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したらば版 阿含宗を視る

227丑三つ時:2014/10/02(木) 21:28:22 ID:3emuB7lE0
224よりつづく。
こんばんは。

人と言うのは、つくづく悲しいものですね。突然でたものならまだしも、
問いかけに答えてくれたにもかかわらず、どうしても信じられないのです。
いやいや、そう思うのは真っ当な人の考え、なんの不思議があろうかと。

我田引水このうえなしと。たまたま偶然のこと、人はそんな事だれも信じません。

そして、本当に信ずるに足るのなら、再現してくださいと問うたのです。
日付の入る新しいカメラ。
2004 10 21 そこに再現されました。

火の付いたまま6cm上に、お線香2本入るか入らないかの窓を明けています。
この輪は崩れず閉じていて、螺旋コイルように、もう一回りするかのような勢いを感じます。
そして、この時もう一度あらわれるはずだと感じたのです。

三度目が現れたとき、何故かとても恥ずかしい思いと申し訳なさに、写真を撮ることができませんでした。

釈迦は独立独歩、たった一人で悟りを開いた。梵行も布施もあとまわし、そんなことをしている暇などないのです。
宗派、教団に頼っているうちは、何も見えません。

釈迦が生きている時は、その直接の指導によって沢山の悟りを得る者がいたといわれる。
しかし釈尊の死後、悟りを開くものが皆無になったことは、容易に想像できる。
とてつもない損失。優秀な指導者が消えてしまったのだ。
あわてて、記憶を頼りに阿含経なるものを編纂するが、悟れるものが易々と出てこないのだ。
名選手(釈尊以外の悟った者)は必ずしも名指導者とは成り得ない。

いつしか釈尊の教えでは容易に悟りに入れないという風聞ができはじめる。
そして、その期に乗じて現れるのが大乗仏教だが、いずれも当たり前だと言えば
当たり前だが、具体的な成仏の方法などないことは確か。

その使い道は、勿論全てではないが金儲けのために使わないで頂きたい。
そして現今においては、とても悔しいことではあるが悟りは遥かなる幻といえるでしょう。

       つづく


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