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俺の記録庫
4277
:
考える名無しさん
:2018/12/12(水) 19:31:15 ID:U/B5TuwI0
俺が世間の人々の文化的営みや活動や作品に対して、感動することが全くと言って良いほどなく、何とも思わない、ということになっている理由は、俺の持病にあるだろうな。
今も呼吸の度にズキンズキンと左半身に激痛が走っているが、俺にとって日常となっている「死ぬ気で生きる」というところ、
ぬるま湯環境における社交がどれだけの刺激を持つべきか、は別途考慮する必要があるけれど、
表現の幅・スケールが狭くて小さくて薄くて、そういう遊びなのかな、と受け取れる。
「遊び」というのは「遊び方」が存在するから、下手に手を出せない。
おままごとの最中の幼児の中に乱入していく人は変人だ。
あえて、少し離れたところから具体例を引っ張り出してきて見ると、
「ぬるぽ」「ガッ」とかやってた奴ら、何が楽しいんだ?じゃれ合ってるだけだろ、と眺めてた。
しかし、「お金を稼ぐ」という面では「じゃれ合う広場作り」は意味がある。
手持ち無沙汰な人達を集めて満足させる、イベント企画の一種となる。
その様にして発生した営みや作品に「感動した」という反応は、なぜそうなるのかよくわからない。
最高に持てなされて満足したという意味なら理解できる。
要は、前に引用した「あの経営者は天才」=「そう言った俺が天才」というレトリックの一種として、人々は「感動した」とかそういう心の動きを無意識に比喩的に表現しているのかな、と考えられる。
しかし、そうではない場合、よくわからない。
ポーズとしての過激さと、自然として受け入れなければいけない絶対的な過激さ、というのが別々に存在しているのかな。
常に過激、刺激的である必要はないけれど、嘘っぽい感じや、ぬるい感じがする場合、その「ぬるさ」自体を保持しようという意思がより強く感じられる。「平和な今が幸せ」という意味とメッセージが、その発信者が無意識的に飛ばしているものとなる。
そこのところの伝達と受け取りの問題なのだろう。
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