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御書研鑽

302mume:2010/06/14(月) 10:28:49
御書p509・⑤(p562・⑭)     あらゆる人に妙法の功徳を
願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん、我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん、我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん
通解
願わくは自分を迫害した国主等を、まず最初に化導してあげよう。自分を助ける弟子等のことを釈尊(久遠元初の自受用報身)に申し上げよう。また自分を産んでくれた父母等には、生きているうちに、この南無妙法蓮華経の大善をすすめよう。

拝読の手引き
日蓮大聖人が末法の御本仏としての大慈悲心と大確信を述べられた一節です。  「我を損ずる国主等」とは、逆縁の衆生だといえます。「国主等」とありますが、今日においては、権力者をはじめ、民衆それ自体をさす言葉だといえるでしょう。「我を扶くる弟子等」とは順縁の衆生であり、今日では三大秘法の御本尊を信受する私たちのことだといえます。  すなわち、日蓮大聖人の仏法は、反対する者も信ずる者も、ともに救いきっていく大慈悲の精神によって貫かれているのです。この御書は文永10年(1273)5月11日御流罪の地・佐渡で命をねらわれるようななかで、したためられたものです。そのような大変な立ち場に立たされながら、大聖人を迫害した人々に対して「最初に之を導かん」と断言されています。まさに御本仏の絶対的な大慈悲の境涯に立たれての御文だといえるでしょう。  また「我を扶くる弟子等」とはまさに大聖人の仏法を信ずる私たち弟子のあり方を示唆された御文だといえます。すなわち、日蓮大聖人の広宣流布の大理想を生涯にわたって推進し、具体化しゆく人こそ、真の弟子だといえるのです。  その人こそ、釈尊すなわち、久遠元初の当体である御本尊の生命と境智冥合して、一生成仏の境涯を得ることができるのです。さらに「我を生める父母等には・・・・・・」の御文は、真実最高の親孝行が、親を最高に幸福にしていく妙法を教えることにあることを、示された御文です。  私達はこの御文の精神を学び、いまだ理解のない肉親、隣人に対して、妙法を信ずる者として誠意ある姿をもって臨み、真心の対話を地域社会に繰り広げていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」325〉

303mume:2010/06/15(火) 10:53:49
御書p509・⑥(p562・⑮)      妙法弘通に甘えは禁物
今夢の如く宝塔品の心を得たり。此の経に云く「若し須弥を接って他方の無数の仏度に擲げ置かんも亦未だ為難しとせず。乃至若し仏の滅後に悪世の中に於いて能くこの経を説かん、是れ則ち為難し」等云云。

通解
今、夢のように、宝塔品の要である六難九易の文意を得ることができた。すなわち、この法華経宝塔品には「もし須弥山をつかんで、他方の無数の仏土に投げおこうとも、それはまだむずかしいことではない。乃至もし、仏の滅度の後、悪世末法においてよくこの法華経(御本尊)を説くということは、これこそ非常に難しいのである」等と説かれている。

拝読の手引き
「夢の如く」とは、謙遜の言葉です。流罪、死罪等、数々の大難を受けられた大聖人が、宝塔品の心――六難九易の意味するところのものを、身でもって読みとられたことを述べられた一節です。  須弥山を他方の世界に投げるなどという、まず不可能に近い例を九つ引いて、それさえ、滅後末法に正法を弘通する難しさにくらべれば容易である、易しいと、宝塔品には説かれています。  つまり、末法における弘教、折伏は、きわめて難事であり、それだけ覚悟を要求されているのです。それは何故か――体制というものは、本質的に、革新の所説、しかも生命の根底からの抜本的革新を嫌うからです。  大聖人の未聞の人間革命の仏法の宣言、流布に、当時の統治体制は、流罪、死罪という迫害を加え、いままた、その正統の流れを寸分たがうことなく受け継ぎ、実践する創価学会に、大難が起こった事例をみれば、正法流布に難があるのは、厳然たる客観的法則であることがわかります。  未来永遠の衆生のため、組織や政治権力を越えた思想的次元に生きる実践には、次代を問わず、いつも、六難九易が発生する社会的客観性が存在するのは当然なのです。妙法弘通、友好活動にいそしむ私達は、順調は当然だと楽観せず、この峻厳な原理を胸にして、油断と怠惰を排して前進したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」418〉

304mume:2010/06/16(水) 10:29:38
御書p509・②(p562・⑪)      正しく広布の方軌を示す
「日来の災・月来の難・この両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱れ難き身命なり」

通解
そのために日ごとに災いをうけ月ごとに難をこうむってきた。特にこの二、三年の間の難は大きく、まさに死罪にまで及ぼうとした。今年また今月は、万が一にも身命が助からないという状態におかれている

拝読の手引き
「この両三年の間の事」とは文永8年9月12日の竜の口の頚の座より佐渡御流罪中のことを指す。この間、大聖人の身辺は常に危険にみまわれ、「昼夜十二時に仏の短を狙いし」がごときありさまで、念仏者は口々に悪口をなし、阿弥陀仏のかたきと狙っていたのである。こうした中で日蓮大聖人は毅然とし、峨々たる眉山のごとく、洋々たる大河のごとく、振舞われ、極寒をものともせず、妙法広布のために、令法久住のために、観心本尊抄をはじめとする重要御書を、死身弘法の精神で、魂魄を止めて執筆なされたのである。  よってこの御文を拝するときに、妙法広布の厳しさを痛切に感ずると共に、今日、順縁広布の時に生まれあわせたわれわれは、己心の魔に打ち勝ち、常に大聖人佐渡御流罪の厳しさを、広布達成まで瞬時たりとも忘れることがあってはならない。いかに時代が変わろうとも、妙法広布への燃え上がる情熱と闘魂を内に秘め、さらに只今臨終の決意に立って邁進する者こそ、日蓮大聖人の弟子であり、創価学会員であると信ずる。(日蓮大聖人御書講義第七巻p248)

305mum:2010/06/17(木) 11:18:18
御書p509・③(p562・⑫)       師弟不二の原理
「世の人疑いあらば委細の事は弟子に之を問え」

通解
世の人々はもし我が言うことについて疑いがあるならば、詳しいことは弟子に問いただしなさい。

拝読の手引き
この御文は短いが実に厳しい文であり、師弟不二の原理を厳然と述べておられる。すなわち、師匠は原理を説き、弟子は師匠の教えを応用し、実践し、敷衍すべきであるとの意である。師は三大秘法の広宣流布のために心血をそそいで弟子に伝える。弟子は広布実現のために師を守り、師と共に、さらに師の真意を永遠に伝えねばならない。よって、弟子は口に本門を唱え、心に爾前迹門をいだき、いざという時にひるむような弱者であっては、人類恒久の平和は達成されない。かような弟子はこの文を拝すべき資格のない者である。我々は生涯、革命児として、開拓者として、先駆者として、さらに広布の礎として、第三文明建設のために、絶えざる前進をしなければならない。  ひるがえって大聖人の時代は逆縁広布の時代であった。今は順縁広布の時代であり、全世界の民衆のために、民衆が心の奥底より渇仰する三大秘法の本門の大御本尊を全魂込めて流布せねばならぬ時である。  よって大聖人の時代の精神にたちかえって、莞爾として妙法広布に立ち上がり、逞しく実践するものこそ庶民の指導者であり、全民衆が待望する人材と知るべきである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p248)

306mu:2010/06/18(金) 10:41:35
御書p509⑧(p562・⑰)       丈夫の心
浅きを去つて深きに就(つ)くは丈夫(じょうぶ)の心なり   

通解
浅い小法(しょうほう)を捨(す)て去り、深い大法につくことこそ、丈夫(仏【ほとけ】)の心である。
 
拝読の手引き
丈夫の心とは、究極的にいえば、仏の心と言うことである。だが一般的に敷衍して論ずるならば、勇気ある人という意味になる。  すなわち、人間は、本然的に安易な道をとろうとする弱みをもっているものである。遠大な目的間に立てば、いまは苦しくとも耐えて、困難な道を進むべきだということがわかっていても、なかなか、思うようにできないことが多い。その弱い自己に打ち勝って、あえて苦難の道を選び、前進していくのが丈夫の心、すなわち勇気ある人といえるのでる。  平坦な道や下り坂であれば、そこには努力を必要としない。だが、それはいくら進んでも、出発の時に立っていた位置の高さより高くなっているということはない。険しい登り道は、並々ならない努力を必要とする。しかし。それを乗り越え、がんばりぬいて、登っていったとき、かつていた地点をはるか眼下に見下ろすような、高い位置に立つことができるのである。  妙法は、あらゆる哲学、あらゆる人生の生き方の中で、最も難しい、険しい道である。無始以来の罪業をこの一生に集め、三類の強敵は行く手を阻まんと迫ってくるであろう。だが、臆せず、屈せず、自己と戦い、自己の宿業と戦い、あらゆる障害と戦いぬいていく人こそ、丈夫の中の大丈夫であり、最も勇気ある人なのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p253)

307mu:2010/06/19(土) 10:47:37
題名    :当体義抄
対告衆   :最蓮房
執筆年次 :文永10
聖寿    :52
西紀    :1273
著作地 : 佐渡・一ノ谷
大意:一切万法ことごとく妙法蓮華の当体であることを明かし、特に日蓮大聖人の弟子檀那のみが、当体蓮華を実証できる旨を説かれている。

308taka:2010/10/03(日) 11:19:25
御書p510・①(574・①)       一切衆生が妙法の当体
問う、妙法蓮華経とはその体何物ぞや。答う、十界の依正則ち妙法蓮華の当体なり。問う、若爾れば我らが如き一切衆生も妙法の全体なりと云わるべきか。答う、勿論なり。

通解
問う、妙法蓮華経とは、その実態はなんであるのか。答う、十界の依法と正法のすべてが、妙法蓮華経の当体である。問う、もしそうであるのなら、われらのような一切衆生も妙法の全体といえるか。答う、勿論なり。

拝読の手引き
妙法蓮華経の本体、実体は何かといいますと、総じていえば、あるいは理の上でいえば、十界三千の生命、つまり森羅万象すべてがその当体になります。  十界とは、周知のように、地獄界から仏界までを含む、生命のすべての現象を表しているのですが、それが妙法の当体であると断定されているのです。楽しんだり、苦しんだりしながら日々の生活を送る私達の生命の活動も、妙法の現れなのです。しかも、単に孤立した生命だけ、言い換えれば、環境から切り離された生命が解明されているのではなく、依正不二の原理が説かれ、さまざまな環境と自分との関係が解明されています。  ただし大切なのは、すべてが妙法の当体であり、仏界を湧現できうるということで理論のうえで理解するだけにとどまるのではなく、その仏界根底のよりよい生命になっていくための実践活動をするということです。  一切衆生は理の上ではことごとく妙法の当体ですが、事のうえにおいてもそうかというと、そうではありません。事実のうえに妙法の当体となるには仏法の信行学が必要なのです。  たとえば、地獄すなわち苦しみの人生が続く人にとっては、生命の変革、革命を望まずにはいられません。ところがそういう人も妙法の当体ですから、仏界湧現できる可能性は、他の人と平等に持っています。題目を唱えていったときに、自分の身の上に、実際に力強い生命が発揮されてくるのです。  あくまでも妙法の当体なのですから、自分の生命をどのようにしていくかは、自分自身で決定できるのです。とともに、環境も、革命された生命にふさわしいものになっていくのです。〈単行本「きょうの発心百選」525〉

309taka:2010/10/05(火) 10:26:52
御書p510・⑥(574・⑥)      十界の事相の所以を釈す
法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり

通解
諸法の本性の不思議な理として、生命の一念には「洗浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二であるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理なのである。譬えていうならば、水精の玉は太陽に向ければレンズの作用で火を取り、月に向かってみれば、すなわち月夜になればその冷気のため凝結作用によって水を取る。このように玉は一つであるが、縁によってその効能が異なるのと同じことである。  十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理であるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。

拝読の手引き
この章は、森羅万象ことごとく、妙法蓮華の当体である理由を明かされたところである。一切衆生の当体が妙法蓮華の全体というならば、地獄界ないし菩薩界の業因業果も皆これ妙法蓮華の当体と考えてよいのかという問いに対して、そのとおりであると答え、その理由を洗浄の二法の上から、体一相異、相異体一に約して述べられている。  悩み苦しむ九界の生命活動といっても、力強い仏界の生命活動といっても、その本質は法性真如の一理たる妙法に帰するのである。共に妙法の働きであって、九界の業因業果に苦しみ、不幸な人生を送る人も、その本質は妙法蓮華の当体である。  しかしこれは一応の義であり、地獄界、畜生界、修羅界等の生命に支配されている人は、染法の濁った罪業であるが故に、真実の妙法の当体とはいえないのである。再往は御本尊を受持し、本源の妙法の生命を湧現し、浄法の正常な生命を確立して初めて妙法蓮華の当体となるのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p308)

310taka:2010/10/06(水) 10:11:09
御書p511・⑧(575・⑧)      「権教の人」「実教の人」
当世の諸人これ多しと雖も二人を出でず。謂ゆる権教の人実教の人なり。而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず。実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華真如の名体是れなり。

通解
当世の人は数多いけれどもすべての人は二種類に収まってしまう。それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経〈三大秘法の御本尊〉を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである。

拝読の手引き
”権教”とは実体のない教えであり、「権教の人」とは真実の幸福の実体を知らない人といえます。そして”実教”とは実体のある教えであり、絶対的幸福の実体を知る人が「実教の人」といえましょう。  今日”人間性回復”とか”生命の尊厳””平和””幸福”といった言葉が、よく叫ばれています。しかし、単に言葉の空転に終わっている傾向が少なくありません。大切なのは、現実の人生、社会のうえに、幸福と平和をどう具現できるかです。ただ言葉の空転だけでは、まさしく”権教”という以外にありません。  ひるがえって今日、私達が信受する三大秘法の御本尊は、現実に人々を幸福にし社会の繁栄をもたらす根源の当体です。御本尊こそ実教のなかの実教であり、信受する私達は、まさに「実教の人」です。  御文にある「真如の妙体」とは、清浄にして尊極なる仏界の当体ということです。妙法を信受しきる私達は、今、たとえ、いかなる境遇にあっても、生命の奥底の位は、光輝に満ちた「真如の当体」であることを確信しきっていきたいものです。  しかし、厳しくいえば”実教”を信仰する人といっても。いまだ実践力にとぼしく、人間革命の実証を示しあらわしていけない人は、真実の「実教の人」とはいえないでしょう。私達は、常に自己の信心を点検し、名実ともに「実教の人」として一層の信心の成長を図っていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」360〉

311taka:2010/10/06(水) 22:17:58
御書p512・⑨(576・⑨)       信受に約す
所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり
通解
所詮、妙法蓮華経の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのである。正直に方便の教えを捨て、ただ御本尊のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま信心の一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのである。

拝読の手引き
われわれが住むこの世界を、娑婆とするか寂光土とするかは、正報である我々の一念によって決定されるのである。わが奥底の一念が、地獄であれば、我らが住む世界はことごとく地獄である。奥底の一念が修羅界であれば、われわれをとりまく世界はことごとく修羅界である。我らの一念が天界であれば、国土も天界となるのである。  しかしてわが一念に仏界を湧現し、当体蓮華仏と顕れれば、依法はことごとく常寂光土となるのである。   したがって、妙法が広宣流布した世界こそ常寂光土となるのは、明々白々たるものではないか。今日、幾多の悲惨な現実が我らの眼前に展開している。戦争、飢餓等、その現状はあまりにも悲惨であり、残酷である。この五濁乱漫の世相の根源は実に人間生命の濁りである。しかして、われわれが妙法を全世界に広宣流布するならば、必ずやこの乱れきった娑婆世界も常寂光土と転ずることができるのである。このように仏法はまずその人自身の当体を確立するところから出発している。自身の当体を確立しないで、なんの制度であり、政治、文化であろうか。  また「其の人の所住の処は常寂光なり」とは信心唱題の故に、仏身を成じ、その所従の所は常寂光土となるというのであるから、これ本国土妙というのである。  されば、本因、本果は正報の十界である。本国土は十界の依報である。しこうして三妙合論するといえども、三千の相いまだに明らかでない。したがって次に能居所居・身土・色心等といって依正の十如を明かしているのである。(日蓮大聖人御書講義第七巻p346】

312taka:2010/10/08(金) 20:30:08
御書p512・⑪(576・⑪)       正信の信仰に立とう
能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。

通解
能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮大聖人の弟子檀那等のなかの正信の者のことである。

拝読の手引き
まず「能居所居・身土・色心」とは、それぞれ不二一体であることを明かされています。つまり、能居(居住するもの)=身と所居(居住する所)=土も、また、色(物質、肉体)と心(精神)も不二な存在としてあるのです。また「倶体倶用」とは、体と力用がともにそなわっていることです。仏といえば、依正、色心、体用すべてにわたって仏なのです。  「無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏」とは、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人のことであり、御本仏のことです。「日蓮が弟子旦那の中の事なり」と示されていますが、私達は、その御本仏の生命の当体である御本尊を信ずることにより、私達自身の依正、色心等すべてにわたって、仏の力用が湧現することを確信したいものです。  ここで「日蓮が弟子檀那の中の事なり」の「中」の字について考えてみましょう。日寛上人はこれについて、正信に当たる、日蓮大聖人の仏法を正しく信ずる者のことをさしている、といわれています。それは、真剣に仏法に取り組み、強盛な信心を貫くことであり、そのとき、わが身が当体蓮華とあらわれるということです。それはまた厳しくいえば、信心の姿勢が弱かったり、広布への態度が不真面目であったり、妙法の偉大さが心中深く染まらない人は、真の幸福を樹立することはできないということでもありましょう。広布の責任感を強くもち、主体的に取り組む人に、人生の真の栄光は輝くのであり、傍観者的、第三者的な立場であっては正信の人とはいえないのです。  私達は現在、どのような立場にあろうとも、自ら、広布の主体者である、との自覚と誇りをもちたいものです。広布に真剣に取り組む人が、信心強盛の人であり、正信の人なのです。責任感と使命感にあふれ主体的な活動を展開するなかにこそ、真に幸福な、最も充実した人生が開けていくことを確信していきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」289〉

313taka:2010/10/09(土) 16:34:46
御書p519・⑩(584・②)       説得性ます譬喩蓮華
問う、当体の蓮華解し難し。故に譬喩を仮りて之を顕すとは経文に証拠あるか。答う、経に云く「世間の法に染まらざること蓮華の水にあるが如し。地よりも而も涌出す」云々。地涌の菩薩の当体蓮華なり。譬喩は知るべし。

通解
問う、当体の蓮華ということは、理解しがたい。そこで、譬喩をかりて、これをあらわしたというが、その証拠が経文にあるか。ことう、法華経涌出品に「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥水の中にありながら、清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれている。これはまさしく、地涌の菩薩が当体蓮華であることを示している。譬喩は自ずと明瞭であろう。

拝読の手引き
ここには、地涌の菩薩の例を引きながら、当体蓮華と譬喩蓮華について説かれています。「当体」と「比喩」との関係は、実体そのものと、そのわかりやすい譬え、説明といってよいでしょう。ある実体を説明しにくいとき、それに類似のものをもってきて理解をはやめるというやり方は、日常一般でも行っていることですが、仏法の指導者も、この比喩を用いて、その深義をわからせようと、大変な努力を注いだのです。  上根の機の者は即座に悟りを得ても、中根、下根のものはそうはいかない――そこで、比較などを用い、譬喩を巧みに使って法を説いていったのが釈迦です。また、天台も譬喩が巧みでした。  日蓮大聖人の御書を読めば、そこには、甚深の哲理が、実にわかりやすい譬え、卑近な生活法則、生活事実を駆使して、説かれています。非常に鋭く深い悟達の故に、その用いられる譬喩は、適切にして要を得ているのでしょう。また、衆生を思う心が深く、その理解度、機根がよくわかるが故に、巧みな譬喩、説明が次から次へと展開されるのではないかと拝されます。  南無妙法蓮華経の不思議の一法、仏界という言語を絶した生命境涯、生命を充実させる勤行の確かな手応え――この当体蓮華を、いかにして仏法を知らない人に伝え理解させていくか、譬喩を展開するその弟子としての努力と精進のなかに、福運はそなわってくるのです。〈単行本「きょうの発心百選」505〉

314taka:2010/10/10(日) 10:13:55
御書p522・②(585・②)       二乗作仏の意義を明かす
一切衆生のみならず、十界の依正の二法、非情の草木、一微塵に至るまで皆十界を具足せり。

通解
一切衆生だけではなく十界の依報・正法の二法も、非常の草木や一微塵に至るまで、みな十界を具足している。

拝読の手引き
法華経では、一切の衆生がもともと十界を具えていることを明かしており、更には十界の依報(環境)と正報(生命)も、非常とされる草や木も、大地を構成する塵一つに至るまで、ことごとく十界を具えている、としている。(日蓮大聖人御書講義第八巻p62】

315taka:2010/10/10(日) 19:34:31
御書p529・⑬(631・⑬)       “教"実ならば"位"低し
所被の機下劣なる故に劣ると云わば権を取って実を捨てよ。天台の釈には教弥弥下しという故なり。

通解
その仏法の教えによって救われるところの、民衆の機根が低く、劣っているために、その教えが劣っている、というのであるならば、方便権教を取って、法華真実の教えを捨てる以外なかろう〈決してそうであってはならない〉天台の釈には、教えがいよいよ真実であるならば、その教えによって救われる民衆の機根も、その教えを説く仏の位も、いよいよ低くなる、といわれている故である。

拝読の手引き
最も身分の低い、しいたげられた貧しい庶民の味方となって、あらゆる人々を根底から救い切っていく教えこそ、真実の仏法であることを、明示された一節です。  同時にこのことは、その教えを説く仏の立場に当てはめることもできます。インド生誕の釈迦は、迦毘羅衛上の王・浄飯王の王子として生まれました。  それに対し末法の御本仏日蓮大聖人は、三国の太夫という貧しい漁師の子として、ご誕生されています。真に力ある仏法は、あらゆる地位も名誉も権力をも必要とせず、その法自体の力によって、未来永遠に、民族、国境、階層、地位等の全てを超越して広まっていくのです。  同時にこの御文は、私達が広宣流布をめざして、人間革命にはげむ立場においても、重要な一節であるといえるでしょう。世間にも「身分が高いほど謙虚であれ」といわれます。仏法を深く学べば学ぶほど、人間革命が進み、自己の境涯は開かれていくのです。そして、常に謙虚に振る舞い、どのような立場の人をも包容し、その人格を尊敬していくようになれるのです。  妙法の実践を深めれば深めるほど、皮相的な姿にとらわれず、事物の本質を、明確にみきわめていける、英知が備わってくるのです。おのずから、自己の行動、意識を謙虚にみつめ、内省していける余裕も備わってくるのです。  これが仏法を実践する者の基本姿勢だといえましょう。また、この姿勢こそ現在、失われつつある人間相互の信頼と、連帯の絆を蘇生させうる、キーポイントであるといえるでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」280〉

316taka:2010/10/12(火) 08:51:21
御書p537・⑤(p628・⑤)     二難符号の現証で覚醒促す
「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来するところをば朝に賢人あらばこれを怪しむ可し、設い其れを信ぜずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符号せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る」

通解
去る文永五年に蒙古国の書状が渡来したときに、国に賢人がいたならば、これを不思議なことと思ったことであろう。  たとえ、それを信じなくても、去る文永八年九月十二日、御勘気を受けた時に強く言っておいた予言は、次の年の二月十一日に符合した。  心ある者は、これを信ずべきである。ましてや、今年は既に蒙古の国が兵をもって攻めてきて、壱岐・対馬の二カ国を奪い取った。

拝読の手引き
大聖人が予言された他国侵逼難は、既述したとおり、文永五年(1268年)閏正月十八日、蒙古国の牒状が鎌倉に渡来したことによって、現実のものとなってきた。  このことから、大聖人は直ちに同年四月五日、当時、幕府に影響力をもった人物とされる法鍳房に「安国論御勘由来」をしたためられ、幕府への奏上を依頼されている。  しかし、大聖人に返ってきたものは悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。  また、このときに気づかなくとも、文永八年(1271年)九月十二日、平左衛門尉頼綱に向かって諌めた自界叛逆の難の予言が「次の年」の文永九年二月十一日に、早くも符合しているのであるから、「情有らん者は信ず可」きなのに、無視しつづけたのである。  大聖人はその夜、竜の口の首の座に坐られ、翌月には佐渡に配流となられるが、大聖人のこの予言のうち、自界叛逆難は半年を待たずして的中する。すなわち、文永九年(1272年)二月十一日に、執権・時宗とその異母兄・時輔との間の確執から騒乱が起こったのである。いわゆる「二月騒動」である。  この内乱については、その一ヶ月前の文永九年一月十六日、配流先の佐渡で、塚原問答の直後、大聖人は佐渡の守護代・本間六郎左衛門尉にも予言されていた。(日蓮大聖人御書講義第八巻p463】

317taka:2010/10/14(木) 09:05:30
御書p537・⑤(p628・⑤)    二難符号の現証で覚醒促す
「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来するところをば朝に賢人あらばこれを怪しむ可し、設い其れを信ぜずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符号せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る」

通解
去る文永五年に蒙古国の書状が渡来したときに、国に賢人がいたならば、これを不思議なことと思ったことであろう。  たとえ、それを信じなくても、去る文永八年九月十二日、御勘気を受けた時に強く言っておいた予言は、次の年の二月十一日に符合した。  心ある者は、これを信ずべきである。ましてや、今年は既に蒙古の国が兵をもって攻めてきて、壱岐・対馬の二カ国を奪い取った。

拝読の手引き
大聖人が予言された他国侵逼難は、既述したとおり、文永五年(1268年)閏正月十八日、蒙古国の牒状が鎌倉に渡来したことによって、現実のものとなってきた。  このことから、大聖人は直ちに同年四月五日、当時、幕府に影響力をもった人物とされる法鍳房に「安国論御勘由来」をしたためられ、幕府への奏上を依頼されている。  しかし、大聖人に返ってきたものは悪口であり、沈黙であり、欺瞞であった。  また、このときに気づかなくとも、文永八年(1271年)九月十二日、平左衛門尉頼綱に向かって諌めた自界叛逆の難の予言が「次の年」の文永九年二月十一日に、早くも符合しているのであるから、「情有らん者は信ず可」きなのに、無視しつづけたのである。  大聖人はその夜、竜の口の首の座に坐られ、翌月には佐渡に配流となられるが、大聖人のこの予言のうち、自界叛逆難は半年を待たずして的中する。すなわち、文永九年(1272年)二月十一日に、執権・時宗とその異母兄・時輔との間の確執から騒乱が起こったのである。いわゆる「二月騒動」である。  この内乱については、その一ヶ月前の文永九年一月十六日、配流先の佐渡で、塚原問答の直後、大聖人は佐渡の守護代・本間六郎左衛門尉にも予言されていた。(日蓮大聖人御書講義第八巻p463】

318taka:2010/10/15(金) 09:35:37
御書p537・⑧(p628・⑦)     魔に魅入られた姿
「設い木石為りと雖も設い禽獣為りと雖も感ず可く驚く可きに偏ゑに只事に非ず天魔の国に入って酔えるが如く狂えるが如く歎く可し哀れむ可し恐る可し厭う可し」

通解
たとえ木石であっても、たとえ禽獣であっても、感じ驚くであろう。それを無視していることは実に只事ではない。   天魔が国に入って、酔ったようになり、狂ったようになっているのである。驚くべきであり、哀れむべきであり、恐るべきであり、厭うべきである。

拝読の手引き
このように、”他国侵逼”という日蓮大聖人の予言が現実となって現れたのであるから、たとえ非情の木石や、禽獣のような畜類であったとしても、大聖人の正しさに目覚めるべきはずである。  しかるに、幕府から何の沙汰も、反応もないということは、「偏に只事には非ず」と仰せられ、その本質は天魔が国に魅入って、為政者が「酔えるが如く狂えるが如く」心破作七分の状態に陥っているゆえであると指摘され、「歎く可し哀しむ可し恐る可し厭う可し」と、ご心境を吐露されている。  いうまでもなく、大聖人によるこれらの予言は、いわゆる直感やインスピレーションなどの「利根と通力」(p16)によるものでは決してない。  あくまで経典という仏法の明鏡に照らした結果であり、それ自体、大聖人が仏法を体得された仏であることを証明したものであった。  撰時抄では「余に三度のかうみようあり」(p287)と述べられ、三度にわたって国を諌めて予言したことが的中したことをもって、御自身が三世を見通された兼知未萠(未来に起こるべきことをあらかじめ知り抜いている)の聖人たる証とされているが、ここであえて「高名」と称されているのも、仏法の正しさ、仏法の智慧と境界を末代の凡夫に教えんがためであったと拝されるのである。(日蓮大聖人御書講義第八巻p466】

319taka:2010/10/16(土) 08:27:49
御書p537・⑰(p628・⑯)       一生の証
我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず

通解
我が弟子らのなかにも、信心薄い者は臨終のときに阿鼻地獄の相を現ずるであろう。そのときに日蓮を恨んではならない。

拝読の手引き
最後に、日蓮大聖人の弟子門下の中でも「信心薄淡き者」は、臨終の時、無限地獄へおちるであろうと重ねて警告され、その時になって大聖人を「恨むべからず」と戒められている。  「臨終」は、決してごまかしのきかぬ人生の総決算であり、赤裸々な「一生」の証である。どのような生き方を貫いたかが、「臨終」の相に如実にあらわれる。  ゆえに、正法の信心、人間としての生き方は、だれが見ていようといまいと、正しく、清浄でなければならないことを深く明記していきたい。(日蓮大聖人御書講義第八巻p491)

320taka:2010/10/18(月) 10:17:47
御書p537・⑬(p628・⑫)    「偏身に汗を流せ」
今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或いは信じ或いは伏し、あるいは随い或いは従う.。但名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は、設い千劫をば経ずとも、或いは一無間、或いは二無間、ないし十百無間疑い無からん者か。是を免れんと欲せば、各々薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剝ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕えよ。若し爾らズンバ五体を地に投げ偏身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉えよ。若し爾らずんば等云々。

通解
日蓮大聖人の弟子として信伏随従する。といってもただ名のみそうであって、心中に染まらない信心の薄い者は、たとえ千劫無限地獄を経ることはなくても、あるいは一無間あるいは二無間ないし十百無間地獄を経ることは疑いない。これを免れようとするならば、各々、薬王菩薩、楽法梵志のように、ひじを焼き、皮をはぎ、雪山童子、須頭檀王等のように、身を投げ心から仕えなさい。もしそうでなければ五体を地に投げ全身に汗を流しなさい。

拝読の手引き
きわめて厳しい一節であり、仏法に違背することがいかに福運を消すものか、また仏道の成就を目指す仏弟子の心構えと実践はいかにあるべきかを示された御金言です。人間として最高の幸福の道をまっとうさせ、宿命転換せしめて、無限地獄におとさないようにしようとの、強い大きな厳父の愛を感ずる一節です。  心に深く決意し、これをわが身の実践に移す――全力投球の闘魂こそが、弟子の心でなくてはなりません。   仏法の世界は不思議なものです。本気になってぶつかれば、ちょうど鐘を打てば響くように、必ず、自分の生命に実感としてあらわれるものがあるのです。観念的な、責任のない、いいかげんな姿勢であれば、御本尊に響くものもそれだけであり、その人の生命、生活のうえにあらわれるものも、それだけにしかすぎません。真面目にこつこつと重ねた実践ほど尊いものはなく、そこに無量の福運の花が咲におうのです。御本尊を信じきり、広布に心を定めて、人知れず、茨の道を切り開く実践を展開することは、容易なことではありません。  薬王、楽法のような修行は今必要ありませんし、時代相応の実践を忘れてはなりませんが、全身に汗を流し、体を大地にたたきつける思いで、広布推進に全力を傾注する、仏弟子としての誠意だけは貫き通したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」267〉

321taka:2010/10/19(火) 09:49:20
御書p541・⑦(p846・⑥)    一切皆是仏法
「一切法とは、一切皆是れ仏法なり」

通解
「如来の一切の所有の法」とは一切が皆仏法であるということである。

拝読の手引き
「如来の一切の所有の法」の文は、如来が一切所有しているという意であるが、これは一切法が皆、仏法であることを意味し、一切法の名をあらわすとして、五重玄の中の「名」にあてている。

322taka:2010/10/21(木) 09:30:05
御書p544・⑨(p1056・⑨)    四依の文
「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」

通解
涅槃経に「法に依るべきであり人に依ってはならない。義に依るべきであり語に依ってはならない。知に依るべきであり識に依ってはならない。了義経によるべきであり不了義経に依ってはならない」とある。

拝読の手引き
四依とは、真実の仏道を求める人々が何を依りどころとすべきかを四つに分けて示したものである。普通、四依には「法の四依」と「任の四依」があるが、ここでは、法において依りどころとすべき四つの原則が示されているので「法の四依」という。  「法に依って人に依らざれ」とは、仏法を修行する者は、仏の教法そのものを依り処にすべきで、人師に依ってはならない、と言う意味である。法を説く「人」が、根本の「法」に背いている場合には、いかなる人であっても、その言うところを用いてはならないのである。  「義に依って語に依らざれ」とは、教法の意義に従うべきであって、表現の語(文章)に依ってはならない、という意味である。教えの意義を分かろうとせずに言葉の表面のみにとらわれると大きな誤りが生ずるのである。  「知に依って識に依らざれ」とは、仏の智慧に依るべきであって、菩薩以下の識に依ってはならない、という意味である。諸法実相の法理に通達した仏の智慧に依るべきであって、菩薩や論師・人師等の説く法門は不完全なので「識」といい、それにとらわれてはならないということである。  「了義経に依って不了義経に依らざれ」とは、中道実相の義を説いた了義経に依るべきで、そうでない不了義経に依ってはならない、という意味である。了義経とは釈尊の仏法では実教である法華経であり、不了義経とは四十余年の方便権教をいう。したがって「了義経に依って不了義経に依らざれ」ということが、正しい法を知るための原理・法則を示した「法の四依」のうちの結論ともなっている。   大聖人は、この涅槃経の四依の文の意を「菩薩・人師の言に依るべからず仏の御定を用いよ華厳・阿含・方等・般若等の真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ了義経を持つべし了義経というは法華経を持つべしという文なり」と示されているのである。  なお「仏の御定を用いよ」とは、釈尊が已今当の三説のなかで「我が諸説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」と示されていることを指している。(日蓮大聖人御書講義第九巻p152)

323taka:2010/10/22(金) 10:07:14
御書p545・⑱(p1057・⑱)     仏の金口
已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし、と云う事は正しき仏の金言なり。

通解
已今当の三説のなかで仏になる道は法華経に及ぶ経はないと説かれている。これは、まさしく仏の金口より出た御言葉なのである。

拝読の手引き
法華経の法師品第十には已今当の三説に超過した法華経こそ、釈尊の諸説の経の中で最も第一であることが明かされている。  そのように「仏になる道は法華経に及ぶ経なし」というのが「正しき仏の金言」なのであって、疑う余地はないのである。  したがって、我が所依の経が最も勝れると主張した人師は、仏に敵対する邪義を立てた者であり、謗法の大罪に当たるのである。  法華経の立場に立って余経を劣っていると下すことは、人師の説でなく、仏説たる経文に明らかなことであり、天台大師・妙楽大師が一貫して主張した正意でもある。(日蓮大聖人御書講義第八巻p179)

324taka:2010/10/23(土) 09:09:13
御書p545・④(p1057・④)    多い言行不一致の姿
法華経は元よりめでたき御経なれば誰か信ぜざると、語には云うて、而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて、朝夕毒を服する者の如し。

通解
法華経はもとよりすばらしい教えだから、誰が信じないことがありましょうかと、いいながらも、昼夜朝暮に念仏を唱えている人は、薬は体のためにいいものだといいながら、それを飲まないで、朝夕に毒を飲んでいるようなものである。

拝読の手引き
たとえ、妙法はすばらしいと言葉でほめても、実際には、誤れる宗教、思想を人生観としている人は、幸福になれないどころか、不幸になっていくと厳しく戒められている御文です。  末法の衆生は、貪・瞋・癡の生命の濁りが盛んで、そのため、どうしても我見に執着し、なかなか道理を正視できないのです。これは、日蓮大聖人御在世当時も現代においても、少しも変わるものではありません。  私達のまわりでも、大聖人の生命哲学、創価学会に対して、心では軽蔑し、反発しながらも、口先や表面上で、お世辞をいう人がいますが、そういった人達は、まさに、この御文通りの人達といえるでしょう。幸い、私達は、御本尊を信じることができました。私達の生命の奥底に、幸福になる種子が、確実に植え付けられたのです。  しかし、厳しくいえば、学会員だといいながら、心中深く信心に染まらずに、他の法に心ひかれ、勤行・唱題を怠ったり、同志に怨嫉したり、あるいは増上慢になったりするようなことがあれば、薬はいいといいながらも、朝夕に毒を飲んでいる人と同じ轍を踏むことになりかねません。  貪・瞋・癡の衆生であるため、信心したいといっても、私たち一人一人の生命の中には、仏法をなかなか信じきれない生命の濁りがあることを認識し、一瞬一瞬、この己心の魔と対決し、打ち破っていかなければならないのです。常に求道の姿勢を堅持し、自己完成への厳しい道を貫いて、幸福の種子を大樹と実らせ、功徳の花を咲かせていこうではありませんか。(単行本「きょうの発心百選」171」)

325taka:2010/10/24(日) 10:22:23
御書p550・⑰(p1062・⑯)     正法の祈りの叶うを示す
よき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり

通解
よい火打金と、よい石の角と、良い火口と、この三つが寄り合って火を用いられるのである。祈りもまた同じである。よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をもはらうことができるのである。

拝読の手引き
当時は火を得るために、火打ち金と火打ち石のかどを打ち合わせ、そこから出た火花を火口に移したことにたとえられて、祈りというものは「よき師と・よき檀那と・よき法」の三つが寄り合って初めて祈りも叶い、国土も安穏になることを教えられている。  末法の現在で「よき師」とは御本仏日蓮大聖人であり、「よき檀那」とは正法を受持し外護する信徒をいい、ここでは「国主」が正法を外護すれば「よき檀那」となるとの意が含まれている。「よき法」とは三大秘法の妙法をさすことはいうまでもないであろう。よき檀那がよき師とよき法によって祈るとき「国土の大難をも払ふ」ことができるのである。(日蓮大聖人御書講義第九巻p255)

326taka:2010/10/25(月) 10:03:21
御書p551・②(p1063・②)     真の信仰者の条件
吉檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用いずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉人なりと説き給へり。

通解
善き在家の信者というのは、身分の貴い人とか賎しい人とか、立場の上下にかかわらず、一切の人びと(のわたくしごとの言葉)を用いないで、一切経の中で最もすぐれている法華経を信受する人を、一切の人の中でも最も善い人だと、仏は説かれています。

拝読の手引き
広布を推進するためには、必ずよき師と、よき檀那と、よき法の三つが大事であることを明かされて、ここでは、とくに”よき檀那”すなわち真の信仰者の在り方について述べられています。檀那とは”施主”と訳し、在家の信仰者を意味します。  社会的立場の上下や、身分の貴賎といった外的諸条件を行動、判断の基準としがちなのが、社会一般の姿ですが、ここには、人間の価値というものは、決してこのような身分や立場、さらには国境・民族や個人的差異によって、評価してはならないとの仏法の平等観が、鮮明に浮かびあがっているように思えてなりません。  さて、日蓮大聖人は、いたずらに人びとの言葉に左右され、粉動されるのではなく、信仰実践の方向を、大聖人の御書に求め、御書の一節一節に述べられたままに、常に正しい信仰の姿勢を持続しきっていく人こそ、真によき檀那である、と教えられているのです。  妙法の信仰に立脚しきらない人びとの言葉は、とかくその人の私的な立場が強くにじみでるものであり、広宣流布・一生成仏という大切な問題に判断を狂わせられるおそれがあります。是は是、非は非と聞き分ける賢明な判断、広布への責任感が、よき檀那の条件であり、その意味で”人”よりも”法”に立脚することが大切なのです。  すなわち「一切経の中に法華経を持たん人」とは、仏法の最高峰である法華経の肝心、三大秘法の御本尊、そして御書を第一とする人のことです。御本尊と冥合しきり、御書を学び求め、自らの血肉としていく信仰者の立場を堅持し、全員がよき檀那となりましょう。〈単行本「きょうの発心百選」536〉

327taka:2010/10/26(火) 09:30:16
御書p551・⑪(p1063・⑪)     受持即観心
何なる衆生か仏になるべきと問わば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり。これ仏の御本意なり。

通解
どのような人びとが成仏することができるのかと質問されれば、法華経〈三大秘法の御本尊〉を受持し奉る人が、必ず仏になることができる、と答えるべきである。このことは仏の御本意なのである。

拝読の手引き
三大秘法の御本尊を信じ、持ち、生涯にわたって強盛な信心を持続しきる人こそ、必ず人間革命、一生成仏を実現しうることを述べられた一節です。「仏」とは、清浄にして豊かな知恵をそなえ、自身の絶対的幸福境涯を確立するとともに、社会を平和と繁栄に導く力をそなえた、最高人格の境涯をいいます。人間ならだれしも、自分自身の幸福な人生と、社会の平和と繁栄に役立つ人材になることを願うものです。仏法は、だれもが人間として生まれたからには、そういった素晴らしい幸福境涯、「仏」という最高人格の境涯を開くことを、仏道修行の目的として説かれた教えです。しかし、釈迦仏法においては相手の機根に合わせて、さまざまな角度から様々なことを説いていました。ある者に対しては戒律を説き、ある者に対しては声聞、縁覚の悟りを得ることをすすめました。そして、その究極の法として、仏界の悟りを目指すべきことを示唆したのです。それは、いってみれば成仏という山の頂を指して、登れとすすめている教えだといえましょう。それに対して末法の御本仏・日蓮大聖人は、知恵ある者もない者も、境涯の低い者も高い者も、等しく一生のうちに成仏の境涯を開いていける根本の実践法として、三大秘法の御本尊をあらわされたのです。したがって私たちの信ずる御本尊こそ、あらゆる仏道修行者の目指す究極の当体だといえます。大聖人の仏法は”成仏”という仏法の最高峰から直ちに発した教えです。まさに、大聖人が御本尊をあらわされ、末法の一切衆生に与えられたことこそ、仏法の歴史上、未曾有の大革命であったといえるのです。三大秘法の御本尊を信受する私達こそ、あらゆる人々が求める最高の人生道を歩む者であるとの自覚に立ちたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」431〉

328taka:2010/10/27(水) 10:38:15
御書p552・②(p1064・②)   "強いて”仏法を説く勇気
末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かかる難あるべしと経文に正しく見えたり。されば人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり。

通解
日蓮等のように末法に甲斐ない僧が法華経を弘めようとすれば、不軽菩薩等のうけたような大難にあうことは経文に明白です。したがって、人がこの法華経を用いようが用いまいが、また機根にあおうがあうまいが、強いて法華経の五字の題目を聞かすべきです。これよりほかに成仏する道はないからです。

拝読の手引き
私達が自他共に成仏する道とは何か。それは、三大秘法の南無妙法蓮華経の題目を「強いて」相手に聞かせることだと大聖人は仰せになっているのです。私達はこの「強いて」に大いに心を留めるべきだと思います。  大都会の真ん中で、お年寄りや幼児が餓死したり、死んで何ヶ月もたって発見されたり、人間関係がまるで砂漠の砂のように干涸らびているのが今の社会です。そのなかで、ややもすると私達は、他人の苦しみを自分の心の痛みとして感ずることのできない、無慈悲な自分になってしまいがちです。ここに「折伏」の意義があるのです。  折伏は、私達に忘れかけた慈悲の心を呼び戻す強力な”電磁波”となるでしょう。なぜなら慈悲の実践行為である折伏は、私達の生命を無慈悲と覆っていた靄を一瞬のうちに払いのけて「如来の使いにして、如来に遣わされ、如来の事を行ずる」地涌の菩薩という本地を自覚させる本門鏡なのです。  「強いて」とは、無慈悲な自分の心にムチ打つ勇気でもあります。また、社会正義のために仏法理念、生命哲学を社会に宣揚してやまない勇気ともいえるでしょう。「鳥と虫とはなけどもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし」(御書p1361)という大慈大悲の日蓮大聖人の御境界に、私達は一歩でも二歩でも近づきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」539〉

329taka:2010/10/28(木) 11:28:29
御書p552・⑭(p1064・⑭)    妙法は順逆ともに成仏
とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり

通解
とにもかくにも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。   どちらにしても仏の種は、法華経より外にはないのである。

拝読の手引き
どうせ「法華経に背く失」によって地獄に堕ちるのなら「法華経を強いてと聞きかす」べきであり、それによって素直に法華経を聞いて信ずる順縁の者は直ちに仏になり、信じないで誹謗する逆縁の者も、法華経を謗った縁によって法華経に触れ、仏種が植えられるので、いったんは地獄に堕ちるけれど、それを縁としてやがて必ず仏になるのである。  「毒鼓の縁」とは、法を聞いて信ぜずに反対しても、その縁によって煩悩を断じて得道できることをいう。  「何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」と仰せのように、順延逆縁、信謗ともに一切衆生を成仏させる種子は「法華経」――寿量文底下種の南無妙法蓮華経以外にないのである。(日蓮大聖人御書講義第九巻p281)

330taka:2010/10/29(金) 10:10:04
御書p556・④(p1068・④)     へつらいに真実なし
人に吉と思はれ、人の心に随いて貴しと思はれん僧をば、法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし。此の人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして、在家の俗男俗女の檀那をへつらい、いつわり、たぼらかすべしと説き給へり。

通解
人によい人だと思われ、他人の心に従って尊いと思われようとする僧は、法華経のかたきであり、世間の悪知識であると思いなさい。この人のことを経文には、猟師が目を細めにして鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようなものであり、在家の俗男、俗女の檀那にへつらったり、いつわったり、たぼらかしたりすると説かれています。

拝読の手引き
これは、直接には、他宗の僧侶の本質をえぐりだしたものですが、これを厳しく拝して私たち自身の姿勢の上に、展開してみましょう。すなわち、信仰者の姿勢として、自らの節、つまり、法華経の精神を曲げてまでいたずらに世間と妥協したり、こびへつらうことを厳しく戒められた一節であると拝せます。  確かに、他人によく思われようとしてあえて真実の主張をせず、他人の心に従っていくならば、表面的には、また、一時的にはそれなりの評価を受け、尊ばれるかもしれませんが、最終的には惨めな敗北の人生を余儀なくされてしまいます。  いかなる社会、時代においても、自らの信念を生涯曲げることなく貫き通すことは至難のわざですが、そこには人間としての真実の輝きと栄光があります。  まして、私達の主張、実践は、すべての民衆に幸福と平和と繁栄の基礎となる生命哲理を教え、人間としての最高の生き方を示していく正義の実践です。その過程において、ときには苦しくつらいこともあるでしょうが、最後まで最高の誠実さと社会人としての見識をもち、粘り強く地道に実践を貫いていくことが大切なのです。  このことを自覚し、苦しくともつらくとも妙法広布の正義の大道をあゆみ、勝利の人生を築いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」472〉

331taka:2010/10/30(土) 11:29:23
御書p557・④(p1069・④)     仏性を一音によび顕す唱題の力
一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、

通解
ひとたび妙法蓮華経と唱えれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王、帝釈、閻魔法王、日月、衆星、天神、地神、乃至地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天、一切衆生の心中の仏性を、ただその五字の妙法の一音に呼びあらわすのですから、その功徳は無量無辺なのです。

拝読の手引き
この御文は、南無妙法蓮華経と唱える唱題の功徳の素晴らしさを述べられたものです。  仏性とは、何ものも壊すことのできない最高の、最も尊い生命といえます。私達の仏道修行の目的の一つは、この仏性を湧現させて崩れることのない幸福境涯を築くことにあります。それを可能にするのが御本尊ですが、この御文では、私達がご本尊に向かって題目を唱えることによって、自分の成仏だけではなく、あらゆるものの成仏をも実現することができる、と述べられています。  ここで成仏とは、あらゆるものを蘇生させ、それらのもつ本然的な力を最高に発揮させて、豊かな価値創造をさせていくことと考えることができましょう。  ところで、この御文に示された原理は、一般人性のうえの問題だけではなく、さまざまなことについていえます。たとえば学会活動において、よく”一切の成功の源泉は唱題である”といわれることもそうです。私達の真剣な唱題は、座談会や家庭指導といった諸活動の力を最大限に発揮させ、広布推進への大きな価値創造をさせていくのです。  私達の幸福の建設においても、また、さまざまな活動の成功においても、その原動力は御本尊への、真剣な唱題にあることを、この御文から深く学び、明るく逞しく前進していきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」429〉

332taka:2010/11/02(火) 09:20:23
御書p557・⑥(p1069・⑥)    空飛ぶ鳥と籠の鳥
我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ

通解
我が己心の妙法蓮華経を本尊と崇めたてまつって、我が己心の中の仏性が南無妙法蓮華経と呼び呼ばれてあらわれるところを仏というのである。

拝読の手引き
御本尊に向かって唱題することは、じつは万物と己心に具わる仏性を呼び現し讃嘆することと同義なのです。つまり自身の仏性顕現させる唱題の音声に応じて、全宇宙の諸天善神も動き、私たちの生命を護ってくれる――この法理には、ほかの他力本願的な信仰とは一線を画する、日蓮仏法の特質が端的に現れています。(大百蓮華2009・10月号・勝利の経典「御書」に学ぶ)

334taka:2010/11/06(土) 09:32:57
御書p563・⑯(p1226・⑯)    心の一法
「心の一方より国土世間も出来する事なり」

通解
心という一法から国土世間も出てくるのである。

拝読の手引き
例えば、華厳経巻十に「心は工なる画師の如く、種々の五陰を描き一切世界の中に、法として造らざる無し」(大正9巻p465)と説かれ、また無量義経に「無量義とは一法より生ず」と説かれているように、妙法蓮華経の一法、すなわち我が一念の生命からすべての法が出生してくるとの意。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p142)

335taka:2010/11/06(土) 19:11:40
御書p563・⑬(p1226・⑬)    心の不思議さ
言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり

通解
「言葉というのは心の思いを響かせて、声に表したものをいうのである」(御書p563、通解)

拝読の手引き
”心の不思議さ”を一重深く述べられているところである。  凡夫の使用する言葉は、心にある思いを響かせつつ、音声として外に表してきたところをいうのであると説かれている。  凡夫と仏との差異はどこにあるかといえば、自らの”心”の本性についての不思議さを知らずに迷っているのが凡夫であるとすると、その不思議さを知って悟り尽しているのが仏である、ということになる。しかも、仏が悟り尽くしている”心の不思議さ”を”神通”と名づけて、その不思議な働きを縦横無尽に使っているのが仏という存在なのである。(日蓮大聖人御書講義第10巻上p156)

336taka:2010/11/07(日) 09:15:47
御書p563・⑰(p1226・⑰)    我が身一人の日記文書
然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり

通解
したがって八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのである。

拝読の手引き
この思義も言語も及ばない生命の法理を自ら悟り、衆生のために説き示そうとしたのが八万四千の法蔵すなわち一代聖教であることを述べられている。  仏と同じく覚知できる能力は本来一切衆生に具わっているということである。  ただし、事実の上で覚っているのは仏のみであり、仏は衆生にも等しく悟らせるために、自身の悟っている心理を説き明かした。  それは「此の心の一法より国土世間も出来する」という一念三千の法門であり、「我が身一人の日記文書」なのである。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p155)

337taka:2010/11/08(月) 13:08:04
御書p563・⑩(p1226・⑩)    善悪無記が生命の実体
善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るるを無記と云うなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外に法無きなり。

通解
(善悪善悪というけれども)善に背くのを悪といい、悪に背くのを善というのである。だから人間の心を除いて、善も悪もないのである。この善と悪とを離れた所を無記というのである。善、悪、無記の三つのほかには心というものはなく、したがって、心のほかには万法はないのである。

拝読の手引き
善といい、悪といっても、人間の心を離れて存在するものではないことを述べられています。  私達凡夫はともすれば、最初から、善や悪というものがあって、善とはこのようなもの、悪はこんなものであるというように、それぞれのイメージをいだきがちです。たしかに、他人の犯した過失や罪悪、あるいは逆に他人の行なう善き行為を見て善悪を判断するわけですが、ここでいっていることは、本当の善悪の問題は一人ひとりの心の中にしかないということです。  つまり、人間の心(生命といってもよい)は、もともと善をも悪をもなし得るのであり、ただ縁に触れることによって、結果として、善といわれ悪といわれる行為をしてしまうのです。そうした人間の心、生命の姿を”無記”というのです。  世上の道徳や倫理は、単に人間に、悪をなさず善をなせと教えますが、それがいかに根の浅いものであるかは右に述べたことから明らかです。すなわち、人間の心、生命の”無記”を考えなければ、画竜点睛を欠くのです。仏法は、この心の不思議さに着目して、いかなる悪縁に触れても粉動されない強固な生命を築くことをめざしてきたのです。私達の御本尊は、強固な生命を築くための対境であり、善縁といってよいでしょう。  御本尊に唱題することによって、私達を取り巻く環境に粉動されない自己を築くことができるのです。唱題によって得た歓喜と強固な生命力は、私達に、生きることの素晴らしさと喜びを与えてくれるでしょう。個人の研鑽が叫ばれている今日、私達はますます唱題に励んでいこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」454〉

338taka:2010/11/10(水) 10:55:08
御書p564・⑨(p1227・⑨)    一切の法は皆これ仏法
無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば寤の心を失うべきが故に、総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆これ仏法なりと云うなり。

通解
無明〈自分の心のありさまを明らかに悟らないこと〉を断ずるべきではない。夢の心である無明を断ずるならば法性であるさめた心をも失ってしまうからである。総じて、円教の本意はわずかばかりの煩悩をも断じないから、一切の法は皆これ仏法であるというのである。

拝読の手引き
無明と法性は、同じ一つの心のあらわれであることを説かれた御文です。無明はまた九界であり、迷いの状態をさし、法性とは仏界であり、悟りの状態をさすことはいうまでもありません。  円教、つまり、日蓮大聖人の仏法においては、無明といい、法性といっても、全く別々のものではなく、同じ生命のあらわれにすぎません。すなわち、生命の本質は九界即仏界、無明即法性、迷悟不二ということです。  爾前・権教では、無明と法性を別のものとして考え、無明を完全に断じ尽くした後に法性に至るとしたのです。  この考えでいくと、人間の人間らしい姿である無明、煩悩を、たとえ一面ではそれが人間の不幸の源泉であるとしても、断ち切るというのですから、人間の死につながります。その結果は、法性を得ることができなくなってしまいます。そうではなく、無明、迷いを明らかに見つめたとき、それがそのまま法性であると説く大聖人の仏法こそ人間に勇気と希望を与える教えであるといえます。  日蓮大聖人は、民衆が最も実践しやすく、しかも無明を法性と転じ得る法を確立されたのです。それが、今、私達が日夜に唱題している御本尊なのです。  御本尊に唱題して得た生命力と知恵で私達は、無明を無明として明らかに見ることができるのです。しかもその境涯は、一切の法を、すべて仏法として見るだけの不動の余裕をもたらすのです。私達は自分の欠点や弱さに負けることなく、一層唱題に励み成長したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」376〉

339taka:2010/11/11(木) 10:23:52
御書p564・⑫(p1227・⑫)   十如是により正仏不二明す
此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し

通解
この十法界は一人の心から生み出されて八万四千の法門となるのである。   この法門は、一人を手本として一切衆生に平等に当てはまるのである。

拝読の手引き
十如是のなかの相・性・体の三如是が、本門の立場では応身・報身・法身の「本覚の三身如来」にほかならない。この三如是から残りの七如是が生じて十如是となる、そしてこれら十如是を具えているのが十法界であり、更には八万四千の法門となることを述べられている。  これは一人の生命について明かしたものであるが、一切衆生にも平等にあてはまるものであり、すなわち万人の成仏の道がここに示されたのである。  迹門方便品第二の十如是は、べいいて言えば仏の生命について明かしたもので、例えば如是相は本覚の応身如来をあらわすが、総じては一切衆生の相好をあらわしている。ゆえに本覚の三身如来という一人を手本として一切衆生の生命の真実の姿を示しているのである。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p308)

340taka:2010/11/13(土) 23:04:37
御書p565・⑨(p1228・⑨)   「己心と仏心とは異ならず」
己心と仏心とは異ならずと観ずる故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還るを即身成仏と云うなり。

通解
自己の生命と仏の生命とは異なるものではないとみるが故に、迷いの夢をさまして真実の悟りの目覚めた状態にたちかえることを、即身成仏というのである。

拝読の手引き
即身成仏の本義がきわめて明瞭に説き明かされています。凡夫がその身をなんら改めることなく、そのままの姿で成仏する、最高の幸福な人生を樹立できるというのが、この仏法の偉大なところですが、それはどうしてそのようにいえるのか、この御文に明確に示されています。  仏界といえば、なにか特別な世界と思い、私達とはまったく離れたところにあるものと考えがちですが、実は、それは迷いであり、錯覚にほかなりません。仏法で無明といわれる、その迷いは膜のように、生命をおおいつくし、おのが生命のなかに至尊の実在があることを、容易に気づかせません。  この無明の闇晴れてみれば”己心”と仏心”とは、一体不二であることは、明らかです。私達の生命というものは、善悪の縁にあい、善悪の法(現象、振る舞い)を生ずるものです。千変万化、種々の姿をとりますが、その本体は変わりません。濁った醜い生命も美しい慈悲に満ちた生命も、その体は一で、あらわれ方の差異にすぎません。劣悪の生命にも尊極の生命がはらまれているとは、なんとすばらしい発見ではないでしょうか。  ただそう考えただけでは、即身成仏はできません。己心を仏心と観じ、本覚の寤に還るということを、言葉の上だけではなく、生命の上に、実現しなければ意味がありません。すなわち、仏界を湧現できなければなりません。御本尊への唱題の一行のみ、現今における肝心であることを、知るべきです。  唱題祈念がおろそかであれば、生命は明澄とならず、所詮、夢中の人生であり、生死の毎日を逃れることはできません。「己心と仏心とは異ならず」にはなんと程遠いことでしょうか。  仏心が、仏界が、私達の生命をおおうとき、知恵明らかに、物事に対処して誤りなく力強く豊かな人生を送っていけるのです。その源泉たる勤行の姿勢を、今一度点検したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」155〉

341taka:2010/11/14(日) 21:41:23
御書p566・⑮(p1229・⑮   よき社会人こそ仏法の実践者
一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する、これを名字即と為す。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第無し。

通解
一切の法はすべて仏法であると物事の本質に通達し、完全に理解するところを、名字即というのである。この名字即の位から即身成仏するのである。ゆえに完全円満な教法〈御本尊〉には、修行の順序や悟りの次第などはないのである。

拝読の手引き
ここでは、完全円満な南無妙法蓮華経の教えは、ただ信じきっていくことによって、すべての人が等しく人間革命・一生成仏を成し遂げることの出来る力ある教法であることを明示されています。  ここで「名字即」とは、天台が立て分けた成仏に至るまでの仏道修行の六即の位の一つですが、今日でいえばはじめて三大秘法の御本尊を信受した位にあたるといえます。この位は「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する」位と述べられています。  このことは、言い換えれば私達の生活する社会・職場にあっても、その各人の分野で深く一切の物事に通達し、その社会をよりよき方向にリードしていける資質・力量をそなえた者こそ、真に御本尊を信仰する人だということができる、と思います。  なかには、まだまだ時代・社会をリードしていこうとの使命を自覚し、大いに力量を発揮しきれない人もいるかもしれません。しかし、ひとたび妙法を信受したからには、自己のもてる資質・力量を十分に発揮すべく、大いに学び、努力・精進していくのが、信仰者のあるべき姿といえましょう。その謙虚にして旺盛な持続性ある努力の積み重ねのうえに、初めてなにものにもかえがたい、真実にして尊極な自己の境涯を開いていくことができるのです。  私達は、いよいよ強情な信仰心をふるい起こし、職場に、社会に、御本尊の大功徳を実証しきっていける一人ひとりに成長していきたいものです、その実践の原動力こそ、御本尊への豊かな唱題にあるのです。〈単行本「きょうの発心百選」476〉

342taka:2010/11/16(火) 20:12:04
御書p569・⑪(p1232・⑪)   末代の学者の違背
痛ましいかな、悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還って仏法を滅す。

通解
末代の学者が仏法を習学して、かえって仏法を滅するのは、痛ましいことである。悲しいことである。

拝読の手引き
涅槃経の「法に依って人に依らざれ(依法不依人)」(大正十二巻p401)の文を引かれ、末法の諸宗の僧らが、この涅槃経の戒めに背いて、仏法を学しながら、かえって仏法を滅ぼしていることを悲しまれている。  妙楽大師の時代の大乗仏教の僧らが、法華円頓の経を聞いて尊重しないできたことを指摘し、更に時代が下がって象法時代の末になると、ますます信心も薄くなってくる結果、経典や本はたくさんあっても、その内容については少しも思惟せず、実践もしないで、生死の迷いの世界を流転することは、痛ましいかぎりであると述べている。(日蓮大聖人御書講義第十巻上p254)

343taka:2010/11/30(火) 21:22:38
御書p570・⑥(p1233・⑤)    ”生命の鏡”
我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向かって我が性の理を見ず、故に無明と云う。如来は面に向って我が性の理を見たまえり。

通解
我らの心の鏡と、仏の鏡とは、まったく同一の鏡であるといっても、我らの(鏡の)裏に向かって、自己の仏性の理を見ないのである。故に、無明というのである。如来(仏)は、(鏡の)表面に向かって、自己の仏性の理を見られるのである。

拝読の手引き
ここでは「心の鏡」という譬えを通し、仏と、迷いの衆生との、相違の本質を指摘されています。  「心の鏡」とは”生命の鏡”と拝することができるでしょう。すなわち、日蓮大聖人は、ここで、迷いの衆生にも、仏にも、まったく同一の「鏡」があるという譬えを用いられているのです。  いうまでもなく「鏡」ですから表裏がありますが、衆生は、この「鏡」の裏面に向かっているから「無明〈迷い〉」というのだと述べられています。「性の理を見ず」とは、仏性をあらわすことができない、ということです。これに対し、仏は「鏡」の表面に向かっているので「性の理」を明澄に映し出すことができ、仏性をあらわすことができるのだと仰せです。以上からおわかりのように、この「心の鏡」”生命の鏡”とは、とりもなおさず、仏法の法門を意味しているのです。  「鏡」の”裏面”とは、簡単にいえば、成仏できない法門、つまり、衆生を幸福にできない宗教、思想といえます。その”表面”とは成仏できる法門、つまり、三大秘法の御本尊のことです。  すなわち、大聖人の仏法こそ、全民衆をしあわせにできる明澄な「鏡」の表の面であり、あらゆる宗教、思想、価値観等は、その裏の面であるともいえるでしょう。人々は皆、幸福と平和を目指し、等しく「鏡」に向かっています。ただ懸命にその”裏面”に向かっている人がなんと多いことでしょう。  私達は、幸いに、入信によって、この向き方を転換できました。「鏡」が”生命の鏡”だけに、表裏いずれを向くかが、人生の幸不幸を分けてしまうという、冷厳な事実を忘れてはならないでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」361〉

344taka:2010/12/01(水) 10:12:05
御書p570・②(p1233・②)    品格ある振る舞い
行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障りも無き自在の身と成る。これを自行という。

通解
行(歩行すること)住(とどまり立つこと)坐(すわること)臥(横に寝ること)の四威儀の所作は、皆、仏(御本尊)のお心と和合して一体であれば、とがもなく、さわりもない、自在の身となるのである。これを自行というのである。

拝読の手引き
行、住、坐、臥の四つの所作とは、とりもなおさず、人間の起居動作のすべてです。  仏道修行をする者は、常に、自らの一挙手一投足を戒め、放逸、怠惰に陥ることなく、威儀を失ってはならないということから、行、住、坐、臥の四威儀といわれます。  しかし、だからといって、それは決して、戒律主義的に自己の行動を律し、意義をたもつというのが本義ではないのです。透徹した信仰の実践によって、おのずと行動そのものに品格が備わり、威厳がにじみ出てくるということです。言うまでもなく、行動、振る舞いというものは生命の姿勢の表れです。生命の姿勢が御本尊と和合して一体であれば、行、住、坐、臥のことごとくが、御本尊の心にかなった威儀となることは、いうまでもありません。  御本尊を根本として生きるならば、歩いていようと、立ち止まっていようと、すわっていようと、そして寝ていようと、一日二十四時間のどの断面をとっても、それが皆、妙法のリズムにかなった仏界の振る舞いとなるのです。「過も無く障りも無き自在の身」と述べられているように、妙法の世界に生ききっていく者の起居は、過ちも無く、さえぎるものもない、まったく自在の動作となるのです。日蓮大聖人は、この自在の境地を開くのは、真実の法門の修行によると述べられています。  私達はどこまでも御本尊を人生、生活の根本にすえ、強盛な信心を貫き、瞬間瞬間に揺るぎ無い自在の境地を開ききっていきたいものです。私達は、なお未完成の凡夫ですが、この御文を自信の明鏡とし、自己の日々の行、住、坐、臥の実際をを点検しつつ、仏意にかなう信心の確立に励んでいきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」258〉

345taka:2010/12/03(金) 01:20:33
御書p574・⑪(p1237・⑪)   仏性を開き顕す善知識
因とは一切衆生の身中に総の三諦有って常住不変なり。此れを総じて因というなり。縁とは三因仏性は有りと雖も、善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず。善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり。

通解
因とは、一切衆生の生命に総の三諦が、常に変わらずそなわっている。これを総じて因という。縁とは、成仏する因となる三つの性分、正・了・縁の三因仏性は誰にでもあるといっても、信心をすすめる善知識という縁にあわなければ、成仏の境涯を悟ることも知ることも、あらわすこともできない。しかし、善知識の縁にあえば、必ず成仏の境涯をあらわしていくことができる。そのゆえに縁というのである。

拝読の手引き
人間革命、一生成仏を成し遂げていくうえにおいて、全知識に縁していくことが、最も大事な要素であることを強調された一節です。  あらゆる衆生の生命には、仏界の生命を発揮し、あらわしていく原因がそなわっています。しかし、一切衆生に成仏の因がそなわっているといっても、その成仏の境涯を開き、あらわしていくためには、善知識という縁にあうことが必要です。善知識とは、人を仏道修行にみちびき、仏道を成じさせるものをいいます。  価値観の多様化が指摘される昨今、時代は、生命の新たな連帯を求めて、新たな宗教を求めつつあるといえます。最高最善の縁、つっまり、根本の善知識が、人法一箇の御本尊であることはいうまでもありませんが、今、私達の立場でこの御文を拝するならば、御本尊を信受し、人間革命の方途を知った私達こそ、社会のあらゆる人々に、生命の尊厳と、それを確立する具体的実践を教え、うながす、善知識の立ち場にあることを自覚したいものです。  私達の善知識としての実践は、現在においては、社会のあらゆる人々との仏法の対話を通し友好・友情の輪を広げていくことにあるといえるでしょう。  また半面、私達も、自己の信心の向上をめざして、善知識を求めきっていきましょう。ややもすれば惰性に流され、自己との厳しい対決、成長を怠りがちになるのが、凡夫の常です。そのようなときに、常に弱い自己を励まし、たゆみなき精進をうながしてくれる信心強盛な先輩に接することがきわめて大切なのです。〈単行本「きょうの発心百選」262〉

346taka:2010/12/11(土) 10:42:53
御書p575・②(p1238・②)   根なし草の人生に決別
生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切る可し。今より已後は夢中の法門を心に懸く可からざるなり。

通解
生死〈苦しみ・迷い〉という夢から目をさまして、本有常住の生命観にかえって、苦悩のきずなを断ち切りなさい。これより以後は、夢中の法門(南無妙法蓮華経の三大秘法以外の教え)に心をかけてなならない。

拝読の手引き
この御文は、私達に永遠の生命観に立脚した、正しい人生観をもつべきであることを教えられた一節です。  「生死の夢」とは、悩みや迷いに左右された根無し草の人生であり、小目的の人生観です。  「寤」にかえるとは、逆に本覚であり生命の本質を把握した微動だにしない人生と言えます。私たちが題目を唱え、広宣流布という大目的に向かって日々全力あげて戦い、成仏という絶対不壊の幸福境涯を築くことをいいます。  法華経以前の前四味の教え〈華厳・阿含・方等・般若経〉には成仏という名のみあってその実体は明かされていません。だから「夢中の法門」なのです。成仏について名実ともに明かされたのは法華経であり、末法今時においては、南無妙法蓮華経に尽きるのです。この妙法以外の一切の教えは、所詮「夢中の法門」です。  現在、刹那主義者や、享楽主義者がふえている事実は、現代人の多くが既成の人生観、価値観、世界観に限界を感じ、満足できなくなっている証拠と言えます。生命の本質に対して無知、すなわち、生死の夢を離れることができない悲しい姿――それが現代の偽りのない実相ではないでしょうか。  また、最近の各紙には、創価学会が前から叫び実践してきた「人間性の回復」「二十一世紀は生命の世紀」等々の言葉が見受けられるようになりましたが、学会の実践と違って、各紙の論調にはそれを実現していく具体的な方法、理念的な裏付け等は明らかにされていません。そうした実態をもたない思想、理念は「夢中の法門」であると言ってよいでしょう。苦悩の人生を断ち切る日蓮大聖人の大生命哲学を受持できた私達は、いかに恵まれた人生であるかを痛感せずにはおられません。  私達は、さらに確信をもって目先の小さな目的に左右されることなく、社会の第一人者として成長し、妙法の偉大さを実証していきましょう。そのことが、この御文を身読することになるのです。そして、ゆうゆうと人生を闊歩していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」150)

347taka:2010/12/13(月) 10:27:38
御書p576・⑧(p1331・⑧)   病める文明を蘇生する宗教
此の時仏出現し給いて、仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば、燈に油をそへ、老人に杖をあたへたるがごとく、天神等還って威光を増し勢力を増長せし事成劫のごとし

通解
(果報が薄れて三災七難の出現した)住劫の時に、仏が出現されて、仏教という薬を、天と人と神とに与えられたので、ちょうど消えいらんとしていた燈に油を添加し、歩行の難儀な老人に杖を与えたように、天神等がかえって威光を増し、勢力を増長したことは成劫の時代のようである。

拝読の手引き
成劫とは一つの世界の始まり、生成の時代であり、住劫とはその世界が完成の状態から衰退へと向かう時代をさしています。衆生も国土も、その生命の力が弱まり、さまざまな病がさまざまな分野に噴き出てきている――その時に仏が出現して、一切の存在に、活力源ともいうべき仏教という良薬を与えたのです。  生命の暗き重たき疲労を除きいやすものが仏教であり、一切の生命を生きいきとよみがえらせるものこそ、仏の良薬です。  今日、文明は病んでいます。いたるところに矛盾があり、人の心もまたバラ色の未来像を失って、いいしれぬ空虚感におおわれています。人の心だけでなく、国土たる環境世界までも、疲弊の悲しき色を見せています。文明論的に、また国土論的に入っても、生命の法が、真剣に探求されねばなりません。  個人の生命についていえば、濁世の波を飲んで生命を損減し、自身の所行でますます福運を消している一人ひとりを蘇生させるものは、妙法の力しかありません。生命が弱まってにぶい光を放つところから一切の悪も不幸も起こってくるものです。妙法の力用に、一切の人びとが気付くべき時代相というべきではないでしょうか。  ともあれ、福運あって仏法を信受できた私達は、生命の疲れを除く良薬の存在、そしてそれを服する努力を常に忘れてはなりません。〈単行本「きょうの発心百選」583〉

348taka:2010/12/15(水) 11:16:47
御書p582・③(p1337・③)   “世間の眼”の自覚
法華経の第四に云く「仏滅度の後、能く其の義を解せんは、是れ諸の天人世間の眼なり」等云々。日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、諸天・世間の眼にあらずや。

通解
法華経第四の巻、宝塔品にいわく「仏が涅槃した後に、よく法華経の哲理を領解するものは一切世間の眼目である」と。日蓮が法華経の肝心である南無妙法蓮華経を日本国に弘めることは、諸天・世間の眼ではなかろうか。

拝読の手引き
御本尊をたもち、生命哲理を研鑽し、妙法を弘めていくということは、全社会の指導者の資格をもったことになる、と教えられた一節です。  戦後の日本がその行動原理としたものは経済至上主義でした。それに科学技術の盲目的信仰が片棒をかつぎ、日本はやみくもに、営利第一主義で、エコノミック・アニマルの道を突き進んでまいりました。たしかに、物の生産においては自由世界第二位という成果をあげ、世界に、冠たる経済大国にのしあがることができました。  しかし、物の大量生産の裏側では、かけがえのない宝が失われつつあります。清澄な空気、青い海、澄んだ川、緑の樹木といった、心の安らぎを与えてくれる生活環境が次々と奪われています。それとともに、精神的退廃も進展しつつあり、深刻な問題となっているのです。  人々は物の豊かさだけが幸福の指標ではないことにようやく気づき、やっと”生きがいとは何か”ということを模索し始めたのです。ところが、生きがい論の特徴はその専門家がいないことだといわれています。  創価学会はもともと、人生の生きがいを求める人々によって生まれた世界です。事実、私たちは自己の全生命を燃焼させるに足る偉大なる仏法をたもち、広宣流布という目的に向かって日日充実した生活を送っています。  生命の充実こそ、真の幸福である以上、私達こそ、最高の生きがいを感じているといえましょう。私達は、生命というあらゆる現象の本源を教える指導者として、心の飢えを満たすものは妙法であることを社会の人々に知らしめていく使命をもっています。そのためにもさらに人格をみがき、仏法を深く学んでいきたいものです。(単行本「きょうの発心百選」109)

349taka:2010/12/17(金) 10:10:45
御書p585・①(p1340・①)    赤子の口に乳を注ぐ母の慈悲
今日蓮は去ぬる建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり

通解
「今、日蓮は去る建長5年(1253年)4月28日から今年弘安3年(1280年)12月に至るまで、足かけ28年の間、他のことは一切なく、ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである」(同p585、通解)

拝読の手引き
日蓮大聖人のご一生が、終始一貫して慈悲のお振る舞いであったことが拝せます。「二十八年が間又他事なし」の確信の、なんと私たちに勇気を与えてくれることでしょう。  数時間おきに、昼も、真夜中も関係なく、乳飲み子に乳をふくませることは、実に大変な労力です。睡眠不足と戦いながらの授乳を見ると、母というものは、かくあるべきものか、の思いに至ることもあります。「慈しみ育む」という表現がピッタリします。  大聖人のお弟子の訓育にしても、折伏教化の果敢なるお振る舞いにしても、民衆を幸せにせずにおかない厳父の叱咤にしても、権力者への痛烈な破折・糾弾にしても、そこには一切衆生の「異の苦」「同一苦」を「悉く是れ日蓮一人の苦」と受け「日蓮は泣かねども涙ひまなし」という大慈大悲のお心情の発露がありました。  ひるがえって、私達の立場で考えてみますと、例えば友の幸せをねがい、唱題に励み、令法久住の人材たらんと、切磋琢磨を誓い合う日々の学会活動の中に、大聖人のご精神がにじみ出ていると思うのです。また、健康的で明るい家庭を建設し、信頼厚い力ある人となって、地域へ、地域へと伸びゆくことともいえましょう。それが家庭と個人を社会に直結させ、広宣流布の事実相を示すことになるからです。 〈単行本「きょうの発心百選」686〉

350taka:2010/12/18(土) 10:07:13
御書p587・⑧(1342・⑧)信仰人としての根本姿勢
涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人のくなり」等云々。日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く日蓮一人の苦と申すべし。

通解
涅槃経では「一切衆生が、さまざまな苦しみを受けるのは、ことごとく如来(仏)ひとりの苦である」等と説いている。日蓮がいうには、一切衆生の苦しみは、悉く日蓮一人の苦しみといわねばならない。

拝読の手引き
一切衆生の苦しみを、ご自分の苦しみとして、民衆を救済されようとする大聖人の大慈悲の気持ちがふつふつと感じられる御文であり、信仰人としての根本精神を示されたものと拝することができます。  慈悲の一念というのは他人の苦しみを自分の苦しみと感ずるところに生まれてくるのではないでしょうか。そこに、その苦しみをともに解決しようという気持ちが起こり、そして実践へと結びついていくのです。ここに宗教的実践活動の根源があり、信仰人としての本来の姿があるのです。  考えて見れば、創価学会の活動は、この大聖人の精神を根本精神として展開されてきたものです。あらゆる人々の苦しみを自分たちの苦しみと感じ、世界から不幸という二字をなくすために戦ってきたことに、私たちは大いなる誇りを感じたいものです。  非常に残念に思うことは、現在の社会には、他人の苦しみを自分の苦しみと感じていこうとする姿勢が欠けていることです。現在、私達が直面しているさまざまな問題も、この他人の苦しみを自分の苦しみと感じないところに遠因があるように思えます。  私達は、大聖人のように、一切衆生の苦しみを、自分の苦しみとしていくことはできないかもしれません。しかし、せめて私達が日常生活で接する身近な人達の苦しみは、自分達の苦しみと感じていきたいものです。そこに、各地域における人間の連帯が築かれ、その総和として広範な大衆運動が展開されるのです。  この意味からも「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦」との仰せは、私達にとって非常に大切なことを教えておられるのです。このことを深く銘記して、この根本精神を忘れず生涯信仰人として、大聖人の仏法に生ききっていきたいものです。(単行本「きょうの発心百選」330)

351taka:2010/12/29(水) 19:09:56
御書p588・⑱(p1343・⑱)   仏法流布の原理
月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり

通解
月は西から東に向かう。月氏〈インドのこと〉の仏法が東へ流れるべき相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏へかえるべき瑞相である。月はその光が明るくはない。それと同じように月氏の仏法〈釈迦在世の正法〉がその救済の光を放ったのはただ八年にすぎない。日はその光明が月にすぐれている。その光明のすぐれた日光のごとく、太陽の仏法が末法の長き闇を照らすべき瑞相なのである。

拝読の手引き
釈迦仏法と比較して、日蓮大聖人の仏法がはるかにすぐれていることを明かし、この日輪の仏法が、東洋〈さらには全世界〉の不幸の人びとを救っていくことを予言された有名な一節です。  人が信仰の心を失い、物質、富を第一義とし、もしくは考え方の基底に置く風潮が強い世の中。人間性の無視、人間疎外の世の中。信頼の欠如と憎悪、断絶に象徴される人間関係。戦火、災難の絶えない私達人間の世界。貪、瞋、癡、慢・疑が盛んで、五濁の強い流れに押し流されていく末法の時代。この末法・五五百歳の長い闇を照らし、人類の心の幸せの道を指し示す大光明こそ、三大秘法の南無妙法蓮華経の仏法なのです。  昭和47年10月16日には「正本堂久遠の灯点火大法要」が盛大に営まれました。人びとの無明の闇を照らし晴らし、煩悩の薪を焼いて(悟り、幸福)の知恵の灯をあかあかと燃え上がらせる妙法を象徴する「灯」――この久遠の灯・妙法を、時代の闇、人の心の無明に点火すべく、まず自身の生命に燃え上がらせ、多くの人を善導し、法灯を永遠に守り、発展せしめていきましょう。令法久住は各人が伝持の人と成長することで決まることを自覚して――。〈単行本「きょうの発心百選」495〉

352taka:2011/01/06(木) 11:12:05
御書p589・②(p1334・②)    “太陽の仏法”の輝き
月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。

通解
太陽にくらべ月の光は明るくない。月にたとえられる釈迦仏法は、釈迦の在世においては法華経が説かれた、ただ八年の間、輝いただけである。日の光明は月よりすぐれている。それは、太陽にたとえられる日蓮大聖人の仏法が、五五百歳〈末法〉の長い闇を照らし晴らしていく瑞相である。

拝読の手引き
ここでは、日蓮大聖人の仏法が、釈迦仏法などはるかに及ぶことのできない、すぐれて偉大な法門であることを明言されています。  まさに、日蓮大聖人の仏法と釈迦仏法の勝劣は、法自体の威光の上に明らかです。星の輝きも月の光も、太陽の出現によって消えうせていくように、日蓮大聖人の太陽の仏法の登場によって、月のごとく、星のごとき法華経をはじめとした一切の釈迦仏法の光明は、消えていくのは当然です。  仏教の体系が釈迦に源を発することは、歴史上明らかなことですが、日蓮大聖人の仏法をその釈迦仏法の範囲でみていくことは大きな誤りとなります。御義口伝をはじめ、大聖人の仏法哲理の真髄にふれるとき、それが釈迦仏法の延長線上にあるかにみえながら、実は、そこに、釈迦仏法とは明瞭に一線を画した、まったく新しい大哲理が展開されていることに気づきます。  教学を研鑽する場合など、複雑難解な釈迦仏法の教義に頭を痛めることもあるとは思いますが、私達は常に、日蓮大聖人が身命をかけて打ち立てられたこの偉大なる太陽の仏法への確信を深めつつ、その文底仏法の立場から、釈迦仏法の体系をも悠然と学び、大聖人の仏法の卓越した哲理をあらゆる角度から証明しきっていきたいものです。  地上の闇を照らす太陽が一つであるように、人類の闇を照らしていく太陽の仏法は、未来永遠にわたって大聖人の仏法以外にありません。その妙法の威光は、いま、広布爛熟の時を得て、ますます輝きを増しています。  人類の新しい夜明けです。人間勝利の新世紀の開幕です。私達は、この”時”にめぐりあえた喜びをかみしめつつ、誉れ高い先駆者として自らがわかちもつ使命の道を、勇敢にたくましく切り開いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」209〉

353taka:2011/01/07(金) 13:06:32
御書p640・⑭(p1519・⑭)     生命の歓喜を伝えよう
法を聞き歓喜し讚めて乃至一言を発す、則ち為れ已に一切三世の仏を供養するなり。

通解
法を聞いて喜び、ほめて、一言をも発すれば、すでに一切の三世の仏を供養することになるのである。

拝読の手引き
法華経方便品の文です。妙法は、三世十方の諸仏が悟りを開いた根源の法であり、宇宙を律する法です。諸法の王であり、諸仏が胸中深く、秘し持っている法門です。  諸仏がこの世に出現することは、経典に、きわめて長遠な時期にもまれなことであると説かれています。世に出たからといって、この妙法を説くとはかぎりません。人界に生を受け、この法を説く仏に出会うということがいかに至難なことか、およそ想像を絶する稀有なでき事です。法に接して真剣に求道の心を燃やし、受持、実践する人は、これまた、ひじょうに少ないと経典は明かしています。  三世の諸仏が護念している妙法を信受して、法の偉大さ、わが身の福運に、歓喜の叫びをあげる。すなわち、仏法対話を行うことは、一切の仏を供養することになり、すばらしい福運がますます身につき、人間として最高の人生を歩むことができるのです。  仏法対話は、信心の歓喜、生命の歓喜を、まだ仏法を知らない人に伝えることです。道理を示し、偏見と迷いを除くことは不可欠ですが、単なる理屈を述べたてる会話とは決定的に違います。大きな慈愛の一念に満ち、それがそのまま歓喜の躍動する誠実な生命となって、相手の胸を打つ――この生命と生命の崇高な対話が仏法対話であることを忘れてはならないでしょう。  ”人として生を得てよくぞ仏法に巡り会うことができた””友よ、あなたにも生命の宝塔を開き築いてもらいたいのだ”という誠実な思いが、体内に脈打つとき、仏法の対話は開花、結実を見るのです。〈単行本「きょうの発心百選」607〉

354taka:2011/01/10(月) 10:05:20
御書p708・③(p1554・③)      帰命とは
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり

通解
南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の御義口伝には、次のように仰せである。  「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰命する対境、対象に「人」と「法」とがある。「人」とは、文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である。「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち、人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。

拝読の手引き
南無ということは、梵語(サンスクリット)である。日本語に訳せば、現代に約すならば"南無"という意味は帰命ということを言うのです。昨年、インドを訪問しました。インド人はあいさつする時に合掌して「ナマステ」と言います。これは梵語の音調というか、南無の語源になっているように考えられるのです       「この釈尊とは人本尊を意味します。すなわち、日蓮大聖人に帰命し奉ることをいうのです。帰命に「人法」があると訳すのですね。法とは法本尊、すなわち南無妙法蓮華経に帰命することをいうのです。人法一箇ですから、御本尊に帰命することが真実の帰命であり"南無"なのです。南無妙法蓮華経が宇宙の本源であり、そこに我々が帰命する。これは当然なことです」「妻が夫に帰命する姿もあります。恋人が恋人に帰命する姿もあります。昔の家臣は主君に帰命した姿です。そういう姿では、絶対の幸福とはいえない帰命の姿です。人生にとって、本源に帰命する姿は何かといえば、大聖人に帰命し、南無妙法蓮華経に帰命する事のみが最高の帰命であり、幸福の源泉になってくるという意味です。(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

355taka:2011/01/11(火) 10:01:00
御書p708・④(p1554・④)     帰命とは
又帰というは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり」

通解
又「帰」というのは、迹門不変真如の理に帰するのである。「命」とは本門随縁真如の智に命くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに、妙法を唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力が、わが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ随縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経自体のことなのである。

拝読の手引き
「帰命の"帰"と、帰命の"命"とを分けていらっしゃるのです。帰命の"帰"とは、『迹門不変真如の理に帰する』ことを言うのです。この御書を拝読すると、御書それ自体は"不変真如の理"です。絶対的真理ですから。したがって、また永久に変わらざる、大聖人の大哲理という真如の理です。そこに帰するでしょう。今、我々は、一生懸命に拝読しようとしていることは、"帰"しているということです」「"命"とは「本門随縁真如の智に命くなり」、つまり、"随縁真如の智"というのは、この"不変真如の理"である御書をば、信心、それから我々の智慧によって会得して、自分自身の生活の源泉、生命活動の源泉にしていけるのです。したがって、これが"命"です」「ここにマイクロホンがあります。マイクロホンそれ自体の原理は、発声された音調を拡大するというものです。これは、"不変真理の理"でしょう。それを我々が現実に利用していくということは"随縁真如の智"に命いたわけなのです」「分ければ"不変真如の理"に帰し、そしてまた、"随縁真如の智"に命くことをいうけれども、それは理論的に言われた次元です。南無妙法蓮華経それ自体が、すでに帰命なのです。題目を唱えることは、全部、宇宙の本源に合致することであり、生活の上に、生命活動の上に発動していくという意義なのです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

356taka:2011/01/13(木) 12:48:24
御書p708・⑤(p1554・⑤)   生命の実体
釈に云く随縁不変・一念寂照と

通解
釈には「随縁不変・一念寂照」とある。随縁真如の智も、不変真如の理も、共に実在しているのが、生命の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この御本尊に帰依することによって、絶対的幸福境涯たる成仏が叶うのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
随縁とは随縁真如の智である。不変とは不変真如の理である。一念とは瞬間の生命を指す。寂照に寂とは静を意味し、照とは照り輝く、動の意味となる。瞬間瞬間の生命活動が大宇宙のリズムに合致し、妙法に照らされた境涯、つまり絶対的幸福境涯をいう。すなわち、随縁真如の智、不変真如の理を説く法華経(御本尊)を信ずることによって、わが生命の上に、仏界を湧現することを示している。(御義口伝講義上p50)

357taka:2011/01/14(金) 13:09:33
御書p708・⑤(p1554・⑤)   色心不二

又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり 釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと

通解
又「帰」とは、我々の色法を意味する。「命」とは、我々の心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の、大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「帰」とは、絶えず新陳代謝して宇宙に還元されていく肉体であり、色法をいう。「命」とは心法のことである。絶えず、宇宙のリズムに冥合してゆこうとする作用をいう。この色心不二の生命哲学が、最高の大哲理なりとの日蓮大聖人の御確信であられる。「色」とは、目にみえるもの、物質、形質、あるいは肉体を意味する。「心」とは物質にあらざるもの、性質、性分、あるいは精神、内在する力等を意味する。   唯物思想は、物質の根源であり、物質中心主義である。唯心思想は、精神が本源であり、物質は、その幻影に過ぎないとする思想である。共に、ある一面の真理を説いたものといえよう。しかし、部分観は、部分観としての意義をもつだけである。部分観をもって、全体観とすることは、はなはだしい誤りと言わざるを得ない。生命それ自体は、唯心でも、唯物でもない。思うに、現代の哲学においては、今日に至るまで、生命について、幾多の議論が展開されてきた。だが、なんら根本的解決はなされていないのである。  もはや、不可思議なる生命の実体を、唯物、唯心で見ようとする時代は過ぎ去った。もしも、このような思想で論ずる人ありとせば、過去の死滅せる思想に執着する、哀れな人にほかならない。  それは結論していえば、生命は、「色心不二」なのである。これこそ、現代の哲学、生物学、医学等々、すべてが帰趨していく事実なりと訴えるものである。とくに、生命の問題と密接な関係をもつ、医学の分野において、そうした傾向が顕著ではないかと思う。「精神身体医学」が最近とみに叫ばれるようになってきている。これも一つの好例と考えられる。これは、病気の原因を、単に肉体だけに限るのではなく、心にも原因を求めようとする推移である。こうした考え方は、仏法では、すでに三千年前から説いてきた。   一極とは、いま述べたとおり、最高の哲学をいう。仏乗とは、一仏乗のことである。すなわち成仏の境涯をいう。妙法という、最高の哲理、大思想を実践してのみ、永遠に崩れざる幸福境涯を開くことができるとの言であられる。   低級哲学、偏頗な思想を基にすれば、必ず矛盾を生じ、混乱と不幸をもたらしてしまうものである。世界の大部分の人々は、真実の妙法の大哲理を知らない。その証拠に、社会は不安定であり、世界は動乱の連続なのである。なお、個人は主体性を失い、行手を失い、無価値の人生に終始しているといえよう。  この文こそ、天台の文を引いての、最高峰の大思想、永遠不滅の大哲学はこれなりとの、日蓮大聖人の宣言なりと拝するものである。(御義口伝講義上p69)

358taka:2011/01/15(土) 10:37:40
御書p708・⑥(p1554・⑥)    広宣流布は必ずできる
又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり

通解
又、仰せには、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語であり、妙法蓮華経は漢語である。梵漢共時に南無妙法蓮華経というのである

拝読の手引き(池田先生の指導)
「世界の広宣流布は必ずできるということです。大聖人の仏法に偏頗はないという御文です。梵語、漢語、日本語が、御本尊の中に全部入っています。したがって、日本だけの仏法ではないということです。御本尊を拝するならば、梵語もあります。右端、左端にある梵字は不動明王並びに愛染明王が表されている。漢語も書かれてあるではないですか。梵・漢・日、全部入っているのです」「南無妙法蓮華経の南無は、梵語です。妙法蓮華経は漢語です。『梵漢共時に南無妙法蓮華経』というのだと。したがって、世界の仏法であるとの依文なのです」「南無妙法蓮華経は、永久不変の法であり、究極の音律です。それを翻訳し、題目として唱えていくことはありません。題目は、どこでも南無妙法蓮華経です。題目は瞬時に仏に通じる世界共通の言葉なのです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

359taka:2011/01/16(日) 11:32:45
御書p708・⑨(p1554・⑨)     声仏事を為す
妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法というなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり 経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経というなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し。

通解
妙法を、無明、法性に約して説けば、妙は法性であり悟りである。法は無明であり、迷いを示す。したがって、妙法というとき、すでに無明法性一体であることがあらわされている。蓮華とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果俱時をあらわしている。  経とは一切衆生の言語音声をいうのである。しかして、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」といっているように、南無妙法蓮華経こそ、最高の経なのである。また、生命が、過去、現在、未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを経というのである。所詮、大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。以上のことを、よくよく思索しなさい。

拝読の手引き
霧が深く前もうしろもよく見えない。自分がどこにいるかも定かではない。行けども行けども濃霧に迷い込むのみ。それが、日が出て、周囲がカラリと晴れ渡る。緑の山も青い湖もはっきり見えてくる。旅人の心も何か明るくはずんでくる……。   同じ場所でありながら、二つの際立った様相を呈する前述の例は、生命の本質、無明・法性の関係性を理解するのに役立つように思います。  迷いの生命といい、悟りの生命といい、そこに違う実体があるのではないのです。一つのものの二相にすぎません。三毒に覆われて自己の本質を知らない凡夫と、己の本質を知った仏も、本来その体は一つなのです。  法性を無明と別のところに求めるのは麤法であり、妙法の考え方ではありません。無明の体をそのまま法性にと転ずる、すなわち、即身のまま、衆生の生命を仏の生命にと変えるのが、即身成仏の仏法たる妙法なのです。苦悩、迷いに満ちた衆生が、妙法に冥合するとき、明るい意欲と豊かな力と知恵がわき出てくるのが、妙法の力なのです。  生命は因果一体です。御本尊は因果一体の当体であり、これに冥合するとき、かくありたいという方向に、即本源的に向かっているのであり、所願満足の因果、宿命転換の因果がはらまれているのです。焦ることはありません。朗々たる唱題を続けましょう。妙法蓮華の当体たる御本尊への絶対の自信と誇りをもって、暑さでゆるみがちな気持ちを、自行化他の実践で引き締めていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」620〉                                       (池田先生の指導)声仏事を為すということは、南無妙法蓮華経ということなのです。今、御本尊に題目を上げられるということは、声が仏事を為しているのです。だから、本当の経なのです。人に利益を与えているのです。自分自身が自体顕照で楽しい人生を歩んでいけるのです。ですから、人間に生まれたことは最高の幸せなのです。仏道修行が達成できる位があるのです。受け難き人生を受けたわけですから、無駄のない人生にしていかなければなりません」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

360taka:2011/01/17(月) 10:42:27
御書p709・⑩(p1555・⑩)    この通りに私は聞いた
第一如是我聞の事

通解
この通りに私は聞いた

拝読の手引き(池田先生の指導)
「『我是くのごとく聞きにき』何を聞いたのか。それは南無妙法蓮華経によって、永遠の生命が悟れる、南無妙法蓮華経によって成仏できる、大御本尊の力によって、家庭の幸福も、全人類の幸福も確立することができるとということを聞き、実践している。したがって私どもは『法華経の行者』である、こう拝されるのです」「如是とは信順の辞なり、信心ということです。信順の順は、すなわち師資の道成ず。師弟相対です。順はすなわち師匠の言う通りに仏道修行をしていくことを意味するのです。煎じ詰めれば、如是我聞とは信心ということ、師弟不二ということです」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

361taka:2011/01/18(火) 11:22:00
御書p709・⑭(p1555・⑭)     「如是我聞」の本義
伝教云く法華経を讃むると雖も還って法華の心を死すと、死の字に心を留めて之を案ず可し

伝教大師は「法華秀句」の中で、慈恩の「法華玄賛」の邪義を責めて「法華経をほめたとしても、法華経の真意を知らなければ、かえって法華経の心を死すことになるのである」と打ち破った。この「死」の字に心を留めて考えるべきである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「『死の字に心を留めて之を案ずべし』。ここが大事なのです。御本尊を持っても、大聖人の仰せの通りに信心しなければ、やはり自分の幸福を『死す』ことになってしまうのです」『戸田先生は生前、さまざまな指導をされた。多くの人が『そうは言うけれぢも、現実は……』という聞き方をしていた。私は全部『その通りです』と実践してきました。ある時は、先生は私に『どんな立場にあっても、学会を守れ』と一言おっしゃった。師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も『その通り』にやってきました。……『その通り』に実行するから『師弟不二』なのです。これが法華経です。これが『如説修行』です。これが『如是我聞』の本義です」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

362taka:2011/01/19(水) 10:10:24
御書p712・③(p1558・③)     民衆救済の本義
仏の衆生を護念したもう事は、護とは唯我一人能為救護、念とは毎時作是念是なり。

通解
仏が衆生を護念するということは、護とは譬喩品の「唯我一人のみ、能く救護を為す」とあるごとく、日蓮大聖人が一切衆生を救護されることが護念の護である。また念とは寿量品に「常に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」とあるように、大聖人が一切衆生を救おうとされる大慈大悲の一念が護念の念なのであある。

拝読の手引き
御本仏の崇高なお立場、ご境涯に、粛然、エリを正す思いがする一節です。  私達の到底及ばない境涯であるとはいえ、いやしくも仏弟子であることを誓い、民衆救済を願った者であるならば、一歩でもこの境涯に近づくべく、信心の姿勢を厚く強いものにしていきたいものです。  それにはまず、身近なところから出発することです。ブロック長であるならば、ブロックの人達が、朝晩勤行に真剣に励み、仕事に家事にと建設的な一日を送り、立派な信徒となり、福運をつけていくように、祈念する姿勢を強めることです。座談会に成長した姿で出席し、広布の人材に育つよう祈る長の一念の強弱で、組織の構築の度合いも決まってしまうのです。  また、入信して日まだ浅い人も、すでに、大聖人の仏法を受持した人である以上、仏法を知らない人にとっては真のリーダーとしての役割を担っているのです。”天人の眼たれ”といわれていますが、民衆救済のその強い自覚に立って、悩める人、未入信の家族等々までも、護念していく人になっていきたいものです。自分のことで精一杯であるというのが世の中であり、自分の当面の悩みを祈念し唱題するだけでも立派なことですが、さらに一歩進めて、他の心病める人のことまで護念し題目を送ってあげられる人は、仏法の原理にかなって、まことの仏弟子として成長し、大福運をつけられるのです。  いずれにしても”生命力が衰え、生命がすさんだ濁世に生きる人達を救うのは、私達以外にない”との強い自覚に立ち”どうしたら信心の力のわからない人に仏力法力の偉大さをわからせ幸福にしてあげられるか”と心を砕くことが仏道の正しき実践であり、福運の根源であることを銘記すべきです。〈単行本「きょうの発心百選」307〉

363taka:2011/01/22(土) 12:13:17
御書p712・⑪(p1558・⑪)       廻向
今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり

通解
今、日蓮大聖人およびその門下が、大御本尊に結縁してなくなった人を法華経方便品第二、寿量品第十六を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えて追善供養する時、題目の光りが無間地獄に至って、即身成仏することができる原理である。廻向の文はこれより事起こるのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
われわれは、偉大なる日蓮大聖人の大仏法たる、五字・七字の南無妙法蓮華経をもって、供養するものである。どうして、先祖の聖靈の苦悩を救えないわけがあるだろうか。(御義口伝講義上p248)

364taka:2011/01/23(日) 07:26:51
御書p713・⑭(p1559・⑭)       秘妙方便
文句の三に云く方とは秘なり便とは妙なり妙に方に達するに即ち是れ真の秘なり

通解
文句の第三に次のようにいっている。「方とは秘であり、便とは妙である。妙に方に達する、すなわち、妙法という万法の根源に秘密のうちに達することが、真の秘なのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
私どもが、拝んでいる方便品第2の、その題号に対する御義口伝の解釈です。方便品の"方"とは秘密の"秘"ということであり、"便"とは、妙法の"妙"ということです。すなわち、方便即秘妙であり、方便ということは秘妙方便ということです。妙法蓮華経ということを意味している。南無妙法蓮華経を唱えんがための方便であるということですね」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

365taka:2011/01/24(月) 11:55:10
御書p714・⑦(p1560・⑦)         秘
秘とはきびしきなり三千羅列なり

通解
秘とはきびしきことをいう。妙法はきびしき大宇宙の法則である。いっさい宇宙の森羅万象には、三千が一つも欠けることなく、きびしく羅列しているのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「妙法は厳しい大宇宙の法則であり、因果俱時である。おまけもなければ、割引もないのです。これが仏法です。信心しても、本当に信心しきっていない人は、三千羅列した厳しい姿を見せています」「喜んで御書を講義をするのは、菩薩界です。しかし、いやいや講義するのは形式であり、義務で苦しい心の状態です。それは表面に見えない自分の一念なのです。だから『秘』とは厳しいのです。『秘』とは自分の一念であり誰にも分からないからです」「御本尊に題目をあげていくこれは仏界です。しかし、なぜ『秘とはきびしきなり』かというと、秘の一念をたどった場合、例えば同志を嫉妬した場合には、他人には知られなくても、十四誹謗の中の、恨善誹謗、憎善誹謗になります。厳しい話になりますが分かりますね。(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

366taka:2011/01/25(火) 10:07:01
御書p715・②(p1561・②)        源遠長流
根深ければ則ち条茂く源遠ければ則ち流長きが如し

通解
根が深ければ大木となり枝や葉は茂り、源が遠ければ流れが長いようなものである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、実智がいかに甚深無量であるかを譬えたものである。「根深ければ」とは、宇宙の本源たる妙法蓮華経である。「条茂く」とは、森羅万象である。すなわち、妙法によって初めて森羅万象が説き尽くされることをいうのである。また、大御本尊を根本にしたときに、いっさいが福運と転じ、悠々たる人生を生きぬいていけるという事実である。また人間革命が根本となり、それを土台として、漸次、政治革命、教育革命、経済革命にと進み、真の平和社会が築かれることをも意味する。  家屋を造る場合にしても、土台が大事である。土台が深く、堅固であるならば、りっぱな高層建築ができる。所詮、人間革命なき社会改革は、流血の惨事を繰り返すのみであり、それによってつくられた新しい社会も、また幾多の悲惨な犠牲を出して崩壊する。利害による統一は、利害の対立によって破られ、権力による統一は、権力の弱体化と新しい権力者により打ち破られる。人々に共通なものは、ともに「人間」であるということである。すべての人々がこの共通の広場にもどり、そこから出発したときに、人類が心から望む犠牲なき繁栄と、活気にみなぎった世界が現出することを確信する。  また「源遠ければ」とは、永遠の生命ということである。「流長し」とは、永遠の生命を解き明かした真実最高の仏法によって、初めて永遠の幸福を確立することができるということである。  これを、信心に約していえば、大御本尊を信じたものは永久に行き詰まらないということである。すなわち、いっさいの行き詰まりは、真の一字によって打開されることである。社会もまたしかりである。どんなに科学が発達し、工業、経済が成長したからといっても、もっと恒久的な土台であるべき大仏法、大哲理が根底になかったならば、真の幸福、真の繁栄というものは永続しなかろう。  また、これを生活に約して論ずれば、青年期の修行がいかに大事であるかを、示すものといえる。青年時代に苦労し、勉強し、基礎的な力を十二分に蓄えておくならば、その青年は将来において、偉大な発展を遂げていくであろう。   また、戸田城聖前会長は「青年時代にもった理想を、一生涯貫いていく人が、世の中でもっとも偉大な人である」といつも申されていた。いついかなる時でも、勇気と情熱と溌剌たる青年の息吹こそ、いっさいを変化させる根源である。  思うに、青年とは限りなき発展をはらんだ生命活動である。岩にぶつかり、谷間を流れていた水も、ゆうゆうたる大河となり大海に注ぐがごとく、青年の生命は、洋々と開く未来に向っているのである。この大御本尊を持った人のみが永久の青年であり、不滅の若さを誇りうるのである。これ「源遠ければ流長し」ではないか。   また「源遠ければ」とは建設の力であり、開拓する力であり、また草創精神である。いかなる社会、組織も、時代が下り、草創期の苦しみを忘れたときに、その社会なり組織は固定化し、人々は出来上がった世界に安住し、惰性に流され、気力を失い、やがては崩壊に向かっていくということは、過去の歴史が証明している事実である。  永久の発展をしていくためには、いつも若さと力強い建設の息吹がみなぎっていなくてはならない。いつも未来をめざし、現実の一瞬一瞬を、たえざる建設と努力と精進をしぬいていく人々の心の結集が、潑剌とした、しかも和気あいあいたる社会を、永続させる本源なのである。これ、本因妙の精神である。これが「源遠ければ流長し」にあたるのである。(御義口伝講義上p227)

367taka:2011/01/26(水) 10:59:24
御書p715・⑭(p1561・⑭)     信によって智慧の門に入る
智慧とは一心の三智なり。門とはこの智慧に入る処の能入の門なり。三智の体とは南無妙法蓮華経なり。門とは信心の事なり。爰を以て第二の巻に以信得入という。入と門とは之れ同じきなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るを知恵とは云うなり。

通解
智慧とは、一心の三智をいう。門とは、この一心の三智にはいるところの能入の門である。三智の体とは南無妙法蓮華経である。門とは信心のことである。だから法華経第二の巻の譬喩品第三には「以信得入(信をもって入ることを得)」というのである。入と門とは、ともに信心を意味し、同じことである。今、日蓮大聖人およびその門下が信心強盛に、南無妙法蓮華経と唱えるのを智慧というのである。

拝読の手引き
この御文は、方便品第二にある「諸仏智慧甚深無量其智慧門」についての御義口伝のうち「其智慧門」について述べられたものです。  「智慧とは一心の三智」とありますが、三智とは、二乗、菩薩、仏のもつ智慧のことで、これらの智慧によって不幸の因であるあらゆる煩悩を明らかに見、解決することができるといわれています。日蓮大聖人は、それらの三智の本体を南無妙法蓮華経といわれているのです。  では、その智慧を得るものは何か。それは信心であるとおおせです。南無妙法蓮華経の御本尊を信じ、題目を唱えていけば、幸福を創造する一切の智慧を得ることができるのです。このことを「以信得入」または「以信代慧(信をもって智慧にかう)」というのです。  幸福な人生の建設といっても、不幸や悪を、幸福や善に転換し、豊かな価値創造をしていかないと実現できません。その価値創造への智慧は、私達の己心にある仏界の湧現によって発揮されるのです。私達が日夜、勤行・唱題に励むのも、ここにその理由があります。  強い持続力と求道心によって、私達はますます自己をみがき、日々、心ゆくまで唱題に励み、豊かな価値創造で幸福と希望に満ちた人生を送っていきましょう。〈単行本「きょうの発心百選」432〉

368taka:2011/01/27(木) 10:31:37
御書p717・⑰(p1563・⑰)     一切の濁りを浄化する妙法
我此土安穏なれば劫濁に非ず。実相無作の仏心なれば衆生濁にあらず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨ならば煩悩濁にあらず。五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」の行者ならば見濁に非ざるなり。所詮南無妙法蓮華経を境して起るところの五濁なれば、日本国の一切衆生、五濁の正意なり。

通解
妙法を信受する者は「我が此の土は安穏なり」〈寿量品〉とあるように、寂光の国土世間に住しているので、劫濁の影響を免れる。実相無作の仏身なので、衆生濁を離れている。妙法は煩悩即菩提・生死即涅槃を説いたすぐれた教えなので、煩悩濁はない。久遠元初以来、無始無終、三身常住なので、命濁ではない。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」実践者なので見濁ではない。詮ずるところ、これらすべての五濁は、南無妙法蓮華経を信ずるか否かにより、その有無が決まるものであるから、妙法不信の日本国の一切衆生こそまさに五濁にあたる人々なのである。

拝読の手引き
時代、社会、人間の濁りは、結局、妙法に反するところに、深くその源を発することを知るべきです。妙法の正しい知見、豊かな清流がなくなるときに、一切の濁りが生じてくるのです。  妙法とは、宇宙生命の本源の法以外のなにものでもありません。それとの冥合がなくなれば、必然的に、私達一人ひとりの生命にさまざまな障害がでてきます。そして時の経過とともに、それが複雑にからみあい、五濁のすがたに定着するのです。  それは、私達が日々の勤行、仏道の実践、仏法の精神を根本とした生活を欠かさないとき、そうでないときの自己自身を比較し考えてみれば、実感として迫ってくる不動、真実の哲理であることが分かります。 文明の狂った進行、疎外、不信の社会、噴出してとどまるところを知らない煩悩、人生観やものの見方の歪み、生命の濁りといった問題を、根底から解決するカギをにぎっているのが私達であることを確信して、妙法の言論を堂々と展開していきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」488〉

369taka:2011/01/28(金) 10:46:26
御書p717・②(p1563・②)       如我等無異
「師弟感応して受け取る時如我当無異と悟るを悟仏知見と云うなり」

通解
その信力行力によって大御本尊と境智冥合し、仏力、法力があらわれ、師匠である、日蓮大聖人および大御本尊の生命が、われわれ弟子の身の中に顕現され、ほうべっb品の「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」の文のごとく、わが身仏なりとの大確信に立つことができる。これが悟仏知見である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「師とは大聖人、弟とは弟子です。すなわち御本尊を持つ私たちです。感応とは、境智冥合です、信心です。したがって、我々の信力行力で、大聖人、御本尊の仏力法力に感応するのです。その時に、われらと異なることなし、私どもは仏である、我々は南無妙法蓮華経の当体であると仰せです。『当体義抄文段』には、『我ら、妙法の力用によって即蓮祖大聖人と顕るるなり』というもったいない一節があります。戸田先生は、大聖人の御仏智が湧くとも仰せになっています。だから困るわけがないではないですか。そうでしょう、仏と同じになるというのですから」(大白蓮華2009−11師弟の「御義口伝」講義)

370taka:2011/01/29(土) 08:58:23
御書p720・⑫(p1566・⑫)       今者已満足
妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや、釈には挙因勧信と挙因は即ち本果なり、今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり豈今者已満足に非ずや 。已とは建長五年四月二十八日に初めて唱え出す処の題目を指して已とは意得べきなり。妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を冶せん事疑い無きなり。此れを思い遣る時んば満足なり。満足とは成仏と云う事なり。

通解
妙覚の釈尊は我ら衆生の血肉であり、因果の功徳は骨髄であるとは、師も久遠元初の自受用身、弟子もまた久遠元初の自受用身としてあらわれ、自受用身に約して師弟不二であることを明かされているのである。また釈には、「挙因勧進」とあり、因を挙ぐは則ち本果なりとは、仏の種子を覚知せしめることを成仏というのである。  今、日蓮大聖人がお唱えになる南無妙法蓮華経は、末法一万年の衆生を、ことごとく成仏せしめるのである。どうして「今者已満足」でないといえようか。「已」とは、日蓮大聖人が建長五年4月二十八日、清澄寺において、はじめて唱え出されたところの題目をさして、「已」と意得るべきである。妙法の大良薬をもって、一切衆生の根本の迷い、不幸の根源を除き去り、幸福境涯に住せしめることは、疑いないのである。これを思いやるときに、日蓮大聖人の所願は満たされたのである。また衆生に約していえば、成仏をもって満足というのである。

371taka:2011/01/29(土) 08:59:42
拝読の手引き(池田先生の指導)
大聖人は「万年のため」「全人類のため」に、立教開宗されたのである。断じて、一部の堕落した特権的僧侶のためではない。 「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや」  これは、信仰の目的が、あくまで、仏と等しい生命を、確立することにあるとの義である。これは、絶対的幸福及び人格完成ともいえるのである。釈尊といっても、所詮は、われら凡夫の生命を差しており、われら凡夫の仏界を湧現して、人生を楽しみきっていくことに尽きるのである。  「挙因は即ち本果なり」とは、挙因とは成仏を指すからである。そのわけは、三重秘伝抄に「種子を覚知するを作仏と名づくるなり」とあり、挙因とは種子を覚知することを意味するからである。結局、人生の目的とは何か。それは成仏することであり、永遠の生命を覚知するということなのである。  「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」  このなかに一万年とは、正法千年、像法千年というのに対して、いわれたものである。したがって、釈迦仏法のように限界があるのではなく、未来永劫にわたって力のあることを示されたものである。一万とは、必ずしも、一万、二万という厳密な意味でいわれたものではなく、無限であることを示されたものであろう。この万ということばには「みつる」という意味がある。また、報恩抄(p329)には「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」と仰せられていることからも、大聖人の仏法が不滅の大仏法であることが明らかであろう。  今ここに、末法の御本仏日蓮大聖人は、末法万年の衆生を救わんとの大確信を述べられているのである。  ある特定の期間、一時的に民衆を幸福にすることができる人はいよう。しかし未来永劫にわたって全人類を救い切るとは、仏にあらずんば、絶対に言いえない御確信と拝するものである。日蓮大聖人は、生涯、全民衆救済を叫びつづけられた。その間、大難は、次から次へと大聖人に襲いかかったのであった。しかし、いかなる大難も、御本仏日蓮大聖人の御境界を侵すことはできなかったのである。   日蓮大聖人の、広宣流布へのこの絶対なるご予言こそ、今日の姿なりと強く確信して止まない。釈迦仏法は、大聖人のご出現に依り、虚妄とならなかった。大聖人の仏法は、わが創価学会の出現によって、不虚妄の証明をなしたものといえる。大聖人の御確信、御精神は、化儀の広宣流布、王仏冥合に前進する、われら正信の弟子のみが、ひしひしと感じゆけるものであろう。われらは、この大聖人の願望をば、絶対に、遂行でき得ることを深く信じ、ますます決意を新たに勇猛精進していきたいものである。と同時に、日本国の幸福と安泰のため、かつは、世界の恒久平和確立のため、世の指導者は、今こそ頭を垂れて、大聖哲の言々句々を信受すべきであると絶叫してやまないのである。  「満足とは成仏という事なり」  この段を生活に約し論ずれば、学校を良い成績で修了したことも所願満足といえる。立派な会社に就職できたことも、また所願満足といえる。給料が上り、生活の安定をみたのも所願満足といえよう。有名人になり、人々から尊敬されるようになったことも、また病人が健康になったことも、みな所願満足に通ずる意である。  しかしながら、それらの満足は、相対的な満足なのである。本然的欲求の一部を満たしたに過ぎない。いつ崩れさるかも知れぬ。  絶対的な、根底からの満足、幸福は、結局、成仏以外にはないのである。何ものにも、こわされない、侵されない、幸福境涯。そして常に、瞬間瞬間を楽しみきっていける、生命の躍動、福運。これこそ、生命の奥底からの満足である。この満足の成就は、大御本尊の生命と、わが生命との境智冥合しかないことを銘記すべきである。(御義口伝講義上p299)

372taka:2011/01/30(日) 09:56:52
御書p721・⑩(p1567・⑩)       慈悲
「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」

通解
「大悲」とは、母親が子を思う慈悲、慈愛の念のごときもので、今日蓮大聖人の慈悲こそ一切衆生をあくまで救いきっていこうという大慈悲なのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
慈悲とは、愛、憎のごとき相対的なものではなく、絶対的なものである。慈とは楽しみを与え、悲とは苦しみを抜いてあげる義をいう。キリスト教で説く愛とは、根本的に違いがあり、自他ともに永遠に救済しきる働きが含まれているものである。しかも、慈悲とは、修行によって得られるものではない。大御本尊を信じ、唱題していくときに、自然と仏の慈悲の境地に立脚し、わが生命のなかに、ほとばしり出るものである。ゆえに、慈悲ほど強いものはない。百万言を尽くしても、慈悲なき言は、相手に感動を与えるものでは決してない。そして、相手を思い、幸福を願っての心からの、言々句々は、その人の心を、根底から揺り動かさずにおかないであろう。いま、われわれは、大御本尊を、即日蓮大聖人と拝し、仏弟子として甚深の慈悲を蒙っているのだ、と確信し、感謝を忘れてはならない。そして、いまだ正法を知らぬ人々に対し、この御本山の功徳を教えてあげることが、私たちの慈悲の行為となっているのである。橋を造ったり、学校に寄附したり、人に親切にしたりすることは、もちろん善であるが、これは、一時的な社会の善に過ぎない。これ小善というものである。また、これらは本来、政治等で解決すべき問題でもある。慈悲は大善である。大善は、根本的に、しかも永久に、最も多くの人の幸福のためにする行為である。したがって、われわれの折伏活動こそ、大善の中の大善であることを、強く強く確信すべきである。現在、社会に最も必要なことは、この慈悲ということである。日蓮大聖人の大慈悲に包まれながら、大生命哲学を学び、生活の源泉としていく以外に、真に、安心立命の人生はない。また、社会も、おたがい慈悲がなければ、まるで闇のようになり、三悪道から抜けることは、永久にできえないことであろう。ために、政治の根底に慈悲がなければ、大衆は断じて救われない。慈悲ある政治こそ、王仏冥合であり、第三文明であり、新社会主義の建設なりと主張しきるものである。(御義口伝講義上)

373taka:2011/01/31(月) 11:27:59
御書p722・④(p1568・④)   合掌の中に十界互具がある
合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり合掌は色法なり向仏は心法なり、色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり

通解
「合掌」とは法華経の異名である。「向仏」とは、妙法蓮華経にあいたてまつるということである。合掌は色法であり、向仏とは信心であり心法である。色心の二法を妙法蓮華経であると開悟するのを、譬喩品で、舎利弗が歓喜踊躍したと説くのであり、歓喜踊躍とは心法色法一体の姿なのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
成仏の目的たる、また理論上完璧な極理となる、一念三千を説いたのが方便品である。法説周である舎利弗は、この方便品にきて、はじめて生命の本質を覚ることができたのである。そして、経文上では譬喩品にきて、釈尊に対し合掌した儀式をふむわけである。「色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり」とは、生命哲学の極理であり、智慧第一の舎利弗が、最後に会得したのも、この色心不二の生命哲学以外のなにものでもない、ということである。宇宙、生命の根本は、心でもない、物でもない、色心不二なのである。現在、真の智人、哲人、学者がいるならば、舎利弗の如く、御本尊の前で歓喜踊躍することは、当然であろう。(文庫本「御義口伝講義上(二)p34)    (池田先生の指導) きちっと合掌をして、御本尊を見つめて勤行をするのが正しい姿です。真言のいんけい〈指で形をつくり、また、組み合わせて、仏の内証を表したもの〉などと異なり、ありのままの自然の姿は合掌です。御本尊に対しての合掌は最も正しいのです。合掌の「合」は妙である。合掌の「掌」とは法である。妙は仏界、法は九界、九界即仏界とも約せます。ちょうど指は十本です。十の指で、そしてまた掌を合わせる。十界互具を意味するのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

374taka:2011/02/01(火) 12:15:12
御書p723・②(p1569・②)    身も心も動じない
身とは生死即涅槃なり意とは煩悩即菩提なり

通解
「身」の泰然とは、生死即涅槃である。「意」の泰然とは、煩悩即菩提である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
私どもは、信心をして、真に泰然(身も心も落ち着いて物事に動じないさま)、快得安穏にならなくてはならない。それが目的であるわけです。 身意泰然を分けた場合に、煩悩即菩提、生死即涅槃になり、「身」の方が生死即涅槃になります。なぜかならば、生死とは苦しみです。苦しみは、生活の上にあらわれるでしょう。だから「身」の法に約すのです。例えば、商売がうまくいかない――苦しみです。だが、それを打開した、福運を持ち、智慧を働かせて、荒波を悠々と乗り切っていけた、勝った、成功した――涅槃です。そして「意」の泰然ということは、煩悩即菩提です。煩悩ということも苦しみですが、どちらかといえば、心の問題になります。その煩悩を、題目の力によって菩提に変え切っていく、宿命転換していく、智慧を湧かせていく、煩悩の鎖にとらわれないで、煩悩を使い切っていく――それは心の問題になるわけです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

375taka:2011/02/02(水) 11:02:26
御書p723・⑮(p1569・⑮)    幸福へ自在に廻転
廻転とは題目の五字なり自とは我ら行者の事なり

通解
廻転、宿命転換は、南無妙法蓮華経の、五字七字の題目の力、御本尊のお力によるのである。自とは我ら、御本尊を信じて題目を唱える者のことである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
南無妙法蓮華経を唱えていけば、ぜんぶ宿命転換になるということです。回転していくのです。宿命転換です。病気だ。苦しい。治りたい。そこで南無妙法蓮華経と唱えた。すると生命力が湧き、病気も治ってくるでしょう。而自廻転です。題目を唱えることによって、而自廻転できるのです。大きくいえば、戦争を平和に廻転できるのも、妙法の原理です。妙法の而自廻転の原理を根本にしていけばいいのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

376taka:2011/02/03(木) 11:36:00
御書p724・⑥(p1570・⑥)     「妙」の字
鏡に於て五鏡此れ有り。妙の鏡には法界の不思議を浮べ、法の鏡には法界の体を浮べ、蓮の鏡には法界の果を浮べ、華の鏡には法界の因を浮べ、経の鏡には万法の言語を浮べたり

通解
鏡には妙、法、蓮、華、経の五つの鏡があり、妙の鏡には法界の不思議を浮かべ、法の鏡には法界の体を浮かべ、蓮の鏡には法界の果を浮かべ、華の鏡には法界の因を浮かべ、経の鏡には万法の言語を浮かべるのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
非常に深い哲学です。宇宙の森羅万象の実相というものは、物理学者でも、科学者でも、どうしても解明できないものがあるのです。妙法によって感得し、理解するしかないわけです。ロシアの科学者が言っていた。「自分はキリストのような神は信じないが、あまりにも不思議な宇宙、それを形成している本質を神というのだったら、私は信じる」と。全部、不思議です。それを明鏡に映しだすように如実に見つめていける力が南無妙法蓮華経です。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

377taka:2011/02/04(金) 23:17:40
御書p724・⑮(p1570・⑮)     自身法性の大地
御義口伝に云く、一門とは法華経の信心なり。車とは法華経なり。牛とは南無妙法蓮華経なり。宅とは煩悩なり。自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云々。

通解
御義口伝には次のように仰せである。一門とは法華経の信心のことであり、車とは法華経、大白牛車の牛とは南無妙法蓮華経である。また、宅とは煩悩を意味する。自身法性の大地とは、成仏という、永遠の生命を覚知した絶対の幸福境涯であり、生死生死と転ぐり行くとは、その永遠の幸福境涯のうえに立って、いっさいの生活をしていくことである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
幸福というものは、絶対に自分自身で築いていくものであって、人から与えられるものではないということです。人から与えられたものは崩れてしまう。いつ、頼る親が死に、夫が死ぬか分からない。現実はあまりにも厳しい。また、時代が変わったために、どれだけの人が不幸になったか。全部、自分自身の智慧、自分自身の福運、それが大事だということでしょう。その福運も智慧も、ともに南無妙法蓮華経によって得られるのです。諸君も、子どもの時は、お母さんやお父さんが面倒を見てくれ、かわいがられ、大事にされ、幸せに暮らしているけれども、やがて結婚したり、あるいは社会に出て、激しい、さまざまな闘争の世界に入るわけです。その時になって、やはり、頼るものは自分です。その自分自身が、最高度に自体顕照して、悠々と力強く、戦い生きていくための力は何か。その源泉は妙法しかないということです。それが「自身法性の大地」という意味です。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

378taka:2011/02/10(木) 22:43:32
御書p725・⑧(p1571・⑧)        無疑曰信
一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり

通解
「一念三千も信の一字より起り」とは、仏界が湧現するのでなければ、一念三千にはならない。仏界は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えて、初めて現れるのである。すなわち、信によって一念三千は成り立つのである。また三世のあらゆる仏も、みな御本尊を信じて題目を唱えたからこそ、成道したのである。  信ということは、元品の無明――根本の迷い、すなわち、御本尊に対する迷いを切るのである。そのゆえは「疑い無きを信という」ということで、信の疑惑を断ち切る利剣なのである。解ということは、智慧の別名である。信ずることによって、智慧という宝を買うことができる。三世のあらゆる仏の智慧を買うのは信によるのである。智慧とは南無妙法蓮華経のことである。御本尊を信ずることは、日蓮大聖人の智慧をいただくもとであり、名字即の位である。信と解――御本尊を信ずることと仏をさとることとは一体である。信の一字こそ、妙覚――仏のさとりの種である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
信解の信ということは、実に、いっさいの根本なのである。「一念三千も信の一字より起り三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり」との仰せは、信ずるということがなければ、仏法は成り立たないことを意味するものである。われわれは、友人を信じ、親を信じ、また自己を信じ、あるいは本を信じ、人の話を信じ、あるいは、新聞に報道されたことが事実であると信ずる。信じたり、信じなかったりすることが現実の生活であろう。生活から、信ずるということを取り除いたら、あとになにが残るだろうか。社会というものの本質が、おたがいに信頼し合い、尊敬しあって、初めて成り立つものである。   しかしながら、現実の社会は、あまりにも不信と欺瞞とに満ち満ちているではないか。そこに、いっさい信ずべきものを失った青年は、社会をのろい、血肉を分けた親兄弟をのろい、退廃的になり、あるときは爆発的に、みずからのエネルギーを快楽のために発散する。もし、彼が、自己をも信ずることができなくなれば、もはや、生きる張りあいを、いっさいなくしてしまうことであろう。なにごとも、信が根本であることがうかがえるものだ。社会を改革しようとする息吹も、芸術家が偉大な芸術をうんでいくのも、科学者が偉大なる発見をするのも、信あればこそである。一般の学問においても、認識するということの第一歩は、すべて、信ずるということから始まり、実験証明によって初めて正しく認識できうるのである。況や、仏法の根本においては、必ず信の一字より起こることは、当然の中の当然の理なのである。  人生の幸福の源泉たる智慧は、仏法の「以信代慧」「以信得入」という原理が示すごとく、結局は、三大秘法の大御本尊に対する強き信をもって智慧に代え、正法に対する信をもって幸福境涯を築く以外にないことを知らなければならない

379taka:2011/02/10(木) 22:44:41
しかし、この信の対境を誤れば、また不幸におちいらざるをえないのである。妙楽大師いわく「たとい発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳なお多し、正境に非ずんば、たとい偽妄無きもまた種とならず」と。すなわち「鰯の頭も信心から」というような、浅はかな宗教観は、まったく非科学的であり、迷信であり、邪見であることを知るべきである。あくまでも仏法は、文理現の三証具備でなければならない。 いま、われわれの信心の姿を見て、愚かな人は、他の宗教と同じと思い、よく「盲信」であると批判する。しかし、彼らは、われわれが常に大聖人の深遠なる生命哲学を追求していることを知らない。その幽玄でしかも明晰なる大哲理に、われらは、全生命からほとばしりいでる喜びの活動をしているのである。ある哲学者は、「信仰とは、理性の延長なり」といった。まことに、深き思索の結果の叫びであろう。  戸田城聖前会長は、また「理は信を生じ、信は理を求める。求められた理は、さらに心を深めるのである」と述べられている。この深遠なる道理をわきまえる実践をば知るならば、どうして「盲信」などと批判できようか。あえてそう批判する人たちこそ、いっさいの生活に、活動に、信ずるという純朴な人間性を喪失してしまった、哀れな存在であるといわれてもやむを得なかろう。   次に「信」と解」の関係であるが、信とは、大御本尊を信ずること、生活活動への源泉を意味する。解とは、実際生活、活躍にあって、具体的に働く智慧の意味である。今、われら仏の軍の、一日も早く、王仏冥合の実現を期しゆこうという、祈り、一念、一心は、信である。その戦いの完遂への、一歩一歩の具体的な構想、企画、活動等は、解ととるのである。   「信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」――疑い無きを信という。三大秘法の大御本尊の大功徳を絶対に信じ、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学を最高唯一と信ずることが、仏法の根本である。  たとえ一時的には罰を受けようが、病気になろうが、家が焼けようが、どんなことがあってもご本尊を疑わない。大聖人の仰せどおりに信心修行をまっとうしきる――これが無疑曰信であり、その信心をしている人が成仏できうるのである。少し世間から批判されたり、迫害を受けたり、そんなことで疑ってはならない。それでは信が弱いのであり、薄いのである。一生涯、永遠に御本尊をだきしめてはなさない。どんなことがあっても、題目を唱えきっていく、これが無疑曰信の信心といい得るのである。   さて仏法においては、以上のごとく、信ずるということが根本であり、そこに何等の疑問もない。これはひとえに、仏法が文証、理証、現証の上に立って、絶対にゆるぎない大哲学であるからである。   西洋の哲学者たちっが、本来ありもしない「唯一絶対の神」をめぐって、どれほど深刻に悩んだかをうかがい知ると同時に、文証、理証、現証に照らして一点の疑わしきところもない大生命哲学を奉ずるわれわれが、いかに恵まれた人生であるかを、痛感せずにおられないではないか。(御義口伝講義上p412)

380taka:2011/02/12(土) 10:52:36
御書p726・④(p1572・④)       師の大慈悲
御義口伝に云く、父に於て三之れ有り、法華経・釈尊・日蓮是なり。法華経は一切衆生の父なり。この父に背く故に流転の凡夫となる。釈尊は一切衆生の父なり。この仏に背く故に、備に諸道を輪ぐるなり。今日蓮は日本国の一切衆生の父なり。章安大師の云く「彼が為に悪を除く、すなわち是れ彼が親なり」と。

通解
御義口伝には次のように仰せである。捨父逃逝の父とは三通りに読むことができる。法華経と釈尊と日蓮大聖人とである。法華経は一切衆生の父である。この父に背くから九界をさまよう凡夫となるのである。釈尊は一切衆生の父である。この父なる仏に背いたものは、諸の悪道を輪廻したのである。今末法においては、日蓮大聖人が御本仏として、日本国の一切衆生に対して父の徳を備えておられるのである。章安大師は「民衆のために、不幸の根源である邪宗を取り除いてあげる人こそ真の親である」といっているが、末法に入って邪宗を徹底的に折伏されたのは、日蓮大聖人の一人であったではないか。

拝読の手引き(池田先生の指導)
ここは、父子一体、師弟不二の大慈悲を説かれたところです。日本国の一切衆生は子の如し、日蓮は父のごとしです。縁に粉動されたり、退転したりした人に対して、ああ、かわいそうだ、もっと言っておいてあげればよかった、なんとか救ってあげたかったと思われる仏の御心境であり、御心情なのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義)

381taka:2011/02/13(日) 10:54:45
御書p726・⑫(p1572・⑫)    煩悩の火を智火へ昇華
妙法に逢い奉る時は八苦の煩悩の火、自受用報身の智火と開覚するなり。

通解
妙法にあい奉るときは、八苦の煩悩の火が転じて、自受用身の智火となり、悟りとなるのである。

拝読の手引き
八苦とは、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の四苦を加えたもので人生の苦悩を、見事に分析、表現したものです。  生・老・病・死のほか、愛するものと別れなければならない苦しみ、恨み憎むものと合わなければならない苦しみ、求めても得られない苦しみ、心身に執着していることから生ずるあらゆる苦しみ……私達の生活は、そういった悩み、苦しみに満ちみちています。  人間が生き続ける存在である以上、この八苦の煩悩は消えません。この煩悩の火を消し、欲望を断滅することは、そのまま、人間の死を結果するだけです。八苦の煩悩は、人間の生存と、本質的に、分かちがたく結びついているのです。人間というものは、煩悩の当体なのであって、これを滅し去ることは、不可能でもあり、必要ないのです。煩悩の火をそのまま菩提(悟り)の火に昇華することができるのです。  古来、さまざまな宗教が、この人間性の強い強い一面、ドス黒い生命の濁り、悪の存在、煩悩の火の問題に取り組みましたが、いたずらな滅却を説く等、いずれにしても、その無力を示してきました。煩悩即菩提の原理を明かした妙法の生命哲学の偉大さに、人類もやがて目をみはるときがくるでありましょう。  御本尊に題目を唱えるとき、どうおさえようもない苦悩、欲望の生命の波立ちが、幸福と成長の価値創造の波動へと転ずるのです。妙法第一の人、妙法を思索と行動の基底に置く人は、煩悩の火がそのまま自受用報身の智火(本仏の知恵、御本尊の知恵)と輝き開くのです。  悩みが深ければ深いほど、生命の濁り、力不足の壁が深刻に考えられれば考えられるほど、題目を朗々と唱えることです。やむにやまれぬ題目・祈念が、無明の闇を照らし晴らすことを、確信したいものです。〈単行本「きょうの発心百選」422〉

382taka:2011/02/14(月) 11:20:06
御書p726・⑮(p1572・⑮) 衆生救済へ悔いなき実践
日本国の一切衆生は子の如く、日蓮は父の如し。法華不信の失に依って、無間大城に堕ちて返って日蓮を恨みん。また日蓮も声も惜しまず法華を捨つべからずというべきものを、霊山にて悔ゆること之れ有るべきか。

通解
日本国の一切衆生はあたかも窮子のようなものであり、日蓮はその父のようなものである。彼らは法華不信のとがにより、無間地獄におちてかえって、彼らを救おうと努力している日蓮を恨むであろう。また、この日蓮も声も惜しまず、法華経を捨ててはいけないというべきものを、霊山で(仏としてのご境涯から)悔いることであろう。

拝読の手引き
法華経信解品の長者窮子の譬えを踏まえて述べられた一節です。  幼くして父を捨て離れた子が諸国を流浪し、困窮の生活を送り、ついに父の長者にめぐりあい、その子であることを知るにいたる、という筋ですが、たとえてみれば、一切衆生は、御本尊の偉大さを教え示す大聖人に背いて、不幸の巷を流転する窮子です。父たる大聖人が救いの手を差し伸べても、逃げてばかりいて、自己の本地をさとらず、地獄におちてかえって逆恨みする人がなんと多いことでしょうか。  しかし、全精魂を傾け尽くして、一切衆生の救済を願い折伏を実践される大聖人に対して、これに耳を傾けることなく、地獄の生活におちてしまった衆生のことを、大聖人は悔いておられるのです。自己の非をたなにあげて恨む”窮子”のことも、すべて、ご自身の責任として痛みを感じられる、とどまるところを知らない広大な慈悲の姿に、強くうたれざるを得ません。  この偉大な人類の師匠の門下となった私達は、その億分の一でもよい、その精神をうけつぎ利己主義に陥ることを戒め、こと広布の進展ということに関しては、一切を自己の責任とするぐらいの決意をもちたいものです。たとえば、信心指導にあたっては、はたして相手の心の内を思い、真心こめて、礼儀正しく常識豊かに、真剣にやりきったかどうか、悔いは残らなかったかどうか、わが心に問うてみる心尊き妙法の実践者でありたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」463〉

383taka:2011/02/17(木) 11:35:50
御書p727・⑥(p1573・⑥)     無上宝聚不求自得
宝聚(ほうじゅ)とは三世(さんぜ)の諸仏(しょぶつ)の万行(まんぎょう)万善(まんぜん)の諸(しょ)波羅蜜(はらみつ)の宝を聚(あつ)めたる南無妙法蓮華経なり、此(こ)の無上(むじょう)宝聚(ほうじゅ)を辛労(しんろう)も無(な)く行功(ぎょうく)も無く一言(いちごん)に受取る信心なり

通解
宝の聚(あつま)りとは、三世の諸仏のあらゆる修行(しゅぎょう)、善行(ぜんこう)を集(あつ)めた南無妙法蓮華経である。この無上宝聚をを何の苦労(くろう)も修行の功徳もなく、妙法の一言によってわが身に受け取ることのできる信心である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「不求自得」ということであるが、これは御文に「此の無上宝聚を辛労もなく行功も無く一言に受取る信心なり」と仰せられているごとくである。実際に、われわれは、いったい御本尊を何十年もかかって求め抜いてきたかというと、そうではない。初めは気もすすまず、半信半疑の気持ちで入信した。そして、実践してみて、初めて、偉大な大仏法であることがわかった。なんの辛労もなく、行功もなく、われわれは、大御本尊を受持できたではないか。  また、信心した立場からいえば、釈迦仏法の場合は歴劫修行であるのに対し、日蓮大聖人の仏法は受持即観心であり、直達正観であるということである。いまの宗教界の現状をみるとどうか。何十万、何百万の金銭をつぎ込んで修行している人もいる。寒いときに、死にもの狂いで、水を浴びて修行している人もいる。彼らは、それでなんとか救いを得よう、正しいものを求めようとしているのである。ところが、われわれは、そんな労苦は全く必要としない。  ただ、常識人中の常識人として行動していけばよいのである。食べたい時に食べ、寝たい時に寝、何十時間勤行するわけでもない。わずか三十分、四十分の勤行で、大功徳を受け、宿命転換なされるわけである。誠に、もったいない御本尊と、感謝を忘れてはならない。優秀なる機械になればなるほど、実用のときは簡単であり、能率もよいと同様に、最高の仏法であり、哲学であるがゆえに、修行も簡単であり、功徳も絶大なのである。〈御義口伝講義上p436〉

384taka:2011/02/18(金) 11:15:31
御書p729・③(p1575・③)     師弟の境智冥合
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と領するは述なり日蓮が讃嘆するは成なり

通解
いま、日蓮大聖人の門下が、末法の成仏は、南無妙法蓮華経以外にないと納得することは「述」であり、日蓮大聖人が、その信心を讃嘆されるのは「成」に当たるのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「述成」とは、師弟不二、境智冥合を表していると拝すべきです。  大聖人と日興上人のお姿こそ、述成であり、師弟不二なのです。 御書のいたるところに、「日蓮等の類い」と仰せられているのは、我ら凡夫を御本仏の境涯まで引き上げてあげよう、境智冥合させてあげよう、という御慈悲のあらわれなのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p33)

385taka:2011/02/19(土) 10:54:53
御書p732・⑫(p1578・⑫)     即の一字
化城即宝処とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念の宝処なり

通解
化城即宝処の即の一字は南無妙法蓮華経である。われわれが南無妙法蓮華経と唱えるときに、念念の化城、九界の生命は、念念の宝処、すなわち仏界の生命となるのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
妙法を唱え、妙法に生き、「勇猛精進」していけば、この法理に則り、どんな苦難も栄光に転じゆく「逆転劇」が、必ず開かれるのだ。
この絶対の確信に立って、永遠の栄光を勝ち取るまで、“わが弟子として、不屈の信心を勇敢に貫け!”と御本仏は常に励ましてくださっている。(2009・10・5方面長協議会)     化城とは九界です。  無明流転の人生です。  宝処とは仏界です。  化城もわれわれの生命。  宝処もわれわれの生命。  仏なりといっても、われわれの生命の仏界を湧現することにつきます。  だんだんと修行して仏になるのではありません。  仏の境涯は、遠くにあるものでもなければ、だんだん仏になるのでもない。  わが身即ち仏なり、当体なり、と確立しきることにつきる。  化城は観念論であり、宝処は生活です。  化城は理で、宝処は事になる。  御書を勉強しているのは、化城の念念であって、それを生活に具現化した場合には、宝処の念念に変わるのです。  化城を去ることはできないのです。  この身で仏になる以外にない。  煩悩即菩提が大聖人の哲学です。  煩悩を去る、煩悩を断ずるというのは、爾前の教えです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p37)

386taka:2011/02/21(月) 10:07:11
御書p734・⑦(p1580・⑦)     化城即宝処
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は化城宝処なり。我等が居住の山谷曠野皆皆常寂光の宝処なり。

通解
今、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、化城を即宝処と開くことができるのである。我々が居住する山や谷、広野など、皆、すべてのところが、常寂光の宝処(仏国土)となるのである。

拝読の手引き
爾前迹門の諸経では、私達が現実に生活する国土を、悩みや苦しみが充満するけがれた所として忌み嫌い、遠いかなたに理想的世界があると教えました。  たとえば、東方の薬師如来の住む浄瑠璃世界、または、西方の阿弥陀如来の住む極楽浄土など、さまざまな世界を説き示しました。いずれも、苦悩多い現実社会に背を向け、架空の世界に、はかない夢を託そうとする、現実逃避の低い教えであることはいうまでもありません。  はるかな世界に理想郷を夢見るのは、凡夫の常であるかもしれません。しかし、真実の幸福世界は、決して遠いかなたにあるのではありません。この苦悩多い現実との対決によってこそ、それは開かれるものです。日蓮大聖人は、この御文で、化城の現実世界を即宝処と開く鍵こそ、南無妙法蓮華経であると教えられています。  そして、妙法を信受する者の居住する所は、ことごとく光輝に満ちた寂光土であると仰せられています。私達は、この御文を確信しきり、さらに信心を強め、自身をみがき、それぞれの地域を、名実ともに常寂光の都に変革していこうではありませんか。  喧騒な都会であろうと、過疎化が叫ばれる山村であろうと、ともかく、今、現に私達が住む地域に、妙法の清流を注ぎ、はつらつとした人間社会を建設していきたいものです。  一人ひとりが、それぞれの地域で妙法の実証を示し、近隣の人々から信頼され、慕われる存在となり、まず、自分の住む地域に、仏法の精神を基調とした、美しい人間共和の社会を築きあげていこうではありませんか。それが真実の郷土開発の源流となることを確信して――。〈単行本「きょうの発心百選」269〉

387taka:2011/02/22(火) 10:08:10
御書p734・⑩(p1580・⑩)     皆共至宝処
御義口伝に云く皆とは十界なり共とは如我等無異なり至とは極果の住処なり宝処とは霊山なり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るものは一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共するときは宝処に至るべし不共ならば阿鼻大城に堕つ可し

通解
御義口伝には、次のように仰せである。  「皆共に宝処に至る」の「皆」とは、地獄より仏界にいたる全てを居うのである。「共」とは、「如我等無異」――方便品の「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」、つまり一切衆生を仏と同じ境涯に入らしめるということである。  「至」とは、極果の住処へ至る、すなわち、最高の幸福境涯に至るということである。「宝処」とは霊鷲山のことである。大御本尊のいますところであり、また、最高の幸福境涯を意味している。  今、大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の門下は、一同に皆共至宝処、すなわち、成仏することができるのである。  とくに、「共」の一字は、日蓮大聖人と共にいる――大聖人を信ずるときには、成仏することができるし、日蓮大聖人と共でない、すなわち、離れ、不信の念をおこすならば、阿鼻地獄におちる、不幸のドン底におちるということを示しているのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「皆共至宝処」の文こそ、自由、平等、尊厳の、民主主義の一大原理である。「皆」とは、十界三千の当体のことである。日本人も、イギリス人も、フランス人も、インド人も、ロシア人も、みな同じ生命であるとの言であられる。すなわち、人類平等の大生命哲学と拝すべきである。「共」とは、いかなる人たりとも、等しく、仏界を具している。信心によって、仏界を湧現することによって、仏の生命と等しくなる。妙法の当体となるとの、もったいない平等論である。「至」とは、極果に至る信心のことである。すなわち、ひたぶるに信心に励み、社会に価値創造しゆく我らの住処こそ、尊厳であり、霊山なりとの言であられる。  「日蓮に共する時は」とは、大聖人の弟子として、真剣に信心し、王仏冥合に進む人のことである。すなわち、創価学会である。したがって、われらの住処は、宝処である。我此土安穏である。平和と幸福を享受できうることは、絶対に間違いないわけである。不共、謗者の人々は、阿鼻大城に堕ちざるをえない、御金言に照らし、現実の世界をみて。一日も早く、いかなる障魔にも打ち勝って、楽土日本を、築いてゆきたいものである。〈御義口伝講義上p553〉

388taka:2011/02/24(木) 10:59:01
御書p735・⑨(p1581・⑨)    琴線に触れずして力は発揮できない
今日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉れば「我即ち歓喜す」とて、釈尊歓喜し給うなり。歓喜とは善悪共に歓喜なり。十界同時なり。深く之を思う可し。

通解
今、日蓮大聖人の門下が南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「我則ち歓喜す」とて、釈尊、すなわち文底の釈尊である日蓮大聖人は、ご歓喜あそばされるのである。この歓喜は善悪ともに(仏界も九界も)歓喜するのである。十界が同時に歓喜し、成仏していくのである。このことを深く思案していくべきである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
私達が三大秘法の御本尊を信じて行学に励んでいけば、文底の釈尊である日蓮大聖人が喜ばれ、歓喜の信心を貫くところには、いかなる境遇の人でも、万人が必ず成仏できることを述べられています。  「我則歓喜」とは、法華経見宝塔品第十一に「此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我すなわち歓喜す」とあるところからきています。  私たちにとって、信心を持続しきっていくことこそ、仏道修行の最大事です。その信心のあるところには、必ず御本尊の大功徳が湧き出てくるのです。もし苦境に負けて退転したり、縁に粉動されて遠ざかったり、あるいは信心が惰性に流されたりすれば大聖人は、どれほど悲しまれることでしょう。  仏にとっては、衆生が妙法を離れて不幸に陥ることが、胸がはりさけるようにつらく悲しいことなのです。私達はまず、御本尊への絶対の信をふるいおこし、生涯、不退転の信心を確立すべきです。信心の歓喜は、そのうえに立ってのたゆみない努力、実践のなかに芽ばえるものです。  歓喜の信心にまで高められた人は、御本仏の喜ばれる弟子だといえます。そこにこそ、豊かな生命力と英知、福運が満ちあふれ、どんな宿業をも転換し、人間革命の姿を実証することができるのです。  どんなにつらく、苦しい立場の人をも歓喜させるもの、十界すべての衆生を、生命の奥底から大歓喜せしめる根源こそ、三大秘法の御本尊なのです。私達は、このことを確信して、日々の生活のうえに、御本尊の大功徳の実証を示しきっていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」357〉                                 (池田先生の指導) 皆さんが喜んで折伏し、教学に励んでいけば、大聖人が喜ばれる。  皆さんが苦しんでいれば、大聖人が悲しまれる。  歓喜の前進をしていくことが、信心の最大事なのです。  経に「一念随喜の功徳」とあるように、歓喜の信心の集まるところに、必ず功徳は湧いてくるのです。  諸君が成長してくれれば、親も喜ぶであろうし、私もうれしい。  諸君が落第ばかりしていれば、親も悲しいし、私も苦しい。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p40)

389taka:2011/02/25(金) 10:38:35
御書p735・⑬(p1581・⑬)       信心修行の目的
御義口伝に云く、学とは無智なり、無学とは有智なり。

通解
御義口伝には次のように仰せである。「学」とはこれから勉学すべき無智のものをいい、無学とは学問の修行が終了した有智のものをいう。

拝読の手引き(池田先生の指導)
「学」とは、学問の未熟な人。「無学」とは、すでに学問に透徹した人。今の世間で使われている意味と反対になる。  所詮、色心共に、無学に到達することが、信心修行の目的になる。  現代語で言えば、完全なる凡夫、人間、人格ということであろう。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p41)

390taka:2011/02/27(日) 12:15:47
御書p736・⑯(p1582・⑯)       真実の仏の使い
今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは真実の御使なり。

通解
今、日蓮大聖人をはじめ大聖人の弟子として、南無妙法蓮華経と唱えたてまつる人びとこそ真実の仏のお使いなのである。

拝読の手引き
この一節は、法華経法師品に説かれている「如来の使い」についてしるされた部分で、釈迦の滅後、末法に入って三大秘法の南無妙法蓮華経を信受する人こそ「如来の所遣」として「如来の事を行ずる」人であることが述べられています。末法相応、唯一の正法である三大秘法の御本尊を受持した私達こそが仏の使途であることを確信して、誇り高く進んでいきたいものです。  ところで、生涯かけて仏道を求め知ることはもちろんですが、私達には仏の使いとして、苦悩に沈み幸せを求める人びとにこの仏道を説き、広布のいばらの道を開いていく使命があるのです。  まず知道者としては、どんな境遇や境涯にいる人に対しても、最高に尊貴な生き方を指し示していけることが要請されるわけですから、たとえばどのような質問を受けても、何を聞かれても自らが理解し、把握していて、そして教え、導くことができるだけの深い教学力が望まれるのです。  つぎに説道者とは、仏法をたもち十分に人々を説得し、納得させうる人ということです。したがって、現在でいえば、座談会などで実り多い、魅力ある話のできる人のことといえるでしょう。  そして開道者――仏道を知り成仏・得道の方途を説くとともに、さらに数多くの人の幸せの道を押し開いていく、このような開道者であるためには、道を求める一人ひとりに的確な指導を与え、そうした人たちが発心、奮起していくようでなくてはならないでしょう。加えて、同じ目的観に立った求道者が和合僧の団結で進んでいけるよう、また行学の二道を増幅していけるよう、いばらの道を開いていくことが大事です。  こうしてみると、おのおのが立派な求道者であると同時に、現代でいう全体人間として広布の道で活躍していく――そこに仏の本眷属である地涌の菩薩としての指導者像が求められるともいえるでしょう。〈単行本「きょうの発心百選」530〉

391taka:2011/02/28(月) 10:06:47
御書p736・⑧(p1582・⑧)    創価の師こそ「法師の中の大法師」
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり」と。

通解
いま、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、法師の中の大法師、つまり、指導者の中の大指導者である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
すなわち「法師」とは、一般的にいえば、指導者のことです。  「大法師」とは、経済の指導者、政治・科学等の指導者などを、さらに指導していく原理と力を有する者のことをいうのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p43)

392taka:2011/03/01(火) 10:38:30
御書p736・⑫(p1582・⑫)    我らの大願
大願とは法華弘通なり

通解
大願とは、法華弘通のことである。。すなわち広宣流布(こうせんるふ)のことである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、地涌の菩薩の使命・目的を明かされています。  大願とは広宣流布のことです。  仏法に身を捧げた私達革命児こそ、真の弟子として、三世十方の仏・菩薩より、大賞讃を受けるのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p43)

393taka:2011/03/02(水) 10:03:49
御書p736・③(p1582・③)     阿難とは歓喜なり
今日蓮らの類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、山海慧自在通王仏なり。全く外に非ざるなり。我ら行者の外に阿難此れ無きなり。阿難とは歓喜なり、一念三千の開覚なり。

通解
今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、山海慧自在通王仏である。この仏も、全く我々以外の別の存在をさしているのではない。我々法華経の行者以外に阿難はないのである。阿難とは歓喜であり、一念三千の当体であると開覚することをさすのである。

拝読の手引き
山海慧自在通王仏の名号を与えれた阿難は歓喜、慶喜などと訳されていますが、この経文に出てくる一人の人物が、私達とかけはなれた特殊の人格では決してなく、実は、私達一人ひとりの生命にも等しく湧現すると教示されている一節です。  末法の法華経たる南無妙法蓮華経の御本尊を信じ修行する者こそ、ほかならぬ阿難であるとのご断定なのです。  煩悩を菩提に転じ、生死を涅槃(悟り)と変えていく、知恵があふれた、自由自在のはつらつたる生命、調和のとれた完全な生命――その山海慧自在通王仏というも、何か他の特別の存在ではなく、妙法を実践しきる私達のことをさしているとのご指摘なのです。  自己をそのようなすぐれた特質、力を有する、一念三千の当体と開きさとること――そこから、自然のうちに生命は歓喜におおわれていきます。その”一念三千の開覚”とは、単なる観念の上でのことではありません。気持ちのうえでそう確信するだけのものではあれば、早晩、必ず現実の厳しい人生の荒波にあって、もろくも崩れ去ってしまうことでしょう。事実のうえにそのような実証を示しうるから、仏法は強いのです。色心不二の生命のうえに、確たる実感を覚え、日々の生活のうえに、その山海慧自在通王仏の生命を、あらわしきっていけるから、仏法は根源の生活法ともいわれ、万人から支持されているのです。  歓喜が、そして生命力が、豊かに全身を包んでいる、真の”阿難”に、一人ひとりがなりたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」490〉

394taka:2011/03/03(木) 10:35:59
御書p737①(p1583・①)       如来
法華の行者は男女ともに如来なり

通解
「法華の行者」すなわち、南無妙法蓮華経と唱え折伏を行ずる者は、男女ともに如来である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
この文は、男女同権の原理です。単なる法律上の男女同権だけでは本質的な同権とはなりえないのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p44)

395taka:2011/03/06(日) 11:35:40
御書p737・①(p1583・①)    日々の勤行を確実に
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と 云々

通解
いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人および、その門下は、法華経法師品にあるように「如来と共に宿する」ものに相当する。弥勒菩薩の後身であると言われる傅大士は「毎朝仏と共に起き、また毎晩仏と共に安らかに寝ていく。またおりおりに題目を唱え、本地を顕していくことである」と述べている。

拝読の手引き
この御文は、朝の勤行、夕の勤行、またおりおりに題目を唱えることが、私達の生活、人生においていかに重要な意義をもつものであるかを、述べられたものです。   「仏」「如来」とは、日蓮大聖人の生命そのものである御本尊に他なりません。私達が朝に夕に御本尊に向かい、勤行・唱題に励むことは仏とともにいることなのです。このことを確信することが、また信心なのです。  仏道修行の基本ともいうべき勤行・唱題は、地道で毎日行うものであるがゆえに、惰性に陥りやすいものです。だが、どんなに、信心経歴を積み、また、たとえ指導的立場になったといっても、常に自覚を新たにし、正しい勤行を心がけていくべきことは云うまでもありません。  健康が思わしくなかったり、生活に行き詰っていたり、はつらつさを欠いているような人は、やはり勤行の姿勢が不真面目であり、勤行に対する意識それ自体が、安易ともいえましょう。ここで、自分自身の勤行の姿を見つめ直してみましょう。御本尊を正視せず、下を向いたり、目を閉じたままの人がいませんか。また、方便品・寿量品の一言一句を正しく読んでいますか。  さらに大事なことは、祈りを込めて題目を唱えることです。人生の諸問題に直面したとき、人の心は揺らぐものです。しかし、それであれこれ迷い悩んで、祈りを忘れてしまったならば、問題を打開することはできません。  「時時に顕本す」とあるように、きょうも、あすも発心し、日々向上していきたいものです。それには、一回一回の勤行に真剣勝負で臨むことです。〈単行本「きょうの発心百選」128〉

396taka:2011/03/07(月) 10:19:09
御書p738・⑫(p1584・⑫)    「変化人」とは
御義口伝に云く変化人とは竜口守護の八万大菩薩なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るものを守護すべしという経文なり

通解
御義口伝には、次のように仰せである。この変化人とは、たとえば竜口の首の座のとき、八幡大菩薩が守護の力を発揮して光り物が現れたことを指すのである。  末法において南無妙法蓮華経と唱える日蓮大聖人およびその弟子檀那を、諸天善神が必ず守護するという経文なのである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
諸天善神の働きの文です。所詮、この経の法理は、われわれの立場から考えるならば、自己が変われば、国土も、対境も、周囲の人々も、皆変わるという事実から、思索して、会得すべきであろう。  これこそ、仏法の真髄、一念三千の大哲理であり、これを覚知せんがための信心なのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p46)

397taka:2011/03/08(火) 11:35:07
御書p738・⑧(p1584・⑧)   及清信士女供養於法師
御義口伝に云く士女とは男女なり法師とは日蓮等の類いなり清信とは法華経の信心の者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るもの是なり云々、此れ諸天善神等・男女と顕れて法華経の行者を供養す可しという経文なり。

通解
法師品には、諸天善神の働きについて、次のような文証がある。「我(仏のこと)化の四衆、比丘比丘尼、及び清信士女を遣わして、法師を供養せしめ」云々と。  御義口伝には、次のように仰せである。「士女」とは男女のことである。「法師」とは法華経の行者である日蓮大聖人及びその門下のことである。「清信」とは法華経――御本尊を信ずる者についていうのである。いま南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の弟子檀那の信心は清信である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
法華経の行者は、かならず、さまざまな形で、護られているという、御文である。  一見して、不思議に思える経文であるが、生命論より深く考察するならば、感応の原理により、諸天善神の加護が、絶対にあるものと確信するのである。  日蓮大聖人が伊豆伊東へ流罪された時には、船守弥三郎夫妻が真剣に御供養申し上げ、大聖人から「ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに日蓮を内内にて・はぐくみ給いしことは日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云うところに生まれ変わり給うか、法華経第四に云く「及清信士女供養於法師」と云々、法華経を行ぜん者をば諸天善神等或いはヲトコとなり或いは女となり形をかへさまざまに供養してたすくべしという経文なり、弥三郎殿夫婦の士女と生れて日蓮法師を供養する事疑いなし」とのお言葉を賜っている。また、佐渡御流罪の時の阿仏房、千日尼夫妻の命をかけての活躍は、この経文に符節を合わせたごとくではないか。  また、現在、われわれも信仰の生活体験を通して、だれびとも、諸天の加護を認めざるを得ないのである。仏法は決して、観念論ではない。現実論であり、証拠主義である。したがって、御本尊を受持する人は、かならず、親子、兄弟、友人などから、また職場や、社会等において、事実、さまざまな形をもって、護られているのであり、よく功徳がないという人も、周囲をみつめたり、入信時にさかのぼって現在を考えてみたときに、いつの間にか、大功徳をうけているのに気がつくのである。この段は、その原理を説かれていると思う。〈御義口伝講義上p619〉

398taka:2011/03/09(水) 10:36:28
御書p739・①(p1585・①)   師弟の道    
御義口伝に云く、是師とは日蓮等の類なり。学とは南無妙法蓮華経なり。随順とは信受なり云々。

通解
御義口伝には次のように仰せである。「是師」とは日蓮大聖人のことである。「学」とは南無妙法蓮華経を学ぶのである。「随順」するとは「信受」するということである。つまり、日蓮大聖人を師匠と仰ぎ、その御金言を信受し、人法一箇の御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるということである。

拝読の手引き(池田先生の指導)
悪師に随順したときは、必ず不幸と混乱を招き、善師に随順してこそ、幸福と繁栄が享受できるのである。  現今の事実をもって、師弟の道が不必要だとはいえない。いな、人生における行動も、すべて師によって決定されているのです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p48)

399taka:2011/03/10(木) 10:56:03
御書p739・③(p1585・③)    ともに一念三千の当体
御義口伝に云く、日蓮等の類い南無妙法蓮華経は学者の一念三千なり。師も学も共に法界三千の師学なり。

通解
御義口伝には、次のように仰せである。日蓮大聖人ならびにその門下の唱える南無妙法蓮華経というものは、真実の仏法を探求し、実践していくものの一念三千の当体である。したがって、師匠である日蓮大聖人も、また、その師匠日蓮大聖人の教え、・南無妙法蓮華経を信受して、実践していく門下も、ともに、宇宙森羅万象いっさいの師匠であり、学者となるのである。所詮、一念三千を知った人は、師弟不二、境智冥合の原理によって、世界最高の学者である。あらゆる階層、あらゆる世界において、大指導者として君臨すべき資格があるとの御文である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
大聖人の御生命も、随順する我ら凡夫の生命も、ともに一念三千の当体であるから、師弟不二なのです。  師匠と同じく、弟子も共に、最高真実の生命観を把握せよというのが、日蓮大聖哲の仰せです。(大白蓮華2009・12師弟の「御義口伝」講義p49)

400taka:2011/03/12(土) 09:28:03
御書p739・⑯(p1585・⑯)     有七宝
御義口伝に云く七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり、又云く頭上の七穴なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり云々。

通解
見宝塔品第十一の最初に「その時に仏前に七宝の塔あり」と述べられている。これについて御義口伝には、次のように仰せである。七つの宝とは、聞、信、戒、定、進、捨、慙のことで、七聖財ともいわれる。また七宝とは、頭上の七穴、すなわち二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴、一つの口を云うのである。今、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人およびその門下は、七宝を有する真の法華経の行者である。

拝読の手引き(池田先生の指導)
法華経宝塔品に説かれた宝塔とは、諸々の幡蓋が、金、銀、瑠璃、シャコ、瑪瑙、真珠、マイエの七宝で飾られた、美しい宝塔をあらわしている。しかるに、日蓮大聖人は、この七宝を、妙法を根本とした、聞、信、戒、定、進、捨、慙と決定されて、即身成仏、人間完成の実践原理を厳然と示されたのである。  「聞」とは、正しい仏法を聞くことであり、聞いてよく御本尊を信受していくのは「信:であり、御本尊を受持して身口意の三業をもって正法を守りきり、非を防ぎ悪を止める、金剛不壊の戒を「戒」という。また「定」とは。禅定であり妙禅である。信心唱題により、安心立命の境涯を会得できる生命のことであり、「信」とは題目をあげ折伏をやり抜く精進行のことである。「捨」とは、不自惜身命であり、身命を捨てて仏法を求めきることである。また、信心を貫いて、なお足れりとせず、さらに、向上していこうとする心、常に反省して前進していく心は{慙」である。  また、七宝とは、頭上の七穴であると仰せである。二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴、一つの口とあらわれている頭上の七穴、環境や社会に対するいっさいのアンテナとなり、生活にいろいろの現証を具現することになるから、七つの宝となるのである。〈御義口伝講義上p645〉

401taka:2011/03/13(日) 09:41:36
御書p740・⑧(p1586・⑧)    民衆救う大音声
惣じて大音声とは大は法界なり。法界の衆生の言語を妙法の音声と沙汰するを大音声とは云うなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉るは大音声なり。

通解
総じていうと、大音声の大とは法界、つまり、宇宙の大きさをいうのである。この宇宙の一切の衆生の言語を、すべて妙法の音声であると定かにしていくのを大音声という。今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉る題目は大音声になるのである。

拝読の手引き
題目を唱える衆生は、九界の衆生であっても、九界即仏界で、妙法のリズムにかなった生命の活動となります。それゆえ、私達の音声、所作を大音声というのです。衆生の一念、音声は、妙法という宇宙本然のリズムに合致するとき、広大な宇宙法界に広くゆきわたっていくのです。  この方程式があるからこそ、広宣流布を願い、世界の平和を訴えて発する私達の音声が、一波が二波、三波、やがては万波となって日本中、世界中を動かしていくのです。勤行・唱題を基板にした私達の日々の生活、振る舞い、話す言葉、すべてが新時代建設への原動力になっていくともいえます。  末法の一切衆生救済のため、崇高な言々句々をはなたれた大聖人の音声こそ、大音声ではありますが、その仏弟子として、社会の中で信仰に励む私達の音声も、師弟不二の原理から、大音声となります。また、御書に記された一切の指針のままに実践し、実現していくことも大音声を発していくことになるのです。  したがって、隣人、知人に語りかける私達の言葉、振る舞いは、相手の生命をゆさぶり、ともども幸福への道、宿命転換への道を歩むようになるのは、絶対間違いないことなのです。  私達の力強い祈りのこもった音声は、必ずや一切衆生を揺り動かしていくでしょう。必ずや私達の訴える理念に、人びとは耳をそばだて、心を開き、賛同するようになるでしょう。私達こそが、民衆救済の大音声を発しているのだと確信し、同志ともども、魔軍の音声を打ち破って、粘り強い活動をやりぬこうではありませんか。〈単行本「きょうの発心百選」510〉


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