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仏教大学講座講義集に学ぶ     【 “宝塔”の意義について 】

1美髯公:2013/11/17(日) 20:36:19

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 “宝塔”の意義について 】は、講義集の第八集に掲載されております。

16美髯公:2015/05/20(水) 23:59:50

 さらに「南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜」と。すなわち、我々が大御本尊に帰命し奉り、南無妙法蓮華経を
 唱え南無妙法蓮華経に生き抜く事が真実の安楽であり、楽波羅蜜となる。また「妙法とは我波羅蜜」― 我々の生命の中には我というものが厳然と存在する。
 その我を妙法の当体として輝かして行くという事である。「蓮華とは浄波羅蜜」― 蓮華の特質の一つは、如蓮華在水といって、泥沼の中に華を咲かせる。
 いかなる世界であれ、どんな時代であれ、自分自身が最高の清浄な生き方が出来るという意味である。最後の「経とは常波羅蜜」― “三世常恒なるを経と
 いう”とある通り、自分自身の生命が永遠に続いて行くという事を示している。従って、南無妙法蓮華経と唱える事が、すなわち四徳を我が身に輝かせて
 いくことになるのである。

17美髯公:2015/05/22(金) 00:18:26

  「第五 見大宝塔住在空中の事」(P.740 ⑪) には、次のように述べられている。
 「御義口伝に云く見大宝塔とは我等が一身なり住在空中とは我等衆生終に滅に帰する事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が
  住在空中なり虚空会に住するなり」
 宝塔が空中に住したとは、いったい何を表しているのか。まず大聖人は、この「見大宝塔」とは宝塔が一身の事であり、「住在空中」とはその我等の一身が
 滅に帰す、すなわち大宇宙に帰していく事であるといわれている。そして南無妙法蓮華経と唱え奉り信心に励む我々が住する処が「住在空中」であり、
 虚空会であると結論づけられている。

 ここで大聖人が示されようとしているのは色心不二、生死不二の理法である。見大宝塔とは色法 (健全なる身体) であり、住在空中とは心法 (価値創造しゆく
 知恵、精神) である。また、その色心不二、生死不二の当体として生命が永遠である事を明かされている。所詮、信心の一念とは、我が胸中を指す以外にない。
 それを住在空中、あるいは虚空会と説いているのである。従って我等が空中に住するとは、まさしく御本尊を信受し題目を唱える事によって絶対に
 崩される事のない永遠の幸福境涯に住する事をいうのである。また、宝塔品では一座大衆をも釈尊が神通力をもって虚空に引き上げ事が説かれているが、
 これも我々衆生の滅の相、すなわち死の相を表している。つまり、我々の生命は永遠にこの生と死を繰り返す。この生死の当体である生命そのものを
 変革する事によって、生死を即涅槃と転ずる事ができるとも仰せである (「第十一 摂諸大衆皆在虚空の事」) 。

  考えてみれば、七宝に飾られた宝塔が大地から涌現し虚空にかかったという宝塔涌現、そしてその後に展開される虚空会の儀式とは、まさしく我々の
 生命が生と顕われ、死と顕われ、その生死の相を永遠に繰り返していく、実にダイナミズムを説き起こそうとしたものといってよいだろう。
 しかも、もう一重立ち入って見るならば、その生死の苦海に沈む我々の生命を、いかにして即涅槃と開覚せしむるか ― その大転換のドラマをも暗示して
 いるのである。大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は生死即涅槃と開覚するのを皆在虚空と説くなり生死即涅槃と被摂するなり」 
 (P.742 ②) と仰せである。すでに、虚空会の儀式を借りて、大聖人は大御本尊を御図顕された事をみてきた。恐らく大聖人の御心中は、一切衆生が
 この大御本尊を生命の大回転軸として、生死の苦海から永遠不滅の絶対的な幸福境涯に自在に遊戯する人間革命の壮大なドラマを、事実の上に読み取られて
 いたのではないかと拝せられるのである。

18美髯公:2015/05/23(土) 00:17:22

  次に「第八 南西北方四惟上下の事」は、宝塔品において釈尊が白毫相の光を放って四方十方を照らせば、その光の届く所、いたるところで十方分身の
 諸仏が説法している様子が浮かび上がったという個所についての御義口伝である。
 大聖人は、この十方とは十界を顕わしていると仰せである。しかし、白毫相の光とは十界の衆生が共に具えている貪・瞋・癡の三毒の光であると仰せである。
 そして、この三毒の光を「一心中道の智慧」というと結論づけられている。十界の衆生が等しく具えている三毒とは、実は白毫相の光であったというので
 ある。貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろか) ― この三毒が、なぜ白毫の光となるのか。それが十界の生命の本有の力用だからである。
 
 すなわち、我が身の三毒を転じていく以外に真実の幸福生活はありえないのである。そして、我が生命の三毒と真正面から取り組む以外に、自身の変革は
 ありえないと決定し、信心に励む所にこそ、一心中道の智慧が顕われてくるのである。従って、一心中道の智慧とは煩悩・豪・苦の三道を、法身・般若・
 解脱の三徳と転ずる信心の一心の事である。我々が南無妙法蓮華経に生ききる時に「十界同時の光指す」― つまり十界のそれぞれが、その当体を改める
 事なしに妙法の当体として輝き渡る生活に入る事ができると仰せなのである。

19美髯公:2015/05/23(土) 23:33:29

  次に「第十四 此経難持の事」(P.742 ⑮) に触れておきたい。これは「此の経は持ち難し」についての御義口伝であるが、これは我々の信心に於ける
 根本姿勢であると心得ておきたい。大聖人は「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と仰せである。これを結論していうならば、受けるべき難を
 受けずして成仏はありえない、との御指南なのである。「教行証御書」に「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(P.1282 ②) と、我々の信心の根本姿勢を
 戒められているのは、それ故である。すなわち、我々凡夫が自身の胸中に仏界を涌現しゆくには、難を受けるという厳しい戦いがなければならない。
 難を受ける事によって自身の生命が磨かれ、我が己心の仏界が現じてくる。これは仏法の厳然たる方程式なのである。

 他の御義口伝では「難来るを以て安楽と意得可きなり」(P.750 ②) と仰せである。また「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を
 持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、『則為疾得・無上仏道』は疑なし」(P.1136 ⑤) とも仰せである。このご教示から、ひるがえって我々の信心の
 姿勢を考える時、勇気という特質が何にも増して重要になってくると思われる。我々自身の生命の淵源を直視し、そこに刻み込まれた宿命と対決し、成仏の
 実証を示して行くためには、いかなる苦難に直面しようともそれを敢然と乗り越えて行く勇気ある信心、実践が不可欠の要素であるからだ。
 
 我々はその根本姿勢を、大聖人の御生涯から学ぶ事ができる。「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(P.970 ⑭) ― これは大聖人ご自身の激闘の
 生涯の中で、身をもって会得された信心の精髄から発したご教示であると拝せる。いずれにしても、難を乗り越える勇気がなければ信心の本当の醍醐味は
 味わえないし、また、仏法の真意も到底理解できるものではないと知りたい。従って、我々は信心の根本姿勢の核心に“勇気”を置き、そこから発する
 不動の人生を生き抜いて行きたいものである。

20美髯公:2015/05/24(日) 13:40:03

  戸田前会長は、よく次のような意味の指導をされていた。
 「仏法の本質は慈悲である。しかし我々凡夫には、慈悲といってもなかなかそれを実践できるものではない。それに代わるものは勇気である。勇気が慈悲に
 通じるのである」と。実際、苦悩に沈む一人の友を前にして、我々は何をなし得るか。彼の生命を揺り動かせる程の力強い激励の言葉を、どれほど用意
 できるだろうか。また絶望の淵にあってなお“さあ、頑張ろう”との一言を、どれほどの深い響きをもって発する事ができるだろうか。そう考えた時に、
 現実の闇が深ければ深いほど、苦悩の嵐が吹けば吹くほど、信心の確信に裏付けられた勇気という特質が、何にも増して大切になってくるのである。

 その勇気とは、また自身の宿命を直視し、それと真正面から対決するという方向へ向かうものでなくてはならない。人の常として、ともすれば自身の内面から
 目をそらし、外面を飾る事ばかりに気を奪われがちなものである。蔵の財、身の財より心の財第一 ― これは大聖人の御指南である。社会的な地位や財産、
 あるいは表面的な才知うぃいくら積んでも、内面の心の財を積まなければ砂上の楼閣にすぎないのである。要は、自身の生命に刻印された“一凶”を
 禁ずる勇気を持つ事である。自身が直面する苦悩の根源を見すえ、それに敢然と取り組む姿勢に、真剣な祈りも生まれてくる。その時はじめて一生成仏への
 第一歩を踏み出す事ができる。このように、真の勇気は決意を生み、その決意は信心を深めていく ― この繰り返しの中に一生成仏・人間革命という、
 我々の最高の人生の目的も達成されるのである。

  ともあれ、滅後末法において法華経を受持し弘通する事は難事中の難事である。そして、その仏法の方程式通り、大聖人は六難九易の実践の上に、
 大御本尊という宝塔を打ち立てられたのである。その事に思いを至すならば、大聖人の大慈大悲に心からの感謝の念を禁じ得ない。しかも「今日蓮等の
 類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を多宝涌現と云うなり」(P.741 ②) と。あるいは「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故に
 よって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」(P.1244 ⑬) とも仰せである。

21美髯公:2015/05/24(日) 21:16:50

  我々が御本尊を受持し唱題に励む姿が宝塔涌現であり、御本尊という宝塔に入る事になると仰せなのである。釈迦・多宝の二仏が並座し、三世十方の
 分身の諸仏が来集し、迹化他方の大菩薩・二乗・人天の大衆が連なった宝塔の儀式とは、まさしく大聖人御図顕の大御本尊の相貌であった。
 すなわち宝塔とは我々の生命を映し出す明鏡たる大御本尊そのものである。そして、御本尊を受持する我々の胸中にも、宝塔は涌現する。我々もまた
 大御本尊という宝塔の中に入って行く事ができるのである。これが宝塔の意義の根底である。
 以上、宝塔の意義について、大聖人の御書をたどりながら考えてきた。まだまだ深い意義が数多くあるが、今回はこの辺で終わる事にする。


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