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表現と観察

1甘酒 ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/25(金) 23:49:52 ID:SHShiI.w

言葉の表現が豊かなことは、同時に、物事の捉え方が豊かなことを意味する。たとえば、「目の前のリンゴを自分なりの言葉で表現せよ」という問題が与えられたとき、ある人は、簡単に、「赤い果実」と表現するかもしれない。また別の人は「表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」と表現するかもしれない。はじめの人は「色」の観点から、次の人は「触感・食感・味」の観点からリンゴを捉えた。このように、言葉の表現は、その人が物事をどのように捉えているかに依存する。したがって、表現が豊かな人は、「豊かな観察眼を持っている人」と言い換えてよい。
言葉の表現力を伸ばそうと考えると、まず、「辞書」が思いつく。辞書には、大きく「電子辞書」と「紙辞書」の二種がある。電子辞書は、個別の意味を調べるには都合がよいが、新しい言葉にたくさん触れるには勝手が悪い。これには紙辞書がよい。ペラペラとめくるだけで、たくさんの言葉に当たることができる。
新しい言葉に触れることは、まさに「新しい観察眼を得る」ことに他ならない。私たちの世界を観るる眼は、言葉無しでは成り立たないところがある。これは、「世界を概念的に捉えることなしに、論理的な思考は成り立たない」という当たり前の道理から演繹できる。世界を概念単位に分節しなければ、あることとあることの関係性を考えることはできない。ー当然、論理関係も考えることができない。しかし、裏をいえば、新しい世界の切り方を知れば、「新しい世界の見方」ができるようになる、ということである。新しい言葉に触れることは、新しい世界の切り方を知ることであるから、畢竟、辞書、特に紙辞書に触れることは、新しい観察眼を得ることにつながるのである。
喧嘩師に必要な力は、辞書の意味を援用してくるような、いわゆる情報リテラシーの力なのだろうか。言葉を使って争う喧嘩師にとって、もっとよい辞書の活用があるように思えてならない。

2幸田文:2016/11/26(土) 01:40:59 ID:6uir1LcM
語彙を豊富に使いさえすれば表現できないことはないとい謬想が先入主になり、近頃の人々はむやみに多くの言葉を使う。されば明治になってから言葉の数が増えたことは非常なものでありまして、昔の人の思いも及ばない様々な名詞や形容詞ができ、また外国語を翻訳したいろいろな学術小屋技術語が生まれ、なお今日も続々と新語が作られつつあります。それで、人々は争ってそれらのたくさんな語彙を駆使し、何事を述べても微に入り細を穿とうとしますので、自然文章が冗長になり、文章体なら一行か二行で済ますところを五行にも六行にも書く。しかしそんなに言葉数を費やしたらわからないことでもわからせることができるかというと、決してそういうものではありません。書く当人は痒いところへ手が届くように言い回し、剰さず述べ尽くしたつもりでも、読む方にとってはくどいばかりで、何を言っているのやらわからない場合がしばしばある。実に口語体の大いなる欠点は、表現法の自由につられて長たらしくなり、訪問に陥りやすいことでありまして、徒らに言葉を積み重ねるために却って意味が汲み取りにくくなりつつあります。

3甘酒(凛) ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/26(土) 06:27:34 ID:ZeJhn8Ps
誰かと思えば天使か。

4甘酒(凛) ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/26(土) 07:39:34 ID:ZeJhn8Ps
たしかに、新しい言葉、難しい言葉をふんだんに敷き詰めた文章は、かえって、読み手の読解の邪魔になる。コミュニケーションにおいては、むしろ、平易かつ明快な文章である方がよい。しかし、新しい言葉、難しい言葉が、何の役にも立たないということはない。先に述べたように、これらの言葉は、物事を捉える際の、新しい観察眼になる。口としてよりも、眼として効果的に機能する。
自分の眼で捉えたことを口で語るときには、もちろん、平易な表現に還元するプロセスを省いてはいけない。しかし、「捉えること」は「語ること」よりも先んじてある。捉えたこと以上の内容を口で語ることはできない。物事を適当に捉えた感じでは、どう工夫しても、それを語る言葉には適当さが残る。ギャルのように、どんな事態も「やばい」で形容しているようでは、読み手には抽象的な内容しか伝わらない。(日常会話で、気持ちを通わす程度のときは、「やばい」は非常に便利な言葉ではある。)

続きはまた帰ったら書きます。

5ルイジ ◆o0oyKp3gPM:2016/11/26(土) 09:54:42 ID:8JxfUl7.
>>2
まあ難解な言葉って大抵は【意味が長ったらしい概念】を圧縮したようなものだから、語彙が豊富になったから必然と文が冗長になるとか言われても「?」としか返せない。
寧ろ難語を使う事により文章が短くなるように思えるけど。
例えば「意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。」という概念を説明したい時なら「敷衍」と一言言えば済むし。
よって語彙が豊富になった現代だからこそ、「表現し尽くそうとするから文が必然的に冗長になる」とは言えねーよな。

6幸田文:2016/11/26(土) 10:14:51 ID:6uir1LcM
>>5
語彙が豊富になったから必然と文が冗長になる、という論理展開はしておりません。
どこをお読みなのでしょうか。

7幸田文:2016/11/26(土) 10:30:43 ID:6uir1LcM
凛さんの最初の投稿では、目の前のリンゴをどう表現するか、という問いかけがあり、一方は「赤い果実」と表現し、
もう一方は表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」と表現している。

この例に対して、多くの語彙を駆使し微に入り細を穿つ文章を書き、当人は痒いところへ手が届くように言い回したつもりでも、
読み手にとっては却ってくどいばかりで何を言っているのかわからない場合がしばしばある。
つまり多くの語彙を駆使するから放漫に陥りやすいことでありまして、徒らに言葉を積み重ねるために意味が汲み取りにくくなるということを言っておるのです。

これは凛さんの言いたい、語彙の獲得は観察眼の肥やしとなる、という核の部分を甚だ無視したレスでありますから、ここで凛さんとの喧嘩は望みませんね。

8”無差別論破”:2016/11/26(土) 10:54:47 ID:hYC1k7r6
必然的という部分が自然に変化したとてルイジの論理は大幅に変更されないのではないか。

9ルイジ ◆o0oyKp3gPM:2016/11/26(土) 15:36:09 ID:8JxfUl7.

>>6
「必然」というのは「自然」という部分を指しています。
文章が冗長な理由:たくさんな語彙を駆使し、何事を述べても微に入り細を穿とうとするから。
と貴方は述べられています。
しかし、たくさんの語彙を駆使し、ざまざまな物事を言い表そうとする際に果たして「文章が冗長になる」のでしょうか?
>>5でも前述しましたが、「難語には意味の長い概念を短く言い表すものがある」事が前提にあります。
要するに、”たっくさんの内容を言い表したい時”にも、ぽいっと”一個の言葉を用いる”だけで、物事が言い表せられる場合があるのです。
しかしこれは「自然文章が冗長になり〜」の部分と相反してしまいます。
自然と文章が長くなるのではないですか?寧ろ自然と長くなる場合は語彙が少なく、簡単な言葉で言い表そうとするときではないのですか?
例えば「数学」について高校生に教鞭を取る時と、小学生に教鞭を取る時とでは全く状況が異なります。
常識的に考えて、算数を理解していることが普通な高校生にとっては、「算数の内容は暗黙の前提」において勧めても構いませんが、小学生は違います。
「数学の知識」を使ってはいけなく、「算数の知識」から説明しなければならないので、より長い文章を書く事になってしまいます。
言葉の表現が豊か(語彙を豊富に使うこと)なら文章が冗長になるのではなかったのですか?
大抵の小学生にでも理解できるような言葉程度で「語彙が豊富」になるわけでもないと思いますけどね。

10幸田文:2016/11/26(土) 17:15:49 ID:T/Eow/.M
>>9
ええそうですね。

11”無差別論破”:2016/11/26(土) 17:18:14 ID:12vHOzSE
君たちはご存知だろうか。グラハム数という巨大数を。これは非常に巨大な数でグラハム数を指数で表現する際には全宇宙の全物体を液にした場合でも不十分なようだ。このようにグラハム数の前では無量大数も矮小なものだ。現実的にグラハム数を指数で表現することは不可能だろう。しかし、関数ならグラハム数を表現することは可能だ。ルイジの発言したように数学の知識なら指数や算数では表現が困難だったグラハム数を現実的な幅で表記することは可能だ。別に文字が増加するわけではない。このように実際は減少している。

12通りすがり:2016/11/26(土) 19:23:17 ID:HZUKzKhc
お前らって3行で済むようなことを10行くらいの文章で表現するよね…

13甘酒(凛) ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/26(土) 19:50:16 ID:pWc1w9Ds
続き)
辞書で得た難しい言葉を、そのまま文章に用いることは避けたい。読み手に意味が伝達しにくくなる。
「豊かな表現」というのは、決して、難しい言葉を使って言い表すことではない。豊かな表現とは、
①発想(物事をどのように捉えるか)
②配置(①の結果をどのように順序立てるか)
③修辞(①、②をいかに効果的に表現するか)
の3つが十分であることをいう。
難しい言葉、新しい言葉に触れることは、①発想で役に立つ。先に述べてきた「新しい観察眼」を得ることに繋がるからである。
しかし、物事を鋭く観察できたとしても、言葉を作ったことにはならない。次に、①で得た観察結果を、どういう順番で並べるかを考えなければならない。
言葉には順列性がある。一度に多くの事柄を説明することはできない性質である。頭のうちに溜まったアイデアは、パズルピースのように、はじめはバラバラにある。それを、一列化し、順序付ける作業が②配置である。
最後に、③修辞を施す。①、②をまとめ上げる段階である。ここに「難しい言葉を、平易な表現に還元する作業」や「冗長な言葉を端的な言葉に圧縮する作業」が含まれる。

14幸田文:2016/11/26(土) 22:30:33 ID:6uir1LcM
>>9
あなたは凛さんが出しているリンゴの表現の例を読んでいますか?
目の前にあるリンゴを自分の言葉で表現する際に、片方は「赤い果実」と表現し、もう片方は「表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」と表現しています。
この例の中では、後者の表現の方が「豊かな観察眼を持つ人間」と肯定的に書かれています。
それに対して私は、多くの語彙を駆使し、痒いところへ手が届くように書かれた文章では、冗長で放漫な文章に陥りがちで、却って意味が伝わりにくくなる。
だから、潤沢な語彙で豊かな表現をしても、それが肯定される表現というわけではない、ということを言っているのです。(これは凛さんの言いたいことを甚だ無視した意見ですがw)

まずそのやりとりがあることをわかっていますか?
わかっているならあなたの意見が随分方向性の違うことはわかるでしょう。
私は恣意的に、凛さんは痒いところへ手が届くような細かな表現に肯定的なのだと仮定したうえで、その立場への反論をしているのです。
語彙を駆使し、細を穿つような表現では却って意味がわからなくなる。だからそうした表現は肯定されるものではないのだと。

ルイジさんは何をおもったか急にしゃしゃり出てきて、「難語は長い概念を短く表せる場合がある。だから語彙を駆使しても冗長な文章になるわけじゃない。」と
方向性のずれまくったコメントを寄越しているということを自覚してください。

15ルイジ ◆o0oyKp3gPM:2016/11/26(土) 22:47:04 ID:8JxfUl7.
方向性とかどうでもいいでぇ〜すWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW

16通りすがり:2016/11/27(日) 07:42:46 ID:d2wE4efM
>表現が豊かな人は、「豊かな観察眼を持っている人」と言い換えてよい。


wwwwwwwwwwwwwwww

17通りすがり:2016/11/27(日) 20:25:47 ID:d2wE4efM
はぁーーーー


>新しい言葉に触れることは、まさに「新しい観察眼を得る」ことに他ならない。私たちの世界を観るる眼は、言葉無しでは成り立たないところがある。
>これは、「世界を概念的に捉えることなしに、論理的な思考は成り立たない」という当たり前の道理から演繹できる。世界を概念単位に分節しなければ、
>あることとあることの関係性を考えることはできない。ー当然、論理関係も考えることができない。しかし、裏をいえば、新しい世界の切り方を知れば、
>「新しい世界の見方」ができるようになる、ということである。新しい言葉に触れることは、新しい世界の切り方を知ることであるから、
>畢竟、辞書、特に紙辞書に触れることは、新しい観察眼を得ることにつながるのである。


どっかで聞いたことがあるような話だが

最低限の言葉を知ってる、という前提があるとして
その後手に入れる新しい便利な言葉は、知ることでその便利なワードに頼り、頼ったあげく観察眼を失うこともあるよなぁ…




>言葉の表現が豊かなことは、同時に、物事の捉え方が豊かなことを意味する。
の辺りでも透けて見えてるが


お前、短絡的に考えがちだよなぁ…

18通りすがり:2016/11/27(日) 20:30:45 ID:d2wE4efM
新たな便利なワードを知る→豊かな観察眼

便利なワードに頼らない→豊かな観察眼

同時に言えてしまうと思うんすけどねぇ…
そして得ると同時に失う要素も含んでると言える
凛は一側面だけで語るフシあるよなぁ
前も同じこと思ったけどさぁ…

19通りすがり:2016/11/27(日) 20:51:05 ID:d2wE4efM
あと、現実的にはどうなのか、的な考えが欠けてる気がする

視野が狭くなってるんじゃないのか?

20通りすがり:2016/11/27(日) 21:36:50 ID:d2wE4efM
たとえば犬、っつーワードを知らない奴、犬という言葉を知ってる奴双方が犬を見たとする

犬を知ってる奴は「犬」として記憶してしまうかもしれない
犬を知らない奴は「毛がはえていて猫よりも一回り大きく、しっぽが曲がってて〜」と
犬、という形式で記憶せずそのものの特徴をすでに覚えている表現を使って記憶するかもしれない
その結果、「これは祖母に似てる特徴だ」とかいろんな考察につながるかもしれない

豊かな観察眼ってのが一概に言葉を知ってるかどうかで左右されるもんでもないと思うがなぁ

21甘酒 ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/28(月) 00:31:18 ID:P0Xc98P2
>豊かな観察眼ってのが一概に言葉を知ってるかどうかで左右されるもんでもないと思うがなぁ
[res]私の主張していることは「表現が豊かであるならば、豊かな観察眼を持っている」である。この命題は次の論証によって導かれる。
//ここから//
①「表現が豊かである、すなわち、さまざまな言葉によって物事を説明できるならば、世界をさまざまな概念で捉える力がある」
②「世界をさまざまな概念で捉える力があることは、豊かな観察眼を持っていることに同値である」
①、②より、
「表現が豊かであるならば、豊かな観察眼を持っている」
//ここまで//
これは別に、表現が豊かなこと(≒言葉をよく知っていること)"だけ"が、豊かな観察眼を持つことに繋がる、といった論理ではない。ときには、言葉をよくしらなくても、面白い表現を生み出しもする。重要なのは、ある特定の言葉に縛られない自由さを持っていることである。犬を単純に「犬」と名指しても、それは面白くない。別に「犬」という言葉を使わずとも、別の言葉をうまく組み合わせて、面白い表現を作り出すことは可能である。これは「犬」という言葉を知っていようがいまいが、可能である。勘違いしないで欲しいのは、「犬」という言葉を知らないことが、ときに面白い表現を生み出すのではない。「犬」という表現を知らないから、別の言葉でなんとか表現しようとした結果、面白くできたというだけのことである。「犬」という言葉を知っている人でも、犬以外の言葉を使って表現しようと試みる自由さを持っていれば、豊かな表現は生み出せるのである。このとき、「犬」以外の言葉をたくさん知っている方が、犬を表現する言葉のバリエーションは豊富になる。すなわち、たくさんの言葉を知っている方が、豊かな表現を生み出す"ポテンシャル"が高いのである。ここに新しい言葉を知る意義がある。

>最低限の言葉を知ってる、という前提があるとして、その後手に入れる新しい便利な言葉は、知ることでその便利なワードに頼り、頼ったあげく観察眼を失うこともあるよなぁ…
[res]もちろん、新しい、便利な言葉ばかりに固執すれば、観察眼は偏ったものになる。しかし、新しい言葉に固執することは、決して、「表現が豊かなこと」を意味しない。先に述べた①発想を十分に満たしたものとは言えないからである。

豊かな表現には、まず、発想が豊かであることが必要である。物事をえらく適当に捉えたのでは、どう工夫しても、語る言葉には適当さが残る。また、物事の一面しか捉えないような見方では、自然、それを語る言葉も一面的になる。「捉えること」は、いつも「表現すること」よりも先立ってあるためである。

一方、物事をさまざまな側面から観察できる眼があれば、一のことから十を知るようなことができる。ー多面的観察である。また、あらゆる物事は、それの置かれている"コンテクスト"が変われば、それの意味するところも変わってくる。たとえば、「自動車」は、<田舎>と<都会>とでは、全く違った意味を持つ。車以外の交通機関が充実している都会と、そうではない田舎とでは、当然、自動車の意味は違ってくる。また、<現代>と<明治時代>とでも、今こそありふれている自動車であるが、明治はそうでなかったことを考えれば、全く意味の変わってくることが分かる。一つの物事も、別の土地に移し変えてやれば、たちまち、全く違った意味を帯びるようになる。これは、物事をさまざまな見地から観ることで、それぞれに違った意味を見出すことができる、ということである。新しい言葉を知ることは、私たちに「新たな足場」を与えてくれる。これまでとは違ったところから、世界を眺めることができる。そして、そこにはきっと、新しい発見・発想が生まれるはずである。

22甘酒 ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/28(月) 00:40:25 ID:P0Xc98P2
この馬鹿っぷりと、幼稚な文章を見た感じ、この通りすがりはアメリカ人かな。そうだとしたら、ほんとしつこいなこいつ。俺に構っても、かえって、自分の国語力のなさを露呈するだけ。

23甘酒 ◆ZL4sD6kKAE:2016/11/28(月) 00:51:15 ID:P0Xc98P2


24通りすがり:2016/11/28(月) 01:39:44 ID:ZI9/exw2

おいおい…

>これは別に、表現が豊かなこと(≒言葉をよく知っていること)"だけ"が、豊かな観察眼を持つことに繋がる、といった論理ではない
うんうん、でも俺は弊害になるかもしれないってことを言ってるんだけど


>別に「犬」という言葉を使わずとも、別の言葉をうまく組み合わせて、面白い表現を作り出すことは可能である
>これは「犬」という言葉を知っていようがいまいが、可能である。

それは難語に対しても言えるよな
難語を知らなくても難語には「難語以外で表現できる説明」が必ずあると思うわけだが
頭の中で、「難語を使わずに表現し、想像すること」もできるよな?

そして難語を使わないからこそ見つかる観点もあるんじゃねーのか?
それは豊かな価値観につながりうるよなぁ?

>すなわち、たくさんの言葉を知っている方が、豊かな表現を生み出す"ポテンシャル"が高いのである。ここに新しい言葉を知る意義がある。
言葉を知るせいでそのポテンシャルとやらが下がるかもしれないってことに言及してるの、わかんねーのかな?

25通りすがり:2016/11/28(月) 01:53:27 ID:ZI9/exw2
>たくさんの言葉を知っている方が、豊かな表現を生み出す"ポテンシャル"が高いのである。
豊かな「表現」を生み出すポテンシャルが高いかどうかは知らんわ
ありふれた言葉を駆使して表現するほうが豊かな表現のポテンシャルが高いとも言える


>言葉の表現が豊かなことは、同時に、物事の捉え方が豊かなことを意味する。
さらに>>1で書かれているこの箇所についてだが

言葉の表現が豊か=物事のとらえかたが豊か だとは限らない

豊かとは何か、っつー話になりかねんと思うが
ものごとのとらえかた=人並み以上である と仮定した場合

さんざん俺が言った話と通じるが「人並み以下のとらえかた」になる余地が消せない

26通りすがり:2016/11/28(月) 01:59:15 ID:ZI9/exw2
「言葉を知るせいで」物事のとらえかたが人並み以下、豊かではない状態になる余地が消せない

ってことだ

27通りすがり:2016/11/28(月) 02:10:55 ID:ZI9/exw2
>>1のリンゴの話に戻るが

>「目の前のリンゴを自分なりの言葉で表現せよ」という問題が与えられたとき、ある人は、簡単に、「赤い果実」と表現するかもしれない。
>また別の人は「表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」と表現するかもしれない。はじめの人は「色」の観点から、
>次の人は「触感・食感・味」の観点からリンゴを捉えた。

これを「リンゴという言葉を知らない人がどう表現したか」として考えたらいいんじゃねーの?


「目の前のリンゴ」に対して「リンゴ」と表現した出題者、 赤い果実と表現したボキャ貧野郎はどうでもいいとして

>「表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」
これは「リンゴ」というワードを知らない奴が導き出した表現だとしたら

そういう「限られた知識の中でものごとを見ること」日常的に繰り返して、「ものごとの観察眼の鋭さの鍛錬」と考えると



どうなるか


おわかりいただけただろうか?

28通りすがり:2016/11/28(月) 06:43:44 ID:ZI9/exw2
はい、どこでつまずいてるのかおそらく理解できた
凛はメモ帳とボールペンを持って、以下の質問にYESかNOで答えて書いていけ

俺のいいぶんを簡単にまとめると
観察眼は表現力、さらにそれを伸ばす「辞書を読みまくること」が弊害になるかもしれない

っつーことだけど

理解できてる?(YES or NO)


>>1のはじめに書かれてる
>言葉の表現が豊かなことは、同時に、物事の捉え方が豊かなことを意味する

の観察眼について、俺は物事を観察する能力、とシンプルに読み取りその定義にはずれない形で主張してるつもりだが
甘酒(凛)の中じゃ観察眼は
「表面はつるつるとしていて、かじるとシャクシャクとした歯ごたえがあり、酸味と甘みが口いっぱいに広がる果実」
程度の表現から測れるようなただの感想レベルのものと
>新しい言葉に触れることは、まさに「新しい観察眼を得る」ことに他ならない。私たちの世界を観るる眼は、言葉無しでは成り立たないところがある。
>これは、「世界を概念的に捉えることなしに、論理的な思考は成り立たない」という当たり前の道理から演繹できる。
の辺りで書かれている普通「論理的思考」と言われてるようなもんを同列で語ってるか、論理的思考の側面を強く意識して考えてるんだろ?

(YES or NO)

その状況下で俺は観察眼は表現力、さらにそれを伸ばす「辞書を読みまくること」が弊害になるかもしれないという当たり前の推測をしたわけだ



「観察眼」という枠の中に「考察力や論理的思考力」、「感想、主観」があるわけだが
言葉を知らなくても感想、主観程度は持てるし言葉を知らないからこそ観察眼が養われるかもしれないよな、程度の話
当然表現を知らないということは外部には知りえないことかもしれないけどな

個人的な感想(つまり観察眼の区分けの1つ)は論理性なしで成立するはずだがどうしても論理的思考と結び付けたくてしかたないんだろ?


(YES or NO)

論理的思考力の程度、と表現の豊かさが必ずしも一致しないことはわかると思うし

>>1の文章の冒頭を
言葉の表現が豊かなことは、同時に、論理的思考力が秀でていることを意味する。
に変更したらおかしいってわかるよね?

(YES or NO)


そしてここまで書いたら俺の言い分、

>観察眼は表現力、さらにそれを伸ばす「辞書を読みまくること」が弊害になるかもしれない
にたいして間違いだと証明しようがないことだというのもわかるよね?

なぜなら言葉を知らない奴、表現力が乏しい奴が「何を見てどう考えているか」は外部の俺らには知りようがないから

わかったか?
わかったらそのメモ帳を破り捨てて頭冷やしてこい

論理的思考力と言葉の関係、に関してのみに焦点を当てた話をかましたいなら
しょうもないノイズである「観察眼」の話とわけてするべき
お前自身が己の敷いた風呂敷で滑ってんじゃねーぞ

29通りすがり:2016/11/28(月) 06:53:16 ID:ZI9/exw2
>個人的な感想(つまり観察眼の区分けの1つ)は論理性なしで成立するはずだがどうしても論理的思考と結び付けたくてしかたないんだろ?

これはミスだな
まあどうでもいいけど

30通りすがり:2016/11/28(月) 07:15:43 ID:ZI9/exw2
わかりやすく言えば


俺はリンゴをリンゴ以外の表現で簡単に表せと言われたら果物、と表現するけど

果物っつー言葉を知らなければ食べ物、食べ物という言葉を知らなければ
安いもの、と表現する

それを繰り返していくと知らないこと、は発想を豊かにすることだと思わないか?

「その言葉を知らなければ」を繰り返していくといずれ「穴をあけてポコチンを突っ込んだら気持ちよさそうなもの」や
「それを1個売れば10人のアフリカ人が10年生きられる金額になりそうなもの」等、
いくらでも観察眼を磨く土壌ができるかもしれない

言葉を知ってる故に「そこいらに転がっていた安易な言葉というツールに頼ってしまうかもしれない」という意見であり

>言葉の表現が豊かなことは、同時に、物事の捉え方が豊かなことを意味する
は異論があるんですよ

これは俺が思いつく限り最大限わかりやすく表現しきったつもりだけど
これでもわからねーならどうしようもねぇな

あと長文はうっとうしいからほどほどにしとけよ凛

31通りすがり:2016/11/28(月) 07:21:22 ID:ZI9/exw2
ラスト


凛は言葉を知ってるようだけど


俺に言わせれば、言葉を知ってるせいで「俺ならこう表現する」「俺ならそんな表現はしない」等のしょうもない思考が邪魔し、
結果観察眼の弊害になってる気がしてならねーんだけどなぁ

お前よく「何言ってんだ?」とか「日本語がおかしい」とか言い出すじゃん?

32ルイジ ◆o0oyKp3gPM:2016/11/28(月) 17:57:01 ID:AEzhnJFM
連投はできればやめていただきたいです。
言いたいことをまとめてからよろしくお願いします。

33りおし:2016/12/13(火) 14:10:14 ID:RCbittRI
例えば犬という単語を知らない人は犬を表現するのに多様な言葉を用いるだろう。
犬という単語を知っている人は犬という単語を使用して表現を圧縮する事は出来るが、前記の犬という単語を知らない人にとっては犬という単語は難語である。
但し犬という単語を知らない人でも、犬という単語を知っている人と同等の多様な表現が出来るのであれば、それぞれの表現は同等であると言える。ただ、犬という単語を知っているかどうかの違いである。
しかし犬という単語"だけ"しか知らず、多様な表現を知らない人は、少なくとも豊かな表現を発信する事は出来ない。
表現を持ちえない人は、観察する事は出来るだろうが、整理するのは困難であろう。言葉を知らない幼児が外界を見るようなものだ。これは何だろうと思うに違いない。
語彙が豊富ではないと、少なくとも理解するのに甚だ困難である事は、確かであると言える。

よって凛の言う「表現が豊かな人は、「豊かな観察眼を持っている人」と言い換えてよい」」は適当ではない。観察眼は好奇心より生じる。知ろうとする意志が存在する。むしろ表現が乏しいからこそ観察眼は豊かになるとも言えるだろう。
ただ、整理や理解が甚だ困難なだけである。

凛の主張を寛容したとして、通りすがりの「便利な言葉に頼り観察眼を失うこともある」は適当ではない。必ずしも頼るとは限らない。犬という難語を後から知ったとしても豊かな観察眼が失われるわけではない。
例えば四足動物という犬をさらに包含する便利な単語を知ったとしても、犬を指して四足動物である、とだけで整理するのはただの怠慢である。四足動物という便利な言葉を知っていても、好奇心があれば四足動物以上に精細に表現して整理するだろう。

通りすがりは全体的に表現が乏しいように思える。「あるんじゃないのか」と相手に同意を求めたり、「気がする」「思う」等、表現が曖昧で冗長な文章であると言える。
レス数も多く、主張や要点がはっきりしない。もう少し無駄を省いてもいらいたいものだ。

34りおし:2016/12/13(火) 19:30:36 ID:RCbittRI
そういや今夜もぱーてーが「伝わらなければ説明したことにならない」と言って相手の説明を拒否してたが、
聞き手の理解力が話し手は知りえないので、話し手が相手に伝わるだろうと認識している程度の説明を果たしていれば、それで説明したと言える。
極端な事を言えば、犬を説明するのに「四足動物である」でもいい。しかし今夜もぱーてーは、伝わってない説明になってないと繰り返すばかりであった。
少なくとも聞き手は何が伝わってないと見なしているのか説明するべきだろう。話し手は聞き手が何が分からないかも分からない。
上記の例で言えば、「四足動物は多様にあってそれだけでは不十分である」等、具体的に示す事で話し手に伝える事が出来る。
そのような伝える努力をしないで、話し手のみに伝えるよう求めるのは妥当ではない。話し手に説明を求める、伝えるように求めるのなら、聞き手側にも何が分からないかを話し手に伝える努力はするべきである。


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