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俺の記録庫

3287考える名無しさん:2018/08/12(日) 14:30:06 ID:U2W734DA0
人はなぜ、言葉での理解、意味として自覚する必要があるのか。

現実世界の我々はアバター、という認識を前提にして、いくらか解明できる。
この「本物の自己」が「現実の外」にいるという"設定"は、宇宙人やスピリチュアルということではなく、いずれ脳機能的にも、その構造が発見されることと思う。

メタ視点の自己、ハイヤーセルフ、ガイド、宇宙人の意志、どんな捉え方でも良いけど、
「現実の物質の自己」の他に、「もっと全体をよく知っている自己、または自己と呼べる集団」が現実世界の外に存在している状態が常である、とまずは世界観を初期化する。

それら現実世界外の自己を便宜的に「メタ空間の己」と呼ぶ。

「現実の己」に「言葉での理解」「意味としての自覚」が好ましいのは、「メタ空間の己」にとってのことだ。
「現実の己」は、そこまで絶対的な志向性を持っていない。本当に、乗り物なだけ。アバターであるわけだ。

釈迦の色即是空 空即是色の「理解」も、
この物質世界の把握と、物質世界上の自己が「絶対的な属性や志向性を持っていない様」を示唆している様に見える。

「何もない」と理解する必要がある理由は、「何かある」世界・空間が他にあるからだ。
釈迦のそれは「ある・ない」量子的、てのは別次元の話。

釈迦としての「現世」からの解放、は
「言葉での理解」、「意味として自覚」の必要性とは逆らう向きの力。

釈迦のはそれで邪悪ではないのだけれど、
その行為は、あくまで、現実世界の「アバターたる己」が、アバターでしかないことを自覚し、一旦ゼロに戻るまでをゴールとしている。その先がある。

現実世界の己はアバターであり、物質世界には何でもあって何もない、と理解したとき、

ようやく「メタ空間の己」だけが存在していることを強く認識する。

このメタ空間の己が「絶対的な志向性」を持っているわけだね。
未熟な魂は、物質世界での貪りに焦点が合ったまま。次元が低い。

「現実世界の己」は、「己」が思う通りに動いてくれないと、自分が、そう動かなかった分の厄介ごと、停滞、責任、損失などの因果を背負う。

それら物質現実世界での「重荷」は、本当に不要な負荷でしかないので、「アバター」に「言葉で理解」「意味で自覚」してもらう必要がある。効率の問題。

ニーチェのツァラトゥストラが説く「苦難も人類進化の糧になる」は、切り捨てる重荷の更なる濾過・蒸溜作業。
使える部分をもっと拾うという意味と、多角的に負荷を捉えて、「抑圧からの解放」的なポジティブなエネルギーの生成に使える苦難の発掘(のための試行錯誤)ということなのだろうと思う。

最初の問いに戻ると、
逆に、言葉としての理解を不要とし、意味としての自覚を不要とする意識、それは一体何か?

全てを「無意識任せ」にしてある状態。
何が異なるのか。
「アバターの自己」に「選択権」を与えていない点が異なる。

愚かな道を歩む、というより、支配的な志向性に乗っ取られる。

「自己」の取り扱いにおける政治的な問題が、一番大きく変化する部分であり、その変化が、自身の存在の本質とも言える志向性の種類を決定づける(場合によっては、自己ではない存在にアバター自己を奪われる)状態になる。

そういうことなのだろう、ということを考えている。


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