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御書研鑽

201mumeijinn:2010/01/21(木) 19:11:03
題名    :下山御消息
対告衆   :下山兵庫光基
執筆年次 :建冶3・6
聖寿    :56
西紀    :1277
著作地   身延
大意   法華経信仰の経緯を述べ、大聖人の仏法の正しさを客観的に論じている。

202mumeijinn:2010/01/22(金) 10:19:16
御書p344・⑤(p992・⑬)      我慢偏執の心
当世日本国は人毎に阿みだ経並びに弥陀の名号等を本として、法華経を忽諸し奉る。世間に智者と仰がるる人人、我も我も時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経を以て実教を失ふとがは、小善還って大悪となる、薬変じて毒となる、親族還って怨敵と成るが如し。難治の次第なり。

通解
当世の日本国は人ごとに阿弥陀経や弥陀の名号(南無阿弥陀仏)等を根本として法華経をないがしろにしている。世間で智者と尊敬されている人たちは、誰も彼も自分こそ時機に叶った法を知っていると思っているようだけれども、小善を以て大善を打ち、権教を以て実教を失うというその誤りは、小善がかえって大悪になり、薬が毒になり、親族がかえって怨敵になるようなものである。まことに救い難いところである。

拝読の手引き
仏法において、時と機根にかなった法を説くことがいかに至難であるかを明かされています。  大聖人当時、智者と目される人々が、なぜ、時機相応の教えを説いたのでしょうか。思うにそれは本文にも「我も我も時機を知れり」とあるように、“我も”という人間の生命に内在する我慢偏執の心と名聞名利を求める一念に元凶があったのではないでしょうか。仏法の本質を正確に見ることができなかったのだといえましょう。“我こそ知っている”という思いあがりによって、その結果、小善が大悪になり、薬が毒となり、親族が怨敵となるような混乱と不幸を招いたのです。  事情は現代にあっても、まったく変わりません。多くの識者と目される人々の中に、何人が、まったく“私”という心をすてて、民衆のことを考えているでしょうか。真に民衆のことを考え、民衆と一体になっている人は、物事の本質を的確につかみ、人々をしかるべき方向――幸福と平和――にリードしていくことができるのです。  現代においてそれを実践しつつあるのは、創価学会以外にありません。なぜなら、私達学会員の信奉する日蓮大聖人の三大秘法の仏法こそ、今日の時機に叶った仏法であるからです。  私達は御本尊を根本に、大聖人が「難治の次第なり」と述べられた当時の世相とあまり変わらない現代社会の変革をめざし、日夜の活動に邁進したいものです。(文庫本「きょうの発心」259)

203mumeijinn:2010/01/22(金) 19:03:16
題名    :本尊問答抄
対告衆   :浄顕房日仲
執筆年次 :弘安元・9
聖寿    :57
西紀    :1278
著作地   身延
大意   妙法五字の本尊の未曽有なることを述べられ、法華経の題目こそ末法弘通の本尊である。

204mumeijinn:2010/01/23(土) 10:25:50
御書p365・①(p1149・①)     題目を以て本尊とすべし
問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし
通解
質問していう、末法と云うすべてが濁り乱れた悪い時代に生きる凡夫は、いったい、何物を本尊と定めるべきであろうか。答えていう、法華経の題目(南無妙法蓮華経)をもって本尊とすべきである。

拝読の手引き
ここでは、問答形式によって、末法と言う悪世に生きるわれわれは、三大秘法の南無妙法蓮華経を、本尊と定めていくべきであると、明確に断言されています。  本尊とは、人生・生活の根本規範となるものであり、その人の生きる姿勢、価値観を決定づける原点ともいえるものです。したがって、どのような本尊を選びとるかということは、すべての人にとって、最も重要な問題であることはいうまでもありません。そして、最高最尊の本尊を人生の原点に定めることは、時代をこえて、人間らしい充実した生き方を求めるすべての人の、強い願望であるといえましょう。  末法の初めに出現された日蓮大聖人は、この全民衆の要請にこたえることのできる本尊を「南無妙法蓮華経の大御本尊」として確立されたのです。  そして、この大御本尊が最高最尊であり、すべての人が原点とすべき本尊であることを、さまざまな教説・哲理を自在に用いながら明らかにされたのです。そして、低劣な本尊をあがめることが、人生・社会を不幸にし混乱させる根本原因であることを、生涯、叫び続けられたのです。  建長御念(1253)四月二十八日の立宗宣言に始まる大聖人の想像をこえる激闘は、人々を、正しい本尊感にめざめさせようとする“本尊革命”ともいうべき、大慈悲の実践であられたといえるでしょう。そこに、民衆救済の最直道が示されていることを、私達は忘れてはならないと思います。  そして、その御書の精神を、日々の活動のうえに実践し、確信あふれる仏法の対話を繰り広げていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」396)

205mumeijinn:2010/01/23(土) 20:17:49
御書p366・⑤(p1150・⑤)     妙法の偉大さ
本尊とは勝れたるを用うべし

206mumeijinn:2010/01/24(日) 09:11:08
御書p366・⑨(p1150・⑤)       能生の法
法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。

通解
法華経は釈尊の父母であり、あらゆる仏の眼目である。釈尊も大日如来も、また全宇宙に存在するあらゆる仏も、この法華経から生まれたのである。それゆえ今、あらゆる仏を生みだす能生の法である法華経をもって(日蓮大聖人は)本尊とするのである。

拝読の手引き
妙法の一法こそ、過去・現在・未来の三世にわたる、あらゆる仏を生みだした、最も根源的な成仏の法であることを教えられた一節です。  信仰実践の対象として、どのような宗教にも、根本として尊敬すべき“本尊”があります。したがって、あらゆる宗教のもつ価値の高低浅深は、その宗教が信奉する本尊のいかんによって、決定されてくることは当然だといえます。今日、人間性を見失った文明の行方が心配されていますが、強く清浄で暖かな人間性の究極である”仏界の生命”を“本尊”とする私達の宗教ほどすぐれたものはありません。豊かな最高人格である“仏”の生命に合掌冥合するとき、私達の生命にも、そのすばらしい仏界があらわれ、暗く濁った宿命の流れも転換されていくのです。  この御文には、妙法のあらゆる仏を生みだした根源の法であることが明かされていますが、いついかなる時、いかなる場所においても、いかなる人をも成仏させる根源の南無妙法蓮華経を信受できた私達の福運は、仏の智慧をもっても考えることができないくらい大きいのです。  三大秘法の御本尊は、あらゆる仏の生みの親であり、私達の浅薄な知識や思索では、はかり知ることのできない宇宙の不可思議な生命のリズムを御本尊として具現化されたものです。私達は、あくまで純真にして謙虚な信心の実践によってのみ、初めて成仏の境涯を開いていけることを、常に心していきたいものです。  こと信心の姿勢においては、権威や知識にとらわれた慢心の人よりも、純真な信心に励む人の方が、絶対に幸福者であることを確信すべきです。(文庫本「きょうの発心」382)

207mumeijinn:2010/01/25(月) 05:38:04
御書p373・⑧(P1157・⑧)        罰
日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人と説けりと申すなり

208mumeijinn:2010/01/30(土) 10:19:57
御書p374・③(p1158・③)      自他の幸福を願う祈り
願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがためにご不信を書きおくりまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ。

通解
願わくば、この(妙法弘通の)功徳をもって父母と師匠と一切衆生とに回向してあげたいと祈るものです。その趣旨をお知らせしようと思って、疑問に思われることについて、書き送って差し上げたのです。ですから〈真言や念仏などの〉他事をすてて、この御本尊の前で、ただ一心に後の世のことまでも祈りきっていきなさい。

拝読の手引き
日蓮大聖人は、末法の一切衆生のために、ご自身の功徳、福運を分かち与えていくことを、その願いとされていることを明かされ、この御本尊を絶対と信じて、現在から未来にわたる幸福を祈りきっていくことが大切であることを強調された一節です。  いつの時代にあっても、人びとが願い求めるものは、幸福を満喫しうる有意義な人生の確立にあることは、いうまでもありません。だが、とかくその幸福の実態は、他人を考えないものであったり、長続きのしないものであったりしがちです。  しかし、私達の信受する御本尊は、現在の人生における幸福を確立するのみならず、未来世の人生をも幸福に導き、より深く生命自体を変革していく根本法なのです。また、自己の幸福の確立のみならず、他人の幸福を願って、時代・社会をも平和と繁栄に導く大功徳が備わっています。  真の人間性を追求しゆく私達にあっては、ただ単に自分一個の幸福のみに満足するような利己主義の姿勢は、戒めていきたいものです。父母や師匠を始め、一切衆生に御自身の戦われた功徳を回向しようと願われ、不幸の元凶に向けて、ただ一人挑戦された大聖人の大慈悲のお振る舞いをしのぶとき、そこにこそ至高の人間としてのお姿を拝することができます。  人間革命を目指す私達は、この大聖人の御境涯に学び、謙虚な求道者の姿勢を持続しきって、自他の幸福を祈り実践するまことの弟子となっていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」414)

209mumeijinn:2010/01/30(土) 18:37:24
題名    :諸宗問答抄
対告衆   :
執筆年次 :建長7
聖寿    :34
西紀    :1255
著作地   
大意   天台・禅・華厳・法相・三論・倶舎・成実・律・真言・念仏等の諸宗の者と法論をする時の要点を教えたもの、各宗の教義を簡潔に述べ、批判している。

210mumeijinn:2010/01/31(日) 10:06:43
題名    :一生成仏抄
対告衆   :富木常忍
執筆年次 :建長7
聖寿    :34
西紀    :1255
著作地   
大意   只題目ばかり唱えることが一生成仏を決定すると教えられている。

211mumeijin:2010/01/31(日) 19:10:48
御書p383・①(p21・①)           唱題の意義
夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱えたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり

通解
無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を自身の中に見ていくべきである。 衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていることになるのである。

池田先生の指導
これが信心の目的です。「無始の生死」――生命は永遠である。宇宙が存在していたときから、私どもの生命はある。始めがあって終わりがあるというような生命ではない。無始無終、どこまでいっても、われわれの生命は永遠なのです、宇宙も長遠なのです。  その永遠の生命のなかにあって、「生死を留めて」、すなわち不幸、苦悩、苦しみというものをとどめて、「此の度決定して無上菩提を証せんと思はば」、すなわちここで一念発起して成仏を遂げたいと思うならば、「すべからく衆生本有の妙理を観ずべし」――自分の生命のなかに仏界が存在する、自分自身が妙法蓮華経の当体であることを知らなくてはならない。それを覚知するということは、御本尊に題目を上げる以外に道はないのです。  「衆生本有の妙理」とは、われわれの生命に本来そなわっている妙理のことで、それは何かといえば、「妙法蓮華経是なり」と。それは南無妙法蓮華経のことである。妙法蓮華経と唱えれば、「衆生本有の妙理」を観じたことになるのです。  その南無妙法蓮華経という偉大なる法を御図顕あそばされたのが日蓮大聖人であり、すなわち御本尊なのです。御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることによって、「衆生本有の妙理」を観ずることができるのです。すなわち、自分自身が妙法蓮華経の大宇宙のリズムに合致した、妙法蓮華経の当体であるということを観ずることができる、覚知することができるというのです。(新版池田会長全集p420)

212mumeijin:2010/02/01(月) 09:43:33
御書p383・③(p21・③)    すべてを包み、すべてに内在する妙理
文理真正の経王なれば文字即実相なり唯所詮一身法界の旨を説き顕わすを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、

通解
法華経は、文も法理も真実で正しい経であるので、経文の文字はそのまま実相であり、実相はすなわち妙法である。

池田先生の指導
「文理真正の経王なれば」  「文理」とは、南無妙法蓮華経という文と、文によってあらわされいる法理のことで、それが真実の法であり、一切経の王である。すなわち、御本尊は、仏さまの悟りをそのままあらわされた究極の経であり、八万宝蔵の大将であり、一切の経々の王さまです。  八万法蔵を要約すれば、三大秘法に帰着するし、三大秘法をせんじつめれば、帰趨するところは一大秘法の御本尊です。ゆえに経王です。  したがって、「文字即実相なり」――御本尊のお文字は、即実相である。仏さまのお姿である。御命であり、観念的なものではない。「実相即妙法なり」、御本尊には妙の働きがある。不可思議なる働きがある。信ずれば功徳があり、誹謗すれば大罰を受けるというその力がある。  「唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く」「一心法界の旨」ということは、衆生の一心〈生命〉に法界(現象世界)のすべてが収まり、またこの一心が全宇宙に拡がっていくとの原理です。これを天台は一念三千の法理として示しました。一切の経の究極は、一念三千の法門になるのです。それを説き明かしたのを妙法というのです。  ゆえに、「此の経を諸仏の智慧とは云うなり」と。  その南無妙法蓮華経、即一念三千の仏法によって、三千の諸仏は仏になることができた。したがって、成仏できる本源の知恵は、南無妙法蓮華経である、御本尊なのであるというのです。(新版池田会長全集p421)

213mumeijin:2010/02/01(月) 21:11:03
御書p383・③(p21・③)     一心法界
唯所詮一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非常草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に偏満するを指して万法とは云うなり、この理を覚知するを一心法界とも云うなるべし

通解
 結局、一心法界の法理を説き顕わしている教えを妙法と名づけるのであり、ゆえにこの法華経を諸仏の智慧というのである。 一心法界の法理についていえば、十界・三千における依報も正法も、色法も心法も、非常の草木も、また大空も国土も、どれ一つとして除かず、微塵も残さず、すべてを自分の一念の心に収め入れ、また、この一念の心が宇宙のすみずみにまで行きわたっていく。そういうさまを万法と言うのである。この法理を覚知することを一心法界ともいうのである。

池田先生の指導
「一心法界の旨」について、ここでさらに説かれています。  「十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いずれも除かず」  全宇宙のありとあらゆる生命存在と現証世界のすべてをさしているのです。  「十界三千の依正色心」――十界は、地獄から仏界までの十の境界をいい、瞬間瞬間にあらわれる生命の境地をあらわしたものです。  私自身一個の生命体とすれば、私のこの宿命、たとえていうならば、病気で苦しんでいる宿命であるならば、これは地獄界です。その地獄界でありながら、ご飯を食べた、いい手紙が来た、いい音楽が聞こえたと喜びを感じる、天上界です。地獄界即の天上界です。十界に具足の十界がまたあるのです。  宇宙全体からみた十界ならば、自分自身は人間界です。この人間界のなかに、喜びや悲しみや楽しみがありますから、やはり十界の働きがそなわっている。  十界に各々十界があるので百界、そのそれぞれに十如是をそなえているので千如、さらに国土世間、五陰世間、衆生世間の三世間を具して三千世間となります。  「依正」とは、正報は我が身、依報は環境世界です。「色心」の色は肉体、心は精神です。「虚空」は大空、「刹土」は小さい土地。  「いずれも除かず・ちりも残らず一念に収めて」   一切の宇宙の全存在と現象が衆生の一心におさまる、含まれるということを、一心法界というのです。  「一念の心・法界に偏満するを指して万法とは云うなり」   また、これは逆にいったわけです。一念というものは、したがって、全宇宙に通ずるということなのです。  「此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし」   具体的にいえば、御本尊を拝むことによって、題目を唱えきっていくことによって、如来秘密神通之力の力をおだしくださることができるのです。大宇宙のリズムは、きちんとわが生命の幸福に及ぼす作用になっているのです。(新版池田会長全集p422)

214mumeijin:2010/02/02(火) 06:10:10
御書p383・⑥(p21・⑥)      ”汝自身を知れ”
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経に非ず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教えならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、

通解
正し妙法蓮華経と唱え持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、麤法(不完全な法)である。 麤法は、法華経ではない、法華経でなければ方便の教えであり、仮の教えである。方便であり、仮の教えであるならば、成仏へ直ちに至る道ではない。成仏へ直ちに至る道でなければ、何度も繰り返し生まれて重ねる長遠な修行を経て成仏できるわけでもないので、一生成仏はついに叶うことはない。 

池田先生の指導
「妙法蓮華経と唱へ持つというとも若し己身の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」  御本尊を持ち、題目を唱えているとしても、わが身が妙法の当体であると信じられないならば、成仏できない。他に幸せになる道はないか、幸せにしてくれる人はいないかと、環境や他人を頼っていく生き方が、「己心の外に法あり」と思うすがたです。  それでは「妙法にあらず」です。麤法というのです。「麤法」とは、妙法に対して劣った法とか、粗雑な法をいいます。御本尊を持っていない邪宗教は、法を盗んで、南無妙法蓮華経を唱えているけれども、それは麤法である。  「麤法は今経にあらず」――麤法であれば、それは法華経ではない。「今経にあらざれば方便なり権門なり」――法華経でなければ、方便経であり権教です。「成仏の直道」になるわけはありません。いつまで修行しても、絶対に成仏することはできないと断定していらっしゃるのです。   三大秘法の御本尊を離れたならば、ぜんぶ麤法になり、権教になり、外道になり「多生曠劫の修行」、すなわちどんなに長いあいだ修行しても、永久に仏になることはできない。いわんや、一生成仏はできるわけはないのです。(新版池田会長全集p424)

215mumeijin:2010/02/02(火) 19:11:50
御書p382・⑧(p21・⑧)      妙法の当体
故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと信心を発すべきなり

通解
 ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだと、と深く信心を起こすべきである。

池田先生の指導
「妙法と唱へ蓮華と読まん時」、すなわち御本尊にお題目を唱えるときは、自分の一念、生命を南無妙法蓮華経と名づけられたのであると信じていきなさい。と。題目を唱えた結果は、生活のうえに、はっきり事実としてあらわれるのです。信心即生活で、南無妙法蓮華経は、即いっさいの生活活動の源泉なのです。  自分自身が妙法蓮華経の当体になるのだ、その働きを湧現するのだという深い深い信心をもって、御本尊に題目を上げきりなさい、というお言葉です。(新版池田会長全集p425)

216mumeijin:2010/02/04(木) 18:11:08
御書p383・⑩(p21・⑩)      功徳善根は一念の所作
都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、然れば仏教を習ふといへども心性を観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し、

通解
釈尊が一代の間に説いた八万聖教や、三世十方の仏や菩薩たちも、すべて自身の心の外にあるとは、決して思ってはならない。したがって、仏教を習うといっても、自身の心性を見ていかなければ、まったく生死の苦悩を離れることはないのである。 もし、心の外に成仏への道を求めて、万行万善を実践したとしても、それは、譬えば貧しい人が、昼夜、隣人の財を数えても、一銭の得にもならないようなものである。 

池田先生の指導
「一代八万の聖教」――釈尊一代で説かれた膨大な経教といえども、また三世十方の諸仏、菩薩といっても、ぜんぶわが心の外にあると思ってはならない。  地獄というも、極楽というも、仏というも、修羅というも、すべてわが一念にあるのだというのです。つまり、不幸になる原因も、幸福になる因も、自分のなかにあると、とらえることが大切です。  どんなに仏法を学し、有名な宗教家や学者になったとしても、「心性を観ぜざれば」ということは、御本尊に題目をあげて、わが仏界を湧現していかなければ、自分自身が妙法蓮華経の当体なりと信じて実践しなければ、「全く生死を離るる事なきなり」、苦しみを離れることは絶対にできない、とのおおせです。  大聖人が衆生のために御本尊を御建立くだされたということは、どれほどありがたいことか、御本尊にめぐりあい、題目を唱えられることが、どれほどの福運であるか、いまさらながら感謝にたえないではありませんか。   「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは」   心外に道を求めてあらゆる仏道修行をしようとも、どんなに慈善事業をしようとも、御本尊を離れた修行であるがゆえに、なにも利益はないのであります。  「譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」  なんの得にもならない、くたびれ損だということのたとえです。(新版池田会長全集10p426)

217mumeijin:2010/02/05(金) 06:01:48
御書p383・⑫(p21・⑫)      仏法を学んで外道になる
然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり 、

通解
そうであるから、妙楽が天台の教えを説明したなかに、「もし心を見なければ重罪を滅することはできない」と述べ、もし心を見なければ、無量の苦しみの修行になると断じているのである。ゆえに、このような人を「仏法を学んでいながら外道となる」と厳しく批判されているのである。 すなわち、天台の『摩訶止観』には、「仏教を学んでいながら、かえって外道と同じ考え方に陥っている」と述べている。

池田先生の指導
天台大師もこのようにいっているではないか、「若し心を観ぜざれば、重罪を滅することはできない。御本尊を信じて題目を上げなければ、絶対に罪は消えない。また、御本尊を信心しなければ、どんな仏道修行をしても、ただ無量の苦行となる罪業を積むだけだ。業因をつくるだけだ」――と。  皆さん方は信心できたからよかったのです。世の中には、立派そうな人もいるし、非常に福運のありそうな人もいるし、幸せそうな人もいるかもしれませんが、一生涯という長い間の人生をみ、また永遠の生命からみた場合には、かわいそうな姿になっていくのです。  反対に御本尊を持った人は、これから幸福へ、それから生命力を横溢して、福徳を積み勃興していけるのです。  したがって、「かくの如き人をば」――御本尊を知らない、創価学会以外の宗教、人々です。いくら仏法を勉強しているような姿を見せても、ぜんぶそういうような輩は外道である。  それで摩訶止観には、「雖学仏教・還同外見」、すなわち「仏教を学すといえども、かえって外見と同ず」、外道と同じであると釈しておられるのです。   さらにいえば、御本尊を持っていても、信じて実践できない人は、やはり外道と同じになってしまうのです。(新版池田会長全集10p427)

218mumeijin:2010/02/05(金) 23:11:56
御書p383・⑭(p21・⑭)      一生成仏の信心とは
然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり

通解
したがって、仏の名を唱え、経巻を読み、華を供え、香をたくことまでも、すべて自分自身の一念に功徳・善根として納まっていくのだ、と信心を起こしていきなさい

池田先生の指導
ゆえに御本尊にお題目を唱え、方便品、寿量品を読誦し、またしきみやお線香をお供えするということも、ぜんぶわが一念に功徳、善根として納まるのであると信じていくのです。  講義を聞くのも、座談会に行くのも、指導しに行くのも、御供養することも、一切法は是れ仏法ですから、わが身が一念三千の当体になるわけですから、御本尊のためになすいっさいの行動が、感謝にあふれ、真心を込めたものであるならば、すべて自分自身の功徳、善根になるというのです。どんなささやかな努力であっても、すべて我が身の福運となってかえってくるのです。  これがすこし、その一念がくるい、その一念が、信心から、この「一生成仏」の原理からはずれた場合には、とても苦しくなるのです。すぐにもんくやわがままをいいたくなるのです。その一念が、功徳をぜんぶ消してしまうのです。(新版池田会長全集10p428)

219mumeijin:2010/02/06(土) 09:06:57
御書p383・⑮(p21・⑮)     万人に開かれた生命変革の道
之に依って浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり

通解
このこと(仏法の一切がわが己心にあるととらえていくべきこと)から浄名経の中では、「諸仏の悟りは衆生の心の働きに求めるべきである。衆生を離れて菩提はなく、生死の苦しみを離れて涅槃はない」と明かしている。

池田先生の指導
「解脱」とは悟りです。あらゆる仏の得た悟りの境地、諸仏が悟ったその知恵が、じつはそのまま「衆生の心行」にあるということです。衆生とはわれわれ凡夫です。  そのことを、「衆生即菩提」――九界の衆生が凡夫の身そのままで成仏する、迷いの生活が悟りへと開ける、また「生死即涅槃」――苦しみの生命が幸福に輝く生命に転換する、と明かしているのです。われわれ凡夫が御本尊に題目を上げれば、すなわち、それが悟りであり、解脱なのです。(新版池田会長全集10p429)

220mumeijin:2010/02/06(土) 20:51:01
御書p384・①(p22・①)        穢土即浄土
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、

通解
(浄妙経【じょうみょうきょう】に)衆生の心が汚(けが)れれば、住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清いとあるように、浄土(じょうど)といい穢土(えど)といっても、土に二つの隔(へだ)てがあるわけではない。ただわれらの心の善悪によるのである。

池田先生の指導
われわれ凡夫の心が寂しければ、その土も寂しく感ずるのです。われわれの心が楽しければ、その土も同じように楽しく感ずる。浄土というも、穢土というも、ぜんぶ、わが一念一心によって決定される。その反映であるというのです。すなわち「土」には二つの違いはないのです。   「只我らが心の善悪に見えたり」  自分の住んでいるところを楽しくするもしないも、それはわが一念によって決定されるのです。 広くいえば、全世界を地獄界にするか、修羅界にするか、仏界にするか、天上界にするかは、そこに住む人々によって決定されるのです。  ですから、御本尊を持つわれわれの一念で、どんなところをも楽しい国土にしていく、そういう環境をつくっていくのが、私どもの役目なのです。座談会に行っても、我が家へ帰っても、会社へ行っても、わが一念で、喜びにあふれた楽しい世界に変えていけるのです。(新版池田会長全集10p430)

221taka:2010/02/07(日) 09:27:27
御書p384・②(p22・②)      生命の変革と国土の変革
衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり

通解
衆生といっても仏といっても、またこれと同じである。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。

池田先生の指導
「衆生(凡夫)」といっても、「仏」といっても、なんのへだてもないのです。同じ当体なのです。同じ人間なのです。したがって、「迷う時は衆生」であり、「悟る時は仏」でもある。  同じ凡夫の当体でありながら、御本尊に題目をしみじみとあげて、わがこの生命こそ妙法と覚って、たくましい生命力と清らかな知恵をもって、人々を救ってあげたい、この法を教えてあげたい、という境涯の場合は「仏」です。  反対に信心を一生懸命やらないで、商売も苦しい、家庭も暗いといつも愚痴をこぼしている場合には「衆生」なのです。迷いなのです。  御本尊を拝んで、御本尊に照らされて、九界の現実の世界にあって悠々と闊歩していく、人生をたくましく切り拓いていく、それが私ども信心をしているものの姿なのです。安心立命です。  悩みや苦しみがあっても、それに引きずられない。悠々とそれを見おろして乗り切っていける。それで、人々を慈悲をもって、御本尊へ、御本尊へとみちびききっていく心が充満している。これがもう地涌の菩薩の生命なのです。(新版池田会長全集10p431)

222mumeijin:2010/02/10(水) 16:59:11
御書p384・③(p22・③)      月々日々に革新
譬(たと)えば闇鏡(あんきょう)も磨(みが)きぬれば玉と見ゆるが如し、只今(ただいま)も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、

通解
例えば、闇鏡も磨けば玉と見えるようなものである。ただ今も一念無明の迷信は磨かない鏡である。これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。

池田先生の指導
「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し」  くもった鏡も磨けば、玉のようによくうつる。  「一念無明の迷信は磨かざる鏡なり」  したがって、私どもの「一念無明の迷信」は、生命自体にそなわった根本の迷いであるがゆえに、不幸なのです。  これを磨くならば、必ず「法性真如の明鏡」と変わるのです。「法性」とは妙法蓮華経、「真如」とは真理のことで、結局、妙法蓮華経という意味です。「法性真如の明鏡と成る」とは、仏の生命、仏界の境地が湧現するということです。正しいものの見方ができ、豊かな知恵がわいてくるのです。  また染浄の二法でいえば、一念無明の迷信が「染」です。九界です。それから法性真如の明鏡が「浄」で、清らかということです。仏界です。  一念無明の迷信は、魔の働きになってくるのです。法性真如の明鏡は仏の働きです。信心は魔と仏との闘争です。ですから題目をあげないで、御本尊を忘れては、その魔に負けてしまうというのは、ここにあるのです。(新版池田会長全集10p432)

223mumeijin:2010/02/11(木) 06:14:13
御書p384・④(p22・④)       持続
深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり

通解
深く信心をおこして日夜朝暮に、また怠ることなく磨くべきである。どのようにして磨くべきか、それはただ南無妙法蓮華経と唱えるのをこれを磨くというのである。

池田先生の指導
この御書の初めに「無上菩提を証せんと思はば」とありますが、無上菩提を証せんと思うならば、このようにして深く信心をしなさい、と結論されているのです。  無上菩提ということは、それ以上の悟りがないという意味なのです。無上に対して爾前経の悟りは有上なのです。  南無妙法蓮華経によって悟った悟りが、無上菩提なのです。最高の悟りになるのです。それを悟らんとするならば、「深く信心」をして、そして「日夜朝暮に又懈らず磨くべし」、今の皆さんの姿です。朝晩の勤行を怠らず邁進していることは、日蓮大聖人のおおせどうりに仏道修行している人です。  朝晩の勤行は、「日夜朝暮」とおしたためですから、朝だけでもいけないのです。晩だけでもいけないのです。地道な実践の積み重ねこそ、大切であります。  「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是を磨くとは云うなり」  御本尊に、南無妙法蓮華経と唱え、唱えきって、わが生命を磨いていくのであります。(新版池田会長全集10p433)

224mumeijin:2010/02/11(木) 23:14:23
御書p384・⑥(p22・⑥)        妙とは超合理の世界
抑妙とは何と云う心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり,然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無に偏して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり

通解
そもそも「妙」とは、どのような意味であろうか。それはただ、自身の一念の心が不思議であることを「妙」というのである。不思議とは、私達の心の働きも及ばず、また、言葉でも表せないということである。すなわち、瞬間瞬間起こっている自身の一念の心を探求してみると、それを有ると言おうとすれば色も形もない。また、無いと言おうとすれば様々に心が起こってくる。有ると考えるべきでもない。無いと考えるべきでもない。有と無の二つの言葉では表せず、有と無という二つの考えでも理解できない。有と無のどちらでもなく、しかも、有か無かのいずれかの姿をとるという、中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、不思議であるそのあり方を「妙」と名づけるのである。

池田先生の指導
これはこのとおりです。「妙」とはどういう心か、ただ一念の心が不思議な作用をする、これを妙というのである。したがって、妙法は不可思議、思義することのできないということです。言葉でもいいあらわすことができない、文字でもいいあらわすことができない、それを、「不思議」といい、「妙」というのであります。  「一念の心」は妙です。十界三千の働きは、縁にふれて刻々と変わっているのです。  ここは、恩師戸田先生が牢獄の中で無量義経を読んでいたそのなかで、いきあたったところなのです。ちょうど、その三角でもない、四角でもない、まるくもない、青でもない黄でも赤でもない、縦でもない、横でもない、長さでもない、距離でもない、という経文にぶつかったのです。なんのことだろう。それが仏性、心性、すなわち、生命そのものである。一念一心という表現だったそうです。それが、われわれの一念一心の作用なのです。  切ってみても出てきはしない。有るとかいえば無いし、無いかといえば、きちんと精神作用、活動がある。妙であります。  有無ということばでとらえられないというのです。有でもない、無でもない。しかも有か無のどちらかをもってあらわれる中道一実の不思議な当体を妙というとのおおせです。(新版池田会長全集10p434)

225mumeijin:2010/02/12(金) 09:52:09
御書p(p22・⑨)             「妙心」の連続が「妙経」
此の妙なる心を名けて法とも云うなり、この法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり

通解
この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。この法門の不思議を譬喩で表すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道というのである。

池田先生の指導
「此の妙なる心を名けて法とも云うなり」 妙法です。妙とは法性、法とは無明と説いてある御書もありますが、いろいろな心の働き、現象があるのですから、法になります。  御本尊は妙法の当体です。その妙法の当体に私どもが妙法蓮華経と唱える南無妙法蓮華経と唱えると、自然に病気が治る、生命力が湧く、功徳が出てくる。これが現証です。不思議といわざるをえないが、事実は事実です。  したがって、「此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名づく」 これが譬喩蓮華です。妙法をあらわすものとして蓮華と名づけるのだというのです。  「一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり」  心には善心、悪心、それから善心でも悪心でもない場合は、無記となぞらえておりますが、一切が妙法蓮華経なのだという意味なのです。  また、苦しい、楽しい、つらい、悲しい、その人に応じて、おのおの刻々とその作用があります。それらすべて妙法蓮華経なのです。苦しい、だからといって、南無妙法蓮華経を唱えるしかない。唱える当体が御本尊です。つらい、どうしたらいいか、南無妙法蓮華経を唱える。唱える当体は何か、対境は何か。それは御本尊です。結局はそういうことになるし、それが大事なのです。  悲しい、といっても題目を唱える以外にない。さびしい、といっても題目を唱える以外にない、悩むといっても題目を唱える以外にありません。したがって、ぜんぶ仏になれる。結果はみな幸せになれる。これが妙境です。(新版池田会長全集10p435)

226mumeijin:2010/02/12(金) 20:53:05
御書p384・⑪(p22・⑪)       成仏は決定して疑いなし
然ればすなわち善悪に付いて起り起こる処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり、此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏さらに疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て、応にこの経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑いある事無けん」とのべたり、努努不審なすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。

通解
したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道というのである。この趣旨(妙法蓮華経が己身の法であるとの趣旨)を深く信じて妙法蓮華経と唱えれば、一生成仏はまったく疑いないのである。ゆえに、経文には「私が入滅(死ぬこと)した後の未来の世において、まさに、この法華経(現在では御本尊)を受持しなさい。この人は成仏することは絶対に疑いがない」と述べています。ゆめゆめ、不審をなしてはなりません。あなかしこ、あなかしこ。  一生成仏の信心、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

池田先生の指導
善心であり悪心であり、いずれにしても念々起こるところの心、その心自体が、こんどは南無妙法蓮華経と誓って、この題目を唱えればぜんぶ成仏できる。どんな悪心であろうが、男性であろうが、女性であろうが、愚かな人であろうが、高貴な人であろうが、ただ御本尊に題目をあげればいいのだ、仏になるのだ、というのです。  その一念の本体から悪心もでるし、それから善心もでるし、悩みもでるし、苦しみもでてくるのですから、なんでもその一心一念に、題目を、御本尊に向かって唱えさせればいいのです。本当に簡単であり、ありがたい法門です。  「経文には」というのは神力品です。神力品には「我が滅度の後に於て」――釈尊滅度の後においてというのです。滅度には、三種類あります。滅度正法、滅度像法、滅度末法です。この「滅度」は末法と読んでいいのです。  「応に斯の経を受持すべし」――「斯の経」とは、末法の経、すなわち南無妙法蓮華経です。その三大秘法の南無妙法蓮華経を受持した「是の人」とは、名字即の凡夫です。  「仏道に於て」――仏道とは仏道修行です。その仏道修行において仏になることは「決定して疑有る事無けん」――疑う必要は絶対にないというのです。  さらに「努努不審をなすべからず」と念をおされていらっしゃいます。  「一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」  釈尊の仏法は妙法蓮華経序品第一、妙法蓮華経譬喩品第三、妙法蓮華経如来寿量品第十六というふうに、説明なのです。  日蓮大聖人の仏法は、南無妙法蓮華経です。すなわち南無妙法蓮華経を唱え、それ自体の生命活動が生活の上に功徳としてあらわれる。実際なのです、実践なのです。即生活に通ずるのです。  釈尊の仏法は妙法蓮華経、序品第一、方便品第二というふうに説明書きなのです。文底から拝すれば、御本尊の説明なのです。また御本尊を中心にした功徳論と罰論、これが法華経二十八品といってもいいでしょう。  それに対して、日蓮大聖人の仏法は南無妙法蓮華経の仏法であり、すなわち歴劫修行せず、この世で、このままの凡夫の姿で、成仏の境界の生活ができる、との意味なのです。(新版池田会長全集10p437)

227mumeijin:2010/02/13(土) 10:49:07
題名    :主師親御書
対告衆   :御両親
執筆年次 :建長7
聖寿    :34
西紀    :1255
著作地   
大意 法華経による悪人成仏・女人成仏の功徳を述べている。

228mumeijin:2010/02/13(土) 18:14:12
御書p386・⑯(p24・⑯)         難
世間の人々我も持ちたり我も読み奉り行じ候に敵なきは仏の虚言か

通解
法華経を持ち実践しているといっても、実際に敵が出現していないのであれば、仏の言葉は虚妄になってしまう」

池田先生の指導
古来、法華経を読んだ人は多かった。
しかし、、大聖人ほど、法華経に説かれている通りに、大難を受けられた方はおりません。
仏法を語れば必ず難にあう。悪世の中で、真実を語り抜くほどの難事はありません。(2009・11・8御書と師弟)

229mumeijin:2010/02/14(日) 10:22:19
御書p388・⑤(p26・⑤)      唱題で生命の濁りを清浄に
男此の経を信じまひらせて聴聞するならば、提婆達多程の悪人だにも仏になる、まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪を過ぎず、まして深く持ち奉る人仏にならざるべきや。

通解
男子がこの法華経を信じて説法を聴聞するならば、提婆達多ほどの悪人でも成仏するのである。まして末代の人はたとえ重罪であるといっても大多数の人は十悪を越えていない。まして深くこの経を持っている人が成仏しないわけがあろうか。

拝読の手引き
釈迦に敵対し、悪逆のかぎりをつくした提婆達多さえも法華経によって成仏したことを通して、いかに悪業が強い人であっても必ず妙法によって人間革命できることを述べられた一節です。  確かに、末法の衆生というのは三毒が強盛です。多くの誤れる宗教が、人々に謗法の罪を重ねさせ、不幸、堕地獄の因をつくらせたのです。そのように悪業の強い人でも救える功力を備えたのが、大聖人の仏法なのです。  ところで、現代に生きて少しでも真面目に自己と対決する人であれば、自己の生命の濁り、醜さにイヤ気がさす場合があるのではないでしょうか。社会の濁流に巻き込まれていつのまにか、本来の自己の清浄なありかたを忘れてしまっている、といった反省を、心ある多くの現代人がしているのではないでしょうか。人間の心ほど恐ろしいものはないともいわれますが、宿業の重さ、福徳の微弱さ、生命の濁りに、がくぜんとする……そのように、生命のうちにひそむ悪を鋭く見つめることは大切ですが、それで未来への明るい前進を失ってはおろかです。  提婆達多でさえ成仏できたのです。汚泥の中に蓮華が美しい大きい花を咲かせるように、善悪一如で、見事に清浄な人間革命の花を咲かせることができるのが、妙法の力なのです。正中の正、清浄の中の清浄である御本尊にめぐりあえた私達です。必ず清浄な生命の当体にと自己変革できる福運の持ち主であることを強く確信したいと思います。  ただ、題目の力が弱くなってくると、人間の生命の“悪”が噴出し生活が曲がってきます。心すべきは、信力・行力の持続であり、そのたえまなき伸長です。(文庫本「きょうの発心」398)

230mumeijin:2010/02/14(日) 18:34:24
題名    :一代聖教大意
対告衆   :
執筆年次 :正嘉2・2・14
聖寿    :37
西紀    :1258
著作地   
大意釈迦の一代聖経を四経、五時に配して聖経の大意を明かし、法華経の正意を説いている。

231mumeijin:2010/02/15(月) 05:42:29
題名    :一念三千理事
対告衆   :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿    :37
西紀    :1258
著作地   
大意:十二因縁、一念三千理事、三身釈の三部から成る。

232mumeijin:2010/02/15(月) 18:58:31
題名    :十如是事
対告衆   :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿    :37
西紀    :1258
著作地   
大意:我が身が三身即一身の当体であると覚知することが即身成仏である。

233mumeijin:2010/02/16(火) 09:17:20
御書p411・②(p49・②)     未来の結実を確信
譬えば春夏田を作りうへつれば、秋冬は蔵に収めてこころのままに用うるが如し。春より秋をまつほどは久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚に入って仏を顕はす程は久しき様なれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。

通解
(わが身が仏であると悟れば、一生のうちに成仏できることは)たとえば春や夏に、田を作りタネを植えれば、秋や冬には実となり蔵に収めて、思いのままに用いることができると同じようなものである。春より秋を待つ間は長いようだけれども、一年のうちに待ち得るように、この覚りに入って、成仏の実証を顕わすまでは長いようだけれども、一生のうちに必ず顕わすことができるのであり、わが身が三身即一身の仏となるのである。

拝読の手引き
春や夏にまいたタネが、やがて花を咲かせ、秋や冬には実を結び収蔵できるのは、自然のことわりです。  と同じように、私達が三大秘法の御本尊をたもったということは、まさに生命の奥底に、幸福の種子を植えつけたことになるのです。そして、わが身が南無妙法蓮華経の当体であることを信じ、学会という豊かな大地にしっかりと根を張って、真面目に信行学の実践に励んでいくならば、生涯において、必ず絶対に崩れない幸福境涯を顕現し、所願満足の人生が開けることは間違いないのです。  しかし、草木が成長していくには、風雨や、日照り等々、厳しい自然の条件下におかれることがたびたびあります。大地に深く根を張り、試練に耐え抜いたものだけが、やがて見事に結実していくのです。  私達の人生航路、仏道修行の道程においても、同様に幾多の苦難が待ちうけていることでしょう。人生が建設途上の上り坂であればあるほど、悩みや苦難は大きいかもしれません。  だが、辛い時、苦しい時に、真剣に唱題し、豊かな生命力と英知を湧現させて、悩みや苦難に挑戦してこそ、真に人間革命できることを瞬時も忘れてはなりません。そうした自己自身の戦う生命の姿勢のなかに福運が刻まれ、さまざまな特質が開花していくのです。その実践のなかに、将来の幸福も、未来の繁栄も明らかに内包されていることを確信すべきです。(文庫本「きょうの発心」202)

234mumeijin:2010/02/16(火) 18:04:52
題名    :一念三千法門
対告衆   :
執筆年次 :正嘉2・
聖寿    :37
西紀    :1258
著作地   
大意:法華経が余興に勝るのは法華経に一心三観・一念三千があるからである。

235mumeijin:2010/02/17(水) 05:50:00
御書p415・⑬(p53・⑬)      功徳
此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり

通解
この娑婆世界は耳根得道の国である。以前に述べたように「当に知るべし身土一念の三千である」とある。一切衆生の身に百界・千如是・三千世間を納める理由を明かすゆえに、妙法蓮華経を耳に触れる一切衆生は功徳を得る衆生である。

拝読の手引き
娑婆世界は、耳で妙法を聞くことによって成仏得道できる国土であることを述べられている。「耳根」とは六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)の一つで、聴覚器官や聴覚能力をいう。「根」は力があり、強い作用をもつものの意である。法華玄義巻六下二「此の土は耳根利なるが故に、偏に声塵を用う」(大正三十三巻p755)とある。「声塵」とは耳根の対象となる対境をいう。  「耳根」が鋭いということについては、さまざまな例証がある。例えば人間の五感の中で、耳は誕生以前から死に至るまで機能しているとされる。胎内にいる子供はほぼ六カ月で、聞く器官と神経ができあがり、また臨終の時でも、周囲の音が聞こえている場合が多いといわれる。ただ聞こえていることを周囲に知らせる力がないだけのことだという。  しかも、声や音は、いわば直接、生命の深みに響き、影響を与えていく。その意味で「耳」は世界と宇宙に開かれた”生命の窓”ということができよう。したがって、至高の音声である妙法の題目を唱え、響かせていくことがいかに尊貴なことであるかを知ることができるのである。  古来から「耳根」が重要視されてきた一例を挙げれば、「聖人」の「聖」の字も、意味の中心は「耳」にある。「天の声を聞き分ける」のが、その本義である。また「聡明」の「聡」という字も、耳が中心である。「耳が良く通じている」、つまり“聞き上手”というのが原義である。即ち、宇宙の森羅万象の「声」をよく聴く力と徳を「聡」といい、その人を「聖」というわけである。  ちなみに、「娑婆世界は耳根得道」であるが、娑婆世界以外の他の国土(天体)はどうなのかというと、必ずしも耳根得道ではないとされる。  「以前に申す如く当知身土と云々」は、先に挙げられた妙楽大師の止観輔行伝弘決巻五の「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時、此の本理に称うて一心一念法界に偏し」(大正四十六巻p295)の文のことで、一念三千の法理を示した天台大師の摩訶止観の文を受けた釈である。  既述したように、「身」は衆生の一身〈正報〉、「土」はその身が存在する場所・国土(依報)で、本来、不二であることから身土不二という。つまり、正報である身も依報の国土も、我ら衆生の一念に即三千とあらわれるのである。また「一身」とは所証の境、「一念」とは能証の智であり、「法界」とは十法界、「遍し」とは遍満の意である。ゆえに、成仏の時には本地難思境智の妙法に叶って、一身も一念も、ともに法界に遍満するのである、との意である。  此の釈にみられるように、一切衆生の身に十界互具・百界千如・三千世間をおさめるという意義を明かしたのが妙法蓮華経であるゆえに、この妙法蓮華経の題目を「耳に触るる一切衆生」は、順縁・逆縁の別なく、必ず成仏の功徳を得られるのである。(日蓮大聖人御書講義第五巻下p179)

236mumeijin:2010/02/17(水) 19:16:24
題名    :十法界事
対告衆   :
執筆年次 :正元元
聖寿    :38
西紀    :1259
著作地   
大意:十界互具の義をめぐって爾前・迹門・本門を比較相対し、四重の興廃を論じている。

237mumeijin:2010/02/18(木) 06:12:07
題名    :爾前二乗菩薩不作仏事
対告衆   :
執筆年次 :正元元
聖寿    :38
西紀    :1259
著作地   
大意:爾前経では二乗をはじめ菩薩も成仏できないと、諸経論を引用して明かしている。

238mumeijin:2010/02/18(木) 20:06:43
題名    :十法界明因果抄
対告衆   :
執筆年次 :文応元・4・21
聖寿    :39
西紀    :1260
著作地   
大意:十法界の名目を示し、各界の因果を詳細に明かされている。

239mumeijin:2010/02/19(金) 09:23:40
御書p433・⑩(p133・⑩)     自身を軽んじ他人を重んず
菩薩界とは、六道の凡夫の中に於て自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う者有り。仏此の人の為に諸の大乗経に於て菩薩戒を説きたまえり。

通解
菩薩界というのは、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の凡夫の世界において、自分自身を軽んじて他人を重んじ、悪をもって自分に向け、善をもって他人に与えようとする者がいる。仏は、この人のためにもろもろの大乗経で、菩薩界を説かれたのである。

拝読の手引き
この御文は、十界のうち菩薩界について述べられたものです。地涌の菩薩である私達は、この御文から、現実社会における仏道修行のあり方を学ぶことができます。  私達の修行の場は、六道の凡夫の中、つまり現実社会であり、民衆の中です。そこで妙法をひろめようとするとき、私達の姿勢としては、決して他人を軽んじてはならないということです。たとえ自分を軽んじることがあっても他人を尊重し、大事にしていくことが大切なのです。また、あらゆる悪を自分の身に受けても、決してそれを他人に向けるのではなく、むしろ他人には善を与えていくという姿勢が大事です。それは、私達はあくまでも地涌の菩薩であり、その行動は慈悲をその根底としているものであるからです。  したがって、この姿勢は、他人に対してへりくだるといったことではありません。また意識して行っていくという作為的なものであっても菩薩の立場としては不十分だといえます。その人の一挙手一投足の中に自然とにじみ出てくるものでなければなりません。そこまで私達の境涯を高め、人間革命をしていくことが必要なのです。それを可能にし、成就するものが御本尊への唱題にあることはいうまでもありません。  友人づくりといい、人間共和の社会建設といい、これらは、いずれも、この御文にあるような姿勢からなされるものです。そして、これは、特に、地域社会での活動の重要性を考えれば、私達学会員一人ひとりが常に銘記しておかねばならないことだといえます。  地涌の菩薩としての精神をけっして忘れることなく、人間の苦悩をこの世界からなくすために、あらゆることに配慮しつつ、逞しく前進しましょう。(文庫本「きょうの発心」309)

240mumeijin:2010/02/19(金) 20:14:39
題名    :教機時国抄
対告衆   :
執筆年次 :弘長2・2・10
聖寿    :41
西紀    :1262
著作地:  伊豆・伊東   
大意:宗教の五綱について説かれている。

241mumeijin:2010/02/20(土) 08:37:36
御書p438・⑧(p188・⑧)       まず相手を知ること
舎利弗尊者は金師に不浄観を教え、浣衣の者には数息観を教うる間、九十日を経て、所化の弟子仏法を一分も覚らずして、還って邪見を起し一闡提と成り畢んぬ。

通解
舎利弗尊者は、金師=鍛冶師=に不浄観を教え、浣衣の物=洗濯業を営む者=には数息観を教えたので、その教化を受けた弟子は、九十日を経て、仏法を一分もさとることができずして、かえって邪見を起こし、謗法不信の者となってしまったのである。

拝読の手引き
この御文では、仏法をひろめていくうえに、相手の状態を知り、その状態に応じて法を説いていくことがどんなに大切であるかを教えられています。  ここに述べられている不浄観というのは、身の不浄を、心をとどめて見つめ、貪欲の心をなおそうとする修行法であり、また、数息観とは、自分の出る息、入る息を数えて心の散乱をなおそうとする修行法です。  したがって、鍛冶師は鉄を練るのに、よく呼吸を整え精神を集中しなければならないわけですから、むしろ、数息観を教えられた方が、日常生活に根ざしているので、仏法を理解しやすいわけです。  また、洗濯業を営む者の場合も、数息観より、身の汚れを見つめる不浄観を教えられたほうが、やはり理解しやすいことはいうまでもないことです。それを舎利弗はまったく逆な教え方をしたため、皆、邪見をおこし、仏法に不信をいだいてしまったのです。人々は、仏法そのものを一分も理解できなかっただけでなく、かえって謗法不信の者になってしまったのです。  このことは、私達への重要な教訓を含んでいるといえます。もちろん、不浄観や数息観などは今日では全く必要ないことですが、ただ、舎利弗のような“失敗”は、よくやりがちです。折伏においても指導においても、相手の人柄、生活状態などにきめ細かに心を配っていくことは何よりも大事なことです。  人は、自分をよく知ってくれる人に、大きな信頼を寄せるものです。それが、仏法への理解を一段と深める機縁になることはいうまでもありません。(文庫本「きょうの発心」174)

242mumeijin:2010/02/20(土) 16:12:27
御書p438・⑫(188・⑫)        折伏
謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり

通解
謗法の者に向かってはひたすら法華経を説くべきである。それは毒鼓の縁を結ぶためである。

拝読の手引き
日蓮大聖人が教えられた三大秘法は究極の法それ自体である。したがって、そのあと順逆いずれの方向に機が発動しても、この究極の法に帰着することは間違いない。当然、順の方向をとれば即身成仏できるが、逆の方向をとれば阿鼻地獄の苦に堕ちる。しかし、後者の場合も、すでに教わった法の偉大さへの理解を深めさせることとなり、一念を逆から順へ転換することによって、同じくただちに即身成仏できるのである。  今、私達も、この日蓮大聖人の仏法を弘めていくにあたっては、順逆ともに救うことができるのであるから、機をわきまえることができないからといって恐れる必要はなくなったのである。むしろ、結果的には、機を知らなくとも、知ったと同じ効果を得ることができるのである。  但し、逆の方向に発動することもあり、その場合は、誹謗・中傷・迫害となって還ってくるから、いわゆる三障四魔・三類の強敵を覚悟して、それに耐える勇気ある実践を貫くことが要請されるのである。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p20)

243mumeijin:2010/02/21(日) 09:10:01
御書p439・①(p189・①)     “時”知らずば空転
仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬えば農人の秋冬田をつくるに種と地と人の功労とは違わざれども一分も益なく還って損す、一段を作る者は小損なり、一町二町等の者は大損なり、春夏耕作すれば上中下に随って皆分分に益あるが如し。仏法も亦復是くの如し。

通解
仏教をひろめようとする人は、必ず時を知るべきである。たとえば、農夫が秋や冬に田を作れば、種と地と人の労力はかわらなくても、少しも得るところはなく、かえって損をする。一反を作る者は小損であり、一町二町を作る者は大損である。しかし、春や夏に耕作すれば、耕作面積の大中小に応じて、皆、それぞれの収益があるようなものである。仏法においても、また、このようなものである。

拝読の手引き
法を弘めるにあたって「時」を知ることの大切さを述べられた御文です。 仏法で説く「時」には、実に深く、広い意味があります。衆生が仏の出現を感じ、仏が衆生の機を受けて応ずる機感相応の「時」、また、弘教の次第という「時」、さらに一般にいう時代、社会といった意味まで含んでいるのです。  私達は、いわば過去から未来へと流れている時間と、広大な広がりを持つ空間との”交差点”で、生きていると考えることができます。そこには、さまざまな文化や思想、民衆の“生命”の傾向、社会環境、自然環境等が渾然一体となって渦巻き「時」を形成しているのです。したがって、そうした「時」の的確な判断なしに行動すれば、往々にして空転となることがあります。このことを稲作の例を引いて、大聖人は、わかりやすく教えておられるのです。  大聖人の仏法を学ぶ私達は、時代、社会をリードして、平和で繁栄した楽土を築こうとしています。それだけに「時」の把握は重要なものとなります。  世間の法もまた仏法に含まれます。身近な地域社会の動きから、大きな時代、社会の変化、民衆の動きといったものを洞察して、広宣流布のために的確な行動をとっていくことが大切なのです。そういった意味で、今はいかなる「時」かを凝視し、思案して、時代開拓の人として、社会と断絶することなく、自己の能力を最大限に発揮して信心に励んでいきましょう。(文庫本「きょうの発心」291)

244mumeijin:2010/02/21(日) 19:37:58
題名    :顕謗法抄
対告衆   :
執筆年次 :弘長2
聖寿    :41
西紀    :1262
著作地:  伊豆・伊東   
大意:八大地獄の因果、無間地獄の因果の軽重、問答料簡、行者弘教の用心の4点が明かされている。仏法を弘める者は宗教の五綱を心得て正法を弘めるべきである。

245mumeijin:2010/02/22(月) 08:59:46
題名    :持妙法華問答抄
対告衆   :
執筆年次 :弘長3
聖寿    :42
西紀    :1263
著作地:  鎌倉   
大意:世間の名聞名利に執着することなく、ひたすら御本尊を信じ、題目を唱えて成仏することを勧められている。

246mumeijin:2010/02/22(月) 19:44:18
御書p463・⑯(p213・⑯)       おごる人久しからず
只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり

通解
ただあなたが仏になろうと思うならば、慢心(まんしん)のはたほこを倒し、いかりの杖を捨(す)てて、ひとえに一乗の法華経(ほけきょう)に帰依(きえ)しなさい。 

拝読の手引き
南無妙法蓮華経は宇宙の本源であり、永久不変の法則です。地球がジョウジュウエクウの四劫の原理で、未来に死の世界となったとしても、妙法は厳然と大宇宙に存在しているのです。  日蓮大聖人はこの大宇宙の法則が、自己の生命の奥底に鼓動することを証得されたのです。ゆえに末法の御本仏というのです。しかも、未来永遠の全民衆を救うために、南無妙法蓮華経を御本尊として具現化、行動されたのです。  私達はこの御本尊を信じ、実践したときに、たとえ自分では妙法を証得していなくとも、本然的に具わっている仏界の生命が湧現し、事実の生活の上で、最高の幸福をあらわしきっていけるのです。  それを、少し仏法にふれただけでもうなんでもわかったようなつもりになり、仏法の指導等を素直に聞けない人、御書に真剣に取り組めない人、またすぐ感情的になって団結を乱す人等等、こういう慢心や、わがままを張って、最も大事な信心修行を怠っている人は、御本尊の真の偉大さを知ることができません。真の幸福をつかむことはできないのです。  また、私達の人生の根底になにをおいているかによって、幸不幸の岐路が決定されてしまうことを知らねばなりません。  名誉、地位、財産に目がくらんで、それを根底におく人の人生は、一見はなばなしいように見えますが、虚像のようなはかない幸福にすぎないのです。人生の盤石なる基盤は、御本尊を根底におくことによって築きあげられるのです。(文庫本「きょうの発心」59)

247mumeijin:2010/02/23(火) 07:04:17
御書p464・⑧(p214・⑧)      仏力を疑うことの愚かさ
譬えば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして、この縄にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに、引く人の力を疑い縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めてこれをとらざらんが如し。争か岸の上に登る事をうべき。

通解
たとえば高い岸の下に人がいて、登ることができず、岸の上に人がいて縄を下し、この縄につかまれば、岸の上に引き上げてあげようといっているのに、引く人の力を疑い、縄が弱くて切れるのではないかと危ぶみ、手をひっこめてこの縄をつかもうとしないようなものである。どうして岸の上に上ることができるだろうか。

拝読の手引き
仏の力を疑い、妙法の教えの縄を危ぶんでいる愚かな衆生を哀れんでいられる御文です。  尊極の生命の当体であられる三大秘法の御本尊に境地冥合することが、私達の信心における目標です。生命と生命の荘厳な対話、ひたぶるな信行があってこそ、はじめて、御本尊の世界に入ることができるのですが、なかなか、完全には冥合、得入することができません。そこにさまざまな不純物が介在し、真剣な唱題ができないからです。  御本尊第一とよく口にはしますし、心の浅い部分ではそう思っているのでしょうが、具体的実践のうえには、その通りの姿を示せない――それは生命の奥深く染まっていないからです。  御本仏の教えを信じ、御本尊の力を信じている私達ですが、御本仏の目から見れば、信心の姿勢はまだまだ弱いことでしょう。生命の奥底にある弱さ、魔性と戦い、生命の奥底から信を鍛え上げ、信心を金剛不壊なものに鍛えあげていきたいものです。  何か事が起こったらすぐ信心をやめてしまったり、こんなにもやっているのに結果がでないと不信をぶつけてみたり、焦ってしまうというようなことはないでしょうか。不信のドス黒い毒素が、生命と生命の清浄な対話を断ち、生命から知恵と福運の輝きを失わせるのです。  生命哲学を学び、妙法の教えが堅固な縄であることを知った私達です。濁った低い境涯の生命を、高く純で高貴な生命に転ずる道は、強い信の実践しかないことを銘記して、前進していきたいものです。(文庫本「きょうの発心」231)

248mumei:2010/02/23(火) 19:56:38
御書p464・⑬(p214・⑬)      信仰の人こそ尊貴
受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ、同じく信を取るならば又大小・権実のある中に諸仏出世の本意・衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ 。持つ処の御経の諸経に勝れてましませば、よく持つ人も亦諸人にまされり。爰を以て経に云く「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説き給へり。大聖の金言疑ひなし。然るに人此の理をしらず見ずして、名聞・狐疑・偏執を致せるは堕獄の基なり。

通解
受けがたい人身を受け、あいがたい仏法にあいながらどうして空しくすごしてよかろうか。同じ信心をするならば、仏教に、大乗教、小乗教、権教、実教とある中で諸仏が出世した本意でもあり、一切衆生が成仏しゆく直道の法をこそ信ずべきである。あなたがたがもっている法華経(御本尊)はあらゆる経の中で最勝の経であるゆえ、この法華経をよくたもつ人もまた他の人びとよりも勝っているのである。ここをもって法華経に「能く是の経を持つ者は一切衆生の中に於て亦為第一なり」と説かれている。大聖の金言に疑いはない。ところが、世間の人はこの法理を知らないで、また見ないで名聞にはしり、猜疑心が強く、偏見に固執して正しい言説を受け入れようとしない姿は堕地獄の基因となる。

249mumei:2010/02/24(水) 07:04:12
拝読の手引き
三大秘法の御本尊を信仰しえた私達妙法の徒こそ最高の幸せ者であると述べられた御文です。  自分が人間に生まれてきたことを当たり前のように思っている人が数多くいますが、それは大きな錯覚であり、偏見といえます。不幸な境涯に生まれてきた人が親を恨み、逆に一見、恵まれた立場にいる人が他の人々を見下し不遜になるのも、こういう偏見にとらわれているからといえましょう。  「受けがたき人身を受け」とあるように、仏法では、単なる現象面ではなく、生命の本質論から人間として生まれてきたことを解明しているのです。有情の生命をもつものは人間に限らず、獣、鳥、昆虫等、それこそ無量の数にのぼります。大宇宙に冥伏していた生命は、そういう目に見えるさまざまな形態をとって顕れているのです。人間として生を受けるということは、実に稀なことなのです。  まず、私達は人間として生まれたという事実を、厳粛な気持ちでかみしめたいものです。そこで、今度はこのような受けがたき人生を、どう生きるかということが問題です。  現代人は、“生きがい”を求めてさまよっています。それも、文明が発達し、物質的にも経済的にも豊かな国、社会ほど深刻な問題となっているのです。  “生きがい”を得ようと、自己のすべてを傾注できる精神的価値を探求している人は、まだ幸せです。だが、ほとんどの人は、それすらも求めようともせず、無目的に日々の生活を送っているのが実情です。ある人は、それすらも求めようともせず、無目的に日々の生活を送っているのが実情です。ある人は刹那的な享楽を求め、ある人は“エコノミック・アニマル”の権化のごとく、金もうけに狂奔する等々、あげればきりがありません。  こういう人たちを支配しているのは、自分さえよければよいとするエゴイズムです。表面は虚勢を張り、尊大ぶっていますが、内面は空虚なものです。名聞名利を求め、権威によりかかる人ほど、心はうつろであり、孤独なのです。ある哲学者は、この人生が、生きるに値するかどうかを判断することが、哲学上の重大な問題であると述べています。  御本尊を信受し、大聖人の仏法を学ぶことによって、私達は人間として生を受け、広宣流布に邁進することが無上の喜びであることを実感しています。  「能く是の経を持つ者」とは、三大秘法の御本尊を持つ者ということです。この人は「一切衆生の中において亦為第一なり」と説かれています。つまり、日蓮大聖人の仏法をたもつ人は、全世界で最高に幸福な人であるといわれているのです。この教えこそ、真の“生きがい”をのべたものといえます。  すなわち、私達はこの人生が生きるに値することを生命全体で感得しているゆえに、生きる情熱を十倍にも、二十倍にも湧き出すことができるのです。  また、御本尊をたもつということは、ただ単に御本尊を御安置し、功徳を願うことを意味するものではありません。「能く是の経を持つ者」とあるように、受け身ではなく、能動的に自らの責任として妙法を護持しきり、社会のため、人のために生きることなのです。端的にいえば、広宣流布という大目的観、使命感に生きているという、生命の奥底からの実感をもっている人が「能く是の経を持つ者」に相当するといえましょう。 その人こそ、人間として最も尊い人なのです。ここで心すべきことは、信心の本質を忘れて、自己の名聞名利や、役職というレッテルに固執してはならないということです。信仰人として、どこまでも謙虚に仏法を求め、無名の民衆の側に立ち、誇りをもって自己の人生を生ききっていきましょう。(文庫本「きょうの発心」99)

250mumei:2010/02/24(水) 19:59:00
題名    :木絵二像開眼之事
別名:    法華骨目肝心
対告衆   :
執筆年次 :文永元
聖寿    :43
西紀    :1264
著作地:     
大意   :真実の開厳は法華経によらなければならない。草木成仏の本義は一念三千にある。法華経の真意は即身成仏にある。

251mumei:2010/02/26(金) 07:02:41
御書p465・⑰(p215・⑰)       人によりて弘まる
一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賎しと云はんやとこそ釈して御坐(おわし)候へ、されば持(たも)たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし

通解
一切の仏法もまた人によって弘まるのである。これによって天台大師は「仏の在世でさえ、なお人によって法をあらわす。末代にあって、どうして法は尊いけれども人は賎しいといえようか」と解釈されている。それゆえ持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである。

拝読の手引き
仏法に弘宣に寄せて、人の尊いゆえんを示された御文である。 仏教において「法」が大事であることはいうまでもなく、とくに釈尊の経典においては、「法」の優位が強調されている。それをうけて天台大師も、たとえば法華文句巻十下には「法は是れ聖の師にして、能く生じ能く養い、能く成じ能く栄うるは法に過ぐるは莫し、故に人は軽く法は重きなり」〈大正三十四巻p143〉と述べているのである。このように仏法を修行するうえにおいては「身軽法重死身弘法」が根本精神である。しかし、仏法を弘めるうえにおいては「人」が重要である。この段では、弘教において、「人」がその要であると示されているのである。仏法を求める修行において「法」が最も重要であることは、当然である。「人」に頼ることは不安定であり、仏の教えが歪められる恐れもある。その故に、涅槃経でも「依法不依人」と説かれ、不変である法を根本とすべきであると教えてきたのである。とくに仏の滅後において、それぞれ勝手な解釈が出る恐れがある。仏の在世であれば、仏自身によって、そうした考え方に修正がなされるし、そうした考え方が出ようはずもない。しかし、仏滅後においては、時を経るにしたがって、人師の都合や考え方にしたがって捉え方も変わってくる。そこに原理・原典が歪められる恐れもある故に、仏の法を根本とすべきで”人師”の説に頼ってはならないと教えたのである。 しかし法を弘めていくのは「人」であり法が存在するというだけでは、流布しない。 御書にいわく「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」〈p856〉と。妙楽大師の法華文句記巻九中にいわく「子父の法を弘む世界の益あり」〈大正三十四巻p324〉と。「世界の益」とは世界悉壇の利益であり、娑婆世界の衆生にさまざまな利益を与えることを意味する。 法は人によって現実生活に生き生きと躍動し、その本来の力を発揮するのである。法の力を生かすも殺すも、すべて人の力である。それほど人の力は大きい。逆にいえば、その責任は重いともいえる。仏がこの世界に遺した法は、たとえようもなく尊い。その故に、その教えを正しく継承し、弘宣していく人の使命もまた、たとえようもなく尊い。その自覚、認識をここでは教えられているのである。 日蓮大聖人が、釈尊の仏法の本懐は、人の振る舞いであり、不軽菩薩の修行が肝心であると教えられている(崇峻天皇御書)のは、人を最大限に敬っていくべきことを教えられていることに留意しなければならない。しかも不軽品は、弘教の方軌を説いた品であり、法を弘める人の尊さを示しているのである。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p391)

252mumei:2010/02/28(日) 11:52:30
御書p466・⑯(p216・⑯)       名利は夢の中の栄華
生涯幾くならず。思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん。又得たりとも是れ夢の中の栄へ、珍しからぬ楽しみなり。

通解
人間の一生涯といってもわずかなものである。考えてみれば、一夜の仮の宿のようにはかない生涯であるのを忘れて、どれだけの名利を得ようとするのか。また、得たといっても、それは夢の中の栄華のようなもので、どれほどの楽しみがあろうか。

拝読の手引き
中国の故事に「盧生の夢」というのがあります。盧生という青年が旅先の邯鄲というところで道士に会い、まくらを借りて眠りました。すると、盧生は裕福、栄華をきわめて一生を終るまでの夢を見たのです。しかし目ざめてみると、宿の主人は先ほどから高粱をたいており、まだそれが煮えていなかったといいます。  このように、人間の一生の栄華というものは、はかないものです。私達はその短い一生の間にこそ、永遠の幸福境涯を確立する仏道修行を、まず第一に考えなくてはなりません。名聞名利におぼれた一生ほど、無価値な一生はありません。私達はあくまでも信心第一に進んでいこうではありませんか。  信心をした私達にも、信心にゆるみがあると、名聞名利の気持ちが起こってきます。このことは厳に戒めねばなりません。  厳しくいえば、少しでもいい子になりたい、自分の功績だと認めてもらいたいなどという考えは、広布を前進させる活動の中にさしはさむべきではありません。しかし、ここで注意すべきことは、社会的な地位や名誉を得てはならないことではないのです。広宣流布の推進のために、大聖人の仏法の宣揚のために、信心をたもった私達が大いに力を発揮して、社会的に認められることは大事なことです。特に新しい十年に入って、文化運動の展開が叫ばれているとき、このことは重要になっています。  むしろ、最高の仏法を奉じたればこそ、大いに独自の才能を開発し、学問、文学、音楽、スポーツなどのさまざまな分野で一流の人物に成長すべきです。名聞名利かどうかはあくまで本人の一念の問題です。私達は広宣流布のためと確信して、大いに力を発揮し、各界で認められる人材と成長しましょう。(文庫本「きょうの発心」87)

253mumei:2010/03/01(月) 12:21:15
御書p467・⑯(p217・⑯)     今生の名聞・後世の弄引
寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき

通解
仏国土(ぶっこくど)でないならば、どこも皆、苦の世界である。仏の悟(さと)りの住処(すみか=境地【きょうち】)を離れて、どんなことが楽しみとなるだろうか。すべからく専心(せんしん)に南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にも勧めることこそ人間として生まれてきた今生の思い出となるのである。 すべからく専心(せんしん)に南無妙法蓮華経と自身も唱え、他人にも勧めることこそ人間として生まれてきた今生の思い出となるのである。
 
拝読の手引き
人生において何が最も重要であるかを述べられたところである。「寂光の都」「本覚の栖」とは、妙法に住する境界であり、これを離れて真実の幸福、楽しみはない。人が六道輪廻を繰り返すのは、環境に支配される迷妄の自己に安住しているからである。この六道輪廻から脱するには、自身をコントロールできる強靭な自己を確立する以外にないのである。  たとえば、欲望は人間が生きていくためには必要なものだが、欲望に流されれば、常に満足することを知らず、貪欲の炎に焼かれ苦しむことになり、また得たものを失えば、さらに苦しみを増すことになる。欲望そのものをなくしてしまえば、そのような苦しみを味わうこともなくなるといえるが、欲望を失った人間は生ける屍といってもよい。本来、欲望は活動的な「生」にとって不可欠であり、これをなくすことは「生」の否定でもある。欲望は、人間にさまざまな意欲をもたらす源泉の一つであり、生きるためになくてはならない力である。  したがって大事なことは、欲望を、人生において意義ある創造をもたらす源泉として使いこなす立場に立つことにある。そのような六道をコントロールする力の源泉が南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経の信心に住した境地が「寂光の都」「本覚の栖」である。しかもその境地は、現世だけでなく、未来永遠に続くのである。  そのことを具体的に示された文が「今生の名聞・後世の弄引」である。つまり「今生の名聞」とは、今生において、胸中に三世にわたる妙法の生命を輝かすことこそ真実の「名聞」であり、三世十方の諸仏菩薩に、日蓮大聖人の眷属として普く尊い名を知られることになるのである。  妙法を離れた今生の名聞・名利は、ただ今生限りのものにすぎない。位人身を極め、天下に栄耀栄華を誇ったとしても、それは六道に輪廻する無常の営みにしかすぎない。人間として稀なる生を受け、しかも値い難き仏法にあい、妙法を信受できたということは、本有常住の妙法に我が身を住せしめる千載一遇の機会に巡りあったということである。人間として生まれたが故に、自行化他にわたる仏道修行を実践することができるのである。しかも,「後世の弄引」として、妙法信受の因が、後世における成仏の果を決定するのである。これほどの偉大な功徳力が他にあろうか。であるならば、人間であってはじめて実践が可能な、妙法信受、即ち自行化他にわたる妙法の実践を貫くことが肝要である。(日蓮大聖人御書講義第六巻上p419) 妙法を唱え、広宣流布に生き抜いた人生は、人間として尊極無常にして永遠不滅の栄光に包まれるのだ。

254mumei:2010/03/01(月) 21:27:10
御書p469・①(p248・⑭)     声を聞いて心を知る
人の声を出だすに二つあり。一つは自身は存せざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是は随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり、されば意が声とあらはる。意は心法、声は色法、心より色をあらはす。又声を聞いて心を知る、色法が心法を顕すなり。

通解
人が声を出すのに二つの場合がある。一つは自身には思いが存しないけれど、他人をたぶらかすために声を出す場合である。これは随他意の声である。もう一つは、自身の思っていることをそのまま声に顕わす場合である。だからこの場合はその人の意思が声と顕われたのである。意思は心法、声は色法なので心より色を顕わしたことになる。また逆に声を聞いて人の心を知るのは、色法が心法を顕わしているのである。

拝読の手引き
私達の声の表わす意味がいかに深いものであるかを説かれた御文です。ここでいわれる声はいうまでもなく、私たちの言語音声のすべてを含みます仏法では、言語音声を生命活動の発露としてとらえているのです。  したがって、猫や犬の鳴く声も、その他の動物の言葉にならない音声も、すべて、それぞれの生命状態を表わしているのです。声を発する時の思いや、心の状態は心法〈心の動き〉であり、表現された音声は色法(感知できる働き)としてとらえ、この色心が不二であり一体なのです。「人の声を出すに二つあり」とここに説かれていますが、どちらが自然の姿であるかは、右に述べた所から明らかでしょう。  自分は本当にそう思っていないのに、他人の意に合わせて語ったりする声は随他意の声であり、これは不自然であり、厳しくいえば、人をたぶらかしていることになります。自分の思想や考えに確信がなかったり生命自体が弱かったりするとこの姿になり、これでは人をひきつける魅力はでてきません。  やはり私達は後者の声でありたいものです。自分の思っていることを、そのまま堂々と語り、何を気がねすることもない。誤っておれば素直に反省し、また前進する。この姿勢に立つ人こそ色心不二の仏法を実践している人であり、清らかで力強い人生を歩む人です。そのためには、常に御本尊に唱題し、みずみずしい生命力の源泉を得ていかなければならないことはいうまでもありません。(文庫本「きょうの発心」192)

255mumei:2010/03/02(火) 11:43:44
御書p469・⑱(p249・⑯)      脱命、奪功徳
今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入って人の命をうばふ。鬼を奪命者といふ。魔入って功徳をうばふ。魔を奪功徳者といふ。鬼をあがむるゆえに、今生には国を滅ぼす。魔をたとむゆへに、後生には無間獄に堕す。

通解
今、真言でもって日本の仏を供養するならば、鬼が入って人の命を奪う。鬼を奪命者というのである。また魔が入って功徳を奪う。魔を奪功徳者というのである。鬼を敬うがゆえに、今生では国を滅ぼし、魔を尊ぶゆえに後生には無間地獄におちるのである。

拝読の手引き
世の不幸の根源であり、人間社会の苦悩の淵源である魔、鬼の本質について述べられた一節です。  魔や鬼といっても、なにか恐ろしい姿をしていて、特別の人格をもっているといったものではなく、誤れる思想、邪悪な宗教に縁することによって起こる生命の働きをいいます。  鬼を「脱命者」といい、魔を「奪功徳者」というように、両者とも個人の生命、さらには宇宙の生命の内にあって、調和をはかり、一切を価値創造していく根源の力を奪いとる働きをなすのです。  この生命のリズムを破壊する働きとは、個人においては、人間精神の荒廃、肉体的苦痛をもたらし、また、社会、国土においては戦争、公害、権力の横暴、風俗の乱れ等となってあらわれ、社会の混乱、国土の破壊を引き起こしていくのです。  この魔に支配された生命軽視の社会、家庭を、真実の生命尊重の世界に変えていく実践の哲学が日蓮大聖人の仏法なのです。私達の生命には魔や鬼の働きを押え、屈服させることのできる仏界という力強い生命が具わっています。この仏界を湧現し、生命自体を変革していくことが魔を打ち砕き、調和に満ちた世界を現出せしめる根本なのです。この仏界を湧現させる方途は、一切の根源の法である三大秘法の御本尊との境智冥合以外にないのです。  魔も仏もともに私達の生命に内在するものであれば、私達は常に生命を破壊し、不幸におとしいれる働きをなす魔との、厳しい対決の姿勢を堅持していかなければなりません。そうした私達の強い一念と実践があってはじめて、現実生活に仏界を開きあらわし、真実の幸福な人生を送っていけるのです。(文庫本「きょうの発心」249)

256mumei:2010/03/07(日) 11:11:48
題名    :女人成仏抄
別名:    
対告衆   :
執筆年次 :文永2
聖寿    :44
西紀    :1265
著作地:     
大意   :法華経を信受すれば女人を始め一切衆生が成仏すると教示。

257mumei:2010/03/07(日) 21:36:47
御書p474・①(p267・①)      死を直視できない弱さ
夫れ生をうけしより、死を免れざる理は、賢き御門より卑き民に至るまで、人ごとに是を知るといへども、実に是を歎く者、千万人に一人も有りがたし。

通解
そもそも、この世に生を受けてからというものは、死を免れることはできないという道理については、賢く身分も高い御門をはじめとし、卑賤な民にいたるまで、すべての人が知っているが、実際にこのことを大事とし、また心から嘆く者は、千万人に一人もないのである。

拝読の手引き
人間の生存への願望を見事にえぐられた御文です。人間は、いずれは確実におとずれる”死"を無視しては生きていけない存在です。そこで、目の前の享楽やささいなことに没頭して、死を忘れようとするのです。  昭和四十五年十一月に起きた作家・三島由紀夫氏の割腹自決事件は四十六年に入ってからも、総合雑誌、文芸誌などでさまざまに論じられているようです。賛否両論、侃々諤々の感がありますが、ただ、長らく泰平ムードに酔いしれていた日本人に、あらためて”死"の意味や重さを目の前につきつけたことはたしかでしょう。  ひところ、盛んだった"生きがい"の問題も、最近では、結局それは何に賭けて死ぬかという"死にかた”の問題に変化していることからも、その影響を知ることができます。  いかに、生き方や生きがいの問題を論じても、ここに述べられているように"死"という万人が逃れることのできない厳粛な事実を人生の大事としなくては、砂上の楼閣でしょう。なぜなら、常に死を大事としている人は、瞬間瞬間の"生"を大切に価値あるものにしようとするからです。  逆に、死を全然、他人事のように思っている人は、結局、今、刻みつつある生を粗末にする人でしょう。だからといって、死をいつも恐れたり嘆いたりして、虚無的になることがよいというのではありません。  大聖人の仰せのように、受けがたき人身を受けた喜びをかみしめつつ、しかも、死を本有の死と見る視点に立ち、ゆうゆうと、自らの人生の大道を歩むということなのです。これ生死不二の生命観といえます。広宣流布の大業に生きる私達は、今一度この御文を深く読み、現在の生をより充実したものにしていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」116)

258mumei:2010/03/12(金) 11:59:36
御書p479・⑮(p272・⑮)       人生の無常を克服
先亡後滅の理始めて驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり。抑汝が云うところの法門をきけば、或は小乗、或は大乗、位の高下は且らく之を置く、還って悪道の業たるべし。

通解
先に死んだ人をとぶらう身であっても、人間として生を受けた以上は死を免れることができないのは、自然の道理であり、あらためて驚くべきことではない。ただ願っても願うべきなのは、仏道であり、求めても求め抜いていかなければならないのは経教である。だが、いったいあなたがたがいうところの法門を聞いてみ。位の高下はしばらくおく。いずれを信じても、かえって悪道の行いとなって、不幸になっていく。

拝読の手引き
人生は無上であり、願うべきは仏道、求むべきは仏の教えであるが、その法はただ、法華経にかぎるのであり末法今時においては、三大秘法の南無妙法蓮華経に尽きることをよくわきまえなさいと戒められた御文です。  人生の苦悩を免れ、小乗教、権大乗教に救いを求めようとしても、救いが得られるべくもなく、そのことに執着してかえって、成仏を説いた法華経を信ずることができないわけですから、知らずしらずのうちに三悪道、四悪趣のちまたを流転する運命に陥っていくのです。  死は一定であり、まことに人生は無常です。無常の現起するのをみては、おろおろしたり、年老いて自己の死の到来を思っては、ショックをうける人があまりに多いのが、人の世の実相です。死をどうとらえ、どう生きていったらよいのか――生と死を深く解明しきった真実の仏法を求めなければならない理由はそこにあります。  低い思想、宗教に惑わされることなく、高き仏法より入るべきなのです。道を求め、先哲の経巻、教義をたずねる人は、大勢いますが、悲しいことに、すべて悪道の業となっているのです。  日蓮大聖人は、どう生きたらよいのか模索し、無常を克服することを求めている、末法の衆生に、生命哲学を顕わし、御本尊を授けられたのです。幸いこの妙経につきえた私達。さらに求道の念を高め、前進したいものです。(文庫本「きょうの発心」179)

259mumei:2010/03/12(金) 22:20:12
御書p481・⑮(p274・⑮)       仏法は只経文を先きとすべし
仏法は強ちに人の貴賎に依るべからず只経文を先とすべし

通解
仏法は絶対に、人の貴賎によってはならないただ経の高低浅深に依るべきである

池田先生の指導
仏法における基準はどこまでいっても人の貴賎ではなく、法の高低浅深です。「人を身なりや外見で判断しては絶対にならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命をもった人か、身なりなんかで絶対に判断がつくはずがない」これは恩師・戸田先生の厳命です。創価学会の世界において、社会的地位や肩書、学歴などは、一切関係ありません。信心の志のある人が偉大なのです。広宣流布のために行動する人を大切にするのです。これは、これからも永遠に変えてはならない大原則です。(大白蓮華2009−9勝利の経典「御書」に学ぶ)

260mumei:2010/03/13(土) 08:47:43
御書p487・②(p280・①)       今日も発心、明日も発心
汝実に道心あらば、急いで先非を悔ゆべし。夫れ以れば、此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。

通解
あなたに本当に道心があるならば、過去の非を悔い改めるべきである。よくよく思索すればこの妙法蓮華経は、一大聖教の観心の法門を一念に収め、十界の依報、正法のすべてを三千の法にちぢめたものである。

拝読の手引き
仏法を求めようとする心、信仰心があるならば、低級な宗教観、誤った思想を改め、一念三千を説いた妙法を求めるべきであると述べられた一節です。  一念三千の法門は生命、宇宙の現象、本質をあますところなく解明し、完璧な法則として説きあらわしたものです。だが一念三千の法門の展開だけでは、哲学的、観念的範疇の域を出ません。この哲理に実体を与えたのが日蓮大聖人の仏法なのです。すなわち、南無妙法蓮華経こそ一念の実体なのです。  したがって、南無妙法蓮華経の一法に釈迦の一代聖教はすべておさまっていることになります。釈迦の因行果徳の二法をことごとくそなえているのです。南無妙法蓮華経の仏法は無限の内容を含んでおり、行き詰まりのない法なのです。  ゆえにこの仏法をたもったからには、永遠に自己革新していこうとの意欲をもって当然といえます。「道心あらば」とは、きょうも発心、あすも発心という清新な決意で仏法を求め抜いていくことといえます。また「先非を悔ゆべし」とは、常に惰性、保守、固定観念を打破し、開いていくべきことを教えられているとも拝せましょう。  無限の内容をはらんでいる仏法にどこまでも挑戦し、自らの智慧を磨き成長することです。向上心の無い人の中にはもはや仏法はないといっても過言ではありません。  たとえば、御書を学ぶ場合にも、古文を現代文に変えただけの解釈ではなく、そこに展開されている一つひとつのことに対して、なぜこのようになるのか、元意は何か――現実の私達の生活と関連づけて学んでいくことです。そこには必ず新しい発見があります。仏法哲理の深さに感銘を受け、一層、信心を深めていかねばと求道の心を新たにすることでしょう。(文庫本「きょうの発心」122)

261mumei:2010/03/13(土) 21:40:56
御書p491・⑯(p285・⑬)        庶民のための社会建設
予父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思うが故に、身命を捨つる事敢えて他事にあらず。唯知恩を旨とする計りなり。先ず汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諌めざらんや。又愚人の狂ひ酔って毒を服せんを我知りながら是をいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて、火・血・刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をもすつべし。諌めてもあきたらず、歎きても限りなし。

通解
私は父母の来世を助け、国家の恩徳に対して報いようと思うが故に、妙法のために身命を捨てるのである。このことは、少しも他のことのためではない。ただ知恩を本意とするばかりである。まず、あなたは目を閉じ、心を静めて道理を正しく考えなさい。自分は善道を知っていながら親と主人とが、悪道に掛かりあうのを見て、諌めないことがあろうか。また、愚かな心のために狂い酔って、毒をのんでいるのを自分が知っていながら、これを戒めないことがあろうか。そのように、仏法の道理を承知し、火・血・刀の苦しみを知りながら、どうして恩を受けた人が悪道に堕ちる事を嘆かずにおられようか。身をなげ命を捨てて諌めてもあきたらないし、いくら嘆いても限りがないのである。

262mumei:2010/03/14(日) 11:00:14
拝読の手引き
妙法を信じ、妙法を行ずる者の基本姿勢を述べられた一節です。  日蓮大聖人が仏法と真っ向から取り組み、そして会得した永遠不変の真理・南無妙法蓮華経の極説を掲げて宗教革命に身を投じられたのはなんのためか。ひとえに、父母を救い、人々を救い、社会を救う以外のなにものでもないし、それが真の知恩、報恩であると、きっぱりと言いきっておられます。むろん、ここにある「国家」とは今日では「社会」ということです。  大聖人の根本精神は、どこまでも全民衆を救済していくという、大海原のような"慈悲"の精神に貫かれているのです。さらに現実の社会から遊離するのではなく、むしろ、泥沼のような社会の中に入り、社会を蘇生し、庶民のための社会を築くことに、大聖人の真意があったことはいうまでもありません。  大聖人の仏法を信仰する私達は地涌の菩薩であり、大聖人の本眷属です。そのことを本当に自覚するならば、いかなる立場になろうとも、この大聖人の精神を忘れてはなりません。  御本尊には一切の功徳が雲集しているゆえに、その御本尊を信ずる私達が功徳にあふれた生活を確立できることは自明の理です。だが、自分の功徳のみを求める信心は、大聖人の仏法を行ずる人の真のあり方とはいえないのです。また、そういう自己本位の行き方は、三障四魔や難を受けた時にもろいものです。名越えの尼が退転してしまったのも、一つには利己主義的な一面があったからなのです。  地涌の菩薩である私達にとって、信心とは広宣流布への自覚であり、その使命遂行の決意です。それは、他から強制されるものではなく、本物の信心に立ったときに内から自然とにじみ出てくるものです。  大聖人の仏法に精通すればするほど、社会への眼が開かれるはずです。現代社会がかかえているさまざまな病根、例えば公害問題や、核兵器の恐怖等も、その本質は人間のエゴイズムを助長させてきた思想に誤りがあることを私達は知っています。  一部の学者の間では、このまま現代文明が進行すれが、人類は滅亡するかもしれないとささやかれています。それほど病根は深いにしても、ただ終末論を唱えるのでは問題の真の解決にはなりません。大事なことはそういう問題をいかに解決し、人々の苦を除き、未来を切り開くかとということではないでしょうか。そのためには、地道のようであっても、一人一人に仏法を理解させ、正しい生命観をうえつける戦いを不断に続ける以外にありません。  これまでその粘り強い実践を積み重ねてきて、妙法の努力の基礎を築くことができました。だが、これからがいよいよ本格的な段階であり、あらゆる分野にわたって妙法の種子を植え、育てていかねばなりません。  また、こうした文化運動を展開するにあたって、心しなければならないことは「争か恩を蒙る人の悪道に堕ちん事を歎かざらんや」という、どこまでも民衆を思い救おうとする慈悲の精神であることはいうまでもありません。  このことは学会の中にあって、指導的立場にいる人も常に銘記すべきことでしょう。そういう人は後輩と比較して「法門の道理」を存じている人です。いまだに、信仰の本義、学会員としての使命を自覚していない人に対して、なんとか本物の信心に立たせたいという、一念の奥底からの思いやりを込め接することが望まれます。  相手の心を知って、喜びも苦しみも自分のこととして考えてあげることが、人間性であるといえましょう。信心した私達は同じ地涌の同志として、ともどもに広布を目指したいものです。(文庫本「きょうの発心」100)

263mumei:2010/03/15(月) 10:16:50
御書p491・⑮(p285・⑫)       知恩・報恩は生き方の規範
我釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしよりこのかた、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす。

通解
私は、釈尊の残された法門を学び、仏法と取り組んで以来、恩を知ることを最も大切とし、恩を報ずることを第一と考えてきたのである。世間には四恩ということがいわれている。このことを知ることを人間といい、知らないことを畜生というのである。

拝読の手引き
この御文は、人間にとって、とくに信仰人にとって、知恩、報恩の大切なことを教えられているものです。  ここに述べられた四恩については、大聖人の御書には、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩、または一切衆生の恩のかわりに師匠の恩をあげられています。  現代では、知恩、報恩ということについて、なにか古いもの、封建的なものといった考えがあります。それは、かつての権力者が「恩」の思想を統治の手段としてきたという歴史的背景があることに要因がありましょう。しかし、知恩、報恩の思想は、いつの時代にも変わらぬ生き方の規範となるものではないでしょうか。私達は、自分一人で勝手に生きているように思えますが、決してそうではなく、人間との、自然との、さまざまな相関関係によって生きています。それは、相関関係であり、相互扶助の関係です。つまり、私達の生は"生命の連帯"でたもたれているのです。この"生命の連帯"の場においては、慈悲を根本とする感謝の念ともいうべき知恩、報恩の生活態度、人生態度が必要なのではないでしょうか。  人間が動物と一線を画し、人間らしく生きること、それは四恩を知ることにあると大聖人はおおせです。大聖人のこの教えを深く心に刻み、私達にとって知恩、報恩とは具体的に何かを一人ひとりが思索して、信仰人としての道をまっとうしていきましょう。(文庫本「きょうの発心」278)

264mumei:2010/03/15(月) 21:02:57
御書p494・⑨(p288・⑤)       枯れ草の人生に決別
誠に禿樹禿に非ず、春に遇って栄え華さく。枯草枯るに非ず、夏に入って鮮やかに注ふ。若し先非を悔いて正理に入らば、湛寂の淵に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし。

通解
葉が落ちてしまった木は、本当に枯れ木になってしまったのではない。春になれば枝葉も栄え、花を咲かせる。枯れ草も、本当に枯れてしまったのではなく、夏に入れば緑の葉が、鮮やかなみずみずしさをみせる。もし前の非を悔い改めて、正法に入るならば、満々と水をたたえて奥深く静まりかえっている淵に遊泳して、無為の宮で、思うがままの境涯にいたることは疑いない。

拝読の手引き
たとえ葉が落ち、枯れたように見える草木でも、春や夏がくれば、必ず葉を茂らせ花を咲かせます。その大自然の道理を例に引かれて、謗法の人生に決別し、正法を信受するならば、たとえ枯れ朽ちたような人生であっても、必ず蘇生し、自在の境涯を築くことができることを、教えられた御文です。  「先非」とは、私たちが過去に誤った思想、宗教を信じ、行じてきたことです。その浅薄な思想、宗教への執着心を悔い改めて、正しい道理である三大秘法の御本尊を信じ、行学に励んでいるのが私達です。私達は生涯にわたって信心に励んでいくならば、人生を自由自在に謳歌する成仏の境涯に至ることは、絶対に間違いないのです。「湛寂の淵」とは、御本尊の功徳を満々とたたえた淵であり、成仏の境涯といえます。「無為の宮」とは、真実の生命観に立脚した境涯、すなわち、妙法の世界といえるでしょう。  現在、苦悩の日々を歩んでいる人もいるでしょう。また、心身ともに恵まれない中で歯をくいしばり、努力に努力を重ねている人もいることでしょう。  しかし、枯れた草木にでも時が来れば必ず葉を茂らせ、花を咲かせます。それと同じように、今はどんなに人生の寒風にさらされている人でも、強盛な信心を貫いていくならば、その人にとって最も適した最高の人生コースに入っていくことは、絶対に間違いありません。そのことを確信して、あらゆる苦難に挑戦し、不動の自己を築き上げていきましょう。(文庫本「きょうの発心」257)

265mumei:2010/03/18(木) 20:09:37
御書p494・①(p287・⑯)     かみしめたい妙法受持の福運
誠に聖教の理をきくに、人身は得難く、天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇うよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値い難き仏教を見聞しつ。今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。

通解
まことに聖教の道理を聞くに、人と生まれることは難しく、天上の糸筋が海底の針の穴に入るよりもまれなことである。また、仏法は聞くのが難しく、一眼の亀が浮木にあうよりも難しい。今、すでに、生まれがたき人界に生を受け、あいがたい仏教を見聞した。今生、口を閉ざしては、またいつの世に、生死の苦しみを離れ、悟りをうることができようか。

拝読の手引き
人間として生まれ、仏教を信受することは、まことにまれなことです。その仏法における最高のものをもちえた私達は、積極的に、仏教の弘通にいそしむべきことを、この御文から学んでいきたいと思います。  わが身を振り返ってみれば、たしかに意に満たないことが多く、欠点が目につきやすいものです。ついつい悲観的になる人もでてくるものです。だが、人間に生まれたといういうことは、聖道正器といって、正しく仏法を修行することのできる境涯を、無にすることほど愚かなことはないでありましょう。  人界に生をうけても、仏法にあうことはなかなか難しいものです。仏が世に出現することはまれであり、出現しても法を説くとはかぎらず、説いてもそれを信受することはまたまた難事です。  今、三大秘法の仏法を受持している身の福運を、よくよくかみしめたいものです。信仰の世界は誇りと感謝が大事です。人間として生まれ、大法をたもち、師をみつけえたことへの感謝の一念を、たえず胸中に新鮮なものとすべきです。  それを忘れ、あるいはその自覚も薄く、日々、広布への前進の歩みを進めないでは、悪い宿命に縛られた自分の生命を、清浄で福運に満つ生命へと人間革命することもできません。空しく福運を切り、六道の不幸の巷を流転する以外にないのです。今生、空虚な生を送るにとどまらず、未来にもその果報を受けていかなくてはなりません。(文庫本「きょうの発心」251)

266mumei:2010/03/19(金) 11:39:15
御書p496・⑬(p290・⑩)      真に充実した人生を
今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳今だ無常を免れず。忉利の一千年も猶退没の風に破らる。況や人間閻浮の習いは露よりも危うく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。

通解
今世というのは、百年内外の程度だと思えばまるで夢の中の夢である。三界の無色界の最頂である非想の八万歳といっても無常を免れず。欲界の忉利天の一千年もやはり、退没の風〈咲き誇っている花をはかなく散らしてしまう風〉により破られるのである。ましてや人間についてはこの世界の道理として、人の命は露よりも危うく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもむなしいのである。また水中に映った月があるかなきかのように、草葉の上の露のように、人間は死に遅れたり先立ったりしながらもいずれ消えていく身なのである。

拝読の手引き
人間の一生が、いかにはかないかを教えられた御文です。退没の風、夢の中の夢、露、芭蕉、水中の月などをもって大聖人は、私たちの人生にたとえておられます。深い人間凝視のまなざしとともに、露のようにはかない人間への限りない慈愛をこの御文から読み取ることができます。これは、鎌倉幕府の権力の弾圧と障魔に対して獅子王のごとき戦いを展開された大聖人の、もう一つの側面です。これほどの洞察と慈愛をもって、大聖人は妙法弘通に邁進されたのです。私達は決してこのことを忘れてはなりません。  現在、日本の知識人層の間に、仏教の無常感が色濃くその影をやどし、やたらと、人間の無力や絶望感を強調するむきが多いようです。そしてそれをもって自分の存在理由にしているようです。当然、そこには、無常なる人間を救済せんとする責任ある態度は出てきそうにありません。いま、私たちの日夜の活動は、そうした退廃的な風潮を打ち破っているともいえます。大聖人の仏法は、人生が無常であるからこそ一瞬たりとも、おろそかにせず生を充実させるべきことを説かれているのです。  私達は一人でも多くの人に、大聖人の仏法を伝えることによって、はかない人生を歩む人々に、真に充実した人生のあることを教え、救っていきたいものです。(文庫本「きょうの発心」234)

267mumei:2010/03/21(日) 22:09:30
御書p496・②(p289・⑰)      妙法流布こそ仏弟子の実践
只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば、謗法の者おおからん世には必ず三類の敵人有って命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら、我もせめず国主にも訴えずば、教えに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり。

通解
ただ、人を気にすることなく、経文のままに法理を弘通していくならば、謗法の者が多い世においては必ず三類の敵人があって命に及ぶ難があると経文に明かされている。その仏法の違目を見ながら自分もせめず、国主にも訴えなければ、仏の教えに背くことになり仏弟子とはいえないと説かれているのである。

拝読の手引き
折伏こそ御本仏日蓮大聖人の本眷属としての道、仏弟子としての道をまっとうする唯一の実践であることを述べられた一節です。  大聖人は当時の民衆が相次ぐ三災七難によって塗炭の苦しみに喘いでいる実情を見て、人間としての共通の悩みに立って、立正安国の戦いを起こされたのです。  あくまでも民衆救済を第一に、民衆の味方として、民衆の幸福を願い、邪悪な思想、権力と厳しく対決し、平和な社会建設に生涯を貫かれたのです。この崇高な民衆救済の精神こそ創価学会の根本精神であり、私たちの実践の根本精神でなければなりません。  ひるがえって現代社会の世相を見る時、科学技術は高度に発達し、物質的にも非常な繁栄を誇っていますが、その実、人々は生きがいを失い、精神的空洞化は、ますます増大しつつあります。さらに、戦争、物価高、公害といった人災がますます顕著な形であらわれ、日に日に人々をおびやかしています。  こうした、文明、時代、人間の荒廃の本質を見極め、その転換を図っていくのが、私たちの使命であり、責任なのです。  時代、社会を変革し、社会を根本的に蘇生させていくために、私達は真の仏弟子として妙法流布の実践に勇敢に取り組んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」265)

268mumei:2010/03/23(火) 10:20:29
御書p497・③(p291・⑩)        無常は昨日の夢          
誠に生死を恐れ、涅槃を欣い、信心を運び、渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし

通解
誠に生死の苦しみを恐れて涅槃を願い、妙法の五字に信心を運び、これを渇仰するなら遷滅無常(万物は生滅をくりかえし、変化するものであり、常住でないということ)は昨日の夢となり、悟りの菩提は今日の現実となるのである。ただ南無妙法蓮華経と唱えさえするならば、滅しない罪障があるだろうか、来ない福徳があるだろうか。どんな罪障も消滅し、どんな幸福もおとずれるのである。南無妙法蓮華経は真実甚深の法でありこれを信受すべきである。

拝読の手引き
折伏こそ御本仏日蓮大聖人の本眷属としての道、仏弟子としての道をまっとうする唯一の実践であることを述べられた一節です。  大聖人は当時の民衆が相次ぐ三災七難によって塗炭の苦しみに喘いでいる実情を見て、人間としての共通の悩みに立って、立正安国の戦いを起こされたのです。  あくまでも民衆救済を第一に、民衆の味方として、民衆の幸福を願い、邪悪な思想、権力と厳しく対決し、平和な社会建設に生涯を貫かれたのです。この崇高な民衆救済の精神こそ創価学会の根本精神であり、私たちの実践の根本精神でなければなりません。  ひるがえって現代社会の世相を見る時、科学技術は高度に発達し、物質的にも非常な繁栄を誇っていますが、その実、人々は生きがいを失い、精神的空洞化は、ますます増大しつつあります。さらに、戦争、物価高、公害といった人災がますます顕著な形であらわれ、日に日に人々をおびやかしています。  こうした、文明、時代、人間の荒廃の本質を見極め、その転換を図っていくのが、私たちの使命であり、責任なのです。  時代、社会を変革し、社会を根本的に蘇生させていくために、私達は真の仏弟子として妙法流布の実践に勇敢に取り組んでいこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心」265)

269mumei:2010/03/26(金) 11:11:49
御書p497・③(p290・⑱)        真心の仏法対話
若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と俱に悪道に堕つべし。

通解
もし仏法を修行する人があって、謗法の悪人を罰しないでただ観念思考を専らにして法の邪正権実をも簡ばないで、それが慈悲であるかのように詐りよそおう人は、もろもろの悪人とともに悪道のおちるのである。

拝読の手引き
妙法の実践者である私たちが、法の邪正、権実を正さずして、安易な妥協を図ることを厳しく戒められています。  日蓮大聖人の仏法は、全民衆の仏法であり、社会に大きく開かれた宗教です。  社会との厳しい戦いを忘れた宗教は、いつしか社会、民衆との間に深い溝をつくり閉鎖的となり、結局、堕落した死せる宗教となってしまうでしょう。  日蓮大聖人の仏法は、利己主義の思想ではなく、あくまでも民衆の幸福実現のために尽くす利他主義の思想です。その気高い崇高な精神、民衆救済の精神を、自らの信条として実践していくのが私達の使命であり、責務なのです。  社会のさまざまなゆがみが誤った思想、誤った宗教によって引き起こされていることを知った私達は、混乱と矛盾の様相を示す社会の現状を黙視するわけにはいきません。どこまでも自己の確信を人々に訴え、覚醒を人々に促していくのは宗教者として当然の使命ではないでしょうか。  反対にそうした基本的な実践を怠り、傍観者的態度を取っていくならば、それは宗教者として失格であり、後悔と、敗北の人生に堕落してしまうことを知るべきでしょう。  私達は一人ひとりの真心の仏法対話を通し、新しい社会を、切り開いていく崇高な実践を力強く推進していきたいものです。そこに栄光の人生が開けることを強く確信して――。(文庫本「きょうの発心」260)

270mumei:2010/03/28(日) 11:55:11
御書p498・②(p291・⑰)       如意宝珠の一珠
如意宝珠は一つあれども万宝を雨して欠処之無し。是れ又少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といヘリ。此等の道理を知らずや。所詮実相の理の背契を論ぜよ。強ちに多少を執する事なかれ。

通解
如意宝珠(御本尊)は、たった一つの珠であるけれども、それから万宝を意のままに取り出すことができ欠けるところがない。これはまた少が多を兼ねている姿ではないだろうか。世間のことわざにも「一」は「万」を生みだす母といっている。これらの道理を知らないのだろうか。所詮、実相の心理にしたがうか、そむくかで問題を論じなさい。無理に多いか少ないかに執着することがあってはならない。

拝読の手引き
人が物事を判断する際の、本質的な規範、基準を示された御文です。それとともに、人がいかに目先の事や浅い見地で、判断しているかについても、鋭く指摘されています。  私達が友人や近隣の人に御本尊の偉大さ、南無妙法蓮華経の功力を語る時、よく経験することですが、意外と、大小,広狭、多少の範疇で判断している人が多いということです。批判しないまでも、私達の言葉や体験を嘲笑したり、無関心であったりしています。  よく聞かれる言葉に「御本尊だけで幸福になるとは考えられない」とか「南無妙法蓮華経の七字に、一切の万法を含むなんて……」と、御本尊や南無妙法蓮華経の力が、普遍妥当性を有する真理か否かを、真剣になって検討、思索することなしに、安直に拒否する姿があります。その拒否の根底にあるのは、狭きは広きに、少は多に、小は大に含まれるはずであるというその価値判断です。  これはなにも、信心していない人達に限るのではありません。私達においても、信心が弱まり、御本尊への確信をなくしたときに、この基準で信心をおしはかるようになります。とくに、前途にこえがたい難題が横たわっているときなど、それが余りにも大きく見えて、信心で突き破るのが不可能に思える時があるものです。  しかし、如意宝珠の一珠は、一だけれでも、万宝を生みだすのであり、いかに難問でも打破する力を御本尊は与えてくれるのです。これこそ信心の極意といえましょう。私達は常に“実相の理”に照らして、御本尊をだきしめて前進したいものです。(文庫本「今日の発心」152)

271mumei:2010/03/28(日) 21:57:37
題名    :如説修行抄
別名:    
対告衆   :
執筆年次 :文永10・5
聖寿    :52
西紀    :1273
著作地: 佐渡・一ノ谷
大意   :鎌倉で難と戦っている門下一同を激励され、如説修行の姿を詳しく教示されている。  創価学会は、初代会長の牧口常三郎先生以来、どこまでも「日蓮大聖人直結」御書根本』によって、広宣流布の一切の環境を切り開き、前進してきました。ここに未来永劫にわたる学会の不滅の原点があります。この「絶対勝利の信心」の根幹の精神を拝していくのが「如説修行抄」です。  「如説」とは文字通り、「仏の如く」との意味です。また、「師の如く」とも拝することができます。  何よりも大聖人御自身が、正法である法華経を身読されて「如説修行」するお姿を門下に教えてくださいました。  それは釈尊の説いた正法が見失われ、人心が乱れ、争いごとが惹起される末法の闘諍言訟の時に、決然と、万人成仏の旗を掲げられた「破邪顕正」の言論闘争であられます。この大折伏戦は、経文に説かれている通り三類の強敵を招き寄せました。大聖人は、その魔性に敢然と立ち向かって勝利され、法華経こそが真実であることを証明されたのであります。  私たちにとっての如説修行とは、大聖人が仰せられているままに実践することです。  青年部は今こそ、大聖人の大哲理を深く拝して、「確信」と「言論の力」を鍛えに鍛えていただきたい。  どこまでも「師匠の仰せのまま」に、苦難に臆さず理想のために戦う仏弟子の生き方を教えられたのが本抄です。「師弟不二の書」ともいうべきこの重書を、ただただ末法万年の広布のために、未来永遠の創価の勝利のために、魂にきざみつけて拝してまいりたい。

272mumei:2010/03/29(月) 10:32:34
御書p501・①(p554・①)      真正の弟子に末法流布の覚悟を促す
夫れ以れば末法流布の時・生をこの土に受け此の経を信ぜん人は如来の在世より猶多怨嫉の難甚だしかるべしと見えて候なり

通解
よくよく考えてみるに、末法という法華経を流布すべき時に、生をこの国土に受け、この経を信じる人には、釈迦如来の在世よりも「猶多怨嫉」の難が激しく起ると経文に明らかなのである。

池田先生の指導
“これからは、本物の弟子によって一切が決まる“  “真剣な弟子が立ち上がれば、広宣流布は必ずできる”  この日蓮大聖人の御確信が、「観心の本尊抄」御執筆の翌月の著作である本抄「如説修行抄」、さらにまた一月後の「顕仏未来記」から烈々と拝されてなりません。  これらの御抄は、まさに大聖人の御遺言の書とも拝察されます。本抄は“不惜の弟子よ今こそ折伏行に立ち上がれ”との渾身の呼びかけであり、「顕仏未来記」は仏法西還・閻浮提広宣流布を遥かに展望された理想実現の書です。  すなわち、末法万年にわたる一切衆生救済という壮大な民衆仏法の大構想は、「日蓮と同意」「日蓮が如く」とあるように、真正の弟子が出現して初めて現実のものとなる。ゆえに、全門下に、“わが本物の弟子よ、不惜の心で末法広宣流布の大聖業に立ち上がれ”と全魂の呼びかけをなされているのではないでしょうか。  本抄の冒頭は、末法において法華経流布の時に、この国に生を受け、法華経を信ずる者には、釈尊の時代よりも甚だしい難が競い起るとの「猶多怨嫉況滅度後」の経文から説き起こされています。  これは末法流布の使命の自覚と苦難の覚悟を促されているのです。苦難に臆する弱き精神では、広宣流布の大業を成し遂げることはできません。大聖人と同じく民衆救済の深い精神に立ち、不惜身命の強靭な心で大難に立ち向かってこそ、真の弟子です。また、師匠と同じ心で共に戦える喜びが、あらゆる苦難を乗り越える力となるのです。続く御文で大聖人は、釈尊の在世と、末法とを比べて、釈尊の時代よりも末法のほうが激しい大難が起こることは必然であることを明快に論じられています。  在世で「教えを説く人」は「仏」であり、かたや末法の師は「凡師」である。また、在世の弟子は「大菩薩・阿羅漢」かたや末法の弟子は「三毒強盛の悪人等」である。  仏が法を説き、立派な弟子が実践した時代にあってもなお、怨み妬む者が多かった。ましてや、外見は凡夫の師匠が法を説き、貪瞋癡の三毒の強盛な人々が弟子である末法では、在世以上の大難が競うのは必然であると示されています。  ゆえに「善師をば遠離し悪師に親近す」〈p501〉と仰せのように、せっかく善き師・日蓮大聖人にめぐりあえたのに、正邪の判断を失い、自ら離れて悪師に近づいていってしまうのです。それが末法の現実です。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)

273mumei:2010/03/30(火) 11:12:43
御書p501・⑤(p554・⑤)       「何があっても恐れるな!」
真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり,されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ、兼ねて申さざりけるか経文を先として猶多怨嫉況滅度後・況滅度後と朝夕教へし事は是なり 

通解
真実の法華経の如説修行の行者として師となり、その弟子檀那となるならば、三類の敵人が必ず現れるのである。 そうであるからこそ、「この法華経を聞き、信心を始めた日から覚悟を決めるべきである。法華経に『ましてや、釈迦滅後はなおさらである(況滅度後)』と説かれる通り、三類の敵人による大難が激しいであろう」と言ってきたのである。  ところが、私の門下の中にも、以前からそう聞いておきながら、いざ大小の難が起こってくると、今になって初めて気づいたかのように驚き、肝をつぶして、信心をやぶってしまった者がいる。  かねてから言っておいたではないか。経文を第一として、「釈尊の在世でさえ敵対し嫉妬する者が多い。それにもまして、滅後にはなお激しい難を受ける、激しい難を受ける(猶多怨嫉、況滅度後、況滅度後)」と朝夕繰り返し教えてきたのは、このことである。

池田先生の指導
私にとって忘れ得ぬ原点となった御金言です。戸田先生との運命的な出会いを果たし、創価学会の信仰の道に入ったばかりの私は、この一節を心して肝に命じました。  大聖人は、如説修行の行者には「三類の強敵の出現は必定である」「況滅度後の大難は甚だしい」と厳然と示されています。  私は覚悟し、決意しました。  「革命は死なり」と。  私は、広宣流布の師匠・戸田先生の弟子である。師匠が獄に入り、壮絶なる闘争を刻まれた以上、この師匠と歩めば大難は必ず出来する。その時に何も恐れてはいけないと、深く心に誓いました。  もちろん、仏法は殉教主義ではありません。法のため、師匠のため、不惜の心で、働きに働き、尽くしに尽くし、生きて生き抜いて弘通してこそ、真実の死身弘法・不惜身命の実践です。  ここで大聖人は、いざ大小の難が現実に起こると、肝をつぶして臆病になり、信心を失い退転してしまう、愚かな弟子の敗残の生命を峻厳なまでに打ち破られています。  この御聖訓を講義してくださったときの戸田先生は本当に厳しかった。東京・市ヶ谷にあった先生の会社の小さい事務所の一室であったと記憶しています。真の弟子には、厳格な日蓮仏法の真髄を教えておこうとの渾身の講義をしてくださいました。  「何があっても恐れるな!一歩も退くな!」  日蓮大聖人の御精神に直結するがゆえのあまりにも峻厳なるご指導でした。  本当の信心とは、これほど厳しいのか! 本当の学会活動の使命とは、これほどまでに御聖訓通りの厳格さがあるのか!  強く深い衝撃と触発を受けました。  大聖人は、この御文の最後で、「猶多怨嫉況滅度後」と朝に夕に教えてきたのは、このことであると仰せです。  三類の強敵は、三障四魔の中でも最も恐ろしい天子魔(大六天の魔王)が、その働きをつぶさに現してきたものです。  大聖人はその迫害と敢然と戦いぬかれている師匠の立場から、「猶多怨嫉況滅度後」を日々教えられた。それでも門下たちは臆病の心を起こして退転してしまった。「千が九百九十九人は堕ちて候」(p907)と述べられているほどです。  障魔に勝つか負けるかは、末法流布において決定的に重大なことです。簡単に障魔に心を打ち破られていく弟子の姿を見ることほど師匠にとって辛いことはない。  大聖人は「開目抄」でも綴られています。「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこしてみなすてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時は忘るるなるべし(p234)  いざ苦難に直面した時に、いかに人の心とは弱くなるものか。難が起こった時こそが「まことの時」であり、信心の真価が試される時なのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)

274mumei:2010/03/31(水) 11:31:43
御書p501・⑮(p554・⑮)      「権実二経の戦」の本質
かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生まれけるこそ時の不詳なれ、法王の宣旨に背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起こし忍辱の鎧を着て妙教の剣を提げ一部八巻の肝心・妙法五字の旗をさしあげて未顕真実の弓をはり正直捨権の矢をはげて大白牛車に打ち乗って権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに或は逃げ或はひきしりぞき或は生け捕られし者はわが弟子となる、或はせめ返し・せめおとしすれども、かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし

通解
このような時に日蓮が仏の命を受けてこの国土に生まれたことは、まさに時の不運である。  しかし、法王である仏の命に背くことはできないので、経文のままに、実教をもって権教を破る戦をおこし、忍耐の鎧を着て、爾前権教を立ち切る妙法の剣をたずさえ、法華経全巻の要である妙法蓮華経の五字の旗を差し上げて、「権教には真実が説かれていない(未顕真実)との弓をかまえ、「きっぱりと権教を捨てよ(正直捨権)」との矢をつがえ、大白牛車に乗って、権教の門を一気に打ち破り、あちらへおしかけ、そちらへ押し寄せ、念仏・真言・禅・律などの八宗・十宗の敵人を責めたところ、ある者は逃げ、ある者は退き、あるいは生け捕られた者は私の弟子となる。また、立ち向かってくる者には反撃し、攻め落としてきたが、敵は多勢である。ただ一人法王の命を受けた私は無勢である。今に至るまで戦は、やむことがない。

275mumei:2010/04/02(金) 09:51:39
池田先生の指導
末法の本質は「闘諍堅固・白法穏没」ということにあります。つまり、仏教の内部から乱れ、教えと教えの争いが起こり、何が釈尊の正法かわからなくなって、ついには仏法が滅びてしまう「法滅の時代」が末法です。そして、法の乱れとともに、万民が乱れ、ついには国土が滅びてしまうのです。  そのような法滅の時代に、法を正して法滅を阻止する折伏の戦いを起こす、。それとともに、民衆を苦悩から救い、国土の崩壊を止めていく立正安国の理想を掲げて戦うのが、末法の如説修行の行者です。  これが「如説修行」であると言えるのは、法華経で仏が菩薩たちに向かって、この滅後の戦いを命じられているからです。それを「仏勅」「法王の宣旨」と言われています。  法華経では、仏の教えに方便〈三乗〉と真実(一乗)があることを示し、釈尊の滅後には正直に方便を捨てて、一乗たる法華経を弘めていくべきことを菩薩に命じます。ゆえに、法滅の危機に出現した末法の如説修行の行者は、方便権教と真実である実教(法華経)を明確にたてわけていく「権実二経のいくさ」をあえて起こさなければならないのです。あくまでも法滅を阻止するためです。 すでに諸経が混乱している闘諍言訟の末法において、この権実二経の違いを明確にしていくならば、権教を拠り所として既存の宗教的権威と化した諸宗から、必ず反発があり、誤解と批判と迫害の嵐が押し寄せてくる。ゆえに、この「いくさ」を戦う人は「時の不詳(不運)であると覚って覚悟の戦いをしなければならない。また、「忍辱の鎧」を着て迫害の嵐に耐えなければならない。  この「いくさ」における最強の武器は、仏みずから権実二経を立て分けて示された法華経そのものです。これを「妙教の剣」と言われています。仏の言葉以上に切れ味のよい折伏の力はありません。折伏はどこまでも「道理」を武器とする慈悲の戦いです。  もし道理以外のもの、たとえば権威や権力、また暴力などを武器としたならば、それは、仏の命じた思想戦とはいえません。宗教としての自己否定であり、最も堕落した末法の法滅の様相そのものと言わざるをえない。  「一部八巻の肝心・妙法五字の旗」とは、法華経の真髄としての南無妙法蓮華経の題目のことです。正義の軍勢の旗印です。万人成仏の妙法を高く掲げて、人々を不幸に陥れる悪と戦う「法華弘通の旗印」〈p1243〉です。

276mumei:2010/04/04(日) 22:48:00
「妙法蓮華経の五字」とは、全衆生の仏性の名であり、自他の仏性を呼びあらわす実践の唱題です。ゆえに、一人一人に生命の勝利の旗を打ち立てる力があるのです。「権実二経のいくさ」とは、妙法への強盛な信を根本に、真剣な唱題で自他の不幸を打ち破り、幸福を切り開く「人間勝利の戦い」にほかなりません。  この妙法五字の旗を掲げた行者が「未顕真実」「正直捨権(正直捨方便)」の仏語を弓矢として使い、魔の働きを射止めていけるのです。  また、「大白牛車」とは、あらゆる人を成仏の目的地まで運ぶ「法華一乗」を意味します。壮大にして華麗な大安心の乗り物です。どのようなところでも自在に赴き、人々を救い出すのです。  この法華経の大白牛車に乗り込んで「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ……今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。  なんと躍動感にあふれた御文でありましょうか。縦横無尽に広布に駆け巡る生命力が湧き起こってきます。この御文で、如説修行の行者が現世安穏ではないという疑難は一挙に吹き払われます。草創以来の学会員の活動もこの御聖訓通りの生き生きとした、そして力強い実践でした。  戸田先生はこの御文を通して、次のように指導されました。  「悪を放置してはならぬ! 前へ前へ攻めて出て、敢然と打ち破っていくことだ」  戸田先生は民衆救済の指導者であり、「破邪顕正」の闘将でもあられた。先生の生命には、常に邪悪と戦う破折の精神が漲っておられました。  この攻撃精神、破折精神こそ学会の魂です。青年部の心意気です。この御文に、「せめ返し」「せめをとし」ともあります。青年部の諸君には、この御聖訓通り、民衆を苦しめる一切の悪の根を断ち切るまで戦い抜く執念をもってもらいたい。広宣流布のため、人々の心にはびこっていく魔性を打ち破っていかなくてはならないのです。  この御文の最後で大聖人は「かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり」「今に至るまで軍やむ事なし」と仰せです。  創価の三代の師弟は常にこの決定した一念で戦ってきました。牧口先生は軍国主義の荒波の中、日蓮仏法の興隆のため、一人、決然と立ち上がられました。戸田先生も戦後の荒野に一人立たれ、学会の再建と75万世帯の願業に挑まれました。そして第3代の私もまた、戸田先生の弟子として一人立ち、世界広布の大航海へと旅立ったのです。  広宣流布とは仏の軍勢と魔軍との連続闘争です。「軍やむ事なし」です。戦い続けるなかにこそ、真の成仏の境涯が輝くことを「如説修行」の実践が示しているのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)

277mumei:2010/04/05(月) 13:15:44
御書p502・⑤(p555・⑤)      粘り強い対話と人間性の輝きを
法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり

通解
「法華経の折伏は、権教の理を打ち破る(法華折伏・破権門理)」の金言であるので、ついに権教を信ずる輩を一人も残さず攻め落として仏の門下とし、国中のすべての人々が、二乗や菩薩などをめざす低い教えを捨てて最高の成仏の教えを信じ、妙法だけが独り盛んになった時、すべての人々が同じく、南無妙法蓮華経と唱えるならば、吹く風は枝を鳴らさず、雨は優しく降って土を砕かず、時代は理想とうたわれた伏羲・神農のような世となって、今世では不幸な災難を払い長寿の方法を得て、人も法も共に不老不死の姿が現実となる時を、おのおの御覧あれ「現世は安穏」という経文に何の疑いもないのである。

池田先生の指導
道理と仏意のうえから「現世安穏」の経文が決して虚妄ではないことを明らかにされている御文です。  「法華折伏・破権門理」とは天台大師の「法華玄義」にある有名な言葉です。法華経における折伏は、権門の理を破折するところにある、との意です。  法華経において、仏自身が権門の理を破しているのですから、「権実二教のいくさ」においては、権教に執着する人々は結局のところ仏自身の折伏によって破折され、仏意に随わざるをえません。すべての人が仏意に正しく随っていくことを「法王の家人」となると言われ、すべての教えが一仏乗たる法華経のもとに統合されていくことを「諸乗一仏乗」と言われている。  また「妙法一人繁昌せん時」とは、仏が悟った成仏の法である妙法が正法として正しく信受され、妙法に対する誹謗・不信も一掃され、仏法が妙法を根本として栄える時を指しています。  ここで言われていることは、八宗十宗というように諸宗派が乱立して闘諍言訟の様相を呈しているなかで、そのなかの一宗派が諸宗を制覇していくことではありません。諸宗の根源でもある仏の悟りの妙法が、社会の根本原理として妨げられることなく働いてくることを意味するのです。  「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば」との仰せも、仏が実証し、説かれた万人成仏の法の功徳が、あまねく人々に行きわたっていく順縁広布の精神的状況を確立していくことにほかならない。それが即ち「立正安国」の「立正」ということでもあります。  牧口先生は、妙法流布によって実現すべき精神的価値を、一次元から「大善」と言われた。戸田先生は、全人類の「人間革命」を高らかに謳われた。そのうえで私は、全人類が目指すべき精神的価値を「生命の尊厳」として展開してきました。

278mumei:2010/04/05(月) 23:16:51
広宣流布は難事中の難事です。それは、人々の生命を変革する作業が伴うからです。妙法への「信」とは内発の力です。一人一人の生命を内から変革する「信」を芽生えさせるには、粘り強い一対一の対話が不可欠です。  したがって、言うまでもないことですが、「天下万民・諸乗一仏乗」といっても、強制されて法が広まることではありません。仏法の人間主義が人々に受け入れられ、社会の思潮となり、全人類の共通の価値観となって初めて「諸乗一仏乗」と言えるのです。粘り強い対話と、法を弘通する側の人間性の輝きがなければ広宣流布は実現しません。  その意味で、創価学会・SGI(創価学会インタナショナル〉によって、現在、壮大なる対話の陣列が築かれたこと自体、現代の軌跡といっても過言ではありません。  学会が唯一の日蓮仏法の「如説修行」の仏勅の団体だからこそ、幾多の荒波を乗り越えて広宣流布に邁進することができたのです。  いまや大聖人の仏法を根幹とする、創価の人間主義の連帯は、世界192ヵ国・地域にまで興隆しました。  まさに「一人繁昌せん」の御聖訓を自らの行動指針として体現されているのが、わが学会同志なのであります。  大聖人は「妙法一人繁昌」する時、必ず現世安穏の世の中になると御断言です。  では広宣流布の暁には、どのような世界が出現するのでしょうか。続く御文では「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」と仰せです。万人が生命尊厳の妙法を信じ、題目を唱えていくならば、大風や豪雨などが起こっても、必ず変毒為薬していくことができる。  「羲農の世」という古代中国の伝説上の世のように、わが国土に平和と繁栄と幸福がもたらせていくのです。  「人法共に不老不死」ともあります。“法の不老不死”とは、万法を包み、支え、生かしていく妙法の働きが衰えることも絶えることもないことです。一次元で言えば、すべてのものが調和し、多様性のままに価値創造の働きを起こしている姿とも言えるでしょう。  また“人の不老不死”とは、もちろん老いない、死なないということではなく、おいの苦しみ、死の苦しみに負けない常楽我浄の境涯が実現するということです。釈尊が明らかにしたように、老いや死の苦しみは無明がもたらすもたらすものです。妙法の力が顕現する世にあっては、人々はおのずと妙法への確信に立ち、無明を打ち破っていけるのです。  このように、如説修行の行者が広宣流布の戦いによって実現する世界は「現世安穏」が明らかな理想社会です。しかし「現世安穏」といっても、決して彼方の理想社会にのみあるものではありません。法華経の教えの通りに、「自他共の幸福」と「平和安穏の国土」の実現を目指して戦う如説修行の行者の境涯そのものが、じつはすでに「現世安穏」なのです。  それは、大聖人御自身の戦いを示された先の御文にも明らかです。いかなる困難にも負けず、広宣流布のために戦う躍動の姿に、真の「現世安穏」が輝きわたるのです。これこそ、日蓮仏法の「現世安穏」の本義なのです。  戦えば、自身の仏界が躍動します。最高の歓喜に満ちあふれてきます。日蓮仏法の不惜身命には悲壮感はありません。溌剌たる挑戦には、常に歓喜の生命が漲るものです。  「如説修行の行者」の戦いの意義を説かれた本抄の文末も、大聖人は「あらうれしや・あらうれしや」〈p505〉と結ばれています。また、「法華経の行者」の戦いの意義を余すところなく述べられた「開目抄」でも、その結びの一節に「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大いに悦ばし(p237)と、大歓喜の境涯を謳われています。  広宣流布への挑戦は苦闘の連続です。それは同時に、無常の歓喜が伴う仏界湧現の実践にほかならないのです。戦う生命の中に成仏の喜悦の大境涯が躍動する。「大難即成仏」「大難即悟達」の境涯にまさる「現世安穏」はありません。大聖人の御指導のままに、御書の仰せ通りに、広宣流布に戦う魂を赫々と燃え上がらせていくなかにこそ、幸福と希望の大前進があるのです。(大白蓮華2010・1勝利の経典「御書」に学ぶ)

279mumei:2010/04/08(木) 10:42:24
御書p502・⑬(p555・⑬)     仏意である「一仏乗」への信を確立せよ
予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可からず只仰いで仏の金言をまほるべきなり(中略)此等のをきての明鏡を本として一分もたがえず唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏定めさせ給へり

通解
私は言う。「それ(=すべての経も成仏の教えと信じることが如説修行であると信じること)は間違いである」と。仏法を修行するにあたっては、人の言葉を用いてはいけない。ただ仏の金言を仰いで、守るべきである。(中略)  これらの法華経の経文の規範を明確な手本として、少しも違えることなく、「ただ成仏の教えだけがある」と信じるのが、如説修行の人であると、仏は定めておられる。

池田先生の指導
本抄では、「如説修行の行者とは、どのように法華経を信ずる人なのか」との問いが立てられます。そして、末法における法華経への「信」のあり方が明らかにされていきます。  釈尊の「仏意」を明かした経典が法華経です。法華経に示された仏意とは、何か。それは「諸乗一仏乗」であり、「万人の成仏」です。  「諸乗」とは、釈尊の教えとして残されている種々の教えです。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の「三乗」は、その代表です。釈尊は人々の機根の違いに合わせて、これらの種々の教えを説きました。しかし、その真意は人々の機根を整えて最終的には「一仏乗」を教えることにあったのです。  「一仏乗」とは、“人々を仏の境涯に至らしめる唯一の乗り物”という意味で、万人を成仏させる仏の教えは最終的に、この一仏乗以外にありません。  この「一仏乗」を説ききった経典こそ、法華経です。  法華経では、仏の真意が「万人の成仏」にあることを明らかにされています。とともに、成仏の大法の名を「妙法蓮華経」と明かし、その哲学的本質を「諸法実相」と説きました。また、釈尊自身が行じた究極の成仏の因果を「本因本果」〈十界互具・一念三千〉として指し示し、法華経を修行する功徳を「一念信解」「六根清浄」「其罪畢已」「即身成仏」等として説き究めたのです。  さらにまた、万人の成仏を実現していくための「広宣流布の大願」が掲げられました。この大願に生きることにこそ、真実にして永遠なる「菩薩道」があることを宣言されています。  このように法華経は、あらゆる角度から仏の真意である「一仏乗」を教えているのです。また、全編が「一仏乗」の教えで一貫しているのです。ゆえに、法華経を聞き、受持していけば、「一仏乗」への信が起こり、成仏を妨げる迷いが打ち破られていきます。そして、成仏の因果が我が生命に刻まれ、偉大なる一生成仏の大功徳が現れるのです。具体的な教法と修行と功徳としての一仏乗は、法華経にしか説かれておりません。  だからこそ、法華経を如説修行する行者の「信」の在り方は、「ただ法華経のみを信ずる」という在り方でなければならない。仏意が分からず他教に心を移せば、一仏乗への信を失うことになりかねないからです。

280mumei:2010/04/19(月) 17:46:43
ところが、大聖人の御在世の多くの学者たちは、「諸乗一仏乗」を誤解し、誤った「信」の捉え方を言いたてました。それは、「諸乗はすべて一仏乗であると法華経で開会されるのであるから、念仏・真言・禅のどれを信じて修行しても、また、諸経典に説かれる種々の仏菩薩を信ずる信仰も、すべて一仏乗を信じたことになる」という謬見です。  ここには「開会」という考え方をめぐって、重大な間違いがあります。「開会」とは、究極の真実を明らかにして、方便の諸経をその真実に関係づけて統一していくことです。諸経を統一する究極の真実、つまり一仏乗は法華経において正しく位置づけられたうえで、その限りで法華経の一部を表現する教えとして用いることができるのです。方便の諸教は、一仏乗たる法華経を根本とした時に、初めて生かされるのです。 法華経の本義をよく知らない世間の学者は誤った「信」の在り方を主張しました。しかしながら法華経には、仏自身の言葉として正しい「信」の在り方が明確に示されております。ゆえに、この段で大聖人は、人々の誤りを認識させ、正しい「信」を確立させるために、仏法を修行する際には「人(人師)の言葉を用いてはならない」「仏の金言を根本とすべきである」と戒められてうるのです。  そして、法華経への正しい信の在り方を示す仏の金言として、本抄では、法華経の開経とされる無量義経や法華経の諸品から多くの経文が引用されております。  まず、無量義経からは、経典といっても権教(方便)と実教(真実)を明確に分けるべきことを示す「方便力を以てす、四十余年には未だ真実を顕わさず」の経文があります。また、歴劫修行を説く爾前経では永久に成仏できないことを示す経文(「終に無上菩提を乗ずることを得ず」)も引かれている。  法華経からは、まず仏自身が法華経において方便を捨てて真実の一仏乗を説くことを示す経文(「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」「二無く亦た三無し仏の方便の説を除く」「正直に方便を捨てて」があります。また、法華経を信ずる人はもっぱら法華経のみを信ずべきことを説く経文(「乃至余経の一偈をも受けずば」もある。さらに法華誹謗を戒める経文(「若し人は信ぜずして、この経を毀謗せば、即ち一切世間の、仏種を断ぜん(中略)その人は命終して阿鼻獄に入らん」等を引かれている。  そして、結論として、「唯有一乗法(ただ一乗の法のみ有り)」の経文を通して、仏法には一乗法(一仏乗)のみがあるとの断固たる信心を立てる人が「如説修行の行者」であることを示されています。  ここで注意すべきことは、これらの経文は決して“排他的信仰”を示すものと誤解してはならないという点です。大聖人は、どこまでも仏意に従って、一仏乗への信仰を確立せよと促されているのであります。  末法は、「闘諍言訟・白法穏没の時」です。すなわち、仏の真実の教えである一仏乗が分からなくなり、仏法としての統合の基軸を失い、仏法の内部の争いが生ずる。そして、ついには仏法自体が滅していかざるをえない時代です。大聖人の御在世の八宗・十宗という日本仏教の分裂状況は、一仏乗を忘れた法滅の危機を示すものにほかなりませんでした。  その仏法の危機を乗り越えるために、法華経信仰の確立をここで訴えられました。万人の成仏を成り立たせるために、究極の生命尊厳・人間尊敬の原理と実践が説き切られている経典は、法華経以外にないからです。  また、この法滅の危機は、人間の危機でもある。国土・社会の安穏を崩壊させゆく戦乱の危機でもあります。この危機を乗り越えるためにも、一仏乗への「信」を確立した主体者を輩出していくことが、法華経に目覚めた大聖人の一門の使命なのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)

281mumei:2010/04/21(水) 10:07:10
御書p503・⑦(p556・⑦)      摂受・折伏時によるべし
凡仏法を修行せん者は摂折二門を知る可きなり一切の経論此の二を出でざるなり、されば国中の諸学者ら仏法をあらあら学すと云えども時刻相応の道をしらず(中略)然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり

通解
仏道修行をする者は、摂受・折伏の二つの修行があることを知らなければならない。すべての経・論も、この二つに収まる。そうであるならば、国中の諸宗の僧は仏法を学んでいるようでも、時にかなった修行法を知らない。(中略)正法・像法の二千年間は、小乗教・権大乗教が広まる時である。末法の始めとなる五百年は、成仏への教えを完全に説いた法華経だけが広宣流布する時である。

池田先生の指導
前段では、末法における「如説修行の行者」の「信」の在り方について論じられました。この段からは「如説修行の行者」の「行」、すなわち、如説修行の人が、末法においては、いかなる実践をなすべきなのかがテーマとなっていきます。  この段の最初に質問が掲げられています。それは、法華経のみを信受するというのであれば、法華経に説かれる五種の修行を安楽行品の如くに励むのは如説修行の行者といえるのか、という問いです。  五種の修行とは、法華経法師品などに説かれる修行法で、法華経を「受持」「読」「誦」「解説」「書写」することです。大聖人は、これに対して、「妙法蓮華経の五字の受持」の一行を末法の法華経修行の根本として立てられました。  また、安楽行品には、初信の者が悪世に法華経を安楽に修行して仏果を得るための「摂受」の修行法が説かれています。例えば、「楽って人、及び経典の過を説かざれ」(法華経p431)とあるように、悪口せず心静かに修行する行き方です。ここでの質問には、大聖人が末法の修行として「折伏」を重視することへの人々の疑問が含まれています。この問いは、諸宗の人々だけでなく、大聖人の門下からもなされました。  これに対して大聖人はまず、「仏法を修行する者は、摂受・折伏の二つの修行法を知らなければならない」と仰せです。  ここで言う『摂受」とは、仏道修行に一人静かに専念する修行法のことです。法華経の中では、安楽行品のように「摂受」の修行も説かれている一方で、不軽品のように法華経の真実を  あらゆる人々に言い切っていく「折伏」の修行も説かれています。 この摂受と折伏とは、本来、両方とも必要な修行で、摂受を行ずべき時には冷静に判断して摂受を行い、折伏を行ずべき時には勇気を起こして折伏を実践すべきものです。どちらか一方が是で、どちらかが非であるとすべきものではありません。それゆえに、法華経にも両義が説かれているのです。  これに対して、折伏を排斥する摂受主義、摂受を認めない折伏主義などは、本来の「摂折二門」から外れた思想となります。

282mumei:2010/04/22(木) 10:42:12
本抄の前年(文永9年)に認められた「開目抄」や「佐渡御書」では、摂受、折伏について次のように教えられています。  「開目抄」では、「末法に摂受・折伏あるべし」といわれ、無智の者・悪人が国土に充満しているときは摂受を第一とし、邪智・謗法の者が多いときは折伏を第一とすべきであると仰せです(p235)  「佐渡御書」にも「摂受・折伏時によるべし」(p957)とあります。  すなわち、大聖人はどちらの修行を用いるかは、「時」を基準に判断すべきであると仰せなのです。それが、本抄で言う「時刻相応の道」です。  ところが、大聖人御在世の現実の仏教者たちは、仏教を学んでいるようでいて、この基準を知らなかった。それゆえに、正法・像法時代の主流的な慣行であった摂受に偏って、大聖人の折伏を仏教にあってはならないとして非難していったのです。それは、仏教の根本を知らない愚かな姿そのものでした。  本抄では、「時」が重要である例として、農作業などにおいても「時」や「季節をわきまえるべきであることを示されます。仏法にも同じく、小乗教、大乗教、実教のそれぞれが流布して得益がある「時」が存在します。  ここでいう「時」とは、単に時間の推移を意味する時ではありません。正法・像法・末法という、釈尊滅後の「法」の受容の変遷を鑑みた時代区分です。それは、衆生の生命状態や、衆生を取り巻く社会・国土の状況、思想・宗教の流布の次第などを含めた総合的な時代認識であると言えます。  大聖人は、正法・像法の2千年は、小乗教や権大乗教が流布する時であると明かされています。正法時代、像法時代は、衆生の機根が整っている人が多い。また、過去世等における法華経との結縁が熟したことにより、小乗教や権大乗教を縁として、得道していける人がいました。また、大方の傾向として、一部の人が得道できれば、その人々の人格・振る舞いを通して社会によい影響力を及ぼすことができた時代もあったともいえます。   一方、末法は、「純円・一実の法華経」のみが広宣流布していくべき時であると示されています。「純円」とは、方便を交えずに、もっぱら完全なる成仏の法のみを説く教えのことです。また、「一実」とは、究極の真実の教えという意味です。要するに「純円・一実の法華経」とは、先に述べた「一仏乗を説き尽くした教えとしての法華経を指しております。  仏法が法滅の危機にあり、しかも、衆生の生命を惑わす悪縁に満ちた五濁悪世である末法の時代においては、一仏乗を力強く説き尽くした法華経以外に、衆生と時代を救う力を持ちません。  しかも、一仏乗を誹謗する謗法の魔性が跋扈するのが末法です。大聖人は、成仏するために信ずべき法を、このうえなく明確にされた御本尊を顕されました。そして、信の持続を可能にする唱題行を立てられることによって、末法の人々の生命に内在する仏性を直接的に触発する下種仏法を確立されました。さらに、この日蓮仏法の修業の要諦として、謗法の魔性と戦う折伏の実践が不可欠であることを、御自身の実践を通して厳然と示してくださったのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)

283mumei:2010/04/24(土) 11:15:36
御書p503・⑬(p556・⑬)      末法は「法華経の敵」と戦う時
この時は闘諍堅固・白法穏没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つべし敵無き時は弓箭兵杖何かせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有って敵となりて・まぎらはしくば実教よりこれを責む可し、是れを摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな

通解
(法華経が広宣流布する)この末法の時は、「争いが絶えず、釈尊の仏法が力を失う(闘諍言訟・白法穏没)」時と説かれているように、権教と実教が入り乱れている時である。  敵がいる時は、刀や棒や弓矢を持つべきである。敵がいない時は、弓矢や刀は何の役に立つであろうか。  今の時は、権教がただちに実教の敵となっている。一仏乗の法が広まる時に、権教があって敵となって、法の正邪が紛らわしいのであれば、実教の立場から権教の誤りを責めるべきである。これを摂受と折伏という二つの法門の中では、「法華経の折伏」というのである。  天台が「法華経の折伏は、権教の理を打ち破っていく(法華折伏・破権門理)」といっているのは、まさしく道理に適っている。

池田先生の指導
ここで大聖人は、末法は「闘諍堅固・白法穏没の時」であると仰せです。これについては先に述べました。また、この末法における仏法内の混乱を「権実雑乱の砌」ともいわれています。  権教は、本来の釈尊の教えの中に位置づければ、衆生の機根を整えて、法華経の一仏乗に至らせるための方便の教えです。ところが、末法では、権教の一部を拠り所とする勢力が、自らが拠り所とする経典を絶対化して、果ては法華経を誹謗し、人々の正しい信仰を捨てさせる魔性を起こしていく濁った時代です。その意味で、権教が、直ちに「実況の敵」「法華経の御敵」となる時代であるといわれています。  このような時代や国土にあっては、法華経による万人の成仏を実現させるためには、法華誹謗の魔性を帯びた権教の勢力の悪を力強く打ち破らなければならないと仰せです。これが大聖人の折伏です。  「実教より之を責むべし」と仰せです。この折伏戦は、部分的な教法である「権教」を絶対化してしまう仏法上の悪を、仏の真意である一仏乗を顕した「実教」によって鋭く打ち破っていく思想戦です。前回拝したように、大聖人はこれを「権実二教のいくさ」と呼ばれた。

284mumei:2010/04/25(日) 21:18:36
大聖人が言われる「いくさ」は、徹頭徹尾「対話のいくさ」であり、「道理の戦い」にほかならない。どうすれば仏の真意を納得させられるかという戦いである。いかに仏の心を人々に届けゆくかという勝負である。そこで、大聖人は、天台大師の「法華折伏・破権門理」の文を再び引用されています。仏自らが、衆生を成仏させるために法華経を説いて、権門の理を鋭く破折されていった。この慈悲と道理の戦いが、法華の折伏にほかなりません。  加えて、諸宗を破折し、妙法を弘通すれば、三障四魔が競い、三類の強敵が立ちはだかることは、経典に照らして明白です。しかし、眼前に立ちはだかる民衆の不幸を黙って見過ごすわけにはいかない。何より、仏の正法が失われてしまうことを放っておくわけにはいかない。  こうした、やむにやまれぬ熱誠で立ち上がられた不惜身命・身軽法重による民衆救済の大闘争こそが、大聖人の「折伏精神」の本義なのです。万人成仏という、仏法本来の寛容の精神に満ちあふれた実践こそが「法華経の折伏」なのです。  「悪を排斥することと、善を包容することは同一の局面である」とは、牧口先生の信念でした。  心の寛容とは、人間の尊厳と平等性を脅かす暴力や抑圧を断じて許さず、万人尊敬の思想を掲げて、民衆を苦しめる魔性と戦うことです。そして「生命を手段化する思想」「人を差別・分断する思想」が広がっているならば、その精神的土壌となっている元凶を強く打ち破らなければならない。人々を不幸に陥れる無明との戦い。これが「権実二教のいくさ」の本質であり、日蓮仏法の折伏精神の根幹にほかならないのです。  すなわち、自他の仏性を信じ抜く。故に万人を尊敬する。折伏の根幹は「慈悲」の精神です。  同時に、人間の尊厳を嘲笑する魔性や無明とは毅然と戦う。「慈悲」即「勇気」の破折精神でもあります。  創価学会が、世界の宗教との文明間対話を繰り広げることができるのも、この「慈悲」即「破折」の人間主義の旗を掲げているからです。「生命の尊厳」「人間の尊敬」という哲学を共有する一切の思想・宗教とは、人類の不幸を根絶するために「人道的競争」が可能です。そもそも、人間の尊厳性を否定する「悪」と戦うことが、21世紀の人類に必要な宗教の要件なのであります。  いずれにせよ、不軽菩薩の実践に象徴される、人を敬うという尊貴な振る舞い。迫害や難にひるまない信念の強さ。邪悪と戦い抜く心。今いる場所で信頼を勝ち得て、妙法への理解を深める実証――。要するに、私たちの日々の学会活動すべてが、破邪顕正の高貴な精神闘争であり、現代における折伏行であることを強く訴えておきたい。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)

285mumei:2010/04/28(水) 11:19:09
御書p503・⑯(p556・⑯)     戦うべき時に戦ってこそ真実の修行
然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、鶏の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
通解
それを、摂受である安楽行品に説かれる四つの修行を、今の時に実践するならば、冬に種子を蒔いて春に収穫を得ようとするようなものではないか。鶏は、夜明けに鳴くので役に立つ。日暮れに鳴けば「化け物」である。  権教と実教が入り乱れている時に、法華経の敵を攻めずに山林に閉じこもり、摂受を修行しているのは、まさしく、法華経修行の時を見失った「化け物」ではないか。

池田先生の指導
ここで大聖人は、権実雑乱の戦うべき時に戦わず、山林に閉じ籠って権威を飾るような既成仏教の「摂受主義」を痛烈に破折されます。それは、暁ではなく宵になく役立たずの鶏のような「物怪」であると断じられているのです。  末法は、魔性により権教と実教が入り乱れるということは先ほど述べました。加えて重大な問題として、本来、法華経を信仰の規範とすべき天台宗の者たちが、悪を放置して折伏もせず、現実を離れた山林で摂受の修行に耽っていたのです。  戦うべき時に戦わない、悪が跋扈しても傍観する。それは悪を助長していることと同じです。結果的に、仏法破壊に加担してしまっているからです。  仏の説いた法の厳格さが薄れ、曖昧になると、実践する人々の精神も腐敗・堕落していきます。修行が懶惰懈怠になれば、魂が脆弱になり保身に走ります。そうなれば権力側にすり寄って宗教の権威化が始まる。この権威主義の悪弊が「摂受主義」の本質です。当時の仏教界の大半がそうであったといっても過言ではありません。社会の基底部たる宗教が混迷している時代だからこそ、精神の土壌を変革する折伏行の実践こそが、仏の真意を実現する如説修行となるのです。  今の日顕宗も、大聖人を迫害した当時の諸宗と全く同じです。戦時中、軍部政府権力と対峙し、非道な弾圧にも屈せずに平和と幸福のために戦ったのは、他の誰でもない、創価学会の牧口先生であり、戸田先生でした。宗門は権力からの弾圧を恐れ、御書の刊行を禁止し、御書の御文を一部削除するという、大聖人門下としてはあってはならない過ちを犯したのです。そればかりか、如説修行の牧口先生・戸田先生が逮捕されるや、両先生を登山禁止処分にしたのです。  戦後もまた、大聖人の仰せのままに折伏に励み、妙法を弘通してきたのは、宗門ではありません。学会です。その崇高な仏勅の広宣流布の団体・創価学会を破壊しようと企んだのが今の日顕宗です。  どちらが如説修行の団体か。どちらに大聖人の折伏精神が脈打っているか。正邪はあまりにも明白であります。

286mumei:2010/04/30(金) 11:57:16
戦うべき時に戦う――その真正の勇者の道を歩んだのが牧口先生、戸田先生です。創価学会は、大聖人の御精神のままに、立正安国のため、自他共の幸福のため、現実に広宣流布を進めている「如説修行」の和合僧です。まさに、広宣流布の「時」に適った仏意仏勅の団体の出現――それが、学会が誕生した意義なのです。  牧口先生、戸田先生という不世出の仏法指導者が出現されたのが、法滅の戦乱期の日本であったということにも、「時」の不思議さを感ぜずにおられません。  牧口先生は、一国を戦乱に陥れた誤った思想に対して厳然と声を上げ、御本尊根本に「罰論」を主張された。戸田先生は、戦後の荒野に一人立たれ、不幸に喘ぐ民衆を救うべく、妙法に生き抜く「利益論」で折伏をされた。そして三代の私も、両先生の御精神を受け継ぎつつ、戦後の世界の動乱の中で、仏法に説かれる「人の振る舞い」を基軸とした「実証論」を展開し、一閻浮提の広宣流布を推し進めてきました。  これも、「如説修行抄」の原理のままに「戦うべき時にどう戦うのか」「仏法のため、民衆のためにどう戦うのか」という覚悟から生じた創価の智慧です。  「いざという時、指導者は悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ、無責任である。最も大切な庶民を守れないからだ」「ひとたび、広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならぬ。戦いを起こしておいて、負けるのは、人間として最大の恥だ」  私は、この「師の説の如く」戦ったゆえに、一切に勝利してきました。特に、我が青年は、この勝利の因を勇敢に受け継いでほしいのです。(大白蓮華2010・2勝利の経典「御書」に学ぶ)

287mumei:2010/05/04(火) 22:33:56
御書p504・①(p557・①)    正法弘通に三類の出現は必然
されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと声も惜しまずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏してご覧ぜよ三類の強敵来たらん事疑い無し

通解
では末法今の時に、まさしく法華経の折伏の修行を、一体誰が経文に説かれた通りに行じてきただろうか。  誰人であろうとも、「法華経以外の諸経は、無得道の教えでありだ地獄の根源である。ただ法華経だけが成仏の法である」と、声も惜しまずに叫んで、諸宗の「人」と「法」をともに折伏して御覧なさい。三類の強敵が現れることは疑いない。

池田先生の指導
ここからは、正しい実践を貫く、末法の時に適った「如説修行の行者」とは誰なのかを示されていきます。  最初に「末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ」と仰せです。「末法・今の時」とは、前段で述べられているように「権実雑乱の時」です。この権実雑乱を正さなければ、「闘諍言訟・白法穏没」の法滅の時を迎えてしまうことは避けられません。だからこそ、「諸経は無得道・堕地獄の根源」「法華経独り成仏の法」と権実雑乱を正していく折伏が重要なのです。  爾前の諸教には、さまざまな得道が説かれていますが、爾前諸経に説かれている道だけでは決して成仏はできません。なぜならば、爾前諸経には十界互具・一念三千の法理が説かれいないからです。ただし爾前諸経を縁として法華経に入り、十界互具・一念三千の妙法に触れれば得道は可能です。しかし末法今時においては、諸宗が乱立して、自らの拠り所とする諸経を絶対化し、法華経に入るどころか法華経を誹謗する教えを立ててしまっているのです。これが権実雑乱です。  ゆえに諸経はそれ自体では無得道であり、法華経のみが成仏の法であると破折しなければならないのです。  大聖人は、たとえ誰人であっても、この折伏を行えば、三類の強敵が出現することは疑いないと仰せです。  「法華経の折伏」とは、このように成仏の道理に基づく破折なのであって、決して、排他的・独善的なものではありません。これまでも確認してきましたが、「折伏」の根幹は、成仏の法を惜しむ心であり、万人を救い切る「慈悲」の精神です。正法を誹謗し、民衆を不幸に陥れる魔性とは敢然と戦う「身軽法重」の破折精神です。それが根本にあればこそ、悪を打ち破ることができるのです。  この法華経の折伏は、法を護り、民衆を救う正義の実践であるがゆえに、増上慢の勢力から迫害が生じるのです。この構図を理解しなければ、法華経の行者が受ける大難の本質は分かりません。

288mumei:2010/05/05(水) 12:06:08
ここで、その点を理解する意味で、「三類の強敵」について再確認しておきたい。  法華経勧持品第13の冒頭には、悪世の衆生は善根が少なく、増上慢が多いことが示されています。増上慢の者は、供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかるとも説かれています。この増上慢の勢力の中で、正法である法華経を説けば、おのずと迫害が生ずることは明らかです。  勧持品では、そうした中で、法華経の会座に連なった菩薩たちが、滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても法華経を弘通していくことを誓います。その誓が示され、迫害の様相が説かれるのが「勧持品二十行の偈」です。この中で、迫害者を3種に分類したのが「三類の強敵」です。  それぞれの特徴について経文にもとづいて言えば、第1の俗衆増上慢は「無知」の者であり、第2の道門増上慢は「邪智にして心諂曲」の者であり、第3の僣聖増上慢は「人間を軽賎」し「利養に貪著」する、「悪心」の者です。  この「無知」「邪智」「悪心」という増上慢の心は、「無明」の働きによってもたれされます。  無明とは、生命に具わる根源的な無知です。その無知から煩悩などの暗い衝動が生じ、生命を不幸へと追いやっていく。特に万物が妙法の当体であることが分からない最も根源的な無知を「元品の無明」といいます。正法が説かれた時にも、それを信解できず、かえって反発して、正法を破ろうとする働きを生む。ここに無明の恐ろしさがあるのです。  人間自身に潜む元品の無明から大六天の魔王の働きが起こります。そして、この大六天の魔王に生命を支配された者が法華経の行者に敵対するのです。  「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうと修行する時に、この大六天の魔王が、それを妨げようとして様々な働きを起こすことが説かれています(p1487〜1488)。――すなわち、その人が成仏すれば多くの人が導かれて仏になり、やがてこの娑婆世界が浄土と変革される。娑婆世界を所領とする第六天の魔王は、自分の国土が奪われることを恐れるために、家来全員に命じて法華経の行者が成仏することを妨げようとする。それが駄目であれば、今度は法華経の行者の弟子檀那や国土の人々の身に入り、諌めたり脅したりして妨げようと仕組みます。それでも駄目なら、第六天魔王自ら行動を起こして、国主の身に入って法華経の行者を脅し、なんとしても成仏を止めようとする、というのです。

289mumei:2010/05/06(木) 10:58:14
戸田先生はよく、「三障四魔のうち死魔までは勝てるが、本当に恐ろしいのは最後の天子魔である」と言われていました。この天子魔とは第六天の魔王のことです。そして、「三沢抄」に示されているように、第六天の魔王が、俗衆・道門増上慢の心を操作し、僣聖増上慢の心を操作し、僣聖増上慢の身に入って、法華経の行者に対する迫害を引き起こすのです。  御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(p751)と仰せです。戸田先生は、「この第六天の魔王を破るのは信心の利剣しかないんだ」と、幾度も強調されていた。妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来的に備わる「元品の法性」が湧現するのです。元品の法性とは、仏が悟った万物の究極の真理のことです。  成仏とは、いわば、この法性と無明との戦いに勝つことです。そして、法華経の行者の折伏行とは、元品の法性を現す行動にほかならないのです。  さて、この無明と法性との観点なら、あらためて見れば、大聖人が「諸経は無得道」であると強く破折されているのは、諸経がそれを信奉する人々の無明をいっそう助長するからです。  本来、成仏の因果は、十界互具に基づかなければなりません。しかし、諸経が説くように、九界と仏界が断絶し、九界を否定して仏界を求める生き方のほうが、ある意味で凡夫には”常識的”に映り、理解しやすい面がある。それゆえに権教は衆生の機根に応じた随他意の教えなのです。  本当であれば、この随他意の方便の教えを捨てて、随自意の真実の教えに向かわなければならない。ところが、この権教の教えにとらわれてしまうと、むしろ、正しい成仏の因果が説かれている法華経を否定し、誤った因果に拘泥し、いっそう無明が助長されていくのです。  無明の働きが権教への執着を生み、権教の不十分な教えが無名をさらに助長する。この無明の連鎖ゆえに、諸経は「堕地獄の根源」であると断ぜざるをえないのです。  反対に、「法華経独り成仏の法なり」とは、十界互具の真の成仏の在り方を説く随自意の経典である法華経だけが、人々の仏性を触発する力ある経典にほかならないということです。  それゆえに、末法の一切衆生を救うためには、人々の無明を助長する諸経を破折し、法性を触発する法華経を弘通しなければなりません。しかしそれは同時に、法華経の行者に敵対する第六天の魔王の働きが激化することであり、三類の強敵が必然的に起こらざるをえないのです。ゆえに「三類の強敵来らん事疑い無し」なのです。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)

290mumei:2010/05/16(日) 09:30:47
御書p504・④(p557・④) 大難を乗り越えゆく大慈悲の闘争
我らが本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十四年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十四年の間権理を破すその間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるかは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難にあい給いし事なし、(中略)是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有るべしと知り給へ

通解
我らの本師である釈迦如来は、在世八年の間、法華経を説いて権教を折伏された。天台大師は三十数年、伝教大師は二十数年、そして今、日蓮は二十数年の間、権教の理を破してきた。その間に受けた大難は数を知らない。  釈尊が受けた九横の大難に及ぶか及ばないかはさておいて、おそらくは天台大師も伝教大師も法華経ゆえに難を受けても、日蓮が受けたような大難に会うことはなかった。(中略)  これらの大難には、竜樹や天台大師、伝教大師もどうして及ぶであろうか。したがって、如説修行の法華経の行者には、三類の強敵が必ず競い起こると知りなさい。

池田先生の指導
ここでは釈尊、天台大師、伝教大師の受難の先例をあげて、誰がどのような大難を受けたのかを明かされます。  釈尊も、天台も、伝教も、法華経の正義を宣揚し、権教の教えを破折したがゆえに、大難を受けました。釈尊が受けた「九横の大難」は有名です。大聖人は、この釈尊の大難を別として、天台・伝教の受けた大難は「悪口・怨嫉計り」であり、大聖人ほどの大難ではなかったと明言されています。  大聖人が受けられた難は、幕府からの2度の流刑、竜の口の首の座、また、左腕を折られ、額に傷を負った小松原の法難など身命に及ぶ大難が続きました。また、大聖人と共に戦う弟子たちも、流罪、入牢、所領没収、追放などの大難を受けたことが記されています。  ここで大聖人がなにゆえに、天台・伝教が受けた難と、御自身が受けられた難を比較されているのか。それは、弘通する法の深さと大難が密接に関係しているからであると拝することができます。  大聖人は、「治病大小権実違目」で、法華経を修行する時に初ずる三障四魔について、天台・伝教が受けた時よりも大聖人のほうが、「具さに起これり」「ひとしおまされたり」と示されています。そして、大難と教法の関係について、こう仰せです。「一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難また色まさる」(p998)  「事の一念三千」とは、元品の法性を直ちに触発する大法です。南無妙法蓮華経による直達正観です。無明を断ち切り、万人の仏性を呼びあらわす力ある大法です。ゆえに、元品の無明を揺さぶり、三障四魔、なかんずく天子魔、すなわち大六天の魔王をも呼び起こす動執生疑の力があるのです。

291mumei:2010/05/17(月) 10:31:13
このように、末法の法華経の行者は、成仏の根源となる下種の法を弘通するがゆえに、像法時代の天台・伝教よりも激しい大難が起こるのです。  重要な点は、そうした大難を乗り越えてこそ、真の法華経の行者であるということです。大難を勝ち越えてこそ、弘通する法の力を証明できるからです。  大聖人は、大難の渦中において、「自受法楽」の勝利の境地を悠然と表明されている。例えば、伊豆流罪の折にも、第六天の魔王の働きかけた大難の中で、「大なる悦びあり」(p935)、「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(p937)と、歓喜の大境涯を宣言されています。佐渡流罪の時にも、「当世・日本国に第一に富める者」(p223)と仰せであられる。  そして大聖人は完璧に勝ち切られた。すなわち最大の法難である竜の口の法難について、「竜口までもかちぬ」(p843)と仰せです。また、「今では魔王も懲りているであろう」(p同、通解)とまで述べられ、あらゆる大難を乗り越えて第六天の魔王に打ち勝った凱歌の御心境を明かされています。  戸田先生はよく言われました。「大聖人は、ありとあらゆる大難を忍ばれながら、一切衆生を救おうという大慈大悲の戦いをなされた。そして、すべての大難を勝ち超えられた。これが御本仏の実証であられる」と。  仏法は勝負です。三障四魔・三類の強敵に打ち勝ってこそ、真実の法華経の行者です。「開目抄」に云く、「難を忍び慈悲にすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(p202)と。  日蓮大聖人は、末法の民衆を救う大慈悲のゆえに、大難を覚悟のうえで莞爾と法華弘通に先駆なされた。苦しむ民衆を守る屋根の如く、混乱する国を支える柱の如く、一人立たれて障魔の嵐を受け切っていかれた。  それは、悪と不幸の見えざる根を看破し、苦悩する人々を励まし蘇生させつつ、自他共の幸福を目指す善の大連帯を永遠に築きゆくためであられた。いかなる障魔も強敵も、この巨大な慈悲即智慧の魂を侵すことはできません。末法万年の全人類に及ぶ究極の慈悲の姿を一身に現じておられるがゆえに、私たちは日蓮大聖人を末法の御本仏と拝するのです。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)

292mumei:2010/05/18(火) 11:12:14
バラルト(ベネズエラ)
ベネズエラの大文豪・バラルト先生は謳った。  「嵐を越えると、大空は一層、輝きを増す」「試練や苦難を乗り越えてこそ、心は感謝にあふれ、より鮮烈に幸せを感じることができる」(聖教新聞2010・3・17創価学園卒業式)

293mumei:2010/05/19(水) 10:10:44
御書p504・⑨(p557・⑨)    真実の「如説修行の師弟」を明かす
されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊・天台。伝教の三人は・さてをき候ぬ、末法に入っては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊・天台・伝教等の三人も如説修行の人なるべからず

通解
ゆえに、釈尊滅後の二千余年の間で、如説修行の行者は、釈尊・天台大師・伝教大師の三人はさておいて、末法に入ってからは日蓮並びにその弟子檀那だけである。我らを如説修行の者と言わないならば、釈尊・天台大師・伝教大師の三人も如説修行の人とはならないのである。

池田先生の指導
「如説修行」の行者とは一体、誰なのか。本抄の結論を明かされる重要な御文です。  釈尊滅後において、釈尊、天台、伝教はさておいて、末法に入ってからの「如説修行」の行者は、「日蓮並びに弟子檀那」だけであるとの絶対の御確信です。  ここで肝心なことは、大聖人お一人ではなく「日蓮並びに弟子檀那」「我等」と、大聖人に連なる弟子、門下一同まで含んでくださっていることです。大聖人と同じく、死身弘法・不惜身命の心で仏道修行に励む弟子は、如説修行の行者にほかならないことを明かされているのです。  何という御本仏の大慈悲でしょうか。  仏法の精髄は師弟です。「如説修行」という師弟不二の実践の中に成仏があるのです。  日寛上人の文段には、「如説とは師説なり。修行とは弟子に約す。謂く、師の所説の如く弟子これを修行す、これ如説修行なり」と明かされています。すなわち、「如説修行」即「師弟不二」の実践が、一切の要諦なのです。  師匠の願いはただ一つです。それは、不二の弟子が誕生することです。そして、師匠と同じ志に立った地涌の群像が、ここかしこで活躍することです。本物の弟子を求めるゆえに、あえて同じ労苦の道を歩めと、師匠は厳命するのです。本物の弟子であるがゆえの苦労と試練こそ誇りである。「日蓮並びに弟子檀那」との仰せからは甚深の意義が拝されます。  また、今日まで様々な大難の中、「師と共に」との思いで一緒に戦ってきたわが弟子に対する最大の御慈愛のお言葉であったに違いありません。  いずれにしても、本抄のこの一節を拝して、弟子たちが、不二の覚悟に立ち上がったことは想像に難くありません。  真実の弟子が立ち上がってこそ、師弟の如説修行が完成します。広宣流布の大河の流れが滔々と始まるのです。  この民衆救済の大河を受け継ぎ、大聖人の御精神のままに、現代において大難と戦いながら、広布の前進を続けてきているのが、わが創価学会です。  軍部政府からの弾圧と戦われた初代の牧口常三郎先生も二代の戸田先生も、そして三代の私もまた、数々の「三類の強敵」「三障四魔」と闘い、厳然と勝利してきました。  不当の権力による弾圧と戦った、あの大阪事件の渦中、戸田先生は訴えられました。  「破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間はそれが真実だと思い込んでしまう」「正義が嘘八百に負けてたまるものですか」「正義は勝つというが、かならずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです」  正義の中の正義であるがゆえに、戦い続けなければならない。そして断固、勝たねばならない。これこそ三代の師弟に脈打つ学会精神であり、「宗教界の王者」たる学会の如説修行の魂です。  大聖人は、女性の千日尼への御消息文の中で「よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり」(p1308)と記されています。大聖人は女性の弟子にも師と同じ「如説修行」に生きる重要性を訴えられているのです。  学会も、婦人部・女子部の「如説修行」の祈りと行動と団結で築かれてきたことを絶対に忘れてはなりません。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)

294mumei:2010/05/24(月) 09:29:46
御書p504・⑱(p557・⑱)     三世永遠の成仏の境涯を確立
一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ。縦ひ頸をば鋸にて引き切り、胴をばひしほこを以てつつき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて、唱え死に死ぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契約なれば、須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば、二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天善神は天蓋を指し、旗を上げて、我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり。あらうれしや・あらうれしや

通解
一生が過ぎゆくのは、わずかな間であるから、どんなに強敵が重なろうとも、決して退く心を起こしてはならない。恐れる心を起こしてはならない。  たとえ頚を鋸で引き切り、胴をひしほこで突き、足に枷をはめられ錐でもってもまれても、命の続いている限りは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えに唱え抜いて死ぬならば、釈迦・多宝・十方の諸仏は、霊山会でお約束されたことなので、たちまちのうちに飛んで来て、手を取り肩に担いで霊山ヘと走ってくださるのである。その時は、二聖(薬王菩薩・勇施菩薩)・二天(毘沙門天王・持国天王)・十羅刹女は法華経受持の者を助け護り、諸天善神は天蓋を指しかけて旗を立て、我らを守護して、寂光の宝刹へと必ず送ってくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか。

池田先生の指導
大聖人は、三類の強敵の責めにあい、苦難と戦う門下に対して、「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と、烈々と御指導なされます。私は若き日、恩師・戸田先生から、この御文の講義を直接、受けたことがあります。その時、戸田先生は語られました。「この決心なくして、信心のリーダーとはいえない」そしてさらに、死身弘法・不惜身命の信心を教えられた「縦ひ頚をば・・・・・・」以下の御文では、「これが信心の真髄なのである」と強く語られました。  恩師の鋭く痛烈な指導は、今も鮮明に胸中に焼き付いています。  この仰せは、当時の大聖人や門下への迫害の様子からして、決して誇大な表現ではなかったと拝察されます。  もちろん仏法は、命を軽んずるような殉教主義ではありません。「命のかよはんほどは」「唱えて唱へ死るならば」とあるとおり、最後の最後まで生き抜き、正法を行じ抜いていくべきであります。生きて生きて生き抜くための信仰です。そのうえで。もし仮に仏法のために殉教するようなことがあったとしても、それは不幸の死、悲嘆の死では決してない。戸田先生は、「妙法のための死であるならば、それはたとえば眠ったとき、はじめ、ちょっと何か夢をみたが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏は間違いない」と厳粛に語られたことがあります。また、不慮の事故などで亡くなる場合もあります。しかし、妙法の大功力を思えば、全く心配はありません。

295mumei:2010/05/26(水) 10:56:39
続く御文でお約束されている通り、題目を唱えた生命は、命終の時には、仏界の大境涯に入り、未来永劫の絶対的幸福境涯へと到達することは必定なのであります。  釈迦・多宝の二仏、十方の諸仏が、たちまちのうちに飛んで来て、手を取り肩に担いで霊山へと走ってくださると仰せです。  さらに、二聖、二天、十羅刹女等の諸天善神が、法華経を受持したものを守護し、功徳に満ちた仏国土へと送ってくださると明かされます。なんとありがたいことではないでしょうか。  大聖人は、門下に対して、もし大聖人より先に亡くなるのであれば、梵天・帝釈・閻魔大王等に「日本第一の法華経の行者・日蓮房の弟子なり」と名乗りなさいと仰せです(p1498)。  師弟不二の信心は、生死不二の安穏をお約束するのです。「生も歓喜、死も歓喜」です。法華経の行者の弟子として妙法に生き抜いた時、師弟共に「生も安穏、死も安穏」「生も勝利、死も勝利」の三世永遠の幸福境涯を実現できることは断じて間違いありません。  「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん」(p504)と仰せです。妙法を根幹に生き抜いていけば誰もがこの絶対的幸福の境地を得ることができると約束されているのです。それゆえに文末には「あらうれしや・あらうれしや」と示されているのです。  師に誓った不二の信心を貫きゆく人生以上の誉れはありません。まして、その人生は必ず「仏果」に叶い、「寂光の本土」に住して大安心の境涯となると御本仏の御断言です。したがって、いかなる大難があっても何も心配することはないし、恐れる必要はありません。さらに、御本仏の永遠の眼から見れば、「自受法楽」は間違いないと保証してくださっている。これ以上の喜びはありません。  本抄に「唱えて唱へ死に死るならば」と仰せの如く、最後まで自行化他にわたる題目を声も惜しまず唱え抜いていけるかどうか。それが師弟不二の「如説修行の信心」の肝要です。  あらためて先に拝した「法華経独り成仏の法なりと声も惜しまずよばはり給いて」の一節が心に蘇ってきます。これこそが「如説修行の実践」の要諦と言えるでしょう。  諸御抄にも「声も惜まず」(p726)「言をも惜まず」(p1438)等とあります。また「声仏事を為す」(p708)とも仰せです。  声を惜しむことなく、言うべきことをはっきり言う。語るべきことは、一言一句たりとも、語らずにはおかない――。この折伏精神に基づいた弘教の方軌を忘れない限り、広宣流布は必ず大きく前進します。そう御本仏・日蓮大聖人が御断言されているのです。  また、これが学会精神です。  牧口先生は「言わねばならないことを言えないような臆病者は、大聖人の弟子にはなれない」と語られています。  大聖人は、「この書御身を離さず常に御覧有る可く候」(p505)と仰せです。私たちも、この御書の精神を常に忘れず、誉れの「大聖人の弟子」として、どこまでも折伏精神を根幹に「一対一の対話」を真剣に実践して、自他の生命変革を遂げていきたい。  それが「宗教界の王者」たる創価学会の根本の活動です。題目を唱えに唱え、語りに語り抜きながら、諸仏諸天が賛嘆する仏勅の如説修行の拡大の歴史を勝ち開いていこうではありませんか。(大白蓮華2010・3勝利の経典「御書」に学ぶ)

296mumei:2010/05/28(金) 10:46:57
題名    :顕仏未来記
対告衆   :
執筆年次 :文永10・5・11
聖寿    :52
西紀    :1273
著作地  佐渡・一ノ谷 
大意:日蓮大聖人が釈迦の未来記を実証したことを述べ、さらに大聖人の未来記を顕し、大聖人の仏法が全世界に広宣流布していくことを予言されている。

297mumei:2010/05/29(土) 10:27:15
御書p508・②(p561・⑪)        広宣流布
月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く

通解
月は西から出て東を照らし、日は東から出て西を照らす。仏法もまたこの大宇宙の法則通りである。正法ならびに像法時代には、仏法は西のインドより、中国、朝鮮、日本へと次第に伝わり、末法においては、南無妙法蓮華経の大仏法が、東のこの日本から、西の朝鮮、中国、さらにインドへと流布してゆくのである。

拝読の手引き
ここで「月は西より出て東を照らし」と釈迦仏法を月に譬え、「日は東より出て西を照らす」と、日蓮大聖人の大仏法を太陽に譬えられているのは、深い意味がある。  大聖人の仏法こそ、東洋仏法の真髄であり、究極の実態である。あたかも、太陽が自らの熱核反応によって、莫大な光と熱を発しているように、大聖人の大仏法は、全民衆、全生命、全宇宙に、その生命力と法則性を及びしている本源なのである。  これに対し、釈迦仏法は、この本源の大聖人の大仏法、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経の光と熱を受けて、これを反射している月のごとき存在に過ぎない。釈迦一代の教え、いわんや竜樹、天親、天台、伝教等の教えは、ことごとくこの三大秘法の仏法の反映に他ならないのです。  さらに「月は西より出で」というのは、月が第一日は西の空から輝き始め、次の日は、やや東寄りの空から、さらに次の日は、またさらに東寄りの空から輝き始めることをいう。それは、太陽が、東の空から出て西へ移り、沈むのとは違う。  その姿は、釈迦仏法が、インドから中国、朝鮮、日本へと移ってきた方程式の中に、見事に示されている。インドに流布し終わって、中国に伝えられ、中国で興隆したときには、すでにインドの仏教は凋落していた。同様にして、中国から朝鮮を経て日本に流布した時も、中国における仏教の権威は、滅亡していったのである。  今、日蓮大聖人の仏法は、太陽のごとき仏法であり、日本に興り、全世界に流布するとともに、末法万年尽未来際、すなわち未来永遠にわたって、衰滅することなく輝きわたっていくのである。  日蓮大聖人御在世から現代にいたるまで、七百年の歳月が流れた。この化儀の広布の夜明けを迎えるまで、思えば、苦悩の民衆にとっては、長い闇であった。だが、それも、末法万年の広宣流布の磐石の基礎をつちかうための準備期間であったともいえよう。  今日、創価学会の出現によって、化儀の広布の幕は切って落とされた。まさに、七百年間、否、仏教三千年史の上において、一貫して希求されてきた、最も光輝ある時代が到来したのである。この時に生まれ合わせ、この偉大なる事業に参加しえた身の福運を感ずるならば、誰人といえども、不自惜身命の実践をせずに入られないであろう。(日蓮大聖人御書講義第七巻p222)

298mumei:2010/06/08(火) 11:10:46
御書p507・⑤(p560・⑭)    諸天の力を揺り動かす信心
仏の滅後に於いて四味三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。この人は守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。

通解
仏の滅後に於いて、真実を説いていない四味・三教等への邪な執着を捨て、真実を解き明かした大乗教である法華経に帰依するならば、諸天善神ならびに地涌千界等の菩薩は、必ず法華経の行者を守護するであろう。そしてこの人は、その守護の力を得て、本門の本尊・南無妙法蓮華経を一閻浮提〈全世界〉に広宣流布させていくであろう。

拝読の手引き
この一節は、日蓮大聖人が、末法の法華経の行者として、諸天等の守護の力を得て、必ず、妙法を全世界に向けて広宣流布していくと宣言された御文です。  法華経説法の儀式において、一切の諸天善神、諸菩薩は末法の法華経の行者を守護することを誓っています。すなわち、法華経には、濁乱の末法において妙法流布のために実践する人は必ず諸天等に守護されるという原理が示されているわけです。大聖人の弟子として、今、妙法広宣流布の実践に励む私達は、この御文を自らの確信として指針にしていきたいと思います。もちろん、ここで、諸天とか菩薩とかいっても、何も特別な存在をいうのではありません。それは、生命の本質にそなわる働き、作用にほかなりません。  御本尊に唱題し、境智冥合していくとき、そうした種々の働きを私たちの生命の中から湧現させていくことができるのです。つまり、諸天や菩薩の守護を得るということは、本質的には、自らの内面に秘められているそうした作用を発揮するということなのです。とすれば、諸天等の加護を得るか否かは、私たち一人ひとりの信心の強弱、または法華経の行者としての自覚の浅深にかかっているといえましょう。  ゆえに、自己の使命に目覚め、自発・能動の姿勢で妙法を社会に開いていく実践を進めていく人に対し、諸天の加護があるのは当然といえましょう。私達は、自己の信心を深め、諸天をも揺り動かすだけの信力、行力で広布の舞台を、着実に切り開いていきたいものです。〈単行本「きょうの発心百選」465〉

299mumei:2010/06/10(木) 10:28:48
御書p507・⑯(p561・⑦)   仏の未来記をすべて実証
我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり。然りと雖も日本国中に日蓮を除いては誰人を取り出だして法華経の行者と為さん。汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす。豈大悪人に非ずや。

通解
わが言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは仏の未来記を立証し、仏の実語を顕すためなのである。しからば、日本国中において、日蓮を除いてほかに誰人を選び出して法華経の行者ということができようか。それ故、あなたこそ、この法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。それこそまさに大悪人ではないか。

拝読の手引き
もしも日蓮大聖人御自身が末法に出現されなかったならば、釈迦の経文はすべて虚妄になってしまうことを厳然といいきられ、大聖人こそ末法の御本仏であることを明かされた大確信がひしひしと伝わってくる御文です。  大聖人の生涯を貫く実践は、まさに仏の未来記を実証し、仏の実語を顕現する法華経の行者としてのお振る舞いでした。その間、実に卑劣な中傷、策謀、弾圧があり、身命に及ぶ大難が競い起こりましたが、一つ一つに厳然と正義の挑戦を示されて、すべての障魔を打ち破って前進される獅子王のごとき大聖人の姿には、さすがの魔軍も、なすすべを持ちませんでした。  今日の私達の広宣流布への実践に最も必要なのは、この大確信ではないでしょうか。私達は日蓮大聖人の御遺命達成を誓って出現した地涌の菩薩ですが、それもただ単に観念的に認識するにとどまらず、日常の実践活動を通して実感されなければなりません。  私達の実践が即大聖人の未来記を事実のうえに示現するものでなければ、真実の弟子であると大確信を持っていいきれないのではないでしょうか。  どんなに時代、社会が変わろうとも、この根本精神だけは生命の奥底に刻み込んで前進していきたいものです。その確信に立って、あくまでも仏法則社会の原理をふまえ、礼儀正しく、常識豊かに妙法流布の戦いを推進していきましょう。(単行本「きょうの発心百選」408)

300mumei:2010/06/11(金) 10:07:33
御書p508・⑤(p561・⑭)    一人ひとりが”伝持の人”に
漢土の大蔵の中に小乗教は一向之れ無く、大乗経は多分之を失す。日本より寂照等少々これを渡す。然りと雖も伝持の人無れば、猶木石の衣鉢を帯持せるが如し。

通解
漢土(中国)の大蔵経(一切の経典)の中に小乗教はまったく無く、大乗経は大部分を失っている。日本から天台僧の寂照らが、少々、大乗経を渡したが、しかし、そうはいっても、伝持の人がいなければ、あたかも、木や石が衣をまとい、鉢を持っているようなものである。

拝読の手引き
ここでは、日蓮大聖人が世界でただ一人の法華経の行者であることを明らかにするために、正しく伝持する人がいないため、中国において仏法が滅失していることを述べられています。私達は、この一節から”伝持の人”の重要性について、学びとりたいと思います。  私達の信心修行の目的は、自らの人間革命にあることはいうまでもありませんが、いま一つ、日蓮大聖人の真の弟子として、妙法の広宣流布を遂行するという大目的を、瞬時も忘れてはなりません。実は、妙法の広宣流布への姿勢をはなれた人間革命などはないのです。  自分だけのしあわせを願う単なる信仰者に終止するのではなく、大聖人が全民衆救済のために全生命をかけて打ち立てられた妙法を、次代に、未来に、伝えきっていく”伝持の人”として、この生涯を生きぬいていきたいものです。  三大秘法の仏法こそ、民衆救済の根本原理であり、それは、人類共有の最高の哲理として確立され、未来永遠に、伝持されていかなければなりません。それが、崩れることのない平和建設への真の道であることは、仏法を少しく学べば、自明のことです。そして、この大仏法伝持の人として生き抜く人生こそ、最も尊い人生であることはいうまでもないことです。  所詮、妙法を正しく清浄に伝持しきっていけるのは、その偉大さに目覚めた人であり、私達以外にありません。一人ひとりが、この重大な、そして崇高な使命を自覚し、広宣流布の大願成就を、心から御本尊に祈りつつ、日々の活動に全力を傾注していきたいものです。  どのような立場にあっても、決して木石のごとき存在になるのではなく、令法久住のために、能動的、自発的に実践していこうではありませんか。(単行本「きょうの発心」342)


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