と反対の立場になるのである。禅宗の場合は、衆生の主体性、
 人間性を重視し直に清浄の仏性を、開顕しようとするのであるが、煩悩多き現実の人間性を無視する為に、結果的には独善と思い上がりを露呈する。
 共に、民衆にとっては、危険な修行法である事を、大聖人は見抜かれている。


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