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俺の記録庫
54
:
考える名無しさん
:2017/07/28(金) 22:54:36 ID:UzDke0GE0
時代・世代によって「怒り」という感情傾向さえ変化してしまうとしたとき、世界に一体何が起きているのか。
ことある毎に俺の脳内ではメタ認知と客観視点からの現象の別解釈が発生し、「シンプルな人格・思考」からかけ離れていく。この勝手に総合的になっていく俺の理解は俺の望むところではない。
「喜怒哀楽」など、それぞれの感情傾向とは、実は「信仰」なのではないのか?ということだ。
なんでもかんでも「感謝しろ」「嬉しくあれ」
脳はそんなに一元論的な構造をしているのだろうか?と。
自分に嘘を付かないと「感謝できない・嬉しくなれない」場合、その指標は呪いではないのか。
怒りから離れ、例えば魚座は「PITY」=「失われた『それ』が現実から消えたことを残念に思い、思うだけでは収まらず、精神的に『それ』を非現実空間に存在させる」、という感情が湧き起こったときに、その魚座個人の生命がブーストする。
pityの意味を辞書以上に詳しく示す必要があった。
だから、言い換えると、魚座は「自ら、憐憫の情が発生するような状況に自己を持って行き、悲痛を味わうことで、自己をパワーアップさせていく」、という加速の仕方が、この世界での人生において、執り行われているのではないのか?と推測しているわけだ。
獅子座においては「怒り」。
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