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仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】

18美髯公:2015/05/23(土) 00:17:22

  次に「第八 南西北方四惟上下の事」は、宝塔品において釈尊が白毫相の光を放って四方十方を照らせば、その光の届く所、いたるところで十方分身の
 諸仏が説法している様子が浮かび上がったという個所についての御義口伝である。
 大聖人は、この十方とは十界を顕わしていると仰せである。しかし、白毫相の光とは十界の衆生が共に具えている貪・瞋・癡の三毒の光であると仰せである。
 そして、この三毒の光を「一心中道の智慧」というと結論づけられている。十界の衆生が等しく具えている三毒とは、実は白毫相の光であったというので
 ある。貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろか) ― この三毒が、なぜ白毫の光となるのか。それが十界の生命の本有の力用だからである。
 
 すなわち、我が身の三毒を転じていく以外に真実の幸福生活はありえないのである。そして、我が生命の三毒と真正面から取り組む以外に、自身の変革は
 ありえないと決定し、信心に励む所にこそ、一心中道の智慧が顕われてくるのである。従って、一心中道の智慧とは煩悩・豪・苦の三道を、法身・般若・
 解脱の三徳と転ずる信心の一心の事である。我々が南無妙法蓮華経に生ききる時に「十界同時の光指す」― つまり十界のそれぞれが、その当体を改める
 事なしに妙法の当体として輝き渡る生活に入る事ができると仰せなのである。

19美髯公:2015/05/23(土) 23:33:29

  次に「第十四 此経難持の事」(P.742 ⑮) に触れておきたい。これは「此の経は持ち難し」についての御義口伝であるが、これは我々の信心に於ける
 根本姿勢であると心得ておきたい。大聖人は「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と仰せである。これを結論していうならば、受けるべき難を
 受けずして成仏はありえない、との御指南なのである。「教行証御書」に「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(P.1282 ②) と、我々の信心の根本姿勢を
 戒められているのは、それ故である。すなわち、我々凡夫が自身の胸中に仏界を涌現しゆくには、難を受けるという厳しい戦いがなければならない。
 難を受ける事によって自身の生命が磨かれ、我が己心の仏界が現じてくる。これは仏法の厳然たる方程式なのである。

 他の御義口伝では「難来るを以て安楽と意得可きなり」(P.750 ②) と仰せである。また「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を
 持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」(P.1136 ⑤) とも仰せである。このご教示から、ひるがえって我々の信心の
 姿勢を考える時、勇気という特質が何にも増して重要になってくると思われる。我々自身の生命の淵源を直視し、そこに刻み込まれた宿命と対決し、成仏の
 実証を示して行くためには、いかなる苦難に直面しようともそれを敢然と乗り越えて行く勇気ある信心、実践が不可欠の要素であるからだ。
 
 我々はその根本姿勢を、大聖人の御生涯から学ぶ事ができる。「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(P.970 ⑭) ― これは大聖人ご自身の激闘の
 生涯の中で、身をもって会得された信心の精髄から発したご教示であると拝せる。いずれにしても、難を乗り越える勇気がなければ信心の本当の醍醐味は
 味わえないし、また、仏法の真意も到底理解できるものではないと知りたい。従って、我々は信心の根本姿勢の核心に“勇気”を置き、そこから発する
 不動の人生を生き抜いて行きたいものである。

20美髯公:2015/05/24(日) 13:40:03

  戸田前会長は、よく次のような意味の指導をされていた。
 「仏法の本質は慈悲である。しかし我々凡夫には、慈悲といってもなかなかそれを実践できるものではない。それに代わるものは勇気である。勇気が慈悲に
 通じるのである」と。実際、苦悩に沈む一人の友を前にして、我々は何をなし得るか。彼の生命を揺り動かせる程の力強い激励の言葉を、どれほど用意
 できるだろうか。また絶望の淵にあってなお“さあ、頑張ろう”との一言を、どれほどの深い響きをもって発する事ができるだろうか。そう考えた時に、
 現実の闇が深ければ深いほど、苦悩の嵐が吹けば吹くほど、信心の確信に裏付けられた勇気という特質が、何にも増して大切になってくるのである。

 その勇気とは、また自身の宿命を直視し、それと真正面から対決するという方向へ向かうものでなくてはならない。人の常として、ともすれば自身の内面から
 目をそらし、外面を飾る事ばかりに気を奪われがちなものである。蔵の財、身の財より心の財第一 ― これは大聖人の御指南である。社会的な地位や財産、
 あるいは表面的な才知うぃいくら積んでも、内面の心の財を積まなければ砂上の楼閣にすぎないのである。要は、自身の生命に刻印された“一凶”を
 禁ずる勇気を持つ事である。自身が直面する苦悩の根源を見すえ、それに敢然と取り組む姿勢に、真剣な祈りも生まれてくる。その時はじめて一生成仏への
 第一歩を踏み出す事ができる。このように、真の勇気は決意を生み、その決意は信心を深めていく ― この繰り返しの中に一生成仏・人間革命という、
 我々の最高の人生の目的も達成されるのである。

  ともあれ、滅後末法において法華経を受持し弘通する事は難事中の難事である。そして、その仏法の方程式通り、大聖人は六難九易の実践の上に、
 大御本尊という宝塔を打ち立てられたのである。その事に思いを至すならば、大聖人の大慈大悲に心からの感謝の念を禁じ得ない。しかも「今日蓮等の
 類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を多宝涌現と云うなり」(P.741 ②) と。あるいは「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故に
 よって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」(P.1244 ⑬) とも仰せである。

21美髯公:2015/05/24(日) 21:16:50

  我々が御本尊を受持し唱題に励む姿が宝塔涌現であり、御本尊という宝塔に入る事になると仰せなのである。釈迦・多宝の二仏が並座し、三世十方の
 分身の諸仏が来集し、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なった宝塔の儀式とは、まさしく大聖人御図顕の大御本尊の相貌であった。
 すなわち宝塔とは我々の生命を映し出す明鏡たる大御本尊そのものである。そして、御本尊を受持する我々の胸中にも、宝塔は涌現する。我々もまた
 大御本尊という宝塔の中に入って行く事ができるのである。これが宝塔の意義の根底である。
 以上、宝塔の意義について、大聖人の御書をたどりながら考えてきた。まだまだ深い意義が数多くあるが、今回はこの辺で終わる事にする。


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