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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

15 美髯公 :2015/06/01(月) 23:15:26

  清澄寺に於ける立宗宣言の第一声が周辺に伝わると、六難九易の経文は具体的な姿を伴って現われた。道善房の心配通り、東条郷の地頭、東条景信の憤激を
 買ったのである。東条景信はその名字が示す通り、安房長狭郡東条郷に勢力を持つ武士であった。東条郷は源頼朝が伊勢外宮に寄進した東条御厨の一部で
 あったから、その地頭であることは、東条氏が土着の武士であった事を示している。地頭とは元来、庄園に置かれた管理者の呼称であったが、それを源頼朝が治安
 維持の名目で勅許を得て全国の荘園、公領に設置し、一つの職名とした。さらに承久の乱(承久三年=一二二一年)の結果、北条幕府はこの事変に勲功のあった
 御家人を没収した公家方の所領の地頭に任命し、全国支配を確立していった。この様に幕府の権力が、強大になるにつれて地頭も権威を増し、次第に横暴になって
 いった。初期の頃は、中央に送る貢物を横領する程度であったが、承久の乱以後その非道ぶりは激しくなり、土地そのものの略取を始めた。その際、庄の領主と
 衝突するのは必然の成行きであったといえる。

  東条景信もまた、こうした地頭の一人であった。景信は幕府中央の連署の重職にあった北条重時の御家人だったらしく、その威光を借りて様々な形で在地の領家を
 圧迫していた。この地の領家は北条支家の名越氏であった。三代執権・北条泰時の弟に当たる朝時が和田義盛の乱で功を挙げ、和田義盛の所領であった長狭郡
 一帯を変わって支配していたのである。この頃は既に当主の朝時は他界しており、その夫人が領家を切り回していたらしい。この女性が、大聖人の父母が重恩を
 受けた「領家の尼」または「大尼」と呼ばれた人であった。

 景信はまず、清澄寺と領家の所領の内の二間寺を念仏の寺とし、禁猟地域の清澄寺の飼鹿を狩って、この地域が自分の勢力範囲である事を示威しようと計った。
 それは明らかに、清澄寺と領家の所領侵略を意図したものであった。この時、大聖人は領家・清澄寺側にあって、事件を裁判に持ち込ませた。その結果、裁判は
 領家側に有利に展開し、一年も経たない内に二箇の寺は景信の掌中から離れた。完全な勝訴であった。この事件が、いつ頃の事であったかは明らかでないが、恐らく
 大聖人が遊学から帰った、直後の事ではなかったかと考えられる。地頭としての面目を潰された景信の、大聖人に向けられた遺恨は常のものではなかったに
 相違なく、報復の機会を窺っていたであろう事は想像に難くない。


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