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本迹関連の部屋
1
:
美髯公
:2009/07/18(土) 14:25:22
「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も
こちらで、お願いいたします。
話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m
2
:
沖浦 克治
:2009/07/18(土) 14:30:15
ここに書かせていただきます。
内容は私の板に書いたものですので、マルチポストと判断なさるなら削除くださいませ。
本当は本迹にスレッドが立ってから書きたかったのですが、何方もお立てにならないのでここに書かせていただきます。
曼荼羅は、虚空会に建った宝塔を書き写したもの。
御書にあります。
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
(日女御前御返事)
『すりかたぎ』とは、書き写すとの意味ですね、現在の印刷やコピーです。
お曼荼羅は虚空の宝塔を書き写したもの。ですので、宝塔が本来の姿で本、お曼荼羅は書き写されたもので迹です。
双方の対比では必然的にこうなります。
では、虚空の宝塔は何を書き写したものか?
先生のご指導にありますね。
『この宝塔は、衆生己心の妙法を虚空に写し取ったものですから迹です。
衆生己心の妙法が本です。』(趣意)
これではっきり致しました。
お曼荼羅は、宝塔に対して迹。
宝塔は、衆生己心の妙法に対して迹。
ですので、衆生己心の妙法は双方に対して本。
お曼荼羅は他の二つに対して必ず迹。
物凄く単純なんですよ。
所が複雑にして飯食ってた人がいるんです。
日蓮正宗という宗派のボンさんですよ。
以下に彼らの邪義を貼っておきます。
天城さんや、恋さん、その他の眺め人が、この通りの意見を何度も何度も書いていますね。
【破邪顕正】創価教義検証館 から、抜粋引用。
池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。
3
:
沖浦 克治
:2009/07/18(土) 14:31:54
命の顕れ方です。
大聖人様の人としてのお姿は迹ですね。
少し微妙な問題ですが整理いたしましょう。
『下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。』
(百六箇抄)
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
この御文が本物かどうか?
ひとまずおきます。
人として生きる姿は、命の永遠性から見ると、迹です。
命そのものが己心の妙法で本で仏。
私はこのように思います。
ですので、私共も、大聖人様も現世は仮の姿で迹。
命そのものが本です。
『故聖霊は此の苦をまぬかれ給いすでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、』
(上野殿後家尼御返事)
命そのものは火にも焼けない。
このように仰せですね。
方便現涅槃。と言いますが、死ぬ事は方便だと説かれます。
ですので、生きる事も方便です。
命が、死んだり生きたりする事自体が命の性質の現われで、本質は更に深いところにある。
これが仏法です。
若退若出が命の本性です。
『生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり』
(御義口伝巻下)
ですので、大聖人様も私共もこの世は仮の姿です。
そして、仏と衆生も仮の姿なんですよ。
4
:
管理人
:2009/07/20(月) 22:19:26
沖浦さん、貴殿はその仮の姿をどう現じていくのでしょうか。
それによって、貴殿が仏にもなれば、四悪趣の衆生にもなる。
この信心は現世で成仏をするための信心であるのは言うまでもありませんが、例えば今が臨終の時であるならば貴殿は健やかに臨終を迎えられるでしょうか。
遣り残していることはないか、明日死んでもいいのか。
それぐらい今日を悔いなく戦ったのか。
ご本尊に申告できる唱題をお互いに心がけて行きましょう。
南無妙法蓮華経、臨終正念。
5
:
沖浦克治
:2009/07/21(火) 07:35:52
仮の姿をどう現じて行くのか??
考えもしませんね。
明日死んでも、今この瞬間死んでも、思う事は一つだけなんですよ。
この次も創価で行くぞ!!
6
:
管理人
:2009/07/21(火) 16:05:32
沖浦さん、すごいですねそれは。
まだお若いです、負けそうです。
7
:
沖浦克治
:2009/08/01(土) 06:15:01
信じる宗教や思想、信条の如何を問わず、人を憎めばいくら創価の御本尊様にお題目を唱えても功徳はありません。
怨嫉謗法を言う大謗法ゆえです。
『何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、』
(曾谷殿御返事)
仏敵だとして、人を憎めば怨嫉謗法です。
ですので、この御文の通り功徳はありません。
人を憎んでいるかどうか?
簡単に見分ける方法があります。
希望と夢を語るか?
嫉妬と、恨みを語るか?
この差を見れば簡単に判明致します。
仏敵は自分の命のなかにある。
これを知っているか?
しらないか?
敵が命の中なら、仏も同じ所にいるのです。
曼荼羅の中にいるのではありません。
人が本、仏が迹。
曼荼羅は迹。
拝む人が主体で本。
8
:
造素
◆9LvDHshvXI
:2009/08/02(日) 21:55:19
沖浦様、はじめまして。よろしくお願いいたします。
謗法があれば功徳は無い。おっしゃるとおりです。
怨嫉についてもう少し詳しくご教授いただけますでしょうか。
9
:
沖浦克治
:2009/08/03(月) 07:16:42
造素 さん、おはようございます
怨嫉は、十四謗法の最後の四ッです。
十四謗法は以下の通りです。
憍慢(きょうまん) - 増上慢と同義。慢心。おごり高ぶり仏法を侮ること。
懈怠(けたい) - 仏道修行を怠ること。
計我(けいが) - 我見と同義。人間我に執着し、自分考えで仏法を判断すること。
浅識(せんしき) - 自身の浅はかな知識によって正法を否定すること。
著欲(じゃくよく) - 欲望に執着して仏法に不信すること。
不解(ふげ) - 仏法を理解しようとせず自己満足すること。
不信(ふしん) - 仏法を信じないこと。
顰蹙(ひんじゅく) - 顔をしかめて仏法を非難すること。
疑惑(ぎわく) - 仏法を疑い惑うこと。
誹謗(ひぼう) - 仏法を謗(そし)り悪口を言うこと。
軽善(きょうぜん) - 仏法の善を信受する者を軽く見る・蔑視すること。
憎善(ぞうぜん) - 仏法の善を信受する者を憎むこと。
嫉善(しつぜん) - 仏法の善を信受する者に嫉妬すること。
恨善(こんぜん) - 仏法を信受する者に対して恨みを抱くこと。
このうちの十までは御本尊様に自行化他のお題目を唱える事で、チャラになります。
所が、最後の四種類はいくら創価でがんばっても犯すと罰が出ます。
ここで注意すべきは、この四種類の但し書きです。
仏法の善を信受する者を。
とありますね。
私もそう習ってきました。
でも、大嘘なんですよ。
御書にあるでしょう。
身子(舎利弗の過去世の名前)がバラモンに目をあげて、臭いからいらないと踏み潰されました。
その時身子は、
こう言うどうしようもない奴は救わなくてもいい。
こう、思って菩薩の行をやめたんです。
それで地獄に堕ちたと説かれます。
自分が折角目を上げたのに、踏み潰した。
憎んだんです。
軽んじたんです。
恨んだんですよ。
妬んだかどうか?
わかりませんね。
バラモンは正法(仏法)なんかやってませんよね。
だから、バラモンじゃないですか。
目をくれと言うから、自分の目を繰り抜いてあげた。
痛いですよ、麻酔だってありません。
世界中で、今出来る人10人い無いと思います。
それを、これは菩薩の修業だから。と実行したんです。
すると、もらったバラモンは、
こう言う臭い目はいらない!
踏み潰したんです。
これ、普通許せますか?
この話聞いて、それは身子がいけない。と思いますか?
私は思えません。
所が、大聖人様は、それが退転だ。と、仰せです。
仏法はね、修業する側には物凄く厳しい教えなんです。
救われる側には物凄く甘いんです。
開目抄のこの御文は、私には、
一切衆生が本来仏だから、誰でも彼でも、憎んだり、恨んだり、軽蔑したり、嫉妬すれば、即、怨嫉謗法なんだよ。
と、大聖人様がご指南だと思えます。
一昨年、気が付きました。
それまで45年ほど、気付かないでいたんです。
法華講の方々との、法論と、3度の質問会でお教えいただきました。
ですので、法華講の方々には感謝申しております。
開目抄です。
『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』
10
:
管理人
:2009/08/03(月) 18:50:12
沖浦さん、大変勉強になる貴重な体験を書き込んでくださり感謝します。
そうですよね、人は人の中でしか成長することはできない。
現実の世界が本当の仏道修行の場であります、NETがその現実における修行の掛け橋になれればこれほど有益な手段はないと確信しております。
沖浦さんにはその率先の一人になって頂いて、これからのNET界を変えて頂きたいと思います。
わたくしも微力ながら、後に続いて行きたいと決意しております。
貴重な体験をありがとうございます。
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