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俺の記録庫
3006
:
考える名無しさん
:2018/06/10(日) 01:00:57 ID:u1Zw.0cg0
激痛セッションが始まると、必ず「死」については考える。
痛みによって死ぬことではなく、死によってこの苦痛から解放されるのだろうか、という方向で。
と、こういう痛みの上に展開する哲学とは、別のピント・次元に「医学的に病を治す取り組み」というのがある。
医学的な取り組み(精神の持ち方も含む)は、合理的というか現金というか、現時点までで解明されている「善悪」(例えば、痛みは感じないほうが良いこと)、理想的な健康体を模倣によって獲得しようとする、所々飛躍した意思により目指された姿勢(何が何でも早寝早起き、適度な運動など)
無理がある
この「健康体の模倣」に精を出す人生は、「痛みの上から見える自己と世界」を哲学する暇などなく、休みなく睡眠・運動・栄養補給・ストレス解消の新陳代謝を活性化することのみに意識を寄せるようになる。
その結果、頑張りながら死ぬ。
コツコツ努力では病は治らない。
むしろ病は治らない。
病が治らないのであれば、治そうと努力することに時間と意識を消費することは無駄ではないのか?というところかな。
「治す努力」ではなく「健康状態の維持」により病から遠ざかる人生はある。
この人達は決して文学的ではないだろう。
世界観もない。
人体を物理的に管理・メンテナンスすることだけを考えていて、思想も何もない。
科学の洗脳下においてのことではあるが。
科学を信じるからこそ機械的に生きている。
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