したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

俺の記録庫

3022考える名無しさん:2018/06/11(月) 18:55:13 ID:u1Zw.0cg0
学問すらを相対化する必要があることを思い立たせる一例。

「拘り」「拘る」という語の英訳は、辞書では出てこない。

穴が存在している。ここに。
ウェブ検索すると「拘る」の英語は、ネイティブのフレーズサイトなどで幾つか紹介されている。

しかし、それらは主観による言い換えであり、ズレる。

「拘り」という語の持つ意味をひとつの色として、
集合論的にRGB上でシミュレートすると、

「拘り」をRとする。英語でRに対応する語は「無い」と、辞書は言う。
ネイティブ(バイリンガル外国人)はM(マジェンタ、ピンク色のところ)を「言い換え」として提示する。
R=M
となり、以後の意味が狭まる

表現者として第二カ国語技能をネイティブレベルまで持ち上げること、は、
言葉の意味の哲学的な理解について不十分な、浅いバイリンガル達の言語感覚と、
一見よく似て、実際、相容れないほどに異なる。

これを比喩で示す物は音程だな。
音程が近いからこそ「うなる」。絶対的に異なる。

ここで、その音程を「シンボル」として捉え直してしまうと、
435HzのAと440HzのAが同じAとして機能してしまう。

例えば、Amin(ラドミ)を構成するルートとしてどちらでも、とりあえず同じ色として見做される。

それは(「拘り」の文脈から)おかしいと思う場合は、ハーモニーを懐疑する必要がある。

435HzのAと440HzのA(二カ国語話者の比喩として)では、生き様から、性格・特性、できること・やれることから何から何まで違う。

比較には出してないが、和英辞典を作る学者、というのも全く異なる存在で、相容れない。

結局、誰が「拘り」を一番理解しているか?で優劣付けるか、さもなければ?

この問題に「決着」を付けなければいけないのは「表現者」だけである。

この事実が、他の異質な存在達の無責任と思われる在り方を、「なぜなら他の者達は詳細に定義されて無くても扱い上行き詰まらないから」との理由で肯定する。

「拘り」という身体や魂から湧き出る意思を、日英両方でそれぞれ屈折無しの完全純度で表現したいと思う「主観」だけが、この「穴」を問題視する。

他の存在達は、表現をしない。または、伝達物を屈折して横流しするだけの処理をする機能として存在している。

表現者としての主観から、その「他の存在達」を見ると、落胆してしまう。
「そんなものか」「その程度なのか」「事務員か」
と。

しかし、同時に、「違うもの」にピントを合わせて生きている、その「他の存在達」の人生というのも想像できて、それを肯定する意思は生まれる。

そして結局、「拘り」の【穴】を認識しているのは、表現者としての存在だけである、と理解する。

ここに、とても孤独で、そしてやはり他人には何も期待できない諦念を覚える。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板