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俺の記録庫
4185
:
考える名無しさん
:2018/12/07(金) 02:56:45 ID:U/B5TuwI0
学問するために必要なお金の問題を解決できるとき、
それは、もう、いち社会人として社会的に完成・成功しているときではないのか?
と気づく。
それでもまだ、学問をする必要があるのかどうかは、その大金持ちになったあとに、そこから見える景色から改めて判断すべきじゃないのか?と考えられる。
先日書いた「プライドばかり高い研究者」の人生の価値観とは異なる世界の見方となる。
逆に、
お金がないのになぜ学問をやろうとするのか?
その意志には、出世欲とは異なる何らかの動機が含まれている気がする。
神の視点からの書き方をすると、「役に立てる己を、機能する座標へ配置する」という自然な動き、使命感によるものだと思う。しかし、現実的な金やその他が邪魔をする。
唐突に「芸術」を持ち出すが、
理系研究者
芸術研究者
芸術家
この3つをベン図のような輪っかで区分けて、芸術を研究する意味を見つめる。
インパクト・ファクターのない文系研究領域の意義は何なのか。
理系研究者が「研究」という人生観を持つ根拠が、その評価される枠組みだったりするはずだ。
理系研究者は、人生自体が、ソシャゲのランキングで競い合ってる、
その「マラソンしてる最中」自体が人生、という空間に生きている。
神的評価元からの数値評価によって自己の座標を知り、その座標位置を動かすことを、人間として生きる上でやること、と考えて生命活動を行っている。
現実上に展開されたゲーム空間に自己を配置して、そのゲーム空間内のパフォーマンスを、この現実における自己の人生そのもの、と見ている。
外から見た感じは、ソシャゲの廃人とあまり変わらない。
お金が手に入るかどうか、という部分が異なるだけだろう。
知識が役に立つかどうかの普遍性は保留。
研究者という座席の視点からこの世を眺め一喜一憂、"時間"旅行をする
という点を重視しない場合、
さもなければ、教授という立場に就くことを重視しない場合、
これら2つの場合は、必ずしも「真理」や「栄智」に繋がるものではなく、それらを焦点としていないため
その道に進む必要性が懐疑される。
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