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俺の記録庫

66考える名無しさん:2017/07/30(日) 02:58:29 ID:UzDke0GE0
さて、というか、そんな当たり前な物の見方を、常に錯覚させ、惑わせ、上達から己を遠ざける目標設定が、「完成させる」、という「物事のカウントの仕方」。

例えば、「力を抜く」という「完成」の必要条件の存在に気付かないまま「完成させること」を実行し続けて、一体何が上達しているんだ?

「資格者になれる」ことと「上達する」ことは、全く相容れない。という感じか。

この社会では、「完成させること」をカウントする物の見方で、人間の成熟度を測って、基準を満たした者に「それをやる資格」を与える。

で、大体、この「資格者」は100点中70点位で実力が頭打ちの人達だ。

なんで70点で頭打ちなのか?というと、「上達」のために必要な「行為」も「気づき」も積み重ねていないからだ。
ここがジョン・サールの中国語の部屋的な「出来てるけど、わかってない」状態だろうと思う。

日常言語で言うと「とりあえず弾ける人」と「本当に弾ける人」の違い。

社会的に大問題なのが、そういう「本当に弾ける人」「本当に描ける人」を育成する機関も学校も存在しない、ということ。
更に悪いことに、何をどうすれば「本当に出来る人」を育てられるのかを、言語で明快に解説できる人が、それぞれの分野にそれぞれ存在していない。

単一分野において専門特化してしまうことの最大の弊害は、その個人が主観的な苦労を重ねて『本当に出来る人』へと上達を遂げたとしても、その単一の営みしか経験していないためにその人が顧みる自身の人生は、とても主観的にドラマチックに詩的に感じ取られ、他者への伝達の役に立たないことだと思う。

自分だけで完結する人生を思い描いている人は、単一分野での専門特化した生き方で良いのだと思う。
その知恵も技術も他人に引き継がれはせず、他者は、その人の功績を分析する研究に膨大な月日をかけて、人類という種の時間の無駄遣いをすることとなる。そこまで自己中なら専門特化で良いのだと思う。

何をやるにしても、「他者のことを意識するか」否か、という選択肢において、「意識しない」を選択するのなら、自分しか理解できない自分勝手なやり方で、何かを達成したとしても誰にも理解されないまま自分一人だけで終わればいい、と無意識レベルで思っているのだろうと思う。

芸術の作品を作る、といううえで、「他者の存在」を意識するのかどうか。
ほんの少しでも意識する場合、根本の根本から、他者の目が通せるように、自分で整理しながら物事を進めなければいけないと思う。

楽器の練習も同じ。自分のためだけに上達するのか否か。
最終的に、どこかに「他者の存在」が関係してくる場合、その練習の過程のうちから、他者を意識したフォーマットで組み立てていかなければいけない。
完成の末に、曲を人に聴かす予定があるのなら、そこに他者が関わっている。

プログラミングの分野では、その辺の意識は比較的発達しており、
書いた本人しか理解できないプログラムのソースコードなんて、機能したとしても、皆にとって有り難いものではない。
本人以外が手を加えるには手間がかかりすぎ、再利用もできない。発展性と拡張性がない。

一人の個人が、絵でも楽器でも、練習して、上手くなる。

この行為は、もはや「個人的に閉じた行為」ではない。この行為の段階から、誰もが見てわかるように、手を加えられるように、他者を意識して、自己を開発していかなければいけない。

そういう時代になってきている。


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