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記録庫2

179考える名無しさん:2019/01/25(金) 01:34:50 ID:btf.2.GY0
今回も茂木氏のツイートを間接言及ではなく直接RT。

この感じ、先日俺が俺の(高IQの)母親と電話したときに「やはり血筋に、」と感じた物、
そして、俺自身も「この感じ」に人生が左右されている。

例えば、学生時代に「この感じ」が起きたらどうなるか?それがクラスだったら、単位落とす。

「受験はゲーム感覚で乗り切るべき」とは言えるが、
自分の使命・生きがい・真剣な研究トピックと重なってしまうと、ファッショナブルにゲーム感覚で[通過/時間を無駄に]することができない。

これは、この感じは、日常語では「頑固さ」と言われるものと重なるだろう。

高IQの者達は、与えられた問題に対して[辻褄の合う結び方/正解]を解答するために、個々の間に見られる個性はなくなっていく。
創造性が個性となる一方、「頑固さ」による「(その与えられた場での)正解崩し」を行うことが、結果的にその人の個性と見られることにもなる。

表面的に見ると宗教的とも見えるその頑固さは、その本人の中では特定の論理の上で揺るがない優先度を持つ点において発揮される。

頑固さとは何か?

を論じる前に、
俺は、個人的に「感情について」改めて認識し直すことを思いついている。

「感情とは」?

感情は、クオリアを前提に想定すべき「もの」であると改めて認識している。

我々が五感、あるいはそれ以上の感覚を、全部ひっくるめて処理し、意味や認識を生む、その「統合された処理段階」を仮に「クオリア段階」と呼ぶと、
感情は、クオリア段階において発生した「熱」では?と。

ここで興味深いのが、その「熱」に、(感情には喜怒哀楽、それ以上あるように)、高い低いだけではない次元がある、ということだ。

その熱の"文学的追求"は、フランス現代思想の二の舞になるので行わない。

代わりに、「この熱」は、「クオリアの処理」の最中に発生しているものだということに注目。

クオリアの段階、
もしかすると、人は、認識するものに対して、認識したいかたち、を予め持っていて、実際のところ、その期待通りか否かによって、それを受け入れるための抵抗や加速が生まれ、その副次的に生まれた熱を、その機構内で処理する過程で、我々が実感する感情が発生しているのでは?と。

ここまでがRTする時点で思いついたことを文字で書き出してみたもの。

別のことも同時に考えながら。
別のことは、
例えばインスタグラムが流行ったのはなぜか?理由はスマホが発達したからの1つ。人に与えられたデバイスの持つ機能に対して、人が物足りなさを覚えたため。トレンド発生は技術が主体。

技術が主体で進化するのはデザインである、というのがデザイン史の取る観点だが、
発生してくるアプリの種類や内容というものも、デバイスの性能が生んでいる、と考えるのが順当。
人は、デバイスとコンテンツの間の仲介役を行っているに過ぎない。

ここにおける時代精神的な主体は、「人」にはない。

時代精神的な主体が「人」にはない。

というのは、人が時代を作っているのではない、と言えること。

例えば、アリゾナ大学の意識の研究が人間の意識の探求から離れて行っている状況などは、
「研究のためのツール」が主体であり、その「ツール」でできることを"人間"がやっているだけ。
主体が技術。


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